宮澤賢治も、仏教への篤い信仰に基づき、全ての生き物は父母兄弟姉妹であるという考えを抱いていて、作品も含め様々な形でそれを表現しています。そして時にその思いは、一般の人々が持つ同胞意識をはるかに越えて、かなり独特な様相を呈することもありました。
]]> たとえば、1918年の保坂嘉内あて書簡では、人が魚を食べている様子を見ると、下記のようなことを想像せずにいられないのだと書いています。もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。私は人々のうしろから見てゐる。「あゝあの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思はず呑みこんでしまった。私の兄弟のからだはつめたくなってさっき、横はってゐた。今は不思議なエンチームの作用で真暗な処で分解して居るだらう。われらの眷属をあげて尊い惜しい命をすてゝさゝげたものは人々の一寸のあはれみをも買へない。」
私は前にさかなだったことがあって食はれたにちがひありません。(保坂嘉内あて書簡63)
仏教では、全ての生き物は死ぬたびに六道で輪廻転生を繰り返すと考えるので、現世で人間である自分も、前の生では獣だったり魚だったりした可能性があるということになります。賢治はそのような世界観を前提として、人が魚を食べているところを見ると、その魚は前の生における自分の父母兄弟姉妹だという思いにとらわれて、苦しくてたまらないと訴えているのです。
一般人からすると、「何もそこまで考えなくても……」と思ってしまいますが、こういう過剰なところが、賢治独特の鋭敏な感受性なのだと考えられてきました。
また有名な例として、「青森挽歌」や「〔手紙 四〕」や「銀河鉄道の夜(初期形第三次稿)」には、特定の死者ばかりを思うことは、自制して慎まなければならないとする言葉があります。
《みんなむかしからのきやうだいなのだから
けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます(「青森挽歌」)
チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいていゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。
(「〔手紙 四〕」)
「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてさうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」(「銀河鉄道の夜(初期形第三次稿)」)
上記の「青森挽歌」において賢治は、自分の肉親であるトシの冥福ばかりを祈ることはやめて、すべての生き物の幸せを追求しなければならないのだと自らに戒めており、同様の考えを「〔手紙 四〕」や「銀河鉄道の夜(初期形第三次稿)」でも、繰り返しているわけです。
ここでも賢治は、すべての生き物は輪廻転生の中で一度は自分の兄弟だったことがあるのだから、この現世の肉親や親友のことばかり思うのは、現世における利己的な執着だとして斥けているのです。
誰しも大切な肉親が亡くなると、その追善供養をして冥福を祈るのは当然のことと思うでしょうが、賢治はそうは考えず、あくまで「みんな」を重視するのです。これも賢治の過激さに見えます。
さらに、高瀬露あてと推測されている1929年頃の書簡下書には、次のように書いています。
私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。
この書簡下書は、高瀬露との関係への誤解を避けるために、ことさら「愛」に対して否定的な書き方をしている面もあるかと思われますが、しかし賢治が「じぶんの子どもだけが大切」というような肉親への執着に陥らないようにと厳しく自戒しつつ、「あらゆるひとのいちばんの幸福」を探さなければならないと考えていたのは、確かだったと思われます。そしてそのためには、「特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません」とまで言うのです。
何とも寂しい言葉ではありませんか。
しかし考えてみれば、昔から仏教を本当に究めようとする人は、家族との縁を切って「出家」することによって、自らを肉親の情から切り離し、個人に対して「特別な愛」を持たないようにしてきたわけです。
賢治自身も、1921年には「家出」をして国柱会での布教活動に没頭しますし、1926年に親元を離れて羅須地人協会を掲げ、農村の生活改善を目ざしていた頃には、自らの行動を称して「出家」だと母親に言っていたということです(森荘已池『宮沢賢治の肖像』p.217)。この頃、賢治の食生活を心配した妹のクニが、兄のもとに母の手料理を何度持って行っても、賢治は頑として受け取らなかったので、クニはいつも泣いて帰ったということです。
これも、真に「あらゆるひと」の同胞として生きるためには、家族の絆を断つほどの覚悟が要るのだと、賢治が考えていたためだろうと思われます。
ところが、このようにして賢治が現世の肉親から離れようとしていた姿勢は、二度の大病を経て、変化を見せたようです。
「雨ニモマケズ手帳」の(1931年)10月29日の日付の箇所に、賢治は下のように書いています。
厳に
日課を定め
法を先とし
父母を次とし
近縁を三とし
社会農村を
最后の目標として
只猛進せよ
ここでは、法(仏法)を最優先にしているところは以前と変わりませんが、社会や農村への献身のために家族を遠ざけていた従来の態度を転換し、法の次には父母を、三番目には近親を大切にした上で、最後の目標として社会農村が登場するのです。
このような賢治の心境の変化は、いろいろな要因によるものでしょうが、病を契機に自分の考えに「慢」というべき思い上がりがあったのではないかと反省したことや、身内に不義理をしたにもかかわらず病人の自分を再び暖かく迎え入れてくれた家族への、感謝の念もあったのかと思われます。
以上、賢治が抱いていた同胞思想の経過をたどると、当初は「けつしてひとりをいのつてはいけない」と自らに戒め、現世における家族の絆を超出してすべての人への普遍的幸福ばかりを考えていたのが、晩年になるとまずは家族を大切にし、父母─近親─農村と、近くから順に同心円状に願いを拡げていく態度に変化したと言えます。
※
ところで、先日も触れた島地大等の著書に、『思想と信仰』というものがあります。これは、大等の死後1928年に刊行された論文集なのですが、その冒頭に「仏教の同胞思想に就て」という一文が収められていますので、その内容を上記の賢治の同胞思想と比較してみたいと思います。
刊行の1928年に賢治は既に30歳を過ぎており、この本自体が若い頃の賢治に影響を与えたとは考えられませんが、島地大等の講話は学生時代から何度も聴いていた賢治ですから、同じような話を耳にしていた可能性はありえるわけです。
さて、この島地大等の論文は、次のように始まります。
云ふ迄もなく、全人類は互に兄弟・姉妹であると云ふ同胞思想は、東西古今、所謂道徳の存する所、宗教の存する所には、何処でも普通に行はれて居る思想であつて、さして珍しい思想ではない。然るに今、自分は仏教に説く所の同胞思想を論じて見ようと考へたのは、一面、仏教の同胞思想が、普通一般のそれとやゝ趣を異にして居る点のあるのと、今一つは過去の日本に行はれた同胞思想、即ち家族主義なるものは、此の頃一般に学者・識者の間に考へられて居るものとは、違つた立場から考へ直さなければならない点があるのではないかと考へられる所から、特に此の題目を捉へて一言したいと思ふのであります。
(島地大等『思想と信仰』p.5)
大等は、仏教の同胞思想は「普通一般のそれとやゝ趣を異にしている」と述べ、それを「仏教の神秘的同胞主義」と呼んでいます。一般的な同胞思想は、同じ民族であるとか、同じ信仰を共有しているとかいう共通の属性を基盤とするために、その範囲には制約があるのに対して、仏教の場合は輪廻転生という一種の「神秘」に根ざすことによって、同胞性が「全ての衆生」にまで普遍的に拡大されるのです。
大等は、そのような仏教的な同胞主義の典型例として、『楞伽経』の「断食肉品第八」を引用します。
大慧よ、一切の衆生は、無始より
来 、生死の中に在りて輪廻して息 まず。曾て父母兄弟男女眷属乃至朋友親愛侍使と作 り、生を易 へて鳥獣等の身を受けざるは靡 し。云何 ぞ中に於いて之を取つて食 はんや。大慧よ、菩薩摩訶薩は諸の衆生を観て己が身に同じうし、肉は皆有命の中より来ることを念 ふ。云何 か(之を)食 ふに〔忍びむや〕。大慧よ、諸の羅刹等すら、我が此説を聞いて尚ほ応に肉を断つ、況んや法を楽しむ人をや。大慧よ、菩薩摩訶薩は、在在生処に(於いて)、諸の衆生を観て慈念をもて、皆これ親属乃至一子の如くに想ふ。是の故に応に一切の肉を食 ふべからず。(「国訳大乗入楞伽経」『国訳大蔵経 経部 第4巻』p.193)
これを見ると、古来の経典においても、信者に肉食を禁じる理由として、その肉が「曾て父母兄弟男女眷属」のものだから、と説いていたことがわかります。
賢治が、目の前の魚が自分の父母兄弟姉妹に見えると言って苦しみ、肉食を避けるようになったのは、別に特異なことではなくて、経典に記されたオーソドックスな理屈だったのです。
また島地大等は、『歎異抄』から親鸞の言葉も引用しています。
親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけさふらうべきなり。わがちからにて励む善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して父母をもたすけさふらはめ。たゞ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと、云々。
(『歎異抄』第五章)
上記の親鸞の言葉は、以前の記事でも引用したことがあるものですが、親鸞もまた、肉親の追善のために祈ったことは一度もないと、言っているのです。その理由は、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」ということで、賢治が「青森挽歌」で「みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない」と書き、死んだトシのことを祈るのを自戒したことと、重なり合っています。
すなわち、賢治の過激さと、親鸞の過激さは共通しているのです。
さらに最後の方で島地大等は、日蓮の言葉も引用しています。
四恩とは心地観経に云く、一には一切衆生の恩、一切衆生無くば衆生無辺誓願度の願を発し難し。又悪人無くして菩薩に留難をなさずば爭か功徳をば増長せしめ候べき。二には父母の恩、六道に生を受るに必ず父母あり、其の中に或は殺盗・悪律儀・謗法の家に生れぬれば、我と其の科を犯さゞれども其の業を成熟す。然るに今生の父母は我を生て法華経を信ずる身と成せり。梵天・帝釈天・四天王・転輪聖王の家に生じて、三界四天をゆづられて人天四衆に恭敬せられんよりも、恩重きは今の某か父母なる歟。
(日蓮「四恩抄」)
ここで、日蓮の考え方は親鸞よりもある意味「現世的」で、基本としては「一切衆生」に恩があることを前提としつつも、その次に恩があるのはこの生の「父母」だと言うのです。
今生の父母のおかげで、自分は人間の身に生まれ、仏教と出会うことができて、さらに「法華経を信ずる身と成せり」という結果を得たのです。このような機縁を与えてくれた現世の父母に対して、日蓮は「梵天・帝釈天・四天王・転輪聖王の家に生じて、三界四天をゆづられて人天四衆に恭敬せられんよりも、恩重き」と、最大限の言葉でその恩を強調しています。
賢治の場合も、父親は浄土真宗の門徒ではありましたが、幼少期から篤く仏教の信仰を育んでくれた上に、青年時代に島地大等篇の『漢和対象 妙法蓮華経』を賢治に与え、一生の信仰と出会わせてくれたのです。
日蓮の言葉に従って考えると、これほど重い恩はないということになります。
※
以上のように、島地大等の「仏教の同胞思想に就て」を参照すると、賢治が抱いていた同胞思想は、極端に見えたり途中で変節したように見えたりしながらも、実は伝統的な仏教の論理に収まるものだったことがわかります。
若い頃の賢治の極端な博愛主義的同胞思想は、古来の仏教経典や親鸞の思想を直接受け継いだものであり、晩年になってより現世的で穏当な考えに転じたのも、大きく見れば日蓮的な思想の範疇にあったのだと、理解できるように思うのです。
賢治書簡63(山梨県立文学館『宮沢賢治若き日の手紙』p.26より)
浄土真宗を代表する学僧で、盛岡の願教寺の住職を務めていた島地大等(右写真)の講演を、賢治は中学3年の1911年に聴講し、その後も何度か講演会に足を運んだということです。また1918年には、大等が編纂した『漢和対照 妙法蓮華経』を読んで体が震えるほど感動し、以後この書を「赤い経巻」と呼んで尊崇していました。
下の短歌は、盛岡高等農林学校1年の1915年夏に、願教寺の夏季仏教講習会に参加した際のものと推測されます。
255a256 本堂の
高座に島地大等の
ひとみに映る
黄なる薄明
大等は、若い賢治の信仰や思想に、多大な影響を与えた仏教者の一人と言えるでしょう。
さて、島地大等は1927年に逝去しますが、その三回忌にあたる1929年に、願教寺の門徒たちが刊行した遺稿集として、『生々主義の提唱』という小冊子があります。
]]> この遺稿集の目次は、下記のようになっています。はしがき(四戸慈文)
生々主義の提唱(島地大等)
四月八日(島地大等)
五月二十一日(島地大等)
報恩講さまお迎へのために(島地大等)
勧学逍遙院島地大等和上伝(白井成充)
島地先生の思ひ出(池田和市)
懺汗録(白藤慈秀)
くしくもここには、賢治と様々な縁のあった人々の名前が見られます。
遺稿集編纂の中心を担い、「はしがき」を書いている四戸慈文は、盛岡で紳士服仕立て業を営む人でしたが、熱心に浄土真宗を信仰し、賢治の父政次郎と親しく交流していたということです。
巻末に「懺汗録」という文章を寄せている白藤慈秀は、ご存じのように花巻農学校における賢治の同僚で、いくつかの作品にも顔を出しています。1926年3月に賢治が学校を退職した際には同時に辞め、後に願教寺の院代に就任しました。
そして、この小冊子の装幀を担当したのは、四戸慈文の娘で、当時新進画家として活躍を始めていた、深沢紅子でした。
『生々主義の提唱』表表紙と裏表紙
上の「生々」の文字は島地大等のものだそうですが、梅の花の模様が、深沢紅子の筆によるものなのでしょう。
深沢
それはそれは暑い日の真昼のことでした。昭和六年、当時武蔵野の吉祥寺に住んでいた私の家に、つめ衿の白い麻の服を着た人が訪ねて来ました。
「宮沢ですが、お隣の菊池さんが留守ですから、これをあずかってください」
新聞紙にくるんで細いひもを十文字にかけた平たい包みを二箇、さし出されました。それが、この本を書いた宮沢賢治だったのです。
おとなりの菊池さんというのは、賢治と同じ岩手県出身の画家で、賢治とは早くから親しく、賢治の最初の童話集、『注文の多い料理店』のさしえを描いた人です。その菊池さんとは、私達夫婦も非常に親しい仲なので隣り同士に住んでいました。その日の宮沢さんの頬は少し赤く見えました。私は暑さの為だろうと思い、またその頃の吉祥寺は東京市街からは一時間以上もかかる所で、家にもあいにく誰もいませんでしたが、お上がりになって少しお休みください──と申しましたが、宮沢さんは「ここで水をいただければ結構です」と言われ、玄関に立たれたままでした。
ものの十分、私が宮沢賢治に直接会ったのは、この時ただ一回きりですが、このあと間もなく何度目かの発病で、神田の下宿先で倒れられ、二年後に亡くなってしまわれました。(深沢紅子『追憶の詩人たち』pp.124-125)
また深沢は、自分の父から聞いた賢治については、次のように書いています。
菊池さんだけでなく、私の身辺には、賢治を直接知っていた人が沢山いました。私の父は賢治のお父さんと、信仰上の友達でした。賢治が清養院というお寺に泊まっていたころからよく知っていました。父はある時、「花巻の宮沢さんの息子さんは、非常によく出来る人なそうだが、ひまさえあれば山ばかり歩いているそうだ」と言っていました。また中学校の同じ寄宿舎にいたという友達は、「宮沢さんは、階段の下のランプ置場で、いつもだまってランプのほやを磨いていた」(深沢紅子『追憶の詩人たち』p.126)
ということで、この小冊子を制作した人々と賢治のつながりを見ると、島地大等と四戸慈文は父の信仰の縁、白藤慈秀は賢治の仕事上の縁、深沢紅子は父の信仰関係に加えて、菊池武雄を介した芸術家仲間としての縁もあったということになります。何重かのネットワークが、たまたま重なり合った一点にこの本が位置しているわけで、何か不思議な因縁を感じるところです。
そしてきっとこの小冊子は、四戸慈文から政次郎を介して、宮澤家にも置かれていたことでしょう。
※
ところで、この遺稿集のタイトルにもなっている「生々主義の提唱」という島地大等の文章は、1926年(昭和元年)11月にラジオ放送された講演の原稿だということです。
「生々主義」というのは、人間が生きる上での心がけとして島地大等が唱えていた考え方で、「
ここで島地大等は、「犠牲」について論じる中で、神に捧げられる犠牲の牛の寓話を記しています。
荘子の中にある寓話を
想出 しました。それはかう言ふのであります
ある牧場に、お友達と一処に牧 せられて居つた一匹の牛がありました。或る日、神様の前へ、犠牲 即ちお供物 として、引出さるゝことになりました。その時から、今迄とは待遇がかはり、御馳走を食べさせ、温浴 をとらせて体を清めその上ならず錦繍 を被 せて飾り立てゝくれる、牛君も頗 る御恐悦でした。さて引かれて行くことになつたときその牛は、見すぼらしいお友達を顧み、さも傲 り顔に且 は愉快相 に出懸 ました。愈々 神前の儀式を行ふことゝなり、大牢と云ふ御馳走の一段となり、この牛が屠殺 さるゝことになつて俄に己の悲惨 なる運命に気付き、今迄の喜も一場の夢と化しましたので、後悔言はむかたなく、人間ならぬ牛も地団太踏むで嘆き悲しみ、こんなことなれば、寧ろ牧場の見すぼらしい生活の方が、何 んなに仕合せか知れないと、泣き悲しむだと云ふお話なのであります。(『生々主義の提唱』pp.3-4)
私はこの箇所を読んで、賢治の童話「〔フランドン農学校の豚〕」を連想しました。
「〔フランドン農学校の豚〕」に登場する豚も、最初は自分が殺されることを知らず、つかの間の幸福を味わっていたのです。農学校の生徒が、自分のことを触媒としての白金にも相当すると言っているのを聞くと、豚は自分の幸福を感じて「天上に向いて感謝し」、「大きな口を、にやにや曲げてよろこんだ」りしていました。
この豚の様子は、上の犠牲の牛が丁重な扱いを受けて、「
その後、豚は自分が殺される運命にあることを知ると、「いやです、いやです。どうしてもいやです」と泣き叫び、強制肥育をされる際には「あらんかぎり、怒鳴ったり泣いたり」しました。
一方、「生々主義」の犠牲の牛も、「後悔言はむかたなく」、「地団太踏むで嘆き悲しみ」、牧場の生活を思い出しては泣き悲しんだのです。
このような類似を見ると、ひょっとして賢治は島地大等のこの寓話にヒントを得て、「〔フランドン農学校の豚〕」を着想したのだろうかとも思えてきますが、大等がこの講話をラジオで行ったのは1926年11月、遺稿集が刊行されたのは1929年11月であり、童話の初期形が書かれたと推測される1922年後半~1923年前半よりも、かなり後のことです。したがって、賢治が「〔フランドン農学校の豚〕」を、この講話そのものから着想したと考えることはできません。
しかし、島地大等はこの講話以前にも、自らが提唱する「生々主義」について、何度も話をする機会はあったはずですし、若い頃から何度も大等の話を聞いていた賢治が、どこかでこういう話を耳にしていた可能性は、ありえます。
もしそうであれば、賢治が「〔フランドン農学校の豚〕」を構想する上で、この寓話は大まかな枠組みを与えてくれることになり、そこに学校の実習で豚を飼育した経験や、「家畜撲殺同意調印法」というユニークな発想が盛り込まれていったのではないかと、考えることもできます。
ちなみに島地大等は、上の犠牲の牛の寓話は『荘子』の中にあると言っていますが、実は『荘子』には、荘周が王から仕官を請われた際の断りの言葉として、下のような話が掲載されているだけなのです。
或るひと荘子を聘す。荘子、其の使いに応えて曰わく、子は夫の犠牛を見たるか。衣するに文繍を以てし、
食 うに芻菽 を以てするも、其の牽かれて太廟に入るに及びては、孤犢たらんと欲すと雖も、其れ得べけんやと。(口語訳)ある人が荘子を召しかかえようとしたが、荘子はその使いの者にむかってこう答えた。「君はあのお供えの犠牲の牛を見たことがあるだろう。美しい縫いとりの着物を着せられ、
秣 や豆のごちそうで養われているが、さて引かれて祖先の霊廟に入るだんになってから、ただの子牛になりたいと思っても、もうだめではないか。」(岩波文庫:金谷治訳注『荘子』第四冊pp.193-194)
すなわち『荘子』には、犠牲の牛の行動や心理など細かい描写は書かれておらず、島地大等の話にはまた別の出典があるのかもしれませんし、これは大等自身による脚色なのかもしれません。
]]>
『注文の多い料理店』広告ちらし(大)の一部(『新校本宮澤賢治全集』第12巻口絵より)
[一] これは正しいものゝ種子を有し、その美しい発芽を待つものである。而も決して既成の疲れた宗教や、道徳の残滓を色あせた仮面によつて純真な心意の所有者たちに欺き与へんとするものではない。
[二] これらは新しい、よりよい世界の構成材料を提供しやうとはする。けれどもそれは全く、作者に未知な絶えざる驚異に値する世界自身の発展であつて決して畸形に捏ねあげられた煤色のユートピアではない。
[三] これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。
多少の再度の内省と分析とはあつても、たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。[四] これは田園の新鮮な産物である。われらは田園の風と光の中からつやゝかな果実や、青い蔬菜と一緒にこれらの心象スケツチを世間に提供するものである。
この文章には、数か月前に刊行された詩集『春と修羅』の「序」と共通する要素が多く、[四]にあるように個々の作品を「心象スケッチ」と呼んでいることもそうですし、[三]の「たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである」という表現は、『春と修羅』「序」の「たゞたしかに記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで」という箇所に似ています。
そして特に私が興味を惹かれるのは、[三]の「たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である」という箇所です。
賢治がここで主張しているのは、「人間の心の内にある現象は、その深部においては、全ての人に共通している」ということになるでしょう。特に何の説明もなく、「故にそれは……」などと論を進めているところを見ると、賢治にとってこの主張の背景には、根拠とする何らかの理論があったのではないかと思います。
その根拠とは何だったのかと考えてみると、まず第一に思い浮かぶのは、C.G.ユングが提唱した「集合的無意識」の理論です。
※
精神分析の祖であるフロイトは、無意識の中にはその人の本能的な衝動や、個人的に抑圧した種々の欲動などが含まれていると考え、無意識の内容物はあくまで一個人ごとに別々のものと想定していました。
これに対してユングは、古今東西の人々が見る夢の内容や、世界各地に分布する神話や民話には、特定の共通したパターンが認められることから、個人的無意識のさらに深奧には、全ての人間に共通した層があると考え、これを「集合的無意識」と名づけたのです。
ユングが考えた「意識」からその深部の「無意識」に至る構造は、後世の人によってしばしば下のように図示されます。
これは、A、B、Cという3人の人間の、「心の断面図」とお考え下さい。
一番上の「意識」は、海面上に浮かんだ3つの「島」のように、3人それぞれが独立しています。お互いに異なる人間なのですから、意識が別々なのは当然です。
海面の下には、まず3人それぞれの「個人的無意識」があります。この部分も、それぞれ独自の経験によって形成されたものですから、やはり別々になっています。
そこからさらに下に行くと、海底にあたる土台の部分において、3人の無意識はつながっており、これが「集合的無意識」です。ユングは、人間の心の奥には、人類全体の長年の進化の歴史に根ざした、共通の層があると考えたのです。
人間の心というものが、上図のような構造をしていて、全ての人の心が深奥で互いにつながっているのだとすれば、冒頭の広告ちらしの「心の深部に於て万人の共通である」という記述は、すんなりと納得できます。誰であれ、一人の人間の心の奥深くへと潜っていくと、「万人の共通」の層に到達するのです。
しかしここで疑問となるのは、はたして賢治は、このようなユングの「集合的無意識」の理論を知っていたのか、ということです。
実際のところ、賢治はフロイトの理論についてはある程度の知識を持っていたようですが、ユングについては、残されたどの草稿にも、伝記的な情報の中にも、関連した記述は見当たりません。賢治が、ユングという人やその理論について知っていた証拠は何も残っていないのですが、「知っていた証拠がない」というだけでは「知らなかった」と断定はできませんので、念のためにもう少し検討しておきます。
ユングが「集合的無意識」という用語を最初に用いたのは、1916年に書いた「無意識の構造」という論文においてだということですが、この論文はユング研究者からも長らく忘れ去られ、死後に再発見されたものです。また、集合的無意識の主な内容である「元型(archetype)」という用語をユングが最初に用いたのは、1919年の「本能と無意識」という論文だったということで、だいたいこの1910年代後半あたりが、集合的無意識という概念の初出時期だったようです。
したがって理屈の上では、賢治が1924年以前にこれらのユングの原著を自分で取り寄せて読んでいたら、その集合的無意識の理論を「広告ちらし」に援用することも、可能だったわけです。しかし、当時まだ日本ではあまり知られていなかったユングという新進の学者の本や論文を、賢治がわざわざ原書で注文していた可能性は、非常に低いと考えざるをえません。
一方、日本において「集合的無意識」というユングの概念の訳語が登場した時期を調べてみると、「国会図書館デジタルコレクション」で(「集合無意識」「集団無意識」も含めて)検索した結果では、最初の用例は1924年刊行の厨川白村著『苦悶の象徴』で、二番目の用例は1928年でした。
1924年刊の『苦悶の象徴』における用例は、次のようなものです。
思想や文學の方の傳続主義はこの心理から研究することが出來よう。ユング教授の所謂「集合的無意識」the Collective Unconscious、またスタンレ・ホオル教授の「民族心」Folk-soulと稱するもの皆これだ。
(厨川白村『苦悶の象徴』p.38)
「集合的無意識」という言葉が登場するのは上の一箇所のみで、ここではその意味内容については説明されておらず、これを読んだだけでは、その理論を知ることはできません。すなわち、賢治が『注文の多い料理店』広告ちらしを書いた1924年という時期において、日本語の書物によってユングの「集合的無意識」という概念を具体的に知ることも、無理だったということになります。
※
それでは、賢治が「この通りその時心象の中に現はれたもの」は、「必ず心の深部に於て万人の共通である」と、まるで当然のことのように書いたのは、いったいどのような説を根拠としていたのでしょうか。
これについて私は、若き日の賢治がほぼ同時に出会っていた二つの宗教思想書、すなわち『大乗起信論』とエマーソンの論文集が、その根拠となっていたのではないかと考えます。1911年8月、盛岡中学3年の賢治は大沢温泉で行われた仏教講習会で、島地大等の『大乗起信論』の講話を聴きました。そしてその休みが明けた2学期には、「エマーソンの哲学書を読んでいた」と、寮で同室の藤原文三が語っています。(いずれも『新校本全集』年譜篇pp.70-72)
二つの本に記された宗教的世界観は、賢治の中でつながり合っていたのではないかと、私は思うのです。
まず『大乗起信論』は、この世界の全ては「真如」であり、それは実は「衆生心」である、という命題から出発します。
これだけではあまりに抽象的ですので、井筒俊彦氏が『意識の形而上学──『大乗起信論』の哲学』において、この「衆生心」という独特の概念について説明しておられるところを見てみましょう。
その〔引用者注:『大乗起信論』における「意識=
心 」の〕重要な一点とは、この意味での「意識」の超個性的性格、つまり、それが我々個々人の個別的な心理機構ではなくて、超個人的・形而上学的意識一般、プロティノス的流出論体系の「ヌース」に比すべき純粋叡智的覚体であるということである。宇宙的意識とか宇宙的覚体などというと、やたらに大袈裟で古くさくてそんな無限大の超個的意識の実在性など現代人には信じられないかもしれないが、その場合は、現代のユング心理学の語る集団無意識(Collective Unconscious)という意識(!)の「超個」性を考え合わせれば理解しやすいであろう。集団無意識とは、要するに、集団的アラヤ識の深層における無数の言語的文節単位の、無数の意味カルマの堆積の超個的聯合体である。このユング的集団無意識に見られるように、超個人的共同意識、または共通意識を想定して、それの主体を汎時空的規模に拡大し、全人類(=「一切衆生」)にまで拡げて考えてみる。つまり、「一切衆生」包摂的な意識フィールドの無限大の拡がりを考えるのだ。
このような超個的、全一的、全包容的、な意識フィールドの拡がりをこそ、『起信論』は術語的に「衆生心」と呼ぶ。またこういう意味で、「意識(=「心」)は「存在」と完全に相覆うのである。(『意識の形而上学』pp.60-61)
ご覧のように、ここにユングの集合的無意識が登場しています。
井筒氏の述べるように、『大乗起信論』の世界観においては、「
このような「誤った見解=邪執」を離れることができれば、人は悟りに近づけるというのが、『大乗起信論』の教えです。
「誤った見解の克服(対治邪執)」とは、あらゆる誤った見解(邪執)はすべて、〈ものの実体視〉(我見)にもとづいている。したがって、ものの実体視さえ除去できれば、誤った見解はなくなる道理である。この〈ものの実体視〉には二種ある。どんな二種か。一つは〈個人存在の実体視〉(
人我見 )、他は〈客観存在の実体視〉(法我見)である。(岩波文庫版『大乗起信論』pp.244-245)
もしも人間が邪執を去って、個人存在を実体と見てしまう「
すなわち、『注文の多い料理店』広告ちらしの考えと、『大乗起信論』の世界観は、同型なのです。
また、これと非常によく似た世界観を、19世紀アメリカの思想家ラルフ・ウォルド・エマーソンにも見ることができます。
賢治が中学校時代に読んだエマーソンが、どのような版だったのかはわかりませんが、1932年に教え子の照井謹二郎に、蔵書の中から戸川秋骨訳『エマーソン論文集』上巻(第5版)を贈呈したという記録が残っていることから、少なくとも賢治が戸川秋骨の翻訳版を読んでいたことは、確かです。
その冒頭に置かれた「歴史論」は、次のように始まります。
あらゆる個人を通して一貫せる一個の心あり。各個人はみな此の心とその全局に到るの溝渠たるなり。されば人若し一たび理性を用ふるの権を享有せんか、その人はかの心の全領土に於ける自由の民とせられたるなり、その人はプレトオの思索せる処を思索し得べく、古聖の感じたる処を感じ得べく、時の如何を問はず、人の如何を論ぜず、苟も人間の上に起りし事はこれを了解し得るなり。この普遍共通の心の内に入るを得たるものは、既に今日に至る迄に遂げられ、また今後に於て遂げらるべき事物を知悉せるものなり、何となれば此の普遍共通の心は唯一最高の権能を有するものなれば也。
(戸川秋骨訳『エマーソン論文集』上巻pp.1-2)
冒頭に登場する「あらゆる個人を通して一貫せる一個の心」のことを、エマーソンは「大霊(Over-Soul)」と呼び、各個人の心は、その「大霊」につながっている「溝渠」(水の流れる溝)だというのです。
つまりエマーソンの「大霊」も、『大乗起信論』の「衆生心」と同じく、古今東西の全ての人々の心が水路を通して流れこむ統一体であり、井筒俊彦氏が言うところの「超個的意識」なのです。まさにユングの「集合的無意識」のように、「心の深部に於て万人の共通である」という構造になっています。
キリスト教の牧師もしていたエマーソンと、『大乗起信論』との類似は不思議にも思われますが、エマーソンはインド哲学に強い関心を寄せ、『ヴェーダ』から大きな影響を受けたということですので、仏教ともどこか通じ合っているのでしょう。
またエマーソンは、上掲書の「大霊論」では、大霊と自然との関係について、次のように述べています。
過去并に現在に対する最高の批判者并に必然なるものゝ唯一の働となれるものはかの大自然にして、地の大気の柔き腕の内に横はるが如く、吾人はこの自然の内に休息するなり、この大自然はかの統一若くは大霊にして、その内に人々個々の存在は抱有せられ、個々の人は甲乙共に合一するなり、そは又共通の心情にして其内にありて為す処の誠実なる対話は即ち礼拝となり、正常なる行為は服従となる、更にそは又全局を蔽ふ力ある現実にして、この力ある現実は吾人の小智小才を打破し、人をしてその有るが儘の姿を以て顕れ、吾人の語るにも只舌を以てせず、全人格を以てせしめ、更にたえず吾人の思想と双手の中とに入り来りて、吾人の智識と美徳と、力と美とにならんとするものなり。〔中略〕
吾人は世界を見るに個々の一片を以てす、例へば太陽、月、動物、樹木といふが如し、雖然これ等がみなその輝ける一部を成せるその全体なるものは心霊なり。(戸川秋骨訳『エマーソン論文集』上巻pp.449-450)
ここでエマーソンは、大自然そのものが大霊であるという、汎心論的な世界観を述べています。
これは、賢治が上の「広告ちらし」[三]において、「たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである」と述べながら、同時に[四]においては「これは田園の新鮮な産物である。われらは田園の風と光の中からつやゝかな果実や、青い蔬菜と一緒にこれらの心象スケツチを世間に提供する」と述べていることに、対応しています。
すなわ、広告ちらしでは、これらの作品は「心」に由来するという表現と、「自然」に由来するという表現が入り交じっているのですが、エマーソンによれば「心霊=自然」なのですから、結局これらは同じことになるのです。
以上のように、賢治が1911年の夏から秋という時期に相次いで親しんだ『大乗起信論』とエマーソンは、どちらも私たち一人一人の「心」というものは、本当はつながり合った一つの偉大なまとまりであり、それが森羅万象を成り立たしめているのだということを、述べているわけです。
このような考えが、『注文の覆い料理店』広告ちらしの背景にはあったのではないかと、私は思うのです。
※
ところで最初の方で触れたように、この広告ちらしの思想は、『春と修羅』の「序」ともつながっていると思われますので、上記のような「超個的意識」の視点から、あらためて「序」を見てみることもできます。
序
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
この冒頭部の「ひとつの青い照明」とは、「わたくし」という一人の人間の心を指しているのだと、私はこれまで理解していたのですが、本日の趣旨に沿えば、『大乗起信論』の「衆生心」やエマーソンの「大霊」のように、ただ「ひとつ」の「超個的意識」を指していると考えることもできるでしょう。
そうすれば、「あらゆる透明な幽霊の複合体」という箇所の意味も、別の意味で明確になります。ふだん私たちが「自我」と呼んでいるところの、個人的な心が「透明な幽霊」であり、その「複合体」が、「衆生心」や「大霊」だということになります。仏教的には「我」というのは実体がないので、賢治は「幽霊」と表現したのかもしれません。
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
「ある程度まではみんなに共通いたします」という結果になる理由は、広告ちらしにあったように、「心の深部に於て万人の共通」だからです。人間の心は深部でつながり合って一体なのですが、表層的な部分は各人別々なので、全てが完全に一致するわけではなく、「ある程度まで」です。
「すべてがわたくしの中のみんなである」というのは、世界の全ては(私の)心の現象であるという、唯心論的な世界観の表明でしょう。
「みんなのおのおののなかのすべてです」というのは、その世界の全ては、私以外の衆生にとっても、同じように心の現象であるということです。
私にとっての世界と、他のみんなにとっての世界が、「ある程度まではみんなに共通」である理由は、突きつめれば上述のように、私の心も他のみんなの心も、「衆生心」「大霊」という唯一つのものの一部だから、ということになるのでしょう。
『注文の多い料理店』もまた「心象スケッチ」であるということからすると、『春と修羅』の「序」も一緒に超個的意識のもとに包摂して、このように解釈するべきなのかもしれません。
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まず、昨年12月21日付け朝日新聞岩手版に掲載された記事で、川島氏は次のように述べておられます。
私は材木町の家で祖父と暮らしましたが、小学校の授業で「よだかの星」を読んだので、祖父に「賢治さんがどういう字を書く人なのか知りたいので、原稿を見せてほしい」と頼んだことがありました。
すると祖父は「実は原稿を活字にして東京で印刷した後、直筆原稿を盛岡に持ち帰る際、上野駅で置き引きに遭ってしまい、今は残っていないのだ」と打ち明けました。
これは、我が一族が他人にはほとんど語ったことのない、「注文の多い料理店」の原稿に関する「秘話」です。
また、本年2月6日にテレビ岩手で放送された川島氏のインタビューは、今のところ下記のページで視聴することができます。
]]> このインタビューの、「置き引き事件」に関する部分を書き起こすと、以下のとおりです。それで、私があの小学校4、5年生の時ですけども、教科書にあの、「よだかの星」っていう……、あれが出てきたんですね。それで学校で、みんなで朗読したり、いろいろして、それで、帰って、賢治ってどんな字を書くんだろうって、祖父に聞いたら、それで、残ってたら見たいなあ、とかって言ったのかなあ、そしたら、実はそれはねえ、これを印刷は東京でやって、それで、その、全部終わって、帰りに持って帰る途中に、上野で置き引きされたと、本当にそれが残念でしょうがないっていう話をね、でも、内緒だよ、っていう風に口止めされました(笑)。はい。
『注文の多い料理店』と同じ1924年に出版された『春と修羅』の方は、出版社に持ち込んだ賢治自筆原稿の大半が、ずっと宮澤家の土蔵の中に保管されていて、最終原稿の上でも賢治が執拗に行った推敲の跡を見ることができますし、また用紙に記された複雑なノンブル記号の意味を、後に入沢康夫さんが鮮やかに解読されたことによって、この『春と修羅』という詩集がどういう順序で編集されていったかという詳細な経過が、明らかにされました。
これに対して、なぜか『注文の多い料理店』の印刷用原稿は現存しておらず、それがどうなってしまったかというのは長年の謎だったのですが、これでちょうど100年ぶりに、その真相が明らかにされたわけです。
もしもこの『注文の多い料理店』印刷用原稿が残されていたら、この童話集の編集経過についても様々なことが解明されたはずで、返す返すも置き引き犯のことが恨めしく感じます。
(それにしてもこの犯人は、おもむろに盗品の中身を確認して、得体の知れない奇妙な原稿が出てきた時には、どんな顔をしたことでしょう。古本屋に売れるとも思えませんし、どうせ足がつかないようにすぐに捨ててしまったのかとも思いますが、東京の片隅で哀れな原稿用紙は、その後いったいどんな運命をたどったのだろうかと、想像してしまいます。)
いずれにせよこの「原稿置き引き事件」は、「我が一族が他人にはほとんど語ったことのない」秘話だというのですから、これは賢治にも知らされていなかったことなのではないでしょうか。もしも賢治が知っていたら、弟の清六などにも言いそうなもので、そしたら後々に語り伝えられていたはずだと思いますので、これは本当に原稿の筆者も知らない「秘話」だったのではないかと思います。
※
ところで、上野駅での置き引きというと、賢治と母イチが遭遇した事件のことも思い起こされます。下記は、森荘已池著『宮沢賢治の肖像』の、「賢治のお母さんから聞いたこと」という章の一節です。1918年末から賢治と母がトシの看病に上京し、年明けの1月半ばにトシの容態が少し落ち着いたので、母は先に花巻に帰ることになり、見送りの賢治とともに上野駅に来た場面です。イチが述懐するところでは……。
トシさんも、だいぶよくなりましたし、旧正月がくると、忙がしいこともありますので花巻に帰ることになりました。賢さんは残って、トシさんといっしょに帰ることになり、わたしだけ先きに帰ることになったのです。
上野駅に来ましたが、とても荒れて寒い日でしたので、ストーブのあるところに行き、荷物に後ろ向きになって、手をあぶっておりました。賢さんは、「お父さんに、おみやげに牛肉二斤買って来てけんじゃ」と、わたしが頼んだので、駅から出てゆきました。わたしが、ちょっと、後ろをむいて見たところ、もう荷物が無くなっていました。誰かに持ってゆかれてしまったのです。賢さんが帰って来ましたので、そういいましたら賢さんは、「ホウ」といいましたので、わたしが「そこらを見るッか」といいましたら、賢さんは「見ても出ないんだすじゃ」といいます。わたしは、くやしくてくやしくて、頭がぼおッとなるほどでした。そんなわたしの顔を見て、賢さんはひどく心配して、「花巻まで、いっしょに行くべか?」とききます。「トシさんのこともあるのだから、来なくてもいいんすじゃ」といいますと、「くやしいと思って、人の風呂敷包みなどジロジロ見だりしないんだあんすじゃ」と、いわれました。
「ああ、あきらめるべじゃ、仕方がないだも」と、わたしがいいますと、「お母 さん、ほんとうに、あきらめたッか、お前 、ほんとに、あきらめたッか?」と、しんけんになってききます。
「ほんとうに、あきらめだ」と、答えましたら、やっと賢さんは安心しました。
「トシ子の骨 を持って帰ることまで考えて来たのだがら、ものぐらい盗まれだって、あぎらめられる」と、わたしはいいますと、「そだそだ」と賢さんはいいました。(森荘已池『宮沢賢治の肖像』pp.219-220)
この母子の会話も、なかなか心に沁みるものがありますね。家族へのお土産を盗られて動揺する母を、冷静に気づかう賢治の言葉が印象的です。
このような賢治の様子を見ると、もしも及川四郎が賢治に、『注文の多い料理店』の原稿を盗られたことを報告したとしても、「他の大事なものを盗られなぐて良かったなス」などと言って慰めてくれたのではないかと思いますし、そしたら及川も心が楽になり、その後ずっと重荷を抱えることもなかったでしょう。
それにしても当時の上野駅というのは、東北から出てきて都会に慣れない田舎者がうろうろしているとでも思われたのか、置き引きが横行する場所だったのでしょうか。
※
あと一つ、置き引き事件といういうと次の成瀬金太郎の一件も、ここに挙げておきます。
香川県出身の成瀬金太郎は、盛岡高等農林学校の賢治の同級生で、在学中は賢治といっしょに報恩寺で参禅したこともあり、卒業後も賢治とよく手紙のやり取りをしていました。現存している成瀬あての賢治の書簡としては、書簡48a、55、143の3通があります。
以下は、『成瀬金太郎小伝』(岩手大学農学部北水会内・成瀬金太郎小伝刊行会発行)の一節で、太平洋戦争末期のことです。
全国味噌工業組合連合会、全国味噌統制会社を辞職後は家族在住の盛岡と、郷里香川神山村の生家を往復して事態の推移を見守ることにした。将来を考えて盛岡の書籍、家具等使用しない物は出来るだけ安全な所に疎開せねばと思い鉄道便で四国神山の生家へ送ったものの内、梱包一ヶ高徳線造田駅内において盗難にあい無くなったことは、残念でならない。この紛失物の中には宮沢賢治君から贈られた法華経の本、学生時代の記録、南洋拓殖工業株式会社当時の貴重な記録が一杯詰って居たので損害は甚大であった。(『成瀬金太郎小伝』pp.61-62)
もしもこの造田駅における盗難がなければ、高農時代の賢治に関する資料や、未知の賢治の書簡何通かを、私たちは目にすることができたのではないかと思われ、これも非常に悔やまれるところです。(成瀬金太郎については「成瀬金太郎の生家」も参照)
※
ということで私としては、1919年の母イチの荷物の置き引き、1924年の『注文の多い料理店』原稿置き引き、1945年の成瀬金太郎の荷物置き引きを、「賢治にまつわる三大置き引き事件」と呼んでおきたいと思います。
『注文の多い料理店』扉、表紙、背(『新校本全集』12巻口絵より)
その理由として仮説的に想定してみたのは、(1)回復を期待して待っているうちに長引いてしまった、(2)重症で動けなかったので遅れた、(3)今回の東京出張が命を懸けるほど重要と考えていた、(4)仕事のためでもなくただ自ら死のうとした、(5)親に心配をかけたくなかったから、などの要因でしたが、いずれも病状悪化の危険を冒してまで東京に留まった根拠と考えるには、不十分と思われました。
その上で今回の記事では、現時点で私が考えている理由について、ご説明してみたいと思います。
結論としては、当時の賢治の心情としては、(6)病気のまま花巻に帰った際に、以前にも増して周囲から向けられるであろう嘲りや蔑みを恐れて、帰郷を躊躇したのではないかと、私は思うのです。
つまり簡単に言えば、「周りから悪く言われるから」という理由だったのではないかということですが、それはちょっと、重病で一人東京に留まるという、命にも関わるリスクを冒した理由としては、あまりにも些末なことのように感じられるのではないでしょうか。
しかし、1931年に仕事を再開してからの賢治にとって、自らの病気を侮蔑され辱められることは、想像以上に辛く苦しかったようなのです。
たとえば、文語詩「〔打身の床をいできたり〕」の下書稿には、そのような賢治の気持ちが、細かく綴られています。
まずは、1931年2月~5月頃に使用されていた「王冠印手帳」に記された、その下書稿(一)より。
〔前略〕
あゝいつの日かか弱なる
わが身恥なく生くるを得んや
〔中略〕
病めるがゆゑにうらぎりしと
さこそはひとも唱へしか
賢治にとっては、「か弱なるわが身」は「恥」であり、できれば「恥なく生くる」ことを望みながらも、それは実際には困難だったのです。
後半の、「病めるがゆゑにうらぎりし」と「ひとも唱へし」というのは、具体的には何のことなのでしょうか。羅須地人協会でやっていた肥料相談などを、病気のために一方的に中断したことを指しているのでしょうか。「裏切り」などと責められたとしたら、真面目な賢治には相当こたえたでしょうが、病気が回復して再びいろいろな人と会ううちに、このような声を聞いたのかもしれません。
次は、同じく「王冠印手帳」に記された、下書稿(一')です。
農民ら病みてはかなきわれを嘲り
小雨の春のそらに居て
その蔓むらに鳥らゐて
雨にその小胸をふくらばすさてははるかに鳴る川と
冷えてさびしきゴム沓や
あゝあざけりと辱しめもなかを風の過ぎ行けば
小鳥の一羽尾をひろげ
一羽は波を描き飛ぶ
ここでは「農民ら」が、「病みてはかなきわれを嘲り」と記されています。賢治はこの年、東北砕石工場の技師として、石灰肥料の売り込みのために多くの農民たちのもとを訪問していましたから、その際に言われたことでしょうか。
後半では再び「あゝあざけりと辱しめ」と綴り、賢治は悲しみと悔しさを噛みしめています。
「農民ら病みてはかなきわれを嘲り……」(『新校本全集』13巻上p.344より)
下書稿(三)では、賢治を嘲るのは「商人ら」になっています。
病起
商人ら
疾みてはかなきわれを嘲り
川ははるかの峡に鳴るましろきそらの蔓むらに
雨をいとなむみそさざい
黒の砂糖の樽かげを
さびしくわたるひるの猫げに恥積まんこの春を
つめたくすぐる西の風かな
賢治がセールスを行っていた石灰岩抹は、肥料として売るだけではなかなか採算が取れなかったので、米の搗粉として米穀商にも売り込もうとしていました。ここに出てくる「商人ら」は、そのような相手がモデルでしょう。
鈴木東蔵あて書簡365には、「コノオヤジ米相場ナドヲナシ頭ニヌレ手拭ヲノセ甚頑固ナリ」などと描写されている商人も登場し、この店では賢治の努力も空しく「折衝二時間遂ニ当工場製品ニ対シ何等ノ同情ヲ得ズシテ去ル」という結果になっています。こういう一筋縄ではいかない商売人たちから、いろいろと厳しい言葉を浴びせられることもあったのかもしれません。
当時の賢治は、農学校教師時代のあの座って手を組んだ写真の力強い姿とは打って変わって、右写真(『新校本全集』16巻下p.313より)のように、やせて青白い病み上がりで、まさに「疾みてはかなきわれ」という姿だったのです。
1931年の春、賢治は2年間の病床生活からやっと回復して、上のタイトルのように「病起」という時期にあったわけですが、「げに恥積まんこの春」との言葉にあるように、外に出て農民や商人に会うたびに、「恥を積む」日々だったのでしょう。
このような状況は、花巻やその周辺の地域全体において、体験されるものだったようです。下記は、「〔商人ら やみていぶせきわれをあざみ〕」の定稿です。
商人ら、やみていぶせきわれをあざみ、
川ははるかの峡に鳴る。ましろきそらの蔓むらに、 雨をいとなむみそさゞい、
黒き砂糖の樽かげを、 ひそかにわたる昼の猫。病みに恥つむこの郷を、
つめたくすぐる春の風かな。
最後から二行目によれば、賢治の故郷花巻とその周辺は、「病みに恥つむこの郷」となってしまったのです。
※
いったん病気から回復して仕事ができるようになってさえ、上のような嘲りや蔑みを受けていたわけですから、またすぐに病気が再発して動けなくなってしまっては、どれだけ酷い悪口を言われるだろうと賢治が恐れたのも、無理もないことのように私には思われるのです。
前回もご紹介したように、賢治は東京で倒れてからまもなく、今後の方針について下記のようなメモを書いていました。
廿八日迄ニ熱退ケバ
病ヲ報ズルナク 帰 郷
退カザレバ費ヲ得テ
(1) 一月間養病
(2) 費ヲ得ズバ
走セテ帰郷
次生ノ計画ヲ
ナス。
ここで、「廿八日迄ニ熱退ケバ/病ヲ報ズルナク帰郷」ということになれば、賢治にとっては最も望ましいわけで、自分の病気が再発したことは、花巻では誰にも知られずに済みます。
熱が引かなかった場合に、「費ヲ得テ/(1)一月間養病」として、「東京で1か月間療養」という方策を賢治が考えた理由を推測してみると、たとえ完璧に治癒していなくても、何とか普通に出歩ける程度に回復してから花巻に戻れば、家族以外の他人に対しては、病気が再発したことを隠し通せると判断したのでしょう。この場合、家族に対して再発を隠し続けるのは難しいでしょうが、何食わぬ顔をして時々外出しておれば、近所の人には病気のことを知られずに通すことも可能でしょう。
一方、「(2)費ヲ得ズバ/走セテ帰郷」の選択肢をとると、病気のままで花巻に帰ることになり、しばらくは自宅に籠もって療養しなければならず、そうなると近所の人に病気を隠し続けるのは無理でしょう。すなわち、「宮沢さんのところの賢治さんは、この春にやっと良くなったと思ったら、また病気で寝込んでいる」という噂が広まることになり、「病みに恥つむこの郷」が、賢治をさらに苛むことになるのです。
すなわち、賢治が病気のままで花巻に帰ることを強く躊躇していた理由は、現代の私たちが考える以上に苛酷だった、病気に対する周囲の偏見や侮蔑にあったのではないかと、私としては考える次第です。
そして、自身が病弱であることを、周囲からこのように嘲られ蔑まれてきたことに対する賢治の鬱屈した感情が、先日取り上げた「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」という作品にも、深く関わっているのだろうと思います。
この作品において、「さあらば 友よ/誰か未来にこを償え/いまこをあざけりさげすむとも」と、賢治が珍しく強い口調で、嘲りや蔑みを「償え」と求めているのは、この間に自分に浴びせられた酷い扱いに対する反動だったのだろうと、私には思われます(「われらともに歌ひて泯びなんを」参照)。
※
ところで、上に引用した手帳のメモで、賢治は結局「(2)費ヲ得ズバ/走セテ帰郷/次生ノ計画ヲナス」という選択肢をとったわけですが、この最後にある「次生ノ計画ヲナス」とは、具体的にはどういうことだったのでしょうか。
私はこれは、9月末に帰郷後すぐに使用し始めた「雨ニモマケズ手帳」に記された、あの「〔雨ニモマケズ〕」こそが、賢治の「次生ノ計画」だったのだろうと考えます。
「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ……」という人物像は、賢治の「祈り」とか「願い」という風に一般的にとらえられており、それはその通りだ私も思うのですが、より実際的な問題として、「この生ではもう無理だが、もしももう一度人間として生を享けたら、このようにありたい」という切実な希望を、「次生ノ計画」として述べたのだろうと思うのです。
ということで、「兄妹像手帳」に記した「廿八日迄ニ熱退ケバ……」というこのメモは、当時の賢治にとって、かなり重要な指針となったのではないかと思います。
「兄妹像手帳」154頁(『新校本全集』13巻(上)本文篇p.468より)
9月19日 | 朝6時32分花巻発の東北本線上り列車に乗り、9時31分に小牛田に到着。小牛田肥料会社と斎藤報恩農業館を訪問。13時45分発列車で小牛田を発ち、仙台にて宮城県庁農務課と古本屋を訪ね、市内で宿泊。 |
9月20日 | 4時仙台発の上り列車に乗り、ぐっすり眠っていると、窓を開けたまま降りた人があり、風が吹き込んで寒さで目覚めた。午後上野駅に着き、神田区駿河台の旅館「八幡館」に投宿した。その後、吉祥寺の菊池武雄を訪ねたが留守で、隣家の深沢紅子に浮世絵の和本とレコードを預け、旅館に戻った。この夜、烈しく発熱。 |
9月21日 | 高熱が続いているが、鈴木東蔵には営業活動に回っていると書き送る。死を覚悟して、父母あての遺書と弟妹あての別れの言葉を書く。旅館から菊池武雄に連絡があったため、菊池は午後3時に職場を出て八幡館を訪問した。賢治は部屋で赤い顔をして寝ており、菊池が家に知らせようと言うと、断固として拒否した。 |
9月23~24日頃 | 菊池武雄は、花巻に帰りたくないと言う賢治のために、吉祥寺に小さな貸間を探して、八幡館の賢治に報告に行った。しかし賢治は「それほどご厚意をいただくほどあなたと深い関係じゃない」と言って断ったため、菊池はムッとしたという。また時期ははっきりしないが、手帳に「廿八日迄ニ熱退ケバ……」のメモを記入。 |
9月25~26日頃 | 鈴木東蔵あて書簡で、東京で発熱して寝込んでいることを初めて伝えるとともに、家には決して知らせないようにと念を押した。おそらく26日に、八幡館で医師の往診を受け、家に帰って治療を受けるよう勧められた。 |
9月27日 | 昼頃に花巻の自宅に電話し、「もう私も終りと思いますので最後にお父さんの御声を……」と言った。驚いた父は花巻に戻るよう強く指示するとともに、小林六太郎に電話して、寝台車を予約し賢治を乗せるよう依頼。夜10時30分、小林に送られて上野発の列車に乗車。 |
9月28日 | 朝10時27分花巻駅に着き、清六が迎える。自宅で直ちに病床に臥す。 |
賢治は結局、東京の旅館「八幡館」に、9月20日から27日までの7泊8日にわたって滞在したのですが、本日考えてみたい問題は、「これほどの重体になりながら、なぜ賢治はすぐに花巻に帰らなかったのか」ということです。
]]> 賢治は1928~1929年頃にも、結核性の肺炎で重篤な状態になり、一時は命も危ぶまれました。今回また高熱を出して、たった一人で東京で寝ているだけでは、再び同様の状態に陥りかねません。看病してもらえる家族がいて、かかりつけの医者もいる花巻に、できれば一日でも早く戻ってほしいところです。1.詳しい経過
「なぜ賢治はすぐに帰らなかったのか」、その理由を考えるために、この時の東京滞在中の状況を、もう少し細かく見てみます。
まず、9月20日の夜の賢治の様子について、旅館で働いていた新藤ふさという女性は、次のように語ったということです。
「その人、たいへんな熱で、汗をだらだらかきましたつけね。ワタシア、何度も、ねまきをとりかえましたヨ、ユカタの──、一日に何度かね、わかりませんヨ、かえるそばから汗で──」(『新校本全集』年譜篇p.467)
旅館の仲居さんが、夜中にもまるで看護師さんのように、献身的に世話をしてくれたようです。
このような一夜を過ごし、翌9月21日に東北砕石工場の鈴木東蔵に出した手紙(書簡392)には、次のようにあります。
拝啓 昨日午后当地に着、早速諸店巡訪致し候へ共未だ確たる見込に接せず候。何分の不景気には候へ共、充分堅実に注文を求め申すべく茲三四日の成績を何卒お待ち願上候〔以下略〕
「早速諸店巡訪致し候」と書かれていますが、東京で店を回ったとすれば、前日20日の午後に、旅館から吉祥寺まで往復する途中で寄ったくらいしか考えられません。しかし『新校本全集』年譜篇では、「それなら車代がもっと計上される筈である」ことから、「諸店巡訪は無理な状態であったろう」と推定し、これは事実ではないとの見方を示しています(p.466)。病気を隠すための方便として書いたのでしょうか。
次に、有名な9月21日付け遺書と、弟妹あての言葉です。
この一生どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。
どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。
九月廿一日賢治
父 上 様
母 上 様
たうたう一生何ひとつお役に立たずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。
どうかこの我儘者をお赦しください。賢治
清 六 様
し げ 様
主 計 様
く に 様
この二通の遺書は、投函されることはなく、賢治が花巻に帰ってからも家族に渡されることはありませんでしたが、賢治の死後に「雨ニモマケズ手帳」と一緒に、大トランクの蓋裏のポケットに入っているのが発見されました。「9月21日」という日付が、この2年後の実際の命日と同じであるところに、運命の不思議さが感じられます。
そしておそらく同じこの9月21日に、旅館の人が友人の菊池武雄に連絡したことから、菊池が八幡館に駆けつけました。旅館としても、重病人にそのまま寝込まれて何かあっては困るでしょうから、知人を呼んで何とかしてもらおうと、賢治につてを尋ねたのではないでしょうか。下記は『新校本全集』年譜篇の記述です。
この日と記憶する菊池武雄の談話によると、旅館から勤務先の四谷区四谷第六小学校へ電話があり、「宮沢さんという人が風邪で熱を出して寝ているのできてください」ということであった。菊池は午後三時すぎ学校を出、市電で神保町下車、主婦之友社うらの路地の商人宿をさがしだした。床の間もない殺風景な六畳間にぬれ手ぬぐいを額にのせ、赤い顔をして寝ており、菊池を見るとすぐ手ぬぐいをとり微笑した。ひどい熱だということなので、「花巻のおうちへしらせよう」というと強い口調で「いやそれは困ります。絶対帰りません。しらせないでください」というので菊池はあっけにとられた。「なあに風邪です。すぐよくなります」という。そして「よくなったら、ここから墨染の衣をきて托鉢でもしてまわりますよ」という。また和本やレコードのことを「形見みたいなものだ」ともいう。(p.468)
やはり重要なところは、花巻には「絶対帰りません。しらせないでください」と強く言明しているところで、これが「なぜすぐ帰ろうとしなかったのか」という本日の問題につながります。彼はどうしてこのように頑ななのでしょうか。
9月23日には、病気を知らない鈴木東蔵から手紙が届き、大阪までの出張が無理なら名古屋までは行ってほしい、西ヶ原農事試験場の場長のところも訪問しておいてほしいという、仕事の依頼がきています。
そして9月23~24日頃には、親切な菊池武雄がまた八幡館を訪れ、次のようなやりとりがあったということです。
一方菊池武雄は賢治のことばを考え、花巻へ帰りたくない、東京で療養し、暮らしたいのだろうと判断、自分の住む吉祥寺界隈ならば武蔵野の風情も濃く、空気もよし、療養にもってこいと夫婦ともども相談、手ごろな小さな貸家をさがしまわり、その報告をもって再度八幡館を訪れた(二一日から二、三日後との菊池の記憶)。賢治は相変わらず赤い顔をして寝ており、健康で病気知らずの菊池には赤い顔ならさほど悪いとは思えず、手ごろな家が見つかったとしらせた。すると賢治は「菊池さん、そんなにわたしのことを心配してくれなくてけっこうです。第一それほどご厚意をいただくほどあなたと深い関係じゃないのですから」と言った。菊池は一瞬ムッとした。花巻へは絶対帰りません、と聞いたからせっかく探したのである。(年譜篇p.469)
菊池ならずとも、賢治がいったい何を考え、どうしたかったのか、理解に苦しむところです。
そしておそらくこの少し後の時期ではないかと思うのですが、賢治は「兄妹像手帳」に、自らの今後の身の振り方についての方針を、下のようにメモしています。
これを横書きでテキスト化すると、下記のとおりです。
廿八日迄ニ熱退ケバ
病ヲ報ズルナク 帰 郷
退カザレバ費ヲ得テ
(1) 一月間養病
(2) 費ヲ得ズバ
走セテ帰郷
次生ノ計画ヲ
ナス。
すなわち、もしも9月28日までに熱が引いたら、病気のことは伏せたまま帰郷する。
もしそれまでに熱が引かなかったら、(1)金が工面できたら1か月間(東京で)療養する。(2)金が工面できなかったら急いで帰郷し、次生の計画を立てる、というわけです。
「9月28日」を判断の分岐点にしているのは、「恐らく持参した旅費の関係」だろうというのが『新校本全集』年譜の見方で、実際(1)(2)の分岐も、金の工面ができるか否かにかかっています。9月21日に菊池に「托鉢でもしてまわりますよ」と言ったのも、別に酔狂ではなくて、そうでもして金の都合を付けないと、長く東京滞在ができなかったからでしょう。この時の闘病は、時間と金との戦いでもあったようです。
ここでも注目しておくべきは、もしも熱が引いたら、病気のことは伏せたまま帰郷する、としている点です。やはり病気を秘密にすることに、とにかく賢治はこだわっているのです。
しかしこの方針に少し変化が起こるのは、9月25~26日に鈴木東蔵にあてた書簡395です。
実は申すも恥しき次第乍ら当地着廿日夜烈しく発熱致し今日今日と思ひて三十九度を最高に三十七度四分を最低とし八度台の熱も三日にて屡々昏迷致し候へ共心配を掛け度くなき為家へも報ぜず貴方へも申し上げず居り只只体温器を相手にこの数日を送りし次第に有之今后の経過は一寸予期付き難く候へ共当地には友人も有之候間数日中稍々熱納まるを待ちてどこかのあばらやにてもはいり運を天に任せて結果を見るべく恢復さへ致さば必ず外交も致し或は易にありし様十一月頃は多分の注文を得るやも知れず小生のことはどうせ幾度死したる身体に候間これ以上のご心配はご無用に、且つ決して宅へはご報無之様願上候
ここでは従来の態度をやや軟化させて、初めて鈴木東蔵に病気のことを知らせるのですが、「申すも恥しき次第乍ら……」という言葉が目を引きます。賢治は自分の病に対して、相当の「恥の意識」を抱いている様子なのです。そして、自宅の方には、「且つ決して宅へはご報無之様願上候」と、やはり絶対に知らせないようにと釘を刺しています。
「どこかのあばらやにてもはいり……」と書いているのは、上の手帳に記した方針メモの、「(1)一月養病」という部分に該当しそうですし、さらに9月23~24日に菊池武雄が提案してくれた、「小さな貸家」を借りるという方法にも沿っています。
ここで、菊池から貸家を提案されたことと、手帳に「費ヲ得テ/一月養病」と方針をメモしたことと、どちらが時間的に先だったのかと考えてみると、もしもすでに1か月療養という方向性を考えていたところに、菊池が吉祥寺の貸家の物件を教えてくれたのなら、まさに渡りに船ですから、あれほど無碍に断らなかったのではないかと思います。したがって菊池の提案の時点では、まだ貸家のことは賢治にとって想定外だったのではないかと推測します。
また9月21日までさかのぼると、菊池に「ここから」托鉢でもしてまわると言っているので、賢治は当初は旅館から出て部屋を借りるとは考えていなかったところ、菊池の提案を聞いてあらためて考えてみると、1か月も滞在するなら旅館の連泊よりも貸家の方がはるかに安いことに、思い至ったのではないでしょうか。
また、手帳メモでは、もしも9月28日までに熱が引けば病気のことは伏せて行動することにしていたのに、9月25~26日の鈴木東蔵あての書簡395で病気のことを知らせているのは、手帳に記した当初の方針を転換したことになります。鈴木に告げた後に、手帳に「病ヲ報ズルナク」という方針を書くことはありえませんので、手帳メモの方が書簡395よりも、時間的に先だったということになります。
以上から、賢治が手帳に「廿八日迄ニ熱退ケバ……」の方針メモを書いた時期を推測してみると、それは9月23~24日の菊池の訪問よりは後で、25~26日の鈴木東蔵あて書簡395を書いたよりは前だったのではないでしょうか。
そしておそらく9月26日には、八幡館で医師の往診を受けたことが、八幡館から鈴木東蔵あての書簡から推測されています。賢治の様子から考えると、自分から希望して受けたというよりも、旅館側が見るに見かねて手配したのではないかと想像します。医師からは、花巻の家に帰って治療を受けるよう勧められたということで、当然のアドバイスかと思われます。
そしてついに、9月27日の昼頃、賢治は旅館から花巻の自宅に電話をかけ、「もう私も終りと思いますので最後にお父さんの御声を……」と言ったのです。当然ながら父政次郎は、すぐに帰って来るように厳命し、昔からの友人の小林六太郎に依頼して寝台車の手配をしてもらいました。小林夫人の美代子氏は後に、「……花巻からの電話で、主人と下宿先にいきました。ひどい熱でたいへん衰弱していました。花巻に帰る時は、私も上野まで送りましたが、賢さんは、ほんとうにかわいそうでしたよ……」と語ったということです(年譜p.471)。
この時賢治が、帰ってこいという父の指示に素直に従ったのか、多少はごねたのかはわかりませんが、もうこの時点では、手帳の方針メモにある「廿八日迄ニ熱退ケバ」が実質的に不可能と判断され、かつこの時までに金の工面もできていませんでしたから、フローチャートに従うと「(2) 費ヲ得ズバ」の方の選択肢となり、すなわち「走セテ帰郷」という行動を取ったのだろうと解釈できます。賢治としては、手帳に記していた方針のとおりに動いたとも言えます。
それにしても、父に電話をかけてから24時間後には、もう花巻の自宅で横になっていたというのは、文字どおり「走セテ帰郷」の早業で、これは父や小林氏の迅速な連係プレーのおかげです。
しかしこの間、発熱してすぐに帰郷した場合と比べると、ほぼ1週間が旅館の一室で費やされてしまったわけです。速やかに帰って治療に専念した方が体にはよいと、おそらく賢治も理屈ではわかっていたはずだと思うのですが、この問題が本日のテーマです。
2.帰郷が遅れた理由の推測
ここでは、賢治の帰郷が遅れた理由について、いろいろ仮説を立てて検討してみます。
(1) 回復を期待して待っているうちに長引いた
一つの可能性としては、当初賢治は病状をあまり深刻にとらえておらず、明日になれば良くなるのでは……などと思って様子を見ているうちに、予想外に病状が長引いて、帰郷が遅れてしまったということが考えられます。賢治自身、9月21日には菊池武雄に「なあに風邪です。すぐよくなります」と言っていて、もしも本気でこのように考えていたのなら、判断が遅れるということもありえるでしょう。
しかし、同じ9月21日に賢治は両親あての遺書と弟妹あての別れの手紙を書いており、また菊池武雄に渡した土産のことを、「形見みたいなものだ」と言っています。すなわち賢治は、自分の病状が深刻である可能性を、十分認識していたはずなのです。たとえ軽く済む可能性もあるにしても、少しでも重症化するおそれがあるのなら、大事を取って安全策を選び、治療を最優先に帰郷するのが本来は望ましい行動で、賢治もそのような判断力は持ち合わせていたはずです。
(2) 重症で動けなかったので遅れた
あまりに高熱が続いていると歩くのも大変で、重い荷物を持って駅へ行き、列車に12時間以上揺られるというのはかなりの負担です。無理をすると、病状を悪化させるおそれもあるでしょう。このように、病状の重さのために帰郷が困難だったので、遅れてしまったという可能性も考えられます。
しかし、駅への移動には円タクを使えばよいわけですし、菊池夫妻や小林夫妻など、依頼すれば手伝ってくれる人は東京にもちゃんといます。列車は、小林氏がしてくれたように寝台車を取れば、問題はないはずです。
つまり、病状が理由で帰郷が1週間も遅くなったという可能性も、ちょっと考えられません。
(3) 今回の東京出張が命を懸けるほど重要と考えていた
賢治は、「自分の命を投げ出してでも、他の生き物のために尽くす」という行為を尊び、そのような自己犠牲的な話を多くの作品で描きましたし、自らもそういう考えで生きていたと思われます。
今回の東京出張で、もしも賢治がすぐに帰郷してしまうと、東京で予定していた東北砕石工場の仕事は何もこなせず、会社にとってはマイナスの影響があるでしょう。そこで賢治は、仕事をせず帰郷して会社に迷惑をかけるよりは、無理にでも東京に留まって仕事を進め、たとえそれで自分の命が縮まってもかまわないと考えて、花巻に帰ろうとしなかったのかもしれません。
これはまるで「グスコーブドリの伝記」のような話ですが、ブドリの行動でたくさんの人々の命が救われた物語とは異なって、この時の東北砕石工場の用件が、一人の人間の命を懸けるべき内容のものだったとまでは思えません。この時まで工場の経営はかなり苦しく、化粧石材の販路が東京で開拓できれば一定のプラスにはなるでしょうが、人の命に関わるほどの違いがもたらされるわけではありません。
したがって、賢治がこの時の仕事に命を懸けていて、それで死んでもよいと思っていたから帰郷しなかったのだ、という理由でもなさそうです。
(4) 仕事のためでもなくただ自ら死のうとした
おそらく賢治は子供の頃から、人の痛みに対する鋭敏な感受性や共感性とともに、自分の家が貧しい農民から搾り取った金利で生活していることに、深い罪悪感を抱いていた節があります。このような負い目の意識を、見田宗介氏は〈存在の原罪〉と呼び、それを浄化するためには、自らの存在を焼き尽くさなければならないという〈焼身幻想〉を持つに至ったと、論じておられます(見田宗介『宮沢賢治―存在の祭の中へ』)。
このような心性は、自己犠牲を扱う彼の物語の中に織り込まれるだけでなく、独居自炊生活における極端な粗食・過労や、まだ体調万全ではないままに東北砕石工場技師として無理を重ねるなど、自己破壊的とも思える生活に自らを追い込んだ生き方の底流にも、潜在していたような気がします。今回の東京出張においても、自分の病気の治療をおろそかにするような行動をとってしまった背景には、このような「自分はいつ死んでもよい」という自棄的な衝動が働いているのだと、考えることもできるでしょう。鈴木東蔵あて書簡395にも、「小生のことはどうせ幾度死したる身体に候間これ以上のご心配はご無用」などという言葉を書いています。
たしかに賢治の心の奥に、こういった自分を省みない心性があるのは否めませんし、今回の東京での行動で、菊池武雄に対する対応などを見ても、どこか自棄的な、投げやりな感じも受けてしまいます。
しかし、なかなか東京から花巻に帰ろうとしなかった主な理由が、自ら死のうとしていたからだ、とまでは言えないでしょう。前述の手帳メモを見ても、八幡館で病臥していた賢治の願いは、そこでそのまま死ぬことではなく、熱が引いて何事もなかったかのように花巻に帰れることが、何より最優先だったと思われます。その目的のために、旅館の仲居さんの世話を素直に受け、無理はせぬよう安静を保ち、医師の往診を受けるなど、東京でできる範囲ではなるべく養生を心がけていたのであって、何も意図的に病気をこじらせるようなことをしていたわけではありません。
(5) 親に心配をかけたくなかったから
この「親に心配をかけたくない」という心理は、実際に賢治の中にはかなり強くあったのだろうと思います。
菊池武雄が9月21日に「花巻のおうちへしらせよう」と言った際にも、「いやそれは困ります。絶対帰りません。しらせないでください」と強く断っていますし、9月25~26日頃の鈴木東蔵あて書簡では、鈴木に病気のことを告白した後でも、「決して宅へはご報無之様願上候」と念を押し、とにかく家族に知られることを警戒している様子です。「兄妹像手帳」に書いた今後の方針メモにも、まず冒頭に「廿八日迄ニ熱退ケバ/病ヲ報ズルナク帰郷」とあり、「病ヲ報ズルナク」ということが、何より重要視されているように見えます。
賢治は子供の頃から、病気のことではいろいろ親に心配をかけてきました。自分を看病した父までもが病を得たことは、ずっと父への負い目にもなっていたようです。また賢治が今回の東京出張に出る直前まで、「母イチは体を心配してやめるよう説得するがきかない」(年譜p.464)という状況だった経緯があり、結局このような結果になってしまっては、「あれほど言ったのに」と両親から注意されるのは、目に見えています。2年あまりの深刻な闘病生活から、この年やっと抜け出して両親も安堵したところなのに、また高熱で臥せってしまっては、父母の落胆も相当なものでしょう。
ですから賢治がこの時、自分がまた病気になってしまったことを、できれば両親に知らせたくないと痛切に思っていたのは、確かなことだろうと思います。
ただしかし、いくら親に知らせたくないと言っても、隠し続けることで病状を悪化させたり、命まで危うくしたりするようなことまで、賢治が意図的に行うとは思えません。たとえ隠していても、いずれは明らかになることですし、その時にはお互いにもっと辛い思いをするのだということは、賢治も十分わかっていたはずです。
ということで、いろいろ考えてみた(1)から(5)までの仮説は、賢治がすぐに花巻に帰らなかった理由としては、どれも不適切あるいは不十分なように思われます。
※
……などと書き連ねているうちに、今日は相当長くなってしまいましたので、現時点で私が考えている理由(6)については、また次回にまわしたいと思います。
賢治も、こんな状態になってしまったからには、一刻も早く親に知らせて家に帰った方がよいのだと、頭ではわかっていたはずなのです。それなのに、何かの葛藤を抱えつつ、どうしても親には言えず、帰ることもできないままに、八幡館の殺風景な六畳間で寝込んでしまい、はや1週間が経ってしまったのです。
賢治のその葛藤の中身について、皆さんでしたらどのように推測されるでしょうか。
われらぞやがて泯ぶべき
そは身うちやみ あるは身弱く
また 頑きことになれざりければなり
さあらば 友よ
誰か未来にこを償え
いまこをあざけりさげすむとも
われは泯ぶるその日まで
たゞその日まで
鳥のごとくに歌はん哉
鳥のごとくに歌はんかな
身弱きもの
意久地なきもの
あるひはすでに傷つけるもの
そのひとなべて
こゝに集へ
われらともに歌ひて泯びなんを
『新校本宮澤賢治全集』第13巻(上)p.434より
賢治がこの「兄妹像手帳」を使っていたのは、東北砕石工場技師をしていた1931年9月頃でしたので、上の詩稿は石灰肥料のセールスの合間にでも書きつけたものかと思われます。
「泯ぶ」という難しい字は「ホロぶ」と読み、もともと賢治自身は「汒ぶ」と書いていたのですが、「汒」の字義は「あわただしいさま」で、これでは文意をなさないことから、新校本全集では「泯」の書き誤りと判断して、上記のように校訂しています。
さて、まずここで解釈の難しいのは、三行目の「頑きことになれざりければなり」です。
最初の「頑き」の読み方からしてわかりませんが、栗原敦さんは「われらぞやがて泯ぶべき」(新宿書房『宮沢賢治 透明な軌道の上から』所収)において、次のように考察しておられます。
第三行「頑きことになれざりければなり」の「頑き」は「カタクナき」と読ませているのだろうか。そうであれば、病弱だったり弱い身体の持ち主であったり、また頑なさ、(世間や周囲にあたりまえの)頑ななふるまいや扱いに自ら慣れなかったからなのである、というくらいの意味になろう。純粋ゆえの傷つきやすさをいうわけだ。(上掲書p.285)
一方、YouTube にアップされている朗読には、これを「カタきこと」と読んでいるものもあります。
辞書的には、「頑き」を「カタき」と読むという訓は見当たらず、「頑」を形容詞として読むならば、「カタクナしき」にならざるをえないのかと思います。
『精選版 日本国語大辞典』には、次のようにあります。
かたくな-し【頑】《形シク》
①すなおでなく、ひねくれている。不適当な考えにいつまでも固執している。強情である。意地っぱりである。
②物事を理解してそれに応ずることができない。融通がきかない。おろかである。物わかりが悪い。気がきかない。
③教養がなく見苦しい。情趣がなくぶこつである。いやしい。不体裁である。
この①にあるような、「(周囲の人の)強情な振る舞い」に「慣れない」ので、精神的に傷ついてしまう、というのが栗原さんの提案しておられる解釈でしょう。
ここで私がふと連想するのは、賢治が下根子桜での農作業で無理をして体を壊してしまった際に、「金持ちの坊ちゃんが慣れない百姓仕事なんかするからだ」などと、周囲から嘲られていたという話です。この逸話の「重労働に慣れないから……」というところが、「頑きことになれざりければ……」に通ずるように思うのです。
また、ここをそのように解釈すれば、実際にこのことで賢治は嘲られていたということなので、七行目の「いまはこをあざけりさげすむとも」という表現とも、辻褄が合います。
ただ、ここの「頑きこと」を「カタクナしきこと」と読むと、上に見た『精選版 日本国語大辞典』の語義からはややずれてしまい、このような解釈は難しくなってしまいます。そこでここは、辞書的な読み方からは外れてしまいますが、「カタきこと」と読むことにして、「難きこと=困難なこと」を意味すると考えれば、「重労働に慣れないから……」と解釈することもできるのではないでしょうか。
つまり、二~三行目は、「それは病気になったり、体が弱かったり、重労働に慣れなかったりするためだ」と、読むこともできるのではないかと思います。
※
あと、もう一つ解釈が難しいのは、五行目の「誰か未来にこを償え」です。賢治が、何かを「償え」と人に求めるのは、非常に珍しいことだと思いますが、これはいったい何を「償え」というのでしょうか。
思えば最近も「贈与と交換のエートス」という記事に書いたように、賢治は何であれ「無償で」行動することを好み、童話においてもそのような主人公を、特徴的に描きました。「グスコーブドリの伝記」でも、「銀河鉄道の夜」でもそうです。「「ツェ」ねずみ」には、「
おそらく賢治は、自分の家が貧しい農民から搾り取った金利で生活していることに罪悪感を抱いていて、まるで生まれた時から「負債」を背負っているかのような感覚さえ持っていたのではないでしょうか。これを見田宗介氏は、〈存在の原罪〉と呼んでいました。
このような自己意識が、さそりやよだかのような「他の命を取ることで生きている存在」に投影される時、「死ぬことによってやっと償いを果たす」という形になります。
これは、ここに見られる他者への償いの要求とは、真逆の構図です。
この「誰か未来にこを償え」について、再び栗原敦さんの解釈を参照すると、次のように記しておられます。
「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」の第四、五行「さあらば 友よ/誰か未来にこを償え」は、言うまでもなくわれらの犠牲に補償を与えよという意味ではない。「やがて泯ぶ」ことによってわれらが充分に果たし得なかったところを「友よ」補って果たせというのである。あまりに弱く傷つきやすかったために、途半ばにして倒れねばならなかったわれらに代って──。(上掲書p.291)
たしかに栗原さんの指摘のとおり、この部分の意味は「われらの犠牲に補償を与えよ」ではありえないでしょう。各自の病気等で早逝する「われら」に対して、「友」が補償をすべき筋合いは何もありませんし、賢治がそんなことを求めるとも思えません。
一方、栗原さんが呈示する「われらが充分に果たし得なかったところを補って果たせ」という解釈は、十分に説得力のある穏当なものと思えます。
ここで、この箇所の意味についてもう少し掘り下げるために、「誰か未来にこを償え」の「こ」は何を指しているのか、すなわち作者は「何を償え」と言っているのか、という点について考えてみます。
栗原さんの解釈では、「こ」は一行目の「われらぞやがて泯ぶべき」を指しているということになるでしょう。「我々はまもなく死んでしまう」ので、その志を引き継ぐことにより、「我々の死を埋め合わせてくれ」というわけです。
一方、「こ」の指示内容が、二~三行目の「身うちやみ あるは身弱く/また 頑きことになれざりければ」という部分だとすれば、「我らの弱さを償え」ということになります。しかし、我らが弱いのは誰かのせいというわけではありませんから、それを「償え」というのは、やはり「われらの犠牲に補償を与えよ」と同じく、不当な要求のように思われます。
以上、五行目の「こ」が指す内容を、四行目より前に探すならば、上の二通りしか見つかりません。しかしここで、目を次の六行目に進めると、「いまこをあざけりさげすむとも」とあって、「いまは〇〇だとしても、未来にはこれを償え」という形で、「いま」と「未来」を対置する構造になっているのではないかと思われます。この二行は、「いま」の「〇〇」という事柄を、「未来」において「償え」、という趣旨の内容を、倒置法で述べているのではないでしょうか。
だとすれば、「こを償え」の「こ」が指しているのは、六行目の「あざけりさげすむ」だということになります。
そして、五行目の「いまこをあざけりさげすむとも」の方の「こ」が指しているのは、二~三行目の「身うちやみ あるは身弱く/また 頑きことになれざりければ」と考えられますので、結局この二行の倒置を本来の順序に戻してみると、「今は我らの弱さを嘲り蔑むにしても、未来にはその行いを、誰かが償え」ということになります。
……というような解釈が、理屈の上ではありえるのかと思うのですが、しかしそれにしても、「いま」行われている嘲りや蔑みを、「未来」において「償う」ことなど、はたしてできるものなのでしょうか。
ここで私が連想するのは、「虔十公園林」です。
このお話の主人公の虔十は、周りから「少し足りない」と思われている人で、その意味では、やはり本日の「われら」に連なる「弱者」です。子供たちにとっても、虔十は「ばかにして笑ふ」対象でした。そんな虔十は、ある秋にチブスにかかって、あっけなく死んでしまいます。
ところが虔十の死後、彼が植えた美しい杉林の真価を、アメリカ帰りの偉い博士が認め、それを「虔十公園林」と命名するのです。その名を刻んだ立派な石碑も建てられ、そして「昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしてゐる人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました」という結果になります。
ここにおいて、生前の虔十に対してなされた嘲りや蔑みは、博士の主導で「償い」を得て、汚名は挽回されたと言ってよいのではないでしょうか。
それと同じく、この「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」において賢治は、自分を含めた「身弱きもの」たちに対して投げつけられる嘲り蔑みを、そのまま許容しておくことはできず、虔十のように何とかして名誉回復がなされるべきだと、思わずにいられなかったのではないでしょうか。
やはり東北砕石工場技師時代に賢治が使っていた「王冠印手帳」には、「病めるがゆゑにうらぎりしと/さこそはひとも唱へしか」とか、「農民ら病みてはかなきわれを嘲り……」とか、「あゝあざけりと屈辱の/もなかを風の過ぎ行けば……」などの下書きがあり、これらは文語詩「〔商人ら やみていぶせきわれをあざみ〕」(「文語詩稿 一百篇」)にも至ります。
この時期に、農民や商人から賢治の病弱な身に浴びせられた嘲りは、彼を深く傷つけていて、自分や同じような立場の者が負ったこういう傷が、未来においていつかは癒されることを、賢治は願わずにいられなかったのではないかと、私は想像するのです。
※
さて話は変わりますが、「死」とは基本的に一人で向かうものですし、きわめて孤独な出来事です。賢治の作品に登場する「死」も、個別単独のものとして描かれており、カムパネルラも、グスコーブドリも、小十郎も、さそりも、きつねも、皆そうです。
これに対して、「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」において、まるで「われら」が一緒に手を携えるかのように、「ともに泯びなん」として死が詠われているのは、かなり特異なことと言ってよいでしょう。
それでは、ここで賢治が「自分と一緒に亡びよう」と呼びかけている「われら」とは、いったいどういう人たちなのでしょうか。
ここで参考になるのが、この文語詩稿と同じ「兄妹像手帳」の少し後に記されている、「〔よく描きよくうたふもの〕」という文語詩稿です。
それは、次の二行だけの断片です。
よく描きよくうたふもの
なにとてかくは身よはきぞと
「よく描きよく歌う者は、どうしてこんなに体が弱いのか」という内容で、本来ならこの後にも続いていくはずだったのでしょうが、「(絵や歌の上手な人など)美に生きる者は、えてして病弱だ」ということを言っているようです。「佳人薄命」とか「才子多病」などの言葉が思い浮かびます。
このような人は、その弱さゆえにばかにされることがあるかもしれませんし、皆より早く世を去らざるをえないでしょうが、「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」ではそのような薄幸の人たちに対して、「ともに歌ひて泯びなんを」と呼びかけているのだろうと思われます。
具体的にどんな人のことだろうかと想像してみると、たとえば歌やヴァイオリンが上手で、賢治たち兄弟妹に讃美歌を教えてともに歌い、若くして死んだ妹トシは、誰よりもこの「われら」にぴったり当てはまる感じです。彼女は女学生の頃に、心ない噂で辱められたこともありました。
あるいは、上にも見たように「虔十公園林」の虔十もそうです。彼もまた類い稀な美的感受性の持ち主でしたが、歌や絵ではなくて美しい公園林を、その作品として残しました。
また、賢治が好きだったフィンセント・ファン・ゴッホも、晩年は精神病者として様々な嘲りと蔑みを受け、認められないままに亡くなりました。彼の場合は、没後に得た世界最高級の評価によって、とりあえず名誉の回復はなされたとも言えるでしょう。
その他では、やはり失意のうちに亡くなった石川啄木なども、ここに連ねてもよいのかもしれません。また当時の賢治の周辺には、今となってはあまり知られていなくても、こういう人々はそれなりにいたのではないでしょうか。
このような、美を愛しつつ早逝した人、生前には評価されず苦しんだ人々への、心からの慈しみを込めて、賢治は「ともに歌ひて泯びなんを」と詠ったのではないでしょうか。これは「共生」ならぬ、「共死」の歌とも言えます。
※
あともう一つ、これが賢治の作品として非常に珍しいのは、他の全ての作品のように「人のために役立って死ぬ」のではなくて、ただただ滅びに身を任せ、他人のためではなく自分たちのために、歌いつつ死んでいこう、とする態度です。
賢治の父親は、「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。なにか考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんかを折角ひねくりまわすとは不届千万」(保阪嘉内あて書簡154)などと賢治を叱責した人ですし、母親も「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」といつも言っていたということです。このような両親の薫陶のおかげで、賢治はいつも必死で、とにかく「人のためになる」ことを考え、作品においてもそのような生き方を描いてきました。
しかしこの「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」においては、そのような倫理的態度は忘れてしまったかのように、ひたすら「鳥のごとくに歌はんかな」と綴るのです。これは、ただ「美しいもの」を愛でようとする、「耽美的態度」と言ってよいでしょう。
「錦絵なんかを折角ひねくりまわすとは不届千万」と断じた父親は、「美」というものが持つ底知れぬ魅惑を、結局最後までわかってくれませんでしたが、そんな父の価値観からは全く解放されて、ただ歌いながら滅んでいこうと、仲間たちに呼びかけているわけです。
この作品が書かれた後、まだ2か月もしないうちに、こんどは賢治は「〔雨ニモマケズ〕」を書くのですが、ここにはまた180度違う価値観が描かれているのが、何とも興味深いところです。
※
ということで、今日は「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」という、手帳に残されたメモ的な文語詩稿について、あれこれ勝手な思いつきを書いてみました。
以上のような独断と偏見に基づいて、下記にこの作品の口語訳を試みました。
作品全体は、「われら」について語る一~六行目、「われ」の思いを述べる七~十行目、また「われら」に呼びかける十一~十六行目、という三部構成になっていますので、部分ごとに分けています。
]]>私たちはやがて亡びるだろう。
それは病気のためだったり、もともと体が弱かったり、
重労働に慣れなかったりするためだ。
だから友よ……
私たちのそんな弱さを、たとえ今は嘲り蔑むにしても、
未来には誰か、この汚名をそそいでくれないか。私は亡びるその日まで、
ただその日まで……
鳥のように歌おう、
鳥のように歌うのだ。体の弱い者、
意気地のない者、
あるいは傷ついた者……。
そんな人たちはみんな、
ここに集まれ。
私たちはともに歌い、ともに亡びようではないか。
岩手県の反当たり米収量の推移
グラフの左半分で目立つ三つの大きな「谷」は、0.45石が1902年の「明治35年凶作」、0.39石が1905年の「明治38年凶作」、0.92石が1913年の「大正2年凶作」で、これらの年の岩手や東北における惨状は、若い賢治にも強い衝撃を与えたことでしょう。
一方、グラフの右半分には、そこまで大きな「谷」は出現しなくなり、とくに1917年以降は、反当たり収量は2石以上の年が大半を占めるようになっています。これは、賢治も含めた農業関係者の努力によって、米の品種改良や肥料の改善が推し進められた成果と言ってよいでしょう。
賢治が生涯をかけた願いは、徐々に実現されていったわけです。
※
ただそれでも、右半分にも時々落ち込む年は見られており、これを上のグラフでは、①、②、③として表示しました。
今日は、これらの不作の年の作況が、賢治の作品でどのように描写されているのかということを、順に見てみます。
① 1923年
1923年は、岩手県の反当たり収量が久々に2石を切って1.96石となっていますが、この年の賢治の作品には、気象状態を心配する様子が見てとれます。
まず、1923年8月1日付けの「津軽海峡」には、次のような箇所があります。
(天候のためでなければ食物のため、
じっさいべーリング海峡の氷は
今年はまだみんな融け切らず
寒流はぢきその辺まで来てゐるのだ。)
これは、恩師関豊太郎博士の説にあるように、東北地方太平洋岸で寒流が優勢になることによって、稲の実りが悪くなることを心配する描写です。
また同年8月2日付けの「宗谷挽歌」には、次のような箇所があります。
(根室の海温と金華山沖の海温
大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)
「大正二年」というのは上でも触れた凶作の年で、やはり春頃の寒流の影響で根室沖や金華山沖の海温が低いと、夏の陸地の気温が低くなり収穫量が減少するという、遠藤吉三郎の「東北地方ノ稲作ノ豊凶ト海流トノ関係 其一」の説を根拠としているようです。
ただ、このような夏季の低海水温にもかかわらず、幸いこの年は「不作」と呼ばれるまでには至らなかったようです。
② 1926年の不作
1926年は、賢治が農学校教師を辞めて、自ら農耕生活を始めた年です。
この年の岩手県の反当たり収量は1.77石で、1916年に1.69石だった以来10年ぶりの不作になったのですが、自分自身で農業を始め、近隣の農民たちへの肥料指導も本格化させた年に、ちょうど悪天候に見舞われたというわけです。
仙台管区気象台編『東北地方の氣候』には、この年の岩手の気象について次のように記されています。
岩手不作、凍害五月十四、十六、十七日 県北地方、岩手山晩雪六月十二日(同書p.71)
このような状況で、秋の実りがどうなるか、皆が心配していたことと思われますが、この年9月23日の日付のある「秋」という作品では、上鍋倉地区の農民たちが集まって待っている場所へ、賢治が出向こうとしているところが描かれています。
下に、その全文を引用します。
秋
一九二六、九、二三、
江釣子森の脚から半里
荒さんで甘い乱積雲の風の底
稔った稲や赤い萓穂の波のなか
そこに鍋倉上組合の
けらを装った年よりたちが
けさあつまって待ってゐる恐れた歳のとりいれ近く
わたりの鳥はつぎつぎ渡り
野ばらの藪のガラスの実から
風が刻んだりんだうの花
……里道は白く一すじわたる……
やがて幾重の林のはてに
赤い鳥居や昴 の塚や
おのおのの田の熟した稲に
異る百の因子を数へ
われわれは今日一日をめぐる青じろいそばの花から
蜂が終りの蜜を運べば
まるめろの香とめぐるい風に
江釣子森の脚から半里
雨つぶ落ちる萓野の岸で
上鍋倉の年よりたちが
けさ集って待ってゐる
5月や6月に冷え込んだこの年は、上記7行目のように農民たちにとっては「恐れた歳」だったのでしょうが、3行目の「稔った稲」という描写を見ると、結果は思ったよりも良かったのかもしれません。下書稿(二)には、「押し歩いたりわらったりして待ってゐる」と、農民たちの明るい様子も記されています。
そして賢治は、自分を待ってくれていた農民たちと一緒に、地区の田圃をまわったのだと思われます。作品全体の雰囲気を見ると、この日の集まりは賢治にとって、ほっとして勇気づけられるものだったのかもしれません。
③ 1931年の不作
これに対して、賢治が東北砕石工場技師をしていた1931年は、より深刻な不作となったようです。
この年の岩手県の反当たり米収量は1.66石で、1.64石だった1914年以来の低さでした。仙台管区気象台編『東北地方の氣候』には、次のように書かれています。
岩手、早春積雪異常に多く四月以降気候不順 六、七月引続き低温、多雨、稲の成育全く不良となり八月に盛岡を中心として豪雨、洪水あり被害多く遂に一部不作となる。(同書p.71)
賢治はこの年の2月末から、東北砕石工場の石灰肥料を売り込むために、岩手県内や宮城県の各地を訪問してまわるのですが、ちょうどこのような仕事を始めた年に、近年なかったような不作に襲われたというのは、何とも不運なことでした。
賢治がこの年の9月~10月頃に使用していた「兄妹像手帳」には、全国の収穫量平年比の予想と思われる、下のような書き込みがあります(『新校本宮澤賢治全集』第13巻(上)p.419より)。何らかの記事等から、抜き書きしたものでしょうか。
上記を活字化すると、下のようになります。
収穫を前にして、賢治が心配していた様子がうかがわれます。
そしてこの「兄妹像手帳」には、「補遺詩篇Ⅱ」として分類される詩の下書きがいくつも書かれているのですが、その中にも不作を憂える表現が、数多く散見されます。直接的に不作の様子を表している箇所には、下線を引いてみました。
まずは、「小作調停官」。
小作調停官
西暦一千九百三十一年の秋の
このすさまじき風景を
恐らく私は忘れることができないであらう
見給へ黒緑の鱗松や杉の森の間に
ぎっしりと気味の悪いほど
穂をだし粒をそろへた稲が
まだ油緑や橄欖緑や
あるひはむしろ藻のやうないろして
ぎらぎら白いそらのしたに
そよともうごかず湛えてゐる
このうち潜むすさまじさ
〔後略〕
次に、「〔丘々はいまし鋳型を出でしさまして〕」。
丘々はいまし鋳型を出でしさまして
いくむらの湯気ぞ漂ひ
蛇籠のさませし雲のひまより
白きひかりは射そゝげり
さてはまた赤き穂なせるすゝきのむらや
Black Swan の胸衣ひとひら
雲の原のこなたを過ぎたれ
ことし緑の段階のいと多ければと
風景画家ら悦べども
みのらぬ青き稲の穂の
まくろき森と森とを埋め
〔二字空白〕のさまの雲の下に
うちそよがぬぞうたてけん
あゝ野をはるに高霧して
イーハトヴ河
ましろき波をながすとや
あるいは「ゴッホのひまわり」が倒れている「〔黒緑の森のひまびま〕」。
黒緑の森のひまびま
青き稲穂のつらなりて
そら青けれど
みのらぬ九月となりしを
あまりにも咲き過ぎし
風にみだれて
あるひは曲り
あるは倒れし
Helianthus Gogheana かな
また、二百二十日を過ぎても青く立ちつづける稲を描いた、「〔さあれ十月イーハトーブは〕」。
さあれ十月イーハトーブは
電塔ひとしく香氛を噴く
雲ひくくしてひかると云はゞ
なほなれ雲に関心するやと
闘ひ勇める友らそしらん……えならぬかほりときめくは
いかなる雲の便りぞも……
白服は
八月に一度洗って
またうすぐらくすゝけたし
二百二十日を過ぎたのに
稲は青くて立ってるよ
このような年の9月19日に、賢治は化粧石材を詰めた重いトランクを持って、東京に出張しました。そして旅先で病に倒れ、一時は死をも覚悟したものの、9月28日にかろうじて花巻に帰り着きます。
それから賢治は、長い病床に就くことになりました。そしてまもなく、11月3日に手帳に書いた「〔雨ニモマケズ〕」に、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ……」とあるのは、上で「西暦一千九百三十一年の秋の/このすさまじき風景を/恐らく私は忘れることができない」と記した際の悲痛な気持ちを、相当に映しているのではないかと思う次第です。
]]>最初の三毛猫は、「わたしはどうも先生の音楽をきかないとねむられないんです」という理由で、シューマンの「トロイメライ」をリクエストするのですが、手土産としてトマトを持参していました。
司修「セロ弾きのゴーシュ」
「これおみやです。たべてください。」三毛猫が云ひました。
ゴーシュはひるからのむしゃくしゃを一ぺんにどなりつけました。
「誰がきさまにトマトなど持ってこいと云った。第一おれがきさまらのもってきたものなど食ふか。それからそのトマトだっておれの畑のやつだ。何だ。赤くもならないやつをむしって。いままでもトマトの茎をかじったりけちらしたりしたのはおまえだろう。行ってしまへ。ねこめ。」
すると猫は肩をまるくして眼をすぼめてはゐましたが口のあたりでにやにやわらって云ひました。
「先生、さうお怒りになっちゃ、おからだにさわります。それよりシューマンのトロメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」
「生意気なことを云ふな。ねこのくせに。」
たしかに何とも生意気な猫の物言いですし、ゴーシュの畑から勝手に取ってきたトマトでは、演奏をお願いする対価にはなりません。
昼間の練習で楽長から怒られてむしゃくしゃしていたゴーシュは、その鬱憤をぶつけるかのように、「トロイメライ」ではなくて「印度の虎狩り」という猛烈な嵐のような曲を弾き、猫をこてんぱんにやっつけてしてしまいます。
次の晩にやってきたかっこうは、外国へ行く前に「ドレミファを正確に」歌えるようにしておきたいということで、「かっこう」というフレーズを繰り返し何度も弾くよう、ゴーシュに頼みました。
この晩もゴーシュは、最初のうち乗り気ではありませんでしたが、かっこうの熱意に押される形で、調弦の後「かっこうかっこうかっこう……」と弾いてやりました。かっこうは「たいへんよろこんで」一緒に歌い、さらに二人で合奏を続けました。しかしいつしかゴーシュは、「ふっと何だかこれは鳥の方がほんたうのドレミファにはまってゐるかなといふ気がして」きて、途中でやめてしまいます。
結局、かっこうは不満を残したまま飛び去ることになりますが、それでも二人は暫くの時間、正しい音程を探すための共同作業を行ったのです。
三日目の晩に来た狸の子は、小太鼓の演奏をセロと合わせてほしいと言って、「愉快な馬車屋」という楽譜を持って来ました。この日も最初ゴーシュは狸汁などと言って脅してみましたが、じきに狸の子の無邪気さにほだされて、合奏を始めます。
実際に合わせてみるとなかなか面白く、また狸の子からは、特定の弦を弾く時にタイミングが遅れることを指摘されました。それは粗末な楽器のせいでもあるようでしたが、二人は夜明けまで懸命に合奏を続けました。
最後四日目の晩にやってきた野ねずみの親子は、ゴーシュのセロの振動が子供の病気の治療によいからと言って、演奏を懇願します。この日はゴーシュも嫌がらずに、子ねずみをセロの胴の中に入れて演奏してやり、そのおかげで子ねずみは元気になった様子です。おまけにゴーシュは、平身低頭して帰ろうとする親子に、パンのかけらも持たせたのでした。
※
以上の四晩の、ゴーシュと動物の間のやり取りの結果をまとめると、三毛猫はゴーシュに希望の曲を弾いてもらえず、逆に酷い目に遭わされてしまいました。
かっこう、狸の子、野ねずみは、多少の程度の差はあれ、結果的にはそれぞれが希望した演奏をゴーシュにしてもらうことができました。
それでは各訪問者は、自分の希望をかなえてもらうために何をしたのかというと、三毛猫だけは、ゴーシュへの手土産としてトマトを持参していました。
かっこう、狸の子、野ねずみは、特に何も対価は提供せずに、ただゴーシュに演奏をお願いしたのでした。頼まれたゴーシュの方は、最初はあまり気乗りしない様子を見せながらも、結果的にはそれぞれの動物の希望に合わせた演奏をしてやりました。
すなわち三毛猫は、ゴーシュからセロの演奏というサービスを提供してもらうための対価として、ゴーシュに品物を提供するという「交換」を申し出たにもかかわらず、失敗に終わりました。これに対して、かっこう、狸の子、野ねずみは、自らはゴーシュに何も提供せずに、ただ相手の好意に甘えて無償で演奏をしてもらうという「純粋贈与」を求めた結果、成功したのです。
(結果的にゴーシュは、かっこう、狸の子、野ねずみとのやり取りを通して、様々な「気づき」を得て成長を遂げるので、終わってみればゴーシュの方でも対価を得たということができますが、これはあくまで結果論にすぎず、演奏を行う時点では「無償奉仕」だったのです。)
さて、種々のサービスが商品として流通している社会において、何らかのサービスを提供してもらいたいと希望するならば、一般的には無償奉仕を頼むよりも、サービス提供者にその対価を提供すること=「交換」を提案する方が、成功しそうなものです。それにゴーシュは、いくら「あんまり上手でない」と言っても、町の活動写真館でセロを弾いて報酬を得ている「職業音楽家」なのですから、なおさらでしょう。
ところが、この「セロ弾きのゴーシュ」というお話においては、「交換」を試みようとした三毛猫は失敗し、「純粋贈与」を求めたかっこう、狸の子、野ねずみは成功するという結果で、常識的な予想とは逆になっているのです。
もちろん、三毛猫の態度は生意気でしたし、対価として提供しようとしたトマトはゴーシュの畑のもので、まだ熟してもいない代物でしたから、ゴーシュがこの「交換」を拒絶したのは、当然のようにも見えます。しかしそれでは、三毛猫がちゃんと熟したトマトを他で調達して持参していたならば、ゴーシュは気を良くして猫の望み通りの演奏をしただろうかと考えてみると、やはり私にはそうは思えないのです。
この場合の「交換」というのは、下世話な言い方をすれば「金品の力で相手を動かす」ことであり、賢治という人は、そういうこと自体があまり好きではなかったように思うのです。
たとえば、一時の賢治はあちこちの田畑に出張してその土壌を調べ、適切な肥料を設計するという活動を積極的に行っていましたが、その際に農家の人々から対価をもらったことはなく、全て無償でやっていたということです。
あるいは、賢治は若い頃に父から質屋の店番を任されると、「入質に来た人の言うままに金を貸してやって、父に「あれでは店がつぶれてしまう」と叱られた」(小倉豊文「二つのブラックボックス──賢治とその父の宗教信仰」)という有名な話があります。これも、客が持って来た品物を見定めて妥当な金額の質料と「交換」するという、商取引的な行為に対して、賢治が抵抗感を抱いていたことの表れだろうと思います。
つまり、「セロ弾きのゴーシュ」において、「交換」が失敗して「純粋贈与」は成功するという筋書きになっているのは、単なる偶然ではなくて、賢治という人が持つある本質的な特性を反映したものではないかと思うのです。
※
ところで、「トマトを持参したけれども交換に失敗する」と言えば、賢治の作品で印象的なものがもう一つあります。
あのかわいそうなペムペルとネリが出てくる、「黄いろのトマト」です。
小さな兄妹二人だけで何不自由なく暮らしていたペムペルとネリは、ある時にぎやかな町のサーカスに魅せられます。どうしてもサーカス小屋に入ってみたいペムペルは、畑でとってきた黄金のように美しいトマトを入場料として差し出すのですが、番人に罵られてトマトを投げつけられ、周囲の大人たちには笑われて、二人は泣いて帰るのです。
このお話については、詩人で作家の寮美千子さんによる、素晴らしい評論があります。(寮美千子「ペムペルとネリはどうしてそんなにかわいそうなのか――「悲しみの起源の神話」としての『黄いろのトマト』」、『季刊ぱろる4 宮澤賢治といふ現象』 1996年9月)
15歳の時に賢治のこの物語を読んで泣いたという寮さんは、そのタイトルのとおり、「ペムペルとネリはどうしてそんなにかわいそうなのか」という問題を、解き明かしていきます。
まず寮さんは、「黄いろのトマト」とはいったい何だったのかということについて、次のように指摘します。
畑に黄色いトマトが実ったとき、ふたりはそれを「黄金」だと思った。ここでいう「黄金」とは、すばらしいもの、立派なもの、美しいものの象徴だ。それは、その美しさだけで世界から屹立している。美しさはまっすぐにペムペルの心に届き、彼にはそれを感受する能力がある。ネリも兄とともに黄色のトマトの美しさ立派さを共有する。だからこそ、大切にして手も触れなかった。
そう、世界はほんとうは美しいもので満ちているのだ。子どもたちは、それを知っている。風に舞う花びらを掌いっぱいに拾いあつめる。蜘蛛の巣に結んだ銀色の雫に見とれる。海岸で波に洗われていたガラスのかけらを宝物にする。ただ美しいというだけで、そこに絶対的価値を見いだす能力が子どもにはある。「黄色のトマト」は、それら美しいものたちの脊属のひとつだったのだ。
それが価値があるのは、その瞬間、それが輝いているからだ。他に理由はない。珍しい貴重な物だからでも、所有できるものだからでも、他の何かと交換できるからでもない。どんなにありふれていても、どんなにはかなくても、たとえ自分のものにならなくても、なんの役にもたたなくても、きれいなものはきれい、すてきなものはすてき。つまりそれは、存在そのものが輝いているということだ。子どもは、世界の輝きを直に感じとる。存在そのものと、直に交感する。
存在の輝きは、それぞれの固有さから発する。決して何かと「交換」したりできるような類のものではない。何ものとも交換できないということが輝きの本質なのだ。世界のすべては、本来交換不可能なものからできている。すべては、かえがえのない存在だということだ。
つまり本当に貴いものは、それ一つだけのかけがえのないものであり、交換は不可能だったはずなのです。
しかし、サーカスに入りたい一心でペムペルは……。
それなのにペムペルは、そこに交換の原理を持ちこもうとした。「黄金のトマト」を「サーカス見物」などというものと交換しようとしたのだ。確かにそれは魅惑的だった。そう見えるようにつくられているのだから。けれど、遠くからは美しいと思った音楽が、近づいてみれば興ざめな代物だということにペムペルはすでに気づいていた。それなのに、彼はサーカスに魅了された。そのうすっぺらな魅力に捕われて、かけがえのない輝きと交換しようとしたのだ。「黄色のトマト=黄金=お金」という等式を成立させて。
これは決定的な誤謬だった。なぜなら「美しく立派なもの」を意味する「黄金」は、「あらゆるものと交換可能なもの」を意味する「お金=黄金」とは絶対に重ならないものだからだ。(寮美千子「ペムペルとネリはどうしてそんなにかわいそうなのか」)
そんな不可能な「交換」を試みたペムペルは、サーカス小屋の番人に罵倒され、周囲の大人たちには嘲笑されたのです。
やはり賢治は、この「黄いろのトマト」という物語においても、「交換」という行為への根源的な不信を表明しているように、私には思えるのです。
※
それはまた、「なめとこ山の熊」においても感じられます。
山の中ではあれほど気高く勇敢な熊撃ちの小十郎ですが、熊の胆と毛皮を買ってもらうために町の荒物屋に行くと、本当に哀れな様子になってしまいます。
「旦那さん、先ころはどうもありがたうごあんした。」
あの山では主のやうな小十郎は毛皮の荷物を横におろして叮ねいに敷板に手をついて言ふのだった。
「はあ、どうも、今日は何のご用です。」
「熊の皮また少し持って来たます。」
「熊の皮か。この前のもまだあのまゝしまってあるし今日ぁまんついゝます。」
「旦那さん、そう云はなぃでどうか買って呉んなさぃ。安くてもいゝます。」
「なんぼ安くても要らなぃます。」主人は落ち着きはらってきせるをたんたんとてのひらへたゝくのだ、あの豪気な山の中の主の小十郎は斯う云はれるたびにもうまるで心配さうに顔をしかめた。何せ小十郎のとこでは山には栗があったしうしろのまるで少しの畑からは稗がとれるのではあったが米などは少しもできず味噌もなかったから九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもって行く米はごくわづかづゝでも要ったのだ。
里の方のものなら麻もつくったけれども、小十郎のとこではわづか藤つるで編む入れ物の外に布にするようなものはなんにも出来なかったのだ。小十郎はしばらくたってからまるでしわがれたような声で云ったもんだ。
「旦那さん、お願だます。どうが何ぼでもいいはんて買って呉なぃ。」小十郎はさう云ひながら改めておじぎさえしたもんだ。
主人はだまってしばらくけむりを吐いてから顔の少しでにかにか笑ふのをそっとかくして云ったもんだ。
「いいます。置いでお出れ。じゃ、平助、小十郎さんさ二円あげろぢゃ。」店の平助が大きな銀貨を四枚小十郎の前へ座って出した。小十郎はそれを押しいたゞくやうにしてにかにかしながら受け取った。それから主人はこんどはだんだん機嫌がよくなる。
「じゃ、おきの、小十郎さんさ一杯あげろ。」
小十郎はこのころはもううれしくてわくわくしてゐる。主人はゆっくりいろいろ談す。小十郎はかしこまって山のもやうや何か申しあげてゐる。
つまり、小十郎は旦那との間で商品の売買(毛皮と金銭の「交換」)をする場面になると、途端にみじめになってしまうのです。
そして、このような商取引に対する嫌悪感のあまり、思わず作者は「僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないやうないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない」と、わざわざ出てきてコメントせずにいられなかったのでした。
これに対して、小十郎と熊たちが山の中で行っている命のやり取りは、何の見返りも期待しない「純粋贈与」です。小十郎は熊を仕留ると、その傍らで「熊。おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ……」と語りかけますが、すでに死んだ熊に対しては、何の返礼もできません。熊の方でも、「もう二年ばかり待って呉れ」と言った個体などは、ちょうど二年後に小十郎の家の前で自ら死んでいたのです。
そして小十郎は、ある日熊に襲われて殺され、その夜には輪になった熊たちに囲まれて見送られました。しかし結局、熊との間で何も「交換」したことはありませんでした。
ということで、「なめとこ山の熊」においても、賢治は「(商品)交換」には嫌悪感を示す一方、小十郎と熊の間で行われる、恐ろしくも美しい「純粋贈与」の世界を描いたのです。(小十郎と熊の間の「贈与」については、以前に「命の対等な贈与」という記事にも書きましたので、ご参照下さい。)
上記以外にも賢治は、「〔手紙 一〕」で自分の体を人間や虫に与える竜や、「銀河鉄道の夜」のさそりや、「グスコーブドリの伝記」のように、いわゆる「自己犠牲」という形で、自らを無償で他者に贈与するという物語を、いろいろ書いています。このような行為の背景には、自らが抱える罪責感を浄化するために自己をこの世から消し去る「焼身」という衝動を読みとることもできるでしょうが(たとえば見田宗介『宮沢賢治─存在の祭の中へ』)、なぜか「交換」を好まず「贈与」を偏愛する賢治の基本的な性向も、ここに見いだすことができるように思います。
※
前述のように、賢治は質屋の店番をする際にも、妥当な価値を見積もって「交換」するのではなく、相手が必要なだけを「贈与」してしまうような人だったわけですが、いくら賢治が貧しい人々に同情的だったと言っても、家業がつぶれてもよいと思って意図的にそういう活動をやっていたわけではないでしょう。これは理屈の問題ではなくて、なぜか「交換」は苦手で、できることなら「贈与」をしたいというのが、賢治という人の基本的なエートスだったのだろうと思います。
それでは賢治はなぜ、自らこういう行動をとってしまい、また作品にもそういった出来事を描きつづけたのでしょうか。
マルクスによれば、ある対象物が有する「商品としての価値」は、そこに投入された抽象的人間労働の量によって決まるということです。ですから商品を適切な価値の金品と「交換」するためには、その品物を個別的・具象的に見るのではなく、抽象を行う目で見る必要があるでしょう。それは、その商品に投入された労働の量を、普遍的な尺度によって数値化をする眼差しです。
たとえば、農家の女性が一枚の晴着を持って質屋にやって来たとしたら、実はその着物は嫁入りの時に親が無理をして持たせてくれたものだったとか、子供のお宮参りの時に着た思い出の一着だなどということは捨象して、その着物の生地や仕立や経年劣化の程度について、努めて客観的に判定をする必要があります。
そして賢治の父の政次郎は、こういう資質においてはとにかく抜きん出た人だったようです。若くして家業を任されると、質屋の業績を堅実に伸ばしただけでなく、遠く近畿・中国・四国地方にまで出張して、花巻で売れそうな古着を大量に買い付けて来ては売りさばき、宮澤商店を飛躍的に発展させたのです。株の取引にも「鬼才」を発揮し、「私が仏教を知らなかったら三井・三菱くらいにはなれましたよ」と小倉豊文氏に語った言葉は有名です。
一方その息子は、この父親とはまるで正反対で、賢治にとってある対象をとらえるということは、それが持つ個別性・具象性の側面を、あるいは寮美千子さんの言葉をお借りするならば「それぞれの固有さから発する存在の輝き」を、全身全霊をもって感受することだったのです。このような対象の性質は、数字で表せるようなものではない一方で、彼の詩や童話を読めば、その「輝き」が立ちのぼってきます。
ただ、こういう感性ばかりが先に立ってしまうと、世知辛い世の中を生きていくのは、さぞかし大変だったろうと思います。実際に賢治もいろいろと苦労をして、人より恵まれた環境に生まれたくせに、いったい何を甘えたことばかりしているのだとも言われてきました。
それでも、彼が残した物語──その世界では人と人との関わりが、あるいは人と動物との関わりが、「交換」よりも「贈与」によって成り立っている──は、今を生きる私たちが既にすり減らしてしまった感覚を、ありありと蘇らせ、力を与えてくれるように思います。それこそが、賢治の作品が放つ魅力の、大きな要素の一つだとも言えるでしょう。
いま私たちは、「商品交換」にがんじがらめに囚われつつ生きていますが、柄谷行人氏が『世界史の構造』(2010)から『力と交換様式』(2022)に至る一連の著作において、「商品交換」が支配するこの時代の次には、また「贈与と返礼」に基づく「交換様式D」が回帰するのだと言っておられるのは、夢のように不思議な感じがします。その暁には、賢治が描いた世界が、何かの道標になることもあるのでしょうか。
柄谷行人『世界史の構造』より
書籍の目次や内容は、以前の記事「『評釈 宮沢賢治短歌百選』」において紹介していますので、ご参照下さい。
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[評釈]宮沢賢治短歌百選 下 (地人館E-books) Kindle版 宮沢賢治研究会 (著) 地人館 (2023/12/26) Amazonで詳しく見る |
どうか皆様、よいお年をお迎え下さい。
]]> そのおそらく最初は、前回の記事で取り上げた、中学時代の親友藤原健次郎の、1910年の急死でした。
そして1921年夏の東京では、一緒に国柱会に入信するよう強く誘った親友保阪嘉内に、その願いを聞き入れてもらうことができず、嘉内は故郷に帰ってしまい、二度と会うことはできませんでした。
1922年11月には、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」だった妹トシが、若くして世を去ります。
1923年3月には、親しく行き来していた同僚教師の堀籠文之進を、やはり法華経への信仰の道に誘ったのですが、受け入れてもらうことはできず、堀籠の背中を打たせてもらうという行動に出ました。
このように、つらい喪失体験を重ねては苦しんでいた賢治ですが、おそらく1923年の秋頃から1924年初めにかけて、詩集『春と修羅』を推敲し完成させる過程において、大きな思想的転換を果たします。
その転換の一つの側面は、たとえば最近も「「永訣の朝」の生成」という記事に書いたように、身近な特定の人との間で「個別的な幸福や救済を目ざす」という生き方を排して、ただひたすら「全ての人の普遍的な幸福や救済を目ざす」ということを、自らの生きる目的に据えたということです。
言わば、「一」から「全」へ、と言える転換であり、「青森挽歌」の「みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない」という命題に凝縮されています。
またその転換のもう一つの側面は、相手に対して「私のそばにいて」と願い(注)、喪失を避けようとする姿勢を超克して、自分の方から「私はあなたのそばにいる」という行動を積極的にとる姿勢への変化です。
(注) たとえば保阪嘉内に対しては、手紙で「私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を棄てるな」とまで懇願しました。(書簡178)
言わば、「受動」から「能動」へ、あるいは「他力」から「自力」へ、とも言える転換であり、「小岩井農場」の「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」という言葉で表現されます。
そしてこの側面は、先日からの言葉で言い表すならば、「スタンド・バイ・ミー」から、「スタンド・バイ・ユー」への反転とも言えます。
これは具体的には、たとえば「〔雨ニモマケズ〕」の、次の箇所に描写されている行動なのだろうと思います。
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
東、西、南、北と、世界のあらゆる方角で困っている人々に対して、自らその人のそばへ「行ッテ」、相手の力になることを、賢治は目標としました。「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」という部分については、これらの行動は功利的な意味では何の役にも立たないのかもしれませんが、それでも賢治は「その人と共にあること」、すなわち「スタンド・バイ・ユー」を、目ざそうとしていたのだろうと思います。
それは現実の賢治の人生においては、途中で病に倒れてしまったことにより、思ったようには実行できずに終わったのかもしれません。
しかし、「全ての人に対して」、「そのそばに行って寄り添うこと」── 彼が目ざしていたことは、まさに「菩薩」の行いだったと言えるでしょう。
『別冊太陽 宮沢賢治』(2023)p.6より
結局のところ、この4人の2日間の旅は、何か特別なことを達成したわけでもなく、また何かを手に入れたわけでもなく終結し、各自またいつもの日常に帰っていくのですが、それぞれの心の内には、二度と戻らない少年時代の、かけがえのない思い出が刻まれたのでした。
不良だったクリスはその後、進学組に入って努力を重ね、大学を出て弁護士として活躍したということです。ところが、ふと入ったレストランで喧嘩を始めた客を仲裁しようとして、ナイフで喉を刺されて死んでしまうのです。
一方、作家として成功していたゴーディは、長らく会っていなかったクリスの死を報じる新聞記事を見て衝撃を受け、「初めて死んだ人間を見たのは、12歳の時だった…」として、あの夏の出来事を語り始めたのが、映画の冒頭でした。
※
誰しもこのような少年時代の、あるいは少女時代のかけがえのない思い出というのは、甘い切なさとともに心の奥に持っているものでしょうが、それが人生における様々な記憶の中でも、何か特別な輝きに包まれているような感じがするのは、いったいなぜなのでしょうか。
20世紀前半に活躍したアメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァンは、人間の成長過程において、この12歳前後の、まだ異性への関心が目覚める直前の時期に起こる不思議な出来事のことを、「前青春期の静かな奇蹟」と呼びました。
われわれの属する文化においては八歳半ないし九歳半から十一歳半までの年齢の頃に、かつて私が〈前青春期の静かな奇蹟〉(the quiet miracle of preadolescence)と呼んだことのある事態が起る。静かな、というのは外見上全然劇的なこと、手に汗をにぎることがないからである。ここで児童期が終り前青春期が始まることを示す突発的な変化というものはない。大変劇的なものだという話をしてみせる人もいるかもしれないが、事実はすべてがむしろ漸進的なものであり、人格の営みがつづくうちに過去から現在をとおって未来へと流れ入ってゆくという感じである。しかも私があえて前青春期の「奇蹟」と呼ぶのは、誕生以来──いや受胎以来といってさえよいだろうが──初めて、〈伝統的表現を用いれば自己中心性といわれるもの〉から離れて〈完全に社会的である状態〉へと向う運動が起っているからである。(H.S.サリヴァン『現代精神医学の概念』みすず書房p.55)
児童期の子供にも、もちろん「大好きな友だち」はそれぞれいたでしょう。しかし、児童が友だちに対して持つ親愛の情は、「その子と一緒にいたら楽しい」とか「面白いことがある」とか、突きつめてみると「自分にとって都合が良い」という、あくまで自己中心的な感情にしかすぎませんでした。
それが「前青春期」になると、人は自己を超えた「愛」を抱くことができるようになるのです。この変化はその人間にとっては、サリヴァンが「奇蹟」と呼ぶところのまさに画期的なものですが、外見的には「静かな」もので、それは「青春期」の始まりが、様々な第二次性徴によって身体的に特徴づけられるのとは、まったく対照的です。
児童であることが終り、〈前青春期の人間〉(preadolescent)となったという
標識 は愛の能力の初期の形態が現われることである。ここで愛というものの意味を愛がつくり出す対人的な場というものの中に置いて考えてみよう。この時点において、愛とは、ある他者、ある特定の相手が体験する満足と安全とが自分にとって自分自身の満足と安全と同等の重要性を持つようになりはじめる、ということである。(H.S.サリヴァン『現代精神医学の概念』みすず書房p.56)
サリヴァンは、対人関係論的な精神医学のパイオニアでしたが、上記では「愛」という人間的現象の定義として、「ある特定の相手が体験する満足と安全とが、自分にとって自分自身の満足と安全と同等の重要性を持つ」という、ユニークな見方を呈示しています。成長のこの段階において、初めて人間は自己中心性の殻を超越して、「他人のことが自分と同じくらい大切だ」と思えるようになるのです。そしてサリヴァンによれば、この現象こそが「愛」なのです。
「愛」と総称される、この感情的な関係は通常限られた場合においてしか起らない。愛は、その始まりの時点では多くの要素が揃っていなければならない。たとえばよく似ていることが一目でわかるとか、同一方向の衝動をもっているとか身体発育が平行しているなどである。これらの要因によってつくられる対人的な場においては、当然少年は少年を相手とする方が少女を相手とするよりも寛ぎを感じるはずである。この〈同類だという感じ〉すなわち同一視が、前青春期的変化をこうむりつつある者の感じ方を左右する。愛の能力が現われる、そのはじめは同性を対象とするのが普通である。少年の〈親友〉(chum)はやはり少年であり、少女の〈親友〉はやはり少女である。〈親友〉ができると、象徴や象徴操作、人生や世界に関する情報やデータをお互いに照合し確かめあうことになるので、いわば愛のひきおこす波にのって〈共人間的有効妥当性確認〉の行為が頻繁に営まれるようになる。(H.S.サリヴァン『現代精神医学の概念』みすず書房p.57)
今の日本で言えば、小学校5~6年から中学に入る頃に相当する時期に、ことさら異性を排除して同性だけの絆で強く結ばれた〈仲間〉(chumship)が、形成されるようになるのです。
映画「スタンド・バイ・ミー」の4人の少年も、まさにこのような絆を分かち持っていました。時に喧嘩をしながらも、子供ながらに相手のことを思いやり、お互いを尊重することの喜びを、皆が共有していたのです。
愛の対象は自分の安全を脅かしはしない。自分の満足は愛の対象の力によって達成されやすくなる。このため、ひとは生れて初めて自由に自分自身を表現しはじめることができるようになる。自分の相手が自分と同じほど自分にとって大事なものになれば、自然、いままで誰にも話さなかったこともそのひとには話せるようになる。このような、〈満足と安全とにかかわる自分の世界〉が拡大し愛によって連結されて二人の人間を包含するようになることから生れる自由性によって、微妙な含みをもったことばを互いにやりとりすることもできるようになり、また、はねつけられたりはずかしめをうける怖れなしにその意味を訊き返すこともできるようになる。このようになればありとあらゆる種類の事象に関する〈共人間的有効妥当性確認〉の過程が非常に進展する。(H.S.サリヴァン『現代精神医学の概念』みすず書房p.57)
映画「スタンド・バイ・ミー」においてゴーディとクリスは、親にも決して話せないような心の奥の悲しみを、お互いに打ち明けて共有することができました。この貴重な体験によって二人は力を得て、その後自らの世界をその力で広げていくことができたのです。
現代精神医学の概念 ハリー・スタック・サリヴァン (著), 中井 久夫 (翻訳), 山口 隆 (翻訳) みすず書房 (1976/5/1) Amazonで詳しく見る |
※
さて、宮澤賢治にも、ある時期このような「前青春期の親密さ」を共有した親友がいました。彼の名は藤原健次郎と言い、盛岡中学の寮で同室の1年先輩でした。(右写真は、松本隆著『童話「銀河鉄道の夜」の舞台は矢巾・南昌山』ツーワンライフ出版 より)
藤原健次郎は、紫波郡不動村(現矢巾町)の生まれで、責任感が強く、温厚で誠実な性格だったと言われています(上掲書p.64)。12歳の賢治が盛岡中学の寮に入ると、1年生が部屋のランプ掃除を担当する決まりになっており、先輩の藤原が賢治にその掃除の仕方を教える役目でした。「「東京」ノート」には、中学1年1学期の欄に、「寄宿舎の夕 藤原 ラムプ 塩」という書き込みがあり、夕方に藤原と一緒にランプ掃除をしたこと、その際に塩を使ってホヤを磨いたことを、記しているのだと推測されています。
「歌稿〔B〕」の〔明治四十二年四月より〕の項には、この時のことを詠んだと思われる短歌があります。
0g1 キシキシと引上げを押しむらさきの石油をみたす五つのラムプ
0h1 タオルにてぬぐひ終れば台ラムプ石油ひかりてみななまめかし
ところで当時の寮生は、土曜の午後から日曜は親元に帰る者が多かったということですが、賢治の場合は父政次郎が、「お前は中学までしか学校にはやれないのだから、土日も家に帰らず寮に残ってしっかり勉強せよ」という厳しい方針で、帰宅させてもらえませんでした。そのため藤原健次郎は、いつも週末一人で寮に残っているこの下級生を可哀相に思い、土曜日になると賢治を誘って不動村の自宅に泊まらせ、日曜日は一緒に南昌山に登ったり、水晶やのろぎ石を採集したりして、遊んだということです。
賢治にとっては、寂しかった週末が、毎週本当に楽しいひと時になったことでしょう。
0e1 のろぎ山のろぎをとればいたゞきに黒雲を追ふその風ぬるし
0f1 のろぎ山のろぎをとりに行かずやとまたもその子にさそはれにけり
「のろぎ」というのは蝋石の方言で、白く柔らかくて字が書けるので、当時は石筆として用いられていました。二人は「のろぎ」が採れる山を、「のろぎ山」と名づけていたようです。
「歌稿〔B〕」の〔明治四十二年四月より〕の項の各歌は、当時リアルタイムで作っていたのではなく、賢治が後に回想して詠んだ作品なのですが、藤原健次郎のことは「その子」と記されています。石の採集については、「またも……さそはれにけり」と、淡々と描写していますが、鉱物好きで「石コ賢さん」とも呼ばれていた賢治のことですから、石を取りに行こうと誘われると、さぞかし嬉しかったことでしょう。
というより、藤原健次郎は賢治がそれが大好きだと知っていたからこそ、そう言って賢治を誘ったのでしょう。
体も大きくスポーツマンだった藤原健次郎は、中学2年になると盛岡中学野球部の四番バッターとして活躍するようになります。
そして賢治が中学2年の1910年(明治43年)夏に、3年の藤原に宛てた有名な書簡0aは、その書き出しからして、「拝啓 こんなに鉛筆で書かうもんなら学校の選手に対して何ぞその不敬なるなんて怒るかも知れないが不敬なやうで失礼でもないんだから何ともないね」と、まるで先輩を先輩とも思わないような馴れ馴れしい調子で始まります。続いて、「何うだね。遠征中大館に対する時のもやうを書いては」と、野球の話題にも興味を示しています。この夏に野球部は、秋田県の大館中学に遠征して試合を行い、見事勝利を挙げたのでした。
またこの手紙で賢治は、自分が大沢温泉でいたずらをして大騒動になったことを自慢したり、学校の教師の悪口をさんざん言った挙げ句、「来学期は(その教師を)生しておかない。なますにして食ってしまはなくっちゃぁ腹の虫が気がすまねぇだ」などと威勢のいいことを言ったりしています。「スタンド・バイ・ミー」の悪ガキ連中のように、露悪的なことを言いたい年頃なのでしょう。
そして文末には、「大仏さん」という藤原健次郎のニックネームに加え、イラストまで添えているのです。(下画像は『新校本宮澤賢治全集』第15巻口絵より)
ここには、父親の前ではいつも借りてきた猫のように畏まっていたという賢治とは正反対の、弾けきった悪童がいます。賢治にとって藤原健次郎は、まさにサリヴァンが「ひとは生れて初めて自由に自分自身を表現しはじめる」と述べたところの、前青春期の〈親友〉(chum)だったのです。
ところが何ということか、この賢治にとって初めての無二の親友藤原健次郎は、上の書簡の直後、1910年9月に腸チフスに罹って急逝してしまうのです。これほどまで親しくなった友を、突然失った賢治の衝撃と悲しみはいかばかりだったろうかと思いますが、当時の賢治の心境を直接示すような記録や作品は、何も残されていません。
ただ、賢治が農学校教師時代に書いた童話のうちで、「藤原慶次郎もの」と呼ばれている三部作、すなわち「谷」「二人の役人」「鳥をとるやなぎ」という三つの作品には、藤原とともに南昌山あたりの山々を歩いた日々の貴重な思い出が、ひそかに込められているように思われます。
「谷」は、「私」が尋常三年か四年の時に、馬番の理助に連れられて蕈採りに行き、恐ろしい「楢渡の崖」を見せられる話です。翌春に理助は北海道へ行ってしまい、「私」はまたあの秘密の場所に行って蕈採りをしたいと思うのですが、一人では怖いので、親友の「藤原慶次郎」を誘います。二人は何とかその場所にたどり着いて蕈を採り、そしてまた例の恐ろしい崖を目にします。帰り際には、崖とこだまのやり取りをしているうちに本当に怖くなって、二人は必死に山を下りました。
「二人の役人」は、「東北庁長官」という偉い一行が来訪するというので、世話を担当する地方役人が長官をもてなす準備をしようと、あれこれ小細工をするお話です。そこに、蕈を採りに来た「私」と「藤原慶次郎」の二人が出くわして、ユーモラスなやり取りをするのですが、子供たちは役人に捕まるのではないかとビクビクしながらも、大人の世界の滑稽さと卑小さを、彼らなりの視点で見透かしています。
「鳥をとるやなぎ」は、「
この作品には、「私たちはあまのじゃくのやうな何とも云へない
それにしても、二人の少年が幻滅して帰途についたにもかかわらず、大人になった「私」が記す物語の最後が、「けれどもいまでもまだ私には、楊の木に鳥を吸ひ込む力があると思へて仕方ないのです」と結ばれているのは不思議です。思うにこれは、物語の書き手である賢治が、藤原健次郎と過ごした日々や二人の夢を、醒めない夢のままの状態で、ここに保存しようとしたのではないでしょうか。
以上、「藤原慶次郎もの三部作」は、子供たちと大人の世界の接触や、自然の不気味さや、二人だけの謎の顛末などを記したもので、そこには何気ない子供の日常が、素朴な筆致で描かれています。それらは「スタンド・バイ・ミー」と同じく、語り手が大人になってから少年時代を回想する形式をとっていて、映画で少年たちが汽車に轢かれそうになったり、ヒルに噛まれたり、クズ鉄屋に忍び込んで犬に追いかけられたりしたのと同じように、後になってみれば一つ一つは大したことのない出来事です。
しかしそれでも、これら全ては〈仲間〉と一緒に体験し共有した、かけがえのない思い出でもあるのです。
その「二度と戻らないかけがえのなさ」は、賢治にとっては藤原健次郎が突然自分を残して急逝してしまったことによって運命づけられましたし、「スタンド・バイ・ミー」では、クリスの死によってゴーディに突きつけられます。とりわけスティーヴン・キングによる原作小説では、クリスは法学部の学生のうちに刺殺され、テディは飲酒運転による交通事故で亡くなり、バーンは高校時代にアパートの火事で死ぬことになっており、4人のうち自分以外の3人とも死んでしまうという極端な喪失感が、あの日の輝きを際立たせる構造となっています。
くしくも、当時はちっぽけだった賢治は、ゴーディと同じく長じて作家になりましたし、相棒の藤原健次郎は、クリスと同じように「気は優しくて力持ち」でした。それに、上の藤原の写真は、映画で見るクリスの面影に、どことなく似ているようではありませんか。
賢治は、「藤原慶次郎もの三部作」を書きながら、あまりにも早くに遠く去ってしまった親友藤原健次郎を追想しつつ、「僕のそばにいて(Stand by me!)」と、心に念じていたに違いありません。
そして、大切な人に対する賢治のこのような思いが、後に「〈みちづれ〉希求」という形をとるにも至ったのではないかと、個人的には考えたりしている次第です。
]]>Stand By Me
by Ben E. King
When the night has come
And the land is dark
And the moon is the only light we'll see
No, I won't be afraid
Oh, I won't be afraid
Just as long as you stand, stand by meSo darlin', darlin', stand by me
Oh, stand by me
Oh, stand
Stand by me, stand by me
スタンド・バイ・ミー
ベン・E・キング
夜が来て
地上は暗く
月明かりだけになっても
僕は怖くない
怖くなんかない
君がそばにいてくれるならだから愛しい、愛しい人よ、
どうかそばにいて
僕のそばにいて
僕のそばに、そばにいて
三つの輪が重なり合うシンボルマークが付いた石鹸も、つい最近まで身近にあったような気がしていたのですが、こちらも調べてみると、昭和のうちに廃業したとのことでした。見たような気がしたのは、2007年から2014年までの短期間だけ復活していたという、「新ミツワ石鹸」だったのかもしれません。
元祖「ミツワ石鹸」は、1860年(万延元年)に三輪善兵衛が日本橋で創業した「丸見屋」が1910年(明治43年)に発売した石鹸で、戦前戦後を通し、国民的ブランドと呼ばれるまで広く浸透したのですが、1975年(昭和50年)に倒産したのです。
今回は、この丸見屋が大正時代に販売していた、「ミツワ人参錠」という家庭薬についての話です。
]]> ※ 賢治が盛岡高等農林学校研究生だった1918年4月に、元同級生の工藤又治に宛てた手紙(書簡54)に、右のような絵が描かれていました。(『新校本宮澤賢治全集』第15巻本文篇p.62より)
当時の賢治は稗貫郡土性調査のために、豊沢川上流の鉛温泉の奧の渓谷を、腰まで水に浸かりながら跋渉していたのですが、この前後の文面を抜粋すると、下記のようになっています。
ソレデモ先日案内者ヲ頼ンダラソノ人ハ昼ニナッテアノ
ヒッコ (或ハワッパ)ヲ開ケテサアオ取リャンセト云ッテ私ノ前ニ出シマシタ。コレコソハ私ノ為ニ今朝作ッテ来タキナ粉餅 デアリマシタ。ソシテコノゴロハ砂糖ガ高クテ黒イノモ仲々食ヘナイト申シワケナドヲシマシタ。私モ又ニギリ飯ヲ出サウト背嚢ニ手ヲ入レタラ ノ様ナモノガ入ッテヰマシタ。コンナモノハ変ダト思ッテ中ヲ見タラ薬ハ入ッテヰナイデ、薄荷糖ガ一杯ニツマッテヰマシタ。コレハ私ノ父ガ入レテオイタノデス。私ハ後ニデモ兵隊ニデモ行ッテ戦ニデモ出タラコンナ事ヲ思ヒ出スダラウト思ヒマス。アゝ、人ハミンナヨクヨク聞イテミルト気ノ毒ニナルモノデハアリマセンカ。
これは何とも胸にじーんと来るような、父から息子への情愛のエピソードではありませんか。
知らないうちに背嚢に入っていた「ミツワ人参錠」の箱を、息子が不審に思って開けてみると、中には薄荷糖が一杯に詰まっていて、息子は即座にこれは父の仕業だとわかった、というのです。
「薄荷糖」は、その爽やかな風味によって、重い荷運びの時にこれを舐めると「荷が軽くなる」という疲労回復効果があることから名づけられたのだそうですが、明朝から山に入るという息子のために、夜のうちに父親がこれをそっと背嚢に忍ばせている様子が、目に浮かぶようです。親が子のためにこういうことをするとすれば、一般的には母親がやりそうな感じですが、賢治の場合は迷うことなく「コレハ私ノ父ガ入レテオイタノデス」と断じており、ここにも賢治たち父子の独特のあり方が、表れているように思います。
これは、父政次郎の「親バカ」ぶりを描いた映画『銀河鉄道の父』の一コマとするには、うってつけのエピソードだったろうと思うのですが、いかがでしょうか。
賢治はこの薄荷糖に込められた愛情が胸に沁みたのか、この時のことを短歌としても残しています。
644 これはこれ
夜の間にたれかたびだちの
かばんに入れし薄荷糖なり。
※
ここで視線を、箱の中身の薄荷糖から、たまたま容れ物として使われていた「ミツワ人参錠」の方に移してみると、上のエピソードが示しているのは、当時の宮澤家にはこの「ミツワ人参錠」という薬を服用している(あるいはしていた)人がいた、ということです。
「ミツワ人参錠」は、上述のように1860年に創業した「丸見屋」が、大正時代に発売して相当なブームになった家庭薬の、代表格でした。
そもそも高麗人参という生薬は、秦の始皇帝や唐の楊貴妃が不老長寿のために服用していたという伝説に始まり、本邦では健康オタクの徳川家康が珍重して、徳川吉宗が国産化を試みたという歴史経過も相まって、昔から「万病に効く霊薬」として崇められてきたものでした。その価格も高価で、江戸時代には1日の薬代は1両にもなり、とても庶民に手が出るものではなかったのです。「人参呑んで首縊る(借金をして人参を服用し病気は治ったものの、薬代が返済できず死ななければならない)」というアイロニカルな言葉にもなっていますし、様々な時代劇の小道具としても登場します。
それが大正時代には、誰でも購入できる手軽な錠剤として売り出されたのですから、人気商品になったのも無理もありません。
下記は、その広告の一例です(『横浜座 筋書(大正8年9月)』より)。挿絵の中には、薄荷糖の容器となって賢治の背嚢に入っていたらしい紙箱も見えます。
また、丸見屋が宣伝を兼ねつつ1918年(大正7年)に刊行した『家庭治療法』という家庭用医学書には、ミツワ人参錠について次のように説明がなされています。
ミツワ人参錠は其の一錠中に、
精製人参 〇・一一八八
を含んで居る。人参は約五千年の昔から医薬として応用されて、甚だ名高いものであるから、必ず多少の有効成分を含んで居るに相違ない、それに之を実際用ひてみると、顕著 な効験 を呈 はすから、之を根本的に研究してみようといふので、ミツワ化学研究所では、有らゆる種類の人参を集め、化学的に分析したり、患者や動物に就て試験したりして、遂に人参の有効成分を究めた、そこで人参の最も優秀なものを撰び、其の有効成分を遺らず含むやうに科学的に研究して、ミツワ人参錠を調製したのである。今本薬 の効能を略述すると、第一に神経衰弱、ヒステリー即ち俗に謂ふ血の道、ヒポコンデリー即ち俗に謂う心気病 に対して偉効を奏する、随って是等の疾病 に現はれる容態、例へば精神の興奮、情調 の異常、意志の薄弱、読書や計算の不能 、思考力や判断力又記憶力の減退 、睡眠の不安、消化の不良、心悸 の亢進 、手足の厥冷 、遺精や陰萎等に良く効くのは言ふまでもない、而 して頭痛、偏頭痛、眩暈、脳貧血、脳充血、即ち逆上 の如き神経病を治すことが出来、また腎臓炎に用ふると、尿の異常や浮腫 、其の他の苦悩 を除き、分娩の前後や結核、癌腫、梅毒、神経病、胃腸病、子宮病、諸種の伝染病等から来る貧血と栄養不良を恢復して、蒼褪 めた皮膚を強壮な佳い血色に変へ、体力を増し、又精力の減退即ち精神と筋肉の疲労を癒し、頭脳を清新にし、元気を旺盛にし、平生連用すると、老衰を防ぎ、何時迄も若やかに活動することが出来るといふ卓絶な効果を挙げるものである。
まさに「万病に効く」という趣で、様々な薬効が並べ立てられていますが、ここで注目しておきたいのは、上の広告の「主効」においても、下の説明書の「効能」の「第一」においても、筆頭に挙げられているのは身体的な病気ではなくて、「神経衰弱」だということです。
ここには、明治末から大正初期にかけて「煩悶青年」なる存在が問題となった、時代的風潮も反映しているのかもしれませんが、それにしても当時の「ミツワ人参錠」は、まず何よりも「神経衰弱の薬」としての効能が謳われていたのです。
※
さてここで、大正初期の宮澤家において、誰が「ミツワ人参錠」を服用していたのだろうかということを、考えてみましょう。
父の政次郎は、心身ともに強健で精力的な人だったようですが、幼い賢治の赤痢を看病した際に大腸カタルを起こし、以後胃腸が弱くなったと言われています。また母のイチも、心臓病や神経痛の持病があったということですので、父親または母親が、滋養強壮にも効くという「ミツワ人参錠」を服用していた可能性も、否定はできません。
ただ、このミツワ人参錠が、何よりも「神経衰弱」への効能を第一に謳っていたとなると、世間的には申し分のない宮澤家の家長やその妻が、この薬を必要としていたとはあまり思えないのです。
そこで浮かび上がってくるのが、中学校の終わり頃から学業成績の大幅な低下をきたし、卒業後には入院して肥厚性鼻炎の手術を受け、その後も鬱々悶々とした生活を送っていたという、長男の賢治です。
「肥厚性鼻炎」というのは、鼻の奥の粘膜が腫れて、鼻づまりや嗅覚障害を起こしている状態ですが、当時は「鼻が詰まると集中力がなくなり、頭が悪くなる」ということが、広く信じられていました。
当時のこの分野における代表的医学書である『鼻科学 改訂3版』(金杉英五郎 著 1907)は、慢性肥厚性鼻炎の症状として、「作業怠慢、記憶乏弱、頭痛、眩暈、噴嚔、咽頭絞搾ノ感」を挙げ(p.47)、『近世耳鼻咽喉科学』(岩田一, 吉井丑三郎 著 1907)も、「其他頭重、頭痛、眩暈、不眠及鼻性神経衰弱症ヲ訴フルコト屡々ナリ」と記しています(p.215)。
上に出てきた「鼻性神経衰弱症」とは、「鼻から来る神経衰弱」という意味合いで、当時この概念を提唱した新潟病院の黒岩福三郎医師は、「人若シ学業成績ノ拙劣ナル学生ニ遭遇セバ此種鼻病ノ検索ニ想到シ、神秘ノ叡智ヲ啓発スルニ黽メンコト希望ニ堪ヘサルナリ」とまで述べています(『醫学中央雑誌 1905-10』p.839)。
賢治の同級生阿部孝によれば、「〔中学〕四年五年の頃は、学科の勉強にはさつぱり身がはいらなくなり、そのために成績がぐんと落ちてしまつた」ということですから、当時の賢治も黒岩医師にかかれば、肥厚性鼻炎からくる鼻性神経衰弱だと言われていてもおかしくありません。
ということで、賢治が中学卒業直後に、鼻の手術を受けることになった背景には、当時の彼が呈していたこのような精神状態もあったのではないかと、私には思われれるのです。
結果として、賢治は盛岡の岩手病院に入院し、付き添った政次郎は今度もまた腹具合を壊し、自分も治療を受ける羽目になるのですが、そうまでして受けた手術治療も空しく、その後も賢治は相変わらずの「煩悶青年」として、神経衰弱のような日々を過ごすのでした。
下記には、1914年5月に退院した後の賢治の短歌から、そういう心の状態を反映していそうなものを挙げてみました。
122 屋根に来れば
そらも疾みたり
うろこぐも
薄明穹の発疹チブス127 地に倒れ
かくもなげくを
こころなく
ひためぐり行くか
しろがねの月。128 たんぽぽを
見つめてあれば涙わく
額重きまま
五月は去りぬ。134 わがあたま
ときどきわれに
ことなれる
つめたき天を見しむることあり。146 またひとり
はやしに来て鳩のなきまねし
かなしきちさき
百合の根を掘る。147 あたま重き
ひるはさびしく
錫いろの
魚の目玉をきりひらきたり。150 職業なきを
まことかなしく墓山の
麦の騒ぎを
ぢつと聞きゐたれ。159 なつかしき
地球はいづこ
いまははや
ふせど仰げどありかもわかず。162 なにのために
ものをくふらん
そらは熱病
馬はほふられわれは脳病164 わなゝきの
あたまのなかに
白きそら
うごかずうごかず
さみだれに入る。165 ぼんやりと脳もからだも
うす白く
消え行くことの近くあるらし。166 目は紅く
関折多き動物が
藻のごとく群れて脳をはねあるく。167 ものはみな
さかだちをせよ
そらはかく
曇りてわれの脳はいためる。
162、165、166、167あたりは、まさに「神経衰弱」という感じが際立っています。このような賢治の様子を心配した父親は、神経衰弱に効果があると話題の「ミツワ人参錠」を買ってきて、息子に服用させていたのではないかと、私は想像するのです。
※
さて、季節はめぐってこの年の9月頃になると、俄然元気になって勉強に励み、朗々と経典を読んでいる賢治がいました。
ただしそれが、はたして「ミツワ人参錠」の効果だったのかどうかはわかりません。
『新校本全集』第16巻下年譜篇p.90には、下記のようにあります。
九月〔推定〕 家業への嫌悪とともにますます進学の念強く、ノイローゼ状態となる。ここによって父も賢治の前途を憂え、家業そのものの転回も考慮し、希望した盛岡高等農林学校の受験を許す。〔中略〕
また当時出版されて政次郎の法友高橋勘太郎から贈られてきた島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』を読んで異常な感動を受ける。
この本はのち(大正七年)に友人保阪嘉内へ送ったが、生涯の信仰をここに定めることとなる。以来、生まれ変わったように元気になり、店番もいとわず受験勉強にはげむ。
すなわち、中学終わり頃から続いていた賢治の「神経衰弱状態」の原因は、やはり家業継承への嫌悪と前途の閉塞感にあったもののようで、進学許可によって道が開けると、あっけないほどあっさりと治ってしまったのです。
]]>宮沢賢治 生成・転化する心象スケッチ 杉浦静 (著) 文化資源社 (2023/11/10) Amazonで詳しく見る |
収録された論考はいずれも精緻で含蓄があり、1993年刊の『宮沢賢治 明滅する春と修羅』以降30年間の、杉浦さんの研究の集大成となっています。とりわけその中の、「「永訣の朝」の生成──おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」に、私はあらためて感銘を受けました。
]]> この論考によれば、出版社に持ち込まれた当初の「永訣の朝」の末尾は、次のよう結ばれていました。おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになるやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
それが出版時には、皆様もご存じのように、下記のようになります。
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
つまり、賢治は推敲前には、「トシが食べる二椀の雪が天上のアイスクリームになるように」、すなわち〈トシ一人〉の幸せを祈っていたのに対して、推敲後には「おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすように」、すなわち〈トシとみんな〉の幸せを祈るという形へと、修正が行われたわけです。
そして賢治が上記のような推敲を行ったのは、『新校本全集』第2巻校異篇によれば「他の手入れとは別のブルーブラックインク」によってだということですが(校異篇p.100)、本論考において杉浦静さんは、賢治の原稿を直接点検することにより、以下の二点を明らかにされました。
すなわち、「永訣の朝」における上記の推敲は、「小岩井農場」および「青森挽歌」の書き直し・差し替えと一緒に、同時期に行われたと推測されるわけです。
そこで、「小岩井農場」と「青森挽歌」における差し替え内容を見てみると、「小岩井農場」の末尾近くでは、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」ことが否定され、「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」ことが志向されるようになっています。
また「青森挽歌」の末尾近くでは、「みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない」という戒めが出現します。
つまり、「小岩井農場」「永訣の朝」「青森挽歌」という、詩集『春と修羅』の思想的核心とも言うべき重要な作品において、それまでの「個別的な幸福や救済を求める」というスタンスが、「普遍的な幸福や救済を求める」という内容へと、この「第三段階」において連動して修正が行われたわけです。そしてこういった大がかりな修正は、ちょうどこの時期に、賢治の思想に大きな変化があったことを反映していると考えるのが、何より自然でしょう。
このような、目に見えない思想レベルにおける賢治の変化を、原稿調査という地道な作業によって浮かび上がらせておられるところが、この杉浦静さんの研究の意義深いところだと思います。
これに続いて杉浦さんは、「なぜこの時期に賢治がこのような推敲を行ったのか」という問いを立てられます。そしてその要因として、当時の賢治が関東大震災の被災者の苛酷な状況や様々な献身的救援活動を知ったことによって、「宗教的、社会的使命感が激しく揺さぶられたであろう」という栗原敦さんの説(『宮沢賢治 透明な軌道の上から』所収「「風景とオルゴール」の章二連作」より)を引用しておられます。2011年の東日本大震災が、日本中の人々の心に与えた衝撃のことを思うと、これは現代の私たちにも共感できるところです。
さらに杉浦さんは、斎藤宗次郎の『二荊自叙伝』1924年2月7日の「二青年の対話」と題された項に、斎藤が賢治から『春と修羅』の校正刷りを見せてもらい、「我等には行くべき道があるとて/悲憤より脱し/屈託より踊り出で/素朴正信の態度を持して/老青年の奮起を促した」と記していることを挙げ、斎藤宗次郎と賢治が共有したこのような〈場〉の力も、この推敲の契機になったのではないかと述べておられます。
さて、賢治の思想的な変化の背景としては、このような様々な外的要因も働いていたと考えられる一方、これはもう自明のこととして杉浦さんもあえて挙げておられないのかと思いますが、賢治の内部においては、「トシを喪った」という体験そのものが、否応なく彼に変化を強いたのだろうと思われます。
トシの死後、賢治はトシの喪失による悲嘆に暮れ、次生における彼女の幸せを祈り、また樺太旅行においてはトシとの通信も追い求めたようですが、いくらトシのことを強く祈っても、その悲しみは癒えず、彼女の行き先はわからないままでした。
このような苦悩の中で賢治は、自分がトシ一人への思いに執着していることにこそ問題があるのだと考え、「ひとりをいのる」ことをやめて「みんな」を祈るよう方向転換することにより、結果的には自らも救われることになったのだろうと、私は思っています。そして、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」(「薤露青」)という境地に至ったのだと思うのです。(「論文版「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」」等参照)
いずれにせよ、杉浦さんの研究によれば、「永訣の朝」が現在のような形になったのは、『春と修羅』編成の第三段階と推測され、この段階初期までに『春と修羅』の「序」が書かれたと推定されていることからすると、今回見た思想的方向転換が行われたのは、おそらく「序」の日付の1924年1月20日よりも後ということになります。これは、4月20日の出版が、もう目の前に迫っている時期です。
当時の賢治は、まさに疾走しているような様子だったのではないでしょうか。
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ところで最近、島薗進氏の『なぜ「救い」を求めるのか』という本を読んだのですが、この本の冒頭では、「個別的な救済」を求める話として賢治の「よだかの星」が、「普遍的な救済」を求める話として「グスコーブドリの伝記」が挙げられるなど、島薗氏の賢治に対する強い思いが感じられます。
この本全体の構成としては、その終わり近くまでは、世界史において連綿と続いてきた「救済宗教」が、世俗化の波が押し寄せる現代において「救済なしの宗教性」とも言える「スピリチュアリティ」に取って替わられようとしている流れが描かれるのですが、終盤になって、著者の言うところの「限界意識のスピリチュアリズム」という言葉が登場します。これは、グリーフケアや依存症の自助グループなどのように、誰もが置かれうる心理的限界状況において、やはり一種の「救い」として、人間を支える精神性というようなものを指す概念です。このような心理的営為の重要性がクローズアップされている現代というのは、やはり別の新たな形の「救済宗教」が求められているとも言えるのではないかということが示唆されて、幕が閉じられます。
そして島薗氏は「あとがき」で、次のように述べられます。
「限界意識のスピリチュアリティ」を重んじた先達として、私が思い浮かべるのは折口信夫と宮沢賢治です。二十歳代の前半、新宗教の教祖研究に進む前に取り組んだのが折口信夫、四十歳代の後半、研究生活の停滞やオウム真理教事件による困難と父の死の前後に深く引き込まれたのが宮沢賢治でした。私の人生で「救い」を求める姿勢が強まったこの時期に、支えになったのがこの二人でした。本書の第1章で宮沢賢治の物語を引用したことには、そうした背景があります。
一九九六年、アメリカのシカゴ大学に三ヶ月滞在していたとき、日本から「父の具合が悪い」と連絡がありました。そのときすでに余命一年。しかし講義をしなければならないためすぐに帰国することはできません。そんな不安定な気持ちを抱えていたときに、私が読んだのが宮沢賢治の数々の作品だったのです。ちょうど宮沢賢治の生誕百周年でもあり、アメリカでの講義で参照したいという思いもあってもち込んだ文庫版の宮沢賢治全集に、宗教研究者としての行き詰まりを打開する何かを求めたところもありました。
東日本大震災の後に、日本中で賢治の作品が読まれるようになったことにも、通ずるようなお話です。
私自身は上にも述べたように、トシの死後の賢治の心の遍歴が、今で言うところの「グリーフ・ワーク」に通ずるのではないかと思っているのですが、島薗氏の考えでは賢治のどのような部分が「限界意識のスピリチュアリティ」に通ずるのか、また詳しく知りたいところです。
なぜ「救い」を求めるのか 島薗 進 (著) NHK出版 (2023/3/25) Amazonで詳しく見る |
下の写真は、賞贈呈式における「栃木・宮沢賢治の会」の、「受賞者あいさつ・活動内容紹介」の一コマです。
]]> そして、もう一つの「米澤ポランの廣場」は、33年余りという全国でも指折りの長い活動実績をもつ団体でしたが、ちょうど今年をもって解散(あるいは「散開!」)することを決めておられた中での、「有終の美」を飾る受賞となりました。代表の本間哲朗さんをはじめ会員の皆さんからは、懇親会で様々なお話をお聞かせいただきました。それにしても、これほどの長期間にわたって一人の方が、代表として会員の精神的な支柱となりつつ、活動の企画や毎月の活動報告の執筆・編集・印刷・発行等の実務作業も行ってこられたというのは、本当にものすごいことだと思います。本間さんのこれまでの活動には、頭が下がりました。
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その後、日常生活に戻りつつも花巻の余韻をかみしめていたところ、つい先日、本間さんからのメールとともに、封筒に入った『米澤ポランの廣場IX 最終号』が送られてきました。
美しい表紙には、銀河鉄道や、山猫軒(のような本間代表宅)や、めがね橋や、山の上で人々が手を振っているあの賢治自筆画をモチーフにしたペン画が描かれ、ずっしりとボリュームのある200頁もの記念誌です。
ページをめくると、「小論」として会員の皆さんが執筆された賢治論が並んでいて、とても読み応えがあります。どの論も、世の中のありきたりの賢治像にとらわれずにじっくりと作品を読み込んだ上で、それぞれご自身の体験に照らし合わせつつ書かれたもので、味わい深いものでした。
あらためて思えば、こうやって日本各地の町や村で暮らす人々が、それぞれに賢治の作品を読んでは思索を深めているというのは、おそらく他の作家にはないだろうことで、やはり宮澤賢治という存在には、何かがあるのかなと思ったりします。
次の章の「つどいの廣場」というコーナーでは、各会員が賢治作品の個人的ベスト3を挙げ、あわせてこれまでの会の活動や賢治について、思いを綴っておられます。
試みに、11名の会員が挙げておられるベスト3を集計してみると、票の多かった作品のベスト3は、次のようになっていました。
一般的に有名な賢治作品よりも、「虔十公園林」と「なめとこ山の熊」が上位に入っているところは、この「米澤ポランの廣場」の皆さんの賢治に対するスタンスを、象徴しているのではないでしょうか。東北の米沢という地域性もあるのかもしれませんが、大げさに言えば、会員の方々の「生活」や「思想」にもつながるのかもしれません。
この後の章に、「合同句集」があるのも楽しくてユニークです。ここにも、会員の皆さんの生活や思想が垣間見えます。
最後の「資料」の章には、351号から最終400号までの「米澤ポランの廣場通信」の縮刷、廣場の全道程、廣場で読んだ全作品表が掲載され、会の活動の貴重な記録となっています。
そして、山形新聞と河北新報が、米澤ポランの廣場の今回の受賞と「有終の美」を報じた新聞記事の複写、さらに巻末の「付録」で山形新聞が伝える最後の読書会の様子やコラム記事は、まさにこの記念誌最終号に、花を添えています。
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この『米澤ポランの廣場IX 最終号』は、下記でそのPDF版が閲覧できますので、皆さまもどうぞご覧いただければと思います。
また、本間哲朗さんのウェブサイトに掲載されている記事「記念誌『米澤ポランの廣場IX 最終号」には、会の点景の写真や、本間さんによる説明が綴られています。
このような会が解散(散開)してしまうというのは、賢治を愛する者の一人として一抹の寂しさはぬぐえませんが、会員の方々が「会が終わっても賢治を読みつづけたい」と語っておられたことで、私も力づけられています。
本間哲朗さんと会員の皆さま、長い間お疲れさまでした。
「米澤ポランの廣場」という会そのものは、銀河鉄道に乗って旅立ったのでしょうが、下の絵の右下の山上で列車に手を振っている人々は、元会員の皆さんであり、また全国の賢治ファンたちなのだと思います。