今回も、空間と時間を対比して見るという点においては、先月の「異空間・異時間の認識」という記事と、共通するものがあるかもしれません。

 『春と修羅』や「春と修羅 第二集」の時期の口語詩(心象スケッチ)において、賢治は基本的に「空間の彼方」を見ようとしていたように思います。

 たとえば『春と修羅』の最初の「屈折率」で彼は、はるか前方の森や雲を望み、空間の歪み?も感じとっています。

  屈折率

七つ森のこつちのひとつが
水の中よりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛あえんの雲へ
陰気な郵便脚夫きやくふのやうに
   (またアラツディン、洋燈ラムプとり)
急がなければならないのか


鈴木輝昭作曲「薤露青」

 例年ならば「賢治祭」や宮沢賢治学会イーハトーブセンターの総会および関連行事が行われるこの時期ですが、今年は賢治祭も学会行事も中止になってしまいましたので、ひたすら家にこもって、鈴木輝昭氏作曲の「薤露青」を、パソコンに打ち込む作業をしていました。
 これはとても先鋭的で美しい響きの曲で、パソコンで演奏するのはなかなか大変だったのですが、ひとまず連休中に形になった演奏を、お聴きいただければ幸いです。

 「tin…」「tun…」という特徴的な響きは、夜の呼吸から析出された「銀の分子」、あるいは北上川の波からなげられた「かすかな燐光」を象徴するものでしょうか。
 私は以前からこの曲が大好きで、「あゝ いとしくおもふものが……」のところなど、何度聴いても胸にこみ上げてくるものがあります。

無伴奏同声合唱のための 宮澤賢治の詩による《薤露青》(鈴木輝昭 作曲)


 私は高校生の頃からなぜか小林秀雄の文章が好きになれなくて、受験勉強の際にもなるべく避けていたのですが、その後何かの折に、坂口安吾が「教祖の文学」という評論において、小林秀雄のことを痛烈に批判しているのを読み、ひそかに溜飲を下げたものでした。
 この坂口安吾の「教祖の文学―小林秀雄論―」には、宮澤賢治の「眼にて云ふ」が引用されていて、小林秀雄が賞揚する西行や実朝の短歌や徒然草を「三流品」とこき下ろす一方で、賢治のこの詩のことは「まるで品物が違ふ」と絶賛してくれていましたので、賢治ファンとしてはいっそう嬉しい気持ちがしたものです。賢治と安吾の二人を並べると、作風も本人の生き方も全く対照的な路線ですので、安吾が賢治を賞賛するというのはちょっと意外な感じもしましたが、安吾の一面について新たな目を開かれる思いもしました。

 ところで実は、「教祖の文学」で坂口安吾が引用している「眼にて云ふ」のテキストは、現在の全集等に掲載されているものとは、かなり異なっているのです。


異空間・異時間の認識

 「銀河鉄道の夜」のプリオシン海岸で、牛の祖先の化石を発掘している大学士とジョバンニは、次のような会話をします。

「標本にするんですか。」
「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。わかったかい。……」

 ここで大学士は、化石を発掘する目的を、「標本にする」ためではなくて、「証明するに要る」のだと言っています。
 では、何を証明するためなのでしょうか。

 普通に考えると、古生物学者が太古の化石によって証明しようとするのは、昔の生物の体の形態とか、生態とか、現在の類似種との系統関係とか、あるいは当時のその場所の気候や環境などかと思います。しかし、大学士の答えはそうではなくて、「ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ」と言うのです。
 何かちょっとわかりにくい理屈ですが、これはいったいどういうことなのでしょうか。


 ちょうど1か月前の7月23日に、賢治が修学旅行で見学した「滋賀県立農事試験場」の場所を探る記事を掲載していましたが、その後コメントにてご指摘をいただき、旧東海道との位置関係について、再検討をしました。その結果、前回の推定場所はかなりずれていたらしいことがわかりましたので、調査しなおした結果を、ここにあらためて掲載いたします。


伊与原新『青ノ果テ』

 例年ならイーハトーブに出かけているお盆休みですが、今年はどこへ行くあてもなく、せめて本の世界で旅ができたらということで、花巻を舞台とした青春ミステリー『青ノ果テ──花巻農芸高校地学部の夏──』を読んでみました。

青ノ果テ :花巻農芸高校地学部の夏 青ノ果テ : 花巻農芸高校地学部の夏
伊与原 新 (著)

新潮社 (2020/1/27)

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 型破りの童話「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」の終章で、世界裁判長のネネムは、サンムトリ火山の噴火について次のように述べます。

「……僕の計算によると、どうしても近いうちに噴き出さないといかんのだがな。何せ、サンムトリの底の瓦斯の圧力が九十億気圧以上になってるんだ。それにサンムトリの一番弱い所は、八十億気圧にしか耐へない筈なんだ。それに噴火をやらんといふのはをかしいぢゃないか。僕の計算にまちがひがあるとはどうもさう思へんね。」

 ネネムが居並ぶ判事たちの前でこのように自説を開陳した直後に、実際サンムトリ火山は物凄い噴火を始め、感極まった上席判事は、「裁判長はどうも実に偉い。今や地殻までが裁判長の神聖な裁断に服するのだ」と言います。他のみんなも「ブラボオ、ネネム裁判長。ブラボオ、ネネム裁判長」と歓声を上げ、これに気をよくしたネネムは「正によろこびの絶頂」において立ち上がり、自讃の歌を高く歌い出します。そしてその歌は、次のように締めくくられます。

いまではおれは勲章が百ダアス
藁のオムレツももう食べあきた。
おれの裁断には地殻も服する
サンムトリさへ西瓜のやうに割れたのだ。

 これに続いて、部下の三十人の判事や検事たちも一緒に立ち上がり、「フィーガロ、フィガロト、フィガロット」などと叫びながら、皆で狂喜乱舞を始めるのですが、以上の経過を読んできてちょっと気になるのは、「ネネムの意志と火山噴火の関係」です。


SSL認証とURL変更

 インターネット接続の安全性を高めるため、当サイトはこのたび SSL 認証を取得しました。
 これに伴って URL も、従来の「http://www.ihatov.cc/」から、「https://ihatov.cc/」に変わりました。頭が「https」になっているのがポイントです。(www は、あってもなくても結果は同じなのですが、簡略化のために、この際「なし」で統一することにしました。)

 旧 URL を入力しても自動的に新 URL に転送されるので、そのままでも問題なく見ることはできるのですが、当サイトをブックマーク登録していただいている方におかれましては、お手数ですが「https://ihatov.cc/」に直しておいていただければ幸いです。その方が、多少とも円滑に表示されると思います。

 この新 URL でアクセスしていただくと、ブラウザ上部の URL 欄の左に「錠前」のアイコンが表示されると思います。通信が暗号化されている印です。


サイト内検索設置

 ページの右上の方に、新しい「検索窓」を設置しました。

 今回の「検索」では、ご覧のように入力窓の下に、「サイト内全文検索」と「詩テキスト検索」という2つのラジオボタンが付いていて、このいずれかのボタンを選択することによって、検索を行う範囲を変えられるようになっています。
 当サイト内には、「宮澤賢治全詩一覧」や『春と修羅』草稿一覧「第二集」草稿一覧「第三集」草稿一覧などからリンクされている、賢治の全詩作品のテキストがアップロードされているとともに、過去のブログ記事や、「歌曲」「石碑」「経埋ムベキ山。」その他もろもろのページが収められているのですが、「サイト内全文検索」を実行すると、これら全ての文書を対象に検索が行われるのに対して、「詩テキスト検索」を行うと、これらのうち賢治の詩作品のテキストだけが検索対象となります。

 たとえば、「心象」について、賢治が詩の中で言及している箇所と私がブログ記事で触れている箇所を、併せてリストアップするのならば、検索窓に「心象」と入れて「サイト内全文検索」を選んで検索すればよいわけですし、またたとえば賢治が詩の中で、「青」と「蒼」と「碧」をどのような文脈で使用しているか調べてみたいのならば、それぞれの文字を入れて「詩テキスト検索」を選び、虫眼鏡のアイコンをクリックしていただければよいわけです。


 賢治が『春と修羅』を書いた時期、具体的には1922年1月から1924年1月頃までという2年間ですが、この間の賢治の「心の遍歴」というものは、大きな波乱に満ちていました。
 最大の要因は、1922年11月の妹トシの死という出来事で、その内実は「無声慟哭」三部作や、樺太旅行における挽歌群に、記録されています。これは、確かに詩集『春と修羅』の最大のテーマの一つとも言えるものですが、しかしそれ以外にも、たとえば同僚堀籠文之進との葛藤という問題も、当時の賢治にとっては相当の重みを持つものだったと思われます。この悩みが、詩集前半部の代表作である「春と修羅」や「小岩井農場」の、隠れた主題だったのではないかと私は感じていて、それについては以前に「「〈みちづれ〉希求」の昇華」という記事などに書きました。

 私が上の記事で考えてみたことは、賢治は「一人の人とどこまでも一緒に行こう」と一途に求める「〈みちづれ〉希求」の苦悩と挫折を通り抜け、「全ての生き物と一緒に本当の幸福を目ざす」という、一種の菩薩行を己の究極の目標として見定めることにより、この危機を乗り越えたと言えるのではないかということでした。「個別的・主観的な愛」から、「普遍的・客観的な愛」への超克です。

 そして、この時期の賢治における「主観性」から「客観性」への変化は、愛や人間関係という領域においてだけでなく、この世界で生起する現象をどう認識するか、すなわち「世界観」という分野においても、同時並行的に変動が起こっていたのではないかと、私は思うのです。