去る10月11日、ノルウェーのノーベル委員会は、2024年のノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に授与すると発表しました。
唯一の被爆国である日本が、その体験を世界に伝え、核廃絶を呼びかけつづけることの重要性は、今さらここに繰り返すまでもありませんが、個人として戦後の最も早い時期に、自らの詳細な被爆体験記を発表して、「広島のような経験を、人類は再びするなよ」と痛切に訴えたのは、歴史学者であり宮沢賢治研究者でもある、小倉豊文氏でした。
1948年に刊行されたその著書『絶後の記録─広島原子爆弾の手記』について小倉氏は、「恐らく当時の占領軍G.H.Q.のOKを得た最初の(原爆に関する)出版」と述べておられます(小倉豊文『ノーモア・ヒロシマ─50年後の空洞と重さ』p.3)。
それから70年あまり、長らくこの書は中公文庫版で親しまれてきましたが、少し体裁を変えた下の平和文庫版は、現在も新刊で入手できます。
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今日は、被団協のノーベル賞受賞を記念して、小倉豊文氏の被爆体験や宮沢賢治との関わりについて、振り返ってみたいと思います。
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小倉豊文氏は、1899年に現在の千葉県市川市で生まれました。少年時代には、作文が殊に得意だったようで、大正初期の『少年世界』『少年』『少年倶楽部』『日本少年』『飛行少年』等の雑誌には、小倉豊文少年の文章が頻繁に掲載されています。1917年に出た、『大正少年傑作文』という文集にも選ばれています。
尋常小学校を卒業すると、千葉県師範学校、次いで広島高等師範学校に進学し、卒業後は京都府女子師範学校や奈良女子高等師範学校などで教壇に立ちました。この教師時代について小倉氏は、「大学に入る前の私は、京都・奈良で中等学校や専門学校の教師をしており、少・青年時代の文学・宗教・哲学などの愛好から転じて、本職の教師よりも古美術巡礼にうつつをぬかしておりました」(『聖徳太子と聖徳太子信仰』p.2)と回想しています。浪漫主義的な青春時代を過ごしておられたということでしょうか。
30歳を迎える1929年に、母校の広島高等師範学校の専攻科が改組されて広島文理科大学が創設されると、小倉氏は教師を辞めて、第一期生としてその国史学科に入学します。30代の大学生時代について小倉氏は、「老学生々活」などと自嘲したりもしていますが(『聖徳太子と聖徳太子信仰』p.1)、卒業論文のテーマはそれまでの耽美的な青春の反動か、「奈良時代仏教の財政経済的研究」という実際的なものでした。
小倉氏はこの研究のための文献調査中に、聖徳太子の「世間虚仮唯仏是真(世間は虚仮にして、ただ仏のみこれ真なり)」という言葉に出会い、「その頃、悩みの種となっていた或る精神的な問題に、この句がカチリと触れるものがあった」(『聖徳太子と聖徳太子信仰』p.1)ことから、聖徳太子研究をライフワークとするに至ります。
(宮沢賢治の若い頃の書簡49にも、「世間皆是虚仮仏只真」という言葉が登場しますが、聖徳太子の同じ言葉を、賢治が記憶のままに書いたものと思われます。)
大学を卒業した小倉氏は、そのまま国史研究室の助手になり、さらに講師となって、聖徳太子と太子信仰を中心に、実証的な研究を進めていきます。
当時の歴史学界では、聖徳太子ににまつわる様々な「伝説」と「歴史的事実」の判別が十分に進んでおらず、文献における伝説的な記載がそのまま史実と見なされていることも多かったのだそうですが、小倉氏は厳密な実証的手法によって、聖徳太子の実像を明らかにすることを目ざしました。
小倉氏の研究に対する現時点での評価として、駒澤大学名誉教授の仏教学者石井公成氏は、「戦時中にあっても、時局に便乗して太子礼讃を繰り返していた研究者たちに同調せず、聖徳太子を敬愛しながら種々の伝承について厳密な史料批判を行ない、真実の姿を明らかにしようと努めていました」と、まとめておられます(石井公成氏のブログより)。
一方、宮沢賢治が1933年に亡くなってまもなく、小倉氏は賢治やその作品についても、強い興味を惹かれていきます。
所で私が賢治の存在を知ったのは、確かに彼の死後である。昭和八年、何か文学か詩の雑誌で彼の死に寄せた文を読んだのが最初だったと思うが確かな記憶がない。あるいは翌九年だったか。十年の正月早々、中外日報に連載された三浦参玄洞さんの「第四次元世界への憧憬」に深い感銘を受けたことは確かに記憶している。二月に朝日新聞に出た谷川徹三さんの「ある手紙」、三月以降の文学界に連載された草野さんの「宮沢賢治覚書」は、決定的に私を賢治のとりこにしてしまった。
(小倉豊文『宮沢賢治聲聞縁覚録』p.29)
そして、当時刊行された賢治全集や名作選を次々買い求め、『宮沢賢治研究』の単行本や雑誌も揃えて、知人にも勧めていたということです。
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1940年に小倉氏は、旧制姫路高等学校の教授となりますが、この頃から自らの聖徳太子研究の成果を、大阪の四天王寺の機関誌『四天王寺』に投稿するようになり、まもなくその編輯者まで務めるようになります。「時には名を変えたり隠したりして、全誌の過半を自稿で埋める程の熱心さであった」(『聖徳太子と聖徳太子信仰』p.7)とのことで、四天王寺の寺務所はあたかも小倉氏の「研究室の分室」のような様相を呈していたそうです。
ところで、この頃の小倉氏の一面をうかがわせてくれるものとして、1943年8月発行の『ひむがし』という雑誌に掲載された短歌があります。この雑誌は、「新国学協会」という団体が、「歌道維新と新国学」のために発行しているもののようですが、「会友詠草」として、小倉氏の作品が載っているのです。
那羅山道 小倉豊文
み祖らがしこのみたてと踏みならしいくたびを征きしみちのあら草
遠ひかる
宮道 ををしみふりさけつ皇子 もこえけんこれのやまぢはうつそみのかなしびを耐へ今日も来し大山守の
皇子 のみはかべ夕あかね生駒のねろにあかければすなはち憶ふ
皇子 のをたけび
「
斑鳩宮から飛鳥宮に聖徳太子が通われたと伝える「太子道」を辿って、地図をたよりに大和平野の横断を試みたり、斑鳩の里から聖徳太子の墓のある磯長の叡福寺まで、山路を辿ったことなども今では懐しい思い出であります。
(小倉豊文『聖徳太子と聖徳太子信仰』p.3)
歌からは、万葉風の雄渾な声調に乗せて、小倉氏のロマンティシズムが漂ってくる感じです。現代から古代へと一気に跳躍してしまう、その桁外れの想像力からは、折口信夫(釈迢空)の作品なども連想してしまいます。
また、宮沢賢治については、姫路高校の生徒たちに熱心に勧めて全集や名作選を貸し与え、いずれもボロボロになったり行方不明になったりしましたが、「純真な若人の間に賢治ファンをかなりふやした」(『宮沢賢治聲聞縁覚録』p.29)と回想しています。
小倉氏が初めて花巻を訪ねたのは、この姫路時代のことですが、その時期について、1980年に刊行された『宮沢賢治聲聞縁覚録』には、次のようにあります。
私は全集の作品を繰り返し味読しながら、この佐藤(引用者注:隆房)さんの本を愛読した。この本も多くの人々の手に次々廻覧されたので、私は書込み等するために自分用の「貸出無用」本を用意したのである。そして、佐藤さんが書中で変名を使っている人々の実名や、その他いろいろうるさい質問を佐藤さんに手紙を出して尋ねた。恐らく病院長として多忙な佐藤さんにはずいぶん迷惑をかけたことであろう。しかし佐藤さんはわざわざ誰かに頼んで変名と実名の対照表を作って送って呉れその上「ぜひ花巻にお出かけ下さい」と何度も手紙を下さった。その御厚意にあまえて、私が始めて花巻の土を踏んだのが、前にふれたように昭和十八年の秋、十月末頃だったのである。
(小倉豊文『宮沢賢治聲聞縁覚録』p.30)
一方、1996年に刊行された『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』の「あとがき」には、次のように書かれています。
初めて花巻の地をふんだのは一九四二(昭和一七)年の秋、佐藤隆房氏が「宮沢賢治」を出版されたのを読み、同氏と文通を始めて来花を慫慂されてからである。
(小倉豊文『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』p.317)
というわけで、小倉氏の花巻初訪は、前者には1943年秋、後者には1942年秋と記されていて、どちらが正しいのか迷うところですが、佐藤隆房氏の『宮沢賢治』の初版刊行が1942年9月8日だったという時期が、手がかりになるでしょう。1942年9月に刊行された本を購入して、著者と何度も文通した上で花巻に行ったということからすると、1942年秋というのはちょっと困難で、「1943年秋」が正解だろうと思われます。
この最初の花巻訪問時に、小倉氏は政次郎氏と会い、あの「雨ニモマケズ手帳」との対面も果たしました。
これ以後、小倉氏は足繁く花巻を訪ねるようになります。なかでも、「雨ニモマケズ手帳」の写本が一つも作られていないことには「歴史家としての職業意識」が働いたそうで、空襲も迫る時勢で万一のことがあってはと「居ても立ってもいられなくなり」(『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』p.318)、姫路から花巻に通っては、宮沢家の二階の部屋でこの手帳の書写作業を行っていったのです。
読みにくい賢治の文字や記号を判読し写しとる作業は、時として難渋を極めましたが、作業の合間に政次郎氏と歓談するひと時は、小倉氏にとって嬉しい時間だったということです。
かなり広く深く仏教に通じていた翁にとって、仏教史の研究者であるが故に多少の仏教知識をもっている私は、座興的な話相手として格好だったのであろう。前述したように、同じ「中外日報」の読者であったことも翁をよろこばせた一因であったらしい。同じ読者といっても翁は信仰的であり、私は研究資料漁りが主であったのであるが、紙上を通じて多くの共通の知人のあったことが、一そう親近感を深めるに役立ったのであろう。更に翁は繁々遙々やってくる貧寒老書生を自分の「道楽息子」のようにでも考えたのではあるまいか。時々「お小遣」を下さったのである。何時の間にか私も我が「親父」のように考えていたので、随分勝手な放言も無遠慮に言うようになり、「お小遣」も有難く頂戴していた。
(小倉豊文『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』pp.318-319)
小倉豊文氏は、賢治の3歳下、トシの1歳下でシゲの2歳上でしたから、政次郎氏が小倉氏を「息子のように」遇したというのも、もっともなことと思われます。
当時、姫路から花巻まで行くには、少なくとも途中一泊か夜行列車を要しましたが、戦争も末期になって空襲が激しくなってからは、東海道線経由では途中で空襲に遭う危険が高いため、小倉氏は日本海側経由で新潟を通って岩手に出るというルートを取るようになります。そうなると、片道だけで数日間がかかり、さらに途中で「軍の命令」により全員が途中下車させられることも頻繁にあったので、小倉氏は手荷物よりも大事な「雨ニモマケズ手帳」の写本をとにかく守るために、常に写本を入れた風呂敷包みを腹に巻き付けていたということです。
結局、「雨ニモマケズ手帳」の書写作業は2年近くをかけて行われ、1945年6月に最後の校合を済ませました。
その最終作業を終えて、小倉氏が姫路駅に着くと、何と駅舎が焼失しており、さらに仮改札から外に出ると、市街全部が焼け野原になっていたということです。当時、小倉氏は広島文理科大学への転任を前にしており、妻や子供たちは先に広島に移っていましたが、自分の荷物は姫路市内の知人に預けていました。その中には、それまでの研究生活の集大成として出版目前の『聖徳太子信仰の歴史的研究』の原稿3300枚あまりと、『聖徳太子─像及び絵伝』の写真集の原稿300枚も含まれていたのですが、全部が一挙に焼失し、ここに小倉氏は前半生をかけた研究成果の全てを、失ってしまったのです。
この年の2月に小倉氏は、幼い次女も亡くしており、まさに不幸続きの日々でした。
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そんな失意の中、小倉氏は1945年7月に、母校である広島文理科大学の助教授に着任しました。
そして8月6日の朝8時すぎ、広島市南部の
小倉氏は咄嗟に地面に突っ伏し、顔を上げると、空には物凄く巨大な入道雲のような塊が盛り上がり、
小倉氏がいたのは爆心地から4kmほどの場所で、幸い大きな傷は負いませんでしたが、市内中心部に向けて歩いていく道すがら、この世のものとは思えない惨状を次々と目にしていきます。
何が起こったのかは周囲の人にも誰にも分からず、通常の空襲のような戦闘機の編隊は見られなかったことから、当初小倉氏は地上の火薬庫の爆発か何かかと思ったということですが、道でたまたま遭遇した同じ大学の理学部出身という若い兵士から、原子爆弾ではないかという意見を聞きます。
その言葉を聞いた小倉氏は、以前から見聞きしていた原子爆弾に関する知識をつなぎ合わせてみた結果、「これで戦争はおしまいになる」と思って、「さびしい皮肉な自嘲に似た微笑」がこみ上げてくるのを禁じ得なかったということです。
この時点で、長女と長男は学童疎開をしていましたが、妻と次男の行方がわかりません。
惨禍の市内をあちこち尋ね歩いても手がかりはありませんでしたが、翌7日の夜になって、学徒動員で来ている工場の少年工の一人から、「奥さんが府中国民学校におられます」と聞いて、急いで向かいました。
救護所となっていた学校の講堂では、「生ける屍」のような状態で寝かされている人々の間を何度巡っても、妻の姿は見当たりませんでしたが、ふと校庭に目をやると、そこに立っていたシルエットの一つが、妻の文代さんでした。
妻の顔は包帯で巻かれ、目も口もその間からやっとのぞいている状態でしたが、それまで数多く目にした負傷者のような全身の重度の熱傷は見られず、小倉氏は「思ったより軽傷でよかった」と、安堵してしまったということです。
小倉氏は、少年工と一緒に妻を担架に乗せて、自分たちが動員されている工場に附設された病棟に運びました。
行方の分からなかった次男も、隣の地御前村(現在の廿日市市)にある妻の実家に、自力でたどり着いていたことがわかりました。
その後も文代さんはほとんどしゃべらず、強い倦怠感の続く状態でしたが、傷はさほど大きくなく熱もないので、それまでの疲れがたまっているのだろうと小倉氏は考え、日中は学徒動員の工場の監督役として出かけ、夜に妻の看病をするという生活を続けました。8月10日の夜には、小倉氏が文代さんを背負って、次男のいる妻の実家に移しました。
こうやって8月15日の終戦を迎えました。その夜に小倉氏は妻の実家に行き、文代さんの枕もとで「とうとう敗けたよ」と言うと、文代さんは仰向けになったまま大きな目をうつろにしてしばらくだまっていましたが、「天子様がお気の毒ね」と言ったということです。この時、文代さんはかなり高い熱が出て、下痢も始まっていました。
8月17日午後に、小倉氏は動員されていた工場からやっと解放され、ずっと妻に付き添えるようになりましたが、実家に来てみると文代さんの憔悴は痛々しいほどひどくなっており、まもなく鼻血が止まらなくなりました。鼻を押さえると口から出血が続き、まるで泉のようにこんこんと溢れつづけました。
そのうちに文代さんが手を顎の下あたりに持ってきて、「ここが」「ここが」と口を動かすので、ここがどうしたのかと聞くと、「玉がある」「玉がある」と言おうとしている様子です。何のことかわからず、妻の妹が医者を呼んでくると、医者は文代さんの口から手を入れて、喉のあたりからウズラの卵くらいの血の塊を取り出しました。
その後も文代さんの顔色はどんどん蒼白になっていくので、小倉氏が医者に輸血はどうなのかと尋ねると、何人もやってみたが駄目だったとその医者は答えました。熱は41℃に上昇していました。
医者の帰り際に、小倉氏が「大丈夫でしょうか」と尋ねても医者は何とも答えず、妻の妹が追いかけていって再度聞くと、「むつかしかろう」との返事でした。
それまでは何とか希望を持とうとしていた小倉氏は、急に目の前が真っ暗になってしまったということです。
その深夜に小倉氏が文代さんを見守っていると、妻はふと目を開けて、右手を空中に上げ、右左に動かし始めました。いつまでたってもやめないので、小倉氏は一瞬背筋が寒くなったということですが、空中に文字を書こうとしているのだと気が付いて、よく見ると「エンピツトカミ」と片仮名で書いているようでした。
そこで小倉氏が、鉛筆と紙を持ってきて文代さんに渡すと、次のように書いたということです。
二番目ノタンスノ一番下ニアメトサトウノカンカンアリ
オシ入ノコメビツにはメリケンコチゝコその他あり
カズコケイ一ニヨロシク
これだけ書くと、文代さんはバタッと両手を下ろして目をつむり、すやすやと寝入ってしまいました。
「和子」と「敬一」は、学童疎開をしている長女と長男の名前です。子供たちのために何とか残していおいた食糧とおやつのことを、どうしても伝えたかったのでしょう。しかしそれらを置いてあった自宅は、すでに焼失していました。
8月18日は医者は来てくれませんでしたが、長女と長男が帰ってきて、文代さんには小倉氏と3人の子供が付き添っていました。
小学生の長女和子さんの日記には、次のように記されています。
そのうちにお父さんがお母さんの脈を見ておられて「容態がおかしいから」とおっしゃって勝谷のおばさんや四郎おじさんをよばれた。みんな起きて集まってくると、お母さんは大きな目をあけて「みんなどうしたの」だとか「何かあるの」だとか「何がほしいの」だとかいわれるので、私は涙がでてしかたがなかった。それからお父さんが稔子の写真を出して「わかるか」といわれると、お母さんは「トシコ」とはっきりいわれた。私は宮沢賢治さんの写真をお見せすると「ケンジチャマ」と赤ちゃんのような声でいわれた。私はまたぽろぽろ涙がながれた。お父さんも泣き顔をしておられた。
それから「みんなして青空にゆきましょう」とか「花巻にはやくゆきたいわね」とか「ポランの広場はわかったの」とか「はやく銀河鉄道にのりましょうよ」だの、いろいろのことをいわれた。私が賢治さんの写真をお見せしたので、いつも私たちと話していたことを思いだされたのだろうと思うと、すこしよくなられたのではないかと思った。
しかしお父さんが「すっかり頭がやられてるな」といわれたので、またかなしくなって、いっしょうけん命に頭と胸をひやしてあげた。するとジッと目をあけて私を見て「もうおやすみなさい」としかるようにいわれた。私はお母さんはこんなにわるくても私たちを心配して下さるのだと思うと、また涙が出て仕方がなかった。(小倉豊文『絶後の記録─広島原子爆弾の手記』p.178)
小学生の子が、病床の母にわざわざ宮沢賢治の写真を見せ、「花巻にはやくゆきたいわね」と母が答えるというのは、それまでこの家族の中で、賢治の存在がいかに大きなものだったのかを物語っています。
それにしても、死の間際の「ポランの広場はわかったの」とか「はやく銀河鉄道にのりましょうよ」という言葉には、まさに涙を禁じ得ません。
翌8月19日の午後には、大量の血便と血尿が出て、夕方には口からも血を吐き、蛔虫が出てきたということです。
そして、午後8時30分に、脈が絶えました。臨終にも医者には来てもらえず、小倉氏が脈搏をみて死を確認しただけでした。
その夜、小倉氏と子供たちで文代さんを湯灌しました。
ここから、小倉豊文流の「宮沢賢治葬」が行われます。
十九日の夜、湯灌をすませてから、万事節子に世話してもらって、普通の「葬式」の「お通夜」の席の恰好にして、俺が自我偈の読誦をしたあとで、子供らといっしょに宮沢賢治の「アメニモマケズ」を合唱した。お前の生前の俺の家の「仏前勤行」のままに──。翌日、勝谷の隣組の人々が集まってくれた時も、やっぱり同じようにした。もちろん頼もうとしても医者と同様に坊さんも頼めない当時ではあったが、期せずしてお前の葬式は、キリスト葬でも神葬でも仏葬でもない完全な「宮沢賢治葬」になった。だがお前は、恐らくこれをよろこんでくれるだろうと俺は信じているよ。
(小倉豊文『絶後の記録─広島原子爆弾の手記』p.181)
翌8月20日は小倉氏の誕生日でしたが、役場の長い行列に並んで、火葬許可証をもらいました。村の火葬場には竃が二つしかなかったので、そのまわりにたくさん穴を掘って遺体の露天焼きをしていましたが、文代さんは幸いにも、二つしかない竃の一つに入れてもらえて、家族や親族や近所の人々に見送られました。
当時はまだ、「原爆症」という言葉も概念も存在しませんでしたが、全身各所からの出血、下痢、嘔吐、感染による高熱等の文代さんの症状は、原爆による典型的な急性放射線障害でした。原爆が炸裂した一瞬で浴びた、目に見えない放射線が全身を貫通し、骨髄の造血細胞を破壊したために、血小板が失われて出血が止まらなくなり、白血球が失われて感染症を防げなくなり、また腸上皮細胞や膀胱・尿管の上皮細胞も傷ついて、下血や血尿が続いたのです。そして赤血球が失われると、全身に酸素が運べなくなってしまいます。
広島で被爆し東京に避難して来て、東大病院で亡くなった一人の女性に対して、世界で初めて「原子爆弾症」との診断が付けられたのは、文代さんの死の5日後の8月24日でした。(Wikipedia「仲みどり」より)
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ゆうぐれの陽のなかを
三人の子が
ななめの畑をのぼってゆく
みていれば なきたい火葬場から持ち帰った死んだ妻の遺骨箱を、假寓の二階の隅に置いて窓から外を見ると、三人の子供が折からの夕日を浴びて茫然と立っている。私は八木重吉のこの詩を卒然と思いだした。そして「あの子らの為に死んでも生きねばならぬ」と決意したのである。
(小倉豊文『ノー・モア・ヒロシマ─50年後の空洞と重さ』pp.181-182)
上の「決意」にもかかわらず、戦争によって妻とともにそれまでの仕事の成果を全て失ってしまった小倉氏は、大学で研究者として再起する自信を完全に喪失していました。
そこで小倉氏は、その日すぐに主任教授に辞表を提出して、大阪の四天王寺に駆けつけ、「出家」の手続きをしました。前述のように小倉氏は、四天王寺とは特に親しい間柄にあったので、ここでいわゆる「葬式坊主」をさせてもらって、3人の子供の生活費と学費を稼ごうと考えたのです。翌年の年賀状にも、大学を辞めて出家するという挨拶を付記していたということです。
ところが1946年の新年早々、主任教授が名古屋大学に転任することが決まり、もしも小倉氏が辞めると、母校の国史研究室には教官が誰もいなくなる事態になりました。このため小倉氏の退職は認められず、「教室主任代理」として、廃墟のどこに教室を設置するか、疎開図書をどう回収するか等の対策に当たり、教授の招聘や助手の任用等の人事にも奔走することになりました。子供たちは寄宿舎に入れましたが、自身の研究を再開することはなかなかできず、広島文理科大学の閉学と新制広島大学開学のための準備作業にも忙殺されました。
それでもその後、小倉氏は何とか聖徳太子研究を再開していきます。
「聖徳太子」という名はあくまで後世の尊称ですので、生前の実際の名前が何であったのかという問題について、小倉氏は「厩戸王」と呼ばれていたと推定し、1963年の定年退官前の講演や、同年刊行の著書『聖徳太子と聖徳太子信仰』において発表しています。翌年以降、他の研究者もこの呼称を用いるようになり、今では学校の教科書でも、昔のようにただ「聖徳太子」と表記するのではなく、「厩戸王(聖徳太子)」などと書かれるようになっています。この現在の定説は、小倉豊文氏が戦後になって初めて提唱したものだったのです。(石井公成「生前の呼び名は「厩戸王」だったろうと説いた誠実な研究者:小倉豊文(1)」より)
1945年に出版が計画され、空襲で原稿が失われた畢生の大著『聖徳太子信仰の歴史的研究』に代わる著書は、結局刊行されませんでしたが、定年退官後に知人に献呈する目的で、一般向けの啓蒙書『聖徳太子と聖徳太子信仰』がまとめられました。ここに、小倉氏の歴史学者としての研究のエッセンスが盛り込まれていますが、もしも元の大著が刊行されていたら、歴史学者としての小倉豊文氏の名前は、はるかに大きなものとなっていたことでしょう。
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宮沢賢治研究に関しては、それまでの「雨ニモマケズ手帳」研究をまとめた『宮沢賢治の手帳研究』が1952年に出版され、それを増補・改訂する形で、1978年に 『「雨ニモマケズ手帳」新考』が、1996年に『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』が刊行されました。増補を重ねるごとに、政次郎氏をはじめ周囲の関係者から小倉氏が聴取した賢治をめぐる様々なエピソードが、数多く盛り込まれていったことで、これは賢治の人となりや思想を知る上でも、貴重な文献となっていきます。
その形式は、「雨ニモマケズ手帳」の各ページの見開き写真を順番に掲載し、賢治がそこに記した内容に注釈を加えていくという一見単純なものですが、叙述される内容は、上記のような関係者の話や、仏教の奥深い教理に関する解説などにも及び、まるで一冊の手帳という小さな「窓」から、広大無辺な賢治の「世界」を垣間見る、という趣になっています。
この優れた賢治研究の業績に対して、宮沢賢治学会イーハトーブセンターは、1992年に第二回宮沢賢治賞の授与を決定しますが、小倉氏はそれまで「官位勲章など悉く拒否」してこられたということで、この受賞も当初は固辞しておられました。
何とか受けていただけるように、賢治学会の役員が小倉氏の自宅を訪ねてお願いすることになりましたが、当時の代表理事の入沢康夫さんに急なご不幸があり、代理で理事の原子朗さんと栗原敦さんが、事務局の小原敏男さんとともに、8月19日に小倉さんのお宅にうかがいました。
原さんが言葉を尽くして受けてくださるようにお願いしますが、予想したごとく、先生はご自分のモットーにそって受賞を断り続けられるのでした。私と小原さんはただ黙って文字通りそこに付き添うだけ。しばらく雑談に流れては、また原さんがお願いし直すということの繰り返しでした。
夕刻も近づいて、実はこの日が先生の奥様の命日であったことに話題が及び、そこからまた、本来うかがう筈だった入沢さんのご不幸も奥様を亡くされたことであって、受けていただかねば報告もできず、代理の面目もたたないという原さんの立場に動かされて、先生は遂に「仏さんをたてにとられたんじゃあ…」と、承諾されたのでした。(栗原敦「小倉先生を偲んで」宮沢賢治学会会報14号)
9月の賞贈呈式の挨拶で小倉氏は、「〝ホメラレモセズ/クニモサレズ〟をモットーにしてきたのだが……」と述べられたということです。
小倉豊文氏の聖徳太子研究と宮沢賢治研究に共通して感じるのは、研究対象への熱い敬愛の念を胸に秘めつつも、その手法はあくまで冷静沈着な実証作業の積み重ねによっているという点です。振り返れば、大学の卒業研究において、内心で仏教美術の美を讃歎しつつ、「奈良時代仏教の財政経済的研究」を行って以来続けてこられた、Heart と Mind の両輪による駆動と言えるかもしれません。
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小倉豊文氏は、世間が宮沢賢治生誕百年に沸く1996年6月に、満96歳で亡くなられました。
『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』の刊行は、何とか間に合って5月に出版されました。その「あとがき」の「追記」には、「本書を宮沢賢治生誕百年祭と私の第二回宮沢賢治賞受賞の記念としたい」と記しておられます。
そして現在小倉豊文氏は、奥様の文代さんと一緒に、千葉県東金市の小倉家墓所で、安らかに眠っておられます。
その墓石の傍らには、賢治の絶筆短歌の一首を刻んだ、下の写真のような「供養碑」が建てられています。
この碑は、1955年8月6日に建立・除幕されたということですが、実はそれに先立って、政次郎氏と小倉氏は、賢治の「供養塔」について、会話をかわしていました。
ところが昭和二十五~六年ころだったと思う。訪れた私に、翁は「賢治の墓を作ろうと思いますが……」と話しかけて来た。私はその十年ほど前に前述した「別に墓を作らぬ」といった、翁の言葉を思い出したが、既に眼と足が不自由になっていた喜寿の老翁に対して前言に違うと詰問する勇気が出ず、もし作るなら墓碑銘を刻んだ普通の墓ではなく、二十回忌記念の供養塔として、賢治が好んでいたらしい五輪峠にもちなんで、無銘の五輪塔にしたらよかろうという意味を述べ、もしそうするなら設計図の適当なものを送ると約したのである。
(小倉豊文「二つのブラック・ボックス」『宮沢賢治』第2号)
妻文代さんの十一回忌に建てられた、この「供養碑」の発案のきっかけとしては、上のようにその4~5年前に政次郎氏と小倉氏の間で話し合われた、「賢治の供養塔」のことがあったのではないかと、何となく私は感じます。
またこの碑が、文代さんの命日の8月19日ではなく、広島原爆十周年の8月6日に除幕されたという経緯からは、ここには文代さん一人だけではなく、広島で亡くなった全ての人々への鎮魂が込められているのではないかと、感じられます。莫大な犠牲は、もはや取り返しようがありませんが、せめて「みのりに棄てば うれしからまし」です。
そして、この賢治の短歌の碑が、妻の文代さんに対する小倉豊文流の「宮沢賢治葬」の、最後のピースだったのだろうと思います。
小倉家墓地の供養碑
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