宮沢賢治は、死を前にした1933年夏に、後に全集編纂時に「定稿用紙」と呼ばれることになる特注の詩稿用紙を作成し、詩の清書に用いました。
下記は、そうやって書かれた「定稿」の例です。
この段階の詩稿がいかにも「清書」と感じられるのは、この用紙への記入にあたって、賢治は原則として鉛筆等を用いず、最初からブルーブラックインクのペンを用いていることにもよります。
それ以前の推敲に使われていた「赤罫詩稿用紙」や「黄罫詩稿用紙」の場合は、最初は鉛筆によって記入される場合がほとんどなのですが、「定稿用紙」ではブルーブラックのペンが使われるのです。
そして、この「定稿記入」という段階から推敲過程をもう一段階さかのぼって、その直前の稿における最終推敲で使われた筆記具を見てみると、口語詩においては、これもやはりブルーブラックインクのペンであることが、かなり多いのです。
推敲が「定稿」まで進んだ作品に関して、その関連性を表にすると、次のようになっています。「BBインク」は、「ブルーブラックインク」の略です。
「春と修羅 第二集」
| 作品名 | 定稿記入直前 推敲筆記具 |
馴らし書き | 定稿記入筆記具 |
|---|---|---|---|
| 空明と傷痍 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 〔湧水を呑まうとして〕 | 推敲なし | なし | BBインク |
| 丘陵地を過ぎる | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 早春独白 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 休息 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 海蝕台地 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 山火 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 嬰児 | BBインク | BBインク | 鉛筆 |
| 〔いま来た角に〕 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 〔向かふも春のお勤めなので〕 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 山火 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔祠の前のちしゃのいろした草はらに〕 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 〔ふたりおんなじさういふ奇体な扮装で〕 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 津軽海峡 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 〔つめたい海の水銀が〕 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 〔温かく含んだ南の風が〕* | BBインク | BBインク | BBインク |
| 〔この森を通りぬければ〕 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 〔北上川は熒気をながしィ〕 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 早池峯山巓 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 秋と負債 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 〔落葉松の方陣は〕 | BBインク毛筆 | BBインク | BBインク |
| 〔しばらくぼうと西日に向ひ〕 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 〔南のはてが〕 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 産業組合青年会 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 善鬼呪禁 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 凍雨 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 〔野馬がかってにこさえたみちと〕 | 推敲なし | BBインク | BBインク |
| 郊外 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 〔その洋傘だけでどうかなあ〕 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 孤独と風童 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 森林軌道 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 〔寅吉山の北のなだらで〕 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 〔今日もまたしやうがないな〕 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 冬 | 推敲なし | なし | BBインク |
| 風と反感 | 推敲なし | BBインク | BBインク |
| 〔はつれて軋る手袋と〕 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 〔地蔵堂の五本の巨杉が〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔風が吹き風が吹き〕 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 春谷暁臥 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 〔あちこちあをじろく接骨木が咲いて〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔Largoや青い雲滃やながれ〕 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 渇水と座禅 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 岩手軽便鉄道の七月(ジャズ) | 鉛筆 | なし | 〔BBインク〕 |
| 〔朝のうちから〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 九月 | BBインク | なし | BBインク |
| 住居 | 推敲なし | なし | BBインク |
| 岩手軽便鉄道の一月 | 鉛筆 | なし | BBインク |
「春と修羅 第二集補遺」
| 作品名 | 定稿記入直前 推敲筆記具 |
馴らし書き | 定稿記入筆記具 |
|---|---|---|---|
| 〔あけがたになり〕 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 葱嶺先生の散歩 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔雪と飛白岩の峯の脚〕 | BBインク | なし | BBインク |
「春と修羅 第三集」
| 作品名 | 定稿記入直前 推敲筆記具 |
馴らし書き | 定稿記入筆記具 |
|---|---|---|---|
| 水汲み | BBインク | BBインク | BBインク |
| 圃道 | BBインク・鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 〔盗まれた白菜の根へ〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔日に暈ができ〕 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
| 〔エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば〕 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 県技師の雲に対するステートメント | 鉛筆・赤鉛筆・BBインク | BBインク | BBインク |
「春と修羅 第三集補遺」
| 作品名 | 定稿記入直前 推敲筆記具 |
馴らし書き | 定稿記入筆記具 |
|---|---|---|---|
| 表彰者 | BBインク | BBインク | BBインク |
「口語詩稿」
| 作品名 | 定稿記入直前 推敲筆記具 |
馴らし書き | 定稿記入筆記具 |
|---|---|---|---|
| 〔あらゆる期待を喪ひながら〕 | 鉛筆・BBインク | BBインク | BBインク |
| 〔黄いろにうるむ雪ぞらに〕 | 鉛筆 | BBインク | BBインク |
「文語詩稿 五十篇」
| 作品名 | 定稿記入直前 推敲筆記具 |
馴らし書き | 定稿記入筆記具 |
|---|---|---|---|
| 〔いたつきてゆめみなやみし〕 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 〔水と濃きなだれの風や〕 | 推敲なし | なし | BBインク |
| 〔雪うづまきて日は温き〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔温く妊みて黒雲の〕 | 赤鉛筆 | なし | BBインク |
| 暁 | BBインク | なし | BBインク |
| 上流 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔打身の床をいできたり〕 | 推敲なし | なし | BBインク |
| 〔氷雨虹すれば〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 砲兵観測隊 | 推敲なし | なし | BBインク |
| 〔盆地に白く霧よどみ〕 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 〔たそがれ思量惑くして〕 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 悍馬 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔そのときに酒代つくると〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔月の鉛の雲さびに〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔こらはみな手を引き交へて〕 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 〔翔りゆく冬のフエノール〕 | 推敲なし | なし | BBインク |
| 退職技手 | 推敲なし | なし | BBインク |
| 〔月のほのほをかたむけて〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔萌黄いろなるその頸を〕 | 墨毛筆 | なし | BBインク |
| 〔氷柱かゞやく窓のべに〕 | なし | なし | BBインク |
| 来賓 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 五輪峠 | BBインク | なし | BBインク |
| 流氷 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 〔夜をま青き藺むしろに〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔あかつき眠るみどりごを〕 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 〔きみにならびて野にたてば〕 | 推敲なし | なし | BBインク |
| 初七日 | 鉛筆・BBインク | なし | BBインク |
| 〔林の中の柴小屋に〕 | 墨毛筆 | なし | BBインク |
| 〔水霜繁く霧たちて〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔あな雪か 屠者のひとりは〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 著者 | 朱墨 | なし | BBインク |
| 〔ほのあかり秋のあぎとは〕 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 〔毘沙門の堂は古びて〕 | 推敲なし | なし | BBインク |
| 雪の宿 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔川しろじろとまじはりて〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 風桜 | BBインク | なし | BBインク |
| 萎花 | BBインク | BBインク | BBインク |
| 〔秘事念仏の大師匠〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 麻打 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 驟雨 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔血のいろにゆがめる月は〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 車中〔一〕 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 村道 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔さき立つ名誉村長は〕 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 〔僧の妻面膨れたる〕 | 鉛筆 | なし | BBインク |
| 〔玉蜀黍を播きやめ環にならべ〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 〔うからもて台地の雪に〕 | 推敲なし | なし | BBインク |
| 〔残丘の雪の上に〕 | BBインク | なし | BBインク |
| 民間薬 | 推敲なし | なし | BBインク |
| 〔吹雪かゞやくなかにして〕 | BBインク | なし | BBインク |
右から二列目の「馴らし書き」というのは、定稿直前稿の右欄外に書かれている、定稿清書のための「ペン先馴らし」と思われる線などのことで、たとえば「空明と傷痍」の定稿直前の「下書稿(二)」には、『新校本全集』第三巻校異篇によれば次のような書き込みがあるということです。
なお、本稿紙葉表面の右欄外に、ブルーブラックインクによる定稿清書時のペン先馴らしと思われる無意味な線数本があり、「懸賞」という二字も見える。
口語詩の定稿記入前には、たいていペン先馴らしをしているのに、文語詩においてはほとんどしていないのは、興味深いです。何か理由があるのでしょうか。
※
さて、上の表を見ると、冒頭でも述べたように、賢治は定稿用紙に記入する筆記具としては、基本的にブルーブラックインクを用いていたことがわかります。例外は、「嬰児」の一例だけです。
また、「定稿記入直前推敲」の筆記具は、口語詩では61作品中34作品(55.7%)でブルーブラックインクが、文語詩では50作品中24作品(48%)でブルーブラックインクが用いられています。
定稿直前稿というのは、基本的に赤罫詩稿用紙か黄罫詩稿用紙ですが、通常は賢治はこれらの用紙への記入や推敲では、鉛筆を用いることが多いのです。たとえば、「春と修羅 第二集」の前半30作品(「空明と傷痍」から「凾館港春夜光景」)においては、定稿記入直前を除くと、記入・推敲過程が153段階あるうちで、135段階(88.2%)において鉛筆が用いられています。インクが使用されているのは、8段階(5.2%)でブルーブラックインクが、2段階(1.3%)で赤インクが用いられているのみです。
つまり、これら「一般の推敲」に比べると、「定稿に記入する直前の推敲」では、明らかに高い確率で、ブルーブラックインクが用いられているわけです。
このような偏りの解釈としては、「賢治は定稿用紙に清書を行う前に、まずは直前稿をブルーブラックインクで推敲し、続いてその推敲結果を定稿用紙に転記することにしていた」と考えることが、できるのではないでしょうか。
もちろん、賢治が直前稿を見直した結果、推敲は不要と判断することもあったでしょうから、その場合は「定稿記入直前推敲」の筆記具はブルーブラックインクにはなりません。
しかし、「定稿記入直前推敲がブルーブラックインクで行われている場合には、その推敲の時期は、定稿記入と同時期である=1933年夏である」と言えるのではないか、というのが、本日の記事の主旨でした。
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