CD『宮沢賢治ソングブック』

 仙台の佐々木孝夫さんから、新作のCD『宮沢賢治ソングブック Musical Sketch Modified ~ポランの広場~』をご恵贈いただきました。佐々木さん、どうもありがとうございました。

宮沢賢治ソングブック Musical Sketch Modified ~ポランの広場~ 宮沢賢治ソングブック Musical Sketch Modified ~ポランの広場
ちぢれ羊≒井上英司(演奏 編曲), MIKA(Vocal), ほか
Paradise Valley Private Record (2021/03)

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 これまで佐々木孝夫さんは、賢治が聴いていたと推定されるSPレコードを複刻したCDを、5集にわたって制作してこられましたが、今回のCDは、賢治の劇「ポランの広場」で使用されている様々な楽曲や、賢治が唄っていた歌曲を、宮城県在住のミュージシャンの方々が演奏したものです。
 楽しい歌声や演奏によって、劇「ポランの広場」の会場の熱気や、農学校の生徒たちと生き生き過ごす賢治の様子が、甦ってくるようです。


「月天子」の一元論

 先週の「アニミズムの系譜」という記事では、「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」における賢治の「月」のとらえ方が、「万物に心霊が宿る」というアニミズム的な感性の表れと考えられることについて述べました。
 同じような「月」の感じ方は、この詩を発展させたとも言える、「月天子」という晩年の詩にも表れています。(下写真は『新校本全集』第十三巻上の「雨ニモマケズ手帳」より)

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アニミズムの系譜

 去年出た『現代思想』の「汎心論」という特集には、次のような謳い文句が掲げられています。

万物に心は宿るのか――現代哲学の最新問題を追う

現在、「汎心論」つまり「生命のあるなしに関係なく、
万物は心あるいは心に似た性質をもつ」という思想が復興しつつある。
しかしそれは科学的世界像に背を向けるのではなく、
いっそう合理的・科学的な自然主義の立場を求めるところに成立する、
まさに21世紀の心の哲学なのだ。

現代思想 2020年6月号 特集=汎心論 ―21世紀の心の哲学 現代思想 2020年6月号 特集=汎心論 ―21世紀の心の哲学
永井均 (著), 高村夏輝 (著), 鈴木貴之 (著)

青土社 (2020/5/28)

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 「万物に心が宿る」という考え方は、一種の「アニミズム」にも通ずるもので、このような古代的?な物の見方が現代最先端の哲学の潮流となっているというのは、何となく不思議で面白いですね。現代の汎心論の代表的論客であるチャーマーズという哲学者などは、「サーモスタットにはサーモスタットなりの意識がある」などとも言っているそうで、そうするとまるで「トイ・ストーリー」のような感じになってきます。

 そしてこれは、宮澤賢治が様々な作品に表現していた感覚にも、深く通ずるものです。


 「農民芸術概論綱要」の中の「農民芸術の本質」の項目には、次のように書かれています。

農民芸術の本質

……何がわれらの芸術の心臓をなすものであるか……

もとより農民芸術も美を本質とするであらう
われらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する
「美」の語さへ滅するまでに それは果なく拡がるであらう
岐路と邪路とをわれらは警めねばならぬ
農民芸術とは宇宙感情の 地人 個性と通ずる具体的なる表現である
そは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする
そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし
巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へる
そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとする
かくてわれらの芸術は新興文化の基礎である

 上記の、「そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし」という部分は、まさに賢治自身の詩にぴったりの表現だと思うのです。


 「賢治の事務所」の加倉井厚夫さんが、去る2月8日の「緑いろの通信」において、「星めぐりの歌」の歌詞について次のように述べておられます。

 よく、賢治の「星めぐりの歌」の冒頭の「あかいめだまの さそり」について、あれは赤い星アンタレスで、星座上はさそりの心臓のはずが「めだま」ではおかしいことが指摘されます。 草下英明さんの本にあるとおり、吉田源治郎の『肉眼に見える星の研究』(警醒社)では「眼玉」と書かれているので、賢治はその知識をもとに書いたのではないかとする説明があります。 (しかし、時期的には『肉眼に見える星の研究』刊行が後のこととされます。)

 多くの解説本を読むと、このような議論があるなかで(実はそこで思考停止されるものが大半ですが)同じ「星めぐりの歌」にある「あをいめだまの こいぬ」に関しては、こいぬ座のプロキオンがなぜ「めだま」なのか、の方は本気で論じられることもなく、スルーされています。 むしろこちらも同等に検討が行われるべきで、その鍵になるのは、賢治の天文学の知識と同等に、賢治自身の想像力の傾向の理解にあると考えています。

 例えば、初期の短歌「西ぞらの黄金(きん)の一つめうらめしくわれをながめてつとしづむなり」(歌稿〔A〕明治四十四年一月より 69)では、宵の明星が「一つめ」のモチーフとなっています。 光る星を一般的に「眼」とする発想が賢治にはそもそもあったということです。

 このように、賢治の想像力に基づく創作がどのようなものなのか。 天文学の知識に加えて、想像力の傾向を理解する試みが必要ではないでしょうか。

 この加倉井さんのご指摘には、私もまったく同感で、さそり座やこいぬ座の中で最も輝く星を、その「めだま」と認識せずにいられない、賢治独特の「想像力の傾向」こそが、ここでは注目すべきところだと思います。これは、私たちが賢治の創作の秘密を理解する上で、小さくとも重要な一つの「鍵」にもなるのではないでしょうか。


黄いろの異界

 「『春と修羅』補遺」の「手簡」は、謎めいた不思議な作品です。

  手簡

雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます。
心象の明滅をきれぎれに降る透明な雨です。
ぬれるのはすぎなやすいば、
ひのきの髪は延び過ぎました。

私の胸腔は暗くて熱く
もう醗酵をはじめたんぢゃないかと思ひます。

雨にぬれた緑のどてのこっちを
ゴム引きの青泥いろのマントが
ゆっくりゆっくり行くといふのは
実にこれはつらいことなのです。

あなたは今どこに居られますか。
早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に
まっすぐに立ってゐられますか。
雨も一層すきとほって強くなりましたし。

誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。
向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。

いま私は廊下へ出やうと思ひます。
どうか十ぺんだけ一諸に往来して下さい。
その白びかりの巨きなすあしで
あすこのつめたい板を
私と一諸にふんで下さい。

          (一九二二、五、一二、)


映画「風の電話」

 今日からちょうど1年前の2020年1月24日に公開された映画「風の電話」を、先日 Amazon で見てみました。

 公開後まもなく日本全体がコロナ禍に飲み込まれてしまいましたので、誰しも映画館で見るのはなかなか難しかったと思いますが、これは「ベルリン国際映画祭国際審査員特別賞」も受賞した、とても素晴らしい作品です。


北上川の流氷

 今日1月17日の午後に網走地方気象台では、肉眼で流氷が観測されたということで、気象的に言う「流氷初日」だったということですが、先日は河北新報のウェブ版に「北上川に流氷出現 宮沢賢治の詩「流氷(ザエ)」の情景再現」という記事が掲載されました。
 記事中の動画は、YouTube でも公開されています。

 これは北上市の珊瑚橋から撮影されたということですが、賢治の時代には花巻でもこのような情景が見られたのでしょう。温暖化の影響か、北上川の流氷の出現は10年ぶりということで、今年の冬の冷え込みのおかげで、神秘的な景色が現れたようです。