犠牲の牛の話

島地大等像
『生々主義の提唱』口絵より

 浄土真宗を代表する学僧で、盛岡の願教寺の住職を務めていた島地大等(右写真)の講演を、賢治は中学3年の1911年に聴講し、その後も何度か講演会に足を運んだということです。また1918年には、大等が編纂した『漢和対照 妙法蓮華経』を読んで体が震えるほど感動し、以後この書を「赤い経巻」と呼んで尊崇していました。
 下の短歌は、盛岡高等農林学校1年の1915年夏に、願教寺の夏季仏教講習会に参加した際のものと推測されます。

255a256 本堂の
高座に島地大等の
ひとみに映る
黄なる薄明

 大等は、若い賢治の信仰や思想に、多大な影響を与えた仏教者の一人と言えるでしょう。

 この島地大等は1927年に逝去しますが、その三回忌にあたる1929年に、願教寺の門徒たちが刊行した遺稿集として、『生々主義の提唱』という小冊子があります。


 1924年に賢治の童話集『注文の多い料理店』が刊行されるにあたっては、その販売のために何種類かの「広告ちらし」や「広告葉書」が作成されました。その中でも「広告ちらし(大)」と呼ばれる大型版は、「イーハトヴは一つの地名である」から始まる有名なもので、執筆者は明示されてはいませんが、賢治が書いたとしか思えない独特の文章で綴られ、『新校本全集』にも「恐らくは賢治自身の文案によると考えられる」と記されています。
 この「広告ちらし(大)」には、収録童話の説明として、次のような四点が記されています。これもまさに賢治ならではの文章です。

[一] これは正しいものゝ種子を有し、その美しい発芽を待つものである。而も決して既成の疲れた宗教や、道徳の残滓を色あせた仮面によつて純真な心意の所有者たちに欺き与へんとするものではない。

[二] これらは新しい、よりよい世界の構成材料を提供しやうとはする。けれどもそれは全く、作者に未知な絶えざる驚異に値する世界自身の発展であつて決して畸形に捏ねあげられた煤色のユートピアではない。

[三] これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。
多少の再度の内省と分析とはあつても、たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。

[四] これは田園の新鮮な産物である。われらは田園の風と光の中からつやゝかな果実や、青い蔬菜と一緒にこれらの心象スケツチを世間に提供するものである。

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『注文の多い料理店』広告ちらし(大)の一部(『新校本宮澤賢治全集』第12巻口絵より)


 「光原社」というと、賢治が生前刊行した童話集『注文の多い料理店』の出版元で、現在も盛岡市材木町において、民芸品店・カフェとして営業している素敵なお店です。
 この光原社の創業者及川四郎の孫で、同社の現代表である川島富三雄氏が、『注文の多い料理店』の原稿に関し、これまでは知られていなかった「秘話」を、最近になって明かしておられます。

 まず、昨年12月21日付け朝日新聞岩手版に掲載された記事で、川島氏は次のように述べておられます。

 私は材木町の家で祖父と暮らしましたが、小学校の授業で「よだかの星」を読んだので、祖父に「賢治さんがどういう字を書く人なのか知りたいので、原稿を見せてほしい」と頼んだことがありました。
 すると祖父は「実は原稿を活字にして東京で印刷した後、直筆原稿を盛岡に持ち帰る際、上野駅で置き引きに遭ってしまい、今は残っていないのだ」と打ち明けました。
 これは、我が一族が他人にはほとんど語ったことのない、「注文の多い料理店」の原稿に関する「秘話」です。

 また、本年2月6日にテレビ岩手で放送された川島氏のインタビューは、今のところ下記のページで視聴することができます。


八幡館の八日間(2)

 前回は、賢治が東京の八幡館で高熱を発しながら、八日間にもわたって留まり続けたのはなぜだったのか、という疑問について考えてみました。

 その理由として仮説的に想定してみたのは、(1)回復を期待して待っているうちに長引いてしまった、(2)重症で動けなかったので遅れた、(3)今回の東京出張が命を懸けるほど重要と考えていた、(4)仕事のためでもなくただ自ら死のうとした、(5)親に心配をかけたくなかったから、などの要因でしたが、いずれも病状悪化の危険を冒してまで東京に留まった根拠と考えるには、不十分と思われました。

 その上で今回の記事では、現時点で私が考えている理由について、ご説明してみたいと思います。
 結論としては、当時の賢治の心情としては、(6)病気のまま花巻に帰った際に、以前にも増して周囲から向けられるであろう嘲りや蔑みを恐れて、帰郷を躊躇したのではないかと、私は思うのです。


八幡館の八日間(1)

 賢治は1931年(昭和6年)9月に東北砕石工場の業務で東京に出張し、到着するや否や高熱を出して倒れてしまいました。
 下記はこの出張中の経過を、『新校本全集』第16巻(下)年譜篇の記載から要約したものです。

9月19日 朝6時32分花巻発の東北本線上り列車に乗り、9時31分に小牛田に到着。小牛田肥料会社と斎藤報恩農業館を訪問。13時45分発列車で小牛田を発ち、仙台にて宮城県庁農務課と古本屋を訪ね、市内で宿泊。
9月20日 4時仙台発の上り列車に乗り、ぐっすり眠っていると、窓を開けたまま降りた人があり、風が吹き込んで寒さで目覚めた。午後上野駅に着き、神田区駿河台の旅館「八幡館」に投宿した。その後、吉祥寺の菊池武雄を訪ねたが留守で、隣家の深沢紅子に浮世絵の和本とレコードを預け、旅館に戻った。この夜、烈しく発熱。
9月21日 高熱が続いているが、鈴木東蔵には営業活動に回っていると書き送る。死を覚悟して、父母あての遺書と弟妹あての別れの言葉を書く。旅館から菊池武雄に連絡があったため、菊池は午後3時に職場を出て八幡館を訪問した。賢治は部屋で赤い顔をして寝ており、菊池が家に知らせようと言うと、断固として拒否した。
9月23~24日頃 菊池武雄は、花巻に帰りたくないと言う賢治のために、吉祥寺に小さな貸間を探して、八幡館の賢治に報告に行った。しかし賢治は「それほどご厚意をいただくほどあなたと深い関係じゃない」と言って断ったため、菊池はムッとしたという。また時期ははっきりしないが、手帳に「廿八日迄ニ熱退ケバ……」のメモを記入。
9月25~26日頃 鈴木東蔵あて書簡で、東京で発熱して寝込んでいることを初めて伝えるとともに、家には決して知らせないようにと念を押した。おそらく26日に、八幡館で医師の往診を受け、家に帰って治療を受けるよう勧められた。
9月27日 昼頃に花巻の自宅に電話し、「もう私も終りと思いますので最後にお父さんの御声を……」と言った。驚いた父は花巻に戻るよう強く指示するとともに、小林六太郎に電話して、寝台車を予約し賢治を乗せるよう依頼。夜10時30分、小林に送られて上野発の列車に乗車。
9月28日 朝10時27分花巻駅に着き、清六が迎える。自宅で直ちに病床に臥す。

 賢治は結局、東京の旅館「八幡館」に、9月20日から27日までの7泊8日にわたって滞在したのですが、本日考えてみたい問題は、「これほどの重体になりながら、なぜ賢治はすぐに花巻に帰らなかったのか」ということです。


 賢治が「兄妹像手帳」に記した「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」は、読む者の心に突き刺さるような文語詩稿です。

われらぞやがて泯ぶべき
そは身うちやみ あるは身弱く
また 頑きことになれざりければなり
さあらば 友よ
誰か未来にこを償え
いまこをあざけりさげすむとも
われは泯ぶるその日まで
たゞその日まで
鳥のごとくに歌はん哉
鳥のごとくに歌はんかな
身弱きもの
意久地なきもの
あるひはすでに傷つけるもの
そのひとなべて
こゝに集へ
われらともに歌ひて泯びなんを

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『新校本宮澤賢治全集』第13巻(上)p.434より


 以前に「関博士からクーボー大博士へ」という記事にも載せましたが、下のグラフは、賢治が生まれた1896年から、没した1933年までの期間の、岩手県の反当たり米収量の推移です。仙台管区気象台編『東北地方の氣候』(1951)pp.69-71に掲載されているデータをもとに、ただし1913年の数値だけは同書に掲載されていないため、『農学会報』(1915)p.773の値を参照して、作成したものです。

岩手県の反当たり米収量の推移
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贈与と交換のエートス

 童話「セロ弾きのゴーシュ」では、夜遅くまでセロの練習をしているゴーシュのもとへ、三毛猫、かっこう、狸の子、野ねずみ、という4種の動物が、順に訪れます。そして、各自それぞれの理由から、ゴーシュにセロの演奏を依頼します。

 最初の三毛猫は、「わたしはどうも先生の音楽をきかないとねむられないんです」という理由で、シューマンの「トロイメライ」をリクエストするのですが、手土産としてトマトを持参していました。

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司修「セロ弾きのゴーシュ」


 暮れも押しつまってきましたが、このたび宮沢賢治研究会の編著による『評釈 宮沢賢治短歌百選』が、Amazon の電子書籍サービス Kindle版で、発売されました。
 価格は、上下巻それぞれ676円ということで、紙の本よりもお買い得になっています。

 書籍の目次や内容は、以前の記事「『評釈 宮沢賢治短歌百選』」において紹介していますので、ご参照下さい。

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 どうか皆様、よいお年をお迎え下さい。


 先週の「賢治の「スタンド・バイ・ミー」」という記事では、賢治の中学時代の藤原健次郎との交友を、映画「スタンド・バイ・ミー」になぞらえつつ考えてみました。
 「スタンド・バイ・ミー」とは、愛する人に対して、「私のそばにいて」と懇願する、切実な呼びかけの言葉ですが、その願いに反して賢治は、大切な人に自らのもとを去られてしまうという出来事を、生涯で何度も経験しています。

 そのおそらく最初は、前回の記事で取り上げた、中学時代の親友藤原健次郎の、1910年の急死でした。
 そして1921年夏の東京では、一緒に国柱会に入信するよう強く誘った親友保阪嘉内に、その願いを聞き入れてもらうことができず、嘉内は故郷に帰ってしまい、二度と会うことはできませんでした。
 1922年11月には、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」だった妹トシが、若くして世を去ります。
 1923年3月には、親しく行き来していた同僚教師の堀籠文之進を、やはり法華経への信仰の道に誘ったのですが、受け入れてもらうことはできず、堀籠の背中を打たせてもらうという行動に出ました。