月も七っつもってゐる

 1925年1月三陸旅行中の「暁穹への嫉妬」は、夜空に光る土星への恋心と、その星影が夜明けとともに溶け去ってしまう失意を歌った作品です。

  暁穹への嫉妬
         一九二五、一、六、

薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて、
ひかりけだかくかゞやきながら
その清麗なサファイア風の惑星を
溶かさうとするあけがたのそら
さっきはみちは渚をつたひ
波もねむたくゆれてゐたとき
星はあやしく澄みわたり
過冷な天の水そこで
青い合図winkをいくたびいくつも投げてゐた
それなのにいま
(ところがあいつはまん円なもんで
リングもあれば月も七っつもってゐる
第一あんなもの生きてもゐないし
まあ行って見ろごそごそだぞ)と
草刈が云ったとしても
ぼくがあいつを恋するために
このうつくしいあけぞらを
変な顔して 見てゐることは変らない
変らないどこかそんなことなど云はれると
いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる
……雪をかぶったはひびゃくしんと
  百の岬がいま明ける
  万葉風の青海原よ……
滅びる鳥の種族のやうに
星はもいちどひるがへる

 この日、賢治はおそらく夜明け前に八戸線の種市駅で下車し、そこから厳冬の三陸海岸を、徒歩で南下しました。遙か行く手に輝く星に、何度も目をやりながら、寒さをこらえつつ歩いたのでしょう。心細い一人旅を導くように瞬く星を眺めるうちに、いつしか恋心が芽生えたのでしょうか。

 3行目にあるその「清麗なサファイア風の惑星」が、12行目では「リングもあれば…」と描写されていることから、確かにこれが土星であることがわかります。
 加倉井厚夫さんによる天体シミュレーション「「暁穹への嫉妬」の創作」によれば、実際この日の夜明け頃、土星は南南東の空に見えていたのです。

 ところで、加倉井さんも上記ページで指摘しておられるように、1925年の時点では、土星の衛星は9個あることが知られていたはずです。いつも科学知識を最先端にアップデートしていたはずの賢治が、ここで「月も七っつ」と書いているのは、不思議なことです。
 そこで今日は、明治以降の文献に出てくる土星の衛星の数について、調べてみました。

 まず前提として、Wikipediaの「土星の衛星」の項目を参照すると、2025年3月12日の時点で、軌道が確定している土星の衛星は、何と274個!(存在が不確実な3個を含めると277個)が知られているということです。これは、7個か9個か?などという100年前の議論とは、二桁もレベルが違う話ですが、とりあえず上記「土星の衛星」をもとに、1980年までに地上からの観測で発見された、土星の14番目までの衛星を、下表にまとめておきます。

(表1)土星の衛星と発見年

名称 発見年
1 タイタン 1655
2 イアベトゥス 1671
3 レア 1672
4 テティス 1684
5 ディオネ 1684
6 ミマス 1789
7 エンケラドゥス 1789
8 ヒペリオン 1848
9 フェーベ 1899
10 ヤヌス 1966
11 エピメテウス 1967
12 ヘレネ 1980
13 テレスト 1980
14 カリプソ 1980

 これを見ると、確かに賢治が「暁穹への嫉妬」を書いた1925年の時点では、発見されていた土星の衛星は9つだったわけです。第9衛星フェーベが発見された1899年からは、すでに26年も経っていて、決して「最新知見」というほどではありません。
 一方、「衛星が7つ」という時代は、1789年の第7衛星「エンケラドゥス」発見から、1848年の第8衛星「ヒペリオン」発見までのことで、実際には明治維新より20年も前に、その時期は終わっていたのです。

 なぜこんな昔の知見が、大正も終わりの賢治の作品に記されているのか、本当に不思議ですが、例によって「国会図書館デジタルコレクション」をもとに、明治以降の文献における記載を調べてみます。

 まず、「国会図書館デジタルコレクション」を「土星」で検索してヒットする最も古い文献である、1869年(明治2年)刊行の『博物新編訳解 巻之3 天文略論』という本には、「土星論」という項に次のように記されています。

日ヲ離ルゝ更ニ遠ケレハ其行ク愈々遅シ、仿定位ヰスワリ経星ホシニ似テ光色微光カスカナリ、是ノ時キ人望ンテ頗フル見カタシ、星ノ外別ニ七ノ月輪アリ

觧谷按スルニ、地理全志ニ云フ、八月アリテ之ヲ繞ル

或ヒハ遠ク或ヒハ近ク、其至ッテ近キ者ハ十一時辰イツトキハン四刻ニシテ星ノ外ヲ運行メグル一週ス、其至ッテ遠キ者ハ七十九日三時ヒトキハン四刻ニシテ星ノ外ヲ運行ル一週ス、七ノ月輪均シク朔望薄蝕アリテ、木星ノ月輪地球ノ月輪ト彼レ此レ同理ナリ、

(『博物新編訳解 巻之3 天文略論』pp.33-34)

 すなわち、土星には月が7つあると述べ、注釈として『地理全志』には8つと書かれていると付記しています。「觧谷」とは著者の名です。

 次に、1874年(明治7年)刊の『訓蒙天文図解 上』には、次のように記されています。

  土星
土星は日輪にちりんより第六番目たいろくばんめにあつて地球ちきうより八百ばい大なりかつ土星どせいには七個ななつ衛星ゑいせいあつて或はとほく或はちか皆共みなとも其周囲そのまわりめぐ其外そのそとにまた光輝ひかりかゞや帯二道おびふたすじありて星のたいまとその内部うちひろさ一万七千里そとひろさ一万土星どせい内部うちあいだ、一万九千里、夜間やかん望遠鏡とおめがねを以てうかゞふ時はそのかたちじつなりといふ

(『訓蒙天文図解 上』)

 こちらには、やはり「土星には七個の衛星あって……」と書かれています。

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訓蒙天文図解 上』より

 これに対して、「土星の衛星は8つ」という記載が初めて明確に現れるのは、1876年(明治9年)刊行の『訓蒙天文略論』です。

  土星どせい
土星どせい二十九年半にじうくねんはんにして大陽たいよう一週いつしう十時半じうじはんにして一自轉いちじてんすと大陽たいようること地球ちきう九倍半くばいはんその赤道上せきどうぢやう直徑ちよくけい兩極りやうきよく直徑ちよくけいよりながきこと十分一じうぶいち其軸そのじく軌道きどうななめあるゆゑ四季しき遷移せんいありその衛星ゑいせい八箇やつあり又其赤道またそのせきどうへん數層すそうくわんありてこれ圍繞いじやうすと

(『訓蒙天文略論』pp.32-33)

 しかし、同じ1876年に刊行された、『博物新編講義 巻3』『鼇頭博物新編 第2集』『博物新編 : 鼇頭 第2集』『博物新編註解 巻4』では、衛星はまだ7個とされており、1877年刊行の『博物新編 : 鼇頭 第2集 2版』『博物新編 : 標註 2集』、1879年刊行の『学生必携文学自在 下』においても、やはり7個のままです。
 明治初期には、国内で刊行される書籍の知見はなかなかアップデートされず、1848年にアメリカおよびイギリスで第8衛星が発見されてから30年以上経っても、「衛星は7個」という記載が大多数でした。

 上記を含め、「国会図書館デジタルコレクション」において明治初年から1925年までに刊行された書籍における、土星の衛星数に関する記載を表にすると、下のようになります。

(表2)各書籍における土星の衛星数

書名 刊行年 衛星数
博物新編訳解 巻之3 天文略論 1869 7
訓蒙天文図解 上 1874 7
博物新編訳解 巻之3 天文略論 改訂2版 1874 7
博物新編 巻之3 増補 1875 7
訓蒙天文略論 1876 8
博物新編講義 巻3 1876 7
鼇頭博物新編 第2集 1876 7
博物新編 : 鼇頭 第2集 1876 7
博物新編註解 巻4 1876 7
博物新編 : 鼇頭 第2集 2版 1877 7
博物新編 : 標註 2集 1877 7
学生必携文学自在 下 1879 7
天象地球略解 : 插画 1887 8
理科書 第1編 1895 8
星学 (帝国百科全書 ; 第60編) 1900 8
天文講話 1902 9
天界之現象 (二十世紀理科叢書) 1903 8
天文読本 (二十世紀国民叢書) 1903 8
自然美論 1905 8
科学世界 2(2) 1908 10
探検世界 7(2);新年號 1909 10
最新天文講話 : 附・ハリー慧星 1910 10
天文講話 訂6版 1914 10
天文月報 7(2) 1914 10
最新科学 (現代叢書 ; [第2期 第4冊]) 1916 10
天体旅行 (家庭自学文庫) 1918 10
天文月報 13(1) 1920 9
宇宙の話 (吾等何を学ぶべき乎 ; 第1期 第1編) 1922 ?10
遊星とりどり 1922 10
科学新話 (通俗科学叢書 ; 第3編) 1922 9
肉眼に見える星の研究 1922 10
太陽の親類めぐり : 天文童話 1923 10
天文界之智嚢 (新国民理学叢書 ; 第6篇) 1923 10
科学世界宇宙の構造 1924 10
天界 4(40) 1924 9
日用天文学の常識 1925 10
宇宙の見方 (現代常識大系 ; 第1編) 1925 ?10
地球から天の川へ : 星界飛行周遊 1925 10

 これを見て生ずる疑問は、(表1)によれば土星の10番目の衛星が発見されたのは1966年のはずなのに、1908年以降の書籍の多くには、衛星数は「10」と記載されていることです。
 これは実は、Wikipediaの「テミス(衛星)」の項に記されているように、9番目の衛星「フェーベ」を発見したピッカリングが、1904年に土星の10番目の衛星を発見したと考え、「テミス」と名付けて1905年に発表したものの、後にこれは観測ミスだったと判明したことによるものです。いったんピッカリングは、「土星の9番目・10番目の衛星を発見した」功績により、1906年にフランスの科学アカデミーからラランド賞を授与されたものの、それ以後各地の天文台の観測でも再確認されず、1930年代初頭には、これは誤観測であったと広く認識されるに至りました。
 すなわち(表2)において、1908年以降の書籍における衛星数「10」との記載は、この幻の衛星「テミス」も勘定に入れた数だったのです。その中でも、表中で「?10」と記している1922年の『宇宙の話 (吾等何を学ぶべき乎 ; 第1期 第1編)』および1925年の『宇宙の見方 (現代常識大系 ; 第1編)』は、衛星数を「10」としながらも、「うち一個は問題になってゐる」という注記を付けています。

 上の表を通覧すると、日本でも1908年以降には、「土星の衛星は9個または10個ある」ということは、科学知識として常識になっていたと言ってよいのではないでしょうか。
 『盛岡高等農林学校図書館和漢書目録 昭和9年3月現在』を確認すると、表中の『天文講話』(横山又次郎著, 1902)を盛岡高等農林学校図書室も所蔵しており、その中には次のように記載されています。

土星ノ月ハ九アル、其ノ中一ハ一兩年前ニ發見セラレタノデアル

(『天文講話』p.93)

 1915年(大正4年)に同校に入学した賢治は、図書室に行けば、この記述を参照することができたわけです。

 また、1922年刊行の『肉眼に見える星の研究』(吉田源治郎著)は、草下英明氏が「賢治の読んだ天文書」(『四次元』第30号, 1952)で指摘したように、アンタレスを「蠍の眼玉」と見立てていることや、アルビレオの連星の色を「トパーズ」と「サファイヤ」に喩えていること等が賢治の作品中の描写と一致することから、賢治が読んでいた可能性が高いと推測されています。
 この本には、土星の衛星は次のように10個と記されています。

 衛星を一番餘計に有つのは、土星で、實に十箇、其次が木星で九箇。いづれも主星の質量が大きいから、それに準じたものと考へられないでもありません。

(『肉眼に見える星の研究』p.309)

 『肉眼に見える星の研究』の影響と思われる描写は、「双子の星」や「銀河鉄道の夜」に現れるので、賢治がこの本を読んでいたとすれば、それは1925年1月よりも前だったと思われます。
 (表2)に挙げた書籍の中で、賢治が読んでいた可能性が最も高いのは、これでしょう。

 もちろん当時も一般庶民の中には、「土星に衛星がある」ということを知らない人も一定数いたでしょうが、大正時代において「土星に衛星がある」という知識を持ちつつ、なおかつ「その衛星の数は7個である」という明治初頭の書籍の認識にとどまっている人がいるというのは、ちょっと考えにくいと思います。
 すなわち、賢治が「暁穹への嫉妬」に、土星が「月も七っつもってゐる」と書いたのは、本当に賢治自身が「土星の衛星は7つである」と思ってそう書いたのではなく、実際には9個か10個かだと知った上で、あえてここは「七っつ」と書いたのではないかと推測します。

 この部分の言葉は、その後に「と草刈が云ったとしても……」という一節があるように、「草刈」の発言内容とされています。
 こんな田舎の村にいる草刈が、「土星にリングがある」とか「月をもっている」などと、妙に専門的な知識をひけらかすようにして詩の話者に介入してくるというのも、身分不相応感が漂う不思議な設定です。

 ここで連想するのは、「土神ときつね」に出てくる狐です。この弁舌巧みな狐は、「環状星雲リングネビュラ」とか「魚口星雲フィッシュマウスネビュラ」などと難しい天文用語を弄し、注文したツァイスの望遠鏡が届いたとか言っていたくせに、実際には何も持っておらず、その巣穴は空っぽでした。
 「暁穹への嫉妬」の「草刈」についても、一見物知りのようなことを言いながら、その知識ははるか昔の段階に留まっているという滑稽感を、賢治はここで醸し出そうとしたのかもしれないと思ったりします。