入沢康夫著『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって』(書肆山田)という本を読みました。
「ヒドリ」か、「ヒデリ」か―宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって 入沢 康夫 書肆山田 2010-06 Amazonで詳しく見る |
言うまでもなく入沢康夫氏は、『校本宮澤賢治全集』『新校本宮澤賢治全集』編纂の中心を担った一人であり、氏の力によって賢治の作品の姿やテクストが初めて明らかになった例も、たくさんあります。
その入沢氏が、このたび上のような本を上梓されました。その内容と趣旨については、本書の「後記」において入沢氏自らが書いておられることを引用させていただくのが、最も明快でしょう。
本書は、宮沢賢治が手帳に書き遺した「〔雨ニモマケズ〕」中の「ヒドリ」という一語の取り扱いに関する拙文を集成したものである。読み返せば少々《大人げない》文章というきらいもないではないが、これも、「校本」「新校本」の編纂担当者としての《務め》だったのだと、自らを納得させている。
1989年の10月に、読売新聞全国版社会面のトップでセンセーショナルに報じられて以来、「〔雨ニモマケズ〕」の「ヒドリ・ヒデリ」問題がクローズアップされ、今日でも、まだその余燼は収まりきってはいない。本書に収録したのは、「ヒドリとは、方言で《日雇い仕事(の賃金)》のこと」という新説に対し、「ヒドリはヒデリの誤記に違いない」とする立場からの、この20年余りの、折に触れての反論であり、解説である。
《大人げない》などとは滅相もないことで、賢治が書いた一つの文字・言葉をもおろそかにしない入沢氏らの厳格な姿勢が、『校本』『新校本』の業績を成し遂げる根本にあったわけですし、また上の文中にあるように、両全集の「編纂担当者としての《務め》」として、校訂の子細を明らかにしなければならないという強い責任感が、このたった一語(一文字)のために、一冊の本を世に出させたのだと言えるでしょう。
◇ ◇
さて、賢治が手帳に鉛筆で書いた「〔雨ニモマケズ〕」テキストの原文24行目が、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」となっているのは事実です。
これを全集編集者は賢治による誤記と考え、本当は作者は「ヒデリ」と書こうとしたと判断して校訂を行っているわけですが、その背景にある厖大な根拠が、本書にまとめられているわけです。具体的なことは、どうか本書をお読みいただいて、入沢氏の綿密詳細な検討に触れていただければと思います。
そしていったんこの本を通読された方は、「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記であるとする現校訂に、心から納得されるでしょう。
あと一つ、「ヒドリ」「ヒデリ」論争に加えて、故・小倉豊文氏が一時、これは「ヒトリ」の誤記であるという説を提唱したこともあったということです。この「ヒトリ説」に対しても、入沢氏は本書で論評を加え、小倉氏もある時に入沢氏の講演を聴いて、結局は「ヒトリ説」の旗をいさぎよく撤回されたのだそうです。
◇ ◇
しかし、私は今でも賢治ファンの方とお話をしていて、まだ「ヒドリ説」に肩入れをしておられ方に遭遇することが、時々あります。
そのような方は、あえて分布傾向を考えると、地元花巻に多いというのが私の印象です。郷土の生んだ偉人である賢治先生が、「書き誤り」などするはずがない(と思いたい)という心理が働いているように、感じられることもあります。
「〔雨ニモマケズ〕」の記されている手帳欄外には「11.3」との書き込みがあって、これは11月3日に書かれたと推定されることから、「畏れ多くも『明治節』に書かれたものだから、書き誤りなどあるわけがない」と理屈の通らないことを言う人があったり、「賢治はこの語に、ヒドリ(日雇い仕事)とヒデリの両方の意味を込めたのだろう」などと、無理な折衷案を出す人もあったりします。
また、とくに最近になって建立される「雨ニモマケズ」の詩碑のうちには、この箇所を「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と刻んだものもあります。
下記は、当サイト「石碑の部屋」所収の「雨ニモマケズ」詩碑を分類してみたものです。
原文複写的碑(=推敲跡や書き損じまで含めて刻む)
・鎌倉市・光則寺の碑(1985)
・裾野市・総在寺の碑(1996)「ヒデリ」と刻んである碑
・下根子桜の碑(1936)
・静岡県富士市・田子浦小学校の碑(1966)
・宮城県唐桑町の碑(1997)
・福岡県筑後市・筑後工藝館の碑「ヒドリ」と刻んである碑
・岩手県住田町の碑(2002)
・花巻市・南城中学校の碑(2003)かな・漢字に変えてある碑
・岐阜県石津町・牧田小学校の碑(1972)
・奈良市・近鉄奈良駅前の碑(1980)抜萃・改変を加えた碑
・熊本県三角町・戸馳小学校の碑(1975)
・広島県・柏島の碑(1976)
以前は私は、「まあ、いろいろな碑があってもいいかも…」と安易に考えていた頃もありました。しかしその後、入沢氏の論文などを読むうちに、碑を見る人々(とくに子供たち)に賢治の文章の意味をきちんと理解してもらうためには、適切に校訂されたテキストを刻むべきであると考えるようになりました。
このような観点から見ると、最近2000年代になってから、わざわざ「ヒドリ」と刻んだ碑が作られるようになっていることは、ちょっと気になることです。
◇ ◇
さて、宮澤賢治さん自身は、後々にこのような事態になるなんておそらく夢にも思わず、ふとこの「〔雨ニモマケズ〕」の文章を手帳に書きつけたのでしょう。
入沢氏は、今に至ってもまだ収まらない騒ぎについて本書の中で、「それもこれも、せんじつめれば、「〔雨ニモマケズ〕」が、《超有名作品》となってしまった《報い》ということになるのでしょうか?」と嘆じておられます。
羅須地人協会後にもほど近い南城中学校に2003年に建てられた詩碑。
(原文のまま)と但し書きを付けて、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と刻まれている。
ガハク
最近まで知りませんでした。本当に大変なものですね研究というものは。一つの字が違っただけで解釈がガラッと変ってしまうなんて。そりゃそうか…
そうか、外国語に訳すとなるとどっちでも何となく意味が通じてしまいそうな日本語に比べてヤバいですよね、確かに。
でもとにかくそういう地道で的確な研究によって結果的に『日照り』と僕らが読まされていたのは幸運だったということになりますね。
罪なことをなさったもんだ賢さんも。
石碑に彫られた文章にも色々あることも初めて知りました。(初めてばっかりだワw)勉強だ!
ところで福沢順二という人物、不思議な人ですね。がぜん興味が湧いてしまいました。人の固有の人生の一端をたまたま覗かせてもらったような幻惑を感じます。
hamagaki
ガハク様、いつもコメントをありがとうございます。
専門の「賢治研究者」の方々のお仕事は、本当に大変なもんですね。
私なども、時々誰かに間違えて「賢治の『研究家』」などと呼ばれてしまうことがあるのですが、その都度かならず、「いえ、『愛好家』です」と訂正していますw。
それから福沢順二さんという方は、「盛岡高等農林学校」を賢治と一緒に卒業しながら、まことに不思議な人生を歩まれたようです。
福沢さんが一人で生活しておられた「柏島」という無人島に私が行ってみたのは、思えばちょうど4年前の今頃でした。あの頃も、サッカーワールドカップをやってましたから・・・。
https://ihatov.cc/blog/archives/2006/06/post_385.htm
https://ihatov.cc/blog/archives/2007/01/post_435.htm
ノラ
こちらには初めて寄せていただきます。
原文『ヒドリ』について、
入沢康夫さんは「ヒデリ」改変派の中心論客であると考えて、氏の≪「ヒドリ─ヒデリ問題」について≫を下記アドレスで読ませて頂きました。http://www.kenji.gr.jp/library/qanda/hidori.html
ところが氏の論稿は、正に「ヒデリ」は誤りであるとの結論へ導く内容としか思えませんでした。私の読み間違いかも知れませんので、私がそう受取った訳をブログに載せて多くの御意見を求めている所です。
『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって』(書肆山田)を書かれた入沢康夫さんと同じ人物の筈ですし、些か戸惑っています。
入沢康夫さんの本心はぶれていて「ヒデリ派」を抜けて、「原文」回帰の意思があるのではないかと思える程でした。
もし、「ヒデリ派」に固執なさるのであれば、毅然たる論を展開して頂かなければ、私のように「ヒデリ」は賢治の心が解っていない者のたわ言に過ぎないと結論づけてしまうのではないでしょうか。
私の本心は只ただ、賢治の意志を捻じ曲げる論に与したくないと、それだけなのです。
私のブログ中のヒドリを参考までに載せておきます。
よろしければ、迷わぬようにお導きくださいませ。拝。
hamagaki
ノラ様、コメントありがとうございます。
入沢康夫氏のご著書を紹介はいたしましたが、私自身はこの問題の専門家ではありませんし、入沢氏のかわりに説明するなど(ましてや「お導き」など)、僭越きわまりないことです。
つきましては、ここでご質問されるよりも、上にご紹介した入沢氏の著書を読まれることを強くお勧めします。
あしからず、ご了承下さい。
・・・というお返事をいったんご用意いたしましたが、わざわざ拙サイトをご訪問下さったのも何かの縁ですので、あくまで私の責任において、入沢氏の著書をもとに、「なぜヒドリでなくヒデリが妥当と考えられるか」ということについて私なりの理解を、7月1日付けブログ記事「「ヒデリ」論の私的メモ」に書かせていただきました。
ご参考になれば幸いです。
それにしても、入沢氏の文章をどう読めば、「「ヒデリ」は誤りであるとの結論へ導く内容としか思えない」のか、私としては非常に不思議ではあります。
ノラ
こちらのコメントが私宛ての物だったのですね。
「私的メモ」のほうに御返事を書きこんでしまいました。
>それにしても、入沢氏の文章をどう読めば、「ヒデリ」は誤りであるとの結論へ導く内容としか思えない」のか、私としては非常に不思議ではあります。
日本中の殆んどの人が「死刑にしろ」と叫んでいるとき、反対意見は支持されないものです。
しかし、無実が明らかになったとき、当然のように冤罪を非難するものですね。
ですから、私のブログ記事「ヒドリ」に順番に回答する積りがあれば、そのようなことは仰らないと思います。
hamagaki
ノラ様、コメントをありがとうございます。
頂戴したお言葉を受けとめ、今後も私なりに考えを深めていきたいと思います。
2ヵ所にも書き込みをいただいて、お手数をおかけして申しわけありませんでした。
クマ
「ヒドリ」
この詩にこんな論争が有るとは、知りませんでした。
NHKカルチャーアワー文学探訪・栗原敦・では「ヒデリ」でした。上流に豊沢ダムが出来るまで根本的な解決は望めなかった、と記しています。
「部落民一同、一丸となってこれに反対しましたが、小部落の力量ではどうすることも出来ませんでした。
永年住み馴れた墳墓の地に限りない愛着を感じながら、昭和27年4月、豊沢ダム建設に伴う移転補償契約に正式に調印を行いました。これを機に、部落民はそれぞれ新天地を求めて各地に移転しました。
あれから30年経過しました。
生れ育ち、住み馴れた地を去る時のあの骨肉をひきさかれるようなつらい思いや、・・・」 移転30周年記念の豊沢会会長の文(一部分)です。
「ヒデリ」であって欲しいと思います。
hamagaki
クマ様、尊いコメントをありがとうございます。
5年前の、栗原敦さんのNHKカルチャーアワーでは、私も勉強させていただきました。久しぶりにテキストを取り出して眺めてみましたが、やはり素晴らしい内容でした。
そして次には、上に引用していただいた「豊沢会」の会長様の文章を、切実な気持ちで読ませていただきました。
いま、花巻の平野に広がる田畑が、賢治の時代のような「ヒデリ」の被害から守られて、毎年豊かな稔りを生むようになっている背景には、このような現実があったのですね。
私も豊沢ダムには行ったことがありましたが、その時、青い湖面の底に沈んでいる部落のことまでは、思いが至りませんでした。
豊沢部落の方々の「骨肉をひきさかれるようなつらい思い」のおかげで、下流の稗貫平野の沢山の人々は、その昔には賢治さえ「ナミダヲナガシ」ているほかにどうしようもなかった「ヒデリ」の被害から、救われたわけですね。
この箇所は、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」であると、私も信じています。
masayuki
[雨ニモマケズ」手帳の71頁・72頁の「土偶坊」には”第五景ヒデリ”と書かれていること、そして「ヒデリノトキ」と次の「サムサノ夏」が対句になっていることから、私は「ヒデリ」説を採ります。
hamagaki
masayuki様、コメントをありがとうございます。
お返事が遅くなって、申しわけありませんでした。
ご指摘のとおり、同じ「雨ニモマケズ手帳」の「土偶坊」というメモにおける「ヒデリ」の語や、「ヒデリノトキ」と「サムサノナツ」という対句構造も、この箇所を「ヒデリ」と校訂することの妥当性を裏づける、重要な根拠であると思います。
入沢さんのご著書を抜粋させていただくような形ですが、このあたりの事柄を以前に「「ヒデリ」論の私的メモ」という記事に整理しましたので、よろしければご参照下さい。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
麻生雅幸
hamagaki様 御親切なご教示ありがとうございます。早速「ヒデリ論の私的メモ」読ませて頂き、大変参考になり、納得がいきました。
昨年に続き今年も、この17・18日盛岡と花巻に行ってきます。私は、昨年「雨ニモマケズ」手帳の複製を買って、手帳を開いて驚きました。 、手帳をひらくとすぐに、『當知是處 即是道場 諸佛於此 得三菩提 諸佛於此 転於法輪 諸佛於此 而般涅槃』
そして南無妙法蓮華経のお題目と四大菩薩が続きます。
そして「雨ニモマケズ」の本文の後に南無妙法蓮華経の書かれた略式曼荼羅です。ここから、私は宮沢賢治と法華経の結びつきへの関心を持ち、賢治のことを研究しだしました。
初めの『當知是處~而般涅槃』は、法華経第十六如来神力品の道場観で賢治が二十四歳で入会した法華経信仰団体「国柱会」の会員必携の経本「妙行正軌」巻頭に掲げられた重要な聖句で、仏壇前に正座合掌して「至心念誦」してから読経を始めます。(小倉豊文『「雨ニモマケズ手帳」新考』)
この詩は、亡くなる二年前に病床で書かれたものですが、賢治は臨終の場でも、南無妙法蓮華經と高く唱えて亡くなります。 私は、法華経が根底にある「雨ニモマケズ」の詩は、南無妙法蓮華経とともに読んでこそ、賢治の願いに叶うものと思うようになりなした。
hamagaki
麻生雅幸さま、奥深いコメントをいただきまして、ありがとうございます。
生前の宮沢賢治が法華経に深く帰依し、その思想や生活の隅々まで法華経が沁みわたっていたということは、私も賢治の作品や研究書を読みつつ、かねてから知ってはおりましたが、いかんせんその方面に関してはまったくの素人ですので、なかなか十分に理解するところまではいきませんでした。
法華経を研究しておられる麻生さんのようなお方には、また今後もご教示をいただくことがあるかもしれませんが、何卒よろしくお願い申し上げます。
アソウ雅幸
hamagaki様 ご丁重なコメントありがとうございます。
宮沢賢治は、童話作家・詩人であり、教員・農業指導者・科学者(化学者)・音楽家・宗教家(キリスト教・浄土真宗・日蓮宗・曹洞宗)等々多彩な才能(多面体の魅力)を持った人ですので、法華経だけを強調することはできませんが、「雨ニモマケズ」の詩は、常不軽菩薩をイメージしたデクノボーを理想としていることから、法華経の精神が根底にあると思われます。 今後ともよろしくお願い申し上げます。
賢治大スキ
わたしは、今日、本屋で賢治についての本を見ながら
やはり「ヒドリ」が正しいのだろうと思いました。
賢治は、この詩をいろいろ修正していますが、
そのとき「デ」が「ド」になっていたら気付いたと思うのです。
そして
賢治がそう書いているのですから、あとのものが勝手に変えてしまうのはまずいと思います。
hamagaki
賢治大スキ さん、書き込みをありがとうございます。
ご意見は、「もし書き間違いだったら修正の時に自分で気づいたはずだから、直していないということは書き間違いではないだろう」ということと、「作者が書いた字句は、後の者が変えるべきではない」という、二点かと存じます。
前者については、たとえどんな人であっても、「見落とし」が絶対にないとは言えませんので、作者が修正の時に気付いたはずだという断定はできないだろうと、私は思います。
後者については、それも一つの考え方だとは思います。
ただ、どんな作家でも原稿に誤字・脱字はあるものですが、本にして出版する際には、編集者が誤字・脱字と判断したら、修正して印刷するのが一般的です。夏目漱石でも芥川龍之介でも、私たちが読んでいる本のテキストは、そうやって修正されたものです。
ここで、特に宮沢賢治のテキストだけを修正すべきでないとする理由はないと思いますので、もし「ヒドリ」が「ヒデリ」の誤記であるのならば、修正すべきと私は思います。
以上は、あくまで私個人の考えですが、この問題については本当にいろいろな意見があると思います。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
やまねこ
たくさんの研究に敬意です
清六さんが、ひどりはひでりの誤記であると決めた以上、尊重すべきであり、いたずらな論争は納めるべきとの、主宰者のご意見が好ましく、全面的に賛同いたします。
穀物生産者として、寒い夏は確かにおろおろします。
ですから、ギンギンに日照りの暑い夏はしっかり甘い子実がはいりうれしいです。雑草もすごいですけど(笑)
日雇取り、日取りの方々は次男三男いましたし、メシだけではたらき惨めでしたが、それを技師賢治が寄り添って涙を流したのでしょうか?