先日東京へ行った帰りに、身延山久遠寺に寄って、久しぶりに賢治の歌碑を見てきました。
下写真が、日本三大三門の一つに数えられる、久遠寺の三門です。
この門を入って少し行った右手に、賢治の歌碑があります。
塵点の
劫をし
過ぎて
いましこの
妙のみ法に
あひまつ
りしを
賢治
賢治の作品や生涯/ハイパーリンクされた詩草稿/賢治が作った歌曲/全国の文学碑…
先日東京へ行った帰りに、身延山久遠寺に寄って、久しぶりに賢治の歌碑を見てきました。
下写真が、日本三大三門の一つに数えられる、久遠寺の三門です。
この門を入って少し行った右手に、賢治の歌碑があります。
塵点の
劫をし
過ぎて
いましこの
妙のみ法に
あひまつ
りしを
賢治
数日前から Amazon でも、『宮沢賢治の体験世界─幻想・空想・夢想─」が、一応購入できる状態になっているようです。
あまり冊数はないようで、すぐまた在庫切れになってしまうかもしれませんが、よろしければご覧下さい。
![]() |
宮沢賢治の体験世界-幻想・空想・夢想- 鈴木 健司、大島 丈志、柴山 雅俊、浜垣 誠司 (著) 文教大学出版事業部 (2024/3/16) Amazonで詳しく見る |
実はこの記事は、7月13日に作成しておいた日時指定投稿なのですが、今日7月14日午後は東京で、今回の出版の「ご苦労様会」兼勉強会です。共著の4名に加え、杉浦静さんもお越しいただけるとのことで、楽しみです。
以前にもご紹介した杉浦静さんの著書『宮沢賢治 生成・転化する心象スケッチ』には、緻密で奥深い論考が目白押しですが、この本に収められている「〈音楽用五線ノート〉の位置」という文章は、賢治が遺した厖大な草稿群の中でも、たった二葉しか存在しない「音楽用五線ノート紙」の状態について、調査検討したものです。
先日刊行の『宮沢賢治の体験世界─幻想・空想・夢想』に収録した論考「宮沢賢治の口語詩における幻想性評価の試み」では、賢治の各口語詩に対して「幻想性指数」という数値を定義し、考察を試みました。
下図は、『春と修羅』の各作品のその幻想性指数を、グラフにしたものです。(クリックすると別窓で拡大表示されます。)
『春と修羅』各作品の幻想指数
1923年9月16日の日付を持つ「風景とオルゴール」には、賢治が山で木を伐ったことによって、 罰が当たるのではないかと恐れるような描写があります。
わたくしはこんな
過透明 な景色のなかに
松倉山や五間森 荒つぽい石英安山岩 の岩頸から
放たれた剽悍な刺客に
暗殺されてもいいのです
(たしかにわたくしがその木をきつたのだから)
〔中略〕
(しづまれしづまれ五間森
木をきられてもしづまるのだ)
この日曜日の賢治の行動について、栗原敦さんは次のようにまとめておられます。
作者賢治は、何らかの理由で五間森で「木をきつ」て下りて来て、「渡り」橋をこえて松倉山の下を過ぎ、「ダムを超える水の音」を聞いてのち電車に乗った。(栗原敦「「風景とオルゴール」の章二連作」:『宮沢賢治 透明な軌道の上から』p.92)
賢治は、五間森で木を伐ったことの罰として、近くの松倉山の岩が「刺客」として落ちて来て、打ち殺されてしまうという不安にとらわれているようです。
松倉山と渡り橋
このたび、文教大学の鈴木健司さん、大島丈志さん、および東京女子大学の柴山雅俊さんとの共著として、『宮沢賢治の体験世界─幻想・空想・夢想─』を刊行しました。
文学の研究者2名と、精神科の医師2名という、異色の組み合わせによる賢治論です。
『宮沢賢治の体験世界─幻想・空想・夢想─』(文教大学出版事業部)
哲学者の西田幾多郎が、思索のためにいつも東山の疏水べりの
宮沢賢治が、よく野山を歩きまわっては心に映ずる知覚やイメージを手帳にメモして、それを「心象スケッチ」として作品にしたのも、歩行や移動が持つそのような性質を、利用したものと言えるでしょう。
彼らの場合は、「たまたま歩いていたら、考えが浮かんだ」のではなくて、「心に生ずる想念を捕獲するために、わざわざ歩きに行く」のです。
そして賢治の詩作品の中には、自らが考えるべき問題をあらかじめ措定した上で、わざわざその思索のために出かけたことが、具体的に記されているものもあります。
その一つは「小岩井農場」で、もう一つは「青森挽歌」です。
図らずも、前者は8082文字もある『春と修羅』最長の作品で、後者は3852文字で二番目に長い作品です。
どちらの作品も、当時の賢治にとって重要かつ困難な問題を、粘り強く考え尽くそうとした証しであると言えます。
以前に「『注文の多い料理店』発刊までの経緯」という記事で見たように、1923年後半のある日、盛岡高等農林学校における賢治の1年後輩だった近森
盛岡に戻った近森は、「光原社」の共同経営者である及川四郎とともに、賢治の童話集出版のための準備を進めたと思われますが、その途半ばの1924年3月頃に、近森は突然郷里の高知に帰ってしまいます。そして地元の選挙騒動に巻き込まれて一時は収監され、挙げ句の果ては村長にまで(!)なってしまうのです。
そのため『注文の多い料理店』出版の仕事は、残された及川が途中から一人で担わざるをえず、大変な苦労をすることになりました。
及川家は、現在も盛岡市材木町で「光原社」の灯を守りつづけ、そのあたり一帯は今や賢治の「聖地」の一つのようになっているのに対して、近森善一に関しては、これまで研究者によって論じられることも、比較的少なかったように思います。
そういう中で、鈴木健司氏が高知赴任中に、近森善一の聞き書きを集成して発表した論文「童話集『注文の多い料理店』発刊をめぐって─発行者・近森善一の談をもとに」(『言語文化』No.13, 1996)は、近森の人となりや賢治との交友について、貴重な情報を提供してくれる資料の一つです。
本日は、この鈴木氏がまとめた近森善一の聞き書きから、興味深い点をいくつか見てみたいと思います。
(鈴木氏の論文を収めた『言語文化』は、国会図書館デジタルコレクションにログインすれば閲覧できます。また同論文は、鈴木氏の著書『宮沢賢治という現象』にも収録されています。)
下の画像は、先日の「『春と修羅』編成経過の「第五段階」」という記事でも引用した、「青森挽歌」前半部(69行目~88行目)の詩集印刷用原稿(第一〇二葉)です。
『新校本宮澤賢治全集』第2巻口絵より
この用紙の左の方に、墨で大きく四角に囲んで×印を付けて、削除している部分があります。
本日は、ここで削除された内容について、考えてみたいと思います。
入沢康夫さんが解明した『春と修羅』の編成段階は、下記のようになっています。
第一段階
①詩集印刷用原稿の清書
②用紙下部に括弧つき番号を記入
(この段階で作品数62篇)第二段階
①作品5篇「蠕虫舞手」「青い槍の葉」「報告」「原体剣舞連」「雲とはんのき」を新たに追加挿入
②巻末で「自由画検定委員」を削除、代りに「一本木野」「鎔岩流」を追加
③作品7篇「春光呪詛」「有明」「天然誘接」「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「風景とオルゴール」「風の偏倚」の全体または一部を書き直して差し替え
④括弧つき番号の第一次修正
⑤詩集印刷用原稿が印刷所に渡され、印刷所が上部の紙番号・圏点・活字指定等を朱筆で記入
(この段階で作品数68篇)第三段階
①「小岩井農場」で4箇所の原稿修正
②作品4篇「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「春と修羅」「風景」の全体または一部を書き直して差し替え
④墨による手入れにてノンブルのずれを調整
⑤「オホーツク挽歌」の差替稿以下で括弧番号の修正を再修正
(この段階で作品数70篇)第四段階
①青色クレヨンの番号記入(目次原稿はこの時期に書かれたと推定)
②印刷所が草色絵具番号を記入
③巻末の原稿3枚(「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河鉄道」が含まれていたと推定)を2枚の新稿と差し替え
④橙色クレヨンの番号記入
⑤「途上二篇」を削除し、「原体剣舞連」冒頭を書き直して差し替え
⑥印刷が大部分進行した段階で正誤表原稿執筆
(この段階で作品数69篇)(『新校本全集』第2巻校異篇pp.13-17より, 一部簡略化)
詩集の編成作業そのものは、間断なく続けられていたわけですが、連続したこの過程を、入沢さんが「第一段階」から「第四段階」までの四つのステップに区切った根拠は、いったい何だったのでしょうか。