方向の問題か知覚の問題か

 下の画像は、先日の「『春と修羅』編成経過の「第五段階」」という記事でも引用した、「青森挽歌」前半部(69行目~88行目)の詩集印刷用原稿(第一〇二葉)です。

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『新校本宮澤賢治全集』第2巻口絵より

 この用紙の左の方に、墨で大きく四角に囲んで×印を付けて、削除している部分があります。
 本日は、ここで削除された内容について、考えてみたいと思います。


 入沢康夫さんが解明した『春と修羅』の編成段階は、下記のようになっています。

第一段階

①詩集印刷用原稿の清書

②用紙下部に括弧つき番号を記入
(この段階で作品数62篇)

第二段階

①作品5篇「蠕虫舞手」「青い槍の葉」「報告」「原体剣舞連」「雲とはんのき」を新たに追加挿入

②巻末で「自由画検定委員」を削除、代りに「一本木野」「鎔岩流」を追加

③作品7篇「春光呪詛」「有明」「天然誘接」「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「風景とオルゴール」「風の偏倚」の全体または一部を書き直して差し替え

④括弧つき番号の第一次修正

⑤詩集印刷用原稿が印刷所に渡され、印刷所が上部の紙番号・圏点・活字指定等を朱筆で記入
(この段階で作品数68篇)

第三段階

①「小岩井農場」で4箇所の原稿修正

②作品4篇「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「春と修羅」「風景」の全体または一部を書き直して差し替え

③作品2篇「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河鉄道」を巻末に追加

④墨による手入れにてノンブルのずれを調整

⑤「オホーツク挽歌」の差替稿以下で括弧番号の修正を再修正
(この段階で作品数70篇)

第四段階

①青色クレヨンの番号記入(目次原稿はこの時期に書かれたと推定)

②印刷所が草色絵具番号を記入

③巻末の原稿3枚(「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河鉄道」が含まれていたと推定)を2枚の新稿と差し替え

④橙色クレヨンの番号記入

⑤「途上二篇」を削除し、「原体剣舞連」冒頭を書き直して差し替え

⑥印刷が大部分進行した段階で正誤表原稿執筆
(この段階で作品数69篇)

(『新校本全集』第2巻校異篇pp.13-17より, 一部簡略化)

 詩集の編成作業そのものは、間断なく続けられていたわけですが、連続したこの過程を、入沢さんが「第一段階」から「第四段階」までの四つのステップに区切った根拠は、いったい何だったのでしょうか。


萩京子作曲「かはばた」

 『春と修羅』所収の「かはばた」に、萩京子さんが作曲した二重唱を、VOCALOID 等で演奏してみました。

  かはばた
      宮澤賢治作詩・萩京子作曲

かはばたで鳥もゐないし
(われわれのしよふ燕麦オート種子たねは)
風の中からせきばらひ
おきなぐさは伴奏をつゞけ
光のなかの二人の子


辻潤とナチュラナトゥランス

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虚無僧姿の辻潤
Wikimedia Commonsより)

 辻潤というのは不思議な人で、Wikipedia の辻潤の項を見ると、「ダダイスト、エッセイスト、劇作家、詩人、哲学者、僧侶(虚無僧)、尺八奏者、俳優」などと紹介されています。賢治もよく「マルチ人間」と言われますが、この辻潤も相当にマルチで、かなりユニークな、一筋縄ではいかない生き方をした人のようです。
 吉高由里子さんが伊藤野枝役で主演した、「風よ あらしよ」(2022年NHK BSプレミアムドラマ→2024年劇場版公開)では、稲垣吾郎さんの演じる辻潤がニヒルで超かっこよかったですが、晩年の虚無僧姿は右のような感じです。
 ドラマでは、平塚らいてうから『青鞜』を引き継いだ伊藤野枝が、貧困のなか赤ん坊二人を抱えて苦闘しているのを尻目に、夫である無職の辻潤は、縁側で尺八を吹いているというデカダンなダメ男ぶりが、印象的でした。

 一方、宮沢賢治との関係において辻潤は、『春と修羅』が刊行されて最も早い時期に、それを絶賛する評を読売新聞の「惰眠洞妄語」と題したコラムに書いたことで、知られています。
 下記は、その一部です。


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小野隆祥氏
(『宮沢賢治の思索と信仰』より)

 小野隆祥氏(1910-1986)は、『宮沢賢治の思索と信仰』(1979, 泰流社)や、『宮澤賢治 冬の青春──歌稿と「冬のスケッチ」探究』(1982, 洋々社)など、早くから賢治に関する独創的な研究書を執筆されました。前者のカバー袖に記された略歴によると、次のような興味深い経歴を持っておられる方です。

1910年、下北半島に生れ、1932年京都大学卒業。文部省、鳥取高農を経て1945年盛岡農専教授。1950年、岩手大学を去り、政治運動・平和運動・障害者運動に入る。古本屋・花屋・市議などを経験。そのかたわら千葉工大・生活学園短大で心理学を講じた。1972年より修紅短大教授。

 大学では哲学を専攻され、『宮沢賢治の思索と信仰』においては、哲学、仏教、心理学等に関する深い造詣をもとに、賢治の作品や思想について、鋭い考察を展開しておられるのが印象的です。

 本日は、小野隆祥氏が論文「「青森挽歌」とヘッケル博士」および「宮沢賢治作品の心理学的研究」で指摘しておられるところの、木村泰賢著『原始仏教思想論』から賢治への影響について、考えてみようと思います。


 昨日4月20日は、賢治が生前唯一出版した詩集『春と修羅』が刊行されてから、ちょうど100年目の記念日でした。
 また、やはり賢治が唯一出版した童話集『注文の多い料理店』は、同じ1924年の12月1日に、『春と修羅』から7か月あまり遅れで刊行されたのですが、実は一時この2冊は、1924年4月にほぼ同時に出版する計画もあったようなのです。

20240421a.jpg 右の画像は、1923年12月10日に東北農業薬剤研究所出版部(後の光原社)から刊行された『蠅と蚊と蚤』に挟み込まれていた、「図書注文用振替用紙」の一部です(『新校本全集』第12巻校異篇p.8より)。ここには、「少年文学 宮澤賢治著 童話 山男の四月」という見出しのもと、「発行予定四月中」と書かれています。
 そしてこの紙の裏面には、注文票の「書籍名」として、「山男の四月」との記載があり、当初は童話集のタイトルが『山男の四月』だったことがわかります。また、一緒に掲載されている書籍の発行年が、大正12年2月~13年3月であることからして、上記の「発行予定四月中」とは、大正13年(1924年)4月のことだったと考えられます。

 すなわち、童話集『山男の四月』の出版予定は、『春と修羅』が刊行されたのと同年同月だったのです。


放送大学講義「宮沢賢治と宇宙」

 この4月7日から、放送大学の講義「宮沢賢治と宇宙」が始まっています。その内容は、シラバスの「講義概要」で次のように説明されています。

宮沢賢治(1896年-1933年)は今から約百年前に活躍した作家である。わずか三十七年の生涯であったが、膨大な作品(童話、詩、短歌など)を遺した。自分の作品を心象スケッチと呼んだが、豊富な自然科学の知識が散りばめられているので科学の読み物としても高く評価できる。そこで、この講義では賢治の作品に基づいて、天文学の入門を試みる。

「宮沢賢治と宇宙('24)」シラバスより)

 YouTubeの「テレビ授業科目案内」では、4人の講師の先生が、それぞれの担当分野を簡単に紹介しておられます。


 『春と修羅』の「」が書かれた時期は、その文末に著者が「大正十三年一月廿日」と記していますから、もちろんこの日に違いはないでしょう。
 本日考えてみたいのは、賢治が「」を書いたこの日は、先日ご紹介したような『春と修羅』の編成経過の中では、どの「段階」に位置するのだろうか、ということです。

 入沢康夫さんが解明した『春と修羅』の編成経過は、非常に緻密なもので、編集作業の前後関係はこれでよくわかるのですが、各々の段階が暦年上のいつに当たるのかということは、大半が不明のままです。もしもその一部分でも、実際の年月がわかってくれば、賢治が『春と修羅』を編集した経過が、より具体的にイメージできるようになるのではないかと思うのです。


『春と修羅』末尾の作品

 賢治が生前唯一刊行した詩集『春と修羅』の冒頭の作品は、ご存じのように「屈折率」です。

  屈折率

七つ森のこつちのひとつが
水の中よりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛あえんの雲へ
陰気な郵便脚夫きやくふのやうに
   (またアラツディン、洋燈ラムプとり)
急がなければならないのか

 題名の「屈折率」という言葉は、直接的には、「七つ森」の手前の一つが不思議に明るく大きく見えていることを、光の屈折のせいだろうかと作者が空想していることから来ているのでしょうが、恩田逸夫氏は、「自己の人生の進路が常人と異なっていて、平坦でなく屈折したものであるという意味をも含めている」と評していて、確かにそのような雰囲気も漂います。
 また、「郵便脚夫」について恩田氏は、「人々に幸福を配達する者という意味を含めているのであろう。それはけっして楽な道程ではないので「陰気な」としている」と述べるとともに、「〔手紙 四〕」に「わたくしはあるひとから云ひつけられてこの手紙を印刷してあなたがたにおわたしします」と記していることも付け加えます。以前から賢治は、手紙の配達人でもあったのです。
 さらに「アラツディン、洋燈とり」については、「賢治が「まことの幸福」という理想を獲得しようとすることを、『アラビアンナイト』のなかの、アラジンがいかなる望みでもかなう魔法のランプを手に入れる話にたとえている」と解釈しています。(恩田逸夫氏の注釈はいずれも日本近代文学大系『高村光太郎 宮澤賢治 集』より)


 98年前の今日、すなわち1926年3月24日の夜に、賢治は花巻農学校において、「ベートーヴェン百年祭記念レコードコンサート」を開催しました。
 この日中には農学校の卒業式があったのですが、教諭の堀籠文之進と生徒の平来作の話によれば、「校長室と職員室のしきりをとり、赤々と炭火が燃える大火鉢をかこんだ生徒にコレクションのレコードを聞かせた」(『新校本全集』年譜篇p.313)ということです。

20240324c.jpg このコンサートは、学校関係者だけでなく一般にも公開され、賢治の年長の友人である斎藤宗次郎も、招待され来場していました。斎藤は、内村鑑三の弟子のキリスト者で、もとは小学校教師をしていましたが、日露戦争の際に非戦論を唱えたことで退職に追い込まれ(花巻非戦論事件)、その後は新聞取次業を営んでいました。その敬虔な人となりから「花巻のトルストイ」とも言われ、農学校教師時代の賢治も彼の人柄を慕って、親しく交流していた人物です。
 右のイラストは、斎藤宗次郎が描いた、このベートーヴェン百年祭記念レコードコンサートの様子です(『二荊自叙伝』p.202より)。正面奧に見える黒い箱が、賢治愛用の蓄音器なのでしょう。