芸術と人生の三段階

 「農民芸術概論綱要」の「農民芸術の(諸)主義」の項に、次のような一節があります。

芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する
芸術としての人生は老年期中に完成する

 人生の各時期における芸術の位置づけを、図式的に表現したものと思われますが、賢治の芸術観や人生観もうかがわれるようで、興味深いです。
 ここでは、「芸術のための芸術」、「人生のための芸術」、「芸術としての人生」というあり方が、それぞれ少年期、青年期、老年期に対応させられていますが、これらは各々具体的にはどういうものでしょうか。

 まず、「芸術のための芸術」というのは、いわば「芸術至上主義」的な芸術観と言えるでしょう。
 夏目漱石の弟子で、関東大震災の津波で亡くなった厨川白村という文芸評論家は、1912年初版の『近代文学十講』において、この「芸術のための芸術」について次のように述べています。

 浪漫派文学の一面には、藝術至上主義とも云ふべき傾があつた。即ちすべての藝術は藝術それ自らの為めに獨立に存在するもので、決して他の問題と關係しない。世智辛い苦しい現在の生活に對して、全く超然高蹈の態度を取るべき者だと唱へた。醜穢悲惨な此浮世をよそにして、別に淸く高くまた樂しき「藝術の宮」、──詩人テニソンの歌つたやうな the Palace of Art 或は Saint-Beuveセントブウヴ がヸニイを評した時に云つた「象牙の塔」tour d'ivoire のなかに獨り立籠らうといふ所謂「藝術の為めの藝術」art for art's sake が其主張の一面であつた。

(厨川白村『近代文学十講』p.233)

 このような「耽美的」な芸術観は、たとえば盛岡高等農林学校に集った多感な学生たちが刊行した『アザリア』創刊号に、小菅健吉が記した次のような感傷的な巻頭言にも、表れているように思います。

   初夏の思ひ出に
              流るゝ子
 消え残る雪の未だまだらに彼方此方に散在する中より微風は春意を齎し、北流は荒漠たる白銀が原を、南流は桜花の春を告ぐる頃より中津河畔公園の紅梅一二輪、高き芳香に万輪を呼び──統べて爛漫の桜花、尊き黄金色なせる山吹、質素な卯の花、雨にゆかしき海裳の淡紅遠方で眺むべき桃色の花、さては名知らぬ草に至るまで咲き出てゝ、こゝにあはたゞしき杜陵の春は来りぬ、
〔中略〕
感受的詩人が限りなき涙を流すは、げにや此の晩春より初夏への移り目、はりつめたる琴線の見えざる刺戟にも尚ほ美妙なる音を発する時にあらずや、
吾がアザリヤ会はかゝる詩人(敢て吾曹一派を詩人と名づけん)多忙の初夏、乱れ易く傷みやすき心を育み、現在に対するふ平を軽からしめ、自由てう心を積極的に向上せしめるべく年来各自の心に、はりつめたる琴線相触れて、こゝに第一歩を踏み出しぬ。〔後略〕

 「芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する」という言葉の意味するところは、まだ人生経験・社会経験の浅い少年期には、人は「美」それ自体に魅かれ、それを愛でることから芸術体験が始まり、そのような感性は、青年期以後にも潜在しつづけるということなのでしょう。

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『アザリア』第1号~6号(アザリア記念会『花園農村の理想を掲げて』より)

 自由を謳歌する学生や、世を超越した高踏派が耽溺する、このような「芸術のための芸術」に対し、次の段階の「人生のための芸術」が現れてくる状況について、厨川白村は上の引用部に続けて、次のように述べます。

然るに今や時勢は急變して物質文明の盛な生存競争の烈しい世のなかになつて人の心には一時一刻と雖も實人生を離れて悠遊するだけの餘裕がなくなつた、人々は現實生活の壓迫を一層痛ましく感ずるに至つた。人生當面の問題が行往座臥常にその腦裏を往來して心を惱ましてゐる。そこで遂に文藝ばかりがいつ迄も呑氣な事を云つてゐるわけにも行かず、現在生存の問題に密接な關係を持つことになつた。眼前の急に迫つて人々を惱まし苦めてゐる社會上宗教上道徳上の問題が、直に文藝の上に取扱はれるほど迄に、人生と藝術は接近しはじめた。嘗ては閑人の閑事業たるの觀を呈した藝術のための藝術が、今や變じて人生のための藝術 art for life's sake となつて了つた。匆忙繁劇な近代の人々の生活は、獨り藝術のみを淸閑の別天地におく事を許さないからである。

(厨川白村『近代文学十講』pp.233-234)

 上の論では、社会の側の変化によって「人生のための芸術」が現れてくるという位置づけですが、これとはまた別に、「芸術家が、自らの〈生〉のために創作する」という意味での「人生のための芸術」という事態も、あるように思います。
 ベートーヴェンは、30代前半に聴覚障害の進行や恋愛に苦しみ、一時は自殺も考えて「ハイリゲンシュタットの遺書」を記しますが、そこから再び立ち上がる過程においては、作品を創作すること自体が、彼の生きる力になっていったように思われます。
 聴覚を失うことは、作曲家としての将来を奪いかねない苛酷な「運命」ですが、それについてベートーヴェンは親友である医師ヴェーゲラー宛て書簡に、「僕は運命の喉元を締めつけてやりたい。どんなことがあっても運命に打ち負かされきりになってはやならい。──おお、生命を千倍生きることはまったく素晴らしい!」と記しています。そしてその後、交響曲第5番「運命」、第6番「田園」、ピアノソナタ「熱情」など、ロマン・ロランがベートーヴェン中期の「傑作の森」と呼ぶ、綺羅星のような作品が書かれていくのです。
 ベートーヴェンは、「自らが生きるために作曲した」とも言えますし、また翻ってそれらの音楽は、それを聴く全ての人々にも、生きる力を与えてくれるものです。
 これもまた、「人生のための芸術」と言ってよいでしょう。

 すなわち、「人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する」という言葉の意味するところは、社会の中で人生の課題に直面する青年期においては、芸術という営みも人生に資する役割を担うことになり、人生が安定期に入る成年以後には、この役割は前景からはやや退くものの、やはり潜在して、人を支えつづけるということでしょうか。

 三つめの「芸術としての人生」ということに関しては、賢治がやはり「農民芸術概論綱要」で「農民芸術の綜合」の項に書いている、「巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」という言葉を思い起こされます。「人生劇場」が、「芸術をなす」のです。
 これはおそらく賢治の考えによれば、「農民芸術概論綱要」の「農民芸術の興隆」の項を実践することによって、実現されるという趣旨なのだと思われます。

農民芸術の興隆

……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……

曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ

 そして、次の「農民芸術の本質」の項では、上に出てきた「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」というスローガンが、もう少し具体的に説かれます。

農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である
そは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする
そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし
巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へる

 すなわち、「人生と自然」を、「芸術写真」や「演劇舞踊」として「観照享受」することによって、日々の「労働」は「芸術」として燃焼され昇華され、ここに人生は芸術となるのだろうと思われます。

 従来から指摘されているように、このような賢治の芸術観・労働観には、ウィリアム・モリスの思想が影響していたと考えられます。
 たとえばモリスの芸術観・労働観は、1920年に刊行された本間久雄著『生活の藝術化』という本では、次のように紹介されています。

   生活の藝術化・藝術の生活化
     一
 嘗て生活の藝術化といふことが一部の人に依つて唱へられたことがあつた。嘗て藝術の生活化といふことも一部の人に依つて唱へられたことがあつた。しかしこの二つの提唱は、各々それ自らの獨立した提唱としては今日の吾々に餘り多くの重大な意義を齎すものではない。今日の吾々に取つてはこの二つの提唱は、あたかも楯の両面の如く一にして二、二にして一といふやうな關係のものであらねばならぬ。何となれば生活を藝術化するといふことは、生活化された藝術を以て、生活を藝術化することでなければならないからである。從つて此二つの提唱の根本問題は、生活に依つていかに藝術を調整し、藝術に依つていかに生活を調整するかといふこと、換言すれば生活と藝術との調和といふことにあらねばならぬ。そしてこの生活と藝術の調和といふことに含まれてゐるさまざまの問題を最も徹底的に又最も具體的に考察し、主張し、それを更に進んで實行に體現した人の代表者を私はかのウィリアム・モリスに於て見出す。
〔中略〕
     二
 こゝに云ふ生活の藝術化といふことの生活とは民衆の生活の意味であることは前にも一言した。そして民衆の生活とはとりも直さず民衆の勞働生活であることはいふまでもない。從つてこゝにいふ生活の藝術化といふことはこれを勞働の藝術化といふ言葉におきかへてもよい。勞働と藝術、この二者の調整、わがウィリアム・モリスの計畫し、實行したことは所詮これであつた。
〔中略〕
 ウィリアム・モリスは、かやうな思索の径路を辿つて、つひに眞の藝術とはどういふものであるかといふ結論に達した。曰く「眞の藝術とは●●●●●●勞働の中に感ずる●●●●●●●●快樂の表現である●●●●●●●●」と。すなはち勞働を快樂化することに依つて眞の藝術が成立するといふのである。

(本間久雄『生活の藝術化』pp.1-11)

 賢治がこの本そのものを読んでいたかどうかはわかりませんが、これは「農民芸術概論綱要」において賢治が述べていることと、同趣旨の思想です。
 しかしその一方で、「芸術としての人生」という言葉から私がもう一つ連想するのは、市井において「妙好人」と呼ばれる人々の、人生のあり方です。

 「妙好人」とは、浄土宗・浄土真宗の在家の篤信者で、多くは文字も知らないような無学な庶民でありながら、その生き方そのものが深い信仰の表現になっているような人々のことです。たとえば、柳宗悦の『妙好人論集』には、幕末から明治の時代に生きた、因幡の源左という男のことが記されています。

 源左は目に一丁字もなかった百姓で、いつも畑仕事に励んでいたが、ある日、豆を植えてある自分の畑に行ってみると、見知らぬ男が馬を畑に連れ込んで、豆を喰べさせている。それを見た源左は声をかけて、「馬子さんや、その辺の豆は赤くやけているで、向うにもっとよいのがあるけ、喰べさせてやんなされ」と。これを聞いた馬子は恥じてそこを立ち去ってしまった。
 庭に柿が植えてあったが、近所の子供たちが登って取りに来る。源左の子供がそれを訴えに来ると源左は梯子を持って来て柿の木にかけてやって、「落ちでもして他所様の子供に怪我をさせてはすまぬ」と言った。
 源左は田を廻りながら畔から水もれがしている場所を見つけると、他人の田でもよく直してやった。しかし一度も「直しておいた」ということを田主に話したことがなかった。それで村のある人が、なぜ言わないのかと尋ねると、源左は「いや直させて頂くのに、私が直したといえば先方で礼をいわれるにきまっている。そうなると五分五分になってすまぬではないか」──つまり直させて頂くのだから、対等になってはすまぬという答えなのである。

(『柳宗悦 妙好人論集』岩波文庫)

 これは、「芸術としての人生」というよりも「信仰としての人生」と言った方が、より適切かもしれませんが、しかしこのような話を聞くと、一幅の草画を見るような、静かな感動が湧き起こります。「その人の人生そのものが芸術になっている」という感慨です。

 以上は、「農民芸術概論綱要」における人生と芸術に関する三段階の区分を、一般論として解釈してみたものですが、これを、賢治個人の人生にあてはめてみると、次のような表にできるのではないでしょうか。「作品ジャンル」が、各時期の芸術観に対応して、三つにきれいに分かれているところが、個人的には面白いと思うのです。

区分 賢治の状況 芸術観 作品ジャンル
少年期 中学~高等農林 芸術のための芸術 短歌
青年期 農学校教師~羅須地人協会 人生のための芸術 口語詩
老年期 晩年病臥期 芸術としての人生 文語詩

 賢治は、「中学~高等農林」の時期には、専ら短歌を作っていました。最初は、石川啄木に影響されて作り始めたようですが、次第に自らの独特の感性を、独自の語彙によって詠むようになっていきます。
 この間、中学を卒業しても進路が定まらなかった時期には、初恋や進学問題など人生の苦悩を強く歌った時期もありましたが、全体としては、短歌としての自らの表現の深化を追求しており、「芸術のための芸術」を志向するスタンスだったと言えるでしょう。

 その後、父との葛藤や家での時期を経て、農学校の教師となってからは、『春と修羅』の口語詩時代が始まります。この時期にも、詩(心象スケッチ)としての新たな表現を追求する情熱は強く、前の「芸術のための芸術」というスタンスも継続しています。しかしその一方で、『春と修羅』においては、「春と修羅」、「小岩井農場」、「永訣の朝」、「青森挽歌」に見るように、人との関わりやトシの死の問題で苦悩し、「自分はいかに生きていけばよいのか」という壁にぶつかる過程で、多くの作品が生み出されていきます。また、農学校を退職して羅須地人協会を立ち上げた「春と修羅 第三集」の時期には、自らの労働という営みが、数多く作品化されていきます。
 すなわち、この時期には「人生のための芸術」という側面が、賢治の創作において大きな役割を演ずるようになったと考えられます。

 しかし、その後賢治は、重い病に罹って臥床生活を余儀なくされることになり、その生活は大きく制限されてしまいます。人々のために献身的に活動したり、野山で自然と交感したりというような、それまで賢治が大切にしてきた「人生」を、彼は奪われてしまうのです。
 ここにおいて、「芸術としての人生」と言っても、もはや自分のこれからの人生を「芸術化」するという道は、賢治には残されていませんでした。

 ところが、この時期に賢治が作り始めた文語詩は、自分の過去の人生や、他の人々の人生の一コマを、まるで一枚の絵画のように、あるいは一本の短篇映画のように、切り取って凝縮したものでした。
 「〔いたつきてゆめみなやみし〕」では、軍楽を奏で通り過ぎる朝鮮飴売りの記憶と、その後の彼らの境遇への気遣いに、病臥する作者自身の人生が重ね合わされます。「」における清らかな秋の景色と若い母娘の姿には、まさに絵画的な情緒が漂っています。「退職技手」で送別された彼の人生は、何と可笑しく悲しいことでしょう。「〔そのときに酒代つくると〕」の怪しげな夫婦や、「〔月のほのほをかたむけて〕」の盗賊は、どこか不気味でありながらも、大自然や他の生き物と一体となっています。

 このように、賢治晩年の文語詩には、人生の喜怒哀楽や皮肉や滑稽さが盛り込まれ、深い情感が醸し出されます。ここに表現されているものは、確かに「芸術としての人生」と言ってよいのではないでしょうか。

 まだ30代の人に対して、普通は「老年期」とは言いませんが、何年も病臥して様々な経験を観照し尽くした賢治の場合は、すでに百年も生きて世界中を旅した人のような、全てを達観する「末期の眼」が、備わっていたようにも感じられるのです。