親鸞は『唯信鈔文意』において、生き物を殺すことを生業とする猟師と、物を売り買いして利益を得る商人のことを、当時は併せて「屠沽の下類」と呼び、往生が難しい衆生と見なされていたことを記しています。
屠はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれふしといふものなり。沽はよろづのものをうりかふものなり、これはあき人なり。これらを下類といふなり。(『唯信鈔文意』)
もちろん親鸞の真意は、職業によって人間に貴賤があるとか罪の軽重があるとかいうことではありません。上記の少し後には、「れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。」とあるのですが、当時の社会で下層に位置づけられていた猟師や商人であろうと、他の誰であろうと、われらすべての人間は、等しく石・瓦・礫のような「凡夫」にすぎず、しかしそれでも皆が阿弥陀を信じることにより救済されるのだ、ということを言っているのです。
ただそれでも、先日「親子の宗教意識」という記事でご紹介した栗原敦さんの論考にあったように、賢治の父の政次郎などは、現に貧しい人々から利益を得て生活していることで「日々裏切らざるをえなかった宗教的理念」を意識しつつ、さらにその職業は宗祖親鸞によって「屠沽の下類」と呼ばれていたとなれば、その負い目を信仰への邁進によって代償しようとしていたということは、十分にあったのだろうと思われます。
賢治は、そのような「商人」の子として生まれ、その家業に後ろめたさを感じつつ育ったわけですが、「屠沽の下類」のもう一方である「猟師」がいかにして救われうるのかということも、すべての人の幸福を願う彼にとっては、切実な課題だったのではないかと思われます。
そして彼が、この問題を一つの作品へと結晶化させたのが、「なめとこ山の熊」だったのだろうと思います。
去る1月9日に、岐阜県と愛知県の小学校にある「雨ニモマケズ」詩碑を見学してきました。
まず、岐阜県大垣市の牧田小学校にある「雨ニモマケズ」詩碑は、もう20年以上も前に訪れて、当サイトの「石碑」のページにも既に掲載しているものですが、当時のデジカメによる写真の画質があまり良くなかったので、愛知まで出かけるついでに再訪することにしました。
まず京都から米原まで新幹線で行き、そこから東海道線に乗り換えて、関ケ原駅で降りました。

2023年になりました。本年もどうかよろしくお願いします。
大晦日の「ゆく年くる年」を見ていると、この年越しは全国的に雪は比較的少なかったようですが、一昨日あたりから北日本ではかなりの積雪が続いているようですね。
雪かきや雪下ろしの際などは、どうか安全にお気を付け下さい。
ところで皆さんは、除雪に使う下の道具を、「スコップ」と呼ぶでしょうか? 「シャベル」と呼ぶでしょうか?
賢治の童話「注文の多い料理店」は、紳士が「イギリスの兵隊のかたち」をしていたり、「RESTAURANT WILDCAT HOUSE」が舞台だったりして、とてもハイカラな雰囲気があふれていますが、物語の骨格には日本の昔話の影響も色濃く感じられます。
欲深い人間が動物に騙されて酷い目に遭うというパターンは、民話の「狐に化かされる話」と同じですし、また最近目にした秋田県の民話「またぎの犬」は、物語の設定などにおいて、「注文の多い料理店」と共通する部分がいろいろあります。
ウェブサイト「民話の部屋」の「またぎの犬」のページによれば、そのあらすじは次のようなものです。
白い犬を連れた猟師が、深い山奥で日暮れを迎えた。ふと目についた家のきれいな娘が「どうぞ泊まって呉れ」と言うので、泊めてもらった。翌朝、その家の赤犬が猟師の白犬と喧嘩をして、白犬は殺されてしまった。
猟師は仕方なく家に帰り、代わりの猟犬を探していたが、むく犬に化ける和尚と出会って犬を殺された話をしたところ、それは化物に違いないということで、一緒に娘の家を訪ねることになった。
山奥の娘の家に着いて和尚が言うには、赤犬は狒々の化物で、娘は猫の化物だということだった。翌朝になると、やはり赤犬が和尚の化けたむく犬に襲いかかってきたので、むく犬は赤犬を噛み殺した。怒った娘は本性を現して大きな猫になり、むく犬の喉仏に喰いつこうとしたが、猟師は鉄砲で化け猫を撃ち殺した。
すると、家だと思っていたところには何もなくなり、ただ岩の洞だけがあった。(「またぎの犬」より)
そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあひだから、夕陽は赤くなゝめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のやうにゆれて光りました。わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行はれてゐた鹿踊りの、ほんたうの精神を語りました。
「鹿踊りのはじまり」のこの書き出しは、私が賢治の童話の中で最も好きなところの一つです。いきなり「そのとき……」という言葉で物語世界に連れ込まれると、私たちはもう北上の野原にいて、ぎらぎらの雲や赤い夕陽やすすきの白い火に、目が眩みそうになります。
今日は、この物語で明かされる「鹿踊りの、ほんたうの精神」について、少し思ったところを書いてみます。
このサイトにこれまで書いてきた記事には、その内容に関わるキーワードを、それぞれ「タグ」として付けています。(たとえばこの記事には、「タグ」というタグを付けています。)
最近使用した50個のタグは、従来からいわゆる「タグクラウド」として、右のサイドバーの下方に表示していますが、このたび過去に使用した全てのタグを掲載した「タグ一覧」というページを、作成してみました。
長い間にその都度いろいろなタグを適当に付けてきたので、現時点でその数は1,100以上にもなっており、あまりに繁雑な状況ですが、このページで気になったタグをクリックしていただくと、その言葉をキーワードとしている記事が表示されるようになっています。
来たる12月10日(土)に、奈良県大和郡山市の額安寺において、奈良テレビ放送の報道デスク・小池重二さんによる講演会「宮沢賢治と奈良」が行われます。(下記チラシ画像をクリックすると、別ウィンドウで拡大表示されます。)

本日オンラインで行われた「宮沢トシ没後百年」記念企画は、トシ研究の第一人者である山根知子さんと、トシの「自省録」を高く評価し近年その研究を深めておられる望月善次さんというお二人の講演およびシンポジウムが、3時間にわたって繰り広げられるという重厚な内容で、お二人のトシに対する熱い思いを堪能できました。
山根さんは、「戦争と女子教育」という視点から、第一次世界大戦の一コマについて述べた高等女学校時代のトシの文章や、大学時代に成瀬仁蔵の女子教育論に寄せた感想など、トシに関する最新の調査結果をご紹介して下さいました。
望月さんは、トシ没後100周年にあたる今年を記念して、「宮沢賢治いわて学センター」による今回の企画を実現させた原動力でいらっしゃいますが、トシの「自省録」の歴史的な意義を、多角的に解き明かして下さいました。「賢治の「雨ニモマケズ」が死後あれほど有名になったように、トシの「自省録」も今後必ずや世に広く知られるようになる」というお言葉には、ほとばしる情熱を感じました。
シンポジウムの部分では、以前の記事でもご紹介した「賢治はトシの「自省録」を読んでいたのか?」という問題について、「読んでいた」と考える山根さんと、「読んでいなかった」と考える望月さんのそれぞれのお考えが聞けて、興味深かったです。
※
ところで今日のお話全体の中で、私にとって一番印象に残ったのは、望月善次さんがトシの「自省録」を評して、「普通は人間にとって、エロスとアガペーはどちらも大事なんだけれども、トシは「自省録」において、エロスを正面突破してアガペーに到達してしまう」というような内容のことをおっしゃっていたところでした(細かい表現は少し違ったかもしれませんが、お許し下さい)。
1921年(大正10年)10月13日付けで、賢治が保阪嘉内に送った書簡198というのは、「巻紙」に「墨」で書かれた立派なものです。(下写真は山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』図録より)

時代劇に出てきそうなくらい威厳がありますが、その内容は、下記のようになっています。
拝啓
御葉書難有拝誦仕候 帰郷の儀も未だ御挨拶申上げず御無沙汰重々の処御海容願上候 お陰を以て妹の病気も大分に宜敷今冬さへ無事経過致し候はゞと折角念じ居り候 当地就職の儀も万止むなきの次第御諒解を奉願候
御除隊も間近に御座候処切に御自愛被遊度御多祥を奉祈上候 敬具
大正十年十月十三日
宮沢賢治拝
保阪嘉内様
少なくともある時期までの賢治は、「あらゆる存在はただ心の現れにすぎない」という、唯心論的な世界観を強く持っていたと思われます。
学生時代の書簡でも、1918年の父あて書簡46には「戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候」と書き、1919年の保阪嘉内あて書簡153には「石丸博士も保阪さんもみな私のなかに明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る」と書いています。
彼のこのような世界観は、「三界唯一心、心外無別法」(華厳経)という言葉に見るように仏教の根本であるとともに、自らの心的現象の描写によって世界を記録しようとする、「心象スケッチ」の方法論の基盤でもありました。