書簡252c下書(十六)の思想

 新校本全集で、賢治の「書簡252c」として分類されているのは、1929年(昭和4年)頃の、小笠原(高瀬)露あての手紙の下書きと推測されている断片です。この手紙には、その下書きと思われる断片が実に16種も残されていて、賢治がいかに慎重にこれを書こうとしていたかがうかがい知れるとともに、羅須地人協会の活動も終了して病臥している頃の、賢治の晩年の思想の一端が表明されているようで、とても興味深い言葉が垣間見えます。

 たとえば、その「下書(四)」には、次のような有名な一節があります。

たゞひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあってあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学とのいづれによって行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなわち宇宙には実に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷悟をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめやうとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。

 これは、晩年の賢治の仏教理解を知る上で貴重な記述と思いますし、「銀河鉄道の夜」などに繰り返し出てくる「ほんたうの幸福」という概念を解釈する上でも、重要なものでしょう。
 ただ今回ここで取り上げてみたいのは、「下書(十六)」の方です。


 明後日6月5日午後3時半から、「宮沢賢治研究会」の例会で、発表をさせていただきます。
 当世流に Zoom によるウェブ開催で、「宮沢賢治研究会」の会員の方は、web「例会」申込み専用フォームから申し込めば、視聴できるということです。

 発表要旨は、下記です。

「〈みちづれ〉希求」の挫折と昇華
    ―詩集『春と修羅』を貫く主題―

 さすがに近年は、賢治とトシの関係を「禁断の近親性愛」などと本気で煽る人は見なくなったが、しかし保阪嘉内や堀籠文之進への感情については、「同性愛」と論ずる説がいまだに跡を絶たない。
 確かに、これらの人々に対する賢治の思いは、非常に切実なものであった。しかし、この感情に「性愛」的な要素が含まれていた証拠は、作品にも伝記的事項にも、何一つ認められないのである。探しても見つからないものを前提とする仮説は、あまり筋が良いとは言えないが、それでも性愛説を主張する人が絶えないのは、いったい何故なのだろう。人間にこれほど強い対人感情を引き起こすのは、どうせ肉欲くらいしかない、という決めつけなのか?
 それはさておき、今回の発表では、なるべく作品テキストや伝記的事実を論拠としつつ、賢治独特のこの感情について、あらためて検討してみたい。演者の考えでは、これは詩集『春と修羅』の中心を貫く重要なモチーフであり、賢治がこの集の創作と推敲の二年間をかけて、思想的な超克を強いられた課題でもあった。この格闘を通して彼は、「個別性から普遍性へ」、「主観性から客観性へ」とも言うべき、人間観および世界観の大きな転換を成し遂げたのである。

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 会員の方とは、当日 Zoom にてお会いできましたら幸いです。


狐の笑みと彼岸的救済

 「よだかの星」のよだかの最期の表情と、「土神ときつね」の狐の最期の表情は、何となく似ているように思います。

ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。(「よだかの星」)

そのなみだは雨のやうに狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったやうになって死んで居たのです。(「土神ときつね」)

 よだかはくちばしを曲げて、狐は首を曲げて、そしてよだかは「少しわらって居り」、狐は「笑ったやうになって」いたのです。

 二つのお話に共通する、この死に顔の「笑み」の意味は、いったい何なのでしょうか。


 「〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕」に、次のような箇所があります。

五時の汽車なら丁度いゝ。
学校へ寄って着物を着かへる。
堀篭さんも奥寺さんもまだ教員室に居る。
錫紙のチョコレートをもち出す。
けれどもみんながたべるだらうか。
それはたべるだらう、そんなときなら
私だって愉快で笑はないではゐられないし
それにチョコレートはきちんと、
新らしい錫紙で包んであるから安心だ。
しかしその五時の汽車は滝沢へよらない。
滝沢には一時にしか汽車がない、
もう帰らうか。こゝからすっと帰って
多分は三時頃盛岡へ着いて
待合室でさっきの本を読む。
いゝや、つまらない。やっぱりおれには
こんな広い処よりだめなんだ。
野原のほかでは私はいつもはゞけてゐる
やっぱり柳沢へ出やう

 ここで、下から2行目にある「はゞけてゐる」というのは、いったいどういう意味なのでしょうか。


CD『宮沢賢治ソングブック』

 仙台の佐々木孝夫さんから、新作のCD『宮沢賢治ソングブック Musical Sketch Modified ~ポランの広場~』をご恵贈いただきました。佐々木さん、どうもありがとうございました。

宮沢賢治ソングブック Musical Sketch Modified ~ポランの広場~ 宮沢賢治ソングブック Musical Sketch Modified ~ポランの広場
ちぢれ羊≒井上英司(演奏 編曲), MIKA(Vocal), ほか
Paradise Valley Private Record (2021/03)

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 これまで佐々木孝夫さんは、賢治が聴いていたと推定されるSPレコードを複刻したCDを、5集にわたって制作してこられましたが、今回のCDは、賢治の劇「ポランの広場」で使用されている様々な楽曲や、賢治が唄っていた歌曲を、宮城県在住のミュージシャンの方々が演奏したものです。
 楽しい歌声や演奏によって、劇「ポランの広場」の会場の熱気や、農学校の生徒たちと生き生き過ごす賢治の様子が、甦ってくるようです。


「月天子」の一元論

 先週の「アニミズムの系譜」という記事では、「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」における賢治の「月」のとらえ方が、「万物に心霊が宿る」というアニミズム的な感性の表れと考えられることについて述べました。
 同じような「月」の感じ方は、この詩を発展させたとも言える、「月天子」という晩年の詩にも表れています。(下写真は『新校本全集』第十三巻上の「雨ニモマケズ手帳」より)

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アニミズムの系譜

 去年出た『現代思想』の「汎心論」という特集には、次のような謳い文句が掲げられています。

万物に心は宿るのか――現代哲学の最新問題を追う

現在、「汎心論」つまり「生命のあるなしに関係なく、
万物は心あるいは心に似た性質をもつ」という思想が復興しつつある。
しかしそれは科学的世界像に背を向けるのではなく、
いっそう合理的・科学的な自然主義の立場を求めるところに成立する、
まさに21世紀の心の哲学なのだ。

現代思想 2020年6月号 特集=汎心論 ―21世紀の心の哲学 現代思想 2020年6月号 特集=汎心論 ―21世紀の心の哲学
永井均 (著), 高村夏輝 (著), 鈴木貴之 (著)

青土社 (2020/5/28)

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 「万物に心が宿る」という考え方は、一種の「アニミズム」にも通ずるもので、このような古代的?な物の見方が現代最先端の哲学の潮流となっているというのは、何となく不思議で面白いですね。現代の汎心論の代表的論客であるチャーマーズという哲学者などは、「サーモスタットにはサーモスタットなりの意識がある」などという議論もしており(『意識する心』p.360-365)、これだけ聞くとまるで「トイ・ストーリー」のような感じがしてきます。

 そしてこれは、宮澤賢治が様々な作品に表現していた感覚にも、深く通ずるものです。


 「農民芸術概論綱要」の中の「農民芸術の本質」の項目には、次のように書かれています。

農民芸術の本質

……何がわれらの芸術の心臓をなすものであるか……

もとより農民芸術も美を本質とするであらう
われらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する
「美」の語さへ滅するまでに それは果なく拡がるであらう
岐路と邪路とをわれらは警めねばならぬ
農民芸術とは宇宙感情の 地人 個性と通ずる具体的なる表現である
そは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする
そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし
巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へる
そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとする
かくてわれらの芸術は新興文化の基礎である

 上記の、「そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし」という部分は、まさに賢治自身の詩にぴったりの表現だと思うのです。