開運橋のランプ

 盛岡駅からほど近く、北上川に架かる開運橋の東のたもとに、「開運橋かいうんばしの歴史」と題された説明板が立てられています。

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 その冒頭には、賢治の下記の短歌と説明が記されています。

そら青く
 開うんばしの
  せとものの
 らむぷゆかしき
  冬をもたらす

    宮沢賢治

この短歌は宮沢賢治が二
代目開運橋の袂に設置さ
れた瀬戸物製のランプを
眺め詠んだものです。

 短歌の制作時期と橋の関係を確認しておくと、上記の賢治の短歌は〔歌稿 B〕で「632」の番号を振られており、「大正六年七月より」の章に含まれています。「606」からの数首には「祖父の死」という標題が付けられていますが、賢治の祖父の死は1917年(大正6年)9月16日でしたから、開運橋の短歌632が詠まれたのは、描かれている季節からして、1917年の晩秋から初冬の頃と推測されます。
 一方、二代目開運橋が架けられたのは、上の説明板には1917年とありますが、『最新案内モリヲカ』(1918)を参照すると、「昨年六月新架橋成り、二十四日其開通式を挙行せり」とあることから、1917年6月のことでした。
 すなわち、賢治がこの歌を詠んだのは、橋が完成してから5か月後あたりのようです。

 ところで、説明板に載せられている「二代目開運橋」の写真を拡大すると、下のようになっています。

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 賢治が詠んでいる「せともののらむぷ」に関して、説明板には「二代目開運橋の袂に設置された瀬戸物製のランプ」と記されていることからすると、上写真中央あたりの白い石柱の、上の方にいくつか吊り下がっている白いものが、それだろうと思われます。
 さらに、『盛岡案内』(1926)という本には、二代目開運橋の下のような写真が掲載されています。

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盛岡案内』(国会図書館デジタルコレクションより)

20250803c.jpg やはり石柱の上部に白いものが4つほど付けられていますが、その部分を拡大すると、右のような感じになっています。
 『最新案内モリヲカ』(1918)には、「橋の袂には花崗岩を磨ける高き袖垣を繞し、十六個の飾燈を點ず」とあり、このような飾燈は、16個も吊るされていたということです。1つの柱に4つずつということでしょうか。

 賢治はこの瀬戸物のランプのことを、「ゆかしき」と謳っていて、「行って見てみたい」「心惹かれる」というようなニュアンスかと思われます。
 そして最後の、「冬をもたらす」の主語は何なのかと考えてみると、冒頭の「そら」のようです。冷たく澄み切った青空が、冬の到来を感じさせ、そこから賢治は橋のたもとのランプを連想しているのです。

 おそらく賢治は、できたてのこの立派な橋に飾られたランプがかなり気に入っていて、これが冬空に温かく灯る季節の到来を、楽しみに待っていたのでしょう。

 明治から大正にかけて活躍した井上円了という哲学者の紀行文集『南船北馬集 第14編』(1918)には、「盛岡市の大建築としては開運橋、盛岡銀行、報恩寺の三なりとの評あり」という文章があります。
 当時のこの「盛岡三大建築」のそれぞれに、賢治はかなり魅かれるところがあったようで、各々を詠んだ賢治の詩歌を並べてみると、次のようになります。

632 そら青く
開うんばしのせとものの
らむぷゆかしき冬をもたらす。

弧光燈アークライトにめくるめき、 羽虫の群のあつまりつ、
川と銀行木のみどり、 まちはしづかにたそがるゝ。

(「岩手公園」)

319 いまはいざ
僧堂に入らん
あかつきの、般若心経、
夜の普門品

 歴史を抱えた都市・盛岡が、近代化され発展していく時代に、賢治もここで青春時代を過ごしたのです。

 下の写真は、現在の開運橋(三代目)です。

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