広島原爆供養塔の「雨ニモマケズ」詩碑

 広島の平和記念公園内にある原爆供養塔の傍らに、「雨ニモマケズ」の詩碑があると、つい先日お教えいただきました。それで昨夜は広島市内に泊まり、早起きをして原爆供養塔にお参りをした後、その「雨ニモマケズ」詩碑を見学してきました。

原爆供養塔
原爆供養塔

 原爆供養塔は、上写真のような「土饅頭」の上に、石造の相輪が立てられたもので、内部には原爆の犠牲になった身元不明の遺骨約7万柱と、氏名のみ判明している遺骨812柱が納められています。

 爆心近くのこの場所には、原爆投下まで「慈仙寺」というお寺がありました。それで今も中洲の突端は、「慈仙寺の鼻」と呼ばれています。しかしその堂宇は、一発の爆弾によって跡形もなく壊滅し、境内のあった場所には、広い空間が残されました。
 そのお寺跡の空き地には、誰が指示したわけでもなく、被爆直後から市内各所の身元不明の遺体が運び込まれ、臨時の火葬場のようになりました。またある時期からは、この場所でいくつかの寺の僧侶たちが、犠牲者を弔うお経を上げるようになり、いつしかここは、引き取り手のない遺骨の供養の中心地となっていったのです。

 この場所に関わっていた僧侶たちは、その後「戦災死没者供養会」を立ち上げて、広島市に対し働きかけを行った結果、1946年5月にこの地に簡素な「原爆供養塔(初代)」が建てられました。7月には市民の喜捨によって、バラック建ての納骨堂と礼拝堂が完成しました。
 原爆投下から一周年、仏教的には三回忌にあたる1946年8月6日、供養塔の前で各宗派合同の慰霊祭が開かれ、以後1952年に丹下健三設計の「原爆死没者慰霊碑」が完成するまでは、この場所が8月6日の原爆慰霊の場所となっていました。

 一方、広島市と国は1950年頃から、この一帯を含めた中洲全体を、平和記念公園とする計画を進めていきます。その際に国からは、「公園の中に墓地は設置できない」という規定を根拠に、原爆供養塔を移転することも求められました。しかし1955年、様々な関係者の奮闘によって、平和記念公園の一角となる同じ場所に、下の写真のような、直径16m・高さ3.5mの円墳状の、現在の原爆供養塔が完成したのです。(以上の記載は、主に堀川惠子著『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』に拠っています。)

原爆供養塔

 今回、私に「雨ニモマケズ」詩碑に関する情報をお寄せいただき、今朝も案内して下さったのは、この供養塔の清掃を20年以上も欠かさず毎朝続けておられる、渡部和子さんです。
 渡部さんは、たまたま当サイトの「小倉豊文流「宮沢賢治葬」」という記事をお読みいただいて、同記事にコメントする形で「雨ニモマケズ」詩碑についてお知らせ下さり、その後何度かのメールのやり取りを経て、今日の訪問に至った次第です。

 渡部さんは毎日、夜明けから2時間あまり供養塔の清掃をされるというスケジュールをお聞きして、私は今朝の日の出時刻を調べ、6時50分頃に供養塔前にうかがったのですが、既に渡部さんは力強い箒の音で、供養塔周囲の清掃を始めておられました。
 声をお掛けしてご挨拶をした後、一緒に供養塔の裏手に廻って、「雨ニモマケズ」詩碑を見せていただきました。ちなみに、上の写真にある供養塔南側が一般的には「正面」で、ここで手を合わせて礼拝をするようになっているのですが、渡部さんによれば、その反対側で納骨室への入口がある北側も含めて、「両方が正面」なのだそうです。その証拠に、納骨室の扉を開けると、阿弥陀様がこちらを向いて迎えてくれるのだということです。

 さて、原爆供養塔の北側は、下の写真のようになっています。

原爆供養塔北側
原爆供養塔北側

 「雨ニモマケズ」詩碑は、写真の向かって左端の方で、石柱に立てかけてあるように見える黒い「板」のようなものです。

 その碑の近景は、下写真です。

「雨ニモマケズ」詩碑

 きちんと御影石に彫られた石碑ですが、地面に固定されているわけではなくて、後ろの石柱に斜めに立てかけて置かれている状態です。
 相当に重たいものですが、数日前に初めて渡部さんが裏返してみると、下のような碑陰がありました。

「雨ニモマケズ」詩碑碑陰

平成二十四年三月十一日
東日本大震災供養之日

比叡山延暦寺
 長﨟天台宗大僧正
行者山太光寺
 大法印名誉住職
    小林隆彰 寄贈

 すなわちこの碑は、比叡山延暦寺の長﨟であり、広島市西区太光寺の名誉住職である小林隆彰師が、2012年3月11日の東日本大震災一周年の供養のために、ここ広島の原爆供養塔に寄贈されたというわけです。
 小林隆彰師は、これまで延暦寺執行、叡山学院院長、延暦寺学問所所長などを歴任し、現在は天台宗僧侶の最高位である大僧正になられ、かつ延暦寺の長﨟という地位に就いておられます。宮沢賢治に関する造詣も深く、1996年の賢治生誕百周年には関西記念事業委員会の会長を務め、根本中堂前に立つ「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」という銘板も、識しておられます。

 広島の原爆死没者と、「雨ニモマケズ」の詩とは、それ自体直接のつながりはありませんが、以前に「小倉豊文流「宮沢賢治葬」」という記事に書いたように、賢治研究者の小倉豊文氏が一家で被爆し、13日後に奥様が原爆症で亡くなった際に、小倉氏は「宮沢賢治葬」と銘打って、子供たちと一緒に「雨ニモマケズ」の詩を合唱し、妻の供養としたのです。
 その意味で、この原爆供養塔に置かれている「雨ニモマケズ」詩碑は、まさにその「宮沢賢治葬」を彷彿とさせるものです。

 加えて今回、渡部さんがご指摘下さったのですが、先に記したように現在の原爆供養塔が完成したのが1955年夏で、これと同時に、小倉豊文氏が千葉県東金市の小倉家墓所に賢治の絶筆短歌を刻んだ「供養碑」を建立したのも、同じく1955年の8月6日だったのです。
 そこで小倉家墓所の様子を思い出してみると、下写真のように絶筆短歌の碑の右隣には、半球状のドーム型のモニュメントが、やはり「昭和三十年八月六日建之」として設置されていたのです。

小倉家墓所
千葉県東金市の小倉家墓所:右側には半球状のドームがある

 私は、昨年このドーム型の御影石を見た際には、その意味がよく分からなかったのですが、今回それがはっきりと分かった気がします。これはきっと、同じ1955年に広島に建設された「原爆供養塔」の土饅頭を、小倉豊文氏がここに再現されたのではないかと思うのです。

 ということで、現在はまだこの原爆供養塔の「雨ニモマケズ」詩碑は、大地にしっかりと据えられたものではありませんが、この場所において末永くいつまでも、原爆と東日本大震災の犠牲者を供養する拠り所でありつづけることを、心から祈る次第です。

 末筆ながら、今回の広島訪問に私をお導き下さった渡部和子さんには、ここに厚く御礼を申し上げます。どうかいつまでもお元気で、「原爆供養塔の守り人」でいて下さるよう、心からお祈りしています。

 ところで、今年は原爆投下から80周年で、7月には10年ぶりに原爆供養塔の納骨室が公開されました。
 下の動画は、そのニュースを広島テレビが伝えるもので、供養塔の清掃を行う渡部和子さんの姿と、そのインタビューもご視聴いただけます。多くの方にご覧いただけましたら幸いです。

 以下に、平和記念公園とその周辺で、今日の午前中に撮ってきた何枚かの写真を、貼っておきます。
 早朝に原爆供養塔にお参りをした後は、7時30分からの予約で平和記念資料館を見学して、その後周辺も少し散歩してきました。とても充実した午前中でした。

平和祈念像と草野心平詩碑
平和祈念像と草野心平詩碑

平和記念公園の黄葉
平和記念公園の黄葉

原爆死没者慰霊碑
原爆死没者慰霊碑

原爆ドーム
原爆ドーム

元安川対岸から望む平和記念公園
元安川対岸から望む平和記念公園