報恩寺参禅と尾崎文英

 1913年(大正2年)3月、尾崎文英という僧侶が、盛岡にある曹洞宗の名刹、報恩寺の住職として赴任してきました。
 賢治の父政次郎が世話人をしていた「大沢温泉夏期講習会」は、早速その8月の講習会に、尾崎を講師として招いています。この講習会に賢治が出席していたかどうかは不明ですが、9月から賢治は、報恩寺の尾崎のもとへ座禅に通うようになり、頭を青々と丸坊主に剃って中学に登校して、同級生を驚かせたということです。

 この年の講習会が好評だったのか、尾崎文英は翌1914年にもまた講師として招かれ、今回は賢治も参加しており、下のような写真が残っています。中央に立っている僧衣姿が尾崎文英で、賢治は前列右から6人目に、顔だけ出している坊主頭です。背景は、大沢温泉の「曲り橋」のようです。

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『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)補遺・伝記資料篇p.283より

 1912年の父あての書簡で、「小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と書き、浄土真宗への完全な帰依を表明していた賢治としては、曹洞宗の寺で座禅を組むなどというのは、他宗の信仰へと関わっていった最初のエピソードと言えるでしょう。
 そして賢治は中学時代の参禅で終わらず、盛岡高等農林学校に入ってからも、尾崎文英のもとに通って教えを受け続けました。1917年には、親戚の関徳也を連れて尾崎を訪ね、人生の問題について相談しており、関わりは少なくとも足かけ5年に及んでいます。

 賢治がその生涯において出会い、直接教えを受けた僧侶・仏教者としては、浄土真宗の島地大等や暁烏敏、国柱会の高知尾智耀などが挙げられるでしょうが、その中で最も親しく深く、継続して師事した人は、この尾崎文英だったと言えるのではないでしょうか。賢治がこれほど尾崎と関わりを持ち続けたのは、おそらくその人柄や学識に、何か強く魅かれるものを感じたからではないかと思われますし、多感な5年間に受けた影響には、それなりに大きなものがあったはずです。

 今日は、この尾崎文英という人の生涯および人となりを、たどってみたいと思います。

 尾崎文英は、1867年(慶応3年)1月に鳥取県東伯郡小鴨村(現在の倉吉市)に生まれました。藩政時代は典医も務めたという家柄で、三人の兄は医師となっていましたが、母が仏教の信仰篤く、「一子出家すれば九族天に生ず」ということから文英が仏の道に入ることを望み、15歳で出家得度することになりました。

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曹洞宗名鑑』pp.100-101

 同郷の日置黙仙は、後に曹洞宗のトップとして永平寺貫首も務めた僧ですが、その黙仙から計12年の薫陶を受け、黙仙門下の四傑の一人と呼ばるまでになったということです。

 そして、やはり四傑の一人と言われ、報恩寺三世住職となっていた佐伯旭庵の逝去を受けて、黙仙の推挙により1913年3月に、四世住職に就任しました。

 報恩寺は、江戸時代には藩主南部氏の信仰篤く、二百石の寺領を有した大寺で、享保年間には五百羅漢が落成しています。幕末の戊辰戦争に際しては、筆頭家老の楢山佐渡が報恩寺本堂で切腹し、その血痕は1960年の本堂焼失まで残っていたということです。
 明治維新後は、上記のように賊軍の拠点と見なされたこともあって一時は荒廃したようですが、三世住職の佐伯旭庵が再興して僧堂を開き、四世の尾崎文英がさらに発展させました。上の『曹洞宗名鑑』には、尾崎の在職期間について、「益々寺門興隆東北僧堂中の模範たり」と記されています。

 私は先週の連休にこの報恩寺を訪ねてみたのですが、下写真がその「山門」と「羅漢堂」です。

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報恩寺山門

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報恩寺羅漢堂

 とても厳かな雰囲気で、境内は森閑と静まりかえっていました。

 さて、この尾崎文英の人柄について、堀尾青史の『年譜 宮澤賢治伝』では、1913年9月の賢治の参禅を述べる項に、次のように書かれています。

 この月、禅宗報恩寺の尾崎文英について参禅した。尾崎は明治四十四年報恩寺の住職となり、1917~1918年ころまで在職、のち北海道札幌の中央寺に転じて入寂した。盛岡では巨大なニセ坊主という評判があったという。父政次郎が筆者に語ったところでは、なかなか豪放な人であったが行動が粗雑で、財政問題もあって住職を罷免されたという。

(『年譜 宮澤賢治伝』p.58)

 曹洞宗トップの弟子四傑の一人と謳われた人が、一方で「巨大なニセ坊主」と呼ばれるとは、いったいどうしたことかと思いますが、追々見ていくことにしましょう。

 一方、尾崎文英から直接受けた印象について、原敬の養子の原奎一郎が書いた『ふだん着の原敬』という評伝には、興味深いことが書かれています。1913年9月、著者が小学生の頃に、養父母である原敬夫妻に連れられて報恩寺に行った際の話です。

 その九月はじめの某日、私は両親につれられて、盛岡北郊の報恩寺へ出かけた。この寺は五百羅漢があるので有名だし、維新の際、この寺で南部藩筆頭家老楢山佐渡が処刑されたことでも知られている。私たちが行ったときは血のはねた跡のあるふすまがまだ残っていて、見せてもらったが、昭和になってから火災で焼けてしまったそうだ。
 それはとも角、私たちが訪れる数日前、ここの住職が父のところへ挨拶に来たので、その答訪という意味と、ついでに五百羅漢でも見物しようというつもりもあって出かけたので、べつだん墓参のあてがあったわけではない。
 住職は尾崎文英という坊さんだが、この坊さんの応対ぶりに私はすっかり毒気をぬかれてしまった。たとえば、父を相手に話をしながら、この坊さんはのけぞった恰好で「うん、そうだ」「そうか」という調子で受けこたえするので、子どもごころにも私は、この坊さんは何か気にいらないことでもあるのか、何か腹でも立てているのかしらと心配になって来たほどである。
 ところが、そんな印象を受けたのは私だけではなく、母もほぼ私と同様の印象を受けたらしく、家に帰ってから父に、
「なんだか大へんおうへいな口をきく坊さんですね」
といっていたが、父はさほど気にかけている様子もなく、
「いや、あれはべつにおうへいというわけじゃない。坊主にはよくああいうのがいるものだよ」
と、ただ笑っていた。

(原奎一郎『ふだん着の原敬』pp.229-230)

 1913年と言えば、原敬はまだ総理大臣にはなっていませんが、すでに内務大臣や鉄道院総裁を務め、立憲政友会の最高幹部でもある全国有数の政治家ですから、普通は目の前でふんぞり返って受け答えをする一般人はいなかったのでしょう。しかし尾崎文英が、その原敬に対して一見すると横柄な態度で接したのは、傲慢で尊大な性格のためというよりも、人に媚びへつらわない無邪気な木訥さという感じもします。上記のように、原は尾崎に対して特に悪い印象は持っていないようですし、1917年に原敬が中心となって「戊辰戦争殉難者五十年祭」を開催した際には、報恩寺が会場に選ばれ、尾崎文英が慰霊の読経を務めています。

 ところで『ふだん着の原敬』には、上記の箇所に続いて次のような余談が記されています。

 ところで、あるとき何の気なしに宮澤賢治の年譜に目をとおしていると、ちょうど大正二年九月のところに、
「北山報恩寺の尾崎文英の下に参禅、頭を剃って登校。以後高農在学中もしばしば同寺に参禅す……」
 とあったので、私は思わず、ハテナ、私たちが報恩寺を訪れたのは一体いつだったのかしらと、手もとの「原敬日記」の一巻をひらいて、たしかめてみたところ、これもまさしく大正二年で、九月四日のことだと判明した。
 すなわち、「原敬日記」によると、九月四日の項に、
 ──墓参をなし、又報恩寺に往き五百羅漢を見、尾崎文英(住職)過日来訪につき答訪し、維新の際楢山佐渡が処刑せられたる室等を一覧せり。
 とある。
 こうしてみると、私たちが報恩寺を訪れたとき、頭を剃ったにわか納所なっしょの賢治が寺の庫裡のあたりをぶらついていたかもわからない。つまり、原敬と賢治が呼べばこたえる距離のところに立っていたことも可能だということになるわけで、それだからどうという大問題ではないが、いや大問題ではないまでも、「袖振り合うも他生の縁」にはちがいなく、お寺が背景だからこじつけるわけではないが、こうしたゆきずり、すれ違いの奇縁に私は心ひかれる思いがするのである。

(原奎一郎『ふだん着の原敬』pp.230-231)

 「納所なっしょ」とは、「寺の雑務を行う下級の僧」のことだそうで、当時の賢治は僧にまでなっていたわけではないにしても、岩手を代表する偉人の二人が、ここ報恩寺でニアミスしていたかもしれないというのは、面白いことです。

 ちなみに、賢治が座禅を組んだり朝夕の読経をしていた報恩寺の「僧堂」は、現在も下写真の廊下突き当たりの木戸の奥にあります。

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報恩寺僧堂入口

20250511d.jpg ご覧のように、一般の者は立ち入ることのできない区画になっていますが、奧の木戸の上には、今も「僧堂」という表札が掛けられていました(右写真)。
 下記の、「大正五年三月より」の賢治の短歌319に詠まれた場所です。「いまはいざ/僧堂に入らん」という言葉には、「これから特別な空間に入って修行をする」という張りつめた緊張感を感じます。

319 いまはいざ
僧堂に入らん
あかつきの、般若心経、
夜の普門品

323 風は樹を
ゆすりて云ひぬ
「波羅羯諦」
あかきはみだれしけしのひとむら。

 この頃の賢治は、報恩寺の僧堂において、早朝には般若心経を、夜には法華経観世音菩薩普門品を読誦する勤行をしていたのだと推測されますが、短歌323では、般若心経の末尾にある「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶」という真言マントラの一節が、まるで風が唱えたかのように、立ち現れてきます。
 また先日「「有明」の寂光土」という記事に書いたように、賢治はこの勤行から6年後になっても、早朝の朝日を見た際には、「波羅ハラ僧羯諦サムギヤテイ 菩提ボージユ 薩婆訶ソハカ」という言葉を思い出しています。

 さらに、文語詩「〔たそがれ思量惑くして〕」において、「頬青き僧ら清らなるテノールなし、老いし請僧時々に、/バスなすことはさながらに、風葱嶺に鳴るがごとし。」と描写されているのも、この僧堂における読経の情景なのでしょう。こちらの時刻は「たそがれ」ですから、誦されているのは「普門品」でしょうか。若い僧たちのテノールと、尾崎文英のバスが交響しています。

 さて、このようにして賢治にひとかたならぬ感化を与えた尾崎文英ですが、1918年に北海道札幌の「中央寺」の住職として、転出して行きます。上に引用した堀尾青史の『年譜 宮澤賢治伝』に、「財政問題もあって住職を罷免された」とあるのが、報恩寺でのことなのか、次の中央寺でのことなのか判然としませんが、少なくとも中央寺は、最終的に後述するような問題のために退職に至ります。

 盛岡の報恩寺にいた間にも、女性問題があったという噂があり、賢治も文語詩「涅槃堂」の下書稿(二)には、「かの町の淫れをみなと/事ありと人は云へども」との一節があります。信時哲郎さんが『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』に書いておられるように、「普通なら賢治が最もきらいそうな人物だが、賢治は尾崎の学識や人物をそうとう重く見ていた」ということなのかと思われます。
 「「文語詩篇」ノート」の「1916」「一月」の項には、「報恩寺」の言葉とともに、「品行悪しといふとも/なほこの僧のまなざしを見よ」との書き込みがあり、賢治はなぜか不思議にこの尾崎文英という人間から、切実に感じるとるものがあったのだろうと思われます。

 ともあれ、札幌に移ってからの尾崎文英は、当初からその手腕については高く評価されていたようです。
 たとえば1935年刊の『現代展望・郷土誌 昭和10年度版[神奈川県,北海道,広島県,山口県,福岡県]』は、中央寺住職を務める尾崎文英について、次のように述べています。

現住職尾崎文英師の就任を見て法燈益々光明を加へるに至つた。現に当寺に宗務所を置かるゝに及び所長事務を兼ね寺内外に徳望の厚きを謳はれてゐる。夙に仏教八万の法蔵を嚢括し直ちに仏知見を開発し一大事因縁を究尽するの宗旨に精通し之が体現に精進すること亦多年よく衆生を化導して倦むことがない宗門のために得難き傑僧である。

(『現代展望・郷土誌 昭和10年度版』p.196)

 1938年刊の『大日本寺院大鑑 北海道・樺太版』では、中央寺は次のように紹介されています。

大正七年尾崎文英特選住職任命と共に寺格特級常恒会に昇格し門末最高の地位に進み、更に昭和六年三月以降本道宗務所長に任命せられ、遍く道内曹洞宗四百余ヶ寺の宗務を統括せり。

(『大日本寺院大鑑 北海道・樺太版』p.576)

20250511e.jpg これらを見ると、「口八丁手八丁」と言われた尾崎文英の手腕が、遺憾なく発揮されているようですが、「国会図書館デジタルコレクション」で「尾崎文英」を検索していると、1921年9月14日付けの「官報」の記事で、ちょっと不思議なものが見つかりました。
 右の画像がそれなのですが、「北海道札幌区南六條西二丁目」に在住する「尾崎 文英 外二人」に対して、「鉱業法」に基づく「試掘許可」を与えるとするものです。試掘が認可された場所は、「山越郡八雲町、渡島国茅部郡落部村、爾志郡乙部村地内」という北海道内の山中で、対象の鉱石は「金、銀、鉄」ということです。
 お寺の住職が、なぜ鉱山開発に乗り出すのか、何とも不思議なところですが、ここはとりあえず先に進みましょう。

 1931年に刊行された『現代札幌人物史』では、中央寺の尾崎文英は次のように描かれています。

 ◇…法臘四十四年、氏既に齢耳順に近しと雖、健康の肢体と、豊満の皮膚を有し、温容慈顔、麗はしの僧形、巷間言の葉草の風騒ぐもその為めならんか、氏は面上春風一過程も識情を動かず、遉に平然淡如、若し泉下の白隠禅師を煩はし、氏を対面せしむるなれば、調心練磨の極、此の色身を作ると診断せん。

(『現代札幌人物史』p.331)

 ここで、「巷間言の葉草の風騒ぐもその為めならんか……」と書かれているのが、どんな「世間の噂」のことなのかわかりませんが、その理由が、「健康の肢体と、豊満の皮膚を有し、温容慈顔、麗はしの僧形」のためだとなると、ここでもやはり女性関係の噂があったのではないか……?ということが心配になってきます。
 それでも『現代札幌人物史』の尾崎の紹介は、上記の文章に続き次のようにこの住職を讃えて、結ばれます。

 ◇…氏の中央寺に住職となりて以来、早や十年余の居諸を送るが、同寺紛擾の跡を受け、巧に善処し、檀下の人心収攬も微妙に行はれ、また昔日の禍根萌芽の機を与へず、寺勢を能く保つのみか、本道曹洞宗門統率の大任を掌中に握り、宗風宣揚の手腕、一代の英僧たる手腕を裏書きす。

(『現代札幌人物史』p.331)

 上記によれば、中央寺では尾崎文英の着任前に何らかの騒動があったようですが、尾崎はそれを巧みに収拾して発展させたということのようです。

 しかしさて、1935年3月27日付けの「官報」には、衝撃的な記事が掲載されています。
 「破産宣告」欄に3月20日付けで、「尾崎文英ヲ破産者トス」と書かれているのです(右下画像)。

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 いったい何があったのかと驚いてしまいますが、住所も確かに中央寺に間違いありません。
 さらに調べてみると、『北の風貌:山田義夫の生涯』という北海道出身の画家の評伝に、当時の中央寺が札幌在住の若い画家たちの「たまり場」のようになっていたという記載があり、さらにそこには、尾崎文英が「檀家の一部の者に言いくるめられ、山に手を出し、あげく莫大な借財を作り、寺の内部は乱脈きわまりないものになっていた」と書かれていたのです。

 こうしたなか、山田は道展関係で知り合った佐藤と二人で、街の喫茶店を会場に小さな個展を開らいた。当時美校在学中の佐藤は、北大生小川博三らと中央寺にとぐろを巻いていた。小川は下宿人であったが、佐藤はもともとが坊主である。ところが、これを良き時代というのであろう、彼の画才を愛した住職が、好き勝手を許していたので、まるで居候のような塩梅となっていたのだ。
 この住職、尾崎文英老師は、道心堅固、見識が高く、将来を嘱望されていた人物であったという。ところが、いかんせん、なんとも世間に暗かった。当時の中央寺は財政的に豊かな寺であったが、尾崎は檀家の一部の者に言いくるめられ、山に手を出し、あげく莫大な借財を作り、寺の内部は乱脈きわまりないものになっていた。
 やがて、尾崎師は見限られ、本山の推せんにより、青森の柿崎老師が後住として札幌に派遣されることとなった。柿崎師が札幌入りしたとき、その秘書的な役割できたのが、山田が終生敬愛してやむことのなかった今泉昇三である。ところが、柿崎師が中央寺に入っても、尾崎師は残っていたため、内紛は火を吹き、若い今泉は翻弄されることになるが、それそれ、これはこれとばかり、同年輩の佐藤とはうちとけて話し込むようになる。互いの師の喧嘩は喧嘩、若い者同士の世界は別といったところだ。

(『北の風貌:山田義夫の生涯』p.39)

 「山に手を出し、あげく莫大な借財を作り……」ということからすると、上の方で1921年9月の「官報」に掲載されていた、尾崎文英が北海道内の鉱山の試掘権を得たとする記事の意味は、これだったのかと納得がいきます。
 1935年3月に破産宣告を受けた尾崎文英は、まだしばらくは中央寺に居座っていたようですが、ついに10月9日に辞任して隠退生活に入りました。しかしそれにしても、それまで自分が騙されつつも、才能ある若者を可愛がり、寺の敷地内にある下宿を好きに使わせていたというのも、尾崎文英の大らかな人柄を垣間見せてくれるようです。賢治も尾崎のこのようなところに魅かれたのでしょうか。

 さて、その後の尾崎文英について子細はわかりませんが、『日置黙仙禅師伝』の「随徒の人々」という項には、次のように簡単にまとめられています。

〇尾崎文英師 師は伯耆東伯郡江北村の産にして、済家に入って修行した。豪放快活にして文才縦横、且能書家にして、『金泥心経』の如きは得意として揮毫するところであった。済家より帰りて禅師の随徒となり、可睡斎の監寺と後堂を兼て雲衲を接得した。後、禅師の推挙によりて盛岡の報恩寺に晋住し、次で札幌の中央寺に転じて、大にその巨腕を振ったが、故あって退院し、中央寺附近に隠棲された。昭和22年1月12日遷化。

(『日置黙仙禅師伝』p.353)

 亡くなったのは1947年で、80歳の大往生です。中央寺附近での隠棲生活は、どんなだったのだろうと想像しますが、私としては、破産して寺を逐われてからも少しも悪びれずに、豪放磊落に生きつづけていたのではないか想像するのですが、果たしてどうだったでしょうか。

 以上、尾崎文英の破天荒な人生をたどってみました。
 初めに書いたように、賢治の作品や信仰に尾崎文英が与えた影響は、表には現れていなくとも無視できないものがあるのではないかと私は思います。たとえば、この真っ直ぐで豪快な人物像は、私の中では「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の、主人公ネネムに重なり合うのです。

 無邪気で正義感の強いネネムは、最後は「世界裁判長」まで昇りつめ、人望も厚く誰からも好かれていましたが、ちょっとおっちょこちょいで失敗もしていました。その豪快な食欲で、巨大な「藁のオムレツ」を平らげ、心の赴くままに生きていましたが、最後は調子に乗りすぎて足を滑らせ、ばけもの世界から人間の世界へと「出現」してしまい、破滅してしまうのです。
 もちろん賢治は、1935年に尾崎が破産することまでは知りえませんでしたが、稀代の「ニセ坊主」たる尾崎文英が発散していた魅力と危うさとが、何かの形で「ペンネンネンネンネン・ネネム」のキャラクター造形にも混じり込んでいたのではないかと、私としては想像をしたくなってしまうのです。