今日は、先月の宮沢賢治学会夏季セミナー「賢治文学の奏でるうた」で使用したスライドを、いくつか紹介させていただきます。
私が担当した基調報告「宮沢賢治と音楽」では、(1)「賢治の音楽体験と歌曲創作」、(2)「賢治作品における「語り」と「歌」の連続性」、という主に二つの話題について、お話をしました。
(1)賢治の音楽体験と歌曲創作
宮沢賢治が創作(作曲/替え歌化)した数多くの歌曲の背景には、彼が幼少期から意識的・無意識的に享受してきた、様々な音楽の影響があるはずです。そのような意味における、賢治の「音楽体験」と「歌曲創作」をリストにすると、下のような感じになります。
赤字で書いてあるのは、「西洋音楽系」の音楽、緑字で書いてあるのは、「日本伝統音楽系」の音楽です。
いくつか説明を加えると、上の方の赤字の部分の大半は、左側のジャンルの元歌を、賢治が右側で「替え歌」にしたものです。ただこのうちで、「浅草オペラ」から「星めぐりの歌」に矢印が向いているのは、浅草で上演された「カルメン」の劇中歌「酒場の唄」から、賢治は「星めぐりの歌」のインスピレーションを得たのだろうという、中村節也さんの指摘に拠っています。
「わらべ唄・子守歌」から「牧歌」に向く矢印は、「「牧歌」の旋律」という記事に書いたように、この歌のメロディーが日本伝統音楽の「三音旋律」に則っており、とりわけ「紫波地方の子守歌」に似ていることによります。
「民謡・民俗芸能」と、「剣舞の歌」「大菩薩峠の歌」「太陽マヂックの歌」が結びつけられているのは、これらの賢治の歌曲は、いずれも小泉文夫氏の分類による「民謡音階」に則っていることによります。
「声明」と「北ぞらのちぢれ羊から」が関連づけられているのは、声明(賢治にとっては「正信偈」の読誦など)は、小泉分類では「律音階」に基づいており、「北ぞらのちぢれ羊から」の旋律もまた、ほぼ律音階でできていることによります。
さて、最初に掲げた「賢治の音楽的インプットとアウトプット」のスライドに戻ると、まず一見して感じるのは、賢治の音楽体験の幅広さ・多様性です。しかもこれらの大半は、単に受動的に享受したものではなく、西洋音楽系のSPレコードや、浅草オペラや、讃美歌など、いずれも彼がことさら愛好して、積極的に聴いていたものです。軍歌を一時愛唱していたことも、先日「賢治と軍歌」でご紹介しました。
日本伝統音楽系では、声明については4歳頃に「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦していましたし、義太夫節も子供の頃に、祖父がレコードを聴く際の蓄音器係として、素早く盤を操作すべく、曲名や節回しを暗記してたそうです(宮沢清六「兄とレコード」)。薩摩琵琶は、中学時代に寄宿舎で流行して賢治も入れ込み、親戚の前で披露して涙を誘ったという逸話があります。
もちろん現代日本でも、昔の音楽から最新の世界各国の音楽まで、その気になれば多彩な音楽を聴くことは可能ですが、しかし一人の人間が、西洋のクラシックもポピュラーも、日本の民俗芸能も声明も、義太夫節も薩摩琵琶も、全て精通して楽しんでいるというのは、非常に稀なことではないでしょうか。
そしてさらに賢治は、そのような多彩なジャンルの音楽を単に享受するだけでなくて、上のスライドをご覧いただいたらわかるように、それら全ての音楽様式を活用して、自分の音楽創作にも反映させているところが、これまた凄いことだと思います。
彼の内部は、「古今東西の音楽様式の坩堝」とも言える状態だったのではないでしょうか。
すなわち賢治という人は、当時としては享受可能なほとんどの音楽を目いっぱい摂取し、そして自分が吸収した多様な音楽を、余すところなくまた全て用いて表現する、という営為を行っていたと言えるでしょう。
考えてみると、このような賢治の表現活動の特徴は、何も音楽だけに限ったことではなく、他の活動分野にも当てはまることのように思えます。
賢治は若い頃から、宗教や古今東西の思想や自然科学など、様々な事柄に対する知的好奇心が旺盛で、貪欲に知識を吸収していきました。そして詩や童話を書く際には、そのようにして身に付けた博識を総動員して、創作を行ったのです。特に口語詩においては、科学などの専門的な学術用語がぽんぽん飛び出してくるものですから、きちんと理解して読むためには「宮澤賢治語彙辞典」が必要になるくらいです。まだしも童話では、学術用語の使用は慎重に抑えられていますが、「グスコーブドリの伝記」や「銀河鉄道の夜」における自然科学的知見、「ひかりの素足」や「二十六夜」における宗教的趣向などは、十分に専門的と言いうるものです。
これは、「表現者」としての宮沢賢治のスタイルの、大きな特徴ではないでしょうか。賢治は自らの創作のためには、上記のようにあらゆる素材を摂取し吸収し、そしてそれらの全てを惜しみなく投入して、表現活動を行う人だったと言えるでしょう。
賢治のこの表現スタイルのことを、私は「全吸収 ⇒ 全表出」と言い表してみたいと思います。
さらにそれ以外に賢治の歌曲や文学の特徴として、「異質なものが隣接・同居している」ということも、挙げることができます。
賢治の音楽については、林光さんが「日本音階と西洋音階とが調和しないまま握手だけしている」と表現されましたが、「飢餓陣営」や「種山ヶ原の夜」などの劇では、西洋音楽系の歌と、日本伝統音楽系の歌とが、キメラのように混在しています。
童話でも、「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」では、「この世界」のすぐそばに「異界」があるという構造になっていますし、詩においても、現実界と幻想界は、シームレスに移行します。
またもう一つの特徴としては、歌曲も文学も、作品そのものは「単純・素朴」である一方、その奥深さは「余白」「余韻」を漂わせ、受け取る者の想像力を刺激せずにおかないということも言えるでしょう。
総じて賢治の音楽も、詩や童話などの文学と同じような特徴を共有しており、結局これが宮沢賢治という人の創作スタイルなのだなあと、あらためて感じられます。
(2)賢治作品における「語り」と「歌」の連続性
さて次の話題は、このセミナーの「賢治文学の奏でるうた」というタイトルにも込められていることですが、賢治の「文学=言葉」からは、なぜか「うた=音楽」が色濃く感じられる、という現象についてです。
これについては、宮沢清六さんが、生前の賢治による朗読を再現しようと試みた、「原体剣舞連」の朗読の録音(有信堂マスプレス『現代詩集(3)宮沢賢治詩集』附録ソノシート)をお聴きいただくのが、格好の手がかりになります。当日の会場では、この録音を抜粋してお聴きいただいたのですが、清六さんの朗読の最初の方のしばらくは、独特の「歌うような朗読」が続き、それが途中から次第に「語るような歌」へと変容していって、最後は「剣舞の歌」として、独立した歌曲に数えられる「歌そのもの」になって、終わるのです。
賢治ももちろんですが、弟の清六さんによるこの朗読も、まさに「文学が奏でるうた」という調子が出色で、この二人の兄弟は、いったい何故このような芸当ができるのだろうと、驚嘆せざるをえません。
このような賢治と清六の感覚の由来を考えてみると、二人とも幼い頃から、義太夫節を愛好する祖父喜助に言われるがままに、義太夫節のレコードをかける役割を日常的に担当し、その節回しまで覚えてしまったということに思い当たります。
そこで、音楽としての義太夫節の研究者である山田恵美子氏の、「義太夫節の音楽構造と文字テクスト」という論文を参照すると、義太夫節というものは、「語り」から「歌」に至る、様々な段階を成す声や三味線が、複雑に絡み合って構築されているのだということです。
下の表は、山田恵美子氏の上記論文からの引用ですが、義太夫節における最も通常の「語り」である「演劇的せりふ」から、最も「歌」としての性格の強い「朗誦」に至るまで、細かく見れば10段階もの表現形態を、整理したものです。
この10段階の中で、上から6番目、「語り」と「歌」の中間あたりに位置する「吟誦」の「詞ノリ」の例として、山田氏は「義経千本桜」の「鮓屋の段」の一節を挙げておられます。譜例は、上記論文からの引用です。
この部分を、YouTubeの動画から挙げておきます。太夫は竹本住太夫、三味線は野澤錦糸です。
「無意識的等時価」と山田さんが書いておられるように、「タタタ タタタタ タタタタ ター」というような一定のリズムを刻み、三味線に乗って律動的に語られます。
次に、最も「歌」としての性格の強い「朗誦」の例として、山田氏は「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋の段」の一節を挙げておられます。譜例は同じく上記論文からです。
この部分を、やはりYouTubeの動画から挙げておきます。太夫は竹本津太夫、三味線は竹澤団七です。
こちらの「朗誦」は、各音節を延ばしながら、文字通り「朗々と」謡う感じです。
義太夫節における表現は、このように「語り」から「歌」へと、ほぼ連続的につながっており、これについて山田恵美子氏は、次のようにまとめておられます。
義太夫節では、「ことば」から次第に音楽的旋律になっていくその中間的段階が多様であり、その段階は「グラデーション」のように緩やかに次第に変化していくように思われる。(山田恵美子「義太夫節の音楽構造と文字テクスト」より)
すなわち、山田氏の言葉を借りれば、義太夫節には「語りから歌へのグラデーション」が存在するわけです。
賢治と清六の兄弟は、幼少期からこのような特性を持った義太夫節に親しむことによって、「語られる言葉」と「歌われる音楽」との間を、自由に行き来しつつ表現するという感覚を身に付けることができたので、それがあのような「原体剣舞連」の朗読に結実したのではないでしょうか。
その「グラデーション」が、10もの段階に細かく分れて繊細な表現を生むのは、確かに義太夫節の特徴的な点だろうと思いますが、しかし考えてみると、このように「言葉」と「音楽」がある程度連続的に表現されるということは、他のジャンルにおいても見られます。
そこで、下のような表を作ってみました。
「声明」の例として、賢治が暗誦していた「正信偈」は、真宗大谷派においては、通常の朗読に近い早口の読み方から、一音一音を長々と延ばして歌うような唱え方まで、上のように9種類もの段階があるのだそうです。
また「薩摩琵琶」では、通常の語りの部分の「基吟」から、琵琶の胴を叩きつつ合戦の場面を語る「崩レ」や、情感を込めて切々と語る「吟替リ」を経て、和歌や漢詩を吟じる「吟詠」まで、やはり語りから歌に向かうグラデーションが存在します。
これは西洋のオペラでも同じで、台詞を歌うように語る「レチタティーヴォ」と、完全な歌である「アリア」との間に、「レチタティーヴォ・アリオーソ」などという、中間的な段階もあるのです。
現代の「ラップ」というのも、言わば「語り」と「歌」の中間にある表現形態と言えますが、その中には通常の語りに近い「ヴァース」の部分と、いわゆるサビのように、一定のメロディーを繰り返し聞かせる「フック」という部分があります。
以上のように、賢治は幼少期から義太夫節や声明に親しむことを通して、「言葉」と「音楽」が不可分につながっている状態を体得し、これが後年の詩や童話の創作において、「音楽が根底にある言葉」を生み出す素地になったのではないかと思われます。
上に引用した、賢治が上京中に父に宛てた書簡では、無理をしてオルガンのレッスンまで受けている理由として、「音楽まで余計な苦労をするとお考へでありませうがこれが文学殊に詩や童話劇の詞の根底になるものでありまして、どうしても要るのであります」と述べ、彼の文学にとっていかに音楽が大切なものかということを、切々と訴えています。
賢治が紡ぎ出す言葉が持つこのような音楽性を、最も早い段階で見抜いていた人は、詩人の永瀬清子だったのではないかと思います。永瀬は、賢治が亡くなってからまだ日も浅く、やっと『全集』が世に出始めた1935年(昭和10年)の時点で、次のように書いているのです。
宮澤さんは詩を必ずやリズムとして心に想起した人であらうと思ふ。「春と修羅」をよんだ時おぼろげにそれを感じたが次第に色々の方面から彼を知るにしたがつて綜合すると、これは彼の特長の一つとして動かし得ないものとしてよいと思ふやうになつた。彼は、詩が紙に書かれない以前、まだもやもやの星雲状態である時にすでにリズムある言葉で以て、物を観たり感じたりした人であるにちがひない。(永瀬清子「宮澤賢治の韻律」:『宮澤賢治研究 1』宮沢賢治友の会, 1935)
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