「葱嶺先生の散歩」(「春と修羅 第二集補遺」)の中の、「地面行歩にしたがって/小さい歪みをつくる」という表現の意味が、以前から気になっていました。
葱嶺先生の散歩
気圧が高くなったので
昨日固態の水銀ほど
乱れた雲を弾いてゐた
地平の青い膨らみも
徐々に平位を復するらしい
しかも国土の質たるや
それが瑠璃から成るにもせよ
弾性なきを尚ばず
地面行歩に従って
小さい歪みをつくること
あたかもよろしき凝膠なるごとき
これ上代の天竺と
やがては西域諸国に於ける
永い夢でもあったのである
〔後略〕
この部分は、先駆形の「亜細亜学者の散策」(「春と修羅 第二集」)では、「地面が踏みに従って/小さい歪みをなす」となっていて、いずれも地面が「凝膠」でできているような「弾性」があるために、「地面を踏んだら、その箇所が凹む」ということのようです。
昔の天竺や西域の人々が、こんな「ぶよぶよ」した感じの地面を「永い夢」としていたというのは、いったいどういうことなのだろうと不思議に思っていたのですが、最近これと関連しているかと思われる表現に、遭遇しました。
※
その一つは、江戸時代前期に陸奥国安達郡で隠遁生活をしながら専修念仏に励み、近隣の多くの庶民に説法を行っていた「無能」という僧の伝記『無能和尚行業記』(1721)です。
臨終も近くなった無能が、ふと午睡した間に西方浄土の荘厳を見てきたと弟子たちに話したので、弟子たちが師に懇願して、浄土の様子を聞き出した箇所です。
すなはち師に問ひ奉る。浄土の荘嚴は。いかやうに候やと。師いはく。宮殿樓閣は。皆金銀を以て成じ。七寶荘嚴のまき柱。言語の及ぶ所にあらず。地は悉く金色にて輭かなり。履む時は窪み入ること四寸なり。われいまだ此身を捨ずして。早く浄土の荘嚴を見奉ると。生前の大慶何事か。これにしかんと。頻に歡喜の涙を落され侍る。
(『無能和尚行業記』下:『浄土宗全書』18巻p.133)
すなわち、極楽浄土の地面は金色で輭かで、踏むと四寸ほど窪むというのです。
同じく『無能和尚行業記』で、既に無能が遷化した後の部分には、村の齋藤利八という者が病気になって意識を失った際に、阿弥陀如来と地蔵菩薩に金色の糸で導かれて、「不思議の境界」を見てきたという話が載っています。
彌陀如來先に立給ひ。二間ばかりも隔ちて地蔵尊立給へり。其次二間斗ありて某立侍りき。二尊の御手の糸に縋り。念佛申へ御後に随て参り候へは。道も最前よりは。次第に廣くなり。心晴へと覺へけり。天も地も惣て金色に光り輝き。地の色これよりは五色に見えけり。其上を履み行しに。柔かにして。三四寸斗も窪み入やうに覺ゆ。地上には牡丹の様にて。見馴ぬ美しき花。數もしらず咲亂れたり。
(『無能和尚行業記』下:『浄土宗全書』18巻p.141)
すなわちこちらでも、浄土の地面は柔らかで、踏むと三四寸ほど窪むとされています。
この『無能和尚行業記』は、無能の弟子の「厭求」という僧が、陸奥国相馬郡にいた学僧「宝洲」に師の生前の事跡を伝え、宝洲がまとめて著したものでした。
一方その少し後に、同じ村の孝行息子「善之丞」が、地蔵菩薩に導かれて地獄や極楽を巡ってきたという話を、やはり厭求が聴き取り宝洲がまとめて注釈を付け、『孝感冥祥録』として1734年(享保19年)に出版しました。この書は、全国的に多大な人気を博し、1739年までの5年間に一万部以上も刷られたということで、当時としては驚異的なベストセラーになりました。
さらにこの『孝感冥祥録』のテクストは、1782年(天明2年)に、豊富な挿絵の入った読本『孝子善之丞感得伝』として、リメークされ刊行されます。蔦屋重三郎が日本橋に店を出したのが1783年(天明3年)ということですから、ちょうどその頃の話です。
この『孝子善之丞感得伝』は、婦女子にも読みやすく工夫されていたので、その後少なくとも四度は再版されて全国に流通し、その人気は明治時代まで続いたということです(『孝子善之丞感得伝』研究)。
そして、この『孝子善之丞感得伝』の中にも、極楽浄土の地面を踏むと四五寸ほど沈むという話が出てくるのです。
〇瑠璃地の上には、金銀水晶などの宝を以て、魚鱗の如く敷ならべたるに、その間へより柴糸の如く、細く柔かなる物はへ出。其上にはいろへの美しき花降しき、古き花は消て、露をおびたるあたらしき花降かはるなり。道は金銀の縄を以て、蛛網の如く界を分てり。菩薩の仰に「汝踏みて見よ」とて、蓮華よりおろさせ給ふゆへ、一足ふみしかば、柔にしてくぼみ入ること四五寸ばかり、その心よき事たとふべき物なし。足をあぐればその地また本の如くになれり。二足あゆみしかば、あたり一間程の内、にはかに異香薫ずる事甚し。三足あゆめば、いづく共なく無量の音楽鳴出たり。菩薩宣ふ「汝に此地を十足ともふませなば、余りの心よさに念をとられて、見聞せし事共皆忘るべし」とて、則引あげ給わんとす。善之丞面白さの余り、しばしあがらじとすまいけるを、菩薩やがて錫杖にてかきよせ引上給へり。
(『孝子善之丞感得伝』下:『江戸怪異綺想文芸体系』第5巻p.1028)
こういう描写を見ると、極楽浄土の地面が柔らかくて踏むと沈むというのが、何となく心地よさそうにも思えてきます。今で言うなら「毛足の長いふかふかの絨毯の上を歩く」という感じで、極楽の豪華絢爛さを象徴しているのでしょうか。
この『孝子善之丞感得伝』は、全国各地で広く読まれ、たとえば兵庫県の城崎温泉で明治時代まで貸本屋を営んでいた中屋甚左衛門の貸本リストにも収録されているということです(『孝子善之丞感得伝』研究)。
そして明治になってから刊行された本にも、これと同様の極楽の地面の描写が見られます。
下記は、北条的門という浄土宗の僧が1880年(明治13年)に刊行した、『西要鈔弁釈』という一般向け布教書の一節で、女人往生について述べているところです。1735年(享保20年)に亡くなった名古屋の商家の下女が、死後に極楽に往生した様子を、別の下女が夢に見た、という形で書かれています。
遂ニ臨終ノ夕ヘニハ。第十九來迎ノ本願ニ報フテ。阿彌陀如来無數ノ聖衆ト共ニ來迎シ玉フ。先ツ如來ノ靈儀ハ。紫磨黄金ノ肌。見者無壓ノ御姿。八萬四千ノ御相好ヨリ。一一光明ヲ放チ玉フ。此ノ靈儀ヲ拜シ奉ル時ノ嬉シサ悦バシサ。ナカへ言バニモ述ラレ子バ。何ナル嫉マシイ頑シイ女ノ根性モ。我レヲ忘レテ念佛シ。佛ケヲ禮シ奉ルナリ。時ニ觀世音菩薩ハ蓮臺ヲサシヨセ。勢至菩薩ハ頭ヲ撫イダキ抱ヘテ蓮臺ヘ乗セ玉フ。餘リノ嬉シサ忝ナサニ今一返如來ノ尊顔ヲ拜セント頭ヲ擧レバ。早極樂世界ナリ。フト我カ身ヲ見レバ。病ノ床ニ衰ヘテ。渧不浄ニマミレシ身ガ。イツノ間ニヤラ。金色不壊ノ肌トナリ。瓔珞細輭ノ自然ノ妙衣ヲ身ニマトヒ。異香アタリニ薫ジ。三十二相ノ装ヒナレバ。コハ我レナガラビツクリスル程アリガタク。先ツ蓮華ヨリ下リテ佛ヲ禮シ奉ラント。地上ニオリタテバ。陥下四寸ト。クボマル柔サ。結構サ。得モ言レヌ容體。
(『西要鈔弁釈』pp.73-74)
ここでもやはり、極楽の地面を踏むと四寸くぼんだと書かれています。
また、1895年(明治28年)に出版された、木全義順という真宗大谷派の僧の説教集『御正忌御文余滴録』には、次のようにあります。
御經ヤ御和讃デ窺ヘバ先極楽浄土ヲ莊リ立テ地下ノ莊嚴。地上ノ莊嚴。虚空ノ莊嚴ト。三通リニ莊リ立テ先地上ノ莊嚴ヲアラヘ申セバ黄金為地トアリ又瑠璃為地トアリテ黄金瑠璃ガ大地ヂヤ。ソンナラ常住石畳ノ上ニイルヤウナカト云ヘハ陥下四寸随擧足已還復如故トアレバ。ヤワラカナヿハ一足々々ニ四寸程ヅツ踏バクボムトアリ足ヲ擧レバ又元ノ如ク上ル
極楽の地面は黄金や瑠璃でできているけれども、石畳のように硬くはなく柔らかで、歩くとやはり四寸ずつくぼむというのです。
※
以上見てきたように、少なくとも江戸時代以降の日本では、「極楽の地面は柔らかくて、踏むと沈む」という認識が、かなり広く共有されていたようです。
このような認識を背景として、賢治は「葱嶺先生の散歩」において、「地面行歩に従って/小さい歪みをつくる」という現象を描写し、さらにそれが「これ上代の天竺と/やがては西域諸国に於ける/永い夢でもあった」と書いたのではないでしょうか。それが、極楽浄土の地面の特性なのであれば、人々が夢として憧れるというのも理解できます。
ただ、これまで挙げた例は、いずれも日本の文書の記載であり、「天竺」や「西域」のものではありません。仏教のルーツであるこれらの地域の知識は、日本には一般に様々な「仏教経典」によってもたらされましたが、上記のような極楽浄土の地面の性質は、お経にも書かれているのでしょうか。
これについて調べてみると、浄土信仰の中心的経典の一つである『仏説無量寿経』の中に、類似した記述がありました。釈迦が弟子の阿難に、極楽浄土の様子について説いているところです。
また風はなを吹き散じて佛土に徧滿す、色の次第に随ひて雑亂せず、柔輭光澤にして、馨香芬烈せり。足その上を履むに陥下すること四寸なり。足を擧げをはるに随ひて、還復すること故のごとし。華もちゐをはりぬれば地すなはち開裂す、次でを以て化没して、淸浄にしてのこりなし。
(『国譯佛説無量壽經』:『国譯大蔵經』第三冊p.40)
ご覧のように、足で踏むと四寸凹むというところは、これまで見た江戸期~明治期の日本の文書と同じなのですが、大きな違いは、日本の文書では「地面が凹む」と書かれていたのが、『仏説無量寿経』では「地面に降り積もった花の層が凹む」というところです。まあこれであれば、物理的にはより自然に理解できます。
「四寸」という凹みの深さが共通していることからして、日本の文書の記述は、この『仏説無量寿経』の記載に由来していると考えられますが、なぜか地上に散り敷いた「花」ではなく、「地面そのもの」が凹むとされたことから、いったい極楽の地面はどんな材質でできているのだろうという、不思議な感覚が生まれたのです。
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「花の層が凹む」から「地面が凹む」への奇妙な置き換えは、今回調べた限りでは、江戸時代前期の浄土僧である厭求や宝洲という人々によって行われたように思われるのですが、面白いことに昭和の時代になっても、上記とはまた別に、やはり『仏説無量寿経』の記載を「地面が凹む」かのように解釈する傾向が、存在するように思われます。
その一つは、賢治も親しく接した浄土真宗の僧、暁烏敏(1877-1954)の説法です。
世に幽霊と云ふものが語られますが、幽霊には足がない。右から風が吹けば左へふらへ、左から風が吹けば右へふらへしてゐる、ですから幽霊は行くところへ行けぬと歎きます。彼は自分の足で歩まず、唯、風のまにへ吹かれて、ゆらへしてゐますから、行く所へ行かれないのは無理もありません。仏陀は、自分の歩む足を持たぬ幽霊ではない。確に自分の足で生活する人であります。自分の中心の願があつて、その願成就の足取りで歩く方であります。一歩々々大地を踏みしめて行かれるのであります。『無量寿経』の終りには菩薩の此の生活態度を「陥下四寸」といふ言葉で現はしてあります。花弁が散り敷いてゐる。その上を、菩薩が歩まれますと、菩薩の足の下に大地が四寸、沈んで行く、と書いてあります。
北国の雪の頃になると、雪の上を歩くと足がぞつへと沈んで行く事がありますが、いやしくも足を運ばない。どつしりへ歩んでゆく、そのどつしりへ足を運んで行くのは自覚者の姿であります。(暁烏敏『世と共に世を超えん』1954)
ここには、『無量寿経』から引用して、散り敷かれた花弁にも触れていますが、しかしそこを菩薩が歩くと、「大地が四寸、沈んで行く」というのです。もとの『仏説無量寿経』の花弁の絨毯の描写は、極楽浄土の柔和で繊細な様子の象徴だったと思うのですが、これを暁烏敏は、確固とした歩調でどっしりと大地を踏むという、勇壮な姿へと読み替えているところが興味深いです。
また次の文章は、暁烏と同世代の浄土宗僧侶で陸軍士官学校教授も務めた、大村桂巌(1880-1954)という人の随想です。
今この京都への旅も、其の伴の一つである。この旅の私の心持は、其の歩みの一足一足が貴い浄土の大地の上を践んでいるような気がした。大無量寿経の中に、浄土の大地は「陥下四寸」と言つて一歩々々足の上げ下げに従つて四寸の間隔が上つたり下つたりする。丁度椅子のスプリングのぼかりへと上がり下がりするように説いてあるが、京都の街が、知恩院の境内が、陥下四寸の浄土を践んでいる心地がした。
(『東運爾語』1955)
やはりこちらでも、『無量寿経』のテクストを前提としながらも、歩くと大地そのものが、「椅子のスプリング」のように上がり下がりすると解釈しています。
「極楽浄土の大地を踏みしめると凹む」という言説は、上記のように様々な文脈で現れてきますが、これらを下敷きにして、賢治は「葱嶺先生の散歩」や「亜細亜学者の散策」にあるような想像力を働かせたのだろうと、考える次第です。
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