下根子桜の農家に生まれた伊藤与蔵は、賢治より14歳年下で、その耕地が賢治の「下ノ畑」の隣だった縁もあり、羅須地人協会の設立以来の会員でした。伊藤の自宅が火災に遭った際には、賢治が後始末を手伝ったとのことですし、1928年の第1回普通選挙では、賢治に誘われて労農党候補の演説会場に一緒に行ったということです。
伊藤は、20歳になった1931年1月に弘前の歩兵第三十一聯隊に入隊し、同年9月に満州事変が起こると、現地に派兵されました。満州に派兵された時期としては、『鉄兜 : 満洲戦記』で聯隊の動きを見ると、1931年11月または1932年4月の可能性がありえますが、現時点で手元の資料からは、どちらかわかりません。
とりあえず、1933年正月に賢治が伊藤に出した年賀状(書簡442c)のあて先は、「満洲国欽州憲兵隊」になっています。
その満州にいる伊藤から、1933年夏に賢治に手紙が届きました。賢治は入念に下書きをした上で、1933年8月30日(死の3週間前)付けで、返事を出します(書簡484a)。
その中に、次のような一節があります。
然しながら亦万里長城に日章旗が翻へるとか、北京(昔の)を南方指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返ってゐるといふやうなことは、私共が子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうにも思ひ、あらゆる辛酸に尚よく耐えてその中に参加してゐられる方々が何とも羨しく(と申しては僭越ですがまあそんなやうに)感ずることもあるのです。
殊に江刺郡の平野宗といふ人とか、あなたとか、知ってゐる人たちも今現にその中に居られるといふやうなこと、既に熱河欽州の民が皇化を讃へて生活の堵に安じてゐるといふやうなこと、いろいろこの三年の間の世界の転変を不思議なやうに思ひます。(強調は引用者)
この書簡中の、「万里長城に日章旗が翻へる」とか「熱河欽州の民が皇化を讃へて生活の堵に安じてゐる」などの表現をもって、「賢治が天皇制イデオロギーを受け入れ、侵されていた」ことの現れ、あるいは「賢治の戦争支持思想」の例として挙げる研究者もおられたようですが、栗原敦さんは「手紙の読み方 伊藤与蔵あて宮沢賢治書簡について」(1998)という文章の中で、そのような決めつけは短絡的に過ぎることを、周到に論じておられます。
私もこの栗原さんの説に賛同するとともに、なおかつ上の書簡の「……といふやうなことは、私共が子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうにも思ひ……」という表現には、それこそ不思議の念を禁じ得ません。
歴史上、万里の長城に日章旗が掲げられたとか、日本軍が北京を南方指呼の間に望んだとかいうようなことは、この1933年3月に関東軍が熱河省を占領するまでは、後述のように一度もなかったはずなのですが、なぜ賢治はそんな情景を「子供のときから何べんも見た」ように感じたのでしょうか。
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まずは、上記の賢治書簡に出てきた地名を、満州事変当時の地図で確認しておくことにします。
加藤陽子著『満州事変から日中戦争へ』によれば、もともと「満州(満洲)」とは、清を建国した民族の名称だったということですが、19世紀以降の日本やヨーロッパでは、中国東北部の「東三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)」を併せて指す地域の名称となっていきます。
賢治の書簡に出てくる「万里長城」は、上の地図の左下隅の方で「北平」の上にある、四角いギザギザの線がそれにあたります。
この「北平」という都市は、清の時代までは首都「北京」でしたが、1928年に蒋介石らの中国国民政府がここを支配下に収めたのに伴い、彼らの首都は「南京」であることから、北京を北平と改称したものです。賢治が書簡で「北京(昔の)」と書いているのは、この時点で公式の名称は「北平」に変わっていることを知りながらも、日本人にとっては「北京」の方が馴染み深いので、このように記したのでしょう。
さらに上の地図で、北平から万里長城をはさんで少し北にある「熱河」と、そこから東方で海に面した「錦州」が、賢治の書簡に「熱河錦州の民が……」として出てくる都市です。
ここで満州事変の経過をおさらいしておくと、関東軍は1931年9月18日に自作自演の鉄道爆破を行い、これを中国側からの攻撃と発表して南満州全域に侵攻を開始します。中国東北軍の張学良が本拠としていた錦州を10月8日に無警告爆撃し、1932年1月に制圧しました。熱河の方は、元来の「満州」である東三州の範囲外ですが、関東軍は1933年2月に侵攻を開始して、3月に熱河(承徳)市を占領しました。
さらに関東軍は万里の長城を越え、ここで賢治書簡の言う「万里長城に日章旗が翻へる」という状況が生まれます。1933年4月には北平の近郊にまで迫り、これが書簡の「北京(昔の)を南方指呼の間に望んで……」と書いている局面でしょう。
ここに至って、それまで「長城抗戦」として持久戦を続けていた中国軍も、文化・経済の中心地まで日本に奪われる危険を感じ、1933年5月に塘沽停戦協定に応じました。
これにより、満洲事変はひとまずの終結を迎えたとされます。
「熱河欽州の民が皇化を讃へて生活の堵に安じてゐる」という記述に関しては、上述のように日本は錦州市を無警告で空爆したのですから、その市民が日本の占領を喜ぶということは考えにくいでしょう。熱河省の方では、関東軍が優勢になってからも中国側の抗日義勇軍が盛んに活動していたということですが、関東軍は現地の勢力を懐柔する政治工作もしていたので、表面的には親日的な態度を見せる集団もあったようです。しかしそれでも、「民が堵に安じてゐる」ような状況ではなかったはずです。
ということで、やはり賢治のこの記述は、現地軍からもたらされたプロパガンダを、ただ引用しているものと言えるでしょう。
一連の戦闘の中で、日本軍が万里の長城で日章旗を掲げたという記載を「国会図書館デジタルコレクション」で調べると、米山少佐率いる先遣隊が1933年3月4日に冷口で長城上に日章旗を掲げたという記載(『満洲事変日録史』p.65)や、3月19日に早川大佐率いる隊が羅文峪を制圧して日章旗を掲げたという記載(『岩手年鑑 昭和9年』)がありました。
どちらの隊にも、岩手県出身の兵が多数含まれており、このような中に伊藤与蔵もいたのかもしれません。岩手日報社が刊行している後者の記載は、下記のようなものです。
羅文峪の戦闘
小原本社特派員記
吾が早川郷土部隊は苦戦の後遂に羅文よく附近萬里長城を占據した。幾百丈かとも思はるゝ峨々たる斷崖、山岳を突破し高々と日章旗を掲げ天も裂けよと萬歳を三唱したのであつた
三月十七日未明佛爺來を出發した早川部隊は岩手健兒最後の奮闘の日であると将兵の意氣壮烈であつた
〔中略〕
十九日未明完全に萬里の長城を占領し全線一齊に日章旗高く掲げられ遙か故国を拝し疲労を意とせず萬歳を連呼す
下の『明治天皇の御懿徳と満洲国 地編』には、万里の長城の上に並んで日章旗を掲げ万歳をする兵たちの写真が掲載されています。国会図書館の利用者登録をしておられる方は、ログインすれば写真をご覧いただけます。
また『週刊誌五十年:サンデー毎日の歩み』には、1933年3月26日刊の『サンデー毎日』グラビアに「「万里長城に日章旗翻る」として報道されている」と記されています。賢治も病床で、このような報道写真を目にしていた可能性があります。
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満州事変から日中戦争へ: シリーズ 日本近現代史 5 |
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以上、賢治の伊藤与蔵あて書簡中に出てくる地名や出来事を、空間的・時間的にたどってみました。
一方、賢治は「万里長城に日章旗が翻へるとか、北京(昔の)を南方指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返ってゐるといふやうなことは、私共が子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうにも思ひ……」と書いていたのでした。賢治のこの記憶(?)の由来を推測すると、まずは賢治が7歳~9歳頃にあった日露戦争(1904~1905)が、これと最も関連がありそうですし、「絵」で見たということならば、生まれる前の日清戦争(1894~1895)も、可能性はあります。
そこでまず、日露戦争の戦場を見ておきます。

日露戦争経過図(原田敬一『日清・日露戦争』岩波新書より)
日露戦争における陸戦は、鴨緑江会戦、旅順要塞攻囲戦、沙河会戦、黒溝台会戦、旅順攻略(203高地)、奉天会戦など、満州から朝鮮半島が戦場になっていました。海戦としては、黄海海戦、日本海海戦がありました。
ここでは、「万里長城に日章旗が翻へる」とか、日本軍が「北京を南方指呼の間に望」むというような状況は、起こっていません。
では、日清戦争の方はどうでしょうか。これも、経過図を見ておきます。

日清戦争経過図(原田敬一『日清・日露戦争』岩波新書より)
こちらの陸戦としては、成歓の戦い、牙山の戦い、平壌の戦い、旅順攻略、遼河平原の作戦、澎湖列島の占領などがありました。海戦は、豊島沖海戦、黄海海戦、そして陸海軍共同の山東作戦などがありました。
ここでもやはり、「万里長城に日章旗が翻へる」とか、日本軍が「北京を南方指呼の間に望」むというような状況は、起こっていません。
ではいったい、賢治が「……といふやうなことは、私共が子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうにも思ひ……」と書いた背景には、何があったのでしょうか。
ここで一つ、日清戦争の際に日本中で非常に人気を集めたメディアとして、多色刷りの木版画で浮世絵調に仕上げた「戦争絵」というものに、注目してみたいと思います。
下の絵は、「平壌の戦い」で清軍を攻める日本軍の戦争絵です。
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「平壌攻撃我軍敵壘ヲ抜ク」(Wikimedia Commonsより)
次は、「山東作戦」で日本軍が威海衛を攻め落とし、清の北洋艦隊が降伏しているところです。
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「威海衛陥落北洋艦隊提督丁汝昌降伏ノ圖 」(Wikimedia Commonsより)
そして次は、「成歓の戦い」の図なのですが、この絵に少しご注意下さい。
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「成歡襲撃和軍大捷之圖」(Wikimedia Commonsより)
右の方には、旭日旗が掲げられています。そして左下の方には、褐色の城壁のようなものが見えますが、下にこの部分をもう少し拡大してみます。

「成歡襲撃和軍大捷之圖」部分(Wikimedia Commonsより)
私にはこの城壁の形が、まるで「万里の長城」の外壁ように見えるのです。積まれた煉瓦の色と言い、四角くギザギザになった形と言い、下写真のような長城の壁を、思わせないでしょうか。
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北京市北西部八達嶺の万里の長城(Wikimedia Commonsより)
また戦争絵の右の方には、「日章旗」ではありませんが「旭日旗」が掲げられているので、「万里の長城の上に旭日旗が翻っている」という感じの絵にも見えてしまいます。
もちろん、「成歓」というのは朝鮮半島で今のソウルの少し南ですから、ここに万里の長城があるわけはなく、単なる城壁にすぎないのでしょうが、こういう感じの戦争絵を賢治は子供時代に見たことがあり、それが記憶の片隅に残っていたので、伊藤与蔵の手紙を読んでふと昔見たような気がした……ということはないでしょうか。
上述のように、日清戦争の時代にはこういう戦争絵が全国的に非常に流行したということですし、賢治は大人になってからも浮世絵は大好きでコレクションをしていたくらいですから、子供の頃にもこういう絵には魅かれていたのではないかと思うのです。
それでは、あともう一つの、「北京を南方指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返ってゐる」という記載はどうでしょうか。
これについては実際のところ、日本軍が北京のすぐ北まで迫ったということは、日清戦争の時にも日露戦争の時にもなかったのですが、ちょうどよく似た戦況になったことは、日清戦争の終盤にあったのです。
日清戦争時の日本軍は、1894年11月に遼東半島の旅順港を制圧し、1895年2月には山東半島の威海衛を攻めて清の北洋艦隊を壊滅させ、黄海および渤海の制海権を完全に掌握しました。これにより、日本軍はいつでも天津に上陸して、目と鼻の先の北京に侵攻できる状態になったわけで、「清国の首都北京と天津一帯は丸裸同然となり、ここで清国側は戦意を失った(Wikipedia: 日清戦争)」のです。この時日本軍は、一気に北京を攻め落とそうとすればできたかもしれないのですが、進軍はいったん停止して清国側からの講和を待ちました。その理由は、もしも不用意に北京を陥落させてしまうと、清朝が瓦解してしまうおそれがあり、そうなると欧米列強が利権を求めて一挙に押し寄せて来るので、日本だけが戦果を独占することができなくなるからです。
すなわちこの時の日本軍は、「北京を指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返ってゐる」という状況にあったのです。
満州事変において、関東軍が万里の長城を越えて北京近郊まで侵攻した際も、日本の目的は中国国民政府と全面戦争に入ることではなく、「満州国」の独立を安定させるために中国との間に緩衝地帯を設けることを目ざしていたので、進軍を停止して「北京を南方指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返ってゐる」という状況を作り出したのです。
ということで、賢治が満州の伊藤からの手紙を読んで、日清戦争の推移を学校などで習った内容を思い出し、これもまた「子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうに」感じたのではないかと、推測するのです。
あとそれから、以前に「賢治と軍歌」という記事に書いたように、賢治が作った歌曲「月夜のでんしんばしらの軍歌」は、日清戦争の時に流行した軍歌「討てや懲らせや」の一部の旋律が、埋め込まれているのです。生まれる前の日清戦争の当時の文化が、その後の賢治にも影響を与えていたという実例の一つであり、上記のような日清戦争に関する絵や知識が、大人になってからの賢治の中に、遠い記憶のように残されていたとしても、不思議ではないと思います。
また少年時代の賢治は、家族の前でもよく軍歌を唱っていたとのことで、とりわけ日露戦争の時の満州を舞台にした「戦友」という有名な歌では、堅物と言われた祖父の喜助をも涙させたということです。
ここはお國を何百里
離れてとほき滿洲の
赤い夕日にてらされて
友は野末の石の下
満州の伊藤から来た手紙を読んだ賢治は、少年時代にこの歌を唄いながら想像した、遙かな満州の景色もきっと去来したことでしょう。
書簡中の、「その中に参加してゐられる方々が何とも羨しく……」という表現には、こういう浮世絵を見たり、軍歌を唱ったりしていた子供時代に抱いていた、「満州」の大平原への憧れのような気持ちが、きっと含まれているのではないかと思うのです。
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30歳の伊藤与蔵
さて、満州で従軍していた伊藤与蔵(右写真は大内秀明編著『賢治とモリスの環境芸術』より)は、賢治が手紙を出した4か月後の1933年12月に、幸い無事に除隊となって、花巻に帰還しました。
ただ、その時すでに、恩師と慕っていた賢治が世を去っていたということでは、さぞ寂しい思いをしたことでしょう。
翌1934年から、伊藤は花巻を離れ、釜石製鉄所で勤務していました。その後も二度ほど応召して、日支事変の中国で再び従軍しますが、1945年9月には無事に復員しています。
戦後も、引き続き釜石製鉄所に勤め、定年退職の後、1985年に天寿を全うされたということです。

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