『校本宮澤賢治全集』よりも前の全集には、「そのまっくらな巨きなものを」という書き出しが印象的な、次のような詩が収録されていました。

そのまっくらな巨きなものを
おれはどうにも動かせない
結局おれではだめなのかなあ
みんなはもう飯もすんだのか
改めてまたどらをうったり手を叩いたり
林いっぱい大へんにぎやかになった
向ふはさっき
みんなといっしょに入った鳥居
しだれのやなぎや桜や水
鳥居は明るいま夏の野原にひらいてゐる
あゝ杉を出て社殿をのぼり
絵馬や格子に囲まれた
うすくらがりの板の上に
からだを投げておれは泣きたい
けれどもおれはそれをしてはならない
無畏 無畏
断じて進め

 『校本全集』以降、このタイトルが姿を消してしまった理由について、天沢退二郎さんは次のように書いておられます。


 3年ほど前に「存在否定から全称肯定へ」という記事を書いて、賢治がその生涯の危機を克服した道筋や、彼のいくつかの童話や、大乗仏教の成立のプロセスに、同型の論理パターンがあるのではないかと考えてみました。
 この記事を書いた時点では、賢治がこのような特有のパターンの存在について、自ら意識していたのかどうかはよくわかりませんでしたが、その後気がついてみると、賢治の若い頃の書簡にこれと同じような論理を記している箇所がありましたので、ここに書きとめておきます。


時間と空間の入れ子

 先週の「時間と空間の交差点」という記事では、「銀河鉄道の夜」で化石を発掘している大学士の話を取り上げました。
 ここで大学士が言っていた、「ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらゐ前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるひは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ」という話は、『春と修羅』の「」の次の一節を、別の角度から述べたものと言えます。

おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません


時間と空間の交差点

 「銀河鉄道の夜」の「七、北十字とプリオシン海岸」の章に、化石を発掘している大学士とジョバンニが、会話をかわす場面があります。
 ところが、ここで大学士が語る「化石による証明」という理屈――下の引用の後半部分――が、何とも不思議でわかりにくいのです。

「君たちは参観かね。」その大学士らしい人が、眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。「くるみが沢山あったらう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらゐ前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れてゐるとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしてゐたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまへ。ていねいに鑿でやってくれたまへ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔はたくさん居たさ。」
「標本にするんですか。」
「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらゐ前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるひは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。わかったかい。けれども、おいおい。そこもスコープではいけない。そのすぐ下に肋骨が埋もれてる筈ぢゃないか。」大学士はあはてゝ走って行きました。

 自然科学において、研究者が何らかの仮説を立てて、その仮説が正しいことを実験や調査によって証明するということは、ふつうに行われる手続きです。
 上の大学士は、120万年前の牛の先祖の化石を調査することによって、「ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるひは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふこと」を証明しようとしているのだと説明していますが、ここの論理がどうもよくわかりません。

 この部分をどう解釈すべきかということについて、だいぶ以前に「異空間・異時間の認識」という記事を書いてみたこともありましたが、この時も結局よくわからないままに終わっていました。

 今回は、もう少し考えを推し進めて、問題を整理してみたいと思います。


「心象」か「所感」か

 以前に、賢治の詩の中に出てくる「共業所感ぐうごうしょかん」という仏教用語を取り上げて、「「共業所感」としての風景」という記事を書いたことがありました。
 今回、その語の一部分でもある「所感」という言葉の用例を、当サイトの「詩テキスト検索」で調べてみたところ、彼が詩作品でこの「所感」の語を用いているのは、かなり狭い時期に集中していることに興味を惹かれましたので、今日はこれについて考えてみます。


原体地区逍遙(3)

 先日の記事「原体地区逍遙(1)」および「原体地区逍遙(2)」で訪ねた場所を、Googleのマイマップにプロットしてみました。赤いマーカーの数字は、地図下のリストに対応しています。
 よろしければ、地図を拡大したりドラッグしたりして、より詳しい場所をご確認下さい。

  1. 奥州市伝統産業会館(レンタサイクル)
  2. 小野寺玉峰「原体には美しき四季がある」石碑
  3. 宮沢賢治「原体剣舞連」詩碑
  4. 夢の里工房はらたい
  5. 「豊饒准平原」石碑
  6. 大山祇神社(虚空蔵堂)
  7. 宝城寺
  8. 「長根坂」バス停
  9. 五位塚墳丘群
  10. 豊田館跡


原体地区逍遙(2)

 前回の記事を書いた後に気づいたのですが、「原体剣舞連」詩碑にはめ込まれたあの見事なブロンズのレリーフを制作されたのは、この地区出身の世界的彫刻家で、醍醐橋南の「原体には美しき四季がある」という石碑(前回の写真参照)を揮毫された、小野寺玉峰さんだったんですね。
 あらためて別の角度からのレリーフの写真と、詩碑台座の銘板を貼っておきます。

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