このたび、文教大学の鈴木健司さん、大島丈志さん、および東京女子大学の柴山雅俊さんとの共著として、『宮沢賢治の体験世界─幻想・空想・夢想─』を刊行しました。
 文学の研究者2名と、精神科の医師2名という、異色の組み合わせによる賢治論です。

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『宮沢賢治の体験世界─幻想・空想・夢想─』(文教大学出版事業部)


考えるために出かける

 哲学者の西田幾多郎が、思索のためにいつも東山の疏水べりのこみち(後の「哲学の道」)を歩いていたように、人間は歩いている時に、いろいろとアイディアを得たり、考えを深めたりできるもののようです。
 宮沢賢治が、よく野山を歩きまわっては心に映ずる知覚やイメージを手帳にメモして、それを「心象スケッチ」として作品にしたのも、歩行や移動が持つそのような性質を、利用したものと言えるでしょう。
 彼らの場合は、「たまたま歩いていたら、考えが浮かんだ」のではなくて、「心に生ずる想念を捕獲するために、わざわざ歩きに行く」のです。

 そして賢治の詩作品の中には、自らが考えるべき問題をあらかじめ措定した上で、わざわざその思索のために出かけたことが、具体的に記されているものもあります。
 その一つは「小岩井農場」で、もう一つは「青森挽歌」です。

 図らずも、前者は8082文字もある『春と修羅』最長の作品で、後者は3852文字で二番目に長い作品です。
 どちらの作品も、当時の賢治にとって重要かつ困難な問題を、粘り強く考え尽くそうとした証しであると言えます。


近森善一との交友

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近森善一
(『イーハトーヴォ』第2期5号より)

 以前に「『注文の多い料理店』発刊までの経緯」という記事で見たように、1923年後半のある日、盛岡高等農林学校における賢治の1年後輩だった近森善一よしかつは、自分たちが作った農業書のセールスのために、花巻農学校を訪れました。この際に賢治が近森に、童話の原稿が大量にあると言ったことが、童話集『注文の多い料理店』発刊のきっかけになったと考えられています。

 盛岡に戻った近森は、「光原社」の共同経営者である及川四郎とともに、賢治の童話集出版のための準備を進めたと思われますが、その途半ばの1924年3月頃に、近森は突然郷里の高知に帰ってしまいます。そして地元の選挙騒動に巻き込まれて一時は収監され、挙げ句の果ては村長にまで(!)なってしまうのです。
 そのため『注文の多い料理店』出版の仕事は、残された及川が途中から一人で担わざるをえず、大変な苦労をすることになりました。

 及川家は、現在も盛岡市材木町で「光原社」の灯を守りつづけ、そのあたり一帯は今や賢治の「聖地」の一つのようになっているのに対して、近森善一に関しては、これまで研究者によって論じられることも、比較的少なかったように思います。
 そういう中で、鈴木健司氏が高知赴任中に、近森善一の聞き書きを集成して発表した論文「童話集『注文の多い料理店』発刊をめぐって─発行者・近森善一の談をもとに」(『言語文化』No.13, 1996)は、近森の人となりや賢治との交友について、貴重な情報を提供してくれる資料の一つです。

 本日は、この鈴木氏がまとめた近森善一の聞き書きから、興味深い点をいくつか見てみたいと思います。
(鈴木氏の論文を収めた『言語文化』は、国会図書館デジタルコレクションにログインすれば閲覧できます。また同論文は、鈴木氏の著書『宮沢賢治という現象』にも収録されています。)


方向の問題か知覚の問題か

 下の画像は、先日の「『春と修羅』編成経過の「第五段階」」という記事でも引用した、「青森挽歌」前半部(69行目~88行目)の詩集印刷用原稿(第一〇二葉)です。

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『新校本宮澤賢治全集』第2巻口絵より

 この用紙の左の方に、墨で大きく四角に囲んで×印を付けて、削除している部分があります。
 本日は、ここで削除された内容について、考えてみたいと思います。


 入沢康夫さんが解明した『春と修羅』の編成段階は、下記のようになっています。

第一段階

①詩集印刷用原稿の清書

②用紙下部に括弧つき番号を記入
(この段階で作品数62篇)

第二段階

①作品5篇「蠕虫舞手」「青い槍の葉」「報告」「原体剣舞連」「雲とはんのき」を新たに追加挿入

②巻末で「自由画検定委員」を削除、代りに「一本木野」「鎔岩流」を追加

③作品7篇「春光呪詛」「有明」「天然誘接」「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「風景とオルゴール」「風の偏倚」の全体または一部を書き直して差し替え

④括弧つき番号の第一次修正

⑤詩集印刷用原稿が印刷所に渡され、印刷所が上部の紙番号・圏点・活字指定等を朱筆で記入
(この段階で作品数68篇)

第三段階

①「小岩井農場」で4箇所の原稿修正

②作品4篇「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「春と修羅」「風景」の全体または一部を書き直して差し替え

③作品2篇「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河鉄道」を巻末に追加

④墨による手入れにてノンブルのずれを調整

⑤「オホーツク挽歌」の差替稿以下で括弧番号の修正を再修正
(この段階で作品数70篇)

第四段階

①青色クレヨンの番号記入(目次原稿はこの時期に書かれたと推定)

②印刷所が草色絵具番号を記入

③巻末の原稿3枚(「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河鉄道」が含まれていたと推定)を2枚の新稿と差し替え

④橙色クレヨンの番号記入

⑤「途上二篇」を削除し、「原体剣舞連」冒頭を書き直して差し替え

⑥印刷が大部分進行した段階で正誤表原稿執筆
(この段階で作品数69篇)

(『新校本全集』第2巻校異篇pp.13-17より, 一部簡略化)

 詩集の編成作業そのものは、間断なく続けられていたわけですが、連続したこの過程を、入沢さんが「第一段階」から「第四段階」までの四つのステップに区切った根拠は、いったい何だったのでしょうか。


萩京子作曲「かはばた」

 『春と修羅』所収の「かはばた」に、萩京子さんが作曲した二重唱を、VOCALOID 等で演奏してみました。

  かはばた
      宮澤賢治作詩・萩京子作曲

かはばたで鳥もゐないし
(われわれのしよふ燕麦オート種子たねは)
風の中からせきばらひ
おきなぐさは伴奏をつゞけ
光のなかの二人の子


辻潤とナチュラナトゥランス

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虚無僧姿の辻潤
Wikimedia Commonsより)

 辻潤というのは不思議な人で、Wikipedia の辻潤の項を見ると、「ダダイスト、エッセイスト、劇作家、詩人、哲学者、僧侶(虚無僧)、尺八奏者、俳優」などと紹介されています。賢治もよく「マルチ人間」と言われますが、この辻潤も相当にマルチで、かなりユニークな、一筋縄ではいかない生き方をした人のようです。
 吉高由里子さんが伊藤野枝役で主演した、「風よ あらしよ」(2022年NHK BSプレミアムドラマ→2024年劇場版公開)では、稲垣吾郎さんの演じる辻潤がニヒルで超かっこよかったですが、晩年の虚無僧姿は右のような感じです。
 ドラマでは、平塚らいてうから『青鞜』を引き継いだ伊藤野枝が、貧困のなか赤ん坊二人を抱えて苦闘しているのを尻目に、夫である無職の辻潤は、縁側で尺八を吹いているというデカダンなダメ男ぶりが、印象的でした。

 一方、宮沢賢治との関係において辻潤は、『春と修羅』が刊行されて最も早い時期に、それを絶賛する評を読売新聞の「惰眠洞妄語」と題したコラムに書いたことで、知られています。
 下記は、その一部です。


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小野隆祥氏
(『宮沢賢治の思索と信仰』より)

 小野隆祥氏(1910-1986)は、『宮沢賢治の思索と信仰』(1979, 泰流社)や、『宮澤賢治 冬の青春──歌稿と「冬のスケッチ」探究』(1982, 洋々社)など、早くから賢治に関する独創的な研究書を執筆されました。前者のカバー袖に記された略歴によると、次のような興味深い経歴を持っておられる方です。

1910年、下北半島に生れ、1932年京都大学卒業。文部省、鳥取高農を経て1945年盛岡農専教授。1950年、岩手大学を去り、政治運動・平和運動・障害者運動に入る。古本屋・花屋・市議などを経験。そのかたわら千葉工大・生活学園短大で心理学を講じた。1972年より修紅短大教授。

 大学では哲学を専攻され、『宮沢賢治の思索と信仰』においては、哲学、仏教、心理学等に関する深い造詣をもとに、賢治の作品や思想について、鋭い考察を展開しておられるのが印象的です。

 本日は、小野隆祥氏が論文「「青森挽歌」とヘッケル博士」および「宮沢賢治作品の心理学的研究」で指摘しておられるところの、木村泰賢著『原始仏教思想論』から賢治への影響について、考えてみようと思います。


 昨日4月20日は、賢治が生前唯一出版した詩集『春と修羅』が刊行されてから、ちょうど100年目の記念日でした。
 また、やはり賢治が唯一出版した童話集『注文の多い料理店』は、同じ1924年の12月1日に、『春と修羅』から7か月あまり遅れで刊行されたのですが、実は一時この2冊は、1924年4月にほぼ同時に出版する計画もあったようなのです。

20240421a.jpg 右の画像は、1923年12月10日に東北農業薬剤研究所出版部(後の光原社)から刊行された『蠅と蚊と蚤』に挟み込まれていた、「図書注文用振替用紙」の一部です(『新校本全集』第12巻校異篇p.8より)。ここには、「少年文学 宮澤賢治著 童話 山男の四月」という見出しのもと、「発行予定四月中」と書かれています。
 そしてこの紙の裏面には、注文票の「書籍名」として、「山男の四月」との記載があり、当初は童話集のタイトルが『山男の四月』だったことがわかります。また、一緒に掲載されている書籍の発行年が、大正12年2月~13年3月であることからして、上記の「発行予定四月中」とは、大正13年(1924年)4月のことだったと考えられます。

 すなわち、童話集『山男の四月』の出版予定は、『春と修羅』が刊行されたのと同年同月だったのです。


放送大学講義「宮沢賢治と宇宙」

 この4月7日から、放送大学の講義「宮沢賢治と宇宙」が始まっています。その内容は、シラバスの「講義概要」で次のように説明されています。

宮沢賢治(1896年-1933年)は今から約百年前に活躍した作家である。わずか三十七年の生涯であったが、膨大な作品(童話、詩、短歌など)を遺した。自分の作品を心象スケッチと呼んだが、豊富な自然科学の知識が散りばめられているので科学の読み物としても高く評価できる。そこで、この講義では賢治の作品に基づいて、天文学の入門を試みる。

「宮沢賢治と宇宙('24)」シラバスより)

 YouTubeの「テレビ授業科目案内」では、4人の講師の先生が、それぞれの担当分野を簡単に紹介しておられます。