1922年~1923年頃に書かれたと推測される童話「よだかの星」において、醜いよだかは、美しいかわせみやはちすずめの「兄」として、位置づけられています。
ところが夜だかは、ほんたうは鷹の兄弟でも親類でもありませんでした。かへって、よだかは、あの美しいかはせみや、鳥の中の宝石のやうな蜂すゞめの兄さんでした。
そしてよだかは、名前を変えないとつかみ殺すと鷹に脅されて、「遠くの遠くの空の向ふに行ってしまはう」と決心した時、弟のかわせみのところに別れの挨拶に行きます。
よだかはまっすぐに、弟の川せみの所へ飛んで行きました。きれいな川せみも、丁度起きて遠くの山火事を見ていた所でした。そしてよだかの降りて来たのを見て云ひました。
「兄さん。今晩は。何か急のご用ですか。」
「いゝや、僕は今度遠い所へ行くからね、その前一寸お前に遭ひに来たよ。」
「兄さん。行っちゃいけませんよ。蜂雀もあんな遠くにゐるんですし、僕ひとりぼっちになってしまふぢゃありませんか。」
「それはね。どうも仕方ないのだ。もう今日は何も云はないで呉れ。そしてお前もね、どうしてもとらなければならない時のほかはいたづらにお魚を取ったりしないやうにして呉れ。ね、さよなら。」
「兄さん。どうしたんです。まあもう一寸お待ちなさい。」
「いや、いつまで居てもおんなじだ。はちすゞめへ、あとでよろしく云ってやって呉れ。さよなら。もうあはないよ。さよなら。」
よたかは泣きながら自分のお家へ帰って参りました。みぢかい夏の夜はもうあけかかってゐました。
宮沢賢治は、自らの詩の創作スタイルに合わせた専用の「詩稿用紙」を使って、推敲の作業を行っていました。A4版より少し小さい厚手の紙に、余白を広めにとって、細めの縦の罫を22行~26行印刷したものです。この用紙を使えば、テクストの周囲に厖大な推敲字句を記入でき、保管しておいて後日また取り出しさらなる推敲を加えるという、彼特有の詩作作業を行う上で、とても都合が良かったのです。
この詩稿用紙にはいくつかの種類があって、赤色の罫線が印刷された「赤罫詩稿用紙」が一種、謄写版で自作した「黄罫詩稿用紙」が計八種、そして没年に作成した赤罫の「定稿用紙」一種が、存在しています。(「賢治が用いた「詩稿用紙」について」参照)
それぞれの用紙の呼称は、賢治自身が付けたものではなく、後年に研究者が分類して名づけたものですが、「赤罫」「黄罫」という即物的な名称に対して、最後の「定稿用紙」だけは、この用紙の使用目的を名前にしているところが、一つだけ異質です。
とは言っても、上記の「使用目的」も、作者自身がそう言っているわけではありません。賢治が「定稿」という言葉を使用しているのは、「文語詩稿 五十篇」および「文語詩稿 一百篇」の原稿を挟んでいた厚手和紙表紙に記されていた、次の文言においてのみです。(強調は引用者)
賢治は、1924年(大正13年)の夏に、「銀河鉄道の夜」を着想したと考えられています。
《着想は一九二四年の夏で、着手はその秋》というあたりが、おそらく正しい答ではないだろうか。
(入沢康夫『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』p.101)
その着想の夏の7月5日付けで、彼は「〔温く含んだ南の風が〕」「〔この森を通りぬければ〕」という二作品を書いているのですが、前者で賢治は銀河の「爆発」や「流転」などの動きに引き込まれそうになり、後者では銀河の下で死んだ妹の声を聞いています。どちらの作品にも、彼が「銀河鉄道の夜」を構想したプロセスを、垣間見せてくれるような体験が描かれているのです。
この7月5日の夜、賢治はいったいどんな状況で銀河を見ていたのだろうと興味を引かれますが、実はこの時、賢治は一人で作品構想に集中していたわけではなくて、農学校の寄宿生たちを連れて、実習田の水路の見回りをしていたのです。
森荘已池『宮沢賢治の肖像』に収められた、当時の教職員の座談会で、元同僚の堀籠文之進は、森に対して次のように述べています。
明治期の官立旧制高等学校は、東京の第一高等学校から名古屋の第八高等学校に至る、名前に数字を冠したいわゆる「ナンバースクール」が、地域ごとに割拠している状態でした。
大正に入って、第一次大戦後の好況からさらに広範な専門的人材の育成が求められるようになり、1918年(大正7年)に第二次高等学校令が公布されると、全国各地に高等学校を誘致する気運が高まっていきます。1919年に開校した新潟高等学校と松本高等学校を皮切りに、地名を冠した「ネームスクール」と呼ばれる高等学校が、毎年のように各県に誕生していきました。
高知県においても、高等学校誘致の声が高まり、県は1921年に高知市北郊外の江ノ口に2万坪の土地を買い上げ、これを高等学校建設予定地として文部省に寄附した結果、翌1922年に、高知高等学校設立が決定されます。
校長に内定したのは、文部省督学官の江部淳夫で、教頭格として設立準備にあたることになったのが、当時東京帝大の学生監という役職にあった、鈴木卓苗でした。
この鈴木卓苗とは、賢治の「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」に、「鈴木卓内先生」として登場する人物です。
〔前略〕
またその寛の名高い叔父
いま教授だか校長だかの
国士卓内先生も
この木を木だとおもったらうか
洋服を着ても和服を着ても
それが法衣に見えるといふ
鈴木卓内先生は
この木を木だとおもったらうか
……樹は天頂の巻雲を
悠々として通行する……
〔後略〕

銀河鉄道の夜
一、午后の授業
「ではみなさんは、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうな何かご承知ですか。」
先生は、黒板に吊した大きな黒い星図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のやうなところを指しながら、みんなに問をかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげやうとして、急いでそのまゝやめました。
〔中略〕
「このぼんやりと白い銀河を大きないゝ望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんさうでせう。」
ジョバンニはまっ赤になってうなづきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。
(「銀河鉄道の夜」第四次稿冒頭)
昨年放送されたテレビドラマ『僕達はまだその星の校則を知らない』でも、ヒロインの国語の先生が大の「宮沢賢治推し」で、職員室の机の上は賢治グッズでいっぱいでしたし、先日最終回を迎えたドラマ『銀河の一票』も、宮沢賢治の思想がさまざまな形で顔を出し、「農民芸術概論綱要」や「銀河鉄道の夜」に記されている言葉が、全篇を貫いていました。
なぜか最近また、宮沢賢治がちょっとした流行なんでしょうか?
入沢康夫さんは、『文學』1973年8月号-9月号に論文「詩集『春と修羅』の成立」を発表し、宮沢賢治の詩集『春と修羅』の「詩集印刷用原稿」上で複雑に錯綜して記入されている「数字記号」の意味を解読することによって、この詩集がどのような経緯をたどって成立したのかを、具体的に明らかにされました。
この成果は、『新校本宮澤賢治全集』第二巻校異篇の解説にも取り入れられ、そのpp.13-16において、下記のような「第一段階」から「第四段階」に至るプロセスとして、記載されています。
ちなみに、下記で黄色マーカーを付けてあるのが、入沢さんが分析の手がかりとされた数字記号の一部です。
第一段階
①詩集印刷用原稿の清書
②用紙下部に括弧つき番号を記入
(この段階で作品数62篇)
第二段階
①作品5篇「蠕虫舞手」「青い槍の葉」「報告」「原体剣舞連」「雲とはんのき」を新たに追加挿入
②巻末で「自由画検定委員」を削除、代りに「一本木野」「鎔岩流」を追加
③作品7篇「春光呪詛」「有明」「天然誘接」「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「風景とオルゴール」「風の偏倚」の全体または一部を書き直して差し替え
④括弧つき番号の第一次修正
⑤詩集印刷用原稿が印刷所に渡され、印刷所が上部の紙番号・圏点・活字指定等を朱筆で記入
(この段階で作品数68篇)
第三段階
①「小岩井農場」で4箇所の原稿修正
②作品4篇「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「春と修羅」「風景」の全体または一部を書き直して差し替え
③作品2篇「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河鉄道」を巻末に追加
④墨による手入れにてノンブルのずれを調整
⑤「オホーツク挽歌」の差替稿以下で括弧番号の修正を再修正
(この段階で作品数70篇)
第四段階
①青色クレヨンの番号記入(目次原稿はこの時期に書かれたと推定)
②印刷所が草色絵具番号を記入
③巻末の原稿3枚(「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河鉄道」が含まれていたと推定)を2枚の新稿と差し替え
④橙色クレヨンの番号記入
⑤「途上二篇」を削除し、「原体剣舞連」冒頭を書き直して差し替え
⑥印刷が大部分進行した段階で正誤表原稿執筆
(この段階で作品数69篇)
(『新校本宮澤賢治全集』第二巻校異篇pp.13-17より, 一部簡略化)
「寓話 洞熊学校を卒業した三人」で、三人の生徒を教える先生の「洞熊」というのは、どんな動物なのでしょうか。
「動物図鑑・動物の名前一覧」を見ても、「動物の名前一覧・GitHub」を見ても、「洞熊(ホラクマ)」という名前はなく、これは現代の日本で一般的に用いられている動物名ではないようです。また、賢治の作品に関してこういう場合にいつも強い味方になってくれる『定本 宮澤賢治語彙辞典』にも、この名前は載っていません。
そこで、賢治の時代に「洞熊」が何を指していたのか調べるために、例によって国会図書館デジタルコレクションで、この語を検索してみました。
すると、洞熊というのは、氷河時代に棲息していた大型の熊で、すでに絶滅した動物であることがわかりました。
たとえば、1895年(明治28年)刊行の『化石学教科書』では、化石で発見されるクマ科の動物について、下のように説明されています。(太字は引用者)
●熊科 Ursidæ 本科ノ動物ハ肉食スルノミナラズ傍ラ又木實、樹根、蜂蜜等ヲモ啖フ而テ其特徴トスル所ハ其大臼齒大ニシテ四角形ヲナシ多峰ヲ具フルト食肉齒ノ發達他ノ食肉類ノ如ク完全ナラザルトニアリ〇熊 Ursus 歐洲及印度ノ鮮新ニ現ハレ洪積ニ多ク今モ尚ホ生存ス而テ洞熊 Ursus spelaus(cave-bear)ト稱スル一種ハ歐洲洪積ニ普ク見ル所ノモノニシテ其大ナルコト現世ノ白熊 Ice-bear(U. maritimus)ニ勝レリ〔後略〕
(横山又三郎著『化石学教科書』中巻p.664)
賢治の最初期の童話「蜘蛛となめくぢと狸」の中に、次のような箇所があります。
谷内六郎 画「洞熊学校を卒業した三人」
(福音館書店『どんぐりと山ねこ』より)
蜘蛛はそして葉のかげに戻って、六つの眼をギラギラ光らせながらじっと網をみつめて居りました。
「ここはどこでござりまするな。」と云ひながらめくらのかげろふが杖をついてやって参りました。
「ここは宿屋ですよ。」と蜘蛛が六つの眼を別々にパチパチさせながら云ひました。
かげろふはやれやれといふやうに、巣へ腰をかけました。蜘蛛は走って出ました。そして
「さあ、お茶をおあがりなさい。」と云ひながらいきなりかげろふの胴中に噛みつきました。
かげろふはお茶をとらうとして出した手を空にあげて、バタバタもがきながら、
「あはれやむすめ、父親が、
旅で果てたと聞いたなら」と哀れな声で歌ひ出しました。
「えい。やかましい。じたばたするな。」と蜘蛛が云ひました。するとかげろふは手を合せて
「お慈悲でございます。遺言のあひだ、ほんのしばらくお待ちなされて下されませ。」とねがひました。
蜘蛛もすこし哀れになって
「よし早くやれ。」といってかげろふの足をつかんで待ってゐました。かげろふはほんたうにあはれな細い声ではじめから歌ひ直しました。
「あはれやむすめちゝおやが、
旅ではてたと聞いたなら、
ちさいあの手に白手甲、
いとし巡礼の雨とかぜ。
もうしご冥加ご報謝と、
かどなみなみに立つとても、
非道の蜘蛛の網ざしき、
さわるまいぞや。よるまいぞ。」
「小しゃくなことを。」蜘蛛はたゞ一息に、かげろふを食ひ殺してしまひました。そしてしばらくそらを向いて、腹をこすってからちょっと眼をぱちぱちさせて「小しゃくなことを言ふまいぞ。」とふざけたやうに歌ひながら又糸をはきました。
最近ちょっと「宮沢賢治の想像力」について考えてみているのですが、とにかく賢治という人は、いろいろな意味で想像力が豊かだったことには、間違いありません。
その賢治のいろいろな想像力のなかでも、私にとってとりわけ印象的なのは、ある状態から遠く離れた別の状態へと、一気に爆発的な跳躍をしてしまうような、物語の展開です。
このような「爆発的に跳躍する想像力」のことを、ここでは「ワープ的想像力」と名づけてみます。「ワープ」とは、SF物語などで仮想されている、光よりも速いスピードで遠く離れた場所に一気に移動する航法のことで、「空間の歪み」とか「負の質量」を用いるなどという理屈が付けられています。
宮沢賢治の物語には、時にこういう桁はずれの飛躍が現れて、驚くべき効果を発揮します。
『タネリとオホーツクの風 宮沢賢治『サガレンと八月』の続編』という本を読みました。
表紙はオホーツクの海のような深い青色で、美しい装幀です。