本日オンラインで行われた「宮沢トシ没後百年」記念企画は、トシ研究の第一人者と言われる山根知子さんと、トシの「自省録」を高く評価しその研究を進めておられる望月善次さんというお二人の講演およびシンポジウムが、3時間にわたって繰り広げられるという重厚な内容で、お二人のトシに対する熱い思いを堪能できました。

 山根さんは、「戦争と女子教育」という視点から、第一次世界大戦の一コマについて述べた高等女学校時代のトシの文章や、大学時代に成瀬仁蔵の女子教育論に寄せた感想など、トシに関する最新の調査結果をご紹介して下さいました。

 望月さんは、トシ没後100周年にあたる今年を記念して、「宮沢賢治いわて学センター」による今回の企画を実現させた原動力でいらっしゃいますが、トシの「自省録」の歴史的な意義を、多角的に解き明かして下さいました。「賢治の「雨ニモマケズ」が死後あれほど有名になったように、トシの「自省録」も今後必ずや世に広く知られるようになる」というお言葉には、ほとばしる情熱を感じました。

 シンポジウムの部分では、以前の記事でもご紹介した「賢治はトシの「自省録」を読んでいたのか?」という問題について、「読んでいた」と考える山根さんと、「読んでいなかった」と考える望月さんのそれぞれのお考えが聞けて、興味深かったです。

 ところで今日のお話全体の中で、私にとって一番印象に残ったのは、望月善次さんがトシの「自省録」を評して、「普通は人間にとって、エロスとアガペーはどちらも大事なんだけれども、トシは「自省録」において、エロスを正面突破してアガペーに到達してしまう」というような内容のことをおっしゃっていたところでした(細かい表現は少し違ったかもしれませんが、お許し下さい)。


 1921年(大正10年)10月13日付けで、賢治が保阪嘉内に送った書簡198というのは、「巻紙」に「墨」で書かれた立派なものです。(下写真は山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』図録より)

1921_10_13_letter198.jpg

 時代劇に出てきそうなくらい威厳がありますが、その内容は、下記のようになっています。

拝啓
御葉書難有拝誦仕候 帰郷の儀も未だ御挨拶申上げず御無沙汰重々の処御海容願上候 お陰を以て妹の病気も大分に宜敷今冬さへ無事経過致し候はゞと折角念じ居り候 当地就職の儀も万止むなきの次第御諒解を奉願候
御除隊も間近に御座候処切に御自愛被遊度御多祥を奉祈上候  敬具
大正十年十月十三日

宮沢賢治拝

 保阪嘉内様


政次郎が記した「共業所感」

 少なくともある時期までの賢治は、「あらゆる存在はただ心の現れにすぎない」という、唯心論的な世界観を強く持っていたと思われます。
 学生時代の書簡でも、1918年の父あて書簡46には「戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候」と書き、1919年の保阪嘉内あて書簡153には「石丸博士も保阪さんもみな私のなかに明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る」と書いています。
 彼のこのような世界観は、「三界唯一心、心外無別法」(華厳経)という言葉に見るように仏教の根本であるとともに、自らの心的現象の描写によって世界を記録しようとする、「心象スケッチ」の方法論の基盤でもありました。


三代の生活意識

 先週の「親子の宗教意識」という記事では、父政次郎の信仰が賢治に与えた影響について、栗原敦さんの考察を拠り所にして考えてみました。
 ところで、賢治と政次郎という父子が、似た部分と正反対な部分を併せ持ち、一筋縄ではいかない独特の関係にあったように、政次郎とその父喜助も、「商売熱心」というところは共通する一方、宗教や教育に対する考えは対極的なようで、一世代上のこの父子の関係にも、なかなか興味深いものがありそうです。賢治も含めた三世代は、喜助が亡くなるまで一緒に暮らしていましたが、後述するように賢治の性向には、祖父喜助に対する隔世代的な反動と思える要素も一部見られて、三者の関係はけっこう複雑そうです。

 そこで今回は、喜助─政次郎─賢治という宮沢家三代の、それぞれの人となりの特徴について、考えてみたいと思います。


親子の宗教意識

 7月の安倍元首相の銃撃事件以来、「宗教2世」の問題に社会的な注目が集まっています。特に親がカルト的な新興宗教にのめり込んでいる場合、その子供には心理的・経済的に様々なマイナスの影響がありえますが、既成宗教あるいは伝統宗教と呼ばれる教団の信者家庭も、この問題に無縁でありえないことは、私自身も仕事の中で常々実感しているところです。

 宮澤賢治が生まれた家庭も、ご存じのように父の政次郎や親族が浄土真宗の篤信家で、家の中には濃密な宗教的雰囲気が満ち満ちていました。このことが、後年の彼の深い宗教性を形づくる上で大きな役割を果たしたことは明らかですが、そこに何らかの「問題性」があったという文脈で語られることは、これまであまりなかったように思います。
 しかしその中で、栗原敦さんの1973年の論考「賢治初期の宗教性──宮沢賢治論(一)」(大島宏之編『宮沢賢治の宗教世界』所収)は、父親の信仰が賢治の上に落とした「影」の部分にも迫る、貴重な視点を与えてくれるものです。


 ここで「少女歌劇団詩群」と仮に呼んでいるのは、「春と修羅 第二集」所収の「」および「「春」変奏曲」の二篇と、それらの発展形と言える「春 水星少女歌劇団一行」(補遺詩篇Ⅰ)および「春 変奏曲、」(「春と修羅 第二集」)の、計四篇の口語詩です。

 まず下記は、その前半の二篇です。

一八四
   春
               一九二四、八、二二、
空気がぬるみ
沼には鷺百合の花が咲いた
むすめたちは
みなつややかな黒髪をすべらかし
あたらしい紺のペッティコートや
また春らしい水いろの上着
プラットフォームの陸橋の段のところでは
赤縞のずぼんをはいた老楽長が
そらこんな工合だといふふうに
楽譜を読んできかせてゐるし
山脉はけむりになってほのかにながれ
鳥は燕麦のたねのやうに
いくかたまりもいくかたまりも過ぎ
青い蛇はきれいなはねをひろげて
そらのひかりをとんで行く
ワルツ第CZ号の列車は
まだ向ふのぷりぷり顫ふ地平線に
その白いかたちを見せてゐない

 

一八四
   「春」変奏曲
               一九二四、八、二二、
いろいろな花の爵やカップ、
それが厳めしい蓋を開けて、
青や黄いろの花粉を噴くと、
そのあるものは
片っぱしから沼に落ちて
渦になったり条になったり
ぎらぎら緑の葉をつき出した水ぎぼうしの株を
あっちへこっちへ避けてしづかに滑ってゐる
ところがプラットフォームにならんだむすめ
そのうちひとりがいつまでたっても笑ひをやめず
みんなが肩やせなかを叩き
いろいろしてももうどうしても笑ひやめず


 「口語詩稿」に分類されている「〔四信五行に身をまもり〕」は、冒頭部分を欠いた断片で、下記が全集に掲載されている最終形テキストです。

〔冒頭原稿なし〕
四信五行に身をまもり
次なるぼく輩百姓技師は
すでに烈しくやられて居り
最后の女先生は
ショールをもって濾してゐる
さても向ふの電車のみちや
部落のひばのしげりのなかに
黄の灯がついて
南の黒い地平線から
巨きな雲がじつに旺んに奔騰するといふ景況である


3年ぶりの花巻の秋

 2020年、2021年と新型コロナ流行のため、例年9月22日~23日に行われる賢治学会の定期大会は中止(一部は書面またはオンライン開催)になっていたのですが、今年は3年ぶりに開かれることになり、積もる思いを込めて参加してきました。

 9月21日午後の賢治祭には残念ながら都合で出られず、また事故で新幹線も遅れたりしたので、21日の夜遅くに新花巻駅に着きました。

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