3年ぶりの花巻の秋

 2020年、2021年と新型コロナ流行のため、例年9月22日~23日に行われる賢治学会の定期大会は中止(一部は書面またはオンライン開催)になっていたのですが、今年は3年ぶりに開かれることになり、積もる思いを込めて参加してきました。

 9月21日午後の賢治祭には残念ながら都合で出られず、また事故で新幹線も遅れたりしたので、21日の夜遅くに新花巻駅に着きました。

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薩摩琵琶の残響

 「春と修羅 第二集」所収の「〔北上川は熒気をながしィ〕」は、歌うような駆け合いが楽しい一篇です。今回も下の「色分け」ボタンを押すと、賢治と思しき発言は青色で、トシと思しき発言は赤色で、弟清六と思しき発言は緑色で、色分けして表示されるようにしてみました。

一五八
         一九二四、七、一五、

(北上川は熒気をながしィ
 山はまひるの思睡を翳す)

   南の松の林から
   なにかかすかな黄いろのけむり
(こっちのみちがいゝぢゃあないの)
(おかしな鳥があすこに居る!)
(どれだい)

〔中略〕

(……ではこんなのはどうだらう
 あたいの兄貴はやくざもの と)

(それなによ)
(まあ待って
 あたいの兄貴はやくざものと
 あしが弱くてあるきもできずと
 口をひらいて飛ぶのが手柄
 名前を夜鷹と申します)

(おもしろいわ それなによ)
(まあ待って
 それにおととも卑怯もの
 花をまはってミーミー鳴いて
 蜜を吸ふのが……えゝと、蜜を吸ふのが……)

(得意です?)
(いや)
(何より自慢?)
(いや、えゝと
 蜜を吸ふのが日永の仕事
 蜂の雀と申します)


詩碑の写真を二つ

 先月に神奈川県に行って来た際に、従来から石碑」のページに掲載していた鎌倉市の光則寺の「雨ニモマケズ」詩碑平塚市文化公園の「農民芸術概論綱要」碑の写真も撮り直してきたので、差し替えました。

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 どちらも、前回の訪問から20年も経っているので、懐かしさもある一方で周囲の印象はかなり変わっていました。


「誓願」と「授記」の物語

 「銀河鉄道の夜」の「初期形一」から「初期形三」までの物語のラストは、次のように終わっていました。

「博士ありがたう、おっかさん。すぐ乳をもって行きますよ。」
ジョバンニは叫んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸に集って何とも云へずかなしいやうな新らしいやうな気がするのでした。
 琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。

 この部分は、最終の「第四次稿」になるとなくなってしまうのですが、しかし私は三次稿までの、「何とも云へずかなしいやうな新らしいやうな気がする」という表現が、何とも心に沁みて仕方ありません。


乙未戦争の砲兵

 「口語詩稿」に収められている「会見」という詩は、賢治が教え子?の父親と会った際の状況を、少し自嘲も交えつつ、「無言の対話」で描いたものです。
 対話をわかりやすくするための趣向として、下の「色分け」というボタンを押していただくと、テキスト中で賢治が考えている部分を赤色で、父親が考えている部分を青色で、色分けして表示します。「戻す」ボタンを押すと、黒字に戻ります。

  会見

(この逞ましい頬骨は
 やっぱり昔の野武士の子孫
 大きな自作の百姓だ)

(息子がいつでも云ってゐる
 技師といふのはこの男か
 も少しからだも強靱くって
 何でもやるかと思ってゐたが
 これではとても百姓なんて
 ひどい仕事ができさうもない
 だまって町で月給とってゐればいゝんだが)

(お互じっと眼を見合せて立ってゐれば
 だんだん向ふが人の分子を喪くしてくる
 鹿か何かのトーテムのやうな感じもすれば
 山伏上りの天狗のやうなところもある)

(みんなで米だの味噌だのもって
 寒沢川につれて行き
 夜は河原へ火をたいてとまり
 みづをたくさん土産にしょはせ帰さうと
 とてもそいつもできさうない)

(向ふの眼がわらってゐる
 昔 砲兵にとられたころの
 渋いわらひの一きれだ)

(味噌汁を食へ味噌汁を食へ
 台湾では黄いろな川をわたったり
 気候が蒸れたりしたときは
 どんな手数をこらへても
 兵站部では味噌のお汁を食はせたもんだ)

(たうとう眼をそらしたな
 平の清盛のやうにりんと立って
 じっと南の地平の方をながめてゐる)

(ぜんたいいまの村なんて
 借りられるだけ借りつくし
 負担は年々増すばかり
 二割やそこらの増収などで
 誰もどうにもなるもんでない
 無理をしたって却ってみんなだめなもんだ)

(眼がさびしく愁へてゐる
 なにもかもわかりきって、
 そんなにさびしがられると
 こっちもたゞもう青ぐらいばかり
 じつにわれわれは
 遠征につかれ切った二人の兵士のやうに
 だまって雲とりんごの花をながめるのだ)


 『校本宮澤賢治全集』よりも前の全集には、「そのまっくらな巨きなものを」という書き出しが印象的な、次のような詩が収録されていました。

そのまっくらな巨きなものを
おれはどうにも動かせない
結局おれではだめなのかなあ
みんなはもう飯もすんだのか
改めてまたどらをうったり手を叩いたり
林いっぱい大へんにぎやかになった
向ふはさっき
みんなといっしょに入った鳥居
しだれのやなぎや桜や水
鳥居は明るいま夏の野原にひらいてゐる
あゝ杉を出て社殿をのぼり
絵馬や格子に囲まれた
うすくらがりの板の上に
からだを投げておれは泣きたい
けれどもおれはそれをしてはならない
無畏 無畏
断じて進め

 『校本全集』以降、このタイトルが姿を消してしまった理由について、天沢退二郎さんは次のように書いておられます。


 3年ほど前に「存在否定から全称肯定へ」という記事を書いて、賢治がその生涯の危機を克服した道筋や、彼のいくつかの童話や、大乗仏教の成立のプロセスに、同型の論理パターンがあるのではないかと考えてみました。
 この記事を書いた時点では、賢治がこのような特有のパターンの存在について、自ら意識していたのかどうかはよくわかりませんでしたが、その後気がついてみると、賢治の若い頃の書簡にこれと同じような論理を記している箇所がありましたので、ここに書きとめておきます。