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    <title>宮澤賢治の詩の世界</title>
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    <updated>2026-04-14T14:07:45Z</updated>
    <subtitle>賢治の作品や生涯／ハイパーリンクされた詩草稿／賢治の歌曲／全国の文学碑…</subtitle>
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    <title>作品番号･日付の喪失(2)</title>
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    <published>2026-04-12T10:06:19Z</published>
    <updated>2026-04-14T14:07:45Z</updated>

    <summary>　先週の記事では、「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」の作品が、作品番号や...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="「口語詩稿」" label="「口語詩稿」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="スケッチ日付" label="スケッチ日付" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="作品番号" label="作品番号" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
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        <![CDATA[<p>　<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/04/post_1188.htm" target="_self" title="">先週の記事</a>では、「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」の作品が、作品番号や日付を失って「春と修羅 第二集補遺」や「春と修羅 第三集補遺」になっていった経過とのアナロジーによって、「<strong>「口語詩稿」の作品も、最初は全て作品番号と日付を有していたが、推敲の過程でそれらを失ったのではないか</strong>」と考えてみました。<br>　もしもそうであるなら、「口語詩稿」の作品の初期形に付けられていた作品番号は、現存する「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」の作品番号においては、「欠番」となっているはずです。</p>
<p>　一方、「口語詩稿」に属する各作品のスケッチが、『春と修羅』（1922年1月～1923年12月）、「春と修羅 第二集」（1924年2月～1926年1月）、「春と修羅 第三集」（1926年4月～1928年7月）のいずれに時期に属するかを検討すると、『春と修羅』の時期と推測されるものは0篇、「春と修羅 第二集」の時期と推測されるものが7篇、「春と修羅 第三集」の時期と推測されるものが45篇、不明が2篇となりました。<br>　すなわち、「第三集」の時期に着想されたと推測される作品が、大半を占めています。</p>
<p>　そこで今回は、「第二集」と「第三集」における「欠番」の状況と、「口語詩稿」の作品の着想時期を対照し、「「口語詩稿」の作品も、最初は全て作品番号と日付を有していたが、推敲の過程でそれらを失った」という上記仮説の当否について、検討してみたいと思います。</p>]]>
        <![CDATA[<p style="text-align: center">※</p>
<p>　まず、「春と修羅 第二集」に属する各作品の「日付」を横軸に、「作品番号」を縦軸にしてグラフにすると、下図のようになります。</p>
<div style="width: 597px; max-width: 100%;">
<p style="margin: 0; text-align: center; font-weight: bold"><strong>「春と修羅 第二集」各作品の日付と作品番号</strong></p>
<p style="margin: 0;"><a href="https://ihatov.cc/images/opus_2.png"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/04/opus_2-thumb-597xauto-1109.png" width="597" height="472" alt="「春と修羅 第二集」各作品の日付と作品番号"></a></p>
</div>
<p>　「春と修羅 第二集」の作品を日付順に配列すると、作品番号「二」の「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/080_d.htm" target="_self" title="">空明と傷痍</a>」に始まって、作品番号「四〇三」の「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/193_d.htm" target="_self" title="">岩手軽便鉄道の一月</a>」に終わり、この間の作品番号は概ね増加していくのですが、グラフをご覧いただいたらわかるように、途中で不規則な挙動をする箇所が、いくつかあります。</p>
<p>　一方、「春と修羅 第三集」および「詩ノート」の各作品を、やはり「日付」を横軸に、「作品番号」を縦軸にしてグラフにすると、下図のようになります。</p>
<p style="margin: 0; text-align: center; font-weight: bold"><strong>「春と修羅 第三集」「詩ノート」各作品の日付と作品番号</strong></p>
<p style="margin: 0;"><a href="https://ihatov.cc/images/opus_3c.png"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/04/opus_3c-thumb-640xauto-1114.png" width="640" height="381" alt="「春と修羅 第三集」「詩ノート」各作品の日付と作品番号"></a></p>
<p>　こちらは、「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/228_d.htm" target="_self" title="">七四三 〔盗まれた白菜の根へ〕一九二六、一〇、一三、</a>」から「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/229_d.htm" target="_self" title="">一〇〇一 〔プラットフォームは眩くさむく〕一九二七、二、一二、</a>」の間に作品番号の跳躍がある以外は、漸進的に増加しています。とりわけ初期形の「詩ノート」に基づけば、「一〇〇一」から最後の「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/382_d.htm" target="_self" title="">一〇九二　藤根禁酒会へ贈る　一九二七、九、一六、</a>」までの間は、唯一の欠番である「一〇九一」を除いて、全て連続した番号になっています。<br>　ただし、上のグラフで線が途切れている「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/297_d.htm" target="_self" title="">〔いろいろな反感とふゞきの中で〕三、一六、</a>」と「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/312_d.htm" target="_self" title="">〔いくつの　天末の白びかりする環を〕三、三一、</a>」の2作品と、最後の3作品「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/272_d.htm" target="_self" title="">台地　一九二八、四、一二、</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/273_d.htm" target="_self" title="">停留所にてスヰトンを喫す　一九二八、七、二〇、</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/274_d.htm" target="_self" title="">穂孕期　一九二八、七、二四、</a>」は、作品番号を欠いています。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　次に、「春と修羅 第二集」と、「春と修羅 第三集」「詩ノート」における、作品番号の「欠番」を列挙すると、次のようになっています。（算用数字で表記しています）</p>
<p style="margin: 0; text-align: center; font-weight: bold"><strong>「春と修羅 第二集」の作品番号欠番</strong></p>
<div style="border: 2px dotted #c0c0c0;">
<p style="margin: 10px;">1, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,<br>10, 11, 12, 13 15,<br>20, 22, 23, 24, 26, 28,<br>30, 31, 32, 33, 34, 36, 37, 38, 39,<br>41, 42, 43, 44, 47, 48, 49, 50, 51, 54, 55, 56, 57, 58, 59,<br>60, 61, 62, 63, 64, 65, 66, 67, 68,<br>70, 71, 72, 76, 77, 79,<br>80, 81, 82, 83, 84, 85, 87, 88, 89,<br>94, 95, 96, 97, 98,<br>100, 101, 102, 103, 104, 105, 107, 108, 109, <br>110, 111, 112, 113, 114, 115, 117, 119,<br>120, 121, 122, 124, 125, 127, 128, 129,<br>130, 131, 132, 134, 135, 136, 137, 138,<br>140, 141, 142, 143, 144, 146, 147, 148, 149,<br>150, 151, 153, 159,<br>160, 161, 162, 163, 164, 165, 167, 168, 169,<br>170, 172, 173, 174, 175, 176, 177, 178,<br>180, 182, 183, 185, 186, 187, 188, 189,<br>190, 192, 193, 194, 197, 198, 199,<br>200,<br>302, 303, 306, 308,<br>310, 312, 315, 316, 318, 319,<br>321, 322, 323, 325, 328,<br>332, 334, 339,<br>341, 342, 344, , 346, 347, 349,<br>352, 353, 354, 355, 357,<br>367,<br>371, 373, 376, 379,<br>380, 381, 382,<br>402, 403, 404, 405, 406,<br>412, 413, 414, 416, 417, 418,<br>505, 507, 509,<br>510, 512, 513, 514, 516, 517, 518</p>
</div>
<p>　「春と修羅 第二集」の期間における、作品番号の欠番は、全部で212個あります。<br>　これだけの余地があれば、「口語詩稿」のうちで「春と修羅 第二集」の時期に属すると推測される7篇が、その現存しない初期形態においては、上記のいずれかの欠番を付与されていたと想定することは、十分に可能です。</p>
<p>　一方、「春と修羅 第三集」および「詩ノート」における作品番号の「欠番」を列挙すると、次のようになっています。（算用数字で表記しています）</p>
<p style="margin: 0; text-align: center; font-weight: bold"><strong>「春と修羅 第三集」「詩ノート」の作品番号欠番</strong></p>
<div style="border: 2px dotted #c0c0c0;">
<p style="margin: 10px;">701, 702, 703, 704, 705, 707, 708,<br>710, 712, 713, 716, 717, 719,<br>720, 721, 722, 723, 724, 725, 729,<br>732, 737,<br>1091</p>
</div>
<p>　「春と修羅 第三集」の期間における欠番は、全部で23個あります。<br>　上のグラフの方で見たように、「詩ノート」において作品番号七四五の「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/287_d.htm" target="_self" title="">〔霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ〕一九二六、一一、一五、</a>」から、作品番号一〇〇一の「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/288_d.htm" target="_self" title="">汽車　一九二七、二、一二、</a>」の間には、番号の跳躍がありますが、保存されている「詩ノート」のページは連続しており、この間の番号に、作品は割り当てられていなかったものと推測されます。</p>
<p>　となると、「春と修羅 第三集」の時期における作品番号欠番は、上に挙げた「23個」のみということになります。この数は、「口語詩稿」のうちで「第三集」の時期の作品と推測される「45篇」という数には遠く及ばす、その約半分にしかすぎません。<br>　すなわち、「口語詩稿」のうち「第三集」の時期の作品に、作品番号の欠番を全て割り振っても、約半分しか埋まらないのです。</p>
<p>　つまり、<strong>「口語詩稿」の中で、「第三集」の時期にスケッチされた作品のうちの相当数は、最初から作品番号は持っていなかった</strong>と、考えざるを得ません。今回の記事で当初想定していた、「「口語詩稿」の作品も、最初は全て作品番号と日付を有していたが、推敲の過程でそれらを失った」という仮説は、ここに否定されたわけです。</p>
<p>　言い換えれば、「口語詩稿」に属する「第三集」相当時期の作品のうち、<strong>少なくとも半分程度は、最初から作品番号を持たない形で創作された</strong>ということになります。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　このような事実を受けとめた上で、賢治の口語詩の創作経過を見てみると、たしかに1928年においては、4月の「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/272_d.htm" target="_self" title="">台地</a>」および7月の「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/273_d.htm" target="_self" title="">停留所にてスヰトンを喫す</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/274_d.htm" target="_self" title="">穂孕期</a>」という3作品に、作品番号は付けられていませんし、同年6月の「三原三部」と「東京」にも、また「装景手記」の中で同年6月の花巻帰郷直後と推測される「<a href="https://ihatov.cc/sokei/504_d.htm" target="_self" title="">〔澱った光の澱の底〕</a>」にも、やはり作品番号は付けられていません。<br>　すなわち、賢治は1928年以降は、1924年以来の創作方針を大きく変更して、「作品番号は付けない」という形にしたのだろうと、考えることができます。</p>
<p>　そして、今回確認したことからすると、このように1928年になって顕在化する「作品番号を付けない」という創作態度の変化は、1927年以前に書かれた「口語詩稿」のうちから、徐々に現れてきていのだろうと、考えてみることができます。</p>
<p>　なぜ賢治が、一部において「作品番号を付けない」という方針に転換したのか、その意味や理由はわかりません。しかし、さらにその後の「疾中」や文語詩を見ると、「作品番号」はもとより「日付」も記されなくなっていくわけですから、これは賢治におけるこのような「創作方針の大きな変化」の、その一部分を成しているのかもしれません。</p>
<p>　そのような「創作方針の変化」が、趨勢として存在するのならば、「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」の作品の一部が、推敲されるうちに作品番号も日付も喪失して、「春と修羅 第二集補遺」や「春と修羅 第三集補遺」へと推移していくという現象も、その変化の一部を成しているのだと、考えることも可能です。<br>　ただしかし、その一方で、晩年における「第二集」「第三集」の推敲においても、作品番号と日付を変わらず維持しつづけた作品も多数あるわけですから、「作品番号・日付の喪失」という一つの「流れ」だけが存在するわけでもありません。</p>
<p>　すなわち、<strong>賢治の口語詩においては、「作品番号・日付の維持」と、「作品番号・日付の喪失」という、二つの流れが並行して存在している</strong>ということが、言えるのかと思います。<br>　そのような現象が持つ「意味」については、まだ現時点でよくわかりません。</p>]]>
    </content>
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<entry>
    <title>作品番号･日付の喪失(1)</title>
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    <published>2026-04-05T12:23:38Z</published>
    <updated>2026-04-06T23:51:48Z</updated>

    <summary>　『新校本宮澤賢治全集』の第三巻には、「春と修羅 第二集」およびその関連作品が、...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　『新校本宮澤賢治全集』の第三巻には、「春と修羅 第二集」およびその関連作品が、第四巻には「春と修羅 第三集」およびその関連作品が収録されています。<br>　収録作品の分類基準について、同全集の「凡例」には、次のように書かれています。</p>
<blockquote>
<p>第三巻・第四巻には、主として専用の細罫詩稿用紙に書かれた口語詩のうち、作品番号と日付けのあるものを、各詩篇の最終形の日付け順に（最終形に日付けが付されていない場合は、作品番号によって補正する）配列する。作者によって、「春と修羅　第二集」と指定された期間の日付けをもつ作品を第三巻に収め、「春と修羅　第三集」と指定された期間の日付けをもつ作品および「詩ノート」（第三集初期形態）を第四巻に収める。作品番号も日付けもない口語詩のうち、「春と修羅　第二集」作品の発展形とみられるものを「第二集補遺」として第三巻に、「第三集」作品の発展形とみられるものを「第三集補遺」として第四巻に収め、そのどちらにも属さない作品を「口語詩稿」として第五巻に収める。</p>
</blockquote>
<p>　おそらくこの「凡例」の根底にあるのは、「賢治の口語詩においては、作品番号と日付の存在が重要である」という考え方です。<br>　自分の詩の一つ一つに、「作品番号」と「日付」を付けるというのも、他の詩人にはあまり見られない賢治独特の作法だと思いますが、後世の読者である私たちも、作品番号・日付が「付けられている作品」と、「付けられていない作品」とを区別して、上記のように分類・配列し、享受しているわけです。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　この分類方法の結果として私たちは、作品番号と日付が付けられた「春と修羅 第二集」「春と修羅 第三集」所収作品を、何となく彼の口語詩の「メイン・ストリーム」のように受けとめる一方、各々の「補遺」や「口語詩稿」の作品は、「傍流」にあるものと見なしてしまいがちです。<br>　しかし考えてみると、「第二集補遺」「第三集補遺」に分類されている作品形態は、「第二集」「第三集」の作品形態に対して、作者がさらに推敲を加えたものなのですから、通常ならばこちらの方こそ作者の最終的な意図を反映した形態として、より重視すべきとも言えるでしょう。けれども従来の宮沢賢治全集ではそうせずに、あくまでも「作品番号・日付が付けられている状態での最終形」を重視するわけです。</p>
<p>　私は、このような宮沢賢治全集の方針に反対なわけではなく、むしろ現行の全集の、「作品番号と日付の順に配列された詩を、時系列に沿って読んでいく」というスタイルには、長年の愛着を感じますし、これによって作者の内面世界が、眼前に展開していくような気分も、味わわせてもらっています。<br>　そして、このような分類・配列のための不可欠の拠り所となっている、賢治の「作品番号」「日付」というのは、本当に不思議なものだと感じるとともに、いったいこれらの存在にはどんな意味があるのだろうか？という大きな疑問も湧いてきます。</p>
<p>　この疑問の答えは、なかなか簡単に出そうにはありませんが、ここではもう少し基本的な問題から、考えてみることにします。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　その問題の一つは、「「口語詩稿」に属する作品は、最初から作品番号・日付がなかったのか、それとも推敲過程のある段階でそれらを失ったのか？」ということです。<br>　これについては、「春と修羅 第二集補遺」や「春と修羅 第三集補遺」の作品は、ある段階までは「第二集」や「第三集」の作品として作品番号も日付も持っていたのに、さらに推敲を加えられるうちにそれらを失っていったわけですから、「口語詩稿」の作品も、これと同様のプロセスを経て生まれてきたのではないか、という仮説を立ててみることができます。<br>　「第二集補遺」「第三集補遺」の作品には、作品番号・日付を持つその先駆形が残されているのと同じように、「口語詩稿」の作品にも、かつてはそのような先駆形が存在していたのだが、たまたま何らかの理由で失われてしまったのだ、と考えるわけです。<br>　この場合、作品番号と日付を持った「口語詩稿」作品の先駆形は失われている以上、それに付けられていた作品番号は、現在の「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」（および「詩ノート」）では、「欠番」になっているはずです。</p>
<p>　この仮説には、それなりに説得力があるように思われ、たとえば「口語詩稿」に属する「<a href="https://ihatov.cc/kogo/385_d.htm" target="_self" title="">発動機船　一</a>」や「<a href="https://ihatov.cc/kogo/386_d.htm" target="_self" title="">発動機船　三</a>」の例を見てもそうです。<br>　「春と修羅 第二集」には、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/151_d.htm" target="_self" title="">発動機船 [断片]</a>」という、作品番号と日付を持った作品断片が収められており、「春と修羅 第二集補遺」には、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/194_d.htm" target="_self" title="">発動機船　第二</a>」という作品番号も日付もない作品が収められています。<br>　「<a href="https://ihatov.cc/kogo/385_d.htm" target="_self" title="">発動機船　一</a>」も「<a href="https://ihatov.cc/kogo/386_d.htm" target="_self" title="">発動機船　三</a>」も「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/194_d.htm" target="_self" title="">発動機船　第二</a>」も、時間こそ違えど同じ発動機船の描写であると考えられ、いずれも作品番号も日付も持っていないところは同じなのですが、「口語詩稿」と「第二集補遺」に所属が分かれている理由は、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/194_d.htm" target="_self" title="">発動機船　第二</a>」は「ラッパ」が出てきていることで「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/151_d.htm" target="_self" title="">発動機船 [断片]</a>」の発展形と全集編集者が判断したのに対して、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/385_d.htm" target="_self" title="">発動機船　一</a>」と「<a href="https://ihatov.cc/kogo/386_d.htm" target="_self" title="">発動機船　三</a>」には、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/151_d.htm" target="_self" title="">発動機船 [断片]</a>」と共通する描写が認められず、発展形とは認められないからです。<br>　しかし、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/385_d.htm" target="_self" title="">発動機船　一</a>」も「<a href="https://ihatov.cc/kogo/386_d.htm" target="_self" title="">発動機船　三</a>」も、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/151_d.htm" target="_self" title="">発動機船 [断片]</a>」と同じ船における体験を描いた作品である以上、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/194_d.htm" target="_self" title="">発動機船　第二</a>」が「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/151_d.htm" target="_self" title="">発動機船 [断片]</a>」の発展形であるならば、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/385_d.htm" target="_self" title="">発動機船　一</a>」や「<a href="https://ihatov.cc/kogo/386_d.htm" target="_self" title="">発動機船　三</a>」にも、作品番号や日付を有する先駆形があったのではないかと想定するのも、自然なことと言えるでしょう。<br>　このあたりの作品番号の状況を見ると、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/150_d.htm" target="_self" title="">〔水平線と夕陽を浴びた雲〕[断片]</a>」が三四八、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/151_d.htm" target="_self" title="">発動機船 [断片]</a>」が三五一、発動機船を降りてからと思われる「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/152_d.htm" target="_self" title="">旅程幻想</a>」が三五六ですから、これらの間の欠番に、発動機船を描いた作品があったと考えることは可能です。</p>
<p>　<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/03/post_1187.htm" target="_self" title="">先週</a>取り上げた「<a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm" target="_self" title="">軍馬補充部主事</a>」という「口語詩稿」の作品について、信時哲郎さんが書いておられることも、欠番との関係も含めた上記のような仮説に沿うものと言えるでしょう。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　先行作品である「軍馬補充部主事」は黄罫（22 0行）詩稿用紙に書かれているが、この用紙は昭和に入ってから使われたもので、大正十三年には使用されていない。従って「軍馬補充部主事」は大正十三年の取材を昭和に入ってから書き換えたものだということになる。これに先行する作品は見あたらないが、ちょうど「春と修羅 第二集」の作品番号で言うと七九～八五の間に欠番があり（期間で言えば大正十三年四月二八日～五月三日の間）、初期の段階の原稿はここに属していたのだと思われる。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（信時哲郎『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』p.414）</p>
</blockquote>
<p>　すなわち、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm" target="_self" title="">軍馬補充部主事</a>」の先駆形として、七九～八五の間のいずれかの作品番号を持ち、1924年4月28日～5月3日の間の日付を持った草稿が、かつては存在していたものの、その後失われたのだろうと、推測しておられるわけです。前回も述べたように、1924年4月29日に花巻農学校の職員生徒一同は軍馬補充部六原支部に遠足に行ったという記録がありますので、この時に賢治が他の「春と修羅 第二集」の作品と同じように、作品番号と日付を有する草稿を書いたと考えるのは、ごく自然なことと思われます。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　この仮説についてさらに検討するために、「口語詩稿」の各作品が着想された時期が、『春と修羅』「春と修羅 第二集」「春と修羅 第三集」のいずれの期間に属しているのかということについて、考えてみます。<br>　「口語詩稿」の全ての作品について、その着想時期を明らかにすることはなかなか困難ですが、その内容から推測すると、だいたい下の表のように考えられるように思います。</p>
<table border="0" cellpadding="0" cellspacing="0" width="" style="border-collapse: collapse; width: 420px; max-width: 100%">
<tbody>
<tr>
<th style="text-align: center; width: 370px; max-width: 60%">題名</th>
<th style="text-align: center; width: 70px; max-width: 25%">着想時期</th>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/384_d.htm">阿耨達池幻想曲</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/385_d.htm">発動機船　一</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/386_d.htm">発動機船　三</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/387_d.htm">こゝろ</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/388_d.htm">〔めづらしがって集ってくる〕</a></p>
</td>
<td>
<p>不明</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/389_d.htm">心象スケッチ　林中乱思</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/390_d.htm">〔鉛いろした月光のなかに〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/391_d.htm">〔爺さんの眼はすかんぼのやうに赤く〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/392_d.htm">法印の孫娘</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/393_d.htm">第三芸術</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/394_d.htm">夏</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/395_d.htm">蕪を洗ふ</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/396_d.htm">〔何かをおれに云ってゐる〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/397_d.htm">〔こっちの顔と〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/398_d.htm">〔そもそも拙者ほんものの清教徒ならば〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/399_d.htm">〔おぢいさんの顔は〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/400_d.htm">〔鳴いてゐるのはほととぎす〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/401_d.htm">密醸</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/402_d.htm">毘沙門天の宝庫</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/403_d.htm">火祭</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/404_d.htm">霰</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/405_d.htm">三月</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/406_d.htm">牧歌</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/407_d.htm">地主</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/408_d.htm">会見</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/409_d.htm">事件</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/410_d.htm">憎むべき「隈」辨当を食ふ</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/411_d.htm">病院の花壇</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/412_d.htm">〔まぶしくやつれて〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/413_d.htm">〔あしたはどうなるかわからないなんて〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/414_d.htm">保線工夫</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/415_d.htm">会食</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/416_d.htm">〔まあこのそらの雲の量と〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/417_d.htm">〔この医者はまだ若いので〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/418_d.htm">〔みんな食事もすんだらしく〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/419_d.htm">休息</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/420_d.htm">〔四信五行に身をまもり〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/421_d.htm">〔湯本の方の人たちも〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/422_d.htm">来訪</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/423_d.htm">春曇吉日</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/424_d.htm">冗語</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/425_d.htm">〔しばらくだった〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm">軍馬補充部主事</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/427_d.htm">〔熊はしきりにもどかしがって〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/428_d.htm">夜</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/429_d.htm">杉</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/430_d.htm">〔もう二三べん〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/431_d.htm">〔馬が一疋〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/432_d.htm">〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/433_d.htm">審判</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/434_d.htm">〔あかるいひるま〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/435_d.htm">〔高原の空線もなだらに暗く〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/436_d.htm">〔あらゆる期待を喪ひながら〕</a></p>
</td>
<td>
<p>不明</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/437_d.htm">〔黄いろにうるむ雪ぞらに〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集？</p>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>　すなわち、「口語詩稿」に属する作品が54篇あるうちで、着想が「第二集」の時期と推測されるものが7篇、「第三集」の時期と推測されるものが45篇、不明が2篇、ということになります。<br>　すなわち、「第三集」の時期のものと思われる作品が、圧倒的に多くなっています。</p>
<p>　時間の関係で、今回はここまでとして、次回にはそれぞれの時期における作品番号の「欠番」の数について、見てみたいと思います。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a data-mt-asset-id="1108" class="mt-asset-link" href="https://ihatov.cc/images/20260405a.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/04/20260405a-thumb-640xauto-1108.jpg" width="640" height="443" alt="「〔みんな食事もすんだらしく〕」"></a><br>「〔みんな食事もすんだらしく〕」下書稿(一)（『新校本全集』第五巻口絵）</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>軍馬補充部六原支部</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/03/post_1187.htm" />
    <id>tag:ihatov.cc,2026://1.8350</id>

    <published>2026-03-29T12:55:59Z</published>
    <updated>2026-04-05T04:51:51Z</updated>

    <summary>　「口語詩稿」に、「軍馬補充部主事」という作品があります。 　　軍馬補充部主事う...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="「口語詩稿」" label="「口語詩稿」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="〔朝日が青く〕" label="〔朝日が青く〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="軍馬補充部主事" label="軍馬補充部主事" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　「口語詩稿」に、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm" target="_self" title="">軍馬補充部主事</a>」という作品があります。</p>
<blockquote>
<p>　　軍馬補充部主事<br><br>うらうらと降ってくる陽だ<br>うこんざくらも大きくなって<br>まさに老幹とも云ひつべし<br>花がときどき眠ったりさめたりするやうなのは<br>自分の馬の風のためか<br>あるひはうすい雲かげや、<br>かげらうなぞのためだらう<br>よう調教に加はって<br>震天がもう走って居るな<br>膝がまだ癒り切るまい<br>列から出すといゝんだが<br>いやこゝまで来るとせいせいする<br>ひばりがないて<br>はたけが青くかすんで居る<br>その向ふには経塚岳だ<br>山かならずしも青岱ならず<br>残雪あながちに白からずだ<br>五番の圃地を目的に<br>青塗りの播種車が<br>から松をのろのろ縫って行くのは<br>まづ本部のタンクだな<br>いやあ、牧地となると<br>聯隊に居るときとはちがって<br>じつにかんかんたるものだ<br>しかしながら<br>このやうな浩然の大気によって<br>何人もだらけぬことが肝要だ<br>ところが何だ、あのさまは<br>みんなぴたっと座り居る<br>このまっぴるま<br>しかもはたけのまんなかで<br>さんさ踊りをやり居って<br>誰か命令したやうに<br>ぴたりとみんな座り居った<br>おれのかたちを見たんだな<br>雇ひ農婦どもの白い笠がきのこのやうだ<br>まだじっとしてかゞんでゐるのは<br>まるで野原の生蕃だ<br>いったい何といふ秩序だ<br>あすこは二十五番の圃地だ<br>けさ高日技手が玉蜀黍を播くとか云って<br>四班を率ひて行き居ったのに<br>このまっぴるま何ごとだ<br>しかもあの若ものは乗馬づぼんに<br>ソフトカラなどつけ居って<br>なかなかづ太いところがある<br>一番行ってどなるとするか、<br>大人気ないな<br>ははあ開所の祭りが近い<br>今年もやっぱり去年のやうに<br>各班みんな競争で<br>なにか踊りをやるんぢゃな<br>もちろん拙者の意も迎へ<br>衆もたのしむつもりぢゃらう<br>それならむろん文句はない<br>馬のかしらを立て直しぢゃ<br>粋な親分肌を見せるのは<br>かう云ふときにかぎるんぢゃ<br>さっきのうこんざくらをつんで<br>家内に手紙を書くとしやう</p>
</blockquote>
<p></p>]]>
        <![CDATA[<p>　作品の語り手は、作者賢治ではなくて、表題にもある「軍馬補充部主事」なる人物です。桜も咲くのどかな春の陽差しの下を、一人悠々と馬に乗って進んでいます。<br>　膝を怪我した馬を気づかい、遙かに経塚岳を望み、のろのろ進む播種車を<ruby>戦車<rp>（</rp><rt>タンク</rt><rp>）</rp></ruby>に見立て、心はゆったりと寛いでいるようですが、「このやうな浩然の大気によって／何人もだらけぬことが肝要だ」と、軍人らしく気を引き締めています。</p>
<p>　ところがその時、畑の中で農婦たちが「さんさ踊り」をやっている様子が、目に入ります。乗馬ズボンにソフトカラーなどを着けた伊達男までいます。<br>　ここはひとつ、部下の根性を叩き直すために、行って怒鳴ってやろうかとも思いますが、それも大人気ないこと。皆は近く催される「開所祭り」のために、何か演し物の稽古をしているのだろうから、こういう時こそ「粋な親分肌」を見せてやろうと、思い直します。<br>　そして最後は、「さっきのうこんざくらをつんで／家内に手紙を書くとしやう」と、微笑ましい愛妻家の側面も覗かせて終わります。</p>
<p>　老木に咲く桜と、馬たちのいる牧野、遠景の山並み、踊りの稽古をする農婦たちという、春らしい穏やかな風景に、ちょっと頑固そうだけれど優しさも漂わせる軍人という、取り合わせの妙が魅力的な作品です。「浮世絵」のような風合いも感じられます。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　さて、ここに出てくる「軍馬補充部」というのは、1898年から1925年まで、岩手県胆沢郡相去村大字六原（現在の金ケ崎町六原）に置かれていた、「軍馬補充部六原支部」のことです。下の写真は、当時のこの支部の官舎を保存し整備した、「<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%A6%AC%E3%81%AE%E9%83%B7%E5%85%AD%E5%8E%9F%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8" target="_self" title="">軍馬の郷 六原資料館</a>」です。ご覧のような瀟洒な建物で、佐官級の官舎だったということですから、上の「主事」なる人物も、ここで暮らしていた可能性があります。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a href="https://ihatov.cc/images/Rokuhara_Museumu%2CKanegasaki%2CIwate.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/03/Rokuhara_Museumu%2CKanegasaki%2CIwate-thumb-640xauto-1107.jpg" width="640" height="480" alt="軍馬の郷 六原資料館"></a><br>軍馬の郷 六原資料館（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rokuhara_Museumu,Kanegasaki,Iwate.jpg?uselang=ja" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>
<p>　日露戦争頃までは、陸軍において騎兵隊は非常に重要な戦力でしたから、優秀な軍馬を安定して育成し管理することは、国としても大切な事業でした。このため、陸軍の外局として東京に設置された「軍馬補充部」のもと、北海道や東北を中心とした地方各地に、馬の育成と供給を実地で担当する「支部」が置かれました。</p>
<p>　南部馬で有名な岩手県は、江戸時代から日本有数の馬産地でしたが、この「軍馬補充部支部」を岩手県に誘致する上で活躍したのが、獣医師で相去村長も務めた桑島重三郎でした。当時、国の施設である軍馬補充部が六原の地に設置されたことによって、金ケ崎町はもとより、胆沢、江刺、和賀地方の農家に、現金収入の道が開かれたということです。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　明治31年（1898）に設置された陸軍省軍馬補充部六原支部は岩手県南地方に様々な影響を及ぼしました。とりわけ六原、金ケ崎には地方版文明開<ruby>花<rp>（</rp><rt>ママ</rt><rp>）</rp></ruby>といっても過言ではなく、それだけに地域の人々の施設に寄せる思いは余りあるものがあると思います。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/13274715/1/3" target="_self" title="">旧陸軍省軍馬補充部六原支部官舎調査報告書</a>』序文より）</p>
</blockquote>
<p>　1924年4月29日、この軍馬補充部六原支部へ、賢治たち花巻農学校の職員生徒一同は、遠足でやってきました（『新校本全集』年譜篇p.270）。<br>　宮沢賢治が六原の軍馬補充部に行ったのは、この時1回だけとはかぎりませんが、「4月29日」という時期は、この地方でちょうど桜が開花する頃に当たります。<br>　さらに、島田隆輔氏の調査（「宮沢賢治と軍馬補充部」:『賢治研究』63, 1994）によれば、作品中の「ははあ開所の祭りが近い／今年もやっぱり去年のやうに／各班みんな競争で／なにか踊りをやるんぢゃな」という記述に沿うように、1922年5月1日には軍馬補充部六原支部の創立25年記念の催しが行われ、この際に「女性を多数含む踊り手グループによる「手踊」」が披露され、その写真は『大正十一年五月一日／軍馬補充部六原支部／創立二十五年祝典記念寫眞帖』に収録されているということです。</p>
<p>　農学校の遠足が行われた1924年は、この25年祝典の2年後であり、作品中の「今年もやっぱり去年のやうに……」の記述とは1年ずれてしまいます。しかし島田氏の調査では、『桑島重三郎記念誌』の中に、「毎年五月一日にはお花見を兼ねて運動会が行われたのであった。本厩、二ツ森、千貫石等各分厩全部の牧耕手及び常人夫百二、三〇人であったが……」との記載があるということで、催しが毎年行われたのであれば、信時哲郎氏が指摘しておられるように、この「運動会で発表するためにさんさ踊りを練習していた可能性は十分あり」（『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』p.414）、1924年4月29日にその踊りを賢治たちが目撃したと、考えることもできます。</p>
<p>　ということで、この作品が1924年4月29日の賢治の体験に基づくものだとすれば、ほとんどが「春と修羅 第三集」の時期の事柄を描いている「口語詩稿」の中では比較的珍しく、これは「春と修羅 第二集」の時期に着想を得た作品だということになります。<br>　とは言え、「春と修羅 第二集」所収の作品と大きく違うのは、こちらは軍馬補充部の主事の独白という体裁を取った、かなり「物語的」な仕立てになっているところです。「厳密に事実のとほり」を標榜する心象スケッチとはまた異なった、賢治の後半生の創作スタイルに連なります。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　ところで、作品前半の方に出てくる、「よう調教に加はって／震天がもう走って居るな／膝がまだ癒り切るまい／列から出すといゝんだが」という一節は、怪我した馬の心配をする「主事」の、優しさを表す部分でもありますが、これと関係があるかもしれない描写が、劇「種山ヶ原の夜」の中に出てきます。</p>
<blockquote>
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈一「今年ぁ<ruby>好<rp>（</rp><rt>ゆ</rt><rp>）</rp></ruby>ぐ一疋も見なぐなたものなぃがったな。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈二「うん、<ruby>一昨年<rp>（</rp><rt>おとどし</rt><rp>）</rp></ruby>な、<ruby>汝<rp>（</rp><rt>うな</rt><rp>）</rp></ruby>ぁ、あの時、居ただが、あの夕日山の方さ出はて、怪我してらた馬こよ、サラアブレッドでな。いゝ馬だったば、一生不具だな。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈一「あの馬ぁ、先どな、おら見だぢゃい。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈二「どごで、どこでよ、どごに居だであ、あの馬こぁ。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈一「六原でよ。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈二「何してら、何してらだぃ、あの馬<span style="font-size: 11px;">こ</span>。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈一「やっぱり少しびっこでな、農馬よ、肥料の車<ruby>牽<rp>（</rp><rt>ひ</rt><rp>）</rp></ruby>っぱてらけぁ。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈二「むぞやなな、やっぱり仕方なぃんだもな。」</p>
</div>
</blockquote>
<p>　ここで話題になっているのは、種山ヶ原で放牧されている馬のことですが、この種山ヶ原には、当時「軍馬補充部六原支部」の「種山出張所」が置かれていたのです。ですから、六原と種山ヶ原の間で、馬を移動させるということは普通にあったはずです。<br>　劇「種山ヶ原の夜」で語られているのは、種山ヶ原で怪我をした馬が、六原に移されて農馬をしていたという話ですが、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm" target="_self" title="">軍馬補充部主事</a>」に出てくる「震天」という立派な名前の馬も、やはり膝を怪我しています。こちらは少なくとも作品の時点では、農馬になっているわけではなく調教を受けているようですが、賢治は軍馬補充部六原支部への遠足の際に、怪我をした馬のその後に関する話を、係員から聞いたのかもしれません。<br>　劇「種山ヶ原の夜」が農学校で上演されたのは、1924年8月10日～11日のことですから、遠足からまだ4か月も経っておらず、生徒たちにとっても印象に残っている話だったのではないかと思います。</p>
<p>　ちなみにこの馬の「震天」という名前は、軍馬にぴったりの勇壮な名ですが、面白いことにこの少し前の時代に、種山ヶ原の隣の下有住村に、「震天」という優れた名馬がいたようなのです。<br>　国会図書館デジタルコレクションで『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/11618396/1/2">巖手縣産馬誌</a>』の1915年版を見ると、気仙産馬組合所属で下有住村の「震天」という馬が、明治39年に産馬奨励規定によって<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/11618396/1/138?keyword=%E9%9C%87%E5%A4%A9">優良馬匹として奨励金を下付</a>され、<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/11618396/1/129?keyword=%E9%9C%87%E5%A4%A9">明治40年の第一回岩手県馬匹共進会</a>、<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/11618396/1/130?keyword=%E9%9C%87%E5%A4%A9">明治41年の福島県主催第一回奥羽六県聯合馬匹共進会</a>で、いずれも「一等賞」に輝いているのです。この同じ馬が、十数年後の六原にいたとは思えませんので、作中に出てくる「震天」はまた別の馬でしょうが、岩手の名馬として賢治が以前に耳にして覚えていた名前を、この作品中で使用したのかもしれません。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　さて、賢治にとっても様々な印象を残したであろう軍馬補充部六原支部ですが、遠足の翌1925年10月に、廃止されることになってしまいます。第一次世界大戦後の世界的な「軍縮」の流れの一環でもあり（<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E8%BB%8D%E7%B8%AE" target="_self" title="">宇垣軍縮</a>）、また戦場ではもはや「騎兵」は時代遅れになったという現実もあったでしょう。この際に軍馬は全国で6000頭削減され、浮いた予算は戦車など新たな兵器の整備へと、回されていきます。<br>　馬から戦車へ、という戦争の変化を象徴するように、この「<a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm" target="_self" title="">軍馬補充部主事</a>」の中でも、騎兵である「主事」が、播種車のことを「本部のタンク」（手入れ前には「拙者のタンク」）と見立てているのが、アイロニカルに響きます。</p>
<p>　六原支部が廃止されると、そこに所属する種山出張所も、当然廃止されます。これに伴って、種山ヶ原の牧野も民間に払い下げになるのではないかと地元の人々は期待しており、これが地質学者としての賢治に対する土性調査依頼となって、その調査行が、1925年7月の「<a href="https://ihatov.cc/series/taneyama.htm" target="_self" title="">種山ヶ原詩群</a>」を生むことになります。<br>　下記はその中から、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/198_2.htm" target="_self" title="">〔朝日が青く〕</a>」（下書稿(一)手入れ）の一節です。</p>
<blockquote>
<p>軍馬補充部の六原支部が<br>来年度から廃止になれば<br>上閉伊産馬組合が<br>払ひ下げるか借りるかして<br>それを継承するのだけれども<br>組合長の高清は<br>きれいに分けた白髪を、<br>片手でそっとなでながら<br>ひとつ無償でねがひたい、<br>われわれ産馬家といふものは<br>政策上から奨励されて<br>とても間にあはない産馬事業を<br>三十年もやって来た<br>さうしてそれをやったものが<br>みんな貧乏してゐると<br>さういふことを陳情する</p>
</blockquote>
<p>　しかし地元の産馬家の期待を集めたこの「払い下げ」は実現せず、もともと御料地だった土地は、宮内省に返還されたのでした。</p>
<p>　一方、六原の軍馬補充部支部の方は、岩手県に払い下げられ、その後県は、皇道精神を鼓吹する石黒英彦知事の肝煎りで、1932年に「六原青年道場」を設置します。<br>　戦後、その敷地内にあった官舎部分は、上記の「<a href="https://www.town.kanegasaki.iwate.jp/docs/2017122800027/" target="_self" title="">軍馬の郷 六原資料館</a>」になった一方、広大な農地は、県立六原農場、県立六原営農大学校を経て、現在は<a href="https://www.pref.iwate.jp/agri/noudai/index.html">県立農業大学校</a>となっています。この学校には、現在も見事な桜並木があるのだそうで、同校の「学校案内」の表紙には、下のような写真が掲載されています。<br>　となるとこの桜は、六原の軍馬補充部主事が馬に乗って眺め、その花弁を妻への手紙に同封した木々の、後裔にあたるのかもしれません。一度見に行ってみたいものだと思います。</p>
<div style="margin: 0 auto 20px; width: 517px; max-width: 100%;">
<p style="margin: 0; font-size: 12px; text-align: right; line-height: 1em"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/03/iwatekenritsu_nougyoudaigakkou-thumb-480xauto-1106.jpg" width="480" height="679" alt="岩手県立農業大学校 学校案内2025"><br>『<a href="https://www.pref.iwate.jp/agri/_res/projects/project_agri/_page_/002/001/506/2025.pdf" target="_self" title="">岩手県立農業大学校 学校案内</a>』より</p>
</div>]]>
    </content>
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    <title>夏至祭の夜の広場</title>
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    <published>2026-03-22T09:25:13Z</published>
    <updated>2026-03-24T08:54:50Z</updated>

    <summary>　童話「ポラーノの広場」に描かれている季節は、「一、遁げた山羊」の冒頭には「五月...</summary>
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        <![CDATA[<p>　童話「ポラーノの広場」に描かれている季節は、「一、遁げた山羊」の冒頭には「五月のしまひの日曜でした。」と記され、「二、つめくさのあかり」には「それからちゃうど十日ばかりたって……」とあり、「三、ポラーノの広場」は「それからちゃうど五日目の火曜日の晩でした。」となっていることから、レオーノキューストたちがポラーノの広場にやって来たのは、6月中旬頃と思われます。（物語途中、キューストは警察の取り調べに対して、ファゼーロとの出会いを「五月のしまひの日曜、二十七日でしたかな。」と言っているので、この記憶が正しければ、彼らの広場訪問は6月12日の火曜日ということになります。）<br>　一方、劇「ポランの広場」の冒頭のト書きには、「時、一千九百二十年代、六月三十日夜、」と記されており、広場での出来事は6月30日のことだったと明示されています。</p>
<p>　お話の中では、「ポランの広場の夏まつり♫」と歌われますが、この「夏」とは、7月～8月の「盛夏」ではなくて、1年で日が最も長い、6月の「夏至」の頃なのです。</p>
<p>　思えば、主人公たちが「つめくさのあかり」の番号を数えながら、あちこち彷徨いつつポランの広場に到達するというプロセスには、夜の8時になってもまだ外が妙に薄明るいような、夏至の頃の夜の雰囲気こそが相応しい感じです。</p>
<div style="margin: 0 auto 20px; width: 517px; max-width: 100%;">
<p style="margin: 0; font-size: 12px; text-align: right; line-height: 1em"><img src="https://ihatov.cc/images/e6bccccf1e228aa6bcc8648a34b67669324c0f3a.jpg" width="517" height="375" alt="ラトビアの夏至祭の切手"><br>ラトビアの夏至祭の切手（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1991_CPA_6361_(2).jpg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>
</div>]]>
        <![CDATA[<p>　先駆形の童話版「ポランの広場」では、キュステたちが広場に到着すると、甲虫や夜の蝶々など、さまざまな虫たちが飛びかい、ファゼロの服には無数の小さな蜂が集まって、花粉で黄色い縞模様や肩章を描いてくれます。ヨーロッパでは、夏至の頃には妖精の働きが活発になるとされているそうですが、シェークスピアの「夏の夜の夢（A Midsummer Night's Dream）」で、「豆の花」や「蜘蛛の巣」や「蛾」や「芥子の種」の妖精たちが登場して、いろいろ細かな働きをしてくれることなどを連想させます。'midsummer'とは「真夏」ではなく、やはり「夏至」なのです。</p>
<p>　これが、'midsummer madness'になると、「底抜けの狂乱」という意味だそうで、夏至祭の夜に各地で繰り広げられる騒ぎに由来するようです。ポランの広場で山猫博士が、せっかくの楽しいパーティーをかき乱し、ついにはファゼロと卓上ナイフによる決闘になって、あっけなく負けた山猫博士がほうほうの体で逃げ出すというドタバタ劇も、そういう意味ではいかにも「夏至らしい」と言えるのかもしれません。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a data-mt-asset-id="1102" class="mt-asset-link" href="https://ihatov.cc/images/Ivankupala.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/03/Ivankupala-thumb-640xauto-1102.jpg" width="640" height="340" alt="「イワン・クパーラの前夜」"></a><br>「イワン・クパーラ（夏至祭）の前夜」（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ivankupala.jpg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>
<p>　ところで、「春と修羅 第二集」所収「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/118_3.htm" target="_self" title="">〔温く含んだ南の風が〕</a>」の<a href="https://ihatov.cc/haru_2/118_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>は、「夏夜狂躁」と題されていますが、これこそまさに'midsummer madness'の日本語訳として、ぴったりではないでしょうか。日付は「一九二四、七、五、」で、夏至よりは少し後なのですが、作品中の「天の川はまたぼんやりと爆発する」「うしろではまた天の川の小さな爆発」という描写は、「ポランの広場」の「天の川が <span style="font-family: 'Century Schoolbook';"><em>x</em></span> といふ字の形にぼんやりと白くかかってゐましたがたしかに水も流れてゐた様でした。たびたびパッと爆発もしてゐました。」という表現と、共通しています。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a data-mt-asset-id="1103" class="mt-asset-link" href="https://ihatov.cc/images/Ohuokhai.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/03/Ohuokhai-thumb-640xauto-1103.jpg" width="640" height="426" alt="サハ共和国の夏至祭"></a><br>サハ共和国の夏至祭（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ohuokhai.jpeg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>
<p>　「ポランの広場」は、つめくさのあかりに付けられた読みにくい番号を、何千も数えながら進むという困難を乗り越えた人だけが行ける、「秘密の場所」だという設定になっています。夏至の祭が孕んでいるこのような「秘儀」的性格を、その究極まで突きつめたのが、「<a href="https://happinet-phantom.com/midsommar/" target="_self" title="">ミッドサマー</a>」というホラー映画でした。<br>　5人の若者が、森を抜け期待に顔を輝かせて広場に入ってくるところは、キュステやファゼロたちがポランの広場に着いたところを彷彿とさせる映像なのですが、この後こちらの映画の方は、とんでもなく怖ろしい展開になっていってしまいます。</p>
<div class="youtube_16-9">
<p><iframe width="640" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/AmNwVD14TnM?si=tC-e3K45j93lW8ON?rel=0" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
</div>
<p>　「ポラーノの広場」でも、広場でドタバタ劇があったその晩から、ファゼーロと山猫博士が忽然と姿を消してしまうという、ちょっとしたミステリー的展開がありました。これもまた、夏至の晩にはこの世と異界が接近してしまうという、いつもと違った危うさがあるからかもしれません……。</p>
<p>　賢治が農学校で上演した「ポランの広場　第二幕」では、舞台バックに大きな天の川の絵が掲げられ、赤楊の木二本を電燈やモールで美しく装飾し、タンゴのレコードを蓄音器で流しながら、甲虫の羽音を出すために「電気アンマ器」を使用したということです。演出家・賢治の面目躍如ですが、不気味な音の響く会場は、一種異様な雰囲気に包まれたのではないでしょうか。<br>　そして二晩の劇が終了すると、賢治と生徒たちは舞台で使った大道具小道具を校庭に積み上げ、火をつけて燃やしながら、周りで狂喜乱舞したということです。これはまるで、ヨーロッパの夏至祭の夜に燃やされ、人々がその周囲で踊り明かすという、「ボーンファイヤ」という焚き火のようです。</p>
<div style="margin: 0 auto 20px; width: 452px; max-width: 100%;">
<p style="margin: 0; font-size: 12px; text-align: right; line-height: 1em"><img src="https://ihatov.cc/images/fddb559ae07593550fdb0a97882e29e0bf714aa4.jpg" width="452" height="262" alt=""><br>ノルウェーの夏至祭のボーンファイヤ（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kr%C3%B8yer_sankthans3.jpg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>
</div>]]>
    </content>
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    <title>そもそも拙者ほんものの清教徒ならば</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/03/post_1185.htm" />
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    <published>2026-03-15T08:37:06Z</published>
    <updated>2026-03-26T13:45:24Z</updated>

    <summary>　「口語詩稿」に、「〔そもそも拙者ほんものの清教徒ならば〕」という仮題の作品があ...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
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        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="〔そもそも拙者ほんものの清教徒ならば〕" label="〔そもそも拙者ほんものの清教徒ならば〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　「口語詩稿」に、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/398_d.htm" target="_self" title="">〔そもそも拙者ほんものの清教徒ならば〕</a>」という仮題の作品があります。</p>
<blockquote>
<p>そもそも拙者ほんものの清教徒ならば<br>或ひは一〇〇％のさむらひならば<br>これこそ天の恵みと考へ<br>町あたりから借金なんぞ一文もせず<br>八月までは<br>だまってこれだけ食べる筈<br>けだし八月の末までは<br>何の収入もないときめた<br>この荒れ畑の切り返しから<br>今日突然に湧き出した<br>三十キロでも利かないやうな<br>うすい黄いろのこの菊芋<br>あしたもきっとこれだけとれ、<br>更に三四の日を保する<br>このエルサレムアーティチョーク<br>イヌリンを含み果糖を含み<br>小亜細亜では生でたべ<br>ラテン種族は煮てたべる<br>古風な果蔬トピナムボー<br>さはさりながらこゝらでは<br>一人も交易の相手がなく<br>結局やっぱりはじめのやうに<br>拙者ひとりでたべるわけ<br>但しこれだけひといろでは<br>八月までに必らず病む<br>参って死んでしまっても<br>動機説では成功といふ<br>ところが拙者のこのごろは<br>精神主義ではないのであって<br>動機や何かの清純よりは<br>行程をこそ重しとする<br>つまりは米もほしいとあって<br>売れる限りは本も売り<br>ぽろぽろ借金などもして<br>曖昧な暮しやうをするといふのは<br>いくら理屈をくっつけても<br>すでにはなはだ邪道である<br>とにかく汗でがたがた寒い<br>ごみを集めて<br>火を焚かう<br>槻の向ふに日が落ちて<br>乾いた風が西から吹く</p>
</blockquote>]]>
        <![CDATA[<p>　賢治が下根子桜で独居生活をしていた頃の、農作業中の一コマかと思われます。ある日、彼が「下ノ畑」を耕していたら、30kg以上もの菊芋が掘り出されるという予期せぬ収穫がありました。賢治は驚いてこの作物に関する知識を総覧しつつ、これからの暮らし方を案じています。</p>
<p>　作品の出だしは、「そもそも拙者ほんものの清教徒ならば／或ひは一〇〇％のさむらひならば……」と始まり、11行目までは菊芋のことなど全く出てきません。読者は、いったい何の話なんだろうと戸惑いつつも、読み進めていくことになります。「拙者」とか、「一〇〇％のさむらひ」とか、言葉づかいもちょっと大仰で、ユーモラスな雰囲気を醸し出しています。<br>　そもそも、賢治が自分の一人称に「拙者」などという言葉を使うのは珍しい感じがしますが、『新校本全集』別巻の「索引篇」で調べてみると、下記の作品において、賢治は自分のことを「拙者」と呼んでいます。</p>
<ul>
<li>「<a href="https://ihatov.cc/kogo/388_d.htm" target="_self" title="">〔めづらしがって集ってくる〕</a>」（口語詩稿）</li>
<li>「<a href="https://ihatov.cc/kogo/398_d.htm" target="_self" title="">〔そもそも拙者ほんものの清教徒ならば〕</a>」（口語詩稿）</li>
<li>「〔四信五行に身をまもり〕」の<a href="https://ihatov.cc/kogo/420_1.htm" target="_self" title="">下書稿</a>（口語詩稿）</li>
<li>「<a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm" target="_self" title="">軍馬補充部主事</a>」（口語詩稿）</li>
<li>「〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕」の<a href="https://ihatov.cc/kogo/432_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>（口語詩稿）</li>
<li>「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/478_d.htm" target="_self" title="">稲熱病</a>」（補遺詩篇 I）</li>
</ul>
<p>　ご覧のように、6つのうち5つまでが「口語詩稿」に属する作品です。「<a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm" target="_self" title="">軍馬補充部主事</a>」の「拙者」は賢治自身ではなく、「軍馬補充部主事」の立場からの一人称のようですが、他は全て賢治自身でしょう。状況が不明なものもありますが、何となく羅須地人協会時代に書かれたものが多いような印象です。厳しい独居生活をしていたこの頃の賢治の自意識が、「拙者」という自称に反映しているのでしょうか。また『新校本全集』で見るならば、くしくも全てが「第五巻」に収録されています。<br>　この作品においては、2行目の「さむらひ」という言葉と響き合いつつ、「武士は食わねど高楊枝」というイメージも漂わせている、「拙者」です。</p>
<p>　さて、本文11行目に至って、この作品の主役の「菊芋」がやっと登場しますが、ここで賢治がこの作物に関して披露する博識が、また盛大なものです。<br>　海外の名称として、英語では「エルサレムアーティチョーク」、フランス語では「トピナムボー」と呼ばれるという語学知識とともに、その化学的成分としては、イヌリンと果糖が多く含まれることが述べられます（果糖が重合した多糖類がイヌリンです）。さらに海外での調理法として、小アジア（トルコ）では生で食べ、ラテン系諸国では煮て食べることも紹介しています。</p>
<p>　作物に関するこのような知識は、盛岡農林学校時代に学んだ事柄も多いでしょう。たとえば、『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/1258115/1/15" target="_self" title="">盛岡高等農林学校図書館和漢書目録</a>』（1937）を見ると、『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/838640/1/195" target="_self" title="">食用作物各論</a>』という書籍は、初版（明治41年）、訂正4版（明治45年）、7版（大正6年）、8版（大正7年）、9版（大正8年）、改著版（大正14年）という、実に6種もの版が図書館に所蔵されていて、おそらく盛岡高等農林学校の学生がよく参照したものと思われますが、この本では「菊芋」の英国名は「ゼルサレム、アーティチョーク（Jerusalem artichoke）」、仏国名は「トピナムブル（Topinambour）」と記されています。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a href="https://ihatov.cc/images/digidepo_838640_0195.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/03/digidepo_838640_0195-thumb-640xauto-1099.jpg" width="640" height="522" alt="『食用作物各論』"></a><br>『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/838640/1/195" target="_self" title="">食用作物各論</a>』pp.336-337（国会図書館デジタルコレクションより）</p>
<p>　また、賢治の時代に盛岡高等農林学校教授だった柘植六郎が1910年に刊行した著書『実験蔬菜園芸新書』には、菊芋の由来および用途、栽培法について2ページにわたり解説されていて、その調理法については次のように書かれています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">調理法は種々あるべきも皮を剥き直ちに之れを冷水に入れて變色を防ぎ其後取り出して薄く切り熱湯に入れて瀹で適度の軟かさに至らば取揚げて水を切りクリーム、ソースを懸けて食すべし、又甘藷の如く燒きて食するも可なり、或は爪哇薯の如く總菜に煮て食するも可なり。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（柘植六郎『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/840138/1/139" target="_self" title="">実験蔬菜園芸新書</a>』p.215）</p>
</blockquote>
<p>　園芸の教科書に調理法まで載っているのは面白いですが、農作物をよく知り、普及させるためには、科学的な知識だけでなく、人々の生活の中でどういう意義があるのかを、ちゃんと押さえておく必要があるということなのでしょう。<br>　柘植六郎は、賢治のいくつかの短歌にも登場し、『春と修羅』の「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/016_d.htm" target="_self" title="">習作</a>」において、「すぎなを麦の間作ですか／<ruby>柘植<rp>（</rp><rt>つげ</rt><rp>）</rp></ruby>さんが／ひやかしに云つてゐるやうな／そんな<ruby>口調<rp>（</rp><rt>くちやう</rt><rp>）</rp></ruby>がちやんとひとり／私の中に棲んでゐる」と記されているような、賢治の中に後々まで印象を残した恩師の一人でした。</p>
<p>　また、この作品の下書稿の手入れ途中には、「けれどもこゝらあたりでは／フランス料理もはやらないし／糖尿病の患者も居ず」という一節が挿入されている段階があり、賢治は菊芋に含まれるイヌリンが、糖尿病の食餌療法に良いという知識も、持っていたのだと思われます。<br>　菊芋が糖尿病の治療に有益であるという知見は、佐々廉平という医師が1918年2月～3月の『醫海時報』という医学誌に、「糖尿病食餌療法の進歩現状を論じ予等の菊芋療法に及ぶ」という論文の<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/11183813/1/2" target="_self" title="">(一)</a>および<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/11183816/1/2" target="_self" title="">(二)</a>として発表しており、その後同じく佐々廉平著『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/935117/1/62" target="_self" title="">食餌療法 食品学之部</a>』（1920）や、多くの食養生関係の書籍で取り上げられるようになっています。<br>　一般的には、賢治が高等農林を卒業した後に知られるようになった事柄で、当時の賢治がこんな知識まで仕入れていたというのは、驚きです。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　……というような、農学の専門家らしい蘊蓄を縷々傾けながらも、賢治がこの作品において複雑な思いで吐露しようとしているのは、「たくさんの菊芋が獲れてありがたいけれども、こればかり食べていたのでは病気になるのは確実だから、自分は本を売ったり借金したりしながら、曖昧な邪道の暮らしをしていくだろう」ということです。<br>　ここには、自嘲の響きが色濃くあります。</p>
<p>　そしてその陳述の途中には、「参って死んでしまっても／動機説では成功といふ」という一節が出てきます。「動機説」というのは倫理学の用語で、人間の行為が正しいか否かを判断する基準として、「その行為の動機が正しければ、行為そのものも正しい」と考えるのが、「動機説」です。カントの哲学などが、この派に属します。<br>　これに対して、「その行為の是非は、行為の結果によって判断すべきだ」とするのが「結果説」です。功利主義などは、結果説に属します。</p>
<p>　この見方を作品の状況に当てはめれば、もしも賢治が菊芋ばかりを食べて、病気になって死んだとしても、「清貧に生きる」という動機は素晴らしかったのだから、その行為自体も正しかった、と考えるのが「動機説」だというわけです。</p>
<p>　それにしても宮沢賢治という人は、羅須地人協会の活動においても、その動機の純粋さと崇高さは立派でしたが、栄養不良と重労働が祟って途中で病気になり、挫折してしまいました。東北砕石工場の技師としても、農村の土壌を改良するという動機は良かったものの、やはり無理をして倒れてしまいました。死の前夜にも、肥料相談に来た農民の役に立とうという動機で、家族の制止も聞かず長時間話をしたために、それが直接の命取りになりました。<br>　このように賢治は、「動機説」の権化のようにして生きてきて、結局それが病気を悪化させ、死に至ってしまったという感があります。</p>
<p>　そういう賢治でも、この作品においては「近頃の拙者は動機説ではない」などと言って、本を売ったり借金をしたりして米などの食料を調達すると言っているのは、実に人間的で、真っ当なことと思います。<br>　ただ、彼はそうしようとしながらも、そのような自分の生き方を「曖昧な暮しやう」と呼んだり、「はなはだ邪道」と言ったり、やはり否定的にとらえているところは、読んでいて心が痛んでしまいます。「そんなに自分を追い詰めないで！」と言ってあげたい感じです。</p>
<p>　すでに賢治の体は、農作業をしていても「汗でがたがた寒い」という状態で、おそらく熱があるのでしょう。<br>　徐々に結核がその病巣を広げつつあるのかと、心配せざるをえません。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/Jerusalem_Artichokes_tubers.jpg" width="640" height="480" alt="菊芋の塊茎"><br>菊芋の塊茎（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jerusalem_Artichokes_tubers.jpg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>]]>
    </content>
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<entry>
    <title>政次郎の「資本主義の精神」</title>
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    <published>2026-03-08T06:50:07Z</published>
    <updated>2026-04-16T06:41:59Z</updated>

    <summary> 政次郎は理財家ではあるが、求道の人である。 （『新校本宮澤賢治全集』第16巻年...</summary>
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        <name>hamagaki</name>
        
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    <category term="宮澤政次郎" label="宮澤政次郎" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="浄土真宗" label="浄土真宗" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="清沢満之" label="清沢満之" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">政次郎は理財家ではあるが、求道の人である。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 12px">（『新校本宮澤賢治全集』第16巻年譜篇p.16）</p>
</blockquote>
<div style="float: right; margin: 0 0 5px 20px; max-width: 40%; line-height: 1em;">
<p style="margin: 0"><img src="https://ihatov.cc/images/Miyazawa_Masajiro.jpg" width="160" height="240" alt="宮沢政次郎" style="padding-bottom: 0; margin-bottom: 0; border-bottom: 0;"></p>
<p style="margin: 0; text-align: center; line-height: 0.7em"><span style="font-size: 14px; line-height: 1em;">30歳頃の宮沢政次郎</span><br><span style="font-size: 10px; line-height: 0.7em;">（</span><a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Miyazawa_Masajiro.jpg"><span style="font-size: 10px; line-height: 0.7em;">Wikimedia Commons</span></a><span style="font-size: 10px; line-height: 0.7em;">より）</span></p>
</div>
<p>　宮沢賢治の父政次郎が併せ持っていた、「経済人」としての側面と、「宗教人」としての側面について、『新校本全集』年譜篇は、上のように記しています。</p>
<p>　計算高い商売人であることと、敬虔な信仰者であることは、普通に考えると正反対の人間的性質のように思われますので、上の表現でもこの二つの側面は、「～ではあるが」という、「逆接」によって結ばれています。<br>　また政次郎自身も、「自分は仏教を知らなかったら三井、三菱くらいの財産は作れただろう」と言っていたということですが（『新校本全集』年譜篇p.15）、これもやはり、宗教と商売は相反する方角を向いた営みであり、なかなか両立しにくいものだという考えに立った言葉でしょう。</p>
<p>　しかし、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、元来プロテスタントの倫理は厳しい禁欲を説き、金儲けや利潤追求などは敵視していたはずなのに、実際には近代資本主義を生み出す母胎になったという、大いなる逆説が、現に起こったというのです。<br>　すなわち、18～19世紀のヨーロッパやアメリカでは、宗教性と経済性は対立するどころか、実は前者が後者を強力に推進していた歴史があったのです。</p>
<p>　……となると、ひょっとしたら宮沢政次郎の内面においても、信仰者であることと商売人であることは、矛盾し対立することではなく、何らかの相補的な役割を果たしていたのではないか？とふと思ったのが、本日の記事のきっかけです。</p>
<table class="g-tools_table" style="width: 100%">
<tbody>
<tr>
<td valign="top" class="g-tools_table" style="width: 22%; min-width: 100px; `: undefined">
<p><a href="https://amzn.to/4b0n0Zk" target="_blank"><span class="g-tools_img"><img alt="プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神" src="https://m.media-amazon.com/images/I/61EWsXv9wbL._SL1390_.jpg" style="box-shadow:5px 5px 10px; border:1px solid #ccc;"></span></a></p>
<p></p>
</td>
<td valign="top" class="g-tools_table">
<p style="margin: 0;"><a href="https://amzn.to/4b0n0Zk" target="_blank"><span class="g-tools_body">プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神</span></a><span class="g-tools_body"><img style="border-bottom: medium none; border-left: medium none; border-top: medium none; border-right: medium none" alt="" src="https://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=ihatovcc-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1"><br>マックス ヴェーバー (著), 大塚 久雄 (翻訳)<br>岩波書店（1989/1/17）<br></span><a href="https://amzn.to/4b0n0Zk" target="_blank"><span class="g-tools_body">Amazonで詳しく見る</span></a></p>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>]]>
        <![CDATA[<p style="text-align: center">※</p>
<p>　この問題について考えるために、まずマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の論旨を、おさらいしておきます。</p>
<p>　ウェーバーによれば、近代資本主義が勃興し発展していく過程においては、まずマルティン・ルターが聖書の新訳において導入した「天職（Beruf＝"召命"の意味もある）」という概念が、大きな役割を果たしたということです。ルターは、神が人間に与え給うた「天職」を、個々人が神聖なものとして受けとめ、それに専心することが、神の栄光への奉仕であるとしました。</p>
<p>　次いで、この職業観の土台の上に大きな働きをしたのが、カルヴァン派の重要教義である「予定説」です。<br>　従来カトリックの教義では、人間はこの世で神の愛を実践する「善行」を積めば、罪が清められて、救いの恩寵に近づくことができるとされていました。これに対して、カルヴァンの「予定説」によれば、最後の審判において救われる人間の選別は、神によってもう「既に決定されている」ので、人間が現世でいくら善行を積んだとしても、今さらそれが神の決定を変えることなど、ありえないのです。そして人間は、最後の審判の日まで、自分が救済される運命にあるのか否かを、知ることさえできないのです。<br>　これは人間にとっては非常に恐ろしい事態で、いくら救われたいと強く願ったとしても、この世でそれに役立つような手段は何もなく、人は自分の運命も知らないままに、ただ生きていくしかないのです。</p>
<p>　ここでカルヴァン派の信徒は、「自分はいったい神の救いに選ばれているのか？」「どうしたらその選びの確信が得られるのか？」という苦悶にさいなまれることになります。ウェーバーによれば、当時の牧師はこのような悩める信徒を、次のような二つの方法によって導いたということです。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">その一つは、誰もが自分は選ばれているのだとあくまでも<ruby>考えて<rp>（</rp><rt>●●●</rt><rp>）</rp></ruby>、すべての疑惑を悪魔の誘惑として斥ける、そうしたことを無条件に義務づけることだった。自己確信のないことは信仰の不足の結果であり、したがって恩恵の働きの不足に由来すると見られるからだ。<br><span style="color: #999999">〔中略〕</span><br>いま一つは、そうした自己確信を<ruby>獲得する<rp>（</rp><rt>●●●●</rt><rp>）</rp></ruby>ための最もすぐれた方法として、<ruby>絶えまない職業労働<rp>（</rp><rt>●●●●●●●●●</rt><rp>）</rp></ruby>をきびしく教えこむということだった。つまり、職業労働によって、むしろ職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救われているとの確信が与えられる、というのだ。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 12px">（岩波文庫『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』pp.178-179）</p>
</blockquote>
<p>　上記の後者の方法によって、ルターが称揚した「天職」に邁進することは、信徒たちが疑念や不安を斥けて救いの確信を得る上で、必須の道筋となったのです。<br>　そしてさらに、ここに「世俗内禁欲」という規範が重ねられることによって、敬虔な信仰と禁欲とが、結果的に利潤追求や蓄財を導くという、不思議な逆説の回路が開かれることになります。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">人間は神の恩恵によって与えられた財貨の管理者にすぎず、聖書の譬話にある<ruby>僕<rp>（</rp><rt>しもべ</rt><rp>）</rp></ruby>のように、１デナリにいたるまで委託された貨幣の報告をしなければならず、その一部を、神の栄光のためでなく、自分の享楽のために支出するなどといったことは、少なくとも危険なことがらなのだ。<span style="color: #999999">〔中略〕</span>人間は委託された財産に対して<ruby>義務を負っており<rp>（</rp><rt>●●●●●●●●</rt><rp>）</rp></ruby>、管理する<ruby>僕<rp>（</rp><rt>しもべ</rt><rp>）</rp></ruby>、いや、まさしく「営利機械」として財産に奉仕するものとならねばならぬという思想は、生活の上に冷やかな圧力をもってのしかかっている。財産が大きければ大きいほど、神の栄光のためにそれをどこまでも維持し、不断の労働によって増加しなければならぬという責任感もますます重きを加える。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 12px">（岩波文庫『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』p.339）</p>
<p style="margin-bottom: 0;">プロテスタンティズムの世俗内禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。利潤の追求を合法化したばかりでなく、それをまさしく神の意志に沿うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまったのだ。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 12px">（岩波文庫『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』p.342）</p>
</blockquote>
<p>　このようにして、プロテスタンティズムの禁欲主義は、元来は金銭欲や利潤追求とは対極にあったにもかかわらず、まずは予定説によって伝統的な「善行」を無効化し、次いでその合理性によって機械のごとく神の財産に奉仕し、その増殖に励むことを、正当化したのです。</p>
<p>　ところで上述の、プロテスタント的な意味での「禁欲」とは、東洋の修行者がするように、性欲を断ったり食事を制限したり、その他の苦行を行うようなことではありません。それは、無駄な消費をできる限り抑え、瞬時も休まず天与の職業の崇高な目標に奉仕するという、「行動的禁欲（active Askese）」と呼ばれる生活規範です。<br>　上で見たようにウェーバーによれば、このような行動規範こそが、近代資本主義の土台を形成したのです。<br>　下記は、このウェーバーの歴史的著作の、終わり近くの一文です。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　近代資本主義の精神の、いやそれのみでなく、近代文化の本質的構成要素の一つというべき、<ruby>天職理念<rp>（</rp><rt>●●●●</rt><rp>）</rp></ruby>を土台とした合理的生活態度は──この論稿はこのことを証明しようとしてきたのだが──<ruby>キリスト教的禁欲<rp>（</rp><rt>●●●●●●●●</rt><rp>）</rp></ruby>の精神から生まれ出たのだった。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 12px">（岩波文庫『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』pp.363-364）</p>
</blockquote>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　以上のようなプロテスタンティズムの倫理に対して、政次郎の信仰内容は、どんなものだったのでしょうか。<br>　ご存じのように、宮沢家は先祖代々真宗大谷派の安浄寺の檀家で、しばしばその総代も務め、政次郎の周囲には、浄土真宗の篤い信仰が充ち満ちていました。『新校本全集』年譜篇には、次のように描かれています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">宮沢家は日常生活が仏壇で規制されているといってよいほど、どっぷりと仏教（浄土真宗）的環境の中にある。キンはのべつに称名し、政次郎の姉ヤギは賢治に「正信偈」や「白骨の御文章」を子守唄とした。朝夕の<ruby>勤行<rp>（</rp><rt>おつとめ</rt><rp>）</rp></ruby>は欠かさない。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 12px">（『新校本宮澤賢治全集』第16巻年譜篇p.16）</p>
</blockquote>
<p>　浄土真宗の教理において、まず何よりも特徴的なのは、阿弥陀に全てを委ねる「絶対他力」の思想です。<br>　われわれ愚かな一般人は、「自力」によって悟りに到達することなど到底不可能である一方、阿弥陀如来は全ての衆生を救済するという願を立て、それを実現して仏になった存在なので、われわれは基本的に何もしなくても、必ず阿弥陀如来によって救われるのだ、それは既に決定しているのだと、ひたすら信じるのです。すると、この世における善行や悪行は、その人の救済とは無関係なので、「善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」ということになるわけです。<br>　救済は既に決定しているにもかかわらず、信者が「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えつづけるのは、阿弥陀にわれわれの救済を願ったり祈ったりしているのではなく、絶対的な救済者である阿弥陀如来に対して、ただただ感謝を表明しているのです。</p>
<p>　これはある意味で、カルヴァンの「予定説」に、非常に似ています。予定説では一部の者だけが救われるのに対して、阿弥陀は全てを救ってくれるという違いはあるものの、どちらにおいても救済は既に決定しているので、こと救済の有無に関しては、人間が現世で善行を積んだり何かの犠牲を払ったりする必要は、全くないのです。</p>
<p style="margin-bottom: 0">　このことは、現世の生活における「合理性」の尊重という、双方に見られる特徴につながっています。<br>　「Aという行為をすれば、宗教的力によってBという結果が得られる」という教えがあるとすれば、それは広い意味で「呪術」と言えます。<br>　プロテスタンティズムにおいては、もしもそのような現象があるとすれば、「人間が神を動かしている」という畏れ多いことになるので、それはあり得ないと断定します。カトリック教会が販売した「贖宥状（免罪符）」なるものも、教会が一種の呪術の片棒をかついでいたわけですが、これに対する反対運動が宗教改革の一つの契機になったのは、ご存じのとおりです。<br>　一方、浄土真宗から見ても、呪術や祈祷などは「自力」の行いであり、そんなものに頼るのは馬鹿げたこととして、一切を否定しています。</p>
<p style="margin-bottom: 0">　すなわち、プロテスタンティズムにおいても浄土真宗においても、神や阿弥陀の絶対性を「信ずる」という一点においては、理屈を超えた大きな跳躍が必要ですが、それ以外の部分においては、ひとえに合理性が重んじられるところが、共通した特徴と言えます。</p>
<p style="margin-bottom: 0">　さて、ここまでのところは、浄土真宗全般について言えることですが、政次郎個人の信仰についてさらに詳しく検討するためには、彼が当時の浄土真宗系の様々な系列の中で、具体的にどのような人々の教えに最も親しみ、信奉していたかということを、押さえておく必要があります。<br></p>
<div style="float: right; margin: 0 0 5px 20px; line-height: 1em; max-width: 50%;">
<p style="margin: 0;"><a href="https://ihatov.cc/images/Kiyozawa_Manshi.jpg"><img src="https://ihatov.cc/images/Kiyozawa_Manshi2.jpg" width="240" height="254" alt="清沢満之" style="padding-bottom: 0; margin-bottom: 0; border-bottom: 0;"></a></p>
<p style="margin: 0; text-align: center; line-height: 0.7em"><span style="font-size: 14px; line-height: 1em;">清沢満之</span><br><span style="font-size: 10px; line-height: 0.7em;">（</span><a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kiyozawa_Manshi.jpg"><span style="font-size: 10px; line-height: 0.7em;">Wikimedia Commons</span></a><span style="font-size: 10px; line-height: 0.7em;">より）</span></p>
</div>
<p style="margin-top: 0;">　そこで、政次郎が実際にどんな僧侶に教えを乞うたり、講習会に招いたり、書簡のやり取りをしたのかを見てみると、真宗大谷派の僧侶で明治中期～後期に活躍した、清沢満之という人物と、その門人たちが浮かび上がります。<br>　政次郎は、清沢が亡くなる前年の1902年に、東京で清沢を訪問したということですし、その門人である暁烏敏、多田鼎、近角常観らを、花巻の仏教講習会に招いて講話を聴いています。1906年には暁烏敏が講師となって、清沢満之の絶筆である『我信念』を講じています。また近角常観とは、後々まで長く、家族ぐるみで書簡のやり取りをしていました。<br>　清沢満之とその門人たちが展開した浄土真宗の思想運動は、彼らが刊行していた『精神界』という雑誌の名前から、「精神主義」と呼ばれますが、政次郎の浄土真宗信仰の核心は、この清沢らの「精神主義」にあったと言ってよいでしょう。</p>
<p>　清沢満之は、1863年に名古屋で生まれ、14歳で得度して真宗大谷派の僧侶となり、1887年に東京帝国大学文学部哲学科を首席で卒業しました。続けて東大の研究院（大学院）に進学しますが、翌年に東本願寺の依頼で京都府立尋常中学の初代校長となり、京都に転居しました。<br>　京都では宗教哲学の研究を行いつつ、自ら「ミニマム・ポシブル」と呼ぶ極端な禁欲生活を行いましたが、1894年に体を壊して結核に倒れます。療養後、1895年に東本願寺の宗門改革運動に立ち上がりますが、保守派との争いに敗れて、いったんは僧籍を剥奪されてしまいます。この処分は、1898年の蓮如上人遠忌の大赦にて解かれました。<br>　1899年に、清沢は居を東京に移して私塾「浩々洞」を開き、1901年には、暁烏敏、多田鼎、近角常観、佐々木月樵ら門人たちと、雑誌『精神界』を創刊し、活発な言論活動を展開します。清沢らの唱導する教学や思想は「精神主義」と呼ばれるようになり、宗教界や思想界に大きな影響を与えていきました。しかし翌1902年に、11歳の長男と妻を相次いで亡くし、東京の居宅を引き払って、自坊のある三河に帰ります。<br>　そしてまもなく清沢自身も、持病の結核が日を追うごとに悪化し、絶筆となる『我信念』を著した6日後、1903年6月に39歳で亡くなりました。</p>
<p>　さて、清沢満之の宗教思想の根幹は、絶筆の『我信念』に記している「私の信念は〔阿弥陀如来の〕無限の慈悲と無限の智慧と無限の能力との実在を信ずるものである」という言葉のように、阿弥陀如来への絶対的な信仰にあると言えるでしょう。<br>　ただ、以下ではプロテスタンティズムの倫理と比較するために、この根幹からすると少し枝葉の方の部分に、注目して見ていきます。</p>
<p>　まずは、清沢の思想における、職業観です。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　　　<strong>四一</strong>。我職業を愛重せよ</p>
<p style="margin-top: 0.5em; margin-bottom: 0">　我職業は天與の任務なり。之を愛重せざるは天與を辱むるものなり。若し我職業に對して不備の念の生ずるあるは、是れ忘念の善心を害せんとするものなり。當に勉めて之を拂掃すべし。玉に積るの塵は時に之を拂拭するを要するなり。若し其素撲は根本的に琢磨を加へて、其光輝を發せしめざるべからず。如何なる職業も、其正當なる所に付て之を観察せば、畢竟絶對無限の價値あるに至るなり。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 12px">（清沢満之『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/820786/1/120" target="_self" title="">懺悔録</a>』p.216）</p>
</blockquote>
<p>　すなわち、己れの職業は天与の任務であり、職業を愛し大切にしないと、天を侮辱することにもなってしまうということです。職業意識をよく磨き抜けば光輝を発し、絶対無限の価値があるというのです。<br>　これはまさに、マルティン・ルターが人間の職業について、それは「天職（Beruf）」であり、神からの「召命」であると位置づけたことと、重なり合います。<br>　政次郎は高等小学校を卒業すると、自分の進路など考える暇もなく、父の家業を手伝わされて商人になり、以後ずっと己れを商売に捧げてきました。もしかしたら自分の人生について、これでよいのかと迷った時もあったかもしれませんが、「我職業は天與の任務なり。之を愛重せざるは天與を辱むるものなり」という職業観は、そのような迷いも払拭してくれるものだったのではないでしょうか。</p>
<p>　また清沢の次のような言葉は、仏教的には「業」の深い職業とされてきた、商売や漁猟に携わる者にも、救いを与えたことでしょう。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　一度如來の慈光に接して見れば厭ふべき物もなければ、嫌ふべき事もなく、一切が愛好すべきもの、尊敬すべきものであつて、この世の事々物々が光りを放つやうになる。<span style="color: #999999">〔中略〕</span><br>　此に至ると道德を守るもよい、知識を求むるもよい、政治に關係するもよい、商賣するもよい、漁獵をするもよい、國に事ある時は銃を肩にして戰争に出かけるもよい、孝行もよい、愛國もよい、工業もよい、農業もよい、即ち、「資生産業皆これ佛教」で、「佛教は日用の處、穿衣喫飯の處、撒屎放尿の處、行住坐臥の處に在り」である。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 12px">（清沢満之『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/757486/1/77" target="_self" title="">精神講話</a>』pp.146-147）</p>
</blockquote>
<p>　ここで清沢が特に、「商売するもよい、漁猟をするもよい」と書いているのは、親鸞の『唯信鈔文意』にある、次の箇所を意識したものでしょう。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;"><ruby>屠<rp>（</rp><rt>と</rt><rp>）</rp></ruby>はよろづのいきたるものをころしほふるもの、これは<ruby>獵師<rp>（</rp><rt>れうし</rt><rp>）</rp></ruby>といふものなり、<ruby>沽<rp>（</rp><rt>こ</rt><rp>）</rp></ruby>はよろづのものをうりかふものなり、これはあきびとなり、これらを<ruby>下類<rp>（</rp><rt>げるい</rt><rp>）</rp></ruby>といふなり、かやうのあしきひと<ruby>獵師<rp>（</rp><rt>れうし</rt><rp>）</rp></ruby>さま<span style="display: inline-block; transform: scale(2,1); margin: 0 0.6rem;">べ</span>のものは、みないしかはらつぶてのごとくなるわれらなり。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 12px">（近角常観校訂『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/822644/1/33" target="_self" title="">唯信鈔・唯信鈔文意</a>』pp.16-17）</p>
</blockquote>
<p>　親鸞は、猟師や商人を「下類」と言い、しかし実は石・瓦・礫のような「われら」全員が、その同類なのだと述べています。<br>　もしも政次郎が、商人としての利益の追求に葛藤を感じることがあったとすれば、ここで清沢満之が「商売するもよい」「資生産業皆これ仏教」と書いてくれていることは、大きな救いになったのではないかと思います。</p>
<p>　さて次には、清沢満之の思想における現実主義的・進歩主義的な側面について、見てみます。<br>　「精神主義」という呼称からは、「物質的・現世的なものは重視しない」という姿勢を想像するかもしれませんが、実際には清沢の思想は、非常に現実主義的で、「万物の発達進歩」や「福利の増進」を、賞揚するものだったのです。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　　　<strong>三七</strong>　人生</p>
<p style="margin-top: 0.5em; margin-bottom: 0">　人間にありて人生を厭ひ人生に背くは不當の事たるなり、吾人が人生を尊重せざるべからざることは言を待たざるなり。然れども其所謂人生なるものは如何なるものたるべきや、<br><span style="color: #999999">〔中略〕</span><br>然れば其意味とは果して何事ぞや、吾人の發達進歩なり、世界の發達進歩なり、萬物の發達進歩なり、此等の發達進歩は既に其徴證を吾人の左右前後に提起しつゝあるにあらずや、此徴證を實驗しつゝも、尚人生を以て無意味なりと云はんとするものあるか、吾人は之に與する能はざるなり。</p>
<p style="margin-bottom: 0;">　　　<strong>三八</strong>　活動は必ずしも進化作用にあらず</p>
<p style="margin-top: 0.5em; margin-bottom: 0">　吾人は發達進歩を以て萬有成立の最大要義なりと信ず、而して其發達進歩が活動を必要とすることは言を待たざる所なり、故に吾人人生に在りても、活動は重大の要件なること論なきなり。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 12px">（清沢満之『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/756727/1/47" target="_self" title="">修養時感</a>』pp.84-86）</p>
</blockquote>
<p>　浄土信仰と言えば、「厭離穢土 欣求浄土」という言葉が思い浮かびますが、これは「穢れた現世から早く離れて、浄土へ行きたい」と願うもので、厭世的な思想の表現です。しかし清沢満之はこれと対照的に、「人生を厭ひ人生に背くは不当の事たるなり」と述べ、われわれの人生の意味は、「万物の発達進歩」にあるのだと言うのです。<br>　上の『修養時感』が刊行された1903年には、一高生の藤村操が「万有の真相は不可解」との言葉を遺して華厳の滝から身を投げ、世間を驚かせましたが、彼らのような「煩悶青年」とは対極にあるような、楽観的な現世肯定です。</p>
<p>　また、「精神主義」という名称からは、「沈思黙考し内省する」ような、静的な生活態度を連想するかもしれませんが、学生時代の清沢は、「挙動は甚だ活発で、走る、相撲をとる、衣服の損じていないことは稀で、たびたび学校の先生に叱られていた」（山本伸裕『清沢満之と日本近現代思想』p.50）ということです。<br>　後生の清沢満之の思想にも、このような行動的・活動的な側面が、色濃く表れています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　　　<strong>五七</strong>。福利の増進</p>
<p style="margin-top: 0.5em; margin-bottom: 0">　福利の増進は進歩の大目的なり。故に之を普遍的に云へば、吾人は一般に福利増進の事に從事せざるべからず。而して此に積極的と消極的の二面あり。所謂精進の法と、忍辱の法との二者なり。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 12px">（清沢満之『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/820786/1/128" target="_self" title="">懺悔録</a>』pp.232-233）</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　　　<strong>一八</strong>。精進の心</p>
<p style="margin-top: 0.5em; margin-bottom: 0">　勇往邁進とか、勇猛精進とか、驀直進前とか云ふ樣な言句は澤山ある言葉で、何れも皆吾人に必要なる德行を教ふるものと傅へらる。其事は如何なることかと云ふに、つまり何事でもずつとやれと云ふのである。なんでもないことである、ずつとやる丈のことである。然るに此なんでもないことが甚だ六か敷い。年を取りて、智慧や經驗が増すに從ひ、愈六か敷くなることである。此でよいかしらん、此ではわるいかしらん、やるがよいかしらん、やめるがよいかしらん。<span style="color: #999999">〔中略〕</span> <br>　如何にして吾人は此苦悶を免かれ得べきであるか。智識や經驗は、此苦悶を取り去る所の道具ではないどうすればよいか。驀直進前するがよい、ずつとやればよい、彼れ此れ思はぬがよい、善だの惡だの是だの非だのと妄想分別に陥るからいけない。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 12px">（清沢満之『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/757486/1/66" target="_self" title="">精神講話</a>』pp.124-126）</p>
</blockquote>
<p>　ここで清沢が推奨している「精進」という行動理念は、プロテスタンティズムにおける「行動的禁欲（active Askese）」という態度に、非常に似ているのではないでしょうか。<br>　もともと仏教において「精進」とは、「仏道修行に励む」ということですが、「精進料理」という言葉に表れているように、そこには「禁欲」が深く関わっています。そして清沢は上記「精進の心」にあるように、「何事でもずっとやる」こと、「驀直進前」することが、「精進」の基本原理だと言うのです。<br>　これは、プロテスタンティズムにおいて、「不断の労働」こそが「行動的禁欲」の実践であるとされたことに、似通っています。</p>
<p>　そして、ここで上の「<strong>五七</strong>。福利の増進」に戻ると、この「精進」と「忍辱」こそが、「福利の増進」に資するのだと、清沢満之は述べているわけです。<br>　ここには、「行動的禁欲が、利潤追求や蓄財を合理化する」という、プロテスタンティズム倫理が孕む逆説との、興味深いアナロジーがあるように、私には思えます。</p>
<p>　……ということで、以上をまとめると、清沢満之の「精神主義」という思想は、天与の職業を絶対無限の価値あるものとして受け入れるよう求め、人生の意味は万物の発達進歩にあると考え、そのためにひたすら精進して福利の増進に努めることを、推奨するものと言えます。そしてくしくもこれは、マックス・ウェーバーがプロテスタンティズムに見出した行動倫理と、共通するところが多いのです。</p>
<p>　ただしウェーバーの論旨は、プロテスタンティズムの倫理が先に存在して、これが近代資本主義の形成に大きな役割を果たしたというものであるのに対して、宮沢政次郎においては、清沢の思想が先にあってその後商人になったわけではなく、高等小学校を出たらすぐに商売の世界に入り、清沢満之の思想に親しんでいったのは、それより後のことだったと思われます。<br>　しかしそれでも、清沢の思想が持っていた合理性、勤勉性、禁欲的な活動性と発達進歩への信頼は、政次郎が終生迷いなく商業活動に邁進し、積極的に事業を拡大していく上で、大きな精神的拠り所となったのではないかと、考える次第です。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　浄土真宗は、呪術や祈祷を否定するなど合理主義的・現実主義的な姿勢が特徴ですが、賢治が自らの超常体験について家族に語った際に、政次郎が「そんな怪しい話をするな」と戒めたのも（書簡153）、そのような思想の表れでしょう。これに比べると、鎌倉新仏教の中でも日蓮の教えは、遙かに超現実的で、「法華経を信ずる者は諸天善神に守護してもらえる」とか、「法華経を信じなければ国が乱れ外国に攻められる」など、「呪術的」な色彩が充ち満ちています。<br>　ファンタジックな傾向の強かった賢治にしてみれば、現実的な浄土真宗や清沢満之の思想よりも、不可思議な力を積極的に肯定する日蓮の教えの方が、少なくともその感性には合っていたのではないかと思います。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/20260308a.jpg" width="640" height="284" alt="『精神界』"><br>『精神界』（山本伸裕『清沢満之と日本近現代思想』p.71より）</p>]]>
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    <title>病める女性とともに(2)</title>
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    <published>2026-02-22T12:51:11Z</published>
    <updated>2026-03-17T00:02:50Z</updated>

    <summary>　私は2年前に「われらともに歌ひて泯びなんを」という記事で、「〔われらぞやがて泯...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
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    <category term="「文語詩未定稿」" label="「文語詩未定稿」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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        <![CDATA[<p>　私は2年前に「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2024/01/post_1096.htm" target="_self" title="">われらともに歌ひて泯びなんを</a>」という記事で、「<a href="https://ihatov.cc/hoi_2/535_d.htm" target="_self" title="">〔われらぞやがて泯ぶべき〕</a>」という文語スケッチを読んでみようとしたのですが、そこに賢治が自らの「病気」に関して記している、非常に深いルサンチマンのような感情には、驚きを禁じ得ませんでした。未来においては何かを「償え」と求めてはいるものの、現世にはもう全く絶望しており、あとはただ同じ苦しみを共有する仲間と「ともに歌ひて泯びなん」ことのみを、賢治は願っているかのようでした。<br>　この救いのなさは、いったい何なのだろうかと思いました。</p>
<p>　そこで考えてみると、自らの病気に対するこの根深い感情は、1931年9月に賢治が東京で高熱を出して倒れた際に、生命の危険を冒してまでも、なかなか家にも知らせず帰ろうともしなかったのは何故なのか、という謎にも関わっているように思えました。<br>　それで上の記事の少し後に、「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2024/02/2_60.htm" target="_self" title="">八幡館の八日間(2)</a>」という記事を書きました。</p>
<p>　二つの問題を並べてみると、両者に通底する賢治の感情を理解するためには、賢治は結核という病気のために、周囲から陰に陽に侮蔑や差別を受けて、とても深く傷ついていたのだと考えざるを得ないように思われました。またその傷つきは、実際いくつかの作品にも表れていると感じられましたので、それを「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2025/12/post_1177.htm" target="_self" title="">病気への侮蔑と差別の中で</a>」という記事に書きました。</p>
<p>　ところで前述のように、賢治はこのように傷つきながらも、「<a href="https://ihatov.cc/hoi_2/535_d.htm" target="_self" title="">〔われらぞやがて泯ぶべき〕</a>」では、同じ傷を持つ「仲間」に対して「ともに歌ひて泯びなん」として、「連帯」を呼びかけていたのでした。<br>　このような意味で、「弱者への共感と連帯」を表明する作品が、賢治晩年の文語詩の中にはそれなりに含まれていると思われましたので、その様子を概観しようとしたのが、「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/01/post_1178.htm" target="_self" title="">弱き者との連帯の歌</a>」という記事でした。<br>　さらに、そのような作品の具体例として、「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/01/post_1179.htm" target="_self" title="">毘沙門の堂は古びて</a>」や「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/02/post_1180.htm" target="_self" title="">病める女性とともに(1)</a>」という記事も書きました。</p>
<p>　本日の記事は、このような流れに続くものです。</p>]]>
        <![CDATA[<p style="text-align: center">※</p>
<p>　賢治晩年の文語詩の中に、「遊女」とか「<ruby>淫<rp>（</rp><rt>たわ</rt><rp>）</rp></ruby>れ女」などと呼ばれる階層の女性たちを描いた作品がかなりあることは、従来から注目されており、栗原敦さんは「うられしをみなごのうた」（『宮沢賢治　透明な軌道の上から』所収）という文章において、「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/742_d.htm" target="_self" title="">八戸</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/656_d.htm" target="_self" title="">歯科医院</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/821_d.htm" target="_self" title="">〔せなうち痛み息熱く〕</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/812_d.htm" target="_self" title="">〔鉛のいろの冬海の〕</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/732_d.htm" target="_self" title="">〔燈を紅き町の家より〕</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/605_d.htm" target="_self" title="">〔夜をま青き藺むしろに〕</a>」などの作品を取り上げておられます。<br>　ここで栗原さんは、賢治が「淫れめ」に共感しつつ描写する態度を、「自と他を一瞬にして入れ換えさせ、しかもそれぞれの位置付けの誤差をも正す〈共なる「われ」〉」という言葉で表現し、賢治が彼女たちに寄せる思いの深さを指摘しておられます。</p>
<p>　また島田隆輔さんは、『宮沢賢治研究　文語詩稿・叙説』の「序章 〈歌ひめ〉の詩系譜を読む」の中で、「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/325_d.htm" target="_self" title="">〔ちゞれてすがすがしい雲の朝〕</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/666_d.htm" target="_self" title="">早池峯山巓</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/742_d.htm" target="_self" title="">八戸</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/732_d.htm" target="_self" title="">〔燈を紅き町の家より〕</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/811_d.htm" target="_self" title="">〔雪とひのきの坂上に〕</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/695_d.htm" target="_self" title="">涅槃堂</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/821_d.htm" target="_self" title="">〔せなうち痛み息熱く〕</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/605_d.htm" target="_self" title="">〔夜をま青き藺むしろに〕</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/796_d.htm" target="_self" title="">〔なべてはしけく　よそほひて〕</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/662_d.htm" target="_self" title="">林館開業</a>」「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/656_d.htm" target="_self" title="">歯科医院</a>」などを取り上げ、推敲の時間経過に沿って、賢治の「〈歌ひめ〉観」がどのように変化していくかを詳しく跡づけておられます。<br>　なかでも「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/656_d.htm" target="_self" title="">歯科医院</a>」においては、「たはれめ」がまとう服が、「白き衣」から推敲を経て「浄き衣」となっていくことを指摘し、ここに作者は「あきらけき道」（「〔燈を紅き町の家より〕」の下書稿(一)に現れた言葉）に込められた、潔白さ・清明さ・明潔さ・明浄さを見出しているのではないか、と論じておられます。</p>
<p>　私としては、上記のお二人による精緻な論に、これ以上付け加えることは何もありませんが、ここでは「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/821_d.htm" target="_self" title="">〔せなうち痛み息熱く〕</a>」および「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/656_d.htm" target="_self" title="">歯科医院</a>」に登場する病気の女性を、「<a href="https://ihatov.cc/hoi_2/535_d.htm" target="_self" title="">〔われらぞやがて泯ぶべき〕</a>」に歌われた「仲間」と見る視点から、少しだけ触れておきたいと思います。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　「文語詩未定稿」の「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/821_d.htm" target="_self" title="">〔せなうち痛み息熱く〕</a>」は、次のような作品です。</p>
<blockquote>
<p>せなうち痛み息熱く<br>待合室をわが得るや<br>白き羽せし淫れめの<br>おごりてまなこうちつむり<br>かなためぐれるベンチには<br>かって獅子とも虎とも呼ばれ<br>いま歯を謝せし村長の<br>頬明き孫の<ruby>学生<rp>（</rp><rt>がくしやう</rt><rp>）</rp></ruby>を<br>侍童のさまに従へて<br>手袋の手をかさねつゝ<br>いとつゝましく汽車待てる<br>外の面俥の往来して<br>雪もさびしくよごれたる<br>二月の末のくれちかみ<br>十貫二十五銭にて<br>いかんぞ工場立たんなど<br>そのかみのシャツそのかみの<br>外套を着て物思ふは<br>こゝろ形をおしなべて<br>今日落魄のはてなれや<br>とは云へなんぞ人人の<br>なかより来り炉に立てば<br>遠き海見るさまなして<br>ひとみやさしくうるめるや<br>ロイドめがねにはし折りて<br>丈なすせなの荷をおろし<br>しばしさびしくつぶやける<br>その人なにの商人ぞ<br>はた軍服に剣欠きて<br>みふゆはややにうら寒き<br>黄なるりんごの一籠と<br>布のかばんをたづさえし<br>この人なにの司ぞや<br>見よかの<ruby>美<rp>（</rp><rt>は</rt><rp>）</rp></ruby>しき<ruby>淫<rp>（</rp><rt>たわ</rt><rp>）</rp></ruby>れめの<br>いまはかなげにめひらける<br>その瞳くらくよどみつゝ<br>かすかに肩のもだゆるは<br>あはれたまゆらひらめきて<br>朽ちなんいのちかしこにも<br>われとひとしくうちなやみ<br>さびしく汽車を待つなるを</p>
</blockquote>
<p>　この文語詩の<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/821_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>が記されている「王冠印手帳」は、1931年2月～5月頃に使用していたものと推定されており、東北砕石工場技師時代の初期にあたります。</p>
<p>　冒頭ですでに賢治は、「せなうち痛み息熱く」ということで、背中の痛みや発熱の徴候が出ています。前年末でいったんは回復したように見えた結核の症状は、やはりくすぶり続けているようです。賢治が苦しい体で何とか駅の待合室に入ってくると、そこには「白き羽せし淫れめ」が座っていました。<br>　女性の衣装は「白き羽」と形容されていますが、<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/821_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>では「セキセイインコいろの白き女」となっていて、とにかく何か「鳥」を連想させるような雰囲気があったのでしょう。「おごりてまなこうちつむり」という描写からすると、何か高慢な態度と感じられて、賢治にとって第一印象はあまり良くなかったようです。<br>　あちらのベンチに座る元村長が、かつては「獅子とも虎とも呼ばれ」る猛者だったのに、今は「いとつゝましく汽車待てる」謙虚な様子とは、好対照を成しています。</p>
<p>　この後、待合室にいるさまざまな人々が描写されていきますが、最後に賢治の視線は、再び冒頭の「白き羽せし淫れめ」に戻ります。<br>　さっきは高慢な印象もあった女性ですが、しかし今度の描写は、何と繊細で優しいことでしょう。<br>　「はかなげに」目を開いた彼女の瞳は、なぜか暗く澱んでいます。その原因は、「かすかに肩のもだゆる」──呼吸のたびにその肩が細かく上下する──様子に表れていて、おそらく胸の病気に罹っているのでしょう。<br>　それに気づいた賢治の心は、にわかに強く動かされます。彼女の瞳は暗く澱んでいるけれども、「あそこにも（自分と同じく）ひと時だけ閃いて、消えていく命がある！」と気づき、「彼女も私と同じように、病気で苦しみながら、寂しく汽車を待っているのだ」と思いを寄せ、自らと相手を重ね合わせるのです。</p>
<p>　このような「自己と対象の一体化」というのは、賢治の作品における重要な特徴で、それは中学生の短歌の時代から際立っていました。そして晩年の文語詩においては、作品中で三人称と一人称を自在に交替させつつ推敲を重ねていく、という特異なスタイルへとつながっています。<br>　この作品でも、待合室でふと見かけた「淫れめ」に対して、思わず「われとひとしく」と一体化してしまっているところを、栗原敦さんは〈共なる「われ」〉と表現しておられたわけです。</p>
<p>　またここでは、「淫れめ」を「白き羽せし」あるいは「セキセイインコ」と形容して、「鳥」に見立てているところも、私には興味深く感じられます。「<a href="https://ihatov.cc/hoi_2/535_d.htm" target="_self" title="">〔われらぞやがて泯ぶべき〕</a>」においては、この世への別れの歌を、作者は「鳥のごとくに歌はんかな」と記していました。彼女は賢治と一緒に亡びの歌を唱う、「鳥」の仲間なのです。<br>　あるいはまた、生前のトシは「鳥のやうに栗鼠のやうに」と描写され、亡くなってからは「白い鳥」の幻影として賢治に現れたことも、ここに遠くつながっているのかもしれません。トシもまた胸の病に罹り、女学校時代には悪質な新聞記事によって、傷を負った一員です。</p>
<p>　ところでこの「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/821_d.htm" target="_self" title="">〔せなうち痛み息熱く〕</a>」が、文語詩稿 一百篇」の「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/656_d.htm" target="_self" title="">歯科医院</a>」と、いくつかのモチーフを共有していることについては、信時哲郎さんが『宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈』で、指摘しておられます。<br>　「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/656_d.htm" target="_self" title="">歯科医院</a>」の定稿は、下記のとおりです。</p>
<blockquote>
<p>　　歯科医院<br><br>ま夏は梅の枝青く、　　　　風なき窓を往く蟻や、<br><ruby>碧空<rp>（</rp><rt>そら</rt><rp>）</rp></ruby>の反射のなかにして、　うつつにめぐる鑿ぐるま。<br><br>浄き衣せしたはれめの、　　ソーファによりてまどろめる、<br>はてもしらねば磁気嵐、　　かぼそき肩ををののかす。</p>
</blockquote>
<p>　こちらは、駅ではなく歯科医院の待合室が舞台ですが、やはりそこに座っている「たはれめ」が描かれます。<br>　彼女がまとう服は、定稿では「浄き衣」となっていますが、下書稿(二)では「白き衣」で、「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/821_d.htm" target="_self" title="">〔せなうち痛み息熱く〕</a>」の「白き羽」と共通しています。また、こちらで「かぼそき肩ををののかす」となっているのは、「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/821_d.htm" target="_self" title="">〔せなうち痛み息熱く〕</a>」では「かすかに肩のもだゆる」となっていました。</p>
<p>　この「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/656_d.htm" target="_self" title="">歯科医院</a>」については、栗原敦さんによるぴんと張りつめた評釈を、引用させていただきます。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　風も死に、枝ひとつ揺れぬ中を、音なく蟻が往き来する。診察室では軽い圧迫を思わせる治療器具の音。光の中の小さな黒点というべき蟻の動きと鈍く響くその音のために、かえって永遠をも感じさせる真夏の昼の、時の止まったようなひととき。気圏の大きな拡がりの果てでおこる目には見えない何かを感じたかのごとき一瞬、それが良く捉えられている。まどろみつつ診察の順番を待つ清潔な夏の衣の「たはれめ」。しかもその「かぼそき肩」に着目するのは、「たはれめ」の存在としてのはかなさを、いたわりの視線に包んで描いていることを示すと言ってよい。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（栗原敦『宮沢賢治　透明な軌道の上から』p.328）</p>
</blockquote>
<p>　こちらの作品には、「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/821_d.htm" target="_self" title="">〔せなうち痛み息熱く〕</a>」のように、自分と「たはれめ」を一体化させてしまうほどの衝迫はありませんが、上の評のように、作者による温かい「いたわりの視線」が印象的です。<br>　さらに、島田隆輔さんが指摘しておられるように、彼女の衣装を単なる「白き衣」から、聖性をも感じさせる「浄き衣」へと昇華させているのも、注目に値します。「たはれめ」は、当時はまだ一般的には蔑まれる存在であったでしょうが、その衣を「浄き」と形容しているのは、『注文の多い料理店』の「序」の一節、「ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや<ruby>羅紗<rp>（</rp><rt>らしや</rt><rp>）</rp></ruby>や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました」とあることも、連想させます。</p>
<p>　ここでは、最も粗末なもの、蔑まれるものが、その対極にある、最も聖なるもの、清らかなものに、転化しているのです。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　多くの場合、この世で抑圧され、差別される者は、己に加えられる圧迫をひたすら耐え忍びつつ、自らが弱き者、虐げられた者であることを、嘆くしかありません。<br>　しかし時に、そのような価値基準を全く転倒させるような、新しい世界観が登場することがあります。新たな基準では、それまで最も弱かった者が強い者へと、最も貧しかった者が富める者へと、価値の逆転が行われるのです。</p>
<p>　たとえば、ローマの圧制下にあったユダヤ人の中から、ナザレのイエスが現れ、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである（マタイ伝 5: 3）」と説いた時、それまで底辺にいると思われていた人々が、最も祝福される存在になったのです。<br>　ニーチェは、キリスト教がこのような価値転倒を成し遂げた原動力は、抑圧されていたユダヤ人が抱いていた「ルサンチマン」にあったと考えました。「道徳における奴隷の叛乱はまず、<ruby>怨恨の念<rp>（</rp><rt>ルサンチマン</rt><rp>）</rp></ruby>そのものが創造する力をもつようになり、価値を生みだすことから始まる。」（ニーチェ『道徳の系譜学』光文社古典新訳文庫p.43）<br>　ニーチェはこれを「奴隷の道徳」と呼びましたが、キリスト教とその普遍的な「愛」の教えは、その後現在に至るまで、西洋世界の精神的支柱となってきたのです。</p>
<p>　初めに述べたように、「<a href="https://ihatov.cc/hoi_2/535_d.htm" target="_self" title="">〔われらぞやがて泯ぶべき〕</a>」やその他の作品を読むと、病に対する侮蔑や差別に苦しんだ賢治も、そのような世間に対して、一種の「ルサンチマン」を抱いていたように、私には思えてなりません。彼はそれを、表立って声に出すことはありませんでしたが、一部の作品には上のように記し、また自らと同じような弱き者たちに共感し、慈しみ、連帯を念じていました。<br>　彼の晩年の文語詩に、「遊女」や「<ruby>淫<rp>（</rp><rt>たわ</rt><rp>）</rp></ruby>れ女」が数多く登場する様子からは、「徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る（マタイ伝 21: 31）」というイエスの言葉も、連想されます。<br>　そしてまた仏教的な観点からは、栗原敦さんが「うられしをみなごのうた」の最後に記された、下記の文も思い起こされます。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　若き日の配布物、「いやしい職業の女」「ビンヅマティー」の奇跡を再話した「〔手紙　二〕」が、時を隔ててこれらの「をみなご」にまでたどりついたとも言ってみたいが、ここではただ指摘しておくだけにとどめる他はない。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『宮沢賢治　透明な軌道の上から』p.340）</p>
</blockquote>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a href="https://ihatov.cc/images/20260222a.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/02/20260222a-thumb-640xauto-1094.jpg" width="640" height="459" alt="「〔手紙　二〕」"></a><br>「〔手紙　二〕」（筑摩書房『写真集 宮澤賢治の世界』より）</p>]]>
    </content>
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    <title>劇団民藝「風紋─この身はやがて風になりても─」</title>
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    <published>2026-02-15T14:04:28Z</published>
    <updated>2026-02-23T14:15:04Z</updated>

    <summary>　劇団民藝による、宮沢賢治を題材とした舞台「風紋─この身はやがて風になりても─」...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="賢治イベント" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="グリーフ・ワーク" label="グリーフ・ワーク" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="峠" label="峠" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　劇団民藝による、宮沢賢治を題材とした舞台「<a href="https://www.gekidanmingei.co.jp/performance/2026_fumon/" target="_self" title="">風紋─この身はやがて風になりても─</a>」の公演を、見に行ってきました。<a href="https://store.kinokuniya.co.jp/store/kinokuniya-southern-theatre-takashimaya/" target="_self" title="">紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA</a>にて、2月6日～14日の間、上演されていました。</p>
<p><img data-mt-asset-id="1093" src="https://ihatov.cc/images/20260215a.jpg" width="640" height="360" alt="劇団民藝「風紋─この身はやがて風になりても─」" class="asset asset-image" style="display: block"></p>]]>
        <![CDATA[<p>　作者は、NHKの2023年の朝ドラ「らんまん」の脚本でも知られる長田育恵氏で、登場人物は以下のとおりです。</p>
<blockquote>
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>宮澤 賢治</strong>　東北砕石工場技師。36歳。死の二ヵ月前。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>夏井 巳喜雄</strong>　仙人峠駅駅舎兼旅籠の主人。アヤの舅。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>夏井 アヤ</strong>　仙人峠駅駅舎兼旅籠の手伝い。巳喜雄の義理の娘。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>松峯 大悟</strong>　仙人峠を根城にする運び屋。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>桐島 三郎</strong>　遠洋漁業帰りの漁師。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>工藤 俊作</strong>　都市からの失業者。実は特高警察。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>志村 町子</strong>　元浅草金龍館の踊り子。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>小畑 キミ</strong>　貧村から売られる少女。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>保阪 嘉内</strong>　賢治の盛岡高等農林学校時代の友人。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>宮澤 トシ</strong>　賢治の妹。24歳のときに肺病で亡くなる。</p>
</div>
</blockquote>
<p>　舞台は、次のような設定で始まります。</p>
<blockquote>
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="text-indent: -1rem; margin-bottom: 0;"><strong><span style="font-weight: bold; font-size: 18px;">一、峠➀</span></strong><br>一九三三年（昭和八年）七月三〇日、夕刻。<br>外は嵐。昨日の深夜から降り続いている。<br>岩手軽便鉄道終着の仙人峠駅、その駅舎兼旅籠。<br><span style="color: #6B6B6B">〔中略：仙人峠の説明〕</span><br>この駅舎兼旅籠は、峠越えする旅人たちの補給所となっている。<br>入口を入ると、土間と座敷。<br>土間には、水桶と掃除用具、旅行客用のベンチなど。<br>座敷は居間としても使われており、僅かな家財道具がある。<br>宿帳をつけるための座卓、筆や筆記用具。<br>片隅には仏壇。仏壇には壺が飾られている。<br>（のちにわかるが、壺には貝殻がいくつも入っている）<br>座敷から別座敷に続く廊下。宿泊者はそちらに泊まる。<br>炊事場などもそちらにある。<br>駅舎兼旅籠の主人は夏井巳喜雄。その義理の娘アヤ。<br>巳喜雄の息子でアヤの夫の邦彦は、三月に三陸大津波で亡くなっている。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『悲劇喜劇』Mar.2026 No.839 p.141）</p>
</div>
</blockquote>
<p>　激しい嵐の中、岩手軽便鉄道の最終列車が、終点の仙人峠駅に着きました。さまざまな乗客が、駅舎併設の旅籠に入ってきますが、あと一人列車に乗っていたはずの、大きな鞄を持った男が見当たりません。旅籠の主人が探しに行くと、その男は駅のベンチで気を失って倒れていました。<br>　乗客たちも手伝って旅籠に運び込み、とりあえず座敷の布団に寝かせ、身元を調べるために大きな茶色の鞄を開けてみると、肥料の入った砂袋やレコードや原稿用紙の間から、「東北砕石工場　技師　宮澤賢治」と書いた名刺が出てきました。</p>
<p>　その後まもなく、仙人峠を越える道は落石のために通行止めになり、さらに岩手軽便鉄道の仙人峠駅の手前でも、線路が浸水します。乗客たちは、進むことも退くこともできなくなって、山中の小さな宿に閉じ込められてしまったのです。<br>　宿の座敷では、桐島や松峯たちが行う博打、不審な失業者工藤俊作とその彼女町子の痴話喧嘩、釜石に売られて行く貧しい少女キミの身の上話、遠洋マグロ船漁師の桐島が未亡人夏井アヤに寄せる恋心などの、群像劇が繰り広げられる一方、熱にうなされる賢治の夢の中には、妹のトシや親友の保阪嘉内も登場します。<br>　賢治は、旅籠で働く夏井アヤの献身的な看護で意識を取り戻しますが、花巻の名士の息子と知った主人が自宅に連絡しようとすると、頑なに拒否します。このあたりの様子は、1931年9月に東京で高熱を出して倒れた時、周囲の人が自宅に知らせようとすると、やはり断固拒否したという史実を彷彿とさせます。</p>
<p>　賢治が旅籠主人の巳喜雄とアヤに語ったところでは、彼が重病を押して無茶な旅をしようとした理由は、釜石にいる教え子から、3月の津波で畑が海水をかぶったので助けてほしいと頼まれて、土質調査と肥料設計のために行くのだということでした。<br>　死を前にしたこういう無茶な献身は、実際の死の前日に一人の農民が肥料の相談に来て、家族の制止も聞かずに長時間相談に乗ったというエピソードを思い起こさせます。劇中でも巳喜雄とアヤが、こんな体でこれ以上の旅行は無理だと止めますが、賢治は言うことを聞きません。</p>
<p>　印象的だったシーンの一つは、お互いに深い喪失を抱えた夏井アヤと賢治の、中盤あたりの会話です。<br>　アヤの夫の邦彦は、この年3月の昭和三陸大津波で行方不明になり、アヤは今も釜石の海岸に夫を探しに行っては、空しく貝殻を拾って帰り、仏壇の壺に入れつづけています。賢治は、自分も10年ほど前に妹を若くして亡くし、その妹の行方を探すために、樺太の終着駅まで行ったことを語ります。<br>　未亡人となったアヤに、漁師の桐島は酔って恋心を打ち明け、松峯も「死んだ人はさ、帰ってこねぇよ」と言って前を向くことを勧めますが、賢治は「忘れられませんよ。いなぐなっでねえんですから。ただちっと、俺だぢから見えねぐなっだだけで……」と言って、まだ喪失を受け容れられないアヤの心情を、肯定し支持します。</p>
<p>　後に旅籠主人の夏井巳喜雄が語ったところでは、津波の日に息子の邦彦はたまたま非番で、巳喜雄が釜石に行く用事を頼んだばかりに、津波に遭ってしまったのだということです。巳喜雄の顔には自責の念が浮かんでいます。<br>　津波の2～3日後、巳喜雄とアヤが邦彦を探しに釜石に行き、知人から聞いたところでは、邦彦はいったん<ruby>舫<rp>（</rp><rt>もや</rt><rp>）</rp></ruby>い舟につかまって助かっていたものの、親子が流されているのを見て、その二人を舟に乗せるために自分は降りて木切れにつかまっていたところ、松の木にぶつかって行方がわからなくなったということでした。<br>　この部分は、「銀河鉄道の夜」において、タイタニックと思しき客船に乗っていた家庭教師と子供二人が、他の小さな子供たちに救命ボートへの乗船を譲って、客船とともに沈んだ、という箇所を思い起こさせます。</p>
<p>　邦彦を釜石に行かせてしまった巳喜雄は、そのことをずっと悔やんでいましたが、賢治が特高刑事の工藤俊作と議論する中で言った、「自分は結局何も実現できず、情けない状態でもうすぐ死んでいくけれども、たとえ死んでも、まことの道の実現を願いつづける」という趣旨の言葉に何かを感じたようで、後で「さっきのあんたの言葉聞いたら、俺ァはじめて──あいづ、やりきったんだろうなぁ。悔いはねえんだろうなぁっで──あいづはもう……ここさはいねぇ気がして……」という心境に至ったことを吐露します。</p>
<p>　最後近く、賢治は大きな鞄から原稿用紙を取り出し、アヤの前で「グスコーブドリの伝記」の、終わりの部分を読み始めます。ブドリが火山島に一人残って、サンムトリ火山を爆発させる場面です。アヤも続けて原稿用紙を手に取り、朗読を引き継ぎます。<br>　そして幕切れの、「次の日、イーハトーヴの人たちは青ぞらが緑いろに濁り、……たくさんのブドリやネリたちは、その冬を楽しく過ごすことができたのでした。」の部分は、トシが舞台に登場して朗読します。<br>　読み終えたトシは、「何も──ひとり、死ななくてもいいのにね。」と、苦笑しつつつぶやきます。賢治は照れるように、「いいんだ。みんなの本当の幸いのためだから。」と答えます。さらにトシが、「誰もがきっと言うよ。もっと上手いやり方はないのかって。こんなのは、」と突っ込むと、賢治は「これは、ただ……俺の夢。わがままだ。」とうつむきました。</p>
<blockquote>
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>賢治</strong>　……ずっと、おめぇに謝りたかったよ。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>トシ</strong>　なして？</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>賢治</strong>　たったひとり逝かしちまったこと。おめぇは迷いもなく青く澄んだ道を辿っていった。俺はおめぇをその道さ誘ったくせに、薄暗い迷いの中をいづまでも彷徨ってる。……嘘つきの<ruby>罪人<rp>（</rp><rt>つみびと</rt><rp>）</rp></ruby>だ。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>トシ</strong>　兄さんはもう赦されてる。ううん、最初から、罪人なんかでねえよ。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>賢治</strong>　でも俺は、悔いばっかりだ。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>トシ</strong>　その悔いが、お話しさなったんだべ？</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>賢治</strong>　──、</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>トシ</strong>　兄さん。願いはね、生きてる者だけの特権じゃねえよ。花や風、星ひとつになって見えなくなった者たちも、愛する人のために願うよ。わたしも兄さんに言いたかった。この星の──青い空と海の中、島々からなる小さな国の、東北にあるイーハトーヴ。そごさ住む、私の兄さんが守られますように。──兄さんの願いが叶いますように。</p>
<p style="padding-left: 2rem; margin: 0.7em 0;">トシ、原稿を賢治の元に返す。海の方へ還っていく。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>賢治</strong>　トシ、俺もじきに行くから、待っててけろ。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>トシ</strong>　来なくていい。……でも怖がらないで。ここの空はね、晴れ渡ってるよ。</p>
<p style="padding-left: 2rem; margin-bottom: 0;">トシ、去る。</p>
<p style="padding-left: 2rem; margin: 0;">波の音が消えていく。</p>
<p style="padding-left: 2rem; margin-top: 0;">原稿を読んでいたアヤ、顔を上げる。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>アヤ</strong>　宮澤さん、あなたは作家だったのね。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>賢治</strong>　はい、本は詩と童話が一冊ずつ、ほんの自費出版で出したようなもんだけんど。妹とは──トシとは、北の果てさ行っても会われねがった。んだども、あいづはずっとここさ居たんだ。……ここさ居る。</p>
<p style="padding-left: 2rem; margin: 0.7em 0;">いつのまにか、窓から光が差し込んでいる。</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><strong>アヤ</strong>　ああ、夜が明けるね。</p>
<p style="padding-left: 2rem; margin: 0.7em 0;">賢治とアヤ、窓の外を見る。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『悲劇喜劇』Mar.2026 No.839 pp.181-182）</p>
</div>
</blockquote>
<p>　四日目の朝、空は明るく晴れ渡り、仙人峠駅に留め置かれていた人々は、それぞれ出発して行きます。賢治は、運び屋の松峯に駄賃を弾み、釜石まで馬で送ってもらって、さらに松峯が教え子の畑に入って作業をする約束を取り付けました。仙人峠のてっぺんの様子を語るところでは、詩「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/153_d.htm" target="_self" title="">峠</a>」の一節が引用されます。<br>　皆が去った後、賢治が使っていた布団をアヤが片付けようとすると、そこには『注文の多い料理店』と題された一冊の本が残されていました。それは、忘れ物なのでしょうか、それともアヤへの贈り物なのでしょうか……。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　本作のテーマの一つは、賢治にとってのトシの夭折・保阪嘉内との別離、夏井アヤと巳喜雄にとっての邦彦の行方不明という、三者の深刻な「喪失体験」を、それぞれがどのように受けとめていくか、ということだったと思います。<br>　その受容のための一つの道筋は、賢治が上の引用部の最後で「あいづはずっとここさ居たんだ。……ここさ居る」と述べているように、「死者は、実はいつもそばにいる」という、「共存」の感覚にあるのではないかと思います。アヤが釜石の浜辺で拾ってくる貝殻も、そのような共存の「依り代」でした。賢治の作品から読みとれる、このような「死者との共存感覚」については、私も以前に「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2016/09/post_859.htm" target="_self" title="">宮沢賢治のグリーフ・ワーク</a>」（『宮沢賢治研究Annual』Vol.26, 2016）という文章などで考えてみたことがありました。</p>
<p>　また、喪失の苦しみは、そこに「<ruby>生存者の罪悪感<rp>（</rp><rt>サバイバーズ・ギルト</rt><rp>）</rp></ruby>」が結びついている場合に、さらに痛切なものになってしまいます。賢治がトシに「謝らなければならない」と言っているのもこの感情ですし、巳喜雄が「自分があの日、邦彦に用事さえ頼まなければ……」と自分を責めているのもそれです。<br>　この根深く困難な感情に対して本作では、「生者の視点だけでなく、死者の視点から眺めてみる」という転換による昇華が示されているように、私には感じられました。賢治に対して、すでに死者であるトシは、赦しとともにそもそも罪人ではないと告げ、巳喜雄は邦彦が「やりきったんだろうなぁ。悔いはねえんだろうなぁ」と思っているだろうと、死者自身の気持ちを実感します。<br>　この「死者からの視点」を、生者がしっかりと掴める場面は、現実には稀有で貴重な瞬間ですが、ひとたびこれが訪れるや、思わぬ力を発揮するものです。</p>
<p>　さて、作者の長田育恵氏が宮沢賢治を題材とするのは、2012年の「青のはて」、2017年の本作の前身に次いで、三作目だということです。上の作品紹介中でいくつか記したように、この作品からは賢治の伝記的事項に対する細かい目配りや、作品からの適確な引用や翻案など、作者の賢治への造詣の深さが感じられます。賢治の「最後の手紙」である、1933年9月11日付け柳原昌悦あて書簡488からの引用も随所に散りばめられており、この手紙を読んだことのある人は、台詞を聞いているとあちこちでじんとくるでしょう。</p>
<p>　ところで、本作で賢治の鞄の中に入っていたレコードは、劇中では「読めねえ！ 横文字だあ！」ということで明らかにされませんでしたが、『悲劇喜劇』の3月号に掲載されている脚本によれば、これはリヒャルト・シュトラウス作曲の交響詩「死と変容」だったということです。<br>　この「死と変容」のレコードは、実際に賢治が1931年9月に東京で倒れた際に、トランクに入れて持参し、友人の菊池武雄に「形見みたいなものだ」と言って贈ったという代物で、こういうところにも、芸の細かい設定が施されていると感じます。<br>　「死と変容（Tod und Verklärung）」は、若い頃から病弱で何度か死にかけたというリヒャルト・シュトラウスが、自らの体験を作品化したものと言われており、病人が死との闘いで疲れ、人生を回想するうちに、平穏な死と浄化（Verklärung）が訪れる、という構成になっています。<br>　R. シュトラウスの曲では、浄化されるのは死に行く者でしたが、この劇では、生者の方が浄化され、変容していく……という感じです。</p>
<p>　最後におまけとして、下記はゲオルグ・ショルティ指揮シカゴ交響楽団による、「死と変容」の名演です。</p>
<div class="youtube_4-3">
<p><iframe width="640" height="480" src="https://www.youtube.com/embed/pC_Q24xzCBI?si=VcrxQLqYvovpWZqM" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
</div>]]>
    </content>
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    <title>それが人間の石炭紀であった</title>
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    <published>2026-02-08T05:33:05Z</published>
    <updated>2026-03-20T12:30:16Z</updated>

    <summary> 一〇五三　　　政治家　　　　　　　　　一九二七、五、三、あっちもこっちもひとさ...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="雑記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="労農党" label="労農党" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="政治家" label="政治家" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">一〇五三<br>　　　政治家<br>　　　　　　　　　一九二七、五、三、<br><br>あっちもこっちも<br>ひとさわぎおこして<br>いっぱい呑みたいやつらばかりだ<br>　　　　　羊歯の葉と雲<br>　　　　　　　　世界はそんなにつめたく暗い<br>けれどもまもなく<br>さういふやつらは<br>ひとりで腐って<br>ひとりで雨に流される<br>あとはしんとした青い羊歯ばかり<br>そしてそれが人間の石炭紀であったと<br>どこかの透明な地質学者が記録するであらう</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/344_d.htm" target="_self" title="">政治家</a>」（詩ノート）</p>
</blockquote>
<p>　堕落した政治家が、「ひとりで腐って／ひとりで雨に流される」だろうというのは、政治の未来に対する、一種の楽観論と言えるでしょう。現実には、99年後の今もそうはなっていませんが、当時の賢治にとっては、そんな期待を抱くような時代状況があったのかもしれません。</p>]]>
        <![CDATA[<p style="text-align: center">※</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/19251222a.jpg" width="640" height="263" alt="第三次仮国会議事堂"><br>1925年に完成した第三次仮国会議事堂（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E4%BB%AE%E8%AD%B0%E4%BA%8B%E5%A0%82%E5%BB%BA%E7%AF%89%E8%A8%98%E5%BF%B5.jpg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>
<p>　1924年5月に行われた第15回衆議院総選挙において、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の「護憲三派」が勝利して絶対多数を獲得すると、三派は貴族院の抵抗を押し切り、1925年3月に「普通選挙法」を成立させました。「普通選挙」と言っても、まだ男性にしか選挙権のない「性差別選挙」ではありましたが、しかしそれまでは「直接国税3円以上を納税する成人男性」しか投票権がなかったのが、「25歳以上の全ての男性」に拡大されたのです。<br>　これがどの程度の有権者拡大だったのかというと、上記1924年の<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC15%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99" target="_self" title="">第15回衆議院選挙</a>の有権者数は、全国で <strong>3,288,405人</strong>だったのに対し、1928年2月に行われた<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC16%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99" target="_self" title="">第16回衆議院選挙（第1回普通選挙）</a>の有権者数は <strong>12,408,678人</strong>となっており、一挙に約4倍に増えたわけです。<br>　これは言わば、第15回までの制限選挙では、成人男性の「上位4分の1の金持ち」だけの利害によって議員を選んでいたのを、次回からは小作農や貧困労働者など無産階級も含めた、全ての男性の意思が反映するように変えたわけです。新たに増えた下位4分の3の有権者の投票行動によっては、従来の政治勢力の力関係が、一気に引っくり返ってしまう可能性もあったのです。</p>
<p>　このような政治的チャンスを生かして、全国で無産政党が活動を開始し、なかでも1926年3月に設立された<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%BE%B2%E6%B0%91%E5%85%9A" target="_self" title="">労働農民党（労農党）</a>には、賢治も深く関与していきます。<br>　1926年10月に、花巻で労農党稗和支部が設立された際には、賢治はその事務所を斡旋して保証人になり、羅須地人協会から机や椅子を運び込んで、活動資金も毎月カンパをしていたということです（「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2023/07/post_1077.htm" target="_self" title="">労農党支持の背景</a>」）。<br>　また、大正デモクラシーの旗手とも言うべき政治学者の吉野作造は、「腐敗の著しい既成政党に代わり得る合法無産政党の結成」を呼びかけ、1926年12月の社会民衆党結党に参加しました。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　こういう盛り上がりの中にいた賢治が、次に総選挙が行われた暁には、新たに政治に参加する多数の民衆の力によって、金持ちの欲得のために動く政治家などは、駆逐されてしまうだろうと期待したのも、無理もないことだったと思います。<br>　賢治が冒頭の「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/344_d.htm" target="_self" title="">政治家</a>」という作品を書いたのは、衆議院の任期満了が1年後に迫る、1927年5月でした。あとはいつ解散総選挙が行われようとも、古臭い政治家が「ひとりで腐って／ひとりで雨に流される」のは、もう「まもなく」だと思ったのではないでしょうか。</p>
<p>　そしてついに1928年1月21日、衆議院が解散されて、日本初の普通選挙の火蓋が切られます。地元の岩手二区からは、労農党稗和支部長の泉国三郎が立候補しました。<br>　選挙期間中、「泉国三郎」と大書したビラを貼り歩いた運動員がごった返す事務所に戻ってみると、賢治が寄贈した謄写版一式と、金20円の紙包みが置いてあったということです（『新校本全集』年譜篇p.366）。また賢治は泉の選挙演説に、近所の農家の伊藤与蔵などの若者を連れて行ったりもしました。<br>　一方、無産政党の勢力拡大を恐れる政府・与党は、選挙期間中にさまざまな形でその運動を妨害し、警察を使って無産政党の事務所を執拗に監視しては、しばしば演説を中止させたり、ビラを押収したりしたということです。</p>
<p>　そして2月20日の投票の結果、与党の立憲政友会は218議席、野党第一党の立憲民政党は216議席と、どちらも過半数には達せず、一方で労農党は全国で28万票を得て2議席を獲得し、社会民衆党や日本労農党などを合わせた無産政党全体では、8議席を確保しました。賢治が応援した労農党の泉国三郎は、5名の立候補者中の4位で落選しましたが、花巻地区の得票は、他の地域よりも多かったということです。<br>　この結果を、無産政党の挫折と見るか、弾圧下での健闘と見なすかは、評価が分かれるところかもしれません。しかし政府・与党としては、無産政党が国会に議席を確保したというだけでも危機感を募らせ、これ以後は無産勢力への弾圧を、さらに強めていきます。</p>
<p>　この政治弾圧において、有効な武器として活用されたのが、普通選挙法とほぼ同時に成立し公布された、治安維持法でした。<br>　当時から、普通選挙法と治安維持法が「セット」のようにして作られたのは、民衆に対する「飴と鞭」であるとも言われていましたが、政府は総選挙からまもない1928年3月15日には、共産党の活動家数千名を一斉に検束し（<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6" target="_self" title="">三・一五事件</a>）、4月10日には労農党に結社禁止処分を下して、党を解散させました。<br>　賢治は同年6月10日の作品「<a href="https://ihatov.cc/tokyo/496_d.htm" target="_self" title="">高架線</a>」に、「ひかりかゞやく青ぞらのした／労農党は解散される」と書いて、落胆を表しています。</p>
<p>　さて、その後の日本は、大正デモクラシーの華やぎに別れを告げ、1929年の世界大恐慌のあおりで1930年から昭和恐慌に突入し、とりわけ農村は大きな打撃を受けました。財閥や政治家を狙うテロが相次ぐようになり、軍部は1931年に満洲事変を起こして、国全体が15年戦争へと突き進んでいきます。治安維持法によって逮捕された人は数十万人に上り、伊藤千代子、小林多喜二、三木清、戸坂潤、尹東柱、牧口常三郎ら、1500人あまりが獄死しました。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　ところで選挙の期間というのは、いつも何か非日常的な喧騒と高揚とがあたりを支配し、終わると二日酔いの朝のような気分になります。一介の有権者でもそうなのですから、日頃から政党活動を支え、選挙の応援もしていた98年前の賢治にとっては、きっとその何十倍も、選挙後に感ずるところはあっただろうと思います。</p>
<p>　ちなみに1925年の治安維持法は、絶対多数の政権のもとで、国民が是非を判断する機会もなく、突然登場してきましたが、現代の治安維持法と言われるスパイ防止法も、今回の選挙では表向き争点にはされていませんでした。これからどうなることでしょうか。</p>
<p><img data-mt-asset-id="1091" src="https://ihatov.cc/images/20260208a.jpg" width="640" height="360" alt="" class="asset asset-image" style="display: block"></p>]]>
    </content>
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    <title>病める女性とともに(1)</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/02/post_1180.htm" />
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    <published>2026-02-01T09:43:51Z</published>
    <updated>2026-02-22T16:52:49Z</updated>

    <summary>　晩年の賢治は、結核という病に苦しむとともに、この病気に向けられる世間の差別や偏...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="「文語詩未定稿」" label="「文語詩未定稿」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="三陸" label="三陸" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="八戸" label="八戸" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="結核" label="結核" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　晩年の賢治は、結核という病に苦しむとともに、この病気に向けられる世間の差別や偏見にも、苦しめられていました（「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2025/12/post_1177.htm" target="_self" title="">病気への侮蔑と差別の中で</a>」）。そして人々の心ない言動に傷つきながらも、自分と同じような境遇にある「身弱きもの・意久地なきもの・傷つけるもの」との連帯を歌ったのが、「<a href="https://ihatov.cc/hoi_2/535_d.htm" target="_self" title="">〔われらぞやがて泯ぶべき〕</a>」だったのだろうと思います（「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/01/post_1178.htm" target="_self" title="">弱き者との連帯の歌</a>」）。<br>　賢治晩年の文語詩には、このような「弱き者」に思いを寄せ、自らの苦悩と重ね合わせるかのような作品が一定数含まれていますが、今日と次回はそれらの中で、「<ruby>戯<rp>（</rp><rt>たわ</rt><rp>）</rp></ruby>れ<ruby>女<rp>（</rp><rt>め</rt><rp>）</rp></ruby>」と呼ばれる職業でありつつ、その上さらに胸を病んでいるという、二重の差別を受ける立場の女性を描いた作品を、見てみます。</p>
<p>　その一つは、文語詩未定稿の「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/742_d.htm" target="_self" title="">八戸</a>」です。</p>
<blockquote>
<p>　　八戸<br><br>さやかなる夏の衣して<br>ひとびとは汽車を待てども<br>疾みはてしわれはさびしく<br>琥珀もて客を待つめり<br><br>この駅はきりぎしにして<br>玻璃の窓海景を盛り<br>幾条の遥けき青や<br>岬にはあがる白波<br><br>南なるかの野の町に<br>歌ひめとなるならはしの<br>かゞやける唇や頬<br>われとても昨日はありにき<br><br>かのひとになべてを捧げ<br>かゞやかに四年を経しに<br>わが胸はにわかに重く<br>病葉と髪は散りにき<br><br>モートルの爆音高く<br>窓過ぐる黒き船あり<br>ひらめきて鴎はとび交ひ<br>岩波はまたしもあがる<br><br>そのかみもうなゐなりし日<br>こゝにして琥珀うりしを<br>あゝいまはうなゐとなりて<br>かのひとに行かんすべなし</p>
</blockquote>]]>
        <![CDATA[<p style="text-align: center">※</p>
<p>　海の間際にある駅で、一人の女性が寂しく琥珀を売っています。この海辺の町は彼女の故郷のようですが、若くして「歌ひめ」となって「南なるかの野の町」に行き、そこで「かのひと」と結ばれ、幸せな四年を送ります。しかし彼女は胸を病み、輝かしい日々は夢のように去って、一人またこの海辺に戻り琥珀売りをしているのです。</p>
<p>　タイトルの「八戸」が作品の舞台を示していると思われ、この「駅」は「きりぎし」にあるということから、八戸の東郊外にある「鮫」の駅と考えられます。現在の鮫駅は、埋め立てによって少し内陸部に位置していますが、賢治の時代にはまさに岸壁にあったということです。近くにはウミネコの繁殖地「蕪島」があり、第五連の「ひらめきて鴎はとび交ひ」に詠まれています。</p>
<p><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d56681.724326052674!2d141.53747263148185!3d40.54028274169072!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x5f9b53c016202bcb%3A0x5a4b06a952c2b85d!2z6a6r6aeF!5e1!3m2!1sja!2sjp!4v1770124145124!5m2!1sja!2sjp" width="100%" height="640" style="border:0;" allowfullscreen="" loading="lazy" referrerpolicy="no-referrer-when-downgrade"></iframe></p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/20260201c.jpg" width="640" height="427" alt="鮫駅"><br>鮫駅</p>
<p>　現在の鮫駅は、上写真のような古い木造の駅舎です。この建物は、1929年に建てられたようで、賢治が訪ねた時のままではないものの、ほぼ同時代のものです。</p>
<p>　女性が売っている琥珀は、八戸や鮫で採れるわけではないようですが、少し南の久慈は琥珀の名産地であり、久慈駅のステーションプラザでも売られています。<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/742_1.htm" target="_self" title="">初期形</a>では、女性が売るのは「琥珀」ではなく「貝」で、こちらの方が地元の実状には沿っていますが、「玻璃の窓」の透明感には、琥珀の方が響き合う感じです。<br>　ところで、女性がなった「歌ひめ」は、職業ですから「歌姫」ではなくて「歌ひ<ruby>女<rp>（</rp><rt>め</rt><rp>）</rp></ruby>」です。彼女にも「かゞやける唇や頬」の時代があり、そういう時に愛する人と出会ったのでしょう。それにしても、「かのひとになべてを捧げ……」とは、多くの賢治作品の雰囲気とは異なって、まるで昭和の演歌のようですね。</p>
<p>　賢治がこの文語詩を書くもとになった体験は、「「文語詩篇」ノート」の1926年の項に、「鮫駅　海光ノ中ニテ／物思ヘル女」として記載されています。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/20260201b.jpg" width="640" height="249" alt="「文語詩篇」ノート 1926"><br>『新校本全集』第13巻下より</p>
<p>　上の画像で、塗りつぶして消された箇所にこの記載があり、塗りつぶしてあるのは「作品化」した印です。</p>
<p>　『新校本全集』年譜篇によれば、賢治は1926年8月に、八戸を旅しています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　この月、妹シゲ、その長男純蔵、末妹クニをつれ、八戸方面へ小旅行を試みる。くたびれた白い麻の服を着、幼な子をあやしたり抱いたり、車窓を過ぎる風景を説明しながら八戸、鮫駅着。陸奥館に入る。服装から察していいお客と見られず、二階の少し粗末な一室に通され、宿帳の職業欄に「教師」と書く。夜の食膳ではウニに卵をからませた「カゼ」という料理がおいしかった。〔中略〕<br>宿の勘定は気前よくはずみ、宿では玄関先でお盆にいろいろのお返し物をのせてさし出した。その中には鯨のひげで作った小楊子などもあった。賢治はていねいに礼を言って出る。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『新校本宮澤賢治全集』第16巻下p.319）</p>
</blockquote>
<p>　途中で出てくる「カゼ」というのは、料理の名前ではなくて、三陸地方ではウニそのもののことを「カゼ」と呼ぶそうです。<br>　賢治たち一行が泊まった旅館は、上記では「陸奥館」となっていますが、鮫には陸奥館という名前の旅館はなく、中川真一氏は、鮫にあった料理旅館「石田屋」ではないかと推定しておられます（『宮沢賢治 文語詩の森 第三集』p.198）。上記で、賢治一行がチェックアウトの時にもらった「鯨のひげで作った小楊子」というのは、石田屋独自の土産物だということで、『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/9570465/1/64" target="_self" title="">八戸外史：石田家物語・対泉院秘話</a>』という本にも、「鯨のささめの楊子は石田<ruby>家<rp>（</rp><rt>ママ</rt><rp>）</rp></ruby>の専売特許である」とあります。</p>
<p>　この賢治と妹たちの八戸旅行については、堀尾青史の聞き書きによる上記『新校本全集』の記載以外に、佐藤隆房『宮沢賢治　素顔のわが友』と、宮城一男『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/12463022/1/32" target="_self" title="">宮沢賢治との旅</a>』『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/12463021/1/106" target="_self" title="">宮沢賢治の生涯：石と土への夢</a>』にも記されていて、それぞれの内容が食い違っています。その異同については、信時哲郎さんが「<a href="https://www.konan-wu.ac.jp/~nobutoki/papers/miteiko1.pdf" target="_self" title="">宮沢賢治「文語詩未定稿」評釈　一</a>」の「八戸」の項で、詳しく検討しておられます。<br>　中でも、堀尾説・宮城説では旅行は1926年とされているのに対し、佐藤説では1918年頃とされているのが最も大きな違いですが、上掲の賢治自身による「「文語詩篇」ノート」に「1926」と記されていること、またもしも八戸旅行に2回行ったのならば妹の証言に「2回行った」という話が出てこないのは不自然であることから、八戸行は1926年の1回と考えるのが妥当なように、私には思われます。旅館に関しても、「鯨のひげで作った小楊子」のエピソードは、石田屋の可能性を高めてくれるポイントのように思われます。</p>
<p>　私は、2003年にこの石田屋を訪ねてみたことがあるのですが、この時点でも既に旅館としては廃業し、大きな空き家になっていました。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/20260201d.jpg" width="640" height="427" alt="石田屋1"><br>「石田屋」跡（2003年8月）</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/20260201e.jpg" width="640" height="427" alt="石田屋2"><br>「石田屋」跡（2003年8月）</p>
<p>　さらにこの廃屋も、2011年の東日本大震災時の津波で被災し取り壊されて、現在は空き地になっているということです。<br>　往時には数多くの文化人が逗留し、司馬遼太郎も『街道をゆく』に描いた石田屋ですが、今はもう何も残っていません。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　いずれにせよ、この旅行中に賢治は、鮫駅で「海光ノ中ニテ物思ヘル女」を見かけて、そのはかなげな姿は、作品化しようと思うほどの印象を、後々まで残したということでしょう。<br>　信時哲郎さんが上記評釈で、「二人の妹に加えて、まだ生まれて一年八ヶ月の甥っ子を連れての旅の最中に、賢治が駅頭で身の上話を聞いたとは考えにくい。物売りをしていた女性を見ての虚構だろう。」と書いておられるように、この「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/742_d.htm" target="_self" title="">八戸</a>」に描かれているドラマチックなストーリーは、賢治の創作と思われます。</p>
<p>　そのストーリーを特徴づける設定は、女性を「歌ひめ」にしたことと、「胸を病んでいる」としたことです。<br>　そしてこの二つの設定によって「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/742_d.htm" target="_self" title="">八戸</a>」の女性は、　賢治が「<a href="https://ihatov.cc/hoi_2/535_d.htm" target="_self" title="">〔われらぞやがて泯ぶべき〕</a>」において、「われらともに歌ひて<ruby>泯<rp>（</rp><rt>ほろ</rt><rp>）</rp></ruby>びなんを」と呼びかける対象として、くっきりと浮かび上がります。</p>
<p>　まず何より彼女は「歌ひめ」なのですから、「ともに歌う」仲間として、うってつけです。きっと皆の合唱を、リードしてくれることでしょう。<br>　また、「胸を病んでいる」ということは、賢治が経験した結核に対する差別（あざけりやさげすみ）を、彼女も共有しているということであり、「身弱きもの／意久地なきもの／あるひはすでに傷つけるもの」の、まさしく一員です。言い方を換えれば、賢治はこの女性に対し、自らの「病」を投影することによって、キャラクター造型を行ったということです。</p>
<p>　ところでこの「歌ひめ」は、「かのひとになべてを捧げ／かゞやかに四年を経しに」とあるように、愛する人と4年間の幸せな生活を送った後、病気のために帰郷したという設定になっています。病気の影響もあったとは言え、「もう若さを失ってしまった」と嘆くには、「4年」という期間は少し短い感じもしますが、私はここで、賢治が農学校教師として幸せな生活を送ったのも、4年間だったことを思い出します。</p>
<p>　「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/383_d.htm" target="_self" title="">〔生徒諸君に寄せる〕</a>」の冒頭には、次のようにあります。</p>
<blockquote>
<p>この四ヶ年が<br>　　　　わたくしにどんなに楽しかったか<br>わたくしは毎日を<br>　　　　鳥のやうに教室でうたってくらした</p>
</blockquote>
<p>　「<a href="https://ihatov.cc/hoi_2/535_d.htm" target="_self" title="">〔われらぞやがて泯ぶべき〕</a>」では、「鳥のごとくに歌はんかな」と、願いを綴った賢治ですが、その背景には教師時代の幸福な記憶も、きっとあったことでしょう。<br>　そして、「<a href="https://ihatov.cc/bn_mi/742_d.htm" target="_self" title="">八戸</a>」で寂しく琥珀を売るかつての「歌ひめ」にも、賢治は心から「われらともに歌ひて泯びなん」と、呼びかけていると思うのです。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/Kabushima.jpg" width="640" height="323" alt="1922年頃の蕪島"><br>1922年頃の蕪島（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kabushima_ca._1922.jpg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>]]>
    </content>
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    <title>宮沢賢治生誕130年(続)</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/01/130_2.htm" />
    <id>tag:ihatov.cc,2026://1.8341</id>

    <published>2026-01-25T06:04:29Z</published>
    <updated>2026-01-25T08:40:22Z</updated>

    <summary>　今年は宮沢賢治生誕130周年ということで、お正月にその記念イベントをご紹介する...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="賢治イベント" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="信時哲郎" label="信時哲郎" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="劇団民藝" label="劇団民藝" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="神戸宮沢賢治の会" label="神戸宮沢賢治の会" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　今年は宮沢賢治生誕130周年ということで、お正月にその<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/01/130_1.htm" target="_self" title="">記念イベントをご紹介する記事</a>を掲載しましたが、その後これら以外にも、賢治生誕130周年を期した催しのお知らせをいただきました。</p>
<p>　この2月6日～14日に、<a href="https://store.kinokuniya.co.jp/store/kinokuniya-southern-theatre-takashimaya/" target="_self" title="">紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA</a>で行われる、劇団民藝の公演「<a href="https://www.gekidanmingei.co.jp/performance/2026_fumon/" target="_self" title="">風紋─この身はやがて風になりても</a>」です。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a data-mt-asset-id="1084" class="mt-asset-link" href="https://ihatov.cc/images/flyer_2026_fumon.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/01/flyer_2026_fumon-thumb-640xauto-1084.jpg" width="640" height="453" alt="風紋 ―この身はやがて風になりても―"></a><br>劇団民藝公演「風紋─好みはやがて風になりても―」ちらし</p>]]>
        <![CDATA[<p>　その「あらすじ」には、次のようにあります。</p>
<blockquote>
<p><strong><span style="font-size: 18px; font-weight: bold;">あらすじ</span></strong><br>岩手軽便鉄道の終着駅である仙人峠の駅舎兼旅籠。北上の山並みの彼方に、鉄工所の光と美しい太平洋が望める場所だ。当時ここから釜石側の大橋駅までは九十九折れの険しい山道を3時間以上歩かねばならず、みちのく屈指の難所であった。<br>1933年7月30日夕刻、荒天。仙人峠駅舎の主人たちは最終列車の乗客たちを迎え入れる。その大雨の中、意識不明の男がベンチに倒れていた。男の所持品から宮澤賢治という名前がわかった。この嵐で土砂が崩れ峠道は封鎖。先を急ぐ旅人たちは旅籠で幾日か立ち往生の羽目になる。<br>いっぽう高熱にうなされる賢治の前に、かつて亡くした妹トシや親友の保阪嘉内が現れて……。</p>
</blockquote>
<p>　1933年7月30日は、賢治の死の約2か月前です。「旅先で倒れてしまう」というと、この2年前に東京に出張した賢治が、神田の旅館でやはり高熱を出して動けなくなり、遺書まで書いたというエピソードを思い出しますが、この劇では賢治の前に、亡き妹トシや保阪嘉内が現れるという……。<br>　私もこの公演にはとても興味を惹かれていて、2月の第2週に東京に行けないものか、スケジュールを考えています。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　あともう一つ、こちらは賢治生誕130周年というよりも、<a href="http://www.eonet.ne.jp/~misty/kenji/" target="_self" title="">神戸宮沢賢治の会</a>の設立30周年を記念した、「THE ROAD OF KENJI　銀河の道しるべ」という催しです。会を主宰する川崎貴さんは、昨年「宮沢賢治学会イーハトーブセンター功労賞」を受賞されました。</p>
<p><a data-mt-asset-id="1083" class="mt-asset-link" href="https://ihatov.cc/images/2026_03_28kobe.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/01/2026_03_28kobe-thumb-480xauto-1083.jpg" width="480" height="679" alt="THE ROAD OF KENJI　銀河の道しるべ" class="asset asset-image mt-image-center" style="display: block; margin-left: auto; margin-right: auto;"></a></p>
<p>　内容は、講演会・影絵＋人形劇・ジャズ演奏と盛り沢山で、講演は2021年の宮沢賢治賞を受賞され、現在宮沢賢治学会イーハトーブセンター副代表理事の、信時哲郎さんです。3月28日(土)に、神戸市の須磨パティオホールで開催されます。<br>　入場無料で、申込みも不要という、有り難い企画です。</p>]]>
    </content>
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    <title>毘沙門の堂は古びて</title>
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    <published>2026-01-18T09:25:24Z</published>
    <updated>2026-02-22T16:53:22Z</updated>

    <summary>　前回の記事で、「弱き者との連帯の歌」の例として挙げた文語詩の一つに、「〔毘沙門...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="「文語詩稿五十篇」" label="「文語詩稿 五十篇」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="〔毘沙門の堂は古びて〕" label="〔毘沙門の堂は古びて〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="成島毘沙門堂" label="成島毘沙門堂" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="氷と後光（習作）" label="氷と後光（習作）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="結核" label="結核" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/01/post_1178.htm" target="_self" title="">前回の記事</a>で、「弱き者との連帯の歌」の例として挙げた文語詩の一つに、「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/614_d.htm" target="_self" title="">〔毘沙門の堂は古びて〕</a>」がありました。</p>
<blockquote>
<p>毘沙門の堂は古びて、　　　梨白く花咲きちれば、<br>胸疾みてつかさをやめし、　堂守の眼やさしき。<br><br>中ぞらにうかべる雲の、　　蓋やまた<ruby>椀<rp>（</rp><rt>まり</rt><rp>）</rp></ruby>のさまなる、<br>川水はすべりてくらく、　　草火のみほのに燃えたれ。</p>
</blockquote>
<p>　岩手県北上地方には、奥州市の「<a href="https://www.jalan.net/kankou/spt_guide000000196501/" target="_self" title="">藤里毘沙門堂</a>」や、北上市の「<a href="https://www.jalan.net/kankou/spt_03206ag2130014679/" target="_self" title="">立花毘沙門堂</a>」など、立派な毘沙門天を祀ったお堂がいくつもありますが、この作品で描かれているのは、<a href="https://ihatov.cc/bn_50/614_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>に「川は十里をすべりて暗し」とあることからしても、猿ヶ石川沿いにある「成島毘沙門堂」と考えられます（信時哲郎『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』p.307参照）。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px;"><img src="https://ihatov.cc/images/20260118a.jpg" width="640" height="427" alt="成島毘沙門堂"><br>成島毘沙門堂（2015年9月撮影）</p>]]>
        <![CDATA[<p>　「毘沙門の堂は古びて」の言葉どおり、このお堂は室町時代の創建と推定されていて、岩手県内では、平安時代創建の中尊寺金堂などに次いで古いものです。「<a href="https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/143808" target="_self">文化遺産オンライン</a>」によれば、「建物は寄棟造のやや大型の三間堂で、柱が太く堂々とした造りになる。細部の形も室町時代のおおらかな様式を示していて、岩手県下の中世仏堂の数少ない遺構として価値が高い」ということです。</p>
<p>　この毘沙門堂には、平安時代に造立された<a href="https://mikumanojinja.com/" target="_self" title="">兜跋毘沙門天像</a>が収められていましたが、現在この像は、近くにコンクリート造りで建てられた宝物殿の方に移されています。しかしまだ賢治の時代には、この毘沙門堂の中で威容を示していたはずです。</p>
<p>　一木造りとしては日本最大と言われるこの像を、『角川日本地名大辞典』は次のように讃えています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">地天女まで含めて4.75mのこの大像は、日本毘沙門像のうち、最高傑作の一つである。堂々たる大像であるばかりでなく、革胴よろいにはちきれんばかりの体躯をピリリと引きしめて包みこんだ力感あふれる彫成は、水際立って鮮やかである。この大丈夫の毘沙門天を地天女が下から支えて一分のすきもない力のアンサンブル（調和）を彫り出している力倆もすばらしい。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『角川日本地名大辞典』岩手県p.580）</p>
</blockquote>
<iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d83005.10747271204!2d141.16538448365117!3d39.36312575854042!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x5f8f5e8597ab9e27%3A0xd3e657cc309b63b3!2z5oiQ5bO25LiJ54aK6YeO56We56S-772l5q-Y5rKZ6ZaA5aCC!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1768710957598!5m2!1sja!2sjp" width="100%" height="640" style="border:0;" allowfullscreen="" loading="lazy" referrerpolicy="no-referrer-when-downgrade"></iframe>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　さて、作品二行目の「胸疾みてつかさをやめし」とは、「胸の病気で官職を退いた」ということで、作者自身の境遇を連想させます。賢治が県立花巻農学校を退職したのは、自分の意思で農耕生活に入るためでしたが、その2年後には結核が悪化して病臥生活になるわけですから、もしもそのまま勤めていたら「胸疾みてつかさをやめし」になったとも言えます。</p>
<p>　その堂守の「<ruby>眼<rp>（</rp><rt>まなこ</rt><rp>）</rp></ruby>やさしき」という定稿の記載からは、「いつも優しい眼をしている」というような常日頃の様子が感じられます。しかし、<a href="https://ihatov.cc/bn_50/614_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>や<a href="https://ihatov.cc/bn_50/614_2.htm" target="_self" title="">下書稿(二)</a>を見ると、この優しい眼差しが注がれる具体的対象が、明らかになります。<br>　また三行目の、「中ぞらにうかべる雲の、蓋やまた椀のさまなる」という一節の意味も、これらの下書稿を読むとわかってくるのです。</p>
<p>　まず下記は、その<a href="https://ihatov.cc/bn_50/614_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>です。</p>
<blockquote>
<p>マドンナ像のさまなして<br>母みどり児をうちいだけば<br>そらしろくして桜は遷り<br>川は十里をすべりて暗し<br><br>をちこちに小祠に祀れる像は<br>をのもにまことの宝ととなへ<br>わづかにながるゝ草火のはてに<br>梨またま白く花咲きちりぬ<br><br>中ぞらうかべるひとひらの雲は<br>蓋とも見えたる椀とも見ゆる<br>その児の末をば占ふに似たり</p>
</blockquote>
<p>　ここには「堂守」は現れませんが、その代わりに母親とその手に抱かれた幼な児が登場します。毘沙門天に参拝するこの母子の敬虔な様子を、作者は幼な子イエスを抱くマリアの「聖母子像」のように見立てています。作者は他でもないこの母子に、優しい眼差しを注いでいるのです。</p>
<p>　そして、「蓋とも見えたる椀とも見ゆる」雲は、「その児の末をば占ふに似たり」と意味づけられています。</p>
<p>　次は、<a href="https://ihatov.cc/bn_50/614_2.htm" target="_self" title="">下書稿(二)</a>です。</p>
<blockquote>
<p>おこりあるみどりごを負ひ<br>そらしろく桜はうつり<br>川水はすべりてくらし<br><br>うら青き草火のなかに<br>毘沙門の像は年経て<br>梨白くはな咲きちりぬ<br><br>夜ごときてみどり児を圧す<br>あまの邪鬼押へたまへと<br>いくそたび母はぬかづく<br><br>中ぞらにうかべる雲の<br><ruby>蓋<rp>（</rp><rt>ガイ</rt><rp>）</rp></ruby>やまた椀のさまして<br>みどりごのはてをうらなふ</p>
</blockquote>
<p>　前稿には、母子が毘沙門堂に参拝している理由は書かれていませんでしたが、こちらの子供は「おこりあるみどりご」とされていて、母は我が子の「<ruby>瘧<rp>（</rp><rt>おこり</rt><rp>）</rp></ruby>」の病が何とか治るようにと念じて、この堂まで子供を連れて来たのです。近世以前、「<ruby>瘧<rp>（</rp><rt>おこり</rt><rp>）</rp></ruby>」の代表的疾患はマラリアだったようですが、子供が高熱を出す感染性疾患を、広く総称したものと考えられます。<br>　第三連にはその「瘧」の病状として、「あまの邪鬼」が「夜ごときてみどり児を圧す」と記されています。毎夜毎夜、まるで胸が圧迫されるように、呼吸が苦しくなるということでしょうか。とは言え作者は、この母子から症状の聴き取りをしたわけではないでしょうから、これは作品内での「設定」ということになります。<br>　「夜ごときて……圧す」という具体的な描写からは、「胸を疾んだ」作者自身の体験の投影も、感じてしまいます。<br>
　そして母親は、そのような苦しみの元凶である天邪鬼を毘沙門天が取り押さえてくれるように、その像の前で何度も額づくのです。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　さて、こちらの稿でも、空に浮かぶ雲が「<ruby>蓋<rp>（</rp><rt>ガイ</rt><rp>）</rp></ruby>やまた椀のさまして」いることは、「みどりごのはてをうらなふ」ものとして捉えられています。<br>　それにしても、雲の形が「<ruby>蓋<rp>（</rp><rt>ガイ</rt><rp>）</rp></ruby>」や「<ruby>椀<rp>（</rp><rt>まり</rt><rp>）</rp></ruby>」のように見えるということには、いったいどんな意味があり、子供のどういう将来を示しているのでしょうか。</p>
<p>　私としては、この「<ruby>蓋<rp>（</rp><rt>ガイ</rt><rp>）</rp></ruby>」は、仏の座の上に飾られる「天蓋」を表しているのだろうと思います。<br>　仏具としての天蓋は、仏像の上を覆うのが「仏天蓋」、僧侶の上を覆うのが「人天蓋」ということですが、「仏の徳が自ずから外に現れ出た徳そのものである」とも言われるということです（「<a href="https://takimotobukkodo.co.jp/column/%E4%BB%8F%E5%A4%A9%E8%93%8B%E3%83%BB%E4%BA%BA%E5%A4%A9%E8%93%8B" target="_self" title="">滝本仏光堂</a>」のサイトより）。</p>
<p style="text-align: center"><a href="https://amzn.to/4qDr9J2" target="_self" title=""><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51tD0GWoswL._AC_.jpg" width="320" height="320"><br>純金箔 小判型仏天蓋 木製 12号(幅36cm)<br></a><span style="font-size: 11px"><a href="https://amzn.to/4qDr9J2" target="_self" title="">Amazonで詳しく見る</a></span></p>
<p>　そのような「仏の徳」を示す例として、『観仏説三昧海経』には、仏が眉間の白毫相から光を放つと、天蓋となって摩耶夫人の座を覆ったという場面があります。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;"><ruby>爾<rp>（</rp><rt>そ</rt><rp>）</rp></ruby>の時、世尊、忉利の宮に入り、即ち眉間の白毫相より光を放つ。其の光、化して七宝の大蓋と<ruby>作<rp>（</rp><rt>な</rt><rp>）</rp></ruby>り、摩耶の上を覆ふ。七宝をもって床を飾り、摩耶に座を奉る。仏母摩耶、仏の宮に入るを見て、合掌し恭敬して、仏のために礼を<ruby>作<rp>（</rp><rt>な</rt><rp>）</rp></ruby>す。五百の化仏、一時に手を<ruby>申<rp>（</rp><rt>の</rt><rp>）</rp></ruby>ぶ。諸天、扶持して礼敬するを<ruby>聴<rp>（</rp><rt>ゆる</rt><rp>）</rp></ruby>さず。八万四千の諸化如来、皆<ruby>悉<rp>（</rp><rt>ことごと</rt><rp>）</rp></ruby>く起立す。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/3434909/1/348?keyword=%E7%88%BE%E6%99%82%E4%B8%96%E5%B0%8A%E3%80%82%E5%85%A5%E5%BF%89%E5%88%A9%E5%AE%AE" target="_self" title="">観佛説三昧海経 巻第六</a>』）</p>
</blockquote>
<p>　すなわち「天蓋」とは、仏や僧侶の「徳」を象徴するものなのです。</p>
<p>　したがって、この文語詩における「蓋や椀のように見える雲が、子供の行く末を占っているようだ」という表現は、「将来この子は仏道の修行者となって、徳を積んでいく」という未来を、暗示しているのではないでしょうか。</p>
<p>　ここで思い出されるのは、「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4882_48379.html" target="_self" title="">氷と後光（習作）</a>」という短篇です。このお話では、若い夫婦が赤ん坊を連れて夜汽車に乗っていると、我が子の背後の車窓ガラスに結晶した氷が、後光のように子供に映えているのに母親が気づき、それを見た父親は「少し泣くやうにわらひ」、次の印象的な言葉を述べます。</p>
<blockquote>
<p>「この子供が大きくなってね、それからまっすぐに立ちあがってあらゆる生物のために、無上菩提を求めるなら、そのときは本當にその光がこの子に來るのだよ。それは私たちには何だかちょっとかなしいやうにも思はれるけれども、もちろんさう祈らなければならないのだ。」</p>
</blockquote>
<p>　すなわち、短篇「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4882_48379.html" target="_self" title="">氷と後光（習作）</a>」では、「後光のように見える氷」が、菩薩道を歩む子供の将来を暗示していたのに対して、文語詩「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/614_d.htm" target="_self" title="">〔毘沙門の堂は古びて〕</a>」では、「天蓋のように見える雲」が、同じ役割を果たしていることになります。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　ただ、この文語詩も「定稿」になると、この子もその母親も姿を消してしまい、ただ「蓋やまた<ruby>椀<rp>（</rp><rt>まり</rt><rp>）</rp></ruby>のさまなる」雲だけが痕跡のように残されて、それが最初は何を意味していたのか、読みとることは不可能になってしまうのです。<br>　一般に作品を鑑賞する際に、最終的に完成された形態だけでなく、その下書稿の内容までも重ね合わせて読み込むというのは、本来は正道とは言えないだろうと思いますが、あまりにも表現が切り詰められた賢治の文語詩を読む際には、こうやって先駆形から作品世界の成り立ちを探査してみることも、あってよいのではないかと思います。</p>
<p>　そして、そのようにして地層のように積み重なった全体像を俯瞰すると、「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/614_d.htm" target="_self" title="">〔毘沙門の堂は古びて〕</a>」の世界には、病気の子供と、その子のために懸命に祈願する母親を、やはり病気を抱えて隠棲する堂守が優しく見守る、という配置が浮かび上がります。<br>　まさにこれこそが、賢治による「弱き者との連帯の歌」の構図です。</p>
<p>　ひょっとしたら、将来この子は仏道を修めて、こういった弱き者たちを助けるために、身を尽くすことになるのかもしれません。<br>　もしもそうなれば、それは賢治が「<a href="https://ihatov.cc/hoi_2/535_d.htm" target="_self" title="">〔われらぞやがて泯ぶべき</a>〕」に記した、「誰か未来にこを償え」という念願の、一つの実現になることでしょう。</p>]]>
    </content>
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    <title>弱き者との連帯の歌</title>
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    <id>tag:ihatov.cc,2026://1.8338</id>

    <published>2026-01-12T07:26:49Z</published>
    <updated>2026-02-22T16:53:52Z</updated>

    <summary>　先月の「病気への侮蔑と差別の中で」という記事では、宮沢賢治が晩年に結核を発症し...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="伝記的事項" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="「文語詩稿五十篇」" label="「文語詩稿 五十篇」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="〔いたつきてゆめみなやみし〕" label="〔いたつきてゆめみなやみし〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="〔われらぞやがて泯ぶべき〕" label="〔われらぞやがて泯ぶべき〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="〔水と濃きなだれの風や〕" label="〔水と濃きなだれの風や〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="病技師〔二〕" label="病技師〔二〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="結核" label="結核" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　先月の「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2025/12/post_1177.htm" target="_self" title="">病気への侮蔑と差別の中で</a>」という記事では、宮沢賢治が晩年に結核を発症したことで、周囲からさまざまな嘲りや辱めを受けていた様子を、作品を通して見てみました。<br>　その時取り上げた<a href="https://ihatov.cc/bn_50/588_1-.htm" target="_self" title="">「〔打身の床をいできたり〕」の下書稿(一')</a>や「<a href="https://ihatov.cc/kogo/412_d.htm" target="_self" title="">〔まぶしくやつれて〕</a>」等以外では、例えば「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/729_d.htm" target="_self" title="">病技師〔二〕</a>」も、病人である自分が周囲からどのように見られているのかということを、テーマとした作品です。</p>
<blockquote>
<p>　　病技師〔二〕<br><br>あえぎてくれば丘のひら、　　　地平をのぞむ天気輪、<br>白き手巾を草にして、　　　　　をとめらみたりまどゐしき。<br><br>大寺のみちをこととへど、　　　いらへず肩をすくむるは、<br>はやくも死相われにありやと、　粛涼をちの雲を見ぬ。</p>
</blockquote>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/20260112a.jpg" width="640" height="480"><br>相の沢牧野（滝沢市）</p>]]>
        <![CDATA[<p>　ここでは、作者がモデルらしい「病技師」が、草はらでおしゃべりしている三人の若い女性に道を尋ねたところ、答えずにただ肩をすくめるだけという、冷たい対応をされたというのです。技師は悄然として、自分にもう死相が出ているからだろうかと思い、遠い雲に目をやりました。<br>　病気の技師とは対極にある、若さと健康を象徴する三人の乙女の、無邪気であるがゆえの残酷さ、という印象です。</p>
<p>　ただ、手帳に記されたこの作品の<a href="https://ihatov.cc/bn_100/729_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>は、次のようになっていました。</p>
<blockquote>
<p>よき児らかなとこととへば<br>いらへず恐れ泣きいでぬ<br>はやくも死相われにありやと<br>さびしく遠き雲を見ぬ</p>
</blockquote>
<p>　こちらでは、「いい子だね」と声をかけたら、答えずに恐れて泣き出したということなので、声をかけた相手は若い女性ではなく、幼児だったのではないかと思われます。そうなると、相手の反応の理由は「死相が見えた」というようなことではなくて、「知らないおじさんに急に話しかけられてびっくりした」だけかもしれず、実は病気とは関係なかったのかもしれません。<br>　しかし、たとえ相手が幼児だったとしても、作者はこの時相手の反応に接して、「自分には死相が出ているから、人に嫌がられるのだ」と感じてしまったのだろうと思われ、だからこそ<a href="https://ihatov.cc/bn_100/729_2.htm" target="_self" title="">下書稿(二)</a>以降では、相手を「乙女ら三人」に変更して、その冷たい反応をより際立たせたのだろうと思います。<br>　つまり作者は、やはり一貫して「自分は病気のために人々から嫌忌されるのだ」というコンプレックスを抱いているのであり、これはその感情を中心に据えた作品なのです。</p>
<p>　病気を理由として、このような侮蔑や差別を受けるというのは、本当に理不尽なことであり、さぞかし賢治も忸怩たる思いだったろうと推測しますが、先の記事で見たとおり、賢治はこのような世間の不当な扱いに対して憤るわけではなく、逆に自分に矛先を向けて「か弱なわが身」の「恥」としてとらえ（<a href="https://ihatov.cc/bn_50/588_1.htm" target="_self" title="">「〔打身の床をいできたり〕」の下書稿(一)）</a>、ひたすら内面化していたようです。</p>
<p>　このようにして内に向けられ、ただじっと黙って耐えていた賢治の感情が、珍しく外に向けて吐露されているのが、これも前に見た「<a href="https://ihatov.cc/hoi_2/535_d.htm" target="_self" title="">〔われらぞやがて泯ぶべき〕</a>」です。</p>
<blockquote>
<p>われらぞやがて泯ぶべき<br>そは身うちやみ　あるは身弱く<br>また　頑きことになれざりければなり<br>さあらば　友よ<br>誰か未来にこを償え<br>いまこをあざけりさげすむとも<br>われは泯ぶるその日まで<br>たゞその日まで<br>鳥のごとくに歌はん哉<br>鳥のごとくに歌はんかな<br>身弱きもの<br>意久地なきもの<br>あるひはすでに傷つけるもの<br>そのひとなべて<br>こゝに集へ<br>われらともに歌ひて泯びなんを</p>
</blockquote>
<p>　ここで賢治は、「いまこをあざけりさげすむとも」（今は我々を、病気であることや、体の弱さや、労働能力の低さのために嘲り蔑むとしても）、「誰か未来にこを償え」（未来においては誰かが、そのような不当な扱いの償いをせよ）と、「友」に向けて、また社会に向けて、訴えているわけです。</p>
<p>　この作品は、賢治がそれまで内に秘めていたルサンチマンを、外に向けて表明しているという点でユニークであるだけでなく、さらに現在は社会から抑圧されている「弱き者」に対して、「なべてこゝに集へ」と連帯を呼びかけ、「われらともに歌ひて泯びなんを」として、〈ともに歌う〉ことを提唱しているところに、賢治の熱い思いが表れていると感じます。</p>
<p>　そして私は、賢治が晩年に、その命を削るようにして作っていた文語詩の中には、上記のような意味で〈弱き者と連帯し、ともに歌う詩〉が、一定の割合で含まれていると思うのです。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　それは例えば、「文語詩稿 五十篇」の冒頭に置かれている、「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/582_d.htm" target="_self" title="">〔いたつきてゆめみなやみし〕</a>」です。</p>
<blockquote>
<p>いたつきてゆめみなやみし、　（冬なりき）誰ともしらず、<br>そのかみの高麗の軍楽、　　　うち鼓して過ぎれるありき。<br><br>その線の工事了りて、　　　　あるものはみちにさらばひ、<br>あるものは火をはなつてふ、　かくてまた冬はきたりぬ。</p>
</blockquote>
<p>　この詩は、たんに文語詩稿の第一番目に位置しているにとどまらず、信時哲郎さんが「賢治にとって「特別な作品」であったことだけはたしかだと思う」「文語詩全体に対する序詩のような意味づけをしようとしたのかもしれない」（『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』p.58）と述べておられるように、特に重要な作品だったのだろうと、私も思います。<br>　上記の「定稿」では、あまりに切り詰められた表現でわかりにくいので、もう少し状況について説明されている、その<a href="https://ihatov.cc/bn_50/582_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>を見てみます。</p>
<blockquote>
<p>　　鼓者<br><br>ときにわれ胸をいたづき<br>日もよるもゆめみなやみき<br>そがなかにうつゝをわかず<br>なが鼓の音街をよぎりし<br>そのリズムいとたゞしくて<br>なやみをもやゝにわすれき<br>　<br>のき低きみちのさなかに<br>崩れたる白き光や<br>おぼろなる吹雪をあびて<br>そのかみの高麗の軍楽<br>人知らぬよきしらべして<br>なれはかも過ぎ行きにけん<br>　<br>わが病いまし怠り<br>許されて新紙をとれば<br>かの線の工事了りて<br>あるものはみちにさらばひ<br>あるものは火をはなつてふ<br>いづちにかなれの去りけん<br>　<br>チャルメラや銅鑼をともなひ<br>黄の旄やほこをしたがへ<br>雪ふかき山のはざまを<br>進みけんなが祖父たちと<br>いま白き飴をになひて<br>異の邦をさまよふなれよ</p>
</blockquote>
<p>　ここで作者賢治は、自らも胸の病に苦しむ身であるという立場から、その闘病中に力を与えてくれた朝鮮飴売りたちに、思いを馳せています。その昔、病床で耳にした彼らの太鼓は、実に律動的で心地よく、賢治はそれを聴いてしばし病苦を忘れることができたのです。<br>　しかしその後新聞を見ると、鉄道工事のために朝鮮から徴用されて来た彼らは、工事が終わって職を失うと、一部の者は路傍で身を朽ちさせ、また一部の者は放火をしたということです。この「放火」の実態はわかりませんが、もしも当時そのようなニュースがあったのなら、それをを見た賢治は、関東大震災後に多数の朝鮮人が、差別的な流言蜚語のために虐殺されたという出来事を、思い出さずにはいられなかったでしょう。<br>　故郷が植民地にされた上に、朝鮮人に対してかくも厳しい日本に来て、「異の邦をさまよふ」彼らは今いったいどうしているのだろうと、賢治は切にその身を案じています。</p>
<p>　この作品における賢治と朝鮮人の関係は、恵まれた境遇の者が、異国で差別や生活苦に喘ぐ弱者を憐れむというのではなく、自らも重い病に苦しむ者として、あるいはやはり不当な侮蔑や差別を体験してきた者として、「お互いに弱者である相手を、仲間のように思いやる」という気持ちが、根底に流れていると思います。<br>　そして、これこそ賢治が「<a href="https://ihatov.cc/hoi_2/535_d.htm" target="_self" title="">〔われらぞやがて泯ぶべき〕</a>」において、「身弱きもの／意久地なきもの／あるひはすでに傷つけるもの／そのひとなべて／こゝに集へ／われらともに歌ひて泯びなんを」と呼びかけて、弱者が連帯しともに歌おうとした「歌」の、典型例であるように思うのです。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　そのような観点から文語詩稿を見てみると、他にもたくさんの作品が、このような意味を帯びて現れてきます。<br>　「文語詩稿 五十篇」の次の作品である「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/583_d.htm" target="_self" title="">〔水と濃きなだれの風や〕</a>」は、早池峰山や北上山地の美しい自然への讃歌ですが、その後半には「たゝかひにやぶれし神」への追悼が述べられます。</p>
<blockquote>
<p>水と濃きなだれの風や、　　　むら鳥のあやなすすだき、<br>アスティルベきらめく露と、　ひるがへる温石の門。<br><br>海浸す日より棲みゐて、　　　たゝかひにやぶれし神の、<br>二かしら猛きすがたを、　　　青々と行衛しられず。</p>
</blockquote>
<p>　この文語詩の前身は、「春と修羅 第二集」所収の「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/187_d.htm" target="_self" title="">山の晨明に関する童話風の構想</a>」で、これは早池峰山を「お菓子の山」に見立てつつ「イーハトーボのこどもたち」に語りかけるという、カラフルで美味しそうな企画でした。<br>　それが文語詩化され、推敲の最終段階になると、この山地に太古から棲み、ある時征服者に敗れて去って行った神々への、鎮魂が込められるのです。<br>　背景にあるのは、昔「蝦夷」と呼ばれていたこの地の先住者が、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする朝廷に討伐され、それとともに彼らが信じていた神々も追放されて、後には成島・立花・藤里など田村麻呂伝説を伴う毘沙門天が鎮座していった歴史に、重なるものと思われます。<br>　しかしここでも賢治は、国が「正史」として教える支配者側の視点ではなく、「敗れ去った者」の側に一緒に身を置きつつ、愛惜の情を表明しているのです。</p>
<p>　これもやはり、「弱き者との連帯の歌」の一種と言えるのではないでしょうか。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　さらに「文語詩稿 五十篇」の全体を見渡せば、以下のような作品において、作者は「弱き者」の視点に立ち、ともに歌おうとしているように私には思われます。50篇中の番号を付けて箇条書きにし、作品に含まれる弱者への視線を、簡単に記します。</p>
<ol style="font-variant-numeric: tabular-nums;">
<li value="1" style="margin-bottom: 0.5em;"><a href="https://ihatov.cc/bn_50/582_d.htm" target="_self" title="">〔いたつきてゆめみなやみし〕</a><br>自らも差別される病人として、この国の朝鮮人の境遇を思いやる</li>
<li value="2" style="margin-bottom: 0.5em;"><a href="https://ihatov.cc/bn_50/583_d.htm" target="_self" title="">〔水と濃きなだれの風や〕</a><br>敗れ去った土着の神への鎮魂歌</li>
<li value="6" style="margin-bottom: 0.5em;"><a href="https://ihatov.cc/bn_50/587_d.htm" target="_self" title="">上流</a><br>下書稿～定稿初期形における、眼を病んだ農夫への気づかい（「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/285_d.htm" target="_self" title="">表彰者</a>」とも関連？）</li>
<li value="7" style="margin-bottom: 0.5em;"><a href="https://ihatov.cc/bn_50/588_d.htm" target="_self" title="">〔打身の床をいできたり〕</a><br>下書稿(三)以前では、自らが病気のために受けた侮蔑と恥辱が描かれる／定稿では、打身で臥せっている商人の寂寥に置き換えられる</li>
<li value="8" style="margin-bottom: 0.5em;"><a href="https://ihatov.cc/bn_50/589_d.htm" target="_self" title="">〔氷雨虹すれば〕</a><br>結核を患い欠勤する、同僚教師奥寺五郎への気づかい</li>
<li value="10" style="margin-bottom: 0.5em;"><a href="https://ihatov.cc/bn_50/591_d.htm" target="_self" title="">〔盆地に白く霧よどみ〕</a><br>僻地の学校の教員が、冷夏や貧困のために登校できない児童たちの身を案ずる</li>
<li value="19" style="margin-bottom: 0.5em;"><a href="https://ihatov.cc/bn_50/600_d.htm" target="_self" title="">〔萌黄いろなるその頸を〕</a><br>人間に殺され吊るされた家鴨と、貧しい巡礼者が、吹雪の店先で交錯する悲哀</li>
<li value="24" style="margin-bottom: 0.5em;"><a href="https://ihatov.cc/bn_50/605_d.htm" target="_self" title="">〔夜をま青き藺むしろに〕</a><br>乱れた宴席にはべる酌婦のやるせなさを、酒も魚も好まず宴席の苦手な作者が思いやる</li>
<li value="27" style="margin-bottom: 0.5em;"><a href="https://ihatov.cc/bn_50/608_d.htm" target="_self" title="">初七日</a> <br>夭折した幼な児の初七日、骨箱を前に泣き崩れる家族と、お菓子をもらったら何事もなく遊びに出てしまう子供たちの様子が、対照を成す</li>
<li value="33" style="margin-bottom: 0.5em;"><a href="https://ihatov.cc/bn_50/614_d.htm" target="_self" title="">〔毘沙門の堂は古びて〕</a><br>胸を病んで役所勤めをやめた堂守（作者自身の投影か）が、子供の病気平癒を願い毘沙門堂に参拝する母子を、優しく見守る</li>
<li value="37"><a href="https://ihatov.cc/bn_50/618_d.htm" target="_self" title="">萎花</a><br>花巻温泉開催のダリヤ品評会に並ぶ美しい花々を、温泉の娼妓たちに重ね、そのはかない運命を思う</li>
</ol>
<p>　晩年の文語詩において、賢治がこの世界を淡々と俯瞰して作品に彫琢する視点は、若い頃に口語詩で己れの心象をダイナミックに書きとったスタンスとは対照的で、「末期の眼」などとも呼ばれてきました。近藤晴彦氏は『宮澤賢治への接近』において、これを「死の視点」と名づけておられます。<br>　「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/729_d.htm" target="_self" title="">病技師〔二〕</a>」のごとく自らすでに「死相」を帯びていると感じつつも、弱き者たちと「ともに歌ひて泯びなん」と念じて書き連ねた作品が、これらの文語詩のうちには確かに含まれているように思うのです。</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>宮沢賢治生誕130年</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/01/130_1.htm" />
    <id>tag:ihatov.cc,2026://1.8339</id>

    <published>2026-01-03T15:34:48Z</published>
    <updated>2026-01-06T15:08:42Z</updated>

    <summary>　あけましておめでとうございます。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。 　今...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="賢治イベント" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　あけましておめでとうございます。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。</p>
<p>　今年2026年は、1896年（明治29年）生まれの宮沢賢治の、「生誕130周年」にあたるということで、これを記念していくつかの催しが行われます。</p>
<p>　一つは、花巻市や宮沢賢治学会イーハトーブセンターが中心となって開催する、「<strong>宮沢賢治生誕130年記念 第5回宮沢賢治国際研究大会</strong>」です。この国際研究大会は、1996年の賢治生誕100年に第1回が開催され、以後だいたい10年ごとに行われているものです。世界各国から宮沢賢治の研究者が集う、まるで「ビジテリアン大祭」のようなイベントです。<br>　まだ詳細は未定のようですが、決まり次第このサイトでもお知らせいたします。</p>
<ul>
<li><strong>宮沢賢治生誕130年記念 第5回宮沢賢治国際研究大会</strong>
<ul>
<li>期日：2026年11月1日(日)～3日(祝)</li>
<li>場所：花巻市</li>
<li>主催：同実行委員会（花巻市・宮沢賢治学会イーハトーブセンター等）</li>
</ul>
</li>
</ul>]]>
        <![CDATA[<p>　上記以外にも、現在わかっているだけで、各地で以下のような催しがあるようです。</p>
<ul>
<li><strong><a href="https://www.kenji2026.com/" target="_self" title="">宮沢賢治生誕130年　賢治島探検記2026</a></strong>
<ul>
<li>日時：2026年1月7日(水)～18日(日)　詳細は「<a href="https://www.kenji2026.com/schedule.html#ticket" target="_self" title="">公演概要</a>」</li>
<li>場所：東京都渋谷区　新国立劇場 小劇場</li>
<li>主催：TBS</li>
</ul>
</li>
</ul>
<ul>
<li><strong><a href="https://seishunkan.jp/archives/events/events-544" target="_self" title="">宮沢賢治生誕130年記念朗読劇「よだかの星」</a></strong>
<ul>
<li>日時：2026年2月1日(日)　11時・14時（2回公演）</li>
<li>場所：岩手県盛岡市　もりおか啄木・賢治青春館　展示ホール（2階）</li>
<li>主催：もりおか啄木・賢治青春館</li>
</ul>
</li>
</ul>
<ul>
<li><strong><a href="https://www.obirin.ac.jp/event/year_2025/7fl2960000096ts7.html" target="_self" title="">宮沢賢治生誕130年記念 合唱物語『ケンジの祈り』</a></strong>
<ul>
<li>日時：2026年2月28日(土)17時・3月1日(日)14時</li>
<li>場所：東京都町田市　桜美林芸術文化ホール</li>
<li>主催：学校法人 桜美林学園</li>
</ul>
</li>
</ul>
<ul>
<li><strong><a href="https://www.dreamnews.jp/press/0000336518/" target="_self" title="">宮沢賢治生誕130周年記念作品 音楽劇【銀河鉄道の夜】</a></strong>
<ul>
<li>日時：2026年4月12日(日)　13時・17時（2回公演）</li>
<li>場所：東京都港区　六本木クラップス</li>
<li>主催：オフィスインベーダー／らくがきエンターテイメント</li>
</ul>
</li>
</ul>
<ul>
<li><strong><a href="https://blog.canpan.info/ofntshimin/archive/5659" target="_self" title="">おんがく×えんげき×ダンス　宮沢賢治 collection 2026</a></strong>
<ul>
<li>日時：2026年2月1日(日)　15時・17時30分（2回公演）</li>
<li>場所：岩手県大船渡市　大船渡市民文化会館リアスホール</li>
<li>主催：アートプロデューサーズKESEN</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>　どれも魅力的な企画ですね。<br>　最後の「おんがく×えんげき×ダンス 宮沢賢治 collection 2026」のオープニングでは、当サイトの<a href="https://ihatov.cc/song/fudai.htm#boy" target="_self" title="">「敗れし少年の歌へる」の曲</a>を使用していただけるということです。</p>
<p>　本年が皆様にとって良い年になりますよう、お祈り申し上げます。</p>
<p style="text-align: center; line-height: 1em; font-size: 12px"><a data-mt-asset-id="1080" class="mt-asset-link" href="https://ihatov.cc/images/20260101b.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/01/20260101b-thumb-640xauto-1080.jpg" width="640" height="360" alt="宮沢賢治collection2026" class="asset asset-image" style="display: block"></a><br><a href="https://blog.canpan.info/ofntshimin/archive/5659" target="_self" title="">おんがく×えんげき×ダンス 宮沢賢治 collection 2026</a></p>
<p><br></p>
<p></p>]]>
    </content>
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    <title>病気への侮蔑と差別の中で</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://ihatov.cc/blog/archives/2025/12/post_1177.htm" />
    <id>tag:ihatov.cc,2025://1.8337</id>

    <published>2025-12-21T08:34:32Z</published>
    <updated>2025-12-26T07:01:21Z</updated>

    <summary>　1950年まで日本人の死因の第1位は結核でしたが、その後患者数は大きく減少し、...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="伝記的事項" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="〔まぶしくやつれて〕" label="〔まぶしくやつれて〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="〔われらぞやがて泯ぶべき〕" label="〔われらぞやがて泯ぶべき〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="〔商人ら　やみていぶせきわれをあざみ〕" label="〔商人ら　やみていぶせきわれをあざみ〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="結核" label="結核" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　1950年まで日本人の死因の第1位は結核でしたが、その後患者数は大きく減少し、その昔この病に深刻な差別や偏見が向けられていたことは、最近はあまり意識されていません。しかし戦前の日本において結核は、死の病として忌み嫌われるものでした。<br>　作家・精神科医のなだいなだ氏は、自らの子供の頃の状況について、次のように書いています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">結核患者の出た家の前を、鼻をつまんで走って通ったことを覚えています。その家の前の空気を吸うと結核がうつるといわれ、本人どころか、家族にも近づこうとしませんでした。もちろん、家族に結核患者がいるという理由で、結婚を取り消されるような場合もありました。親は公然と「あそこの子供とは遊ぶな、あそこの家の兄さんは肺病だからな」と言っていたくらいです。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（なだいなだ「<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjrm1964/23/1/23_1_43/_pdf" target="_self" title="">偏見と差別について</a>」1985）</p>
</blockquote>
<p>　なだいなだ氏は1929年生まれですから、その子供時代は宮沢賢治の晩年と重なる1930年代です。氏は生まれも育ちも東京で、因習の支配するような僻地の話ではありません。</p>
<p>　花巻の宮沢家では、妹トシと賢治が結核で亡くなり、母イチも結核に罹患していたということですが、実際に周囲からはどのように見られていたのでしょうか。上のような当時の結核のイメージからすると、発病後の賢治のことも気になります。</p>]]>
        <![CDATA[<p style="text-align: center">※</p>
<p>　そして賢治の作品を見ると、「病気」のために嘲られたり避けられたりしたという話が、実際にいくつか出てきます。<br>　下記は、「文語詩稿 一百篇」所収「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/726_d.htm" target="_self" title="">〔商人ら　やみていぶせきわれをあざみ〕</a>」です。</p>
<blockquote>
<p>商人ら、やみていぶせきわれをあざみ、<br>川ははるかの峡に鳴る。<br><br>ましろきそらの蔓むらに、　雨をいとなむみそさゞい、<br>黒き砂糖の樽かげを、　　　ひそかにわたる昼の猫。<br><br>病みに恥つむこの郷を、<br>つめたくすぐる春の風かな。</p>
</blockquote>
<p>　「いぶせき」は「いとわしくていやだ。不快だ。」（『精選版 日本国語大辞典』）という意味であり、「あざみ」は辞書に載っていませんが、先駆形から「嘲り」の意味と思われます。「商人たちは、病気のために忌わしい私を嘲り……」というのです。<br>　最後の「病みに恥つむこの郷」とは、生まれ故郷に対する何と悲しい表現でしょうか。</p>
<p>　この作品は、東北砕石工場技師時代に使用していた「王冠印手帳」に記された二つのメモ（「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/588_d.htm" target="_self" title="">〔打身の床をいできたり〕</a>」の「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/588_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>」および「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/588_1-.htm" target="_self" title="">下書稿(一')</a>」）から、複雑な過程を経て生まれたものです。<br>　その「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/588_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>」は、下記のとおりです。</p>
<blockquote>
<p>あらたなるよきみちを得しといふことは<br>たゞあらたなる<br>なやみのみちを得しといふのみ<br><br>このことむしろ正しくて<br>あかるからんと思ひしに<br>はやくもこゝにあらたなる<br>なやみぞつもりそめにけり<br><br>あゝいつの日かか弱なる<br>わが身恥なく生くるを得んや<br><br>　　野の雪はいまかゞやきて<br>　　遠の山藍の色せり<br><br>　　肥料屋の用事をもって<br>　　組合にさこそは行くと<br><br>病めるがゆゑにうらぎりしと<br>さこそはひとも唱へしか</p>
</blockquote>
<p>　また「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/588_1-.htm" target="_self" title="">下書稿(一')</a>」は、下記です。</p>
<blockquote>
<p>農民ら病みてはかなきわれを嘲り<br>小雨の春のそらに居て<br>その蔓むらに鳥らゐて<br>雨にその小胸をふくらばす<br><br>さてははるかに鳴る川と<br>冷えてさびしきゴム沓や<br>あゝあざけりと辱しめ<br>もなかを風の過ぎ行けば<br>小鳥の一羽尾をひろげ<br>一羽は波を描き飛ぶ</p>
</blockquote>
<p>　文語詩の内容を、そのまま事実と考えることはできませんが、日常的に携帯していた手帳に、上のような複数のメモが残されているからには、賢治は実際にこのような体験をしたことがあったと考えるのが、自然でしょう。<br>　「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/588_1-.htm" target="_self" title="">下書稿(一')</a>」にある「あゝあざけりと辱しめ」との言葉が切実ですし、また「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/726_d.htm" target="_self" title="">定稿</a>」の「病みに恥つむこの郷を……」や、「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/588_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>」の「あゝいつの日かか弱なる／わが身恥なく生くるを得んや」において賢治は、そのような嘲りを、自分の「恥」として内在化させています。</p>
<p>　一方、「口語詩稿」所収の「<a href="https://ihatov.cc/kogo/412_d.htm" target="_self" title="">〔まぶしくやつれて〕</a>」では、病気を「罪」として周囲から責められる、一人の農民が描かれています。</p>
<blockquote>
<p>まぶしくやつれて、<br>病気がそのまゝ罪だとされる<br>風のなかへ出てきて<br>罪を待つといふふうに<br>みんなの前にしょんぼり立つ<br>みんなはなにかちぐはぐに<br>崖の杉だの雲だのを見る<br>家のまはりにめちゃくちゃに植えられた稲は<br>いま弱々と徒長して<br>どんどん風に吹かれてゐる<br>苗代にも波が立てば<br>雲もちゞれてぎらぎら飛ぶ<br><br>陽のなかで風が吹いて吹いて<br>ひとはさびしく立ちつくす<br>畔のすかんぼもゆれれば<br>家ぐねの杉もひゅうひゅう鳴る</p>
</blockquote>
<p>　この作品の<a href="https://ihatov.cc/kogo/412_1.htm" target="_self" title="">初期形</a>では、「罪」の理由がより具体的に、「いそがしい田植どき／病気ではたらけなかったことは／村ではそのまゝ罪なのだ」と説明されています。<br>　普通ならば、病気で寝込んでいた人が少し良くなって外に出られるようになったのなら、周囲の人々も回復を喜んでくれそうなものですが、ここでは「みんなはなにかちぐはぐに／崖の杉だの雲だのを見る」というような、よそよそしい態度で距離を置かれています。このような忌避的な扱いを受けていることや、やつれた様子や、やはり<a href="https://ihatov.cc/kogo/412_1.htm" target="_self" title="">初期形</a>にある「あらゆる奇怪な幻想や／痛さやたよりなさに苦しんだあげく……」という病中の描写からすると、ひょっとしてこの人も結核なのではないかという気がします。<br>　きっと賢治は他人事とは思えずに、この農民を見ていたのではないでしょうか。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　また以前に、「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2024/02/2_60.htm" target="_self" title="">八幡館の八日間(2)</a>」という記事にも書いたことですが、1931年9月に賢治が出張先の東京で高熱を出して倒れた時、死の危険を冒してまで帰宅を遅らせようとした理由も、上記のような「あざけりと辱しめ」を避けたいという切実な思いにあったのではないかと、私は想像します。病身で帰郷して、結核が再び悪化したことが周囲に知れわたってしまうと、賢治はそれまで以上の辱しめを受けることになるでしょうし、彼はそれを考えるだけでも耐えられなかったのではないでしょうか。<br>　しかし当然ながら、病で倒れたことが家族の知るところとなると、そのまま東京に留まることが許されるはずもなく、賢治は「病みに恥つむこの郷」に、また帰って来ざるをえませんでした。</p>
<p>　それ以後の賢治は、死までの2年間、一度も外出をすることはなく、闘病を続けました。<br>　病気を理由に周囲から受けた侮蔑や差別は、自らの「恥」として内に飲み込み、病気になった原因さえ「自業自得」のように見なしていたようです。</p>
<p>　しかし、そのような賢治が一度だけ、病への侮蔑や差別に対して抗議の声を上げた手帳メモが、「<a href="https://ihatov.cc/hoi_2/535_d.htm" target="_self" title="">〔われらぞやがて泯ぶべき〕</a>」だと思います。</p>
<blockquote>
<p>われらぞやがて泯ぶべき<br>そは身うちやみ　あるは身弱く<br>また　頑きことになれざりければなり<br>さあらば　友よ<br>誰か未来にこを償え<br>いまこをあざけりさげすむとも<br>われは泯ぶるその日まで<br>たゞその日まで<br>鳥のごとくに歌はん哉<br>鳥のごとくに歌はんかな<br>身弱きもの<br>意久地なきもの<br>あるひはすでに傷つけるもの<br>そのひとなべて<br>こゝに集へ<br>われらともに歌ひて泯びなんを</p>
</blockquote>
<p>　ここで賢治は、病気や障害を「あざけりさげすむ」社会を嘆きつつ、将来において「誰か未来にこを償え」と、強く訴えています。</p>
<p>　賢治は、「友」に対して、そのような差別や偏見のない社会の実現を求めているのであり、呼びかけられているのは、私たち自身です。</p>
<p style="text-align: center; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2025/12/20251221a-thumb-640xauto-1078.jpg" width="640" height="360" alt="〔われらぞやがて泯ぶべき〕" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><br>「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」草稿（『新校本全集』第13巻より）</p>
<p>（この詩の解釈については、過去記事「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2024/01/post_1096.htm" target="_self" title="">われらともに歌ひて泯びなんを</a>」もご参照下さい。）</p>]]>
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