政次郎は理財家ではあるが、求道の人である。
(『新校本宮澤賢治全集』第16巻年譜篇p.16)
宮沢賢治の父政次郎が併せ持っていた、「経済人」としての側面と、「宗教人」としての側面について、『新校本全集』年譜篇は、上のように記しています。
計算高い商売人であることと、敬虔な信仰者であることは、普通に考えると正反対の人間的性質のように思われますので、上の表現でもこの二つの側面は、「~ではあるが」という、「逆接」によって結ばれています。
また政次郎自身も、「自分は仏教を知らなかったら三井、三菱くらいの財産は作れただろう」と言っていたということですが(『新校本全集』年譜篇p.15)、これもやはり、宗教と商売は相反する方角を向いた営みであり、なかなか両立しにくいものだという考えに立った言葉でしょう。
しかし、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、元来プロテスタントの倫理は厳しい禁欲を説き、金儲けや利潤追求などは敵視していたはずなのに、実際には近代資本主義を生み出す母胎になったという、大いなる逆説が、現に起こったというのです。
すなわち、18~19世紀のヨーロッパやアメリカでは、宗教性と経済性は対立するどころか、実は前者が後者を強力に推進していた歴史があったのです。
……となると、ひょっとしたら宮沢政次郎の内面においても、信仰者であることと商売人であることは、矛盾し対立することではなく、何らかの相補的な役割を果たしていたのではないか?とふと思ったのが、本日の記事のきっかけです。
私は2年前に「われらともに歌ひて泯びなんを」という記事で、「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」という文語スケッチを読んでみようとしたのですが、そこに賢治が自らの「病気」に関して記している、非常に深いルサンチマンのような感情には、驚きを禁じ得ませんでした。未来においては何かを「償え」と求めてはいるものの、現世にはもう全く絶望しており、あとはただ同じ苦しみを共有する仲間と「ともに歌ひて泯びなん」ことのみを、賢治は願っているかのようでした。
この救いのなさは、いったい何なのだろうかと思いました。
そこで考えてみると、自らの病気に対するこの根深い感情は、1931年9月に賢治が東京で高熱を出して倒れた際に、生命の危険を冒してまでも、なかなか家にも知らせず帰ろうともしなかったのは何故なのか、という謎にも関わっているように思えました。
それで上の記事の少し後に、「八幡館の八日間(2)」という記事を書きました。
二つの問題を並べてみると、両者に通底する賢治の感情を理解するためには、賢治は結核という病気のために、周囲から陰に陽に侮蔑や差別を受けて、とても深く傷ついていたのだと考えざるを得ないように思われました。またその傷つきは、実際いくつかの作品にも表れていると感じられましたので、それを「病気への侮蔑と差別の中で」という記事に書きました。
ところで前述のように、賢治はこのように傷つきながらも、「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」では、同じ傷を持つ「仲間」に対して「ともに歌ひて泯びなん」として、「連帯」を呼びかけていたのでした。
このような意味で、「弱者への共感と連帯」を表明する作品が、賢治晩年の文語詩の中にはそれなりに含まれていると思われましたので、その様子を概観しようとしたのが、「弱き者との連帯の歌」という記事でした。
さらに、そのような作品の具体例として、「毘沙門の堂は古びて」や「病める女性とともに(1)」という記事も書きました。
本日の記事は、このような流れに続くものです。
劇団民藝による、宮沢賢治を題材とした舞台「風紋─この身はやがて風になりても─」の公演を、見に行ってきました。紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYAにて、2月6日~14日の間、上演されていました。

一〇五三
政治家
一九二七、五、三、
あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
羊歯の葉と雲
世界はそんなにつめたく暗い
けれどもまもなく
さういふやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであらう
「政治家」(詩ノート)
堕落した政治家が、「ひとりで腐って/ひとりで雨に流される」だろうというのは、政治の未来に対する、一種の楽観論です。現実には、99年後の今もそうはなっていませんが、当時の賢治にとっては、そんな期待を抱くような時代状況があったのかもしれません。
晩年の賢治は、結核という病に苦しむとともに、この病気に向けられる世間の差別や偏見にも、苦しめられていました(「病気への侮蔑と差別の中で」)。そして人々の心ない言動に傷つきながらも、自分と同じような境遇にある「身弱きもの・意久地なきもの・傷つけるもの」との連帯を歌ったのが、「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」だったのだろうと思います(「弱き者との連帯の歌」)。
賢治晩年の文語詩には、このような「弱き者」に思いを寄せ、自らの苦悩と重ね合わせるかのような作品が一定数含まれていますが、今日と次回はそれらの中で、「戯れ女」と呼ばれる職業でありつつ、その上さらに胸を病んでいるという、二重の差別を受ける立場の女性を描いた作品を、見てみます。
その一つは、文語詩未定稿の「八戸」です。
八戸
さやかなる夏の衣して
ひとびとは汽車を待てども
疾みはてしわれはさびしく
琥珀もて客を待つめり
この駅はきりぎしにして
玻璃の窓海景を盛り
幾条の遥けき青や
岬にはあがる白波
南なるかの野の町に
歌ひめとなるならはしの
かゞやける唇や頬
われとても昨日はありにき
かのひとになべてを捧げ
かゞやかに四年を経しに
わが胸はにわかに重く
病葉と髪は散りにき
モートルの爆音高く
窓過ぐる黒き船あり
ひらめきて鴎はとび交ひ
岩波はまたしもあがる
そのかみもうなゐなりし日
こゝにして琥珀うりしを
あゝいまはうなゐとなりて
かのひとに行かんすべなし
今年は宮沢賢治生誕130周年ということで、お正月にその記念イベントをご紹介する記事を掲載しましたが、その後これら以外にも、賢治生誕130周年を期した催しのお知らせをいただきました。
この2月6日~14日に、紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYAで行われる、劇団民藝の公演「風紋─この身はやがて風になりても」です。

劇団民藝公演「風紋─好みはやがて風になりても―」ちらし
前回の記事で、「弱き者との連帯の歌」の例として挙げた文語詩の一つに、「〔毘沙門の堂は古びて〕」がありました。
毘沙門の堂は古びて、 梨白く花咲きちれば、
胸疾みてつかさをやめし、 堂守の眼やさしき。
中ぞらにうかべる雲の、 蓋やまた椀のさまなる、
川水はすべりてくらく、 草火のみほのに燃えたれ。
岩手県北上地方には、奥州市の「藤里毘沙門堂」や、北上市の「立花毘沙門堂」など、立派な毘沙門天を祀ったお堂がいくつもありますが、この作品で描かれているのは、下書稿(一)に「川は十里をすべりて暗し」とあることからしても、猿ヶ石川沿いにある「成島毘沙門堂」と考えられます(信時哲郎『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』p.307参照)。

成島毘沙門堂(2015年9月撮影)
先月の「病気への侮蔑と差別の中で」という記事では、宮沢賢治が晩年に結核を発症したことで、周囲からさまざまな嘲りや辱めを受けていた様子を、作品を通して見てみました。
その時取り上げた「〔打身の床をいできたり〕」の下書稿(一')や「〔まぶしくやつれて〕」等以外では、例えば「病技師〔二〕」も、病人である自分が周囲からどのように見られているのかということを、テーマとした作品です。
病技師〔二〕
あえぎてくれば丘のひら、 地平をのぞむ天気輪、
白き手巾を草にして、 をとめらみたりまどゐしき。
大寺のみちをこととへど、 いらへず肩をすくむるは、
はやくも死相われにありやと、 粛涼をちの雲を見ぬ。

相の沢牧野(滝沢市)
あけましておめでとうございます。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。
今年2026年は、1896年(明治29年)生まれの宮沢賢治の、「生誕130周年」にあたるということで、これを記念していくつかの催しが行われます。
一つは、花巻市や宮沢賢治学会イーハトーブセンターが中心となって開催する、「宮沢賢治生誕130年記念 第5回宮沢賢治国際研究大会」です。この国際研究大会は、1996年の賢治生誕100年に第1回が開催され、以後だいたい10年ごとに行われているものです。世界各国から宮沢賢治の研究者が集う、まるで「ビジテリアン大祭」のようなイベントです。
まだ詳細は未定のようですが、決まり次第このサイトでもお知らせいたします。
- 宮沢賢治生誕130年記念 第5回宮沢賢治国際研究大会
- 期日:2026年11月1日(日)~3日(祝)
- 場所:花巻市
- 主催:同実行委員会(花巻市・宮沢賢治学会イーハトーブセンター等)
1950年まで日本人の死因の第1位は結核でしたが、その後患者数は大きく減少し、その昔この病に深刻な差別や偏見が向けられていたことは、最近はあまり意識されていません。しかし戦前の日本において結核は、死の病として忌み嫌われるものでした。
作家・精神科医のなだいなだ氏は、自らの子供の頃の状況について、次のように書いています。
結核患者の出た家の前を、鼻をつまんで走って通ったことを覚えています。その家の前の空気を吸うと結核がうつるといわれ、本人どころか、家族にも近づこうとしませんでした。もちろん、家族に結核患者がいるという理由で、結婚を取り消されるような場合もありました。親は公然と「あそこの子供とは遊ぶな、あそこの家の兄さんは肺病だからな」と言っていたくらいです。
(なだいなだ「偏見と差別について」1985)
なだいなだ氏は1929年生まれですから、その子供時代は宮沢賢治の晩年と重なる1930年代です。氏は生まれも育ちも東京で、因習の支配するような僻地の話ではありません。
花巻の宮沢家では、妹トシと賢治が結核で亡くなり、母イチも結核に罹患していたということですが、実際に周囲からはどのように見られていたのでしょうか。上のような当時の結核のイメージからすると、発病後の賢治のことも気になります。