入沢康夫さんは、『文學』1973年8月号-9月号に論文「詩集『春と修羅』の成立」を発表し、宮沢賢治の詩集『春と修羅』の「詩集印刷用原稿」上で複雑に錯綜して記入されている「数字記号」の意味を解読することによって、この詩集がどのような経緯をたどって成立したのかを、具体的に明らかにされました。
この成果は、『新校本宮澤賢治全集』第二巻校異篇の解説にも取り入れられ、そのpp.13-16において、下記のような「第一段階」から「第四段階」に至るプロセスとして、記載されています。
ちなみに、下記で黄色マーカーを付けてあるのが、この分析の手がかりとなった数字記号の一部です。
第一段階
①詩集印刷用原稿の清書
②用紙下部に括弧つき番号を記入
(この段階で作品数62篇)
第二段階
①作品5篇「蠕虫舞手」「青い槍の葉」「報告」「原体剣舞連」「雲とはんのき」を新たに追加挿入
②巻末で「自由画検定委員」を削除、代りに「一本木野」「鎔岩流」を追加
③作品7篇「春光呪詛」「有明」「天然誘接」「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「風景とオルゴール」「風の偏倚」の全体または一部を書き直して差し替え
④括弧つき番号の第一次修正
⑤詩集印刷用原稿が印刷所に渡され、印刷所が上部の紙番号・圏点・活字指定等を朱筆で記入
(この段階で作品数68篇)
第三段階
①「小岩井農場」で4箇所の原稿修正
②作品4篇「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「春と修羅」「風景」の全体または一部を書き直して差し替え
③作品2篇「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河鉄道」を巻末に追加
④墨による手入れにてノンブルのずれを調整
⑤「オホーツク挽歌」の差替稿以下で括弧番号の修正を再修正
(この段階で作品数70篇)
第四段階
①青色クレヨンの番号記入(目次原稿はこの時期に書かれたと推定)
②印刷所が草色絵具番号を記入
③巻末の原稿3枚(「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河鉄道」が含まれていたと推定)を2枚の新稿と差し替え
④橙色クレヨンの番号記入
⑤「途上二篇」を削除し、「原体剣舞連」冒頭を書き直して差し替え
⑥印刷が大部分進行した段階で正誤表原稿執筆
(この段階で作品数69篇)
(『新校本宮澤賢治全集』第二巻校異篇pp.13-17より, 一部簡略化)
「寓話 洞熊学校を卒業した三人」で、三人の生徒を教える先生の「洞熊」というのは、どんな動物なのでしょうか。
「動物図鑑・動物の名前一覧」を見ても、「動物の名前一覧・GitHub」を見ても、「洞熊(ホラクマ)」という名前はなく、これは現代の日本で一般的に用いられている動物名ではないようです。また、賢治の作品に関してこういう場合にいつも強い味方になってくれる『定本 宮澤賢治語彙辞典』にも、この名前は載っていません。
そこで、賢治の時代に「洞熊」が何を指していたのか調べるために、例によって国会図書館デジタルコレクションで、この語を検索してみました。
すると、洞熊というのは、氷河時代に棲息していた大型の熊で、すでに絶滅した動物であることがわかりました。
たとえば、1895年(明治28年)刊行の『化石学教科書』では、化石で発見されるクマ科の動物について、下のように説明されています。(太字は引用者)
●熊科 Ursidæ 本科ノ動物ハ肉食スルノミナラズ傍ラ又木實、樹根、蜂蜜等ヲモ啖フ而テ其特徴トスル所ハ其大臼齒大ニシテ四角形ヲナシ多峰ヲ具フルト食肉齒ノ發達他ノ食肉類ノ如ク完全ナラザルトニアリ〇熊 Ursus 歐洲及印度ノ鮮新ニ現ハレ洪積ニ多ク今モ尚ホ生存ス而テ洞熊 Ursus spelaus(cave-bear)ト稱スル一種ハ歐洲洪積ニ普ク見ル所ノモノニシテ其大ナルコト現世ノ白熊 Ice-bear(U. maritimus)ニ勝レリ〔後略〕
(横山又三郎著『化石学教科書』中巻p.664)
賢治の最初期の童話「蜘蛛となめくぢと狸」の中に、次のような箇所があります。
谷内六郎 画「洞熊学校を卒業した三人」
(福音館書店『どんぐりと山ねこ』より)
蜘蛛はそして葉のかげに戻って、六つの眼をギラギラ光らせながらじっと網をみつめて居りました。
「ここはどこでござりまするな。」と云ひながらめくらのかげろふが杖をついてやって参りました。
「ここは宿屋ですよ。」と蜘蛛が六つの眼を別々にパチパチさせながら云ひました。
かげろふはやれやれといふやうに、巣へ腰をかけました。蜘蛛は走って出ました。そして
「さあ、お茶をおあがりなさい。」と云ひながらいきなりかげろふの胴中に噛みつきました。
かげろふはお茶をとらうとして出した手を空にあげて、バタバタもがきながら、
「あはれやむすめ、父親が、
旅で果てたと聞いたなら」と哀れな声で歌ひ出しました。
「えい。やかましい。じたばたするな。」と蜘蛛が云ひました。するとかげろふは手を合せて
「お慈悲でございます。遺言のあひだ、ほんのしばらくお待ちなされて下されませ。」とねがひました。
蜘蛛もすこし哀れになって
「よし早くやれ。」といってかげろふの足をつかんで待ってゐました。かげろふはほんたうにあはれな細い声ではじめから歌ひ直しました。
「あはれやむすめちゝおやが、
旅ではてたと聞いたなら、
ちさいあの手に白手甲、
いとし巡礼の雨とかぜ。
もうしご冥加ご報謝と、
かどなみなみに立つとても、
非道の蜘蛛の網ざしき、
さわるまいぞや。よるまいぞ。」
「小しゃくなことを。」蜘蛛はたゞ一息に、かげろふを食ひ殺してしまひました。そしてしばらくそらを向いて、腹をこすってからちょっと眼をぱちぱちさせて「小しゃくなことを言ふまいぞ。」とふざけたやうに歌ひながら又糸をはきました。
最近ちょっと「宮沢賢治の想像力」について考えてみているのですが、とにかく賢治という人は、いろいろな意味で想像力が豊かだったことには、間違いありません。
その賢治のいろいろな想像力のなかでも、私にとってとりわけ印象的なのは、ある状態から遠く離れた別の状態へと、一気に爆発的な跳躍をしてしまうような、物語の展開です。
このような「爆発的に跳躍する想像力」のことを、ここでは「ワープ的想像力」と名づけてみます。「ワープ」とは、SF物語などで仮想されている、光よりも速いスピードで遠く離れた場所に一気に移動する航法のことで、「空間の歪み」とか「負の質量」を用いるなどという理屈が付けられています。
宮沢賢治の物語には、時にこういう桁はずれの飛躍が現れて、驚くべき効果を発揮します。
『タネリとオホーツクの風 宮沢賢治『サガレンと八月』の続編』という本を読みました。
表紙はオホーツクの海のような深い青色で、美しい装幀です。
「春と修羅 第三集」の「〔一昨年四月来たときは〕」は、次のような作品です。
一〇二二
一九二七、四、一、
一昨年四月来たときは、
きみは重たい唐鍬をふるひ、
蕗の根をとったり
薹を截ったり
朝日に翔ける雪融の風や
そらはいっぱいの鳥の声で
一万のまた千億の
新におこした塊りには
いちいち黒い影を添へ
杉の林のなかからは
房毛まっ白な聖重挽馬が
こっそりはたけに下り立って
ふさふさ蹄の毛もひかってゐた
去年の春にでかけたときは
きみたちは川岸に居て
生温い南の風が
きみのかつぎをひるがへし
またあの人の頬を吹き
紺紙の雲には日が熟し
川が鉛と銀とをながし
楊の花芽崩れるなかに
きみは次々畦を堀り
人は尊い供物のやうに
牛糞を捧げて来れば
風は下流から吹いて吹いて
キャベヂの苗はわづかに萎れ
風は白い砂を吹いて吹いて
もういくつもの小さな砂丘を
畑のなかにつくってゐた
そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た
「文語詩稿 五十篇」所収の「〔月のほのほを かたむけて〕」は、次のような作品です。
月のほのほをかたむけて、 水杵はひとりありしかど、
搗けるはまこと喰みも得ぬ、 渋きこならの実なりけり。
さらばとみちを横ぎりて、 束せし廐肥の幾十つら、
祈るがごとき月しろに、 朽ちしとぼそをうかゞひぬ。
まどろむ馬の胸にして、 おぼろに鈴は音をふるひ、
山の焼畑 石の畑、 人もはかなくうまゐしき。
人なき山彙の二日路を、 夜さりはせ来し酉蔵は、
塩のうるゐの茎噛みて、 ふたゝび遠く遁れけり。
賢治の文語詩定稿の常として、削ぎ落とされ凝縮された表現からは、なかなか具体的な状況や意味がわかりにくくなっています。
島田隆輔さんは、昨年出された『宮沢賢治 文語詩稿 五十篇 訳注』の【試訳】において、これを次のように読み解いておられます。
月光のきらめく飛沫を散乱させて、水杵はひとりうごいていたが、
搗いているのはああ!たべることもできぬ、しぶい小楢の実だなあ。
「それならば」と小道を横ぎって、束にした肥藁が幾十ならぶなか、
祈りにみちた月あかりのもと、こわれた戸の隙間から内を覗きみる。
まどろんでいる馬の胸もとで、おぼろげに鈴はその音をふるわせ、
山の焼き畑や石混じりの畑仕事ゆえ、人もすっかり睡りにおちていた。
人目をさけた山々の二日の道程を、夜どおし駈けつづけた酉蔵は、
うるいの茎をとりだしかみしめると、ふたたびとおく遁れさったよ。
(島田隆輔『宮沢賢治 文語詩稿 五十篇 訳注』p.49)
宮沢賢治は、長年にわたり詩の推敲を繰り返し重ねていたことで有名ですが、その過程では、描かれた内容を体験してから既に何年もの歳月が経っているにもかかわらず、まるで作者がもう一度その情景を見てきたかのように、細かく具体的な描写が新たに加えられていくということが、しばしばあります。
いったいどうすれば、こんなことが可能なのでしょうか。
新たに加えられた描写が、作者の想像やインスピレーションによる「創作」であるならば、これは何も不思議なことではありません。詩というのは普通そうやって書かれていくものでしょうし、賢治の場合も文語詩に関しては、創作的虚構がふんだんに用いられています。
しかし、賢治の口語詩に関しては、その表現内容の基本は、作者の実体験だったと考えておく必要があると思います。それは賢治自身が、たとえば岩波茂雄あて書簡214aに「厳密に事実のとほりに記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした」と書いているように、世間一般の詩とは異なって、自らの「心象スケッチ」は、「厳密に事実のとほり」だと言明していることにもよります。
それに何より、賢治の推敲過程を『新校本全集』の「校異篇」でたどっていると、いったん彼が推敲の渦中に入り込むや否や、まるで体験当時にタイムスリップしたかのように、ありありとした描写が後から後から湧いてくるような状況に、実際いくつも遭遇するのです。
だからこそ、「いったいどうすれば、こんなことが可能なのか?」ということが、とても不思議に感じるのです。
前回は、「春と修羅 第三集」および「詩ノート」における作品番号の「欠番」の数が、「口語詩稿」に属する「第三集」の時期の作品数よりもはるかに少ないことから、「口語詩稿」には当初から作品番号を持たずに生まれてきた作品が、相当数あったのではないか、と推測してみました。すなわち、賢治は下根子桜時代の途中から、徐々に口語詩に作品番号を付けなくなっていったのではないかと、考えられるわけです。
そこで今日は、「なぜ賢治はある時期から作品番号を付けなくなっていったのか?」ということについて、考えてみたいと思います。
しかしこの問題は、裏を返せば「なぜ賢治はある時期までは作品番号を付けていたのか?」ということでもあります。
これについては、天沢退二郎さんと榊昌子さんが、概ね共通した見解を述べておられます。
先週の記事では、「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」の作品が、作品番号や日付を失って「春と修羅 第二集補遺」や「春と修羅 第三集補遺」になっていった経過とのアナロジーによって、「「口語詩稿」の作品も、最初は全て作品番号と日付を有していたが、推敲の過程でそれらを失ったのではないか」と考えてみました。
もしもそうであるなら、「口語詩稿」の作品の初期形に付けられていた作品番号は、現存する「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」の作品番号においては、「欠番」となっているはずです。
一方、「口語詩稿」に属する各作品のスケッチが、『春と修羅』(1922年1月~1923年12月)、「春と修羅 第二集」(1924年2月~1926年1月)、「春と修羅 第三集」(1926年4月~1928年7月)のいずれに時期に属するかを検討すると、『春と修羅』の時期と推測されるものは0篇、「春と修羅 第二集」の時期と推測されるものが7篇、「春と修羅 第三集」の時期と推測されるものが45篇、不明が2篇となりました。
すなわち、「第三集」の時期に着想されたと推測される作品が、大半を占めています。
そこで今回は、「第二集」と「第三集」における「欠番」の状況と、「口語詩稿」の作品の着想時期を対照し、「「口語詩稿」の作品も、最初は全て作品番号と日付を有していたが、推敲の過程でそれらを失った」という上記仮説の当否について、検討してみたいと思います。