北三陸の乙女たち

1.ヒデリノトキ

 今年の夏は、日本最高気温の記録が二度も更新されるなど、全国的に未曾有の猛暑となっていますが、実は盛岡市の最高気温も、今年101年ぶりに「史上タイ記録」が観測されました。
 これまで盛岡市の最高気温の記録は、1924年7月12日に観測された「37.2℃」だったのですが、先日8月3日にも、同じ「37.2℃」を記録したのです。

盛岡で101年前の記録に並ぶ最高気温37.2度(岩手日報)

 下に、気象庁のサイトをもとにして、盛岡市の最高気温の歴代5位までを、グラフにしてみました。5位までのうち3つが今年の記録で、いかに今年が猛暑かということがわかりますが、しかしその一方で、101年間首位を守っている「1924年」という年も、相当なものではないでしょうか。

盛岡市最高気温ベスト5
20250811a.png

 まだ「地球温暖化」などという概念さえなかった101年も昔にあって、今年の暑さと同気温を記録した1924年とは、いったいどんな年だったのでしょうか。


2.1924年という年

 実はこの1924年とは、岩手県内における猛暑と少雨のために、各地で深刻な干害が起こった年だったのです。
 『岩手県農業史』(1979)によれば、1924年(大正13年)の岩手県の農業は、次のような状況でした。

 〔大正13年〕
 5月から雨が少なく、特に6月下旬~8月下旬まで極端に少雨で、例えば、盛岡市で6月が64.1mm(平年比57%)、7月が38.5mm(23%)、8月が18.4mm(12%)であった。しかも7月中旬には37.2℃の高温を記録するなどで、県下各地に農作物被害が発生し、近年における最大の干ばつ年となった。
 水稲の被害面積は12,900ha(面積率24.6%)に及び、地域的には稗貫郡51.7%、紫波郡44.4%、和賀郡36.6%、江刺郡30.3%の面積率であった。
 また、畑作物は更に激甚であって、全畑地76,000haが甚しい被害を受けた。この年の農作物全体の被害額は370万円に達した。(『岩手県農業史』p.836)

 以上のように、この年の岩手県の農業は、大変な惨状を呈していたのです。稗貫郡の水稲の被害面積が50%以上とは、賢治の周辺でも、さぞ大変なことだったろうと思います。

 ちなみに今年2025年も、梅雨が短くやはり6~7月は少雨で、花巻ではイギリス海岸の泥岩層が最近にはないほど露出しました(「イギリス海岸の出現」参照)。
 試しに気象庁のサイトのデータから、今年6~7月の盛岡市の降水量平年の降水量と比較すると、下の表のようになります。

盛岡市の2025年月間降水量と平年比
2025年 平年 平年比
6月 75.0mm 109.4mm 69%
7月 40.0mm 197.5mm 20%

 ご覧のように、本年の6月の雨量は平年比69%、7月に至っては20%ということで、これを上に引用した『岩手県農業史』の値と比べると、今年は少雨という点においても、1924年に匹敵していることがわかります。今年の気象状況も、農家の方々にとっては大変なことと思いますが、今のところ1924年ほどの「災害級」にまで至っていないのは、この100年の農業技術の進歩のおかげなのでしょう。

 ところで驚くべきことに、賢治はこの1924年の4月初めの時点で、いち早く凶作を予想していたようなのです。4月6日の日付のある「測候所」という作品の下書稿(一)は、その名も「凶歳」と題され、その最終稿でも「……凶作がたうたう来たな……」との言葉が綴られ、様々な不吉な兆候が描かれています。

三五  測候所
             一九二四、四、六、
シャーマン山の右肩が
にはかに雪で被はれました
うしろの方の高原も
おかしな雲がいっぱいで
なんだか非常に荒れて居ります
  ……凶作がたうたう来たな……
杉の木がみんな茶いろにかはってしまひ
わたりの鳥はもう幾むれも落ちました
  ……炭酸表をもってこい……
いま雷が第六圏で鳴って居ります
公園はいま
町民たちでいっぱいです

 賢治が、なぜこんなに早い時期に秋の不作を予知できたのかは不思議ですが、3月末に水沢緯度観測所に赴いて、気象データを調査した結果だったのかもしれません。

 そしてこの凶作を反映して、同年秋の賢治の作品には、次のような痛ましい記述が散見されます。

三〇七  穂のない粟をとりいれる人
             一九二四、九、二七、
途方にくれて粟のはたけのなかにたち
またしかたなく藁をいっぽん抜きとって
西日から古めかしくもすかし出される
穂のない粟を束ねだすひと
〔後略〕

(「〔しばらくぼうと西日に向ひ〕(下書稿(一)」)

三一一  昏い秋
             一九二四、一〇、四、
黒塚森の一群が
風の向ふにけむりを吐けば
そんなつめたい白い火むらは
北いっぱいに飛んでゐる
  ……野はらのひわれも火を噴きさう……
雲の鎖やむら立ちや
白いうつぼの稲田にたって
ひとは幽霊写真のやうに
ぼんやりとして風を見送る

(「昏い秋(下書稿(二)手入れ)」)

 「野はらのひわれ(干割れ)も火を噴きさう」との描写に、旱魃と高温の苛酷さが感じられます。「白いうつぼ(空穂)」とは、穂の中に米粒の入っていない「白穂」のことです。

 さらに賢治にとってこの秋は、凶作による心痛に加えて、8月~9月に文部省から「学校劇禁止令」が出されたことで、彼が花巻農学校で心血を注いできた学校劇を、以後はもう上演できなくなることが確実になり、ますます絶望が募っていったようです。

三〇一  秋と負債
             一九二四、九、一六、
〔前略〕
ポランの広場の夏の祭の負債から
わたくしはしかたなくここにとゞまり
ひとりまばゆく直立して
いろいろな目にあふのであるが
〔後略〕

(「秋と負債(定稿)」)

 「ポランの広場の夏の祭の負債」とは、この年8月10日~11日に賢治が4本立てで行った、学校劇上演会に対する種々の反応のことでしょう。
 実は政府当局は、賢治らの上演に先立つ8月7日に、すでに岡田良平文部大臣が地方長官会議で「学校に於て脂粉を施し假装を為して劇的動作を演ぜしめ公衆の観覧に供するが如きは質実剛健の民風を作興するの途にあらざる論を待たず当局者の深く思を致さんことを望む所なり」などと訓示し、翌日の新聞ではその内容が報じられていたのです(南元子「児童劇・学校劇における岡田文部大臣の訓示・通牒の意味とその影響」)。
 おそらく上演会の時点で、賢治はまだこういう動向については知らなかったのでしょうが、9月3日にはさらに念を押すように直轄学校長あての通牒も出されており、このような国の方針は、全ての学校関係者が知るところとなったはずです。こんな時勢下にもかかわらず、賢治が学校劇を大々的に上演して多くの一般人を集めていたことについては、周囲から何らかの批判を受けた可能性もあります。
 次行の、「わたくしはしかたなくここにとゞまり」という言葉からは、賢治はもう農学校の職にとどまる意欲さえ、失いつつあるかのように思えてしまいます。

 このようにして、賢治の1924年は心痛と失意のうちに暮れました。

 そして彼は、翌1925年1月早々、一人で三陸地方へと旅立ったのです。

3.異途への出発

 この三陸旅行の目的は、いまだ謎に包まれていますが、旅の始まりに書かれた作品「異途への出発」からして、まるでシュールレアリスムの絵画のような不気味さを湛えています。

三三八  異途への出発
             一九二五、一、五、
月の惑みと
巨きな雪の盤とのなかに
あてなくひとり下り立てば
あしもとは軋り
寒冷でまっくろな空虚は
がらんと額に臨んでゐる
   ……楽手たちは蒼ざめて死に
     嬰児は水いろのもやにうまれた……
尖った青い燐光が
いちめんそこらの雪を縫って
せわしく浮いたり沈んだり
しんしんと風を集積する
   ……ああアカシヤの黒い列……
みんなに義理をかいてまで
こんや旅だつこのみちも
じつはたゞしいものでなく
誰のためにもならないのだと
いままでにしろわかってゐて
それでどうにもならないのだ
   ……底びかりする水晶天の
     一ひら白い裂罅ひゞのあと……
雪が一さうまたたいて
そこらを海よりさびしくする

 7行目の「楽手たちは蒼ざめて死に」の「楽手」は、前年に劇「ポランの広場」で楽しい音楽を奏でた奏者たちを思わせます。彼らが舞台に戻ってくることは、もうないのです。
 一方、次の8行目「嬰児は水いろのもやにうまれた」の「嬰児」からは、1か月ほど前の1924年11月26日に、妹シゲのもとに生まれた宮沢家の初孫を連想します。この子は賢治にとって初めての甥で、自らは子を持たなかった賢治にとっても、小さな命の誕生には、相当の感慨があったのではないでしょうか。
 作品全体には悲愴な雰囲気が濃厚ですが、「楽手→死/嬰児→誕生」という表現からは、「死と再生」というイメージも仄かに浮かび上がります。

 14行目の「みんなに義理をかいてまで……」からの6行には、この旅行に対する賢治の複雑な思いが込められているようです。「義理を欠く」とは誰に対するどういう義理なのか、「じつはたゞしいものでなく/誰のためにもならない」というのが何を意味しているのか、そしてそれらを百も承知なのに「どうにもならない」のはなぜなのか、全てが不明のままですが、賢治が深い葛藤を抱えているのは確かなようです。

 この作品の舞台がどこなのかということについては、下書稿(一)手入れには「グラウンドの雪いちめんに」という表現があることと、花巻農学校には上記13行目の「アカシアの黒い列」のようにアカシアが植えられていたということから、木村東吉氏は花巻農学校の校門付近と推定しておられます(『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』第1分冊p.204)。
 この日はまだ冬休み中の時期で、時間的には花巻駅から列車に乗る直前と思われますので、賢治は何かの用事で学校に寄ってこの作品の体験をした後に、駅に向かったのでしょうか。

 上述のように、すでに賢治は前年秋から、学校にとどまることに迷いを感じていたようですし、この旅から3か月後の4月には、元教え子あて書簡に「わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温かいことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります」と、退職の意思を書き送っています(書簡205)。
 となると、この1月の旅行の時点でも、農学校退職という選択肢は、すでに可能性としては賢治の中に生まれていたと考えるのが自然でしょうし、旅行自体もそのような思いと、何かの関わりがあったのかもしれません。
 そうであれば、「みんなに義理をかいてまで……」という言葉も、少し腑に落ちるものになってきます。

 実際、小沢俊郎氏はこの旅行中の作品を評釈した上で、次のようにまとめておられます。

 伝記的に見れば、この年の六月には、はっきりと教師を止めて農村に入る決心を手紙に書いている。一月の「異途の出発」には、その決心の萌芽が見られるし、この三陸行の旅の中で得たものが意志決定に何らかの関わりを持っていると思われるのである。

(小沢俊郎『薄明穹を行く 賢治詩私読』p.197)

 また木村東吉氏は、次のように書いておられます。

 この三陸旅行を経た後、学校をとりまく環境の急変を訴える作品をいくつか作ったり嫌人症ミザンスロピーに陥ったりしながら、一九二五年四月には辞意をもらし、翌年は実際に教職を辞して羅須地人協会の活動に踏みだしている。真冬の三陸旅行は作者がこうした悩みを抱え、新しい方向への決意を固めようとしていた時期のものであった。

(木村東吉『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』第1分冊p.204)

 もしも賢治がこの旅の始まりの時点で、学校から去って別の方向に進むという思いも心に秘めていたのだとすれば、まさにその花巻農学校の校門の前において、「異途=異なった道」への「出発」を宣言しているのは、非常に象徴的なことと感じられます。

 ということで、次には小沢俊郎氏が「この三陸行の旅の中で得たものが(学校退職の)意志決定に何らかの関わりを持っている」と示唆しておられるところの内容について、考えてみたいと思います。
 賢治が「この三陸行の旅の中で得たもの」とは、いったい何だったのでしょうか。

4.北三陸の乙女(1)

 「文語詩 未定稿」に属する「〔鉛のいろの冬海の〕」は、この旅の途中、1月7日の早朝の、下安家あたりの情景と思われます。「「文語詩篇」ノート」の1925年「一月 九戸郡行」の項に記されている、「暁早ク家族ヲ整ヘテ海辺ヲ急ギ来シ白キモンパノ家長」等の記載が、作品中の表現と一致しており、旅行の行程からして賢治が早朝にこのような情景を目にする可能性があったのは、1月7日に限られることによります。

 下記が、その全文です。

鉛のいろの冬海の
荒き渚のあけがたを
家長は白きもんぱして
こらをはげまし急ぎくる

ひとりのうなゐ黄の巾を
うちかづけるが足いたみ
やゝにおくるゝそのさまを
おとめは立ちて迎へゐる

    南はるかに亘りつゝ
    氷霧にけぶる丘丘は
    こぞはひでりのうちつゞき
    たえて稔りのなかりしを

日はなほ東海ばらや
黒棚雲の下にして
褐砂に凍てし船の列
いまだに夜をゆめむらし

鉛のいろの冬海の
なぎさに子らをはげまして
いそげる父の何やらん
面にはてなきうれひあり

あゝかのうれひけふにして
晴れなんものにありもせば
ことなきつねのまどひして
こよひぞたのしからましを

 「家長」の男性が、「おとめ」と「うなゐ」と記される二人の娘を連れて、暁の海岸を急ぎ歩いています。周囲には、まさに寒々とした景色が広がっていますが、幼い妹が足を痛めているらしい様子を、その姉は優しく気づかっています。そして父は、「面にはてなきうれひあり」と描写されています。
 この3人の家族は、いったい何のために、早朝からこんなに急いでいるのでしょうか。

 その理由は、信時哲郎さんが「文語詩未定稿」評釈五に記しておられるように、この「おとめ」が身売りをせざるを得なくなって、父親と妹が付き添って送り届けているのだと思われます。一行の中に母親の姿がないのは、信時さんの指摘のように、母もすでにどこかに売られて不在だからかもしれません。ということは、今日は痛い足でついてきた小さな妹も、何年か後には同じ境遇になりかねないのです。
 家族を襲った残酷な運命が、父親の顔に「はてなきうれひ」を滲ませ、賢治も思わず「あゝかのうれひけふにして/晴れなんものにありもせば……」と願わずにはいられません。

 その苛酷な貧困の直接の原因は、字下げされた11行目~12行目にあるように、「こぞはひでりのうちつゞき/たえて稔りのなかりしを」ということにあります。本記事の前半で見たように、去年こぞ=1924年に岩手県を襲った干害が、おそらく一家の生計を限界にまで追い詰めたのでしょう。
 農学校教師として、最先端の科学的農業を教えている賢治でも、売られていく「おとめ」を前にして、ここではなすすべもありません。

5.北三陸の乙女(2)

 さて、上の作品と同じ1月7日の、こちらは午後の情景を描いたと思われる口語詩が、「発動機船 一」です。

  発動機船 一

うつくしい素足に
長い裳裾をひるがへし
この一月のまっ最中
つめたい瑯玕の浪を踏み
冴え冴えとしてわらひながら
こもごも白い割木をしょって
発動機船の甲板につむ
頬のあかるいむすめたち
  ……あの恐ろしいひでりのために
    みのらなかった高原は
    いま一抹のけむりのやうに
    この人たちのうしろにかゝる……
赤や黄いろのかつぎして
雑木の崖のふもとから
わづかな砂のなぎさをふんで
石灰岩の岩礁へ
ひとりがそれをはこんでくれば
ひとりは船にわたされた
二枚の板をあやふくふんで
この甲板に負ってくる
モートルの爆音をたてたまゝ
船はわづかにとめられて
潮にゆらゆらうごいてゐると
すこしすがめの船長は
甲板の椅子に座って
両手をちゃんと膝に置き
どこを見るともわからず
口を尖らしてゐるところは
むしろ床屋の親方などの心持
そばでは飯がぶうぶう噴いて
角刈にしたひとりのこどもの船員が
立ったまゝすりばちをもって
何かに酢味噌をまぶしてゐる
日はもう崖のいちばん上で
大きな榧の梢に沈み
波があやしい紺碧になって
岩礁ではあがるしぶきや
またきららかにむすめのわらひ
沖では冬の積雲が
だんだん白くぼやけだす

 この作品にも、印象的な若い女性が登場します。ただこちらは、「冴え冴えとしてわらひ」ながら働く、「頬のあかるいむすめたち」であるところが、前作で悲しく売られて行った「おとめ」とは、対照的です。真冬にもかかわらず、彼女たちは「うつくしい素足に/長い裳裾をひるがへし」、また「赤や黄いろのかつぎして」、簡素ながらも鮮やかな装いに身を包み、まるできらきら輝いているようです。

 それでもなお、「〔鉛のいろの冬海の〕」と共通しているのは、やはり同じく字下げ部分に記されている、「あの恐ろしいひでり」です。
 「みのらなかった高原」とは、海成段丘となっている北三陸海岸の、背後の丘陵地帯のことでしょう。このあたりは稲作ではなく畑作でしょうが、先に引用した『岩手県農業史』にあったように、1924年の干害の被害は、畑作物において「更に激甚」だったことでしょう。

 ところが、この丘陵地における凶作は、「いま一抹のけむりのやうに/この人たちのうしろにかゝる」と記されています。やはりこの地でも農作物には相当の被害があったはずですが、海岸ではそんなことなどどこ吹く風で、働く娘たちの姿がまばゆくきらめいています。彼女たちが発散する活力と比べると、去年の干害などもはや一抹の煙のように、雲散霧消したかのように思えてしまうのです。
 賢治は、そんな彼女らの楽しげな作業を眺めつつ、日が陰ってもやまない笑い声に聞き惚れています。

 すなわち、同じ日に書かれた「〔鉛のいろの冬海の〕」と「発動機船 一」とは、どちらも海辺で見かけた若い女性を描写し、しかも背景には前年の恐ろしい干害があるところも共通していますが、そこに登場する女性たちの様子は、全く対極的なのです。これらはまるで、「ネガ」と「ポジ」の関係にある二作品とも言えるでしょう。
 前者において売られて行った「おとめ」と、後者で冴え冴えと笑う「むすめたち」との違いは、いったいどこから来ているのでしょうか。

 おそらくその違いは、身売りを余儀なくされた「おとめ」には、それ以外に金銭を得る手段がなかったのに対して、発動機船の積み込み作業をする「むすめたち」は、生活できる稼ぎをその労働によって得られていたということでしょう。
 その地に根ざした生業があれば、他所に売られていくこともなく、明るく楽しく働き続けられるのです。

 ちなみに次に位置する作品を見てみると、「発動機船 第二」では、夜の伝馬船で「木ぼりのやうな巨きな人」たちが「声をそろへて漕いでくる」様子や、力を合わせて大きな樽を積み込む作業を、賢治は感嘆しつつ見守っています。「発動機船 一」の「むすめたち」と彼ら漕ぎ手たちは、「海の肉体労働者」という意味では同じでありつつ、女性⇔男性、昼間⇔夜という点でネガとポジの関係にあり、やはりこれらも対称を成す二作品と言えます。

 さて、以上見てきたように、賢治はこの旅行中に三陸の海辺で、上記のように体を使って働く人々のバイタリティや楽しげな様子と、またそれによって厳しい環境を生き抜く逞しさを目の当たりにして、あらためて「労働」という営みの価値と喜びを、実感したのではないでしょうか。
 そしてこの経験が、自らの将来に関わる決断にも、一定の影響を及ぼしたのではないかと思うのです。
 すなわち、この旅行中の体験は賢治にとって、教育という「知的労働」を続けることよりも、自分もまた地に足を付けて「肉体労働」に携わる道を選ぶ方向へと、背中を押す役割を果たしたのではないでしょうか。

 出発の時点では悲愴感に満ちていたこの旅が、賢治に対してこういう新たな可能性も示唆してくれたのだとすれば、最初に「異途への出発」で仄めかされていた「死と再生」のモチーフは、ここでめでたく「伏線回収」されたとも言えるでしょう。

 実際、この旅行を締めくくる作品「」において賢治は、釜石の叔父の家で従弟妹たちが健やかに成長している様子を喜び、「あたらしい風」を受けて鋼のように鳴る白樺に、希望を感じとるのでした。

黒い岬のこっちには
釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド
   ……そこでは叔父のこどもらが
     みなすくすくと育ってゐた……
あたらしい風が翔ければ
白樺の木は鋼のやうにりんりん鳴らす

(「」末尾)

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下安家の海岸の夜明け