「雁の童子」というお話は、「父と子の別離」という問題を、大きなテーマとしているように思われます。
 物語の終盤で、童子とその養父である須利耶圭は、発掘された遺跡に向かいながら、次のような会話をかわします。

 須利耶さまが歩きながら、何気なく云はれますには、
(どうだ、今日の空の碧いことは、お前がたの年は、丁度今あのそらへ飛びあがらうとして羽をばたばた云はせてゐるやうなものだ。)
童子が大へんに沈んで答へられました。
(お父さん、私はお父さんとはなれてどこへも行きたくありません。)
須利耶さまはお笑ひになりました。
(勿論だ。この人の大きな旅では、自分だけひとり遠い光の空へ飛び去ることはいけないのだ。)
(いゝえ、お父さん。私はどこへも行きたくありません。そして誰もどこへも行かないでいいのでせうか。)とかう云ふ不思議なお尋ねでございます。
(誰もどこへも行かないでいゝかってどう云ふことだ。)
(誰もね、ひとりで離れてどこへも行かないでいゝのでせうか。)
(うん。それは行かないでいゝだらう。)と須利耶さまは何の気もなくぼんやりと斯うお答へでした。


 先日花巻で行われた「宮沢賢治研究発表会」において、鈴木健司さんが「「雁の童子」論 ─ミーラン第3、5寺壁画と絡めて─」という発表をされました。この中で鈴木さんは、「雁の童子」の終わり近くで、童子が須利耶圭に対して言う「私はあなたの子です」との言葉について、

① 雁の童子は前々世において、絵師であった須利耶圭の実の子だと言った

② 雁の童子は現世における育ての親である須利耶圭に対し、あなたの子と言った

という、二種類の解釈の可能性を指摘されました。
 ①であれば、現世で雁の童子の養父である須利耶圭は、過去世においては実父だったということになるのに対して、②であれば、童子は須利耶圭が現世で養父であるということを、あらためて言ったにすぎない、ということになります。
 今日はこの問題について、考えてみたいと思います。

 ところでその考察のためには、この物語の中で雁の童子や須利耶圭が輪廻転生を繰り返している経過がけっこう複雑そうですので、その過程の整理から行ってみます。


2024賢治学会関連行事

 今年も、9月21日の賢治祭に続いて、9月22日には宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式、賢治学会定期総会、宮沢賢治学会イーハトーブセンター功労賞贈呈式、参加者交流・懇親会、9月23日には研究発表会とエクスカーションという、一連の行事が行われました。

 私は、9月21日の夜遅くに花巻に着いて、22日、23日と参加してきました。

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 宮沢賢治の父政次郎は、若い頃から浄土真宗の篤信家で、自ら大量の仏教書を買い求めて読破するだけでなく、花巻仏教会の幹事役となって、夏期講習会には村上専精、近角常観、島地大等、暁烏敏など、当時の浄土真宗学僧の錚々たるメンバーを招聘し、人々とともに研鑽を深めていました。また、宮沢家の菩提寺である安浄寺(真宗大谷派)では、檀家総代も務めていました。
 このような父の薫陶のもと、賢治も幼い頃から浄土真宗の仏典に親しみ、物心つくと「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦して親戚を驚かせ、中学4年時に父にあてた手紙では、「小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候〔中略〕念仏も唱へ居り候。仏の御前には命をも落すべき準備充分に候」と、熱い信仰を吐露しています。

 ところが、この賢治が青年期になると、決然として浄土真宗と袂を分かち、法華経および日蓮を熱烈に尊崇するようになります。そして、父親と連夜の宗教論争を闘わせたのです。
 激論の様子は、『新校本全集』年譜篇では次のように記されています。


 前回は、宮沢賢治という人には二つの側面があったという観点から、下のような表を作ってみました。

特徴 象徴的作品
賢治A 謙虚・慎重
禁欲的
自己抑制的・自責的
内省的
献身的
優等生的
粗食
宗教への親和性
恋と病熱
春と修羅
竹と楢
〔雨ニモマケズ〕
グスコーブドリの伝記
賢治B ハイテンション
自由奔放・享楽的
お調子者・ひょうきん者
行動的
万能感
トリックスター的
美食
芸術への親和性
真空溶媒
東岩手火山
楢ノ木大学士の野宿
毒もみの好きな署長さん
〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕

 今回考えてみたいのは、賢治自身の中では、この〈賢治A〉と〈賢治B〉の関係は、どうなっていたのだろうかということです。


二人の賢治と父と祖父

 生前の賢治に関する様々な資料を読んでいて思うのは、宮沢賢治という人には、対照的な二つの側面があったようだということです。

 一つは、謙虚で、禁欲的で、自己抑制が強くて大人しい、優等生的な側面です。一般的に宮沢賢治というと、こういうイメージを抱いている方が多いのではないでしょうか。
 しかし賢治には、おもに親しい人に見せていた、もう一つの側面がありました。彼はある時は、ハイテンションなお調子者にになって、えらく大仰なことを言ったり、周囲を驚かすようなことを仕出かす、トリックスターのような人でもあったのです。

 たとえば次妹のシゲは、このような賢治の二つの側面について、次のように語っています。

 兄さんは九月東京から帰ってから十二月に花巻農学校に就職しましたが、先生としての仕事は、たやすいらしく、たのしそうにやっていました。としさんの病床のある部屋で、その日見聞きしたことを、おもしろおかしくして、みんなを笑わせました。おなかが痛くなるくらい笑わせられ、苦しくなって、「やめてやめて」と言わなければなりませんでした。
 こういうことは、お父さんが外出中のことで、お父さんが家にいると、兄さんは借りてきた猫のようでした。家の中を歩くのでも、お父さんのいる居間などは、少し半身にかまえて背をかがめて、少し手を前に出すような格好で歩いていました。

(森荘已池『宮沢賢治の肖像』p.227)

 ここで、この「借りてきた猫」のように大人しくかしこまっている方の賢治を〈賢治A〉、面白おかしい話をして家族を笑いの渦に巻き込む方の賢治を〈賢治B〉と呼ぶことにしてみます。


詩作品の外向性/内向性

 賢治は自らの詩を「心象スケッチ」と呼んで、自分の心において生起している現象(=心象)を、ありのままに描写(=スケッチ)することを、方法論としていました。

 その「心象」の内容は、自然の風景や生き物や他の人間など、作者の「外界」の出来事に由来している場合と、作者の感情や思考など、その「内界」の出来事に由来している場合がありえます。
 実際の作品においては、両者が多様な仕方で混在しているでしょうが、その割合は作品によってまちまちで、ほとんど外界の描写に徹している作品がある一方で、専ら自分の心の中の感情や思索を記述した作品もあります。

 さて今回は、個々の作品において、作者が上記のような意味で「外を向いているか/内を向いているか」という程度を、数値化することを試みてみました。
 先日は、詩の描写にどの程度の幻想性が含まれているかということを数値化して、「幻想性指数」というものを考えてみましたが、今回は、純粋に外的な現象を描写している場合を「1」、完全に作者の内的な心の状態を記述している場合を「-1」とする、「外向性指数」という数値を定義してみたわけです。

 その結果をグラフにたのが、下図です。(クリックすると別窓で拡大表示されます。)

『春と修羅』各作品の外向性指数

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