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    <title>宮澤賢治の詩の世界</title>
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    <updated>2026-07-13T06:11:46Z</updated>
    <subtitle>賢治の作品や生涯／ハイパーリンクされた詩草稿／賢治の歌曲／全国の文学碑…</subtitle>
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    <title>旧制高知高等学校</title>
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    <published>2026-07-12T14:44:45Z</published>
    <updated>2026-07-13T06:11:46Z</updated>

    <summary>　明治期の官立旧制高等学校は、東京の第一高等学校から名古屋の第八高等学校に至る、...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="伝記的事項" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="〔乾かぬ赤きチョークもて〕" label="〔乾かぬ赤きチョークもて〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="鈴木卓苗" label="鈴木卓苗" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="阿部孝" label="阿部孝" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　明治期の官立旧制高等学校は、東京の第一高等学校から名古屋の第八高等学校に至る、名前に数字を冠したいわゆる「ナンバースクール」が、地域ごとに割拠している状態でした。<br>　大正に入って、第一次大戦後の好況からさらに広範な専門的人材の育成が求められるようになり、1918年（大正7年）に第二次高等学校令が公布されると、全国各地に高等学校を誘致する気運が高まっていきます。1919年に開校した新潟高等学校と松本高等学校を皮切りに、地名を冠した「ネームスクール」と呼ばれる高等学校が、毎年のように各県に誕生していきました。</p>
<p>　高知県においても、高等学校誘致の声が高まり、県は1921年に高知市北郊外の江ノ口に2万坪の土地を買い上げ、これを高等学校建設予定地として文部省に寄附した結果、翌1922年に、高知高等学校設立が決定されます。<br>　校長に内定したのは、文部省督学官の江部淳夫で、教頭格として設立準備にあたることになったのが、当時東京帝大の学生監という役職にあった、鈴木卓苗でした。</p>
<p>　この鈴木卓苗とは、賢治の「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/170_d.htm" target="_self" title="">〔地蔵堂の五本の巨杉が〕</a>」に、「鈴木卓内先生」として登場する人物です。</p>
<blockquote>
<p><span style="color: #999999">〔前略〕</span><br>またその寛の名高い叔父<br>いま教授だか校長だかの<br>国士卓内先生も<br>この木を木だとおもったらうか<br>　　洋服を着ても和服を着ても<br>　　それが<ruby>法衣<rp>（</rp><rt>ころも</rt><rp>）</rp></ruby>に見えるといふ<br>　　鈴木卓内先生は<br>　　この木を木だとおもったらうか<br>　　　　……樹は天頂の巻雲を<br>　　　　　　悠々として通行する……<br><span style="color: #999999">〔後略〕</span></p>
</blockquote>
<p><img data-mt-asset-id="1137" src="https://ihatov.cc/images/20260712b.jpg" width="640" height="442" alt="1906年大沢温泉仏教講習会" class="asset asset-image" style="display: block"></p>
<blockquote></blockquote>]]>
        <![CDATA[<p>　上の写真は、1906年夏に大沢温泉で行われた「仏教講習会」の際のものですが、賢治は最前列の向かって左から2人目、トシは2列目の右端です。最後列の中央が、講師の暁烏敏、最後列の左から2人目が宮沢政次郎、そして最後列の左端が、鈴木卓苗です。</p>
<p>　鈴木卓苗は、上の詩に出てくる「地蔵堂」のある花巻西郊外の「延命寺」の住職の次男として1879年に生まれ、盛岡近郊の乙部村の「如法寺」の養子となります。盛岡中学、第二高等学校を経て、東京帝大の哲学科を卒業し、全国各地の中学校や高等学校で教職に就いていました。<br>　盛岡中学時代の鈴木卓苗のエピソードとしては、試験勉強などというものは嫌っていて、「一番になることは大して面倒でもないが、ビリで及第することはむずかしい」などとうそぶいていたということです（『花巻史談』第16号p.23）。盛岡中学に校友会を設立するために尽力する一方、自ら原稿を書いて、『読捨新聞』という回覧雑誌を生徒の間に配付していたということです（『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/12114373/1/462?keyword=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%8D%93%E8%8B%97" target="_self" title="">白堊校百年史 通史</a>』p.893）。第二高校在学中は、「道交会」という仏教研究会に所属して、仏教の研鑽に努めていました。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　さて、こういう独特の教師だった鈴木卓苗が教頭格となって、1923年（大正12年）4月に開校した高知高等学校ですが、創立当初から英語の教授を担当していたのが、賢治の親友の、阿部孝です。<br>　阿部孝は、花巻西郊外にある「鼬幣稲荷神社」の神主の息子として生まれ、盛岡中学、第一高等学校を経て東京帝大英文科を卒業し、愛知一中の教諭をしていましたが、高知高等学校の開校とともに、鈴木卓苗の同僚となったのです。<br>　鈴木卓苗と阿部孝の実家はすぐ近くにあり、一方は寺の住職の息子、もう一方は神社の神主の息子という立場で、いずれも東京帝大文学部を卒業したという縁がありますから、二人がはるか高知で同僚になったというのは、偶然ではない何かの要因があったのではないかと、以前から気になっていたのでした。<br>　すると、八木英三編『稗貫風土記 人物篇』に、次のように書かれていました。</p>
<blockquote>
<p>　　阿部　孝　（花巻）</p>
<p style="margin-bottom: 0;">　奧稲荷の別當サンの一人息子阿部孝は花城小学校で宮澤賢治より一級上の組の級長であつた。盛中を出てから一高に進み東大の英文學科を卒業した。<br>　先輩の鈴木卓苗に呼ばれて四國の高知高等學校の教授になつてから三十年、どこにも動かない。昭和四年と五年英米兩國に留學を命ぜられたが専ら戯曲の研究をして歸朝した。やがて高知高等學校長となり、それが高知大學に合併されるとその文學部長に推されて今日に至つている。中央にいないのであまり人に知られてはいないが英文學特に戯曲の權威者としてその方面の重鎮である。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（八木英三編『稗貫風土記 人物篇』p.176）</p>
</blockquote>
<p>　上記のように、阿部孝は「先輩の鈴木卓苗に呼ばれて」高知高等学校の教授になったということですから、ここにはやはり花巻と東大の縁があったわけです。『稗貫風土記 人物篇』が刊行された1951年の時点で、「三十年、どこにも動かない」と書かれていますが、その後も阿部孝は高知大学学長まで務めて退官し、周囲からは「土佐人」と見なされるようになったということです。同じ東北の花巻で生まれながら、基本的には地元で暮らした賢治とは対照的な人生ですが、賢治との友情は続き、花巻に帰省するとよく会っていたことは、以前に「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2025/12/post_1176.htm" target="_self" title="">海りんごのにほひ</a>」という記事に書きました。</p>
<p>　この阿部孝の着任早々、開校前の入学試験の時のことについて、高知高等学校の第一回生が、次のように書いています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">「入学試験で今でもはっきり記憶に残っているのは、美しくきれいに髭をそった色の白い私達土佐生れの黒んぼには白色人種かと思われるような紅顔の美青年の先生が、巧みな発音でペラペラ英語をしゃべられ、それを口すさみながら書かされた。その先生が母校の開校頭初より最後迄世話して下さって、土佐人になられている阿部孝先生でした」</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/12111674/1/63?keyword=%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AD%9D" target="_self" title="">高知、高知あゝ我母校</a>』p.114）</p>
</blockquote>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　その後、この阿部孝と一緒に高知高等学校の英語科教授として机を並べることになるのが、阿部や賢治が盛岡中学時代に英語を習った、米原弘という人でした。</p>
<p>　賢治が中学4年の時に詠んだ短歌に、次のような作品があります。</p>
<blockquote>
<div style="margin-left: 2.3rem;">
<p style="text-indent: -2.3rem;">32　黒板は赤き傷受け雲垂れてうすくらき日をすすり泣くなり。</p>
</div>
<div style="margin-left: 5rem;">
<p style="text-indent: -4rem;">32<sub>a</sub>33　この学士英語はとあれあやつれどかゝるなめげのしわざもぞする。</p>
</div>
</blockquote>
<p>　この短歌だけを読むと、いったいどんな状況が描かれているのかわかりにくいですが、これは後に文語詩「<a href="https://ihatov.cc/bn_100/717_d.htm" target="_self" title="">〔乾かぬ赤きチョークもて〕</a>」に改作されていきますので、その推敲過程を見ると、具体的な様子がわかってきます。</p>
<p>　まず、文語詩の下書稿(一)は、下記のとおりです。</p>
<blockquote>
<p>このくらき<br>雲垂れし日を<br>いかなればとて<br>さはぬれし赤きチョークにて<br>黒板を傷つくるや。</p>
</blockquote>
<p>　これを見ると、短歌にある黒板の「赤き傷」とは、濡れた赤いチョークで黒板に引かれた線だったことがわかります。</p>
<p>　下書稿(二)を経て、下書稿(三)では、次のようになっています。</p>
<blockquote>
<p>ひとりの生徒ボールドに<br>短き英の文書きて<br>教頭おもて青じろく<br>窓べに立ちて見まもれる</p>
<p>南の紺の地平より<br>黒雲怪しき縞なして<br>白堊ひゞいりよごれたる<br>いらかを低くながれたり</p>
<p>生徒礼してしりぞけば<br>頭をいたみ教頭の</p>
<p>文をあらゝに抹したり</p>
<p>あはれ乾かぬ赤チョーク<br>をぞのまくらきボールドは<br>しゅうしゅうとしてうちなげき<br>ま夏に入らん生徒らは<br>たゞさんとしてながめたり</p>
</blockquote>
<p>　この内容から当時の出来事を推測すると、まずは生徒の一人が黒板に短い英文を書き、一礼をして壇を下りると、教頭は生徒の書いた文に濡れた赤いチョークで荒々しく線を引いて、無残に抹消してしまった、ということのようです。これによって黒板は啾々と歎き、生徒たちは惨めな思いでそれを眺めていたのです。<br>　このような教頭の冷酷な振る舞いのために、賢治ら生徒たちの気持ちはいたく傷つき、その「心の傷」が、短歌では「黒板の傷」として描かれているのでしょう。短歌32<sub>a</sub>33の「なめげのしわざ（無礼な所業）」という言葉からは、教師に対する賢治の強い反発心も伝わってきます。</p>
<p>　しかしこの下書稿(三)の余白には、次のようなメモが書き込まれているということです。（『新校本全集』第7巻校異篇）</p>
<blockquote>
<p>教頭<br>　　面青く<br>　　めがね沈痛<br>　　病妻</p>
<p>　　雲<br>　　黒板<br>　　建物<br>　　生徒</p>
<p>教頭もうれひ<br>生徒らもうれふる</p>
</blockquote>
<p>　こちらのメモには、教頭の側も「面青く　めがね沈痛」として、やつれて弱っている様子が書きとめられ、さらに「病妻」という記述も気がかりです。最後の「教頭もうれひ　生徒らもうれふる」という言葉からは、つらかったのは生徒だけではなく、教頭も同じだったのではないか、という認識も示されています。</p>
<p>　いったいどういう事情があったのだろうかと気になりますが、この時の盛岡中学の「教頭」だった米原弘という英語教師が、後に高知高等学校で阿部孝と同僚になっていることを、島田隆輔さんが明らかにされました（「《賢治自伝》詩譜の試み──中学時代篇(中)」, 『論攷宮沢賢治』第16号）。</p>
<p>　米原弘は、1877年に島根県に生まれ、やはり東京帝大の英文科を卒業しています。仙台一中の教諭を経て盛岡中学に着任し、教頭格となっていましたが、1920年11月に依願退職しています。続いて高知県立第一中学の嘱託となり、1922年4月から弘前高等学校の教授に、そして1924年の3月に、高知高等学校の教授となりました。開校からまだ1年後のことです。<br>　そしてこの高知在任中に、米原は妻を亡くしているのです。</p>
<p>　島田隆輔さんは、賢治が下書稿(三)に「病妻」と記しているのは、このような盛岡中学退職後の米原の消息を、阿部孝から聞いて知っていたからではないかと推測し、この情報も相まって、教頭に対する当時の一方的な反発心から、むしろ米原に対して同情的になる後年の心境の変化が起こったのではないかと、論じておられます。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　この「教頭」、米原弘が突然辞職してまで盛岡をさり、嘱託の職に甘んじてでも高知にむかわなければならなかったのは、「家庭の事情」によると推測していいだろう。ただ、東京帝大出身という学歴にふさわしく、ほどなく二二（大11）年に創設された弘前高等学校に教授として任用されるが、赴任二年たらずで二三（大12）年開校の高知高等学校へ転任をはたしている（弘前高校就任は、高知高校への転任を見とおしたものだったようにもみえる）。高知へのそれほどの執着は、そこに大切な人、妻がまっていたからにちがいない。<br>　そしてこの時点で、高知高校開設時から英語教授に就いていた賢治の親友阿部孝が、恩師米原と同僚となったことが、変質の契機をうむとかんがえられないか。賢治との「手紙の往復がいちばんひんぱんだった」のが「昭和三、四年まで」というから（『随筆 ばら色のばら』）高知新聞社一九六五）、米原弘の行状について、特段のことがあれば、阿部は報告していたものとおもわれるからである。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（「《賢治自伝》詩譜の試み─中学時代篇(中)」,『論攷宮沢賢治』第16号）</p>
</blockquote>
<p>　賢治は、この「黒板事件」と同じ中学4年の3学期には、「舎監排斥事件」に関わって退寮処分を受けていますが、後に「「文語詩篇」ノート」では舎監排斥について、「かの文学士などさは苛めそ。家には新妻もありてわれらの戯れごとを心より憂へたり」と書いています。当時は反発していた教師に対して、後年になると同情的になっているのは、この「教頭」に対するのと同じような態度変化です。</p>
<p>　島田隆輔さんは、米原弘が高知で妻を亡くしたのは、1928年から1931年の頃だったのではないかと推測しておられますが、『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/13149334/1/55?keyword=%E7%B1%B3%E5%8E%9F%E5%BC%98" target="_self" title="">高知追手前高等学校資料集 第2巻之下</a>』の下記の記載を見ると、妻の逝去は1930年4月だったと思われます。現在の「追手前高等学校」は旧制「高知県立第一中学」の後身で、前述のようにここで米原弘は「嘱託」という形態ながら、「教頭」だったようです。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">昭和五年度第一学期ヨリ<br><span style="color: #999999">〔中略〕</span><br>四月二十八日　月曜日　雨　一、朝礼ナシ<br><span style="color: #999999">〔中略〕</span><br>一、本校前教頭、高知高校教授米原弘氏ノ令閨逝去ノ報アリシニ付キ旧誼アル有志ヨリ一円宛醵金シテ霊前ニ供フルコトゝス</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/13149334/1/55?keyword=%E7%B1%B3%E5%8E%9F%E5%BC%98" target="_self" title="">高知追手前高等学校資料集 第2巻之下</a>』p.99）</p>
</blockquote>
<p>　奥さんの亡くなった後の米原弘の家庭状況については、たとえば1931年（昭和6年）の『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/13113096/1/1713?keyword=%E7%B1%B3%E5%8E%9F%E5%BC%98" target="_self" title="">人事興信録</a>』には、「家族は弟力松、同妻ソヨ及其一子あり」と記されていて、弟の家族と同居していたことがわかります。しかしその後、高知県出身で高知女子師範学校を卒業した女性と再婚したとのことです。<br>　高知高等学校時代の若い同僚が書いた文章では、下記のように追憶されています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　　　<strong>米原　弘</strong><br>　英語の先生でおとなしい人で、年とっていたせいもあり、酒は余りのまなかった。英語の単語を覚えるのに辞書を片ぱしから紙をちぎって棄てていたという噂があった。教官室で雑談している時などに、ちょいちょい黒板へ面白いことを書いて、若い私達を喜ばしたりした。「四十四、四十四」は夜どうし、しどうしと読むとか、琵琶湖々畔の一旅館に「暮々最佳、満湖之景」と書いた軸があったとか、突飛なことをいい出すので有名であった。奧さんを失い、若い方をもらったが、大阪で奉職していて急には来られないので、先生が金曜日のあたりから月曜日ごろまで授業なしに時間割を組みかえてもらって大阪通いをしたことは、当時の先生方は皆御存知であった。しかし、それから間もなく亡くなられた。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/12111674/1/213?keyword=%E7%B1%B3%E5%8E%9F%E5%BC%98" target="_self" title="">高知、高知あゝ我母校</a>』p.415）</p>
</blockquote>
<p>　ということで、妻の病気と死去により、ずっと愁いを帯びていた米原弘先生も、晩年には少し明るくなられたのかもしれません。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　以上、宮沢賢治の周辺にいた3人の東大出身者が、くしくもみんな高知高等学校の教授をしていた時期があった、というお話でした。<br>　阿部孝にしてみたら、自分が中学時代に教わった先生が、思いもかけず同じ英語の同僚として赴任してこられたわけで、しかもそれが当時から気難しい先生で、高知でも奥さんが病気をして亡くなられたとなると、いろいろと気を使ったのではないかと思います。</p>
<p>　それにしても、自宅近所の先輩の縁ではるばる南国高知に行くことになり、そこで高等学校の開学から終焉までを見届け、愁いを帯びた恩師も定年まで見送り、それでいて賢治との友情もずっと忘れずにいてくれた阿部孝という高知の名誉市民は、つくづく奥の深い人だったのだな、と思います。</p>]]>
    </content>
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    <title>ドラマ『銀河の一票』</title>
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    <published>2026-07-05T06:56:19Z</published>
    <updated>2026-07-13T06:19:25Z</updated>

    <summary> 　　銀河鉄道の夜 　　　　一、午后の授業 「ではみなさんは、さういふふうに川だ...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="賢治情報" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<blockquote>
<p style="font-weight: bold; font-size: 20px;"><strong>　　銀河鉄道の夜</strong></p>
<p>　　　　一、午后の授業</p>
<p style="margin-bottom: 0;">「ではみなさんは、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうな何かご承知ですか。」<br>先生は、黒板に吊した大きな黒い星図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のやうなところを指しながら、みんなに問をかけました。<br>カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげやうとして、急いでそのまゝやめました。<br><span style="color: #999999">〔中略〕</span><br>「このぼんやりと白い銀河を大きないゝ望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんさうでせう。」<br>ジョバンニはまっ赤になってうなづきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（「銀河鉄道の夜」第四次稿冒頭）</p>
</blockquote>
<p>　昨年放送されたテレビドラマ『<a href="https://www.ktv.jp/bokuhoshi/" target="_self" title="">僕達はまだその星の校則を知らない</a>』でも、ヒロインの国語の先生が大の「宮沢賢治推し」で、職員室の机の上は賢治グッズでいっぱいでしたし、先日最終回を迎えたドラマ『<a href="https://www.ktv.jp/ginganoippyou/" target="_self" title="">銀河の一票</a>』も、宮沢賢治の思想がさまざまな形で顔を出し、「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html" target="_self" title="">農民芸術概論綱要</a>」や「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html" target="_self" title="">銀河鉄道の夜</a>」に記されている言葉が、全篇を貫いていました。<br>　なぜか最近また、宮沢賢治がちょっとした<ruby>流行<rp>（</rp><rt>はやり</rt><rp>）</rp></ruby>なんでしょうか？</p>
<p></p>]]>
        <![CDATA[<p style="text-align: center">※</p>
<p>　私はふだん、一般のテレビ番組などで宮沢賢治の言葉が紹介されたりすると、どこかがこそばいような恥ずかしいような、変な気持ちになってしまって落ち着かなくなるのですが、この『<a href="https://www.ktv.jp/ginganoippyou/" target="_self" title="">銀河の一票</a>』に関しては、第一回から最終回まで、とても面白く見させていただきました。テレビのドラマをこれほど楽しみつつリアタイ視聴するなんて、十数年昔のNHK朝ドラ『あまちゃん』以来かなあ、などと思ったりしました。</p>
<p>　このお話は、黒木華さん演ずる元政治家秘書の女性が、ふと出会ったスナックのママの人柄を見込んで、彼女を都知事選候補として擁立し、様々な仲間とともに選挙戦に挑むという、「選挙エンターテインメントドラマ」です。<br>　筋書きだけ聞くと、いったいどこに宮沢賢治が関わるんだと思ってしまいますが、賢治の「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html" target="_self" title="">農民芸術概論綱要</a>」の、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とか、あるいは「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」というような言葉が、政治に携わろうとする人々によって、大真面目に語られるところが、まさに前代未聞のドラマなのです。<br>　上の賢治の言葉などは、まあふつうは抽象的で観念的な理想論のように聞こえがちで、政治の世界にこんな言葉を持ち出したりすると、はなから青臭い素人と思われてしまうでしょうが、このドラマの世界と登場人物たちの間では、これらの言葉は素人っぽいながらも真摯な共感を呼んでいくところが、とても瑞々しく感じられました。</p>
<p>　ドラマの登場人物の役名にも趣向が凝らしてあって、主人公のまわりの人々は、何かしら「<strong><span style="font-weight: bold;" class="yellow_marker">光</span></strong>」に関係した名前になっています。</p>
<ul>
<li><strong><span class="yellow_marker">星</span></strong>野 <ruby>茉莉<rp>（</rp><rt>まつり</rt><rp>）</rp></ruby>（主人公：民政党幹事長の娘で長年その秘書をしていたが、ある事情で父から勘当され、自らの政治の夢を月岡あかりに託す）</li>
<li><strong><span class="yellow_marker">月</span></strong>岡 <strong><span class="yellow_marker">あかり</span></strong>（スナックの雇われママをしていたが、失意の茉莉と出会い、都知事選立候補を要請される）</li>
<li>雲井 <strong><span class="yellow_marker">蛍</span></strong>（元市長の颯爽としたシングルマザーで、あかり陣営の柱の一人）</li>
<li>白鳥 <strong><span class="yellow_marker">光</span></strong>留（有名声優だが、ふとした縁であかり陣営のウグイス嬢を担う）</li>
<li><strong><span class="yellow_marker">ブライト</span></strong>ブラインド（白樺 透：曝露系YouTuberだが、あかり陣営に協力する）</li>
<li><strong><span class="yellow_marker">日</span></strong>山 流<strong><span class="yellow_marker">星</span></strong>（主人公の幼馴染みで、都知事選のライバルとなる民政党若手ホープ）</li>
<li>藤堂 <strong><span class="yellow_marker">昴</span></strong>（日山流星の優秀な秘書）</li>
</ul>
<p>　また、主人公の父親が属する民政党の関係者の名字が、それぞれ岩手県内の地名なっているのも面白いです。もちろん宮沢賢治の縁とともに、ドラマの背景にかすかに見え隠れする東日本大震災の影ともつながっているのでしょうか。</p>
<ul>
<li>雫石 誠（幹事長政策秘書）</li>
<li>野田村（幹事長秘書室室長）</li>
<li>住田（幹事長秘書）</li>
<li>葛巻 仁志（民政党東京都支部連合会会長）</li>
<li>洋野（民政党都議団団長）</li>
<li>大船渡 秀樹（民政党東京都支部反主流派）</li>
<li>遠野 千春（民政党東京都支部反主流派）</li>
</ul>
<p>　また、画面には登場しない重要人物で、「楢ノ木」医科大学の「新座値利」という元医学部長も、ミステリアスな存在でした。この人の名前には、「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html" target="_self" title="">銀河鉄道の夜</a>」のいじめっ子「ザネリ」が含まれているということで、どういう意味づけが成されるのかずっと謎でしたが、最後にその自死の経緯が明かされます。<br>　あと賢治との関連では、幹事長が密談に使用する店の名前が「マリヴロン」というのが、童話「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1922_17654.html" target="_self" title="">マリヴロンと少女</a>」の純粋無垢さとは真逆の命名になっていて、いかにも清濁裏表ある政治の世界を、象徴するようでした。</p>
<p>　第9話で選挙告示日に、初めての演説を前に緊張する月岡あかり候補に対して、星野茉莉がかけた言葉「どこまでも、一緒に行きましょう！」は、まさにジョバンニとカムパネルラのような深い絆を感じさせました。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　ところで、ドラマの中で何度も出てきた、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉の意味そのものは、それに共感するかどうかは別として、文字どおり誰にも理解できるものです。そこには、この世界における「個人」と「全体」との関係についての問題があります。</p>
<p>　しかし、もう一つよく出てきた、「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」の方はどうでしょうか。<br>　「正しく強く生きる」というのが、あまりにストレートな堅い言葉で、最終回では月岡あかりさんも、「たまには『正しく強く』なくてもいいじゃない？」と言ったりしていました。それでもまあ、宮沢賢治という稀代の真面目人間は、いつも「正しく強く」生きたいと願い、そのためには「銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くこと」が肝要だと、考えたのでしょう。<br>　しかしこの、「銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行く」というのは、具体的にはいったいどういうことなのでしょうか。私たちは何をすればよいのでしょうか。<br>　頭の中に、無数の星々が渦巻く銀河系の映像を思い浮かべながら、生きていけばよいのでしょうか。しかし正直なところ、そんなことをしたからと言って、「正しく強く生きる」ことになるとは思えません。</p>
<p>　私は、賢治がここで「銀河系を自らの中に意識して」と言っているのは、たとえば下記の弟清六あての手紙で、「惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずる」と表現しているような、心的状態のことだろうと思います。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">われわれは楽しく正しく進まうではありませんか。苦痛を享楽できる人はほんたうの詩人です。もし風や光のなかに自分を忘れ世界がじぶんの庭になり、あるいは惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずるときはたのしいことではありませんか。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（宮沢清六あて書簡212, 1925年9月21日）</p>
</blockquote>
<p>　賢治は弟に宛てたこの手紙で、「楽しく正しく進もう」と呼びかけ、そのために「銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずる」という話を持ち出します。賢治にとっては、おそらくこれが「正しく強く生きる」ことの土台なのでしょう。<br>　ここで賢治が言っている「惚として……」という状態は、おそらく恍惚とした一種の神秘体験であり、これは一般的には、禅や瞑想の修行によって到達を目ざすような心的状態と思われます。言わば、「意識が自我の束縛から脱け出して、自己と世界全体が溶け合い一体化した、忘我の状態」です。「自分の外に出る」ことから、「<ruby>脱自<rp>（</rp><rt>エクスタシー</rt><rp>）</rp></ruby>＝ek(外に)-stasis(立つ)」とも呼ばれますが、ふだんから賢治は自然の中で、このような境地を時々体験していたことが、いくつかの詩から読みとれます。</p>
<p>　「銀河系を自らの中に意識して」というのは、自分と銀河系が融合して一体化し、重なり合っている状態に自分自身を置いて、まさにその境地に立ちながら「自己自身である銀河系全体」を体感し、思考し、対処していこうということなのだろうと思います。</p>
<p>　……というようなことを言われても、私たち一般人にはちょっと体験できない感覚ですが、しかしこのような意識をもって世界を眺めれば、「全体」と「個人」はぴったり重なり合っているわけで、「世界のこと」がそのまま「自分のこと」になり、「全体の幸福」と「個人の幸福」は、重なるのです。この感覚からすると、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉は、「そう考えるべきだ」というような倫理とか目標の話ではなく、賢治にとっては、まさに今この目の前にある、現実の感覚だったのだろうと思います。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a data-mt-asset-id="1135" class="mt-asset-link" href="https://ihatov.cc/images/Artist%27s_impression_of_the_Milky_Way_%28updated_-_annotated%29.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/07/Artist%27s_impression_of_the_Milky_Way_%28updated_-_annotated%29-thumb-640xauto-1135.jpg" width="640" height="640" alt="銀河系の想像図"></a><br>銀河系の想像図（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Artist%27s_impression_of_the_Milky_Way_(updated_-_annotated).jpg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　このように、ドラマ『銀河の一票』では、「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html" target="_self" title="">農民芸術概論綱要</a>」に登場する「銀河」と、「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html" target="_self" title="">銀河鉄道の夜</a>」の「銀河」が、絡まり合いながら話が進んでいったのですが、最後においてその二つの流れが、見事に統合されました。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです」……宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の一節です。<br>私、ずっと忘れてました。自分が一つの星だってこと。忘れようとしてました。一個一個強く光る力を持った星たちに、ぼんやりとした白い銀河って、まとめられて雑に扱われることを、なんとか受け入れなきゃって。<br>でも違う。違いますよね。私たちは、私たちは、一人一人が輝く星で、銀河があんなにきれいなのは、一つ一つの星が、きれいだから……。副知事候補、星野茉莉さんが、教えてくれました。<br>銀河……東京都をより輝かせる方法は、一つしかありません。一つ一つの星、都民一人一人が、より輝くこと。輝くことを、諦めも手放さなくてもいい、輝く気力をなくすこともなく、安心して、ほんとうのさいわいを見つけることができる、そんな世界を、一緒につくりませんか。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（月岡あかり候補の最終演説より）</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">きれいな話をしましょう。綺麗事だと揶揄されることを恐れずに、諦めず探しましょう。銀河が、一つ一つの星が、輝き続けられる道を。世界と、あなたと、私の幸福のために。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（日山流星候補の最終演説より）</p>
</blockquote>
<p>　「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html" target="_self" title="">農民芸術概論綱要</a>」で取り上げられていた、「全体」と「個人」の関係が、上の演説においては、「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html" target="_self" title="">銀河鉄道の夜</a>」の冒頭部分で先生が説明していた、「銀河系」と「一つ一つの星」の関係として、わかりやすく聴衆に提示されます。<br>　「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html" target="_self" title="">銀河鉄道の夜</a>」のこの部分に、こういう角度から光を当てて、「全体」と「個」の話に持って行くという解釈が、なかなか新鮮に感じました。脚本家の方に脱帽です。<br>　振り返れば、主人公のまわりの人々がそれぞれ「<strong><span style="font-weight: bold;" class="yellow_marker">光</span></strong>」に関係した名前になっていたところにも、（銀河の星のように）一人一人が光を放つ、という趣旨が込められていたのかもしれません。</p>
<p>　思えば、宮沢賢治の作品には、本当は皆が各々そのままで「<ruby>星<rp>（</rp><rt>スター</rt><rp>）</rp></ruby>」なのだというお話も、あったのでした。<br>　童話「<a href="https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1920_17655.html" target="_self" title="">ひのきとひなげし</a>」において、自分こそが「スター」になりたいと思っているひなげしたちは、悪魔の医者の「美容術」を受ける代金として、けしの実にできる阿片を全て引き渡すという契約を結ばされそうになりますが、それを見ていたひのきの木によって、間一髪で救われます。それでも美容術を受けられなかったと不満を述べるひなげしたちに対して、ひのきは語って聞かせます。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">「さうぢゃあないて。おまへたちが青いけし坊主のまんまでがりがり食はれてしまったらもう来年はこゝへは草が生えるだけ　それに第一スターになりたいなんておまへたち、スターて何だか知りもしない癖に。スターといふのはな、本統は天井のお星さまのことなんだ。そらあすこへもうお出になってゐる。もすこしたてばそらいちめんにおでましだ。さうさうオールスターキャストといふだらう。オールスターキャストといふのがつまりそれだ。つまり双子座様は双子座様のところにレオーノ様はレオーノ様のところに、ちゃんと定まった場所でめいめいのきまった光りやうをなさるのがオールスターキャスト、な、ところがありがたいもんでスターになりたいなりたいと云ってゐるおまへたちがそのままそっくりスターでな、おまけにオールスターキャストだといふことになってある。それはかうだ。聴けよ。<br>　あめなる花をほしと云ひ<br>　この世の星を花といふ。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（「ひのきとひなげし」より）</p>
</blockquote>
<p>　選挙において「有権者」というのは、一つの「<ruby>塊<rp>（</rp><rt>マス</rt><rp>）</rp></ruby>」として扱われ、世論調査や出口調査の対象となり、数字によって表されます。個人の「一票」なんて、あってもなくても結果には何の影響も及ぼさない、塵や埃のようなものにも感じられますが、実はそれは、銀河を構成している一つ一つの輝く「星」でもあるのですね。<br>　「銀河の一票」というタイトルには、そういう意味が込められていたのだと、最終回の演説を聴いて腑に落ちました。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　あゝあの白いそらの帯がみんな星だといふぞ。<br>　ところがいくら見てゐても、そのそらはひるま先生の云ったやうな、がらんとした冷いところだとは思はれませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかったのです。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（「銀河鉄道の夜」より）</p>
</blockquote>]]>
    </content>
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    <title>『春と修羅』編成経過の「第０段階」</title>
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    <published>2026-06-28T08:57:35Z</published>
    <updated>2026-06-30T14:24:01Z</updated>

    <summary>　入沢康夫さんは、『文學』1973年8月号-9月号に論文「詩集『春と修羅』の成立...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="「丸善特製二」原稿用紙" label="「丸善特製 二」原稿用紙" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="『春と修羅』" label="『春と修羅』" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　入沢康夫さんは、『文學』1973年8月号-9月号に論文「詩集『春と修羅』の成立」を発表し、宮沢賢治の詩集『春と修羅』の「詩集印刷用原稿」上で複雑に錯綜して記入されている「<ruby>数字記号<rp>（</rp><rt>ノンブル</rt><rp>）</rp></ruby>」の意味を解読することによって、この詩集がどのような経緯をたどって成立したのかを、具体的に明らかにされました。<br>　この成果は、『新校本宮澤賢治全集』第二巻校異篇の解説にも取り入れられ、そのpp.13-16において、下記のような「第一段階」から「第四段階」に至るプロセスとして、記載されています。<br>　ちなみに、下記で<span class="yellow_marker">黄色マーカー</span>を付けてあるのが、入沢さんが分析の手がかりとされた<ruby>数字記号<rp>（</rp><rt>ノンブル</rt><rp>）</rp></ruby>の一部です。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0; margin-top: 0;"><strong>第一段階</strong></p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">①詩集印刷用原稿の清書</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0.5rem 1rem;">②用紙下部に<span class="yellow_marker">括弧つき番号</span>を記入<br>（この段階で作品数62篇）</p>
<p style="margin-bottom: 0; margin-top: 0;"><strong>第二段階</strong></p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">①作品5篇「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/021_p.htm">蠕虫舞手</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/026_p.htm">青い槍の葉</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/027_p.htm">報告</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/035_p.htm">原体剣舞連</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/058_p.htm">雲とはんのき</a>」を新たに追加挿入</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">②巻末で「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/079_d.htm">自由画検定委員</a>」を削除、代りに「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/066_p.htm">一本木野</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/067_p.htm">鎔岩流</a>」を追加</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">③作品7篇「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/010_d.htm">春光呪詛</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/011_d.htm">有明</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/034_d.htm">天然誘接</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/052_d.htm">青森挽歌</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/053_d.htm">オホーツク挽歌</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/060_d.htm">風景とオルゴール</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/061_d.htm">風の偏倚</a>」の全体または一部を書き直して差し替え</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">④<span class="yellow_marker">括弧つき番号</span>の第一次修正</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0.5rem 1rem;">⑤詩集印刷用原稿が印刷所に渡され、印刷所が上部の<span class="yellow_marker">紙番号</span>・圏点・活字指定等を朱筆で記入<br>（この段階で作品数68篇）</p>
<p style="margin-bottom: 0; margin-top: 0;"><strong>第三段階</strong></p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">①「小岩井農場」で4箇所の原稿修正</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">②作品4篇「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/052_d.htm">青森挽歌</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/053_d.htm">オホーツク挽歌</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/009_d.htm">春と修羅</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/015_d.htm">風景</a>」の全体または一部を書き直して差し替え</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">③作品2篇「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/068_p.htm">イーハトヴの氷霧</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/069_p.htm">冬と銀河鉄道</a>」を巻末に追加</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">④墨による手入れにて<span class="yellow_marker">ノンブル</span>のずれを調整</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0.5rem 1rem;">⑤「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/053_d.htm">オホーツク挽歌</a>」の差替稿以下で<span class="yellow_marker">括弧番号</span>の修正を再修正<br>（この段階で作品数70篇）</p>
<p style="margin-bottom: 0; margin-top: 0;"><strong>第四段階</strong></p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">①<span class="yellow_marker">青色クレヨンの番号</span>記入（目次原稿はこの時期に書かれたと推定）</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">②印刷所が<span class="yellow_marker">草色絵具番号</span>を記入</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">③巻末の原稿3枚（「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/068_p.htm">イーハトヴの氷霧</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/069_p.htm">冬と銀河鉄道</a>」が含まれていたと推定）を2枚の新稿と差し替え</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">④<span class="yellow_marker">橙色クレヨンの番号</span>記入</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">⑤「途上二篇」を削除し、「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/035_d.htm">原体剣舞連</a>」冒頭を書き直して差し替え</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">⑥印刷が大部分進行した段階で正誤表原稿執筆<br>（この段階で作品数69篇）</p>
<p style="margin-top: 0px; text-align: right; font-size: 12px">（『新校本宮澤賢治全集』第二巻校異篇pp.13-17より, 一部簡略化）</p>
</blockquote>]]>
        <![CDATA[<p>　まるで謎の符丁のような数多のノンブルの動態を解読することによって、原稿群の時間的推移を上記のように明らかにした入沢康夫さんの鮮やかな手際は、抜群の数学的知性をも感じさせるものでした。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　このような入沢さんのお仕事は、言わば不滅の金字塔のようなものですが、これはあくまで『春と修羅』の「詩集印刷用原稿」の上に記された情報のみをもとにして、構築されたものでした。<br>　しかし実は、賢治が「詩集印刷用原稿」を印刷所に渡してしまった後にも、この詩集に対する作者の彫琢作業は続いており、それは「詩集印刷用原稿」と「初版本」の間の、テクストの相違点として残されています。</p>
<p>　とは言っても、その相違点のうちで印刷所のミスなどによって生じた錯誤は、作者の意思を反映したものではありませんので、もちろんそのような変化を作者による詩集編成作業の一環と見なすことはできません。テクストの相違点の中には、錯誤ではなく、明らかに賢治が意図的に字句を修正したと考えられる箇所がいくつも存在しており、これらはやはり作者がこの詩集を、一つの作品として彫琢しようとしていた作業の証拠と思われるのです。</p>
<p>　そのような「詩集印刷用原稿」と「初版本」の間の相違点とは、具体的には下表のような内容です。</p>
<table border="1" style="border-collapse: collapse; width: 99.9742%; height: 116.583px">
<tbody>
<tr>
<th style="width: 19%; text-align: center">作品名</th>
<th style="width: 5%; text-align: center">行</th>
<th style="width: 38%; text-align: center">詩集印刷用原稿</th>
<th style="width: 38%; text-align: center">初版本</th>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/009_d.htm">春と修羅</a></td>
<td style="width: 5%">15,43,<br>51</td>
<td style="width: 38%">Zypressen</td>
<td style="width: 38%">ZYPRESSEN</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/020_d.htm">真空溶媒</a></td>
<td style="width: 5%">150</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">さうだ　神はほめられよ　雨だ</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">ありがたい有難い神はほめられよ　雨だ</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/020_d.htm">真空溶媒</a></td>
<td style="width: 5%">244</td>
<td style="width: 38%">沙漠<ruby>行旅<rp>（</rp><rt>かうりよ</rt><rp>）</rp></ruby></td>
<td style="width: 38%">沙漠<ruby>旅行<rp>（</rp><rt>りよかう</rt><rp>）</rp></ruby></td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/021_d.htm">蠕虫舞手</a></td>
<td style="width: 5%">31,51,<br>55</td>
<td style="width: 38%"><span style="font-family: 'Century Schoolbook';"><ruby><em>8</em></ruby></span><ruby><rp>（</rp><rt>エイト</rt><rp>）</rp></ruby> 　<span style="font-family: 'Century Schoolbook';"><ruby><em>γ</em></ruby></span><ruby><rp>（</rp><rt>ガムマア</rt><rp>）</rp></ruby> 　<span style="font-family: 'Century Schoolbook';"><ruby><em>e</em></ruby></span><ruby><rp>（</rp><rt>イー</rt><rp>）</rp></ruby> 　<span style="font-family: 'Century Schoolbook';"><ruby><em>6</em></ruby></span><ruby><rp>（</rp><rt>スイツクス</rt><rp>）</rp></ruby>　 <span style="font-family: 'Century Schoolbook';"><ruby><em>α</em></ruby></span><ruby><rp>（</rp><rt>アルフア</rt><rp>）</rp></ruby></td>
<td style="width: 38%">エイト　ガムマア　イー　スイツクス　アルフア</td>
</tr>
<tr style="height: 26px;">
<td style="width: 19%; height: 26px"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/022_p.htm">小岩井農場</a></td>
<td style="width: 5%; height: 26px"></td>
<td style="width: 38%; height: 26px">ぱーと</td>
<td style="width: 38%; height: 26px">パート</td>
</tr>
<tr style="height: 0px;">
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/022_p.htm">小岩井農場</a></td>
<td style="width: 5%">569</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">この変態を性慾といふ</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">この傾向を性慾といふ</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr style="height: 0px;">
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/022_p.htm">小岩井農場</a></td>
<td style="width: 5%">573-574</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">畢竟わたくしにはあんまり恐ろしいことだ</p>
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">そしていくら恐ろしいといっても</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">わたくしにはあんまり恐ろしいことだ</p>
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">けれどもいくら恐ろしいといつても</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr style="height: 0px;">
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/022_p.htm">小岩井農場</a></td>
<td style="width: 5%">588</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">わたくしは透明な軌道をすすむ</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">ひとは透明な軌道をすすむ</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr style="height: 0px;">
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/026_d.htm">青い槍の葉</a></td>
<td style="width: 5%">29</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">ふっといきつくぶりきのやなぎ</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">風に霧ふくぶりきのやなぎ</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr style="height: 0px;">
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/030_d.htm">高原</a></td>
<td style="width: 5%">題名</td>
<td style="width: 38%">叫び</td>
<td style="width: 38%">高原</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/035_d.htm">原体剣舞連</a></td>
<td style="width: 5%">27,37,<br>44,49</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/037_d.htm">山巡査</a></td>
<td style="width: 5%">9</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">あんまりロシア風だよ</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">あんまりロシアふうだよ</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/047_d.htm">永訣の朝</a></td>
<td style="width: 5%">49-51</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">Umarede Kurutate</p>
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">Kondoha Kotani Warã no goto bagaride</p>
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">Kurusumanã yoni umaredekuru</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">うまれでくるたて</p>
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">こんどはこたにわりやのごとばかりで</p>
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">くるしまなあよにうまれてくる</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/053_d.htm">オホーツク挽歌</a></td>
<td style="width: 5%">10</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">morning-gloryのそのglory</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">モーニンググローリのそのグローリ</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/053_d.htm">オホーツク挽歌</a></td>
<td style="width: 5%">15</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">浜でいちばん賑やかなとこはどこですかときいたとき</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">浜でいちばん賑やかなとこはどこですかときいた時</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/053_d.htm">オホーツク挽歌</a></td>
<td style="width: 5%">92</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">いまはもうどんどんどんどん流れてゐる</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">いまはもうどんどん流れてゐる</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/054_d.htm">樺太鉄道</a></td>
<td style="width: 5%"></td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">O, My reverence, Sacred St. Vetura Alba!</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">〔削除して1行アキ〕</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/054_d.htm">樺太鉄道</a></td>
<td style="width: 5%">68</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">またえぞにふ<ruby>桃花心木<rp>（</rp><rt>マホガニー</rt><rp>）</rp></ruby>の柵</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">またえぞにふと<ruby>桃花心木<rp>（</rp><rt>マホガニー</rt><rp>）</rp></ruby>の柵</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/055_d.htm">鈴谷平原</a></td>
<td style="width: 5%">27</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">やなぎらんの群落が</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">いちめんのやなぎらんの群落が</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/056_d.htm">噴火湾（ノクターン）</a></td>
<td style="width: 5%">1</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">稚い豌豆の澱粉や緑金が</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">稚いえんどうの澱粉や緑金が</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/057_d.htm">不貪欲戒</a></td>
<td style="width: 5%">9</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">粗剛な<ruby>Oryza<rp>（</rp><rt>オリザ</rt><rp>）</rp></ruby> <ruby>sativa<rp>（</rp><rt>サテイヴア</rt><rp>）</rp></ruby>といふ植物の人工群落が</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/060_d.htm">風景とオルゴール</a></td>
<td style="width: 5%">52</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">ひときれそらにうかぶロシニ暁のモティーフ</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">ひときれそらにうかぶ暁のモテイーフ</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/061_d.htm">風の偏倚</a></td>
<td style="width: 5%">15</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">それはつめたい虹をあげ</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">（それはつめたい虹をあげ）</p>
</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 19%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/069_d.htm">冬と銀河ステーシヨン</a></td>
<td style="width: 5%">17</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">あゝ　Joseph Pasternackの指揮する</p>
</div>
</td>
<td style="width: 38%">
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="margin-top: 0; margin-bottom: 0; text-indent: -1rem;">あゝ　Josef Pasternackの指揮する</p>
</div>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>　上記のようなテクストの修正は、作者が詩集『春と修羅』を完成させるための「最後の段階」として行った作業とも言えますので、従来の「第一段階」～「第四段階」の〈後に〉続く段階と見なせることから、以前に「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2024/05/post_1110.htm" target="_self" title="">『春と修羅』編成経過の「第五段階」</a>」という記事にまとめてみました。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　そこで今回考えてみたいのは、入沢さんによる「第一段階」において、賢治が「詩集印刷用原稿」を清書するよりも〈前の〉時点で、彼は詩集編成のためにどんな準備を行っていたのか、ということです。<br>　これを考えていく上で重要になるのが、賢治がこの頃使用していた「丸善特製　二」と呼ばれる原稿用紙です。</p>
<p>　一般的な原稿用紙というのは、縦に20字のマス目があって、横は右半分に10行＋左半分に10行、すなわち合計20行があり、1枚に20×20＝400字が収まるという、「400字詰め原稿用紙」です。<br>　これに対して、上記の「丸善特製　二」原稿用紙は、縦の字数は25字、横は右半分に12行＋左半分に12行、すなわち合計24行という作りになっていて、1枚に25×24＝600字が収まるようになっているところが、変則的です。<br>　そして、ここが重要なのですが、『春と修羅』の刊本の1ページの活字構成も、縦が25字、横は12行となっていて、「丸善特製　二」原稿用紙を半分に折ったものと、全く同じ作りになっているということです。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">本文の書かれ方について特記すべきは、用紙の25字×12行という字詰めが、初版本本文の活字の組み方と合致していることで、原稿用紙の右半・左半が、それぞれ、そのまま初版本の各一頁に相当するように書かれ、紙を二つに折って重ねて綴じれば、詩集の雛形になる仕組みになっている。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『新校本全集』第二巻校異篇p.11）</p>
</blockquote>
<p>　この、「丸善特製　二」原稿用紙の半分が、詩集『春と修羅』の1頁に対応するという様子は、例えば下の画像を見ればおわかりいただけると思います。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a data-mt-asset-id="1133" class="mt-asset-link" href="https://ihatov.cc/images/20260628c.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/06/20260628c-thumb-640xauto-1133.jpg" width="640" height="496" alt="『春と修羅』詩集印刷用原稿第59葉"></a><br>（『新校本全集』第二巻口絵より）</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a data-mt-asset-id="1132" class="mt-asset-link" href="https://ihatov.cc/images/20260628b.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/06/20260628b-thumb-640xauto-1132.jpg" width="640" height="538" alt="『春と修羅』初版本pp.127-128"></a><br>（国会図書館デジタルコレクション『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/979415" target="_self" title="">春と修羅</a>』より）</p>
<p>　上の「詩集印刷用原稿」で、「印象」の3行目の後に「X型のかけがねのついた帯革をしめ」という1行が追加されているために、その後のテクストが後ろに1行ずつずれることとなり、「高級の霧」の本文は、原稿ではp.128中に3行入っていたのに対して、初版本では2行しか入っていません。しかしご覧のとおり、基本的には原稿用紙と初版本とは、同じテクストの構成になっているわけです。</p>
<p>　以上のように、賢治にとって「丸善特製　二」という原稿用紙は、詩集『春と修羅』を編成する上で、非常に重要な役割を果たしたわけです。<br>　もちろん賢治も、この原稿用紙を『春と修羅』編成とは別の目的のために、たとえば童話や書簡や創作メモのために使用している場合もあるのですが、「丸善特製　二」原稿用紙上に、「詩が清書されている」という状態には、特別な意味があると考えてもよいのではないでしょうか。<br>　すなわち、個々の作品を推敲するという目的のためならば、他の用紙を用いてもよいわけですし、またたとえ「丸善特製　二」を用いたとしても、そこに「下書き」のような大雑把な書き方をしてもよいはずですが、わざわざ「詩集の雛形」となる形式の用紙に、きれいに「清書する」という作業を行うということは、作者がその作品を詩集に収録する可能性も念頭に置いていることを、示唆していると思われるからです。</p>
<p>　そこで、『新校本全集』第十六巻(上)の「草稿通観篇」をもとにして、「詩集印刷用原稿」以外で、賢治が「丸善特製　二」原稿用紙に、詩を「清書」している稿（清書稿または清書後手入稿）を、全て列挙してみると、次のようになります。</p>
<p style="text-align: center; margin: 0; font-weight: bold;">「丸善特製　二」原稿用紙上の清書稿</p>
<table border="0" cellpadding="0" cellspacing="0" width="100%" style="font-size: 12px; border-collapse: collapse; margin-top: 0;">
<tbody>
<tr>
<th style="font-size: 12px; width: 21%; text-align: center">題名</th>
<th style="font-size: 12px; width: 20%; text-align: center">分類</th>
<th style="font-size: 12px; width: 10%; text-align: center">題名表記</th>
<th style="font-size: 12px; width: 15%; text-align: center">作品連続</th>
<th style="font-size: 12px; width: 18%; text-align: center">インク</th>
<th style="font-size: 12px; width: 13%; text-align: center">ノンブル</th>
</tr>
<tr>
<td style="font-size: 12px; width: 21%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/073_d.htm" target="_self" title="">厨川停車場</a></td>
<td style="font-size: 12px; width: 20%">『春と修羅』補遺</td>
<td style="font-size: 12px; width: 10%"></td>
<td style="font-size: 12px; width: 15%">「夜と柏」へ</td>
<td style="font-size: 12px; width: 18%">記載なし</td>
<td style="font-size: 12px; width: 13%">なし</td>
</tr>
<tr>
<td style="font-size: 12px; width: 21%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/074_d.htm" target="_self" title="">青森挽歌　三</a></td>
<td style="font-size: 12px; width: 20%">『春と修羅』補遺</td>
<td style="font-size: 12px; width: 10%">二重括弧</td>
<td style="font-size: 12px; width: 15%"></td>
<td style="font-size: 12px; width: 18%">ブルーブラックインク</td>
<td style="font-size: 12px; width: 13%">なし</td>
</tr>
<tr>
<td style="font-size: 12px; width: 21%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/075_d.htm" target="_self" title="">津軽海峡</a></td>
<td style="font-size: 12px; width: 20%">『春と修羅』補遺</td>
<td style="font-size: 12px; width: 10%">二重括弧</td>
<td style="font-size: 12px; width: 15%">「駒ヶ岳」へ</td>
<td style="font-size: 12px; width: 18%">青っぽいブルーブラックインク</td>
<td style="font-size: 12px; width: 13%">なし</td>
</tr>
<tr>
<td style="font-size: 12px; width: 21%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/076_d.htm" target="_self" title="">駒ヶ岳</a></td>
<td style="font-size: 12px; width: 20%">『春と修羅』補遺</td>
<td style="font-size: 12px; width: 10%">二重括弧</td>
<td style="font-size: 12px; width: 15%">「旭川」へ</td>
<td style="font-size: 12px; width: 18%">青っぽいブルーブラックインク</td>
<td style="font-size: 12px; width: 13%">なし</td>
</tr>
<tr>
<td style="font-size: 12px; width: 21%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/077_d.htm" target="_self" title="">旭川</a></td>
<td style="font-size: 12px; width: 20%">『春と修羅』補遺</td>
<td style="font-size: 12px; width: 10%">二重括弧<br>句点</td>
<td style="font-size: 12px; width: 15%"></td>
<td style="font-size: 12px; width: 18%">青っぽいブルーブラックインク</td>
<td style="font-size: 12px; width: 13%">なし</td>
</tr>
<tr>
<td style="font-size: 12px; width: 21%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/078_d.htm" target="_self" title="">宗谷挽歌</a></td>
<td style="font-size: 12px; width: 20%">『春と修羅』補遺</td>
<td style="font-size: 12px; width: 10%">二重括弧</td>
<td style="font-size: 12px; width: 15%"></td>
<td style="font-size: 12px; width: 18%">青っぽいブルーブラックインク</td>
<td style="font-size: 12px; width: 13%">なし</td>
</tr>
<tr>
<td style="font-size: 12px; width: 21%"><a href="https://ihatov.cc/haru_1/079_d.htm" target="_self" title="">自由画検定委員</a></td>
<td style="font-size: 12px; width: 20%">『春と修羅』補遺</td>
<td style="font-size: 12px; width: 10%"></td>
<td style="font-size: 12px; width: 15%"></td>
<td style="font-size: 12px; width: 18%">ブルーブラックインク</td>
<td style="font-size: 12px; width: 13%">括弧つき番号</td>
</tr>
<tr>
<td style="font-size: 12px; width: 21%"><a href="https://ihatov.cc/hoi_1/471_d.htm" target="_self" title="">展勝地</a></td>
<td style="font-size: 12px; width: 20%">補遺詩篇Ⅰ</td>
<td style="font-size: 12px; width: 10%">句点</td>
<td style="font-size: 12px; width: 15%"></td>
<td style="font-size: 12px; width: 18%">青っぽいインク</td>
<td style="font-size: 12px; width: 13%">なし</td>
</tr>
<tr>
<td style="font-size: 12px; width: 21%"><a href="https://ihatov.cc/hoi_1/472_d.htm" target="_self" title="">〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕</a></td>
<td style="font-size: 12px; width: 20%">補遺詩篇Ⅰ</td>
<td style="font-size: 12px; width: 10%">なし</td>
<td style="font-size: 12px; width: 15%"></td>
<td style="font-size: 12px; width: 18%">青っぽいインク</td>
<td style="font-size: 12px; width: 13%">なし</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>　上記のうち、「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/073_d.htm" target="_self" title="">厨川停車場</a>」から「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/079_d.htm" target="_self" title="">自由画検定委員</a>」に至る7篇は、いずれも詩集『春と修羅』と同時期に書かれた作品で、『新校本全集』では「『春と修羅』補遺」に分類されています。このうち「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/074_d.htm" target="_self" title="">青森挽歌　三</a>」は、「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/052_d.htm" target="_self" title="">青森挽歌</a>」の先駆形の一部と見なされるものであり、他は一時は『春と修羅』への収録が考慮された可能性があるものの、最終的には収録されなかった作品です。</p>
<p>　また、「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/471_d.htm" target="_self" title="">展勝地</a>」と「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/472_d.htm" target="_self" title="">〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕</a>」は、「補遺詩篇Ⅰ」に分類されており、これまでその創作時期は、公式には同定されていなかった作品です。しかし私としては、「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/471_d.htm" target="_self" title="">展勝地</a>」に登場する生徒桜羽場寛の在校期間は1922年4月から1924年3月で『春と修羅』の期間と一致すること、また「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/472_d.htm" target="_self" title="">〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕</a>」は1923年8月の樺太旅行帰路の宗谷海峡上の描写と推測されることから、いずれも『春と修羅』の期間に属する作品に違いないと、個人的には思っています（詳しくは、記事「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2005/09/post_322.htm" target="_self" title="">「展勝地」という断片</a>」および「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2005/09/post_319.htm" target="_self" title="">西洋料理店のような？</a>」参照）。<br>　すなわちこの2篇も、一時は『春と修羅』への収録を検討されていた可能性が、ありうるのです。</p>
<p>　そこで次に、上表の9篇と、入沢康夫さんによる『春と修羅』編成経過の各段階との関係を、見てみます。<br>　まずこの9篇のうち「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/074_d.htm" target="_self" title="">青森挽歌　三</a>」は、その後発展して「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/052_d.htm" target="_self" title="">青森挽歌</a>」の一部になり、『春と修羅』に収録されたと思われますので、ここで独立した作品としては扱いません。</p>
<p>　それ以外の8篇のうちで、入沢さんによる段階分けに登場するのは、「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/079_d.htm" target="_self" title="">自由画検定委員</a>」の1篇のみであり、この作品は「第二段階」の➁で削除されたと考えられています。上の表では、この作品の原稿のみが「ノンブル」を記されていたところに、その事情は表れています。<br>　すなわち、上表で『春と修羅』には収録されていない8篇のうちでは、「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/079_d.htm" target="_self" title="">自由画検定委員</a>」は最も遅くまで『春と修羅』収録候補として残っていた作品だったのです。</p>
<p>　残りの7篇は、入沢さんによる段階分けには登場せず、もしもこれらがいったんは『春と修羅』の編成対象として考慮されたとすれば、「第一段階」よりも前の時点で、収録対象から外されたと考えられます。<br>　それではこの7篇のうちで、いずれかの作品がそれ以外よりも遅くまで、詩集収録候補に残っていたと推測させるような所見は、存在するでしょうか。</p>
<p>　ここで注目すべきは、たとえば「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/073_d.htm" target="_self" title="">厨川停車場</a>」の場合は、作品の終わった原稿用紙上において、引き続き次の作品である「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/050_1.htm" target="_self" title="">夜と柏</a>」のテクストが、始まっているところです。<br>　これに対して、たとえば「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/472_d.htm" target="_self" title="">〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕</a>」は、作品が終わった原稿用紙の余白はそのまま残されており、続けて別の作品が記入されてはいないのです。<br>　後者からは、印刷所に渡すと同じ原稿用紙上に、特定の一つの作品をとりあえず清書してみた、という状況が想定されるのに対して、前者においては、個々の詩作品が次々と並べて記される、「詩集」の体裁をすでに取っているわけです。<br>　すなわち、前者の方が後者よりも、詩集編成のプロセスが、より先に進行している状況を示しているのではないかと思います。</p>
<p>　とりあえず上記の論では、「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/073_d.htm" target="_self" title="">厨川停車場</a>」と「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/472_d.htm" target="_self" title="">〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕</a>」の2つの作品だけを例示しましたが、使用されているインクの種類や題名に二重括弧が付けられているという共通点から、「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/073_d.htm" target="_self" title="">厨川停車場</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/050_1.htm" target="_self" title="">夜と柏</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/074_d.htm" target="_self" title="">青森挽歌　三</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/075_d.htm" target="_self" title="">津軽海峡</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/076_d.htm" target="_self" title="">駒ヶ岳</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/077_d.htm" target="_self" title="">旭川</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/078_d.htm" target="_self" title="">宗谷挽歌</a>」という7作品の原稿は、一つのグループを成していると考えられ、また「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/471_d.htm" target="_self" title="">展勝地</a>」と「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/472_d.htm" target="_self" title="">〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕</a>」は、「青っぽいインク」で書かれ、裏には童話「毒もみのすきな署長さん」の原稿が書かれているという共通点から、この2作品は別のグループを成していると考えることができます。<br>　そして、上記のように作品が原稿用紙に連続して記入されているか否かという観点から、「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/073_d.htm" target="_self" title="">厨川停車場</a>」のグループの方が、「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/471_d.htm" target="_self" title="">展勝地</a>」のグループよりも、詩集編成がより本格的になった後の段階に属するのではないかと、推測されるわけです。</p>
<p>　実は「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/471_d.htm" target="_self" title="">展勝地</a>」は、1枚の原稿用紙の最後まで作品テクストが記入され、明らかにセンテンスの途中で切れた形で残っていますので、これが「次の作品に連続する」形だったのか否かということは不明なのですが、とりあえず筆記インクや裏面の童話の連続から、「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/472_d.htm" target="_self" title="">〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕</a>」と同じグループとしたものです。</p>
<p>　ところで、「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/472_d.htm" target="_self" title="">〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕</a>」のように、別の作品と連続させずに一つの作品が書かれているだけで、はたして「詩集編成の一環」と言いうるのか、という疑問はありうると思いますが、私としては、『春と修羅』の印刷用原稿を作成する上で特別な意味がある「丸善特製　二」原稿用紙の上に、わざわざ「清書」を行った、ということには、作者としてもかなり大きな意味があったはずだと考え、あえて「詩集編成経過の第０段階」の一部と考える次第です。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　以上をもとに、今回考えてみた「第０段階」と、<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2024/05/post_1110.htm" target="_self" title="">以前の記事</a>で想定した「第五段階」とを、従来の「第一段階」～「第四段階」と繋げて示すと、下記のようになります。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0; margin-top: 0;"><strong>第０段階</strong></p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">①「丸善特製　二」原稿用紙に、青っぽいインクで作品を清書<br>（この段階の原稿で残されているのは、「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/471_d.htm" target="_self" title="">展勝地</a>」と「<a href="https://ihatov.cc/hoi_1/472_d.htm" target="_self" title="">〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕</a>」のみ）</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0.5rem 1rem;">②同上原稿用紙に、ブルーブラックインクで作品を順に連ねて清書<br>（この段階の原稿で残されているのは、「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/073_d.htm" target="_self" title="">厨川停車場</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/050_1.htm" target="_self" title="">夜と柏</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/074_d.htm" target="_self" title="">青森挽歌　三</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/075_d.htm" target="_self" title="">津軽海峡</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/076_d.htm" target="_self" title="">駒ヶ岳</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/077_d.htm" target="_self" title="">旭川</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/078_d.htm" target="_self" title="">宗谷挽歌</a>」のみ）</p>
<p style="margin-bottom: 0; margin-top: 0;"><strong>第一段階</strong></p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">①詩集印刷用原稿の清書</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0.5rem 1rem;">②用紙下部に括弧つき番号を記入<br>（この段階で作品数62篇）</p>
<p style="margin-bottom: 0; margin-top: 0;"><strong>第二段階</strong></p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">①作品5篇「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/021_p.htm">蠕虫舞手</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/026_p.htm">青い槍の葉</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/027_p.htm">報告</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/035_p.htm">原体剣舞連</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/058_p.htm">雲とはんのき</a>」を新たに追加挿入</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">②巻末で「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/079_d.htm">自由画検定委員</a>」を削除、代りに「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/066_p.htm">一本木野</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/067_p.htm">鎔岩流</a>」を追加</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">③作品7篇「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/010_d.htm">春光呪詛</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/011_d.htm">有明</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/034_d.htm">天然誘接</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/052_d.htm">青森挽歌</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/053_d.htm">オホーツク挽歌</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/060_d.htm">風景とオルゴール</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/061_d.htm">風の偏倚</a>」の全体または一部を書き直して差し替え</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">④括弧つき番号の第一次修正</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0.5rem 1rem;">⑤詩集印刷用原稿が印刷所に渡され、印刷所が上部の紙番号・圏点・活字指定等を朱筆で記入<br>（この段階で作品数68篇）</p>
<p style="margin-bottom: 0; margin-top: 0;"><strong>第三段階</strong></p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">①「小岩井農場」で4箇所の原稿修正</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">②作品4篇「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/052_d.htm">青森挽歌</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/053_d.htm">オホーツク挽歌</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/009_d.htm">春と修羅</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/015_d.htm">風景</a>」の全体または一部を書き直して差し替え</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">③作品2篇「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/068_p.htm">イーハトヴの氷霧</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/069_p.htm">冬と銀河鉄道</a>」を巻末に追加</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">④墨による手入れにてノンブルのずれを調整</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0.5rem 1rem;">⑤「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/053_d.htm">オホーツク挽歌</a>」の差替稿以下で括弧番号の修正を再修正<br>（この段階で作品数70篇）</p>
<p style="margin-bottom: 0; margin-top: 0;"><strong>第四段階</strong></p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">①青色クレヨンの番号記入（目次原稿はこの時期に書かれたと推定）</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">②印刷所が草色絵具番号を記入</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">③巻末の原稿3枚（「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/068_p.htm">イーハトヴの氷霧</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/069_p.htm">冬と銀河鉄道</a>」が含まれていたと推定）を2枚の新稿と差し替え</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">④橙色クレヨンの番号記入</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">⑤「途上二篇」を削除し、「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/035_d.htm">原体剣舞連</a>」冒頭を書き直して差し替え</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0.5rem 1rem;">⑥印刷が大部分進行した段階で正誤表原稿執筆<br>（この段階で作品数69篇）</p>
<p style="margin-bottom: 0; margin-top: 0;"><strong>第五段階</strong></p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0 0 0 1rem;">①作品題名「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/030_p.htm" target="_self" title="">叫び</a>」を「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/030_d.htm" target="_self" title="">高原</a>」に改めたほか、いくつかの作品のテクストを、印刷所に直接伝える形で修正</p>
</blockquote>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/20260628d.jpg" width="320" height="180" alt="入沢康夫『プリオシン海岸からの報告』"><br>入沢康夫『プリオシン海岸からの報告』表紙より</p>]]>
    </content>
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    <title>洞熊の絶滅</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/06/post_1196.htm" />
    <id>tag:ihatov.cc,2026://1.8360</id>

    <published>2026-06-14T08:01:43Z</published>
    <updated>2026-07-06T05:30:18Z</updated>

    <summary>　「寓話 洞熊学校を卒業した三人」で、三人の生徒を教える先生の「洞熊」というのは...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="寓話洞熊学校を卒業した三人" label="寓話 洞熊学校を卒業した三人" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　「寓話 洞熊学校を卒業した三人」で、三人の生徒を教える先生の「洞熊」というのは、どんな動物なのでしょうか。<br>　「<a href="https://pz-garden.stardust31.com/namae.html" target="_self" title="">動物図鑑・動物の名前一覧</a>」を見ても、「<a href="https://gist.github.com/uneco/5856580" target="_self" title="">動物の名前一覧・GitHub</a>」を見ても、「洞熊（ホラクマ）」という名前はなく、これは現代の日本で一般的に用いられている動物名ではないようです。また、賢治の作品に関してこういう場合にいつも強い味方になってくれる『定本 宮澤賢治語彙辞典』にも、この名前は載っていません。</p>
<p>　そこで、賢治の時代に「洞熊」が何を指していたのか調べるために、例によって国会図書館デジタルコレクションで、この語を検索してみました。<br>　すると、洞熊というのは、氷河時代に棲息していた大型の熊で、すでに絶滅した動物であることがわかりました。</p>
<p>　たとえば、1895年（明治28年）刊行の『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/831231/1/134" target="_self" title="">化石学教科書</a>』では、化石で発見されるクマ科の動物について、下のように説明されています。（<strong>太字</strong>は引用者）</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">●熊科 Ursidæ　本科ノ動物ハ肉食スルノミナラズ傍ラ又木實、樹根、蜂蜜等ヲモ啖フ而テ其特徴トスル所ハ其大臼齒大ニシテ四角形ヲナシ多峰ヲ具フルト食肉齒ノ發達他ノ食肉類ノ如ク完全ナラザルトニアリ〇熊 Ursus　歐洲及印度ノ鮮新ニ現ハレ洪積ニ多ク今モ尚ホ生存ス而テ<strong>洞熊</strong> Ursus spelaus（cave-bear）ト稱スル一種ハ歐洲洪積ニ普ク見ル所ノモノニシテ其大ナルコト現世ノ白熊 Ice-bear（U. maritimus）ニ勝レリ<span style="color: #999999">〔後略〕</span></p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（横山又三郎著『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/831231/1/134" target="_self" title="">化石学教科書</a>』中巻p.664）</p>
</blockquote>]]>
        <![CDATA[<p>　すなわち「洞熊」は、洪積世（現在の呼称では更新世）に棲息していた熊で、その大きさは、現生の最大の熊であるホッキョクグマよりも大きかったということです。</p>
<p>　また、1906年（明治39年）に刊行された『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/988019/1/259" target="_self" title="">地史学</a>』では、洞熊と当時の人類の関わりについて、下のように書かれています。（<strong>太字</strong>は引用者）</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">此の洞穴住居の一例を擧ぐれば、スウェビヤのアハ谷のものである、此の所の洞穴はホーレフェルス（空岩の意）と稱して、其の中には極々粗製の石刀、馴鹿及び馬の齒の根に穴をあけたるもの、熊の骨、尖らした馴鹿の角、象、犀、馴鹿、羚羊、虎（今の虎より三分一丈大なり）等の骨があつた、是に因て考へて見れば、當時の人類の重なる職業は狩獵であつて、其の目的物の重なるものは<strong>洞熊</strong>（長さ一丈もあり）であつたのである、此の熊の頭骨を見るに、何れも敲き潰してあつて、下顎は頭骨より引き離され、斧鉞の如きものに細工せられてあり、又肋骨は矢の根に製せられて居る</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（横山又次郎述『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/988019/1/259" target="_self" title="">地史学</a>』p.504）</p>
</blockquote>
<p>　上記によれば、当時の人類は、洞熊を主な対象として狩猟を行っており、その骨を斧や鏃に加工して使っていたということです。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　このように「洞熊」は、既に絶滅したとは言え、氷河時代においては人類との縁も深い重要な動物だったらしいのです。それにもかかわらず、今ほとんどこの名前を耳にすることがなくなっている理由は、現在はこの動物は「ホラアナグマ」と呼ばれるようになっているからです。</p>
<p>　Wikipediaの「<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A9%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%9E" target="_self" title="">ホラアナグマ</a>」の項目には、次のように説明されています。</p>
<blockquote>
<p>ホラアナグマまたはドウクツグマ（洞穴熊、学名：<span style="font-family: 'Century Schoolbook';"><em>Ursus spelaeus</em></span>）は、既に絶滅したクマ科の動物であり、更新世後期（氷期）のヨーロッパ､アジア南西部に生息していた。洞窟の中で骨が見つかることからその名がついた。</p>
</blockquote>
<p>　<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ursus_spelaeus_Sergiodlarosa.jpg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>には、下のように立派なホラアナグマの想像図も載っています。</p>
<p><img data-mt-asset-id="1128" src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/06/Ursus_spelaeus_Sergiodlarosa-thumb-640xauto-1128.jpg" width="640" height="431" alt="ホラアナグマ想像図" class="asset asset-image" style="display: block"></p>
<p>　また、『ホラアナグマ物語─ある絶滅動物の生と死─』と題して、この動物が氷河時代にどのように生活していて、人類とどんな関わりを持ち、そして結局絶滅に至ったのか、という物語をまとめた本も刊行されています。</p>
<table class="g-tools_table" style="width: 100%">
<tbody>
<tr>
<td valign="top" class="g-tools_table" style="width: 22%; min-width: 100px"><a href="https://amzn.to/3RXJHHT" target="_blank"><span class="g-tools_img"><img alt="ホラアナグマ物語: ある絶滅動物の生と死" src="https://m.media-amazon.com/images/I/71jr9DHCPLL._SY522_.jpg" style="box-shadow:5px 5px 10px; border:1px solid #ccc;"></span></a>
<p></p>
</td>
<td valign="top" class="g-tools_table">
<p style="margin: 0;"><a href="https://amzn.to/3RXJHHT" target="_blank"><span class="g-tools_body">ホラアナグマ物語: ある絶滅動物の生と死</span></a><span class="g-tools_body"><img style="border-bottom: medium none; border-left: medium none; border-top: medium none; border-right: medium none" alt="" src="https://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=ihatovcc-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1"><br>ビョーン クルテン (著)<br>インデックスシステムコンサル (2016/3/1)<br></span><a href="https://amzn.to/3RXJHHT" target="_blank"><span class="g-tools_body">Amazonで詳しく見る</span></a></p>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　ということで、「洞熊学校を卒業した三人」の「洞熊先生」は、氷河時代に絶滅した「ホラアナグマ」だったことはわかったのですが、しかしそれにしても賢治は、なぜこのお話の「先生」として、一般にはあまり馴染みのない、こんな絶滅種を登場させたのでしょうか。生徒たちとして出てくる、蜘蛛、なめくじ、狸は、どれも私たちの身近にいて親しみのある生き物なのに、これでは先生と生徒の知名度のギャップが、あまりに大きい感じです。</p>
<div style="float: right; margin: 0 0 10px 15px; line-height: 0.9em;"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/06/Meles_anakuma_%28head%29-thumb-200xauto-1129.jpg" width="200" height="200" alt="ニホンアナグマ"><span style="font-size: 12px; display: block; text-align: center; line-height: 1.1em;">ニホンアナグマ<br><a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Meles_anakuma_(head).JPG" target="_self" title="">Wikipedia Commons</a>より</span></div>
<p>　たとえば私たち一般人は、よく似た名前の動物として、「穴熊」ならばそれなりに知っています。穴熊も穴居生活をしていますし、私たちにとってはよほど馴染みがあり、このユーモラスな賢治の寓話にぴったりの、ちょっととぼけたような味もあります。<br>　「穴熊学校を卒業した三人」の方が、何となく親しみは湧く感じがするのですが、どうして賢治は「洞熊学校」としたのでしょうか。</p>
<p>　ここで私が思うのは、上でも紹介したような、洞熊＝ホラアナグマの、並外れた「大きさ」です。<br>　オスの成獣で比較すると、現生種最大のホッキョクグマが体重400-600kg、ヒグマ／グリズリーベアが250-500kgに対して、ホラアナグマは平均350-600kgで、推定体重1トンの個体も発見されているということです。</p>
<p>　このように、ホラアナグマが巨体を持っていたことは、洞熊先生の次のような「教え」に合致しています。</p>
<blockquote>
<p>洞熊先生の教へることは三つでした。<br>一年生のときは、うさぎと亀のかけくらのことで、も一つは大きいものがいちばん立派だといふことでした。それから三人はみんな一番にならうと一生けん命競争しました。</p>
</blockquote>
<p>　「教へることは三つ」と言いながら、「うさぎと亀のかけくらのこと」と、「大きいものがいちばん立派だといふこと」の、二つだけしか出てこないのが不思議なところですが、その推敲前の草稿では、下のようになっていました。</p>
<blockquote>
<p>洞熊先生は三つのことを教へた。一つは世の中はみんな競争であることで、も一つは、だから何でもほかの人を通りこして大きくえらくならなければならんといふことであった。も一つは大きいものが一番立派だといふことであった。</p>
</blockquote>
<p>　すなわち洞熊先生の教えは、➀競争の普遍性、➁他人を追い越し大きく偉くなることの重要性、③大きいものが立派であること、という三点だったようです。<br>　このように、「大きいものが一番立派だ」ということを教える者としては、自分自身が古今東西のクマの中で最大の巨躯を誇った洞熊（ホラアナグマ）という存在は、まさにうってつけなのではないでしょうか。</p>
<p>　実際、洞熊先生の教えを受けた生徒たちは、蜘蛛の場合は体の大きさには限界があるものの、その巣を二銭銅貨くらいの小さなものから、最後はすばらしく大きく拡大し、さらにあちこち十も網をかけました。<br>　なめくじは、相撲をして相手を投げてはどんどん食べていき、ついには「途方もなく大きく」なりました。<br>　狸も、兎や狼をだまして次々と食べ、さらに籾を三升も呑んだ結果、「からだがゴム風船のやうにふくらんで」しまいました。</p>
<p>　それぞれが、必死で競争しながら、「大きいことはいいことだ」という洞熊先生の教えを、忠実に実行したのです。<br>　しかし残念ながら、最後には三人とも、自滅してしまいます。</p>
<p>　現実に氷河時代に棲息したホラアナグマは、おそらく「大きく偉くなろう」と思ったから巨大化したわけではなくて、寒冷地への適応の結果、大きくなっていったのだと思われます。マンモスなどで典型的に見られるように、非常に寒い環境では、体が大きい方が体積に比して表面積が小さくなり体温を保ちやすいこと（ベルクマンの法則）や、また大量の皮下脂肪を蓄えることで保温効果が上がることなどから、進化とともに体の巨大化が起こる傾向があるということです。現代でも、ホッキョクグマやゾウアザラシの大きさが、それを物語っています。</p>
<p>　いずれにせよ、「大きいことはいいことだ」という価値観を生徒に教え込む先生として、賢治が洞熊（ホラアナグマ）を登場させたのには、こういう特徴があったからではないかと思います。</p>
<p>　さらにそれに加えてもう一つ、三人の生徒が大きく偉くなろうとした結果、みんなそれぞれ自滅してしまったのと同じように、現実世界で巨大化していた洞熊も、氷河期の終わりとともに絶滅し、地球上から姿を消してしまったのです。洞熊がたどったこのような運命も、大きさを追求する「競争」がもたらす結果の象徴として、賢治にとっては寓話的な意味があったのかもしれません。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/20260614a.jpg" width="640" height="122" alt="洞熊学校を卒業した三人"><br>「洞熊学校を卒業した三人」（谷内六郎 画：福音館書店『どんぐりと山ねこ』より）</p>]]>
    </content>
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    <title>小しゃくなことを言ふまいぞ</title>
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    <published>2026-06-07T09:49:45Z</published>
    <updated>2026-06-07T09:36:52Z</updated>

    <summary>　賢治の最初期の童話「蜘蛛となめくぢと狸」の中に、次のような箇所があります。 谷...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
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    <category term="義太夫節" label="義太夫節" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="蜘蛛となめくぢと狸" label="蜘蛛となめくぢと狸" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　賢治の最初期の童話「蜘蛛となめくぢと狸」の中に、次のような箇所があります。</p>
<blockquote>
<div style="float: right; margin: 0 0 10px 15px; line-height: 0.9em;"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/06/20260607b-thumb-220xauto-1127.jpg" width="220" height="277" alt="蜘蛛とかげろう"><br><span style="font-size: 12px; display: block; text-align: right; line-height: 1.1em;">谷内六郎 画「洞熊学校を卒業した三人」<br>（福音館書店『どんぐりと山ねこ』より）</span></div>
<p>　蜘蛛はそして葉のかげに戻って、六つの眼をギラギラ光らせながらじっと網をみつめて居りました。<br>「ここはどこでござりまするな。」と云ひながらめくらのかげろふが杖をついてやって参りました。<br>「ここは宿屋ですよ。」と蜘蛛が六つの眼を別々にパチパチさせながら云ひました。<br>　かげろふはやれやれといふやうに、巣へ腰をかけました。蜘蛛は走って出ました。そして<br>「さあ、お茶をおあがりなさい。」と云ひながらいきなりかげろふの胴中に噛みつきました。<br>　かげろふはお茶をとらうとして出した手を空にあげて、バタバタもがきながら、<br>「あはれやむすめ、父親が、<br>　旅で果てたと聞いたなら」と哀れな声で歌ひ出しました。<br>「えい。やかましい。じたばたするな。」と蜘蛛が云ひました。するとかげろふは手を合せて<br>「お慈悲でございます。遺言のあひだ、ほんのしばらくお待ちなされて下されませ。」とねがひました。<br>　蜘蛛もすこし哀れになって<br>「よし早くやれ。」といってかげろふの足をつかんで待ってゐました。かげろふはほんたうにあはれな細い声ではじめから歌ひ直しました。<br>「あはれやむすめちゝおやが、<br>　旅ではてたと聞いたなら、<br>　ちさいあの手に白手甲、<br>　いとし<ruby>巡礼<rp>（</rp><rt>じゅんれ</rt><rp>）</rp></ruby>の雨とかぜ。<br>　もうしご冥加ご報謝と、<br>　かどなみなみに立つとても、<br>　非道の蜘蛛の網ざしき、<br>　さわるまいぞや。よるまいぞ。」<br>「小しゃくなことを。」蜘蛛はたゞ一息に、かげろふを食ひ殺してしまひました。そしてしばらくそらを向いて、腹をこすってからちょっと眼をぱちぱちさせて「小しゃくなことを言ふまいぞ。」とふざけたやうに歌ひながら又糸をはきました。</p>
</blockquote>
<p></p>]]>
        <![CDATA[<p>　この部分で何と言っても面白いのは、引用部の後半において、年老いたかげろうが遺言として哀れな歌を一節唄い、蜘蛛はそんなかげろうを食べてしまった後で、かげろうの歌の一部をもじって、「小しゃくなことを言ふまいぞ♪」と一人で唄うという場面です。</p>
<p>　弱く儚いかげろうは、蜘蛛に捕まると何の抵抗もできませんが、しかし今際のきわに「非道の蜘蛛の網ざしき、さわるまいぞや。よるまいぞ」と唄うことによって、残酷な捕食者に、一矢を報います。<br>　無力なはずの相手の一矢にカチンときた蜘蛛は、思わず「小しゃくなことを」と怒りを顕わにしますが、食事も終わって余裕を取り戻すと、「小しゃくなことを言ふまいぞ」と、おどけた調子で唄ってみせるのです。この部分の旋律は、かげろうの「さわるまいぞや。よるまいぞ」の旋律と同じ節で、替え歌にして唄ったのでしょう。</p>
<p>　哀しくもユーモラスな一場面ですが、ここでかげろうが唄う、「あはれやむすめちゝおやが、旅で果てたと聞いたなら……」という節回しは、三味線の伴奏にでも乗せたらぴったりの雰囲気です。これはきっと、賢治が幼少期から親しんでいた、「義太夫節」なのではないでしょうか。中野新治氏も、學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』におけるこの童話の解説の中で、この部分のことを「浄瑠璃の口説きのような遺言」と書いておられます。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/06/20260604a-thumb-240xauto-1125.jpg" width="240" height="240" alt="祖父宮沢喜助" style="display: inline-block; float: right; margin: 0 30px 0 15px;"></p>
<p>　賢治の祖父喜助は、義太夫節をレコードで聴くのが大好きで、賢治や弟清六にSPレコードをかけさせては、楽しんでいたということです。<br>　清六は書いています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　私は小学校に入るまでレコードというものは浄瑠璃だけしかないものだと思っていた。というのは明治四十年ごろはまだ蓄音器が珍しかったころで、私の家では祖父も叔母も両親も義太夫が好きだったので、勢いレコードも越路大夫とか豊竹呂昇などの吹込んだものしか私の耳に入らなかったからである。<br>　そのころ、私より九歳年上だった兄の賢治は中学校に行って家から離れていたので、私は小さい時から朝顔ラッパの小さな蓄音器で老人たちにそれを聞かせる掛りだった。そのために私は小学校に入る前に二三十枚あった義太夫の題名と節まわしを知らず知らずのうちに覚えてしまったのだが、内容はよくわからないことばかりなので、だんだん兄も私も義太夫には興味をなくしてしまい、暫くの間私達はレコードには縁がなくなったのであった。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（宮沢清六「兄とレコード」：『兄のトランク』より）</p>
</blockquote>
<p>　上に出てくる「叔母」とは、父政次郎の妹ヤスのことで、次のように伝えられています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　二女ヤスは、踏み台にのらないと流しに手の届かぬ時分からせっせと働いたというが、イチが政次郎に嫁いできたときは一五歳で、レコードでおぼえた義太夫のさわりを小声で語りながら台所しごとをしたという、明るい気さくな性格で、一九〇六（明治三九）年九月二九日、岩田金次郎と結婚した。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『新校本全集』年譜篇p.10）</p>
</blockquote>
<p>　このように、祖父のみならず両親も叔母も、みんなが義太夫節を愛好する家で育ち、幼少期には弟清六の先代の「レコード掛り」として、やはり義太夫節の節回しを暗記していたであろう賢治のことですから、「あはれやむすめちゝおやが、旅で果てたと聞いたなら……」などという「詞」や「節」は、自家薬籠中のもののように湧いてきたのではないかと思います。<br>　このような音楽的な「詞」や「節」の豊かなセンスは、たとえば「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/035_d.htm" target="_self" title="">原体剣舞連</a>」のような作品にも生かされ、また晩年の文語詩の根底にも流れていたのではないかと思います。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　そして、このかげろうの唄の節回しを、蜘蛛が拝借しつつ「小しゃくなことを言ふまいぞ♪」と「ふざけたやうに歌」うというようなやり取りは、当時の家族全員が義太夫節に精通していた宮沢家においては、洒落た会話術として、普段から行われていたのではないかと思うのです。<br>　家族に向かって何かの言葉を言う際に、よく似た場面で唄われる義太夫の節回しを借りて、面白おかしく演じてみせる、というようなことです。</p>
<p>　例として、これは義太夫ではなくて歌舞伎由来ですが、「弁天娘女男白浪」において、弁天小僧菊之助が啖呵を切って言う台詞に「知らざあ言って聞かせやしょう！」というのがあります。この台詞は、一般の日常会話の中でも、「知らないなら、教えてあげましょう」ということを、非常に芝居がかって大袈裟に言う際に、使われることがあります。<br>　あるいは、これも歌舞伎の「楼門五三桐」で、石川五右衛門が南禅寺の山門の上から京の町を眺め、「絶景かな、絶景かな～」と言う場面がありますが、この台詞も日常会話の中で、観光地などに行って美しい景色に感動した際などに、使うことができます。</p>
<p>　すなわち当時の宮沢家では、家族の会話の中で、義太夫の一節をもじって何かを述べる、「義太夫節会話」とでもいうような物言いが、家庭内で楽しまれていたのではないか、と想像するのです。そして、冒頭に引用したかげろうと蜘蛛のやり取りというのは、登場キャラクターの間で、このような「義太夫節のもじり」が交わされている場面なのではないかと、思う次第です。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　このようなことを想像するのは、現代の賢治オタクと言われるような人々の間でも、「賢治作品会話」とも言うべき、非常にマニアックで珍妙なやり取りが、行われることがあるからです。</p>
<p>　たとえば、ある人が親しい人から困った目にあわされた時に、</p>
<blockquote>
<p>「まどふて下さい。まどふて下さい。」<sup>＊1</sup></p>
</blockquote>
<p>と、少し高い声で責めるように言う、というような用法があります。<br>　あるいは、相手に深い感謝の意を表したい時に、ことさら厳粛な顔をして、</p>
<blockquote>
<p>「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」<sup>＊2</sup></p>
</blockquote>
<p>と述べる、というやり方もあります。これは、相手が女性である場合に用いるのがよいでしょう。<br>　また、何かの事柄がうまくできたのか？と尋ねられた際には、</p>
<blockquote>
<p>「いゝ。うまく落ちた。」<sup>＊3</sup></p>
</blockquote>
<p>と、小さな声でそっと答える、というのもあります。</p>
<p style="padding-left: 4%; font-size: 12px;"><sup>＊1</sup>「｢ツェ｣ねずみ」より<br><sup>＊2</sup>「永訣の朝」より<br><sup>＊3</sup>「セロ弾きのゴーシュ」より</p>
<p>　まあ、「賢治作品会話」にせよ「義太夫節会話」にせよ、内輪だけで楽しむような他愛もないお遊びですが、まだ喜助お祖父さんが元気で、子供たちも賑やかだった頃の宮沢家では、冒頭で赤い手長の蜘蛛が口ずさんだような節回しが、ふと茶の間で披露されて笑いを誘うこともあったのではないかと、勝手に想像しています。</p>]]>
    </content>
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    <title>ワープ的想像力</title>
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    <published>2026-05-31T14:10:08Z</published>
    <updated>2026-06-23T08:43:29Z</updated>

    <summary>　最近ちょっと「宮沢賢治の想像力」について考えてみているのですが、とにかく賢治と...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="想像力" label="想像力" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="書簡" label="書簡" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="楢ノ木大学士の野宿" label="楢ノ木大学士の野宿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="銀河鉄道の夜" label="銀河鉄道の夜" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　最近ちょっと「宮沢賢治の想像力」について考えてみているのですが、とにかく賢治という人は、いろいろな意味で想像力が豊かだったことには、間違いありません。</p>
<p>　その賢治のいろいろな想像力のなかでも、私にとってとりわけ印象的なのは、ある状態から遠く離れた別の状態へと、一気に爆発的な跳躍をしてしまうような、物語の展開です。<br>　このような「爆発的に跳躍する想像力」のことを、ここでは「ワープ的想像力」と名づけてみます。「ワープ」とは、SF物語などで仮想されている、光よりも速いスピードで遠く離れた場所に一気に移動する航法のことで、「空間の歪み」とか「負の質量」を用いるなどという理屈が付けられています。</p>
<div style="width: 320px; max-width: 100%; text-align: right; margin: 0 auto; line-height: 0.8em;"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/05/Star_Trek_Warp_Field.svg-thumb-320xauto-1122.png" width="320" height="320" alt="アルクビエレ・ドライブ"><br><span style="font-size: 10px;">アルクビエレ・ドライブのイメージ図（</span><a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Star_Trek_Warp_Field.svg" target="_self" title=""><span style="font-size: 10px;">Wikimedia Commons</span></a><span style="font-size: 10px;">より）</span></div>
<p>　宮沢賢治の物語には、時にこういう桁はずれの飛躍が現れて、驚くべき効果を発揮します。</p>]]>
        <![CDATA[<p style="text-align: center">※</p>
<p>　たとえば、「銀河鉄道の夜」の一節です。</p>
<blockquote>
<p>　ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。<br>　町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのやうにともり、子供らの歌ふ声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしづかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニは町のはづれから遠く黒くひろがった野原をみわたしました。<br>　そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐると考へますと、ジョバンニは、もう何とも云へずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。<br>　あゝあの白いそらの帯がみんな星だといふぞ。<br>　ところがいくら見てゐても、そのそらはひるま先生の云ったやうな、がらんとした冷いところだとは思はれませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかったのです。そしてジョバンニは青い琴の星が、三つにも四つにもなって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、たうたう蕈のやうに長く延びるのを見ました。またすぐ眼の下のまちまでがやっぱりぼんやりしたたくさんの星の集りか一つの大きなけむりかのやうに見えるやうに思ひました。</p>
<p>　　　　六、銀河ステーション</p>
<p>　そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍のやうに、ぺかぺか消えたりともったりしてゐるのを見ました。それはだんだんはっきりして、たうたうりんとうごかないやうになり、濃い鋼青のそらの野原にたちました。いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のやうな、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。<br>　するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云ふ声がしたと思ふといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火をいっぺんに化石させて、そら中に沈めたといふ工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いたといふ風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは思はず何べんも眼を擦ってしまひました。</p>
</blockquote>
<p>　あまりに素敵な箇所なので、思わず長々と引用してしまいましたが、町はずれの丘の上にいるジョバンニの眼には、見下ろす町の灯が、まずは「海の底のお宮のけしき」のように映り、次に汽車がやって来て「小さな列車の窓は一列小さく赤く見え」、それから眼を上げると夜空が「小さな林や牧場やらある野原のやうに」思え、もう一度下を見ると「すぐ眼の下のまちまでがやっぱりぼんやりしたたくさんの星の集り」に見えて……、という景色のオーバーラップがいろいろ重なった上で、ついにジョバンニが気づくと、銀河の彼方のはくちょう座にある「銀河ステーション」に来ているのです。<br>　これが、「ワープ」と言うべき瞬間です。</p>
<p>　そのワープの時の光の眩しさは、「億万の蛍烏賊の火をいっぺんに化石させて、そら中に沈めた」とか、「（ダイアモンド会社で）かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いた」などという、賢治独特の斬新な比喩によって、表現されています。劇場版の映画「銀河鉄道999」でも、鉄郎とメーテルが<ruby>999<rp>（</rp><rt>スリーナイン</rt><rp>）</rp></ruby>の駅に移動する瞬間には画面が光って白飛びしましたが、この場面の賢治の独創的な比喩には、さすがに及ばないように思います。</p>
<p>　はくちょう座のデネブは、全天の一等星のうちで最も遠く、地球から1400光年ほどの彼方にあるということですが、イメージとしてはこれだけの距離を、ジョバンニは一気に「ワープ」したという感じです。<br>　これを創り出した賢治の「ワープ的想像力」は、上記のような天文学的距離を一気に跳躍するわけですから、「天文学的想像力」とも言いたくなります。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　一方、童話「楢ノ木大学士の野宿」は一種の<ruby>時間旅行<rp>（</rp><rt>タイム・トラベル</rt><rp>）</rp></ruby>で、主人公の大学士が野宿をするたびに、周囲の自然が遠く離れた時間における姿を呈します。</p>
<p>　野宿第一夜の夢で大学士は、周りを囲む4つの山々が「岩頸」として地上に現れた時代に行き、それぞれの山の言葉を聞きます。その年代は、「葛丸カルデラ」の生成時期から考えると、今から数百万年前ほどになるのではないかと推測されます。</p>
<p>　野宿第二夜の大学士は、地下でひしめき合う様々な岩石の声を聞きますが、1500万年前のことを話題にする岩がいる一方で、いつしか各岩石はどんどん風化していき、声も途絶えて消滅してしまうのです。この部分で大学士は、過去ではなく未来に旅しているようで、作中の言葉で岩石の命は「まあ長くても一万年は持ちません」と言われていることからすると、大学士は今から1万年ほど未来まで行っているように思われます。</p>
<p>　野宿第三夜の大学士は、イギリス海岸を思わせるような「頁岩の波に洗はれる海岸を大股に歩いて」、洞の中でまどろみ、「直径が一米ばかりある五本指の足あと」を見つけたので跡をつけていったところ、「長さ十間、ざらざらの鼠いろの皮の雷竜」に出くわして、まさに食べられそうになるところで目を覚まします。雷竜がいるということですから、これは今から1億5000年前の中生代への「ワープ」ということになります。</p>
<p>　こちらの作品に見られる「ワープ的想像力」は、このような地質学的時間を一気に跳躍するわけなので、「地質学的想像力」と呼ぶこともできるでしょう。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　これらの「天文学的」「地質学的」と形容できる空間や時間のワープは、莫大な「物理的隔たり」を跳躍するものですが、これとはまた違って、人間の運命や生き方における遙かな隔たりの先に、一気に飛躍してしまうようなお話もあります。<br>　次は、「氷と後光（習作）」の一節です。</p>
<blockquote>
<p>「あら、この子の頭のとこで氷が後光のやうになってますわ。」若いお母さんはそっと云ひました。若いお父さんはちょっとそっちを見て、それから少し泣くやうにわらひました。<br>「この子供が大きくなってね、それからまっすぐに立ちあがってあらゆる生物のために、無上菩提を求めるなら、そのときは本当にその光がこの子に来るのだよ。それは私たちには何だかちょっとかなしいやうにも思はれるけれども、もちろんさう祈らなければならないのだ。」<br>　若いお母さんはだまって下を向いてゐました。</p>
</blockquote>
<p>　ここでは、小さな赤ん坊の頭の後ろの車窓のガラスに付いた氷の模様が、尊い「後光」あるいは「光背」のように見えたことがきっかけで、その若い父親は、我が子が成長して「菩薩」として歩んでいく姿を、一瞬のうちに想像して、そのために泣きそうにさえなってしまうのです。そして妻に向かって（同時におそらく自分にも向けて）、「それは私たちには何だかちょっとかなしいやうにも思はれるけれども、もちろんさう祈らなければならないのだ」と言うのです。</p>
<p>　ここには、常人にはとてもついていけないような、極端な発想の飛躍があります。仏典に登場する如来や菩薩ならば、こういった何気ない現世の些事の背後に、深い真実を透視することもあるのでしょうが、この若い父親の途方もない考えは、いったいどう捉えたらよいのでしょうか。<br>　これには妻も、咄嗟に何と答えてよいかわからなかったようですが、しかしこういうのも、いかにも賢治らしい「ワープ的想像力」の、一例と言ってよいものだと思います。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　「天文学的」という形容詞は、地球の大きさを遙かに超える空間的隔たりを表す言葉であり、「地質学的」という形容詞は、人間の歴史を遙かに超える時間的隔たりを表す言葉です。「銀河鉄道の夜」および「楢ノ木大学士の野宿」において、賢治の想像力はそれぞれ「天文学的空間を跳躍するワープ」と「地質学的時間を跳躍するワープ」を成し遂げているわけですが、私が賢治の「ワープ的想像力」の最たる例ではないかと思う下記の書簡では、「地質学的時間」をも遙かに超えて、「天文学的時間」とでも言うしかない、想像力の壮大な跳躍が行われます。<br>　1915年8月29日、19歳になったばかりの賢治は、盛岡高等農林学校1年の同級生高橋秀松にあてた書簡10に、次のように記しています。</p>
<blockquote>
<p>今朝から十二里歩きました　鉄道工事で新らしい岩石が沢山出てゐます　私が一つの岩片をカチツと割りますと初めこの連中が瓦斯だつた時分に見た空間が紺碧に変つて光つてゐる事に愕いて叫ぶこともできずきらきらと輝いてゐる黒雲母を見ます　今夜はもう秋です　スコウピオも北斗七星も願はしい静な脈を打つてゐます</p>
</blockquote>
<p>　「この連中」＝岩片が、「瓦斯だつた時分」とはいったいいつのことかと考えてみると、地球が誕生してから後には、岩石がマグマとして液体状になっていた時期はあっても、ガスになった時はありません。そのような状態は、地球が誕生する前に、太陽系がガス状の「原始惑星系円盤」だった時期にまで、溯る必要があるのです。</p>
<p>　宇宙空間に散らばる分子が、徐々に集合して「分子雲」になり、重力によってその中心部に物質が凝集して核融合が始まり、太陽が誕生します。太陽の周囲にガス状のまま残る分子雲は「原始惑星系円盤」を形成し、その中にだんだん濃淡ができていって、さらに物質の凝集が進んで「微惑星」が生まれ、微惑星が衝突と結合を繰り返し、ついに地球のような岩石型惑星が現れます。</p>
<p>　「この連中が瓦斯だつた時分」というのは、地球誕生に先立って、後に地球となる分子がまだガス状に漂っていた、今から45～46億年も昔のことなのです。</p>
<div class="youtube_4-3"><iframe width="640" height="480" src="https://www.youtube.com/embed/cfDz3kVPoQ0?si=WhbjcwdHTL9q-N93" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></div>
<p><img src="https://ihatov.cc/images/20260531a.png" width="320" height="397" alt="太陽系の成生" style="display: inline-block; float: right; margin-left: 15px; max-width: 60%;"></p>
<p>　このように、太陽の周囲の円盤状のガスから各惑星が生まれたという説は、「星雲説」と呼ばれますが、これは18世紀にカントおよびラプラスが提唱したもので、賢治の時代の天文学では、既に広く知られたことでした。たとえば、『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/1258115/1/118" target="_self" title="">盛岡高等農林学校図書館和漢諸目録</a>』に蔵書として収録されている、1905年刊行の『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/831059/1/33" target="_self" title="">天文講話</a>』という書籍には、右図「太陽系ノ成生」とともに、「かんと及ビらぷらーすナル兩碩學ノ考説ニヨレバ、太陽系ハ元ト回轉シツヽアツタ一大瓦斯ノ球デアツテ、遊星ハ此ノ瓦斯球ヨリ分離シタル瓦斯カラ出來タモノデアル」との記述がありますから、賢治が「地球はガスからできた」と知っていたのは、当然のことと言えます。</p>
<p>　それにしても、賢治は花崗岩か何かの岩石をハンマーで割って、そこに顔を出した黒雲母がキラキラ輝くのを見て、「俺が岩を割ってこいつに外界を見せてやったのは、地球誕生前にこれらの分子がまだガスだった時以来のことだ」と、一瞬にして思いを巡らし、さらに黒雲母の身になって、「前回の空は宇宙の暗黒だったのに、今回の空は紺碧だ！」と、黒雲母の驚きにまで同化したというのは、まさに宇宙的規模で、45億年を超えて働く想像力だと、感嘆せずにはいられません。</p>
<p>　これこそが、賢治の「ワープ的想像力」の、最たる例だと思うのです。</p>]]>
    </content>
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    <title>『タネリとオホーツクの風』</title>
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    <published>2026-05-24T01:20:06Z</published>
    <updated>2026-06-16T09:12:35Z</updated>

    <summary>　『タネリとオホーツクの風　宮沢賢治『サガレンと八月』の続編』という本を読みまし...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="賢治関連本" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="サガレンと八月" label="サガレンと八月" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　『タネリとオホーツクの風　宮沢賢治『サガレンと八月』の続編』という本を読みました。</p>
<p style="margin: 0;"></p>
<table class="g-tools_table" style="width: 100%">
<tbody>
<tr>
<td valign="top" class="g-tools_table" style="width: 22%; min-width: 100px; `: undefined">
<p><a href="https://amzn.to/42R0iPO" target="_blank"><span class="g-tools_img"><img alt="タネリとオホーツクの風　宮沢賢治『サガレンと八月』の続編" src="https://m.media-amazon.com/images/I/61vZV5WpabL._SL1500_.jpg" style="box-shadow:5px 5px 10px; border:1px solid #ccc;"></span></a></p>
<p></p>
</td>
<td valign="top" class="g-tools_table">
<p style="margin: 0;"><a href="https://amzn.to/42R0iPO" target="_blank"><span class="g-tools_body">タネリとオホーツクの風　宮沢賢治『サガレンと八月』の続編</span></a><span class="g-tools_body"><img style="border-bottom: medium none; border-left: medium none; border-top: medium none; border-right: medium none" alt="" src="https://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=ihatovcc-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1"><br>永井 明彦 (著)<br>銀の鈴社 (2026/4/30)<br></span><a href="https://amzn.to/42R0iPO" target="_blank"><span class="g-tools_body">Amazonで詳しく見る</span></a></p>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>　表紙はオホーツクの海のような深い青色で、美しい装幀です。</p>]]>
        <![CDATA[<p style="text-align: center">※</p>
<p>　賢治の童話「サガレンと八月」は、トシの死の翌夏の樺太旅行を契機に書かれましたが、未完のまま残された断片です。<br>　その冒頭には、賢治の孤独と自然との交感が、印象的に記されています。</p>
<blockquote>
<p>「何の用でこゝへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」<br>西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風が私の見すぼらしい黄いろの上着をぱたぱたかすめながら何べんも何べんも通って行きました。<br>「おれは内地の農林学校の助手だよ、だから標本を集めに来たんだい。」私はだんだん雲の消えて青ぞらの出て来る空を見ながら、威張ってさう云ひましたらもうその風は海の青い暗い波の上に行ってゐていまの返事も聞かないやうあとからあとから別の風が来て勝手に叫んで行きました。<br>「何の用でこゝへ来たの　何かしらべに来たの　しらべに来たの　何かしらべに来たの。」もう相手にならないと思ひながら私はだまって海の方を見てゐましたら風は親切に又叫ぶのでした。<br>「何してるの、何を考へてるの、何か見てゐるの、何かしらべに来たの。」私はそこでたうたうまた言ってしまひました。<br>「そんなにどんどん行っちまはないでせっかくひとへ物を訊いたらしばらく返事を待ってゐたらいゝぢゃないか。」けれどもそれもまた風がみんな一語づつ切れ切れに持って行ってしまひました。もうほんたうにだめなやつだ、はなしにもなんにもなったもんぢゃない　と私がぷいっと歩き出さうとしたときでした。向ふの海が孔雀石いろと暗い藍いろと縞になってゐるその堺あたりでどうもすきとほった風どもが波のために少しゆれながらぐるっと集って私からとって行ったきれぎれの語を丁度ぼろぼろになった地図を組み合せる時のやうに息をこらしてぢっと見つめながらいろいろにはぎ合せてゐるのをちらっと私は見ました。<br>また私はそこから風どもが送ってよこした安心のやうな気持ちも感じて受け取りました。</p>
</blockquote>
<p>　ここは、賢治の作品のなかでも大好きな箇所の一つです。そしてこれに続く童話の部分では、海辺で暮らすタネリという少年が、母親の言いつけを破ってしまったために、犬神に連れ去られ、蟹の姿に変えられてチョウザメの下男にされたところで、残念ながらお話は中断してしまいます。</p>
<p>　この後、物語はどんな風に展開していったのだろうかというのは、賢治ファンなら誰しも気になるところだと思いますが、その「続編」として創作されたのが、この『タネリとオホーツクの風』だというわけです。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　実は、私も今から9年ほど前に、「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2017/06/post_881.htm" target="_self" title="">「サガレンと八月」の続き</a>」という記事において、この物語の続きについて想像をめぐらせてみたことがありました。<br>　その際に拠り所としたポイントは、①賢治が「サガレンと八月」を着想した樺太は、亡き妹トシとのコンタクトを求める傷心旅行の目的地だったこと、②チョウザメ＝樺太であること、③タネリには兄がいたが、やはりタネリと同じ過ちを犯したらしいこと、という三点でした。</p>
<p>　まず①の点は、上にも引用した「サガレンと八月」冒頭で「農林学校の助手」が海辺に佇む場面が、「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/053_d.htm" target="_self" title="">オホーツク挽歌</a>」に描かれた情景と同じ、樺太の栄浜らしいことにも表れています。<img title="サハリンとチョウザメ" alt="サハリンとチョウザメ" src="https://ihatov.cc/bw_uploads/20150419a.jpg" width="146" height="290" border="0" style="margin-top: 10px; margin-left: 15px; margin-bottom: 10px; float: right;">「サガレンと八月」には妹のことは全く出てきませんが、作者の心中の景色は、トシを思う「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/053_d.htm" target="_self" title="">オホーツク挽歌</a>」と同じなのです。<br>　また、②の樺太＝チョウザメという比喩は、チェーホフの『サハリン島』にも出てくるもので、その形の類似性から当時のロシアではよく言われていたようです。右図のように、その形は本当によく似ているのです。<br>　となると、タネリが「チョウザメの下男として海に囚われる」というのは、「樺太の海底に囚われる」という事態の比喩ではないかと考えられます。<br>　ここで、①とともに連想されるのが、やはりこの樺太旅行において書かれた「<a href="https://ihatov.cc/haru_1/078_d.htm" target="_self" title="">宗谷挽歌</a>」の次の一節です。</p>
<blockquote>
<p>こんな誰も居ない夜の甲板で<br>（雨さへ少し降ってゐるし、）<br>海峡を越えて行かうとしたら、<br>（漆黒の闇のうつくしさ。）<br>私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。<br>それはないやうな因果連鎖になってゐる。<br>けれどももしとし子が夜過ぎて<br>どこからか私を呼んだなら<br>私はもちろん落ちて行く。<br><span style="color: #999999">〔中略〕</span><br>われわれが信じわれわれの行かうとするみちが<br>もしまちがひであったなら<br>究竟の幸福にいたらないなら<br>いままっすぐにやって来て<br>私にそれを知らせて呉れ。<br>みんなのほんたうの幸福を求めてなら<br>私たちはこのまゝこのまっくらな<br>海に封ぜられても悔いてはいけない。<br><span style="color: #999999">〔後略〕</span></p>
</blockquote>
<p>　この樺太旅行において賢治は、もしもトシに呼ばれたならば、海の中へでも「もちろん落ちて行く」と心に決めており、「みんなのほんたうの幸福」のためならば、「私たちはこのまゝこのまっくらな／海に封ぜられても悔いてはいけない」、すなわち樺太の海に囚われてもかまわないのだと、覚悟していたのです。<br>　つまり、「チョウザメの下男になったタネリ」＝「樺太の海に落ちた賢治」、という図式です。</p>
<p>　最後に、③の「タネリの兄」の存在は、「サガレンと八月」において、次の母親の言葉の一か所だけに登場します。</p>
<blockquote>
<p>「ひとりで浜へ行ってもいゝけれど、あすこにはくらげがたくさん落ちてゐる。寒天みたいなすきとほしてそらも見えるやうなものがたくさん落ちてゐるからそれをひろってはいけないよ。それからそれで物をすかして見てはいけないよ。おまへの眼は悪いものを見ないやうにすっかりはらってあるんだから。くらげはそれを消すから。おまへの兄さんもいつかひどい眼にあったから。」</p>
</blockquote>
<p>　「おまへの兄さんもいつかひどい眼にあった」ということは、タネリと同じように、くらげを透かして物を見てしまったのだと思われ、そうすると「ひどい眼」というのは、やはりタネリと同じく、犬神によって海底に拉致されてしまったのだと考えざるをえません。<br>　ということは、実はタネリの兄は、タネリより先に犬神にさらわれて、今なお海底に囚われているのではないでしょうか。</p>
<p>　以上をまとめると、タネリは図らずも兄と二人して、樺太の海底という「異界」に入り込んでしまったのだということになり、するとここには、「ひかりの素足」や「銀河鉄道の夜」と同型の、「絆で結ばれた二人が異界に行き、一人はこの世に戻るが、もう一人は戻れない」というパターンが現われます。<br>　このパターンの背景には、「どこまでも妹について行ってやりたいと思っていたのに、結局は妹一人を逝かせてしまった」という、賢治の悲痛な体験があります。</p>
<p>　……というような、私の勝手な想像から、「サガレンと八月」の続きでは、タネリが海底で生き別れの兄と再会し、それから二人で何とかして地上に帰還する方法を探して奮闘するが、最後はタネリ一人だけが戻る結末になる……などという筋書きを考えてみたりしたのが、以前の拙記事「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2017/06/post_881.htm" target="_self" title="">「サガレンと八月」の続き</a>」でした。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　今回刊行された『タネリとオホーツクの風』では、もちろん上のようなトシをめぐる賢治の思いとか、「きょうだいの絆」などというテーマが出てくるわけではありません。<br>　この「続編」において作者が紡ぎ出しておられるのは、小さな蟹になったタネリが、海中でさまざまな不思議な生き物たちと出会い、考えを深めていく旅の物語です。そこには、「他の生き物の命を取らないと生きていけない者の葛藤」や、「何かについて考えるのが人間の本質だ」という「学者アラムハラドの見た着物」的モチーフなど、賢治らしいテーマがいろいろ出てきます。</p>
<p>　この本は、私が以前に空想した続編とはかなり異なるものではありましたが、上記のようなタネリの兄の存在が、かすかに暗示されるようなところはありました。<br>　それから、拙記事「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2017/06/post_881.htm" target="_self" title="">「サガレンと八月」の続き</a>」では、タネリの海底脱出においては、意外とチョウザメが果たしてくれる役割があるのではないか、などと夢想したのですが、それはこちらの本でも、少しだけ仄めかされていました。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/20260524a.png" width="640" height="436" alt=""><br>『タネリとオホーツクの風』p.115より</p>]]>
    </content>
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    <title>若い二人の農作業</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/05/post_1192.htm" />
    <id>tag:ihatov.cc,2026://1.8356</id>

    <published>2026-05-17T08:17:05Z</published>
    <updated>2026-06-18T14:45:43Z</updated>

    <summary>　「春と修羅 第三集」の「〔一昨年四月来たときは〕」は、次のような作品です。 一...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="「春と修羅第三集」" label="「春と修羅 第三集」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="〔一昨年四月来たときは〕" label="〔一昨年四月来たときは〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="〔根を截り〕" label="〔根を截り〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="ドラビダ風" label="ドラビダ風" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="丘陵地を過ぎる" label="丘陵地を過ぎる" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　「春と修羅 第三集」の「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/238_d.htm" target="_self" title="">〔一昨年四月来たときは〕</a>」は、次のような作品です。</p>
<blockquote>
<p>一〇二二<br>　　　　　　　　　　一九二七、四、一、<br>一昨年四月来たときは、<br>きみは重たい唐鍬をふるひ、<br>蕗の根をとったり<br>薹を截ったり<br>朝日に翔ける雪融の風や<br>そらはいっぱいの鳥の声で<br>一万のまた千億の<br>新におこした塊りには<br>いちいち黒い影を添へ<br>杉の林のなかからは<br>房毛まっ白な聖重挽馬が<br>こっそりはたけに下り立って<br>ふさふさ蹄の毛もひかってゐた<br>去年の春にでかけたときは<br>きみたちは川岸に居て<br>生温い南の風が<br>きみのかつぎをひるがへし<br>またあの人の頬を吹き<br>紺紙の雲には日が熟し<br>川が鉛と銀とをながし<br>楊の花芽崩れるなかに<br>きみは次々畦を堀り<br>人は尊い供物のやうに<br>牛糞を捧げて来れば<br>風は下流から吹いて吹いて<br>キャベヂの苗はわづかに萎れ<br>風は白い砂を吹いて吹いて<br>もういくつもの小さな砂丘を<br>畑のなかにつくってゐた<br>そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た</p>
</blockquote>
<p></p>]]>
        <![CDATA[<p>　作品の最後の一行を除くと、全体には何か輝かしく祝福するような雰囲気が、漂っています。<br>　「朝日に翔ける雪融の風」や、「そらはいっぱいの鳥の声」は、明るく晴れやかな調子ですし、「一万のまた千億の／新におこした塊りには／いちいち黒い影を添へ」という土の様子も、何気ないミクロな情景ながら、荘厳な感じがあります。<br>　「房毛まっ白な聖重挽馬」という表現は、一緒に働いてくれる馬を「聖なる存在」として讃えるものであり、「人は尊い供物のやうに／牛糞を捧げて来れば……」という所作も、牛糞を扱う際にさえ敬虔であるような、その農婦の心を表しているでしょう。</p>
<p>　この作品において農作業をしているのは、「きみ」と呼ばれている人と、「あの人」と呼ばれている人と、二人がいるようです。二人をあわせて、中ほどで作者は「きみたち」と呼んでいます。<br>　「（南の風が）あの人の頬を吹き」と記す賢治の描写には、どことなく心暖かい、優しさを感じるのですが、この「きみたち」というのは、いったいどんな人々だったのでしょうか。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　実はこの「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/238_d.htm" target="_self" title="">〔一昨年四月来たときは〕</a>」は、とても複雑な成り立ちをしていて、『新校本全集』の「校異篇」には、下記のような説明と、「成立・推移概念図」という右下の図が掲載されています。</p>
<blockquote>
<p></p>
<p><img src="https://ihatov.cc/images/20260517b.png" width="200" height="699" alt="「〔一昨年四月来たときは〕」成立・推移概念図" style="display: inline-block; float: right; margin-left: 20px;" usemap="#image-map"></p>
<map name="image-map">
    <area target="_blank" alt="下書稿(一)" title="下書稿(一)" href="https://ihatov.cc/haru_3/313_d.htm" coords="139,87,157,373" shape="rect">
    <area target="_blank" alt="下書稿(二)" title="下書稿(二)" href="https://ihatov.cc/haru_3/343_d.htm" coords="138,388,157,673" shape="rect">
    <area target="_blank" alt="下書稿(三)" title="下書稿(三)" href="https://ihatov.cc/haru_3/238_3.htm" coords="93,85,113,374" shape="rect">
    <area target="_blank" alt="下書稿(四)" title="下書稿(四)" href="https://ihatov.cc/haru_3/238_4.htm" coords="95,388,113,674" shape="rect">
    <area target="_blank" alt="下書稿(五)" title="下書稿(五)" href="https://ihatov.cc/haru_3/238_d.htm" coords="48,86,69,674" shape="rect">
    <area target="_blank" alt="「〔生温い南の風が〕」下書稿" title="「〔生温い南の風が〕」下書稿" href="https://ihatov.cc/haru_3/278_d.htm" coords="5,387,22,672" shape="rect">
</map>
<script src="https://code.jquery.com/jquery-3.3.1.min.js"></script>
<script src="js/jquery.rwdImageMaps.js"></script>
<script>jQuery( 'img[usemap]' ).rwdImageMaps();</script>
<p style="margin-bottom: 0;">本篇は本巻所収「詩ノート」掲載形（「一〇二二 〔根を截り〕」）に同ノート記載の「一〇五二　ドラビダ風」の発展形が合体して成立したものである。さらに、本篇のうち右の「一〇五二　ドラビダ風」からきた部分がのちに再び独立・発展したものが本巻「春と修羅 第三集補遺」所収「〔生温い南の風が〕」である。また、第五巻「口語詩稿」所収「〔おぢいさんの顔〕」は本篇の関連作品である。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『新校本全集』第4巻校異篇p.105）</p>
</blockquote>
<p>　右に引用させていただいた、「「〔一昨年四月来たときは〕」成立・推移概念図」は、同上校異篇のp.106に掲載されているものです。二つの草稿が合体し、その後また一部が独立するという、錯綜した経過の背景には、賢治のどんな思いがあったのでしょうか。<br>　右図は「クリッカブルマップ」になっていますので、四角く囲まれた「下書稿(一)」などの部分を図上でクリックしていただくと、その草稿が別窓で開きます。</p>
<p>　さて、「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/238_d.htm" target="_self" title="">〔一昨年四月来たときは〕</a>」における「きみたち」とは、どういう人々だったのかという問題に戻ります。<br>　この最終形（下書稿(五)）の推敲過程では、黒インクによる手入れが複雑に加えられているのですが、その途中の一つの段階において、テクストは下記のようになっていました。（『新校本全集』第4巻校異篇pp.109-110）</p>
<blockquote>
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">一昨年四月きみたちは、古い童話の口絵のやうに、二人いっしょにはたらいてゐた</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">きみは重たい唐鍬をふるひ、</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">きみはいまのひとと</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">いっしょになったばかりで</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">あの森の中ではたらいてゐた</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;"><span style="color: #999999">〔後略〕</span></p>
</div>
</blockquote>
<p>　ということで、「きみたち」というのは、一昨年4月の時点で、新婚の夫婦だったのです。「古い童話の口絵のやうに、二人いっしょにはたらいてゐた」というのが、何とも初々しくて、微笑ましい感じです。<br>　作品中で「きみ」と呼ばれているのが夫で、「あの人」と呼ばれているのが妻なのでしょう。「（南の風が）あの人の頬を吹き……」との表現から感じられた優しさは、この若いお嫁さんに賢治が注ぐ眼差しの反映なのでしょう。</p>
<p>　ところで、ここで「きみ」と呼ばれている若者がどういう存在なのかと考えてみると、この距離感からして、これは農学校を卒業した賢治の元教え子なのではないかと、私は推測します。<br>　ここから連想するのが、「春と修羅 第二集」の「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/083_d.htm" target="_self" title="">丘陵地を過ぎる</a>」です。</p>
<blockquote>
<p>一七<br>　　丘陵地を過ぎる<br>　　　　　　　　　　一九二四、三、二四、<br>きみのところはこの前山のつづきだらう<br>やっぱりこんなごつごつ黝い岩なんだらう<br>松や何かの生え方なぞもこの式で<br>田などもやっぱり段になったりしてゐるんだな<br>いつころ行けばいゝかなあ<br>ぼくの都合はまあ来月の十日ころ<br>仕事の方が済んでから<br>木を植える場所や何かも決めるから<br>ドイツ唐檜にバンクス松にやまならし<br>やまならしにもすてきにひかるやつがある<br>白樺は林のへりと憩みの草地に植ゑるとして<br>あとは杏の蒼白い花を咲かせたり<br>きれいにこさえとかないと<br>お嫁さんにも済まないからな<br>雪が降り出したもんだから<br>きみはストウブのやうに赤くなってるねえ<br><span style="color: #999999">〔後略〕</span></p>
</blockquote>
<p>　こちらの作品で「きみ」と呼ばれているのも、賢治の教え子なのではないかと思われます。五輪峠を越えて、人首町に至る途中の道で、教え子の自宅の方角を一緒に眺めているのでしょう。「来月の十日ころ」に、賢治が再び教え子の家を訪ねて、植樹をする相談をしているようです。<br>　この引用部の終わりから3行目で、賢治は「お嫁さんにも済まないからな」と言っており、その言葉に反応して教え子は「ストウブのやうに赤くなって」照れています。どうやらこの子はもうすぐ結婚するらしく、賢治はそのお祝いということで、植木を贈るのでしょう。<br>　こちらの作品にも、賢治の教え子に対する優しさが表れています。</p>
<p>　賢治は、農学校の教え子に対して、常々「卒業したら、学校で習ったことを生かして農業をするように」と勧めていたということですが、勉強が好きな子はさらに上の学校に行く場合もあったり、あるいは町に出て別の仕事をする子もいたりして、農業に就くのは卒業生の一部にしか過ぎなかったということです。<br>　そしてまた結婚についても、「おまえたちは女学校を卒業した人をお嫁に迎えてはだめだぞ。必ず農家に生まれた、農業にしたしむ体の丈夫な人を嫁にするんだよ」と、生徒たちに話していたということです（佐藤成『証言 宮澤賢治先生　イーハトーブ農学校の1580日』p.226）。</p>
<p>　このように説いていた賢治にとって、「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/238_d.htm" target="_self" title="">〔一昨年四月来たときは〕</a>」の「きみ」と、その若い奥さんは、まさに賢治が理想としたような農家の夫婦として、仕事に精を出しているわけです。賢治としては、このような若い二人のことを、心から応援してやりたかったでしょう。<br>　おそらくそういった経緯もあって、賢治はこの二人のところへ「一昨年四月」にもやって来て、さらに「去年の春」にも出かけてきて、農作業の様子を見守り、励ましの声をかけたのだろうと思います。<br>　しかし二人の仕事は相当きつく、下書稿(三)に当たる「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/343_d.htm" target="_self" title="">ドラビダ風</a>」で賢治は、「もし摩尼の珠を得たらば／まづすべての耕者と工作者から／日に二時間の負ひ目を買はう」と、献身的な祈りを捧げざるをえなかったほどでした。</p>
<p>　そんな二人のところに、重輓（挽）馬がやって来て、農作業に力を貸してくれるとなると、こんな有り難い助けはないでしょう。「房毛まっ白」で「ふさふさ蹄の毛もひかってゐ」る、その馬の神々しい姿に、賢治は思わず「聖重挽馬」と呼びたくなったのかと思われます。<br>　「古い童話の口絵のやう」な若い夫婦と、白く美しい聖重挽馬が、畑で行っている尊い労働に、希望に満ちたエールを送ろうとするのが、この「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/238_d.htm" target="_self" title="">〔一昨年四月来たときは〕</a>」という作品なのかと思います。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　ところが無情にも、最終行に書かれているように、ここで「去年」と記されている1926年、岩手県地方は干害に見舞われ、10年ぶりの不作になってしまうのです。<br>　「<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/11988483/1/449" target="_self" title="">岩手県農業史</a>」には、この年の干害について、次のように書かれています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">〔大正15年〕<br>　5月から7月まで干ばつが続き、そのため田植えがおくれ、6月中旬で植え付けができない面積が5,886ha、7月上旬でも約1,000haに達した。被害が特にひどい地域は、江刺郡（面積率42.6%）、紫波郡（40.6%）であった。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（「<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/11988483/1/449" target="_self" title="">岩手県農業史</a>」p.837）</p>
</blockquote>
<p>　岩手県の反当たり米収量は、前年1925年の2.14石に対して、1926年は1.77石と、2割近くも落ち込んでしまいます。賢治が学校を退職して農作業を始めた年が、ちょうど不作に当たってしまうとは、何とも巡り合わせの悪いことでした。<br>　岩手県の反当たり米収量は、翌1927年にはまた1.99石にまで回復するのですが、健康も害していた賢治にとっては、その後も試練の日々が続きます。</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>馬泥棒になった記憶</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/05/post_1191.htm" />
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    <published>2026-05-10T13:02:50Z</published>
    <updated>2026-05-11T05:31:37Z</updated>

    <summary>　「文語詩稿 五十篇」所収の「〔月のほのほを　かたむけて〕」は、次のような作品で...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="〔どろの木の下から〕" label="〔どろの木の下から〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="〔どろの木の根もとで〕" label="〔どろの木の根もとで〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="推敲" label="推敲" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　「文語詩稿 五十篇」所収の「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_d.htm" target="_self" title="">〔月のほのほを　かたむけて〕</a>」は、次のような作品です。</p>
<blockquote>
<p>月のほのほをかたむけて、　　　水杵はひとりありしかど、<br>搗けるはまこと<ruby>喰<rp>（</rp><rt>は</rt><rp>）</rp></ruby>みも得ぬ、　　渋きこならの実なりけり。<br><br>さらばとみちを横ぎりて、　　　束せし廐肥の幾十つら、<br>祈るがごとき月しろに、　　　　朽ちしとぼそをうかゞひぬ。<br><br>まどろむ馬の胸にして、　　　　おぼろに鈴は音をふるひ、<br>山の焼畑　石の畑、　　　　　　人もはかなくうまゐしき。<br><br>人なき<ruby>山彙<rp>（</rp><rt>やま</rt><rp>）</rp></ruby>の二日路を、　　　　夜さりはせ来し酉蔵は、<br>塩のうるゐの茎噛みて、　　　　ふたゝび遠く遁れけり。</p>
</blockquote>
<p>　賢治の文語詩定稿の常として、削ぎ落とされ凝縮された表現からは、なかなか具体的な状況や意味がわかりにくくなっています。<br>　島田隆輔さんは、昨年出された『宮沢賢治　文語詩稿 五十篇　訳注』の【試訳】において、これを次のように読み解いておられます。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　月光のきらめく飛沫を散乱させて、水杵はひとりうごいていたが、<br>搗いているのはああ！たべることもできぬ、しぶい小楢の実だなあ。<br>　「それならば」と小道を横ぎって、束にした肥藁が幾十ならぶなか、<br>祈りにみちた月あかりのもと、こわれた戸の隙間から内を覗きみる。<br>　まどろんでいる馬の胸もとで、おぼろげに鈴はその音をふるわせ、<br>山の焼き畑や石混じりの畑仕事ゆえ、人もすっかり睡りにおちていた。<br>　人目をさけた山々の二日の道程を、夜どおし駈けつづけた酉蔵は、<br>うるいの茎をとりだしかみしめると、ふたたびとおく遁れさったよ。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（島田隆輔『宮沢賢治　文語詩稿 五十篇　訳注』p.49）</p>
</blockquote>]]>
        <![CDATA[<p>　一定の文字数の中に、深い読解を凝縮した名訳だと思いますが、これによって作品に描かれた情景は、ぐっと眼前に迫ってきます。山あいの美しい月光の下、水杵が独り動いて粗末な実が搗かれ、厩舎で眠る馬の胸の鈴はかすかに鳴り、母屋の住人も寝静まっている……。<br>　何かの物語の一場面のような、静謐な景色です。</p>
<p>　しかしそれでも、最後の方に出てくる「酉蔵」という人物は何者なのか、なぜ彼は「人目をさけた山々の二日の道程を、夜どおし駈けつづけ」ているのかという事情などは、そもそもこの定稿では明らかにされていません。</p>
<p>　そこで、この作品の<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_5.htm" target="_self" title="">下書稿(三)手入れ</a>を見てみると、次のようになっています。</p>
<blockquote>
<p>　　兇賊<br><br>月の燐火をかたむけて<br>のぼる水杵に近づきて<br>臼をさぐればはかなしや<br>粟の殻こそ搗かれたれ<br><br>さらばとみちをよこぎりて<br>庭をめぐれば月あかり<br>束せし廐肥の幾つらに<br>祈るがごとく照り映えぬ<br><br>うまゐの馬の胸やらん<br>おぼろに鈴の音ありて<br>ひるの焼畑石の畑<br>ひとも生くとし見えざりき<br><br>遁れて人なき<ruby>山彙<rp>（</rp><rt>やま</rt><rp>）</rp></ruby>の二日路を<br>夜さり走せこし寅吉は<br>塩のうるゐの茎噛みて<br>ふたたび遁れ走りけり</p>
</blockquote>
<p>　こちらの稿の本文は、人物の名前が「寅吉」になっている以外は、<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_d.htm" target="_self" title="">定稿</a>とだいたい同じです。ただ、タイトルが「兇賊」となっているところが、最大のポイントです。<br>　すなわち、<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_5.htm" target="_self" title="">下書稿(三)手入れ</a>で「寅吉」、<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_d.htm" target="_self" title="">定稿</a>で「酉蔵」とされている謎の人物は、実は恐ろしい盗賊で、何らかの犯罪に絡んだ事情で、こんな山奥を一人で逃走しつづけているらしいのです。<br>　そうなると、<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_d.htm" target="_self" title="">定稿</a>だけを読んで感じられる山間の静かなまどろみとは対極にあるような、禍々しく危うい緊張感が、一気にみなぎってきます。このような、「長閑さ」と「緊張」の偶然の同居という不思議な感覚が、賢治の狙いだったのかもしれません。</p>
<p>　栗原敦さんは、この作品<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_d.htm" target="_self" title="">定稿</a>について、次のように生き生きと評しておられます。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　逃亡中の盗賊とおぼしき「酉蔵」なる人物のほんの短い動きを追いながら、何と見事に動作を伴った物語的なシーンを描き出していることか。しかも、「酉蔵」の動く姿の背景をなす環境が、すなわち南部の曲り家造りのそのあたりでは決して小さい経営規模ではあるまいと思われる農家、けれどもつつましく勤勉な日々の暮らし、人々の労働と生活の膚ざわりといったもの全てが月明りに照らされて輪郭もあざやかに浮かび上ってくるようだ。もちろん、二日路を駈け通して来たという「酉蔵」の特徴、そして「<ruby>山彙<rp>（</rp><rt>やま</rt><rp>）</rp></ruby>」（さんい）という言葉もまた実に注意深く選ばれたものだった。山脈ではない、ひとつひとつ孤立しながら集まり続いている山群。下書稿等から推して、盛岡の東方二、三十キロメートルの外山高原あたりの地形をぴたりとおさえた言葉だった。<br>　作者の眼は「酉蔵」に対しては全く客観的で、少しの感情も伴ってはいない。しかし、「月しろ」の「祈るがごとき」印象、「おぼろな鈴」の音源である「馬の胸」、さらには<ruby>熟睡<rp>（</rp><rt>うまい</rt><rp>）</rp></ruby>する人の寝息のかそけさを拾いあげるその視線は、誠に細やかで、周到で、許されるなら限りなくやさしいとさえ言いたい程だ。思えば、「酉蔵」はいわば狂言廻しであって、作品の焦点は、実は「山の焼畑　石の畑」に働き暮らす人々の存在の方にこそあったと見なければならないのであった。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（栗原敦『宮沢賢治　透明な軌道の上から』pp.402-403）</p>
</blockquote>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　さて、このような「兇賊」の逃走を、賢治が実際に目撃したとは思えませんので、この段階の作品の描写は、作者によるフィクションと考えられます。<br>　賢治がこのようなフィクションを構想した背景に、何らかのヒントとなる出来事があったのか？という問題について、やはり栗原敦さんは、1895年に監獄から逃走して、以後関東各地で神出鬼没の連続強盗等を重ね、ついに1899年に逮捕された、「稲妻強盗」と呼ばれた盗賊の存在を挙げておられます（上掲書p.409）。<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_4.htm" target="_self" title="">下書稿(三)第一形態</a>では、兇賊は「稲妻」と呼ばれているのです。<br>　この「稲妻強盗」の活躍は、賢治の生前から2歳頃までですから、彼が直接的に知っていたはずはありませんが、その捕縛の様子は1899年のうちに一場面一景の「日本初の劇映画」として制作され、かなり後年まで全国各地を興行して廻ったらしいのです。ですからこれは、賢治が子供の頃に見聞した可能性のある盗賊譚なのです。<br>　そして、さらに栗原さんの指摘するところでは、賢治が病臥中の1930年12月の『岩手日報』には、「花巻荒しのゐ駄天／怪盗一蔵逮捕さる／ゆふべ瀧沢付近の列車内で御用／赤石生れの六犯の男」という記事が掲載されているということです（上掲書p.410）。この「一蔵」は相当な「ゐ駄天」で、何度も警察が張った非常線を突破して疾駆逃走しており、紫波郡あたりの松林の中に潜伏していた時期もあったということですから、「<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_d.htm" target="_self" title="">〔月のほのほを　かたむけて〕</a>」の描写との共通性も、垣間見えます。</p>
<p>　晩年に病臥生活となり、自由に外を出歩けない賢治が、昔の記憶や最近の新聞記事にヒントを得て、深夜の山中を逃走する盗賊の様子を思い描いたということは、十分に考えられると思います。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　しかしもう一つ、この作品の「盗賊譚」の根底には、賢治自身の当時の記憶があるように思われます。<br>　この文語詩の原型となった口語詩は、「春と修羅 第二集」所収の「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/096_d.htm" target="_self" title="">〔どろの木の下から〕</a>」および「春と修羅 第二集補遺」所収の「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/195_d.htm" target="_self" title="">〔どろの木の根もとで〕</a>」なのですが、前者の<a href="https://ihatov.cc/haru_2/096_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>、すなわち現存する中で最も古い形は、「路傍」と題され、次のようになっています。</p>
<blockquote>
<p>六九<br>　　路傍<br>　　　　　　　　　　一九二四、四、一九、<br>四本のくらいからまつの梢に<br>かがやかに春の月がかかり<br>やなぎのはなや雲さびが<br>しづかにそこをわたってゆく<br>　　……赤く塗られた鳥の卵と<br>　　　　その影と……<br>さはしぎももうひっこんだのに<br>廐では鈴がかすかに鳴ってゐる<br>　　……この枯れ芝生なら<br>　　　　暗さややはらかさや<br>　　　　すっかり鳥のこころもちだ……<br>鈴がかすかにまたひびくのは<br>ねむってゐる馬の胸に吊るされ<br>呼吸につれてふるえるのか<br>きっと馬は足を折って<br>蓐草の上にかんばしくねむってゐる<br>わたくしもまたねむりたい<br>　　……誰かが馬盗人とまちがへられて<br>　　　　腕にピストルを射込まれた……<br>どこかで鈴とおんなじに啼く鳥がある<br>たとへばそれは青くおぼろな保護色だ<br>むかふの丘の陰影のなかでもないてゐる<br>それからいくつもの月夜の峯を越えた遠くでは<br>風のやうに峡流も鳴ってゐる</p>
</blockquote>
<p>　これは、農学校に勤めていた頃の賢治が、外山種畜場で行われる「種馬検査」に集まる馬たちを見るために、土曜日の午後から盛岡の北の山道を登り、夜が更けて野宿をしようとしているところです。賢治は、山あいにある民家の厩舎の傍らの芝生にいるようで、眠っている馬の姿を想像しつつ、「わたくしもまたねむりたい」と感じています。<br>　ちょうどその時、テクストには「……誰かが馬盗人とまちがへられて／腕にピストルを射込まれた……」という一節が、突然現れます。</p>
<p>　この時賢治は、「こんな夜遅く、山あいの民家の厩舎の脇に、男が一人でこっそり隠れている姿が住人に見つかったら、きっと馬泥棒に間違われて困ったことになるだろう……」というような、そんな一抹の不安を抱えつつも、ふとまどろんでしまったのではないでしょうか。そして、「誰かが馬盗人とまちがへられて／腕にピストルを射込まれた」という、一瞬の夢か、入出眠時幻覚か、というような体験をしたのだと思います。<br>　これが単なる空想ではなく、夢や入出眠時幻覚として、賢治が直接に「体験」したことだろうと推測する理由は、これが「腕にピストルを射込まれた」という断定形で記されているからです。「厳密に事実のとほり」の描写だとすると、これは随意的な空想ではなく、作者の体験と解釈せざるをえません。</p>
<p>　しかしこの「馬盗人」の記載は、次の<a href="https://ihatov.cc/haru_2/096_2.htm" target="_self" title="">下書稿(二)第一形態</a>になると、抹消されてしまいます。そして、「第二集」に収載される最終形態である、下記の<a href="https://ihatov.cc/haru_2/096_d.htm" target="_self" title="">下書稿(二)手入れ形</a>においても、馬盗人は、現れません。</p>
<blockquote>
<p>六九<br>　　　　　　　　　　一九二四、四、一九、<br>どろの木の下から<br>いきなり水をけたてゝ<br>月光のなかへはねあがったので<br>狐かと思ったら<br>例の原始の水きねだった<br>横に小さな小屋もある<br>粟か何かを搗くのだらう<br>水はたうたうと落ち<br>ぼそぼそ青い火を噴いて<br>きねはだんだん下りてゐる<br>水を落してまたはねあがる<br>きねといふより一つの舟だ<br>舟といふより一つのさじだ<br>ぼろぼろ青くまたやってゐる<br>どこかで鈴が鳴ってゐる<br>丘も峠もひっそりとして<br>そこらの草は<br>ねむさもやはらかさもすっかり鳥のこゝろもち<br>ひるなら羊歯のやはらかな芽や<br><ruby>桜草<rp>（</rp><rt>プリムラ</rt><rp>）</rp></ruby>も咲いてゐたらう<br>みちの左の栗の林で囲まれた<br>蒼鉛いろの影の中に<br>鍵なりをした巨きな家が一軒黒く建ってゐる<br>鈴は睡った馬の胸に吊され<br>呼吸につれてふるえるのだ<br>きっと馬は足を折って<br>蓐草の上にかんばしく睡ってゐる<br>わたくしもまたねむりたい<br>どこかで鈴とおんなじに啼く鳥がある<br>たとへばそれは青くおぼろな保護色だ<br>向ふの丘の影の方でも啼いてゐる<br>それからいくつもの月夜の峯を越えた遠くでは<br>風のやうに峡流も鳴る</p>
</blockquote>
<p>　ところが、上記がさらに推敲されて作品番号と日付を失い、「春と修羅 第二集補遺」所収「〔どろの木の根もとで〕」の<a href="https://ihatov.cc/haru_2/195_d.htm" target="_self" title="">下書稿手入れ形</a>になると、下のように「馬どろぼう」が再登場します。</p>
<blockquote>
<p>どろの木の根もとで<br>水をけたてゝはねあがったのは、<br>まさしくこゝらの古い水きね<br>そばには葦で小さな小屋ができてゐる<br>粟か稗かをついてるのらしい<br>つゞけて水はたうたうと落ち<br>きねはしばらく静止する<br>ひるなら羊歯のやわらかな芽や<br>プリムラも咲くきれいな谷だ<br>きねは沈んでまたはねあがり<br>月の青火はぼろぼろ落ちる<br>もっともきねといふよりは<br>小さな丸木舟であり<br>むしろ巨きなさじであると<br>こんども誰かゞ云ひさうなのは<br>じつはこっちがねむいのだ<br>どこかで鈴が鳴ってゐる<br>それは道路のあっち側<br>柏や栗か　そのまっくらな森かげに<br>かぎなりをした家の<br>右の袖から鳴ってくる<br>前の四角な広場には<br>五十ばかりの厩肥の束が<br>月のあかりに干されてゐる<br>ねむった馬の胸に吊るされ<br>呼吸につれてふるえるのだ<br>馬は恐らくしき草の上に<br>足を重ねてかんばしくねむる<br>わたくしもまたねむりたい<br>まもなく東が明るくなれば<br>馬は巨きな頭を下げて<br>がさがさこれを畑へはこぶ<br>そのころおれは<br>まだ外山へ着けないだらう<br>ひるの仕事でねむれないといって<br>いまごろこゝらをうろつくことは<br>ブラジルでなら<br>馬どろぼうに間違はれて<br>腕に鉛をぶちこまれても仕方ない<br>どこかで鈴とおんなじに啼く鳥がある<br>それはたとへば青くおぼろな保護色だ<br>向ふの丘の影の方でもないてゐる<br>そのまたもっと向ふでは<br>たしかに川も鳴ってゐる<br>きねはもいちどはねあがり<br>やなぎの絮や雲さびが<br>どろの梢をしづかにすぎる</p>
</blockquote>
<p>　後半の方の、「いまごろこゝらをうろつくことは／ブラジルでなら／馬どろぼうに間違はれて／腕に鉛をぶちこまれても仕方ない」という箇所がそれです。<br>　ここに「ブラジル」が出されているのは、日本からの移民などのエピソードがあったのでしょうか。「自分の所有地に怪しい侵入者を見つけたら、警察に通報するよりも、まず家の主人が銃で撃退する」というのは、開拓時代の西部劇のみならず、最近のアメリカ映画でもよく見る場面です。</p>
<p>　こちらでは、「もし……したら、……も仕方ない」という、仮想的判断の形式で記されていますが、内容的には「〔どろの木の下から〕」<a href="https://ihatov.cc/haru_2/096_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>の、「誰かが馬盗人とまちがへられて／腕にピストルを射込まれた」と、同じです。</p>
<p>　ところがこの口語詩が文語詩へと改作されると、「馬泥棒」の挿話は、再び抹消されてしまいます。<br>　文語詩としての<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>は、「セレナーデ」と題され、何と恋愛譚へと姿を変えます。</p>
<blockquote>
<p>　　セレナーデ<br><br>巨なるどろの根もとに<br>水をけてうちはねたるは<br>式古き水きねにこそ<br>　　　きみしたひこゝにきたれば<br>　　　草の毛や春の雲さび<br>　　　月の面をかすめて過ぎつ<br><br>おぼろにも鈴の鳴れるは<br>その家の右袖にして<br>まどろめる馬の胸らし<br><br>廐肥の束七十ばかり<br>月しろに並べ干されぬ<br><br>をちこちに鈴のさまして<br>かすかにも啼く鳥あるは<br>保護色と云はゞ云ふべし<br><br>きねはまた月のかけらを<br>ぼそぼそに落してあがり<br>鈴の音やゝ明らけし</p>
</blockquote>
<p>　4行目に「きみしたひこゝにきたれば……」とあるように、主人公がこの山中に来た理由は、恋人への慕情のためだということで、盗賊の逃亡劇とは大違いです。</p>
<p>　盗賊が出てこないのは、次の断片的な<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_3.htm" target="_self" title="">下書稿(二)</a>も同じですが、ついにその次の<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_4.htm" target="_self" title="">下書稿(三)</a>「兇賊」において盗賊が主人公となり、<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_6.htm" target="_self" title="">下書稿(四)</a>、<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_d.htm" target="_self" title="">定稿</a>と展開されるのは、上述のとおりです。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　ということで、口語詩から文語詩に至る全推敲過程を振り返ると、「盗人」のモチーフは、最初の<a href="https://ihatov.cc/haru_2/096_1.htm" target="_self" title="">口語詩下書稿(一)</a>に登場して、次の<a href="https://ihatov.cc/haru_2/096_2.htm" target="_self" title="">下書稿(二)</a>では姿を消し、第二集補遺の<a href="https://ihatov.cc/haru_2/195_d.htm" target="_self" title="">下書稿手入れ形</a>で久々に再登場し、しかしまた文語詩下書稿(一)では再び姿を消し、<a href="https://ihatov.cc/bn_50/599_4.htm" target="_self" title="">文語詩下書稿(三)</a>以降で再々登場する、という経過になっています。<br>　上記で、栗原敦さんが過去の記録を掘り起こして明らかにした、「稲妻強盗」や「ゐ駄天怪盗」の事件が、賢治にとって刺激になった可能性は大きいと思われますが、元をたどれば、最初に自分自身が山あいの厩舎の傍らで野宿をした際に体験した、「馬盗人に間違えられる」というイメージに発したものだと思われます。</p>
<p>　前回「<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/05/post_1190.htm" target="_self" title="">賢治の映像記憶</a>」という記事では、賢治はある出来事を体験してから相当の年月が経過した後で、まるで当時の出来事を再体験しているかのように、あらためて当時の記憶を呼び起こして推敲を行うことがある、ということを見ました。<br>　そして、賢治が体験からかなり後になって、虚構ではない実体験をあらためて想起して推敲を行っていると推測される一つの根拠として、下記のような推敲パターンの存在を、想定してみました。</p>
<div style="margin-left: 1rem; padding-left: 5%;">
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">➀ 初期段階の草稿に、特定の映像的描写(A)が現れる</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">➁ その後の推敲過程で、描写(A)はいったん削除される</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">③ さらに後の推敲過程で、➀から一定の隔たりの後、描写(A)が再び現れる</p>
</div>
<p>　今回の「盗人」のモチーフは、上で想定したパターンのように「映像的」記憶と言える性質のものではありませんので、これは賢治の「映像記憶」能力を示唆する所見となるものではありません。しかし、賢治が相当昔に体験した事柄を、それから何年も経ってから、直前の草稿の記述を見て想起しているのではなく、自分の記憶の中から呼び起こして書いている一例だと思われます。<br>　作品の題材となった賢治の外山高原行は、1924年4月のことですが、文語詩「〔月のほのほをかたむけて〕」の下書稿(一)～(四)が書かれている黄罫(22/0)詩稿用紙は、1931年以降に使用されていたと推定されていますので（杉浦静『宮沢賢治　明滅する春と修羅』p.245）、この間には実に7年ほどの歳月が経過しています。<br>　これほどの時を経ていても、賢治は草稿の記述に頼らずに、当時の自分の体験イメージを直に呼び覚ましつつ、推敲を行ったのだろうと推測できるわけで、これはやはり特別な能力と言ってよいのではないでしょうか。</p>
<p>　自分自身を振り返ってみると、私などは数年前の何かの折りに自分が書いた文章を読み返しても、文面に記されている以外の当時の自分の具体的状況などはほとんど思い出せず、書かれている内容についても、「昔の自分はこんなことを考えていたのか」などと、意外かつ新鮮な思いがしてしまうのが実状です。</p>
<p>　そんなのとは比べものにならない賢治の記憶力は、つくづく大したものだと思います。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/20260510a.jpg" width="640" height="906" alt="「〔月のほのほをかたむけて〕」下書稿(二)～(四)"><br>「〔月のほのほをかたむけて〕」下書稿(二)～(四)（『新校本全集』第7巻口絵より）</p>]]>
    </content>
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    <title>賢治の映像記憶</title>
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    <published>2026-05-04T05:12:33Z</published>
    <updated>2026-05-29T11:21:26Z</updated>

    <summary>　宮沢賢治は、長年にわたり詩の推敲を繰り返し重ねていたことで有名ですが、その過程...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
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        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="心象スケッチ" label="心象スケッチ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="推敲" label="推敲" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="映像記憶" label="映像記憶" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　宮沢賢治は、長年にわたり詩の推敲を繰り返し重ねていたことで有名ですが、その過程では、描かれた内容を体験してから既に何年もの歳月が経っているにもかかわらず、まるで作者がもう一度その情景を見てきたかのように、細かく具体的な描写が新たに加えられていくということが、しばしばあります。<br>　いったいどうすれば、こんなことが可能なのでしょうか。</p>
<p>　新たに加えられた描写が、作者の想像やインスピレーションによる「創作」であるならば、これは何も不思議なことではありません。詩というのは普通そうやって書かれていくものでしょうし、賢治の場合も文語詩に関しては、創作的虚構がふんだんに用いられています。<br>　しかし、賢治の口語詩に関しては、その表現内容の基本は、作者の実体験だったと考えておく必要があると思います。それは賢治自身が、たとえば岩波茂雄あて書簡214aに「厳密に事実のとほりに記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした」と書いているように、世間一般の詩とは異なって、自らの「心象スケッチ」は、「厳密に事実のとほり」だと言明していることにもよります。<br>　それに何より、賢治の推敲過程を『新校本全集』の「校異篇」でたどっていると、いったん彼が推敲の渦中に入り込むや否や、まるで体験当時にタイムスリップしたかのように、ありありとした描写が後から後から湧いてくるような状況に、実際いくつも遭遇するのです。</p>
<p>　だからこそ、「いったいどうすれば、こんなことが可能なのか？」ということが、とても不思議に感じるのです。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　もちろん私たち一般人も、数年前の旅行中に撮った写真を見ると、「あの時のあの景色は素晴らしかったなあ」と、その当時の情景を実感をもって思い出すことはできます。あるいは、出来事を細かく記録した日記帳があれば、そしてその記録を読み返せば、やはり当時の行動を具体的に追体験できるでしょう。<br>　しかし、私たちがこういう記録の助けを借りて思い出すことができるのは、基本的にはあくまで「記録されている範囲内」の事柄に限られます。写真に残していない風景について、あの広場に面して何軒の家が建っていてその窓の形がどうだったとか、その時の空の雲の様子はどうだったかなどということを、思い出すことはできません。あるいは、日記に書いていない出来事については、大まかな事柄は憶えていたとしても、その詳細を具体的に描写することまではできません。</p>
<p>　ところが、賢治が推敲過程で行っているのは、写真もなく、言葉でも記録されていない範囲の出来事を、数年も経った後になって、詳しく「実況中継」しているようなことなのです。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　これは、過去の出来事の詳細を、いったん心の中に保存しておいて、後から取り出しているわけですから、「記憶」の能力や特性に関わる事柄だと思われます。<br>　これがいったいどういう記憶特性なのかが問題ですが、これに該当しそうなのが、一部の人が持っているという「映像記憶（eidetic memory）」という能力です。これは、目で見た視覚的映像の詳細を、相当な期間にわたってそのまま保存しておき、後からその細部について振り返り、細かく説明できるというものです。「直観像記憶」あるいは「写真記憶」とも呼ばれ、いわば眼前の情景を高解像度の写真に撮って心の中に残しておき、後から必要に応じてそれを取り出し精査できる、というような能力です。</p>
<p>　たとえば作家では、谷崎潤一郎には映像記憶の能力があったと言われており、次のようなエピソードが伝えられています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">谷崎は、記憶力や思考力が抜群で、それも文科系のみならず理数系にも強かったと言われている。記憶力で言うと、玉上琢弥は、谷崎に初めて会った翌日、ある人から電話で、昨日は祇園のどこだったかと問われ、「ちよっとお待ち下さい」と考えて「玄関に入るとき一瞬仰ぎ見た<ruby>軒灯<rp>（</rp><rt>けんとう</rt><rp>）</rp></ruby>に書かれた文字を思い出そうと努め、『吉初』の二字を得たのである。あの当時は、記憶しようとしないで見聞きしたものも、思い出そうとすれば思い出せたのであった」と書いている。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（小谷野敦『谷崎潤一郎伝』中公文庫p.365）</p>
</blockquote>
<p>　一般人でも、店の名前が「吉初」だったという言語的な記憶があれば、翌日にそれを想起することは簡単にできるでしょうが、言葉としては記憶していないのに、一瞬見た映像を翌日に思い浮かべて、その看板に書かれた文字を読みとるなどという芸当は、普通はとてもできません。それができるのが、視覚像がそのまま明晰に刻印されている「映像記憶」なのです。</p>
<p>　また、放浪の画家と呼ばれた山下清は、旅先で見た景色を記憶して帰り、後から施設や自宅で精密なちぎり絵にする、という手法で制作を行っていました。<br>　プロの将棋や囲碁の棋士も、駒や石が配置された「棋譜」の厖大な数を記憶しておき、必要に応じて脳内で再現できるということですが、これも「映像記憶」を操作していると言えるでしょう。<br>　指揮者の故･岩城宏之氏は、暗譜で指揮をする際には、オーケストラの<ruby>総譜<rp>（</rp><rt>スコア</rt><rp>）</rp></ruby>の全てのページを、細部まで視覚的に記憶して棒を振っていたということで、自らのこの方法を「網膜へのフォトコピー」と呼んでいます（岩城宏之『楽譜の風景』pp.127-145）。大編成のオーケストラ曲の五線譜は縦に数十段あり、長い曲ならそれが何百ページも続くわけですから、まさに驚異的な「写真記憶」です。</p>
<p>　以上のような「映像記憶」の特性から考えると、宮沢賢治という人も、このような能力を持っていたのではないか？と考えたくなります。作品に描かれた体験から数年後に行う推敲の際に、当時の映像を脳内で詳細かつ鮮明に再現することができれば、それをあらためて生き生きと「スケッチ」し直すことによって、彼独特のあの推敲作業が可能になるのではないでしょうか。<br>　そして実は、著名な賢治研究者である境忠一氏も、1968年に刊行した著書『評伝 宮澤賢治』において、「賢治は直観像素質者である」という説を提唱しておられたのです。前述のように、直観像記憶＝映像記憶ですから、これは上記のような想定に、まさに一致しています。<br>　境忠一氏は、次のように述べています。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　以上、長々と要約引用してきた直観像の特質と賢治の心象とを比較してみると、まず第一に、賢治の心象の視覚的幻覚的な特徴は、直観像が他の表象や残像から、はっきりと区別される大きな特徴である「幻覚的なほどの明瞭さを持って居り、また文字通り再び見える」ことを裏書きしているのではないかと思われる。これは特徴の第二にあげた諸例や、「そのとほりの心象」とか、「たゞとにかく記録されたそのとほりのけしきで」「たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである」ということばに残されている。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（境忠一『評伝 宮澤賢治』pp.128-129）</p>
</blockquote>
<p>　境氏の著書では、賢治が直観像記憶（＝映像記憶）の持ち主であるという具体的な根拠が挙げられているわけではないのですが、本日の記事では、賢治による詩の推敲の中で、そのように感じられる例を、いくつか見てみたいと思います。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　まずは、推敲過程の途中から、新たに鮮明な描写が大挙して登場してくるという例です。<br>　下記は、「〔北いっぱいの星ぞらに〕」の<a href="https://ihatov.cc/haru_2/123_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>の全文です。</p>
<blockquote>
<p>一七九 <br>　　谷の昧爽に関する童話風の構想<br>　　　　　　　　　　一九二四、八、一七<br>草の穂やおほばこの葉が<br>みんなくっきり影を落す<br>この清澄な月の昧爽近くを<br>楢の木立の白いゴシック廻廊や<br>降るやうな虫のジロフォンに送られて<br>みちはまもなく原始の暗い椈林<br>つめたい谿にはいらうとする</p>
</blockquote>
<p>　本文は7行だけの、賢治としては短い詩ですが、これが<a href="https://ihatov.cc/haru_2/123_2.htm" target="_self" title="">下書稿(二)第一形態</a>になると、次のようになります。</p>
<blockquote>
<p>一七九<br>　　　　　　　　　　一九二四、八、一七<br>いちいちの草穂の影さへ映る<br>この清澄な月の昧爽ちかく<br>楢の木立の白いゴシック廻廊や<br>降るやうな虫のジロフォン<br>みちはひとすじ　しらしらとして<br>暗い原始の椈ばやし<br>つめたい霧にはいらうとする<br>　　　　　……星にぎざぎざうかぶ嶺線<br>　　　　　　　月光を吸ふその青黝いカステーラ……<br>中岳はけはしい峯の露岩から<br>ひとつの銀の挨拶を吐き<br>またあをあをと寂まれば<br>そのほのじろい果肉のへりで<br>黄水晶とエメラルドとの<br>二つの星が婚約する<br>　　　　　……雲のはかない残像が<br>　　　　　　　白く凍えて西にながれる……<br>じつにそらはひとつの宝石類の大集成で<br>ことに今夜は古いユダヤの宝石商が<br>獲れないふりしてかくして置いた金剛石を<br>みんないちどにあの水底にぶちまけたのだ<br>鶏頭山のごつごつ黒い冠に<br>巨きな一つのブリリアントが擦過して<br>そこから暗い雲影が<br>ななめに西へ亘ってゐる<br><span style="color: #999999">〔十数字不明〕</span>かうもり<br><span style="color: #999999">〔十数字不明〕</span>伐株と<br>　　　　　　まがりくねった二本のかつら……<br><span style="color: #999999">〔五行不明〕</span><br>くっきりみちに影をおとす</p>
</blockquote>
<p>　上の二つの草稿を比較すると、「草穂の影」とか「虫のジロフォン」とか「暗い椈ばやし」など、いくつか共通するモチーフも見られますが、<a href="https://ihatov.cc/haru_2/123_2.htm" target="_self" title="">下書稿(二)</a>の方には、黒い山影や星空の様子など、<a href="https://ihatov.cc/haru_2/123_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>にはなかった周囲の（主に視線の上方の）景色が、新たに詳細に描き込まれています。<br>　もしも作者が、体験から相当の期間が経った後に、このように精密な視覚像を「新たに想起して」書き込んでいるのだとすれば、それは優れた映像記憶能力の持ち主と言わざるをえないと思います。</p>
<p>　さて次は、「森林軌道」の<a href="https://ihatov.cc/haru_2/155_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)第一段階</a>の全文です。</p>
<blockquote>
<p>四〇七<br>　　フレスコ<br>　　　　　　　　　　一九二五、一、二五、<br>岩手火山がほとんど白いプデングででき<br>三つ森の半分には雑木が植り<br>残りのは銀の紐で飾られる<br>相もかはらず上は凍った乱雲と<br>まばゆくかすむ日輪盤<br>吹雪は移り<br>もうさっきから<br>鳥はピッピッピッピ<br>一生けん命そこらを縫ってつめたいガラスのなかで叫んでゐる<br>　　　……鎔岩流刻鏤のなかで<br>　　　　　風が苹果と結婚した……</p>
</blockquote>
<p>　雪景色の岩手山や三ツ森山が、薄い日輪と雲の下に鎮座し、静謐で宗教的な「フレスコ画」のような雰囲気が醸し出されていますが、これが<a href="https://ihatov.cc/haru_2/155_3.htm" target="_self" title="">下書稿(二)</a>になると、トロッコ列車の動きが導入されます。</p>
<blockquote>
<p>四〇七<br>　　フレスコ<br>　　　　　　　　　　一九二五、一、二五、<br>岩手火山がほとんど白いプデングででき　裾は岱赭のからまつばやし<br>それから白い負性の雪の展がりに　小松の黒い金米糖が<br>いちめんばらばら散点する<br>　　　……奥の方からとろがごろごろ鳴ってゐる<br>　　　　　わたしは軌道を避けてゐやう……<br>凍った雲とまばゆくかすむ日の下で<br>三つ森やまは雑木を泛べ　残りは変なブリキの紐で飾られる<br>　　　（あすこのまっ黒な鎔岩流の刻みの中で<br>　　　　熱した風が黄いろの苹果と結婚した）<br>いきなり吹雪がひかってのぼり<br>鳥はもうさっきから<br>一生けん命そこらのつめたい潮水のなかで叫んでゐる<br>たうたうとろがやって来た<br>赤や黄いろの荒縞を着て<br>みんな鯡の漁場のやうだ<br>胴切りされた巨きな楢をつけてゐる</p>
</blockquote>
<p>　岩手山の裾野の様子や「小松の黒い金平糖」、それにトロッコに乗る作業員の服装やその色までもが、具体的に描写されています。これらは<a href="https://ihatov.cc/haru_2/155_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)第一段階</a>では全く描かれていなかった事柄ですが、当時に見た情景を、作者が推敲過程でありありと思い出して描いているのだとすれば、やはりすごい記憶力です。<br>　草稿は、その後「間伐見張り」と題された<a href="https://ihatov.cc/haru_2/155_4.htm" target="_self" title="">下書稿(三)</a>を経て、<a href="https://ihatov.cc/haru_2/155_d.htm" target="_self" title="">定稿</a>では次のようになっています。</p>
<blockquote>
<p>四〇七<br>　　森林軌道<br>　　　　　　　　　　一九二五、一、二五、<br>岩手火山が巨きな氷霧の套をつけて<br>そのいたゞきを陰気な亜鉛の粉にうづめ<br>裾に岱赭の落葉松の方林を<br>林道白く連結すれば<br>そこから寒い負性の雪が<br>小松の黒い金米糖を<br>野原いちめん散点する<br>　　　……川の音から風の音から<br>　　　　　とろがかすかにひびいてくる……<br>南はうるむ雪ぐもを<br>盛岡の市は沈んで見えず<br>三つ森山の西半分に<br>雑木がぼうとくすぶって<br>のこりが鈍いぶりきいろ<br>　　　……鎔岩流の刻みの上に<br>　　　　　二つの鬼語が横行する……<br>いきなり一すじ<br><ruby>吹雪<rp>（</rp><rt>フキ</rt><rp>）</rp></ruby>が螺旋に舞ひあがり<br>続いて一すじまた立てば<br>いまはもう野はら一ぱい<br>あっちもこっちも<br>空気に孔があいたやう<br>巌稜も一斉に噴く<br>　　　……四番のとろは<br>　　　　　ひどく難儀をしてゐるらしく<br>　　　　　音も却って遠くへ行った……<br>一つの雲の欠け目から<br>白い光が斜めに射し<br>山は灰より巨きくて<br>林もはんぶんけむりに陥ちる<br>　　　……鳥はさっきから一生けん命<br>　　　　　吹雪の柱を縫ひながら<br>　　　　　風の高みに叫んでゐた……</p>
</blockquote>
<p>　ここで作品は、最初の11行からすると3倍の33行という長さになり、南方に視線を移しても盛岡市は見えないということも、新たに書き込まれています。<br>　賢治がこの体験をしたのは、1925年1月との日付が記されていますが、最後に定稿用紙に清書されたのは1933年のことで、この間に8年以上の歳月が経過しています。それでも彼は、相変わらず当時の記憶を参照して、そこからまた新たな情報を引き出して書き加えているように見えます。<br>　ここに書かれている内容が、作者の言うように「厳密に事実のとほり」なのだとすると、やはり彼は驚くべき映像記憶能力の持ち主だと言えるでしょう。</p>
<p>　ただしかし、ここに描写されている内容が、本当に「事実のとおり」だという確証は、残念ながらありません。<br>　実際に、「春と修羅 第二集」の中にも、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/121_d.htm" target="_self" title="">〔北上川は熒気をながしィ〕</a>」とか「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/127_d.htm" target="_self" title="">春　変奏曲</a>」のように、明らかにファンタジックな虚構内容の作品が、いくつか含まれています。ですから、上記の「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/123_d.htm" target="_self" title="">〔北いっぱいの星ぞらに〕</a>」や「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/155_d.htm" target="_self" title="">森林軌道</a>」においても、途中から書き加えられていった部分が、作者の空想である可能性も、否定することはできません。これらがもしも空想の産物であるならば、作者の映像記憶の証拠とはなりえないのです。</p>
<p>　となると、推敲の途中から新たに書き加えられた描写が、作者の空想ではなく事実であると、何らかの方法によって確認できれば、それは作者の映像記憶能力を示唆する証拠になると思われるのですが、はたしてそのような確認方法がありうるものでしょうか……。</p>
<p>　そこで考えてみたのが、草稿の推敲過程が次のようなパターンになっている例がないか？ということです。</p>
<div style="margin-left: 1rem; padding-left: 5%;">
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">➀ 初期段階の草稿に、特定の映像的描写(A)が現れる</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">➁ その後の推敲過程で、描写(A)はいったん削除される</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">③ さらに後の推敲過程で、➀から一定の隔たりの後、描写(A)が再び現れる</p>
</div>
<p>　③において、その直前の草稿には存在しない映像的描写(A)が現れるところは、作者が前の草稿の記載に頼らず、つまり体験当時の記憶を思い出して書いていると思われるので、作者が映像記憶能力を持っている可能性を、それなりに示唆してくれます。そしてこの描写(A)の内容は、➀のように初期の草稿には既に現れていたものですから、③の段階で作者が空想によって恣意的に書いたわけではなく、実際に体験した事実なのだろうと、推測できるわけです。</p>
<p>　「春と修羅 第二集」の推敲過程において、上記①➁③のようなパターンが現れている例がないか注意しつつ、『新校本全集』の校異篇を眺めてみると、いくつか見つけることができました。<br>　その例の一つを、下に挙げてみます。</p>
<p>　「凾館港春夜光景」の<a href="https://ihatov.cc/haru_2/109_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>の全文は、下記です。</p>
<blockquote>
<p>一一八<br>　　凾館港春夜光景<br>　　　　　　　　　　一九二四、五、一九、<br>海ぞこのマクロフィスティス群にもまがふ<br>桜の花の梢には<br>いちいちに氷質の電燈を盛りまた<br>黒曜玻璃の夜空に<br>奇怪な虹の汁をそゝげば<br>その淫蕩な赤い酒精にとかされながら<br>底びかりする霧雨や<br>冴え冴え鳴らす黄金の噴泉<br>うっこんかうの花杯の列は<br>また海百合の椀をもまじえ<br>瓦斯の灯に照るバナナの森は<br>巨きな紅の蟹も這はせる</p>
</blockquote>
<p>　この最後の2行には、「バナナの森」と「巨きな紅の蟹」が登場しています。<br>　これが<a href="https://ihatov.cc/haru_2/109_2.htm" target="_self" title="">下書稿(二)</a>になると、「釧路漁港の親方連」とか「船渠会社の職工団」などの花見客の様子が活写され、一気に4倍近くの長文になるのですが、上記の「バナナ」と「蟹」は、姿を消してしまうのです。</p>
<blockquote>
<p>一一八<br>　　凾館港春夜真景<br>　　　　　　　　　　一九二四、五、一九、<br><span style="color: #999999">〔二字不明〕</span>岬の海坊主列<br>うら寒い雲をかぶれば<br>その雲もまたおぞましく呼吸する　<br>そこに喜歌劇「オロフォイス」風の<br>奇怪な虹の汁がそそがれ<br>その淫蕩な赤い酒精にとかされながら<br>底びかりする霧雨やうかび立つ花樹の幾むら<br>　　……春と夏とのデュイエット　水と陸との四重婚……<br>海ぞこのマクロフィスティス群にもまがふ<br>桜の花の梢には<br>いちいちに氷質の電燈を盛り<br><ruby>蒼白<rp>（</rp><rt>エンクリヌス</rt><rp>）</rp></ruby>のうっこんかうに<br>海百合の椀を示せば<br>釧路漁網の親方連は<br>まなじり遠く黄の酒を汲み<br>船渠会社の職工団は<br>おのおの黒の瓶をかざして<br>草の広場を獲得すれば<br>夜ぞらにふるふビオロンと銅鑼<br>サミセンにもつれる笛や<br>繰りかへす螺のスケルツォ<br>青いえりした水兵たちは<br>桜の枝をささげてわらひ<br>魚の歯したワッサーマンは<br>狂ほしく灯影を過ぎる<br>風はバビラン柳を払ひ<br>またときめかす花梅のかほり<br>火照りに赤く翔け行く雲は<br>さらに桜の氷燈を盛り<br>青い螺鈿を泛べるそらは<br>さやかに萌えるいたやを映す<br>　　　　　オダル　ブロンヅ　ガスタルダイト<br>　　　　　クシロ　ハナサカ　クリソベリール<br>　　　　　ネムロ　ムロラン　インディコライト<br>　　　　　マオカ　ハイエン　ニコライフスク<br>汽笛は遠く告別を吼え<br>火花は遠く雲まにあがる<br>さらば五月の妖園と影<br>水と陸との雑交市場<br>二たびさらに俯瞰すれば<br>さくらは水のやうに咲き<br>瓦斯燈はながれ<br>青い螺鈿はそらにうかんで<br>もう眺望のまなこもいたみ<br>はるかまっくろな海にのがれる</p>
</blockquote>
<p>　さらにこれが<a href="https://ihatov.cc/haru_2/109_3.htm" target="_self" title="">下書稿(三)</a>になると、後半の方に「紅蟹、青のバナナにまじり……」として、蟹とバナナが再登場するのです。</p>
<blockquote>
<p>一一八<br>　　凾館港春夜光景<br>　　　　　　　　　　一九二四、五、一九、<br>残りはくらい七日の月が<br>海峡の西にかかって<br>岬の黒い山山が<br>うら寒い雲をかぶれば<br>その雲もまたおぞましく呼吸する<br>そこに喜歌劇オルフィウス風の<br>奇怪な虹の汁がそそがれ<br>その淫蕩な赤い酒精にとかされながら<br>底びかりする霧雨や<br>うかび立つ花樹の幾むら<br>海ぞこのマクロフィスティス群にもまがふ<br>巨桜の花の梢には<br>いちいちに氷質の電燈を盛り<br>朱と蒼白のうっこんかうに<br>海百合の椀を示せば<br>釧路地網の親方連は<br>まなじり遠く葡萄酒を汲み<br>魚の歯したワッサーマンは<br>狂ほしく灯影を過ぎる<br>夜ぞらにふるふビオロンと銅鑼<br>サミセンにもつれる笛や<br>繰りかへす螺のスケルツォ<br>青いえりした水兵たちが<br>桜の枝をささげてわらひ<br>船渠会社の観桜団が<br>瓶をかざして広場を獲れば<br>ふたたび襲ふ海霧のおぼろ<br>白のテントもつめたくぬれて<br>紅蟹、青のバナナにまじり<br>魚が孤光の梢をよぎる<br>　　ネムロムロランインディコライト<br>風はバビロン柳をはらひ<br>またときめかす花梅のかほり<br>　　春と夏とのデュイエット<br>　　水と陸との四重婚<br>二たびさらに展望すれば<br>さくらは水と淡く咲き<br>瓦斯燈影とはるかにながれ<br>青い螺鈿はそらにうかんで<br>残りの黒い七日の月が<br>いま海峡の雲にかくれる</p>
</blockquote>
<p>　最終的に、<a href="https://ihatov.cc/haru_2/109_d.htm" target="_self" title="">下書稿(四)の手入れ形</a>でも、「紅蟹まどふバナナの森を……」という形で、蟹とバナナは出つづけています。</p>
<p>　上記の推敲過程において、作者が<a href="https://ihatov.cc/haru_2/109_3.htm" target="_self" title="">下書稿(三)</a>を最初に詩稿用紙に記入する際に、脇には<a href="https://ihatov.cc/haru_2/109_2.htm" target="_self" title="">下書稿(二)</a>置いていたと思われますが、その<a href="https://ihatov.cc/haru_2/109_2.htm" target="_self" title="">下書稿(二)</a>には、蟹もバナナも現れないのです。<br>　そのような状態で、<a href="https://ihatov.cc/haru_2/109_3.htm" target="_self" title="">下書稿(三)</a>には蟹とバナナの描写が再登場しているということは、作者はそれを前の草稿をもとに書いたのではなく、当時の自分の記憶を想起することによって、書き加えたと思われるのです。そして、この蟹とバナナの様子は、<a href="https://ihatov.cc/haru_2/109_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>にも描かれていたのですから、作者の空想上の存在ではないと推測されるわけです。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　以上、宮沢賢治が鮮明な「映像記憶（eidetic memory）」の能力を持っていたのではないかと思われる所見について、整理してみました。<br>　本人による証言がない以上、この問題の確定的な答えを得ることは困難でしょうが、もしも賢治がこのような明晰な感覚像を心の中に保持できる人であったならば、彼の言う「心象スケッチ」の「心象」という言葉の意味にも、違った様相が現れてくるのではないかと思います。</p>
<p>　映像記憶として心の中に刻まれている「映像＝直観像」は、視覚像だけでなく聴覚や嗅覚や触覚も含んだ「心像」と想定することも可能ですが、これは一般人の「記憶」のように、曖昧模糊として不定形に心中に漂う塊ではなく、たとえば眼前のスクリーンに映し出された像に近いような形で、主体から多少の心的距離を置いて、「対象化」して眺めることもできるものです。そして、この映像はそのように対象化して、ある種の客観性をもって見ることができるからこそ、それを「厳密に事実のとほり」に「スケッチ」するという作業も、可能になるのではないかと思うのです。<br>　言いかえれば、賢治は己の心の中にそのような意味で鮮明な「心象」を保持していたからこそ、それを意識の対象として、言葉で描写する営為のことを、「心象スケッチ」と名づけたのではないかという気がするのです。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a href="https://ihatov.cc/images/20260504a.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/05/20260504a-thumb-640xauto-1117.jpg" width="640" height="302" alt="「〔北いっぱいの星ぞらに〕」下書稿(三)"></a><br>「〔北いっぱいの星ぞらに〕」下書稿(三)第1葉表・裏・第2葉表（『新校本全集』第3巻口絵より）</p>]]>
    </content>
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    <title>作品番号消失の理由</title>
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    <published>2026-04-19T07:57:08Z</published>
    <updated>2026-04-27T11:44:04Z</updated>

    <summary>　前回は、「春と修羅 第三集」および「詩ノート」における作品番号の「欠番」の数が...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="「三原三部」" label="「三原三部」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="「春と修羅第三集」" label="「春と修羅 第三集」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/04/2_62.htm" target="_self" title="">前回</a>は、「春と修羅 第三集」および「詩ノート」における作品番号の「欠番」の数が、「口語詩稿」に属する「第三集」の時期の作品数よりもはるかに少ないことから、「口語詩稿」には当初から作品番号を持たずに生まれてきた作品が、相当数あったのではないか、と推測してみました。すなわち、賢治は下根子桜時代の途中から、徐々に口語詩に作品番号を付けなくなっていったのではないかと、考えられるわけです。<br>　そこで今日は、「なぜ賢治はある時期から作品番号を付けなくなっていったのか？」ということについて、考えてみたいと思います。</p>
<p>　しかしこの問題は、裏を返せば「なぜ賢治はある時期までは作品番号を付けていたのか？」ということでもあります。</p>
<p>　これについては、天沢退二郎さんと榊昌子さんが、概ね共通した見解を述べておられます。</p>]]>
        <![CDATA[<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　それでは、詩人は何のために『第一集』では付けなかった「番号」をここで付けはじめたのであろうか？　そしてこの「番号」は何なのであろうか？<br>　まず常識的に、これは整理番号である、と考えることができる。それも、生前発表時には番号を付さずに送稿しているということから、読者のためではなく、もっぱら作者側の必要によって付されることとなった整理番号である。<br>　その<ruby>必要<rp>（</rp><rt>●●</rt><rp>）</rp></ruby>とは──これはもう言うまでもなかろう。だいたい、「第二集」の草稿にもしこの番号が付されていなかったと仮定したら、どんな事態にたちいたったか？　各詩篇の<ruby>一一<rp>（</rp><rt>いちいち</rt><rp>）</rp></ruby>の下書稿群は、たいてい猛烈な手入れが施され、ときに大幅な改変がなされ、題名もしばしば変り、無題のままであるものも少なくない。どれがどれの下書で、どれとどれとどれが同一詩篇の下書稿群に属するのか、作者自身だって混乱しかねなかったであろう。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 11px">（天沢退二郎「『春と修羅』第一集から第二集へ─日付と作品番号をめぐって」：『国文学』第39巻5号）</p>
</blockquote>
<p>　すなわち作品番号とは、作者賢治が詩の推敲作業を行う上で必要とした、「整理番号」だったというのです。</p>
<p>　榊昌子さんも、天沢さんの上記見解を踏まえ、さらに賢治が詩草稿に題名を付けない場合が多いことや、題名付与の困難さを指摘した上で、次のように述べます。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　こうしたことから、改稿の過程でも簡単に作品を識別できる便宜上の符号があれば便利だと、賢治は考えたに違いない。その思いが、「第二集」になってから、作品番号という形に結実したと想像される。作品番号はつまり、題の代わりとなる心象スケッチの識別番号なのである。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right; font-size: 11px">（榊昌子「作品番号の謎」：『宮沢賢治「春と修羅 第二集」の風景』p.354）</p>
</blockquote>
<p>　天沢さんが「整理番号」と言い、榊さんが「識別番号」と言うところの趣旨はほぼ同じで、同一の日付を持つ作品が複数ありうる賢治の草稿の束の中では、日付以外の何らかの「目印」がないと、作者にとって混乱が生じるだろうというわけです。</p>
<p>　賢治の詩の作品番号とは、個々の作品の識別同定のための、「ID番号」なのです。</p>
<table class="g-tools_table" style="width: 100%;">
    <tbody>
        <tr>
            <p style="margin: 0;"><td valign="top" class="g-tools_table" style="width: 22%; min-width: 100px;`">
                <span class="g-tools_img"><a href="https://amzn.to/4cxKKEJ" target="_blank"><img alt="宮沢賢治「春と修羅　第二集」の風景" src="https://m.media-amazon.com/images/I/411E2FWESZL.jpg" style="box-shadow:5px 5px 10px; border:1px solid #ccc;" /></a></span></p>
            </td>
            <td valign="top" class="g-tools_table">
                <p style="margin: 0;"><span class="g-tools_body"><a href="https://amzn.to/4cxKKEJ" target="_blank">宮沢賢治「春と修羅　第二集」の風景</a><img style="border-bottom: medium none; border-left: medium none; border-top: medium none; border-right: medium none" alt="" src="https://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=ihatovcc-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" /><br />
                榊 昌子 (著)<br />
                無明舎出版 (2004/2/23)<br />
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            </td>
        </tr>
    </tbody>
</table>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　そこであらためて冒頭の、「なぜ賢治はある時期から作品番号を付けなくなっていったのか？」という疑問に戻ります。<br>　賢治にとって、作品番号には上記のような「必要性」があったはずなのですが、ある時期からは必要がなくなったというのでしょうか。</p>
<p>　賢治の口語詩で、作品番号が明示的に失われていくのは1928年に入ってからですが、その1928年の（「疾中」以前の）口語詩を列挙すると、下表のようになります。これらはすべて、「作品番号」は付けられていない詩です。</p>
<table border="0" cellpadding="0" cellspacing="0" width="" style="border-collapse: collapse; width: 540px; max-width: 100%">
<tbody>
<tr>
<th style="text-align: center; width: 220px; max-width: 60%">題名</th>
<th style="text-align: center; width: 180px; max-width: 25%">日付</th>
<th style="text-align: center; width: 140px; max-width: 15%">分類</th>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/haru_3/272_d.htm">台地</a></p>
</td>
<td>
<p>一九二八、四、十二、</p>
</td>
<td>春と修羅 第三集</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/haru_3/273_d.htm">停留所にてスヰトンを喫す</a></p>
</td>
<td>
<p>一九二八、七、二〇、</p>
</td>
<td>春と修羅 第三集</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/haru_3/274_d.htm">穂孕期</a></p>
</td>
<td>
<p>一九二八、七、二四、</p>
</td>
<td>春と修羅 第三集</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/mihara/492_d.htm">三原　第一部</a></p>
</td>
<td>
<p>一九二八、六、一三、</p>
</td>
<td>三原三部</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/mihara/493_d.htm">三原　第二部</a></p>
</td>
<td>
<p>一九二八、六、一四、</p>
</td>
<td>三原三部</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/mihara/494_d.htm">三原　第三部</a></p>
</td>
<td>
<p>一九二八、六、一五、</p>
</td>
<td>三原三部</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/tokyo/495_d.htm">浮世絵展覧会印象</a></p>
</td>
<td>
<p>一九二八、六、一五、</p>
</td>
<td>東京</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/tokyo/496_d.htm">高架線</a></p>
</td>
<td>
<p>一九二八、六、一〇、</p>
</td>
<td>東京</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/tokyo/497_d.htm">神田の夜</a></p>
</td>
<td>
<p>一九二八、六、一九、</p>
</td>
<td>東京</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/tokyo/498_d.htm">自働車群夜となる</a></p>
</td>
<td>
<p>なし</p>
</td>
<td>東京</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/tokyo/500_d.htm">恋敵ジロフォンを撃つ</a></p>
</td>
<td>
<p>なし</p>
</td>
<td>東京</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/tokyo/501_d.htm">丸善階上喫煙室小景</a></p>
</td>
<td>
<p>一九二八、六、一八、</p>
</td>
<td>東京</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/tokyo/502_d.htm">光の渣</a></p>
</td>
<td>
<p>なし</p>
</td>
<td>東京</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/sokei/504_d.htm">〔澱った光の澱の底〕</a></p>
</td>
<td>
<p>なし</p>
</td>
<td>装景手記</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>　これを見ると、1928年にスケッチされた口語詩で、題名が付けられていないのは、「<a href="https://ihatov.cc/sokei/504_d.htm">〔澱った光の澱の底〕</a>」だけで、他の作品には全て題名が付けられています。<br>　この題名保有率は、「春と修羅 第三集」の中で題名が付けられている作品が69篇中39篇であるのに比較すると、断然高いものです。また、「三原三部」や「東京」が記されているのは「ノート」段階の草稿という意味で、「詩ノート」と比較してみると、こちらは97篇中で題名が付けられているのは20篇しかありませんから、その差は一層大きくなっています。</p>
<p>　すなわち、1928年の賢治は、「詩草稿には原則として題名を付ける」という態度で、創作していると思われるのです。</p>
<p>　賢治がいったいなぜ、1928年になると律儀に詩に題名を付けるようになったのか、その理由はわかりません。しかしそもそも、作品番号とは「題の代わりとなる識別番号」だったわけですから、最初から題名が付いていれば、それが識別の目安になるので、わざわざ「作品番号」を付与する必要はなくなるのではないでしょうか。</p>
<p>　言い換えれば、「1928年の賢治は、詩に一つ一つちゃんと題名を付けるようになったから、作品番号を付ける必要がなくなった」と言うことができるのかもしれません。</p>
<p>　しかしこれでも、まだ何となく釈然としない感じは残ります。<br>　賢治はさらに晩年には、文語詩を作るようになりますが、文語詩の草稿には、もはや作品番号どころか日付も記入されません。そして、文語詩で題名が付けられているのは、「文語詩稿 五十篇」のうちでは15篇、「文語詩稿 一百篇」の101篇のうちでは40篇と、題名保有率は「春と修羅 第三集」よりもさらに低くなっています。<br>　天沢氏が指摘するとおり、題名が付けられていない大量の草稿に対して、何段階もの推敲を加えていくのは非常に煩雑な作業と思われ、そのためにこそ「第二集」「第三集」では作品番号という目安の符号が導入されたはずだったのに、文語詩を推敲する賢治は、作品番号も日付もなしに、どうやって混乱せずに作業を重ねていくことができたのでしょうか？<br>　それもやはり謎のままです。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><img src="https://ihatov.cc/images/20260419a.jpg" width="640" height="396" alt=""><br>「三原三部」ノートと「東京」ノート（『新校本全集』第六巻口絵より）</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>作品番号･日付の喪失(2)</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/04/2_62.htm" />
    <id>tag:ihatov.cc,2026://1.8352</id>

    <published>2026-04-12T10:06:19Z</published>
    <updated>2026-04-14T14:07:45Z</updated>

    <summary>　先週の記事では、「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」の作品が、作品番号や...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="「口語詩稿」" label="「口語詩稿」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="スケッチ日付" label="スケッチ日付" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="作品番号" label="作品番号" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/04/post_1188.htm" target="_self" title="">先週の記事</a>では、「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」の作品が、作品番号や日付を失って「春と修羅 第二集補遺」や「春と修羅 第三集補遺」になっていった経過とのアナロジーによって、「<strong>「口語詩稿」の作品も、最初は全て作品番号と日付を有していたが、推敲の過程でそれらを失ったのではないか</strong>」と考えてみました。<br>　もしもそうであるなら、「口語詩稿」の作品の初期形に付けられていた作品番号は、現存する「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」の作品番号においては、「欠番」となっているはずです。</p>
<p>　一方、「口語詩稿」に属する各作品のスケッチが、『春と修羅』（1922年1月～1923年12月）、「春と修羅 第二集」（1924年2月～1926年1月）、「春と修羅 第三集」（1926年4月～1928年7月）のいずれに時期に属するかを検討すると、『春と修羅』の時期と推測されるものは0篇、「春と修羅 第二集」の時期と推測されるものが7篇、「春と修羅 第三集」の時期と推測されるものが45篇、不明が2篇となりました。<br>　すなわち、「第三集」の時期に着想されたと推測される作品が、大半を占めています。</p>
<p>　そこで今回は、「第二集」と「第三集」における「欠番」の状況と、「口語詩稿」の作品の着想時期を対照し、「「口語詩稿」の作品も、最初は全て作品番号と日付を有していたが、推敲の過程でそれらを失った」という上記仮説の当否について、検討してみたいと思います。</p>]]>
        <![CDATA[<p style="text-align: center">※</p>
<p>　まず、「春と修羅 第二集」に属する各作品の「日付」を横軸に、「作品番号」を縦軸にしてグラフにすると、下図のようになります。</p>
<div style="width: 597px; max-width: 100%;">
<p style="margin: 0; text-align: center; font-weight: bold"><strong>「春と修羅 第二集」各作品の日付と作品番号</strong></p>
<p style="margin: 0;"><a href="https://ihatov.cc/images/opus_2.png"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/04/opus_2-thumb-597xauto-1109.png" width="597" height="472" alt="「春と修羅 第二集」各作品の日付と作品番号"></a></p>
</div>
<p>　「春と修羅 第二集」の作品を日付順に配列すると、作品番号「二」の「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/080_d.htm" target="_self" title="">空明と傷痍</a>」に始まって、作品番号「四〇三」の「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/193_d.htm" target="_self" title="">岩手軽便鉄道の一月</a>」に終わり、この間の作品番号は概ね増加していくのですが、グラフをご覧いただいたらわかるように、途中で不規則な挙動をする箇所が、いくつかあります。</p>
<p>　一方、「春と修羅 第三集」および「詩ノート」の各作品を、やはり「日付」を横軸に、「作品番号」を縦軸にしてグラフにすると、下図のようになります。</p>
<p style="margin: 0; text-align: center; font-weight: bold"><strong>「春と修羅 第三集」「詩ノート」各作品の日付と作品番号</strong></p>
<p style="margin: 0;"><a href="https://ihatov.cc/images/opus_3c.png"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/04/opus_3c-thumb-640xauto-1114.png" width="640" height="381" alt="「春と修羅 第三集」「詩ノート」各作品の日付と作品番号"></a></p>
<p>　こちらは、「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/228_d.htm" target="_self" title="">七四三 〔盗まれた白菜の根へ〕一九二六、一〇、一三、</a>」から「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/229_d.htm" target="_self" title="">一〇〇一 〔プラットフォームは眩くさむく〕一九二七、二、一二、</a>」の間に作品番号の跳躍がある以外は、漸進的に増加しています。とりわけ初期形の「詩ノート」に基づけば、「一〇〇一」から最後の「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/382_d.htm" target="_self" title="">一〇九二　藤根禁酒会へ贈る　一九二七、九、一六、</a>」までの間は、唯一の欠番である「一〇九一」を除いて、全て連続した番号になっています。<br>　ただし、上のグラフで線が途切れている「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/297_d.htm" target="_self" title="">〔いろいろな反感とふゞきの中で〕三、一六、</a>」と「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/312_d.htm" target="_self" title="">〔いくつの　天末の白びかりする環を〕三、三一、</a>」の2作品と、最後の3作品「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/272_d.htm" target="_self" title="">台地　一九二八、四、一二、</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/273_d.htm" target="_self" title="">停留所にてスヰトンを喫す　一九二八、七、二〇、</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/274_d.htm" target="_self" title="">穂孕期　一九二八、七、二四、</a>」は、作品番号を欠いています。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　次に、「春と修羅 第二集」と、「春と修羅 第三集」「詩ノート」における、作品番号の「欠番」を列挙すると、次のようになっています。（算用数字で表記しています）</p>
<p style="margin: 0; text-align: center; font-weight: bold"><strong>「春と修羅 第二集」の作品番号欠番</strong></p>
<div style="border: 2px dotted #c0c0c0;">
<p style="margin: 10px;">1, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,<br>10, 11, 12, 13 15,<br>20, 22, 23, 24, 26, 28,<br>30, 31, 32, 33, 34, 36, 37, 38, 39,<br>41, 42, 43, 44, 47, 48, 49, 50, 51, 54, 55, 56, 57, 58, 59,<br>60, 61, 62, 63, 64, 65, 66, 67, 68,<br>70, 71, 72, 76, 77, 79,<br>80, 81, 82, 83, 84, 85, 87, 88, 89,<br>94, 95, 96, 97, 98,<br>100, 101, 102, 103, 104, 105, 107, 108, 109, <br>110, 111, 112, 113, 114, 115, 117, 119,<br>120, 121, 122, 124, 125, 127, 128, 129,<br>130, 131, 132, 134, 135, 136, 137, 138,<br>140, 141, 142, 143, 144, 146, 147, 148, 149,<br>150, 151, 153, 159,<br>160, 161, 162, 163, 164, 165, 167, 168, 169,<br>170, 172, 173, 174, 175, 176, 177, 178,<br>180, 182, 183, 185, 186, 187, 188, 189,<br>190, 192, 193, 194, 197, 198, 199,<br>200,<br>302, 303, 306, 308,<br>310, 312, 315, 316, 318, 319,<br>321, 322, 323, 325, 328,<br>332, 334, 339,<br>341, 342, 344, , 346, 347, 349,<br>352, 353, 354, 355, 357,<br>367,<br>371, 373, 376, 379,<br>380, 381, 382,<br>402, 403, 404, 405, 406,<br>412, 413, 414, 416, 417, 418,<br>505, 507, 509,<br>510, 512, 513, 514, 516, 517, 518</p>
</div>
<p>　「春と修羅 第二集」の期間における、作品番号の欠番は、全部で212個あります。<br>　これだけの余地があれば、「口語詩稿」のうちで「春と修羅 第二集」の時期に属すると推測される7篇が、その現存しない初期形態においては、上記のいずれかの欠番を付与されていたと想定することは、十分に可能です。</p>
<p>　一方、「春と修羅 第三集」および「詩ノート」における作品番号の「欠番」を列挙すると、次のようになっています。（算用数字で表記しています）</p>
<p style="margin: 0; text-align: center; font-weight: bold"><strong>「春と修羅 第三集」「詩ノート」の作品番号欠番</strong></p>
<div style="border: 2px dotted #c0c0c0;">
<p style="margin: 10px;">701, 702, 703, 704, 705, 707, 708,<br>710, 712, 713, 716, 717, 719,<br>720, 721, 722, 723, 724, 725, 729,<br>732, 737,<br>1091</p>
</div>
<p>　「春と修羅 第三集」の期間における欠番は、全部で23個あります。<br>　上のグラフの方で見たように、「詩ノート」において作品番号七四五の「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/287_d.htm" target="_self" title="">〔霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ〕一九二六、一一、一五、</a>」から、作品番号一〇〇一の「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/288_d.htm" target="_self" title="">汽車　一九二七、二、一二、</a>」の間には、番号の跳躍がありますが、保存されている「詩ノート」のページは連続しており、この間の番号に、作品は割り当てられていなかったものと推測されます。</p>
<p>　となると、「春と修羅 第三集」の時期における作品番号欠番は、上に挙げた「23個」のみということになります。この数は、「口語詩稿」のうちで「第三集」の時期の作品と推測される「45篇」という数には遠く及ばす、その約半分にしかすぎません。<br>　すなわち、「口語詩稿」のうち「第三集」の時期の作品に、作品番号の欠番を全て割り振っても、約半分しか埋まらないのです。</p>
<p>　つまり、<strong>「口語詩稿」の中で、「第三集」の時期にスケッチされた作品のうちの相当数は、最初から作品番号は持っていなかった</strong>と、考えざるを得ません。今回の記事で当初想定していた、「「口語詩稿」の作品も、最初は全て作品番号と日付を有していたが、推敲の過程でそれらを失った」という仮説は、ここに否定されたわけです。</p>
<p>　言い換えれば、「口語詩稿」に属する「第三集」相当時期の作品のうち、<strong>少なくとも半分程度は、最初から作品番号を持たない形で創作された</strong>ということになります。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　このような事実を受けとめた上で、賢治の口語詩の創作経過を見てみると、たしかに1928年においては、4月の「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/272_d.htm" target="_self" title="">台地</a>」および7月の「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/273_d.htm" target="_self" title="">停留所にてスヰトンを喫す</a>」「<a href="https://ihatov.cc/haru_3/274_d.htm" target="_self" title="">穂孕期</a>」という3作品に、作品番号は付けられていませんし、同年6月の「三原三部」と「東京」にも、また「装景手記」の中で同年6月の花巻帰郷直後と推測される「<a href="https://ihatov.cc/sokei/504_d.htm" target="_self" title="">〔澱った光の澱の底〕</a>」にも、やはり作品番号は付けられていません。<br>　すなわち、賢治は1928年以降は、1924年以来の創作方針を大きく変更して、「作品番号は付けない」という形にしたのだろうと、考えることができます。</p>
<p>　そして、今回確認したことからすると、このように1928年になって顕在化する「作品番号を付けない」という創作態度の変化は、1927年以前に書かれた「口語詩稿」のうちから、徐々に現れてきていのだろうと、考えてみることができます。</p>
<p>　なぜ賢治が、一部において「作品番号を付けない」という方針に転換したのか、その意味や理由はわかりません。しかし、さらにその後の「疾中」や文語詩を見ると、「作品番号」はもとより「日付」も記されなくなっていくわけですから、これは賢治におけるこのような「創作方針の大きな変化」の、その一部分を成しているのかもしれません。</p>
<p>　そのような「創作方針の変化」が、趨勢として存在するのならば、「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」の作品の一部が、推敲されるうちに作品番号も日付も喪失して、「春と修羅 第二集補遺」や「春と修羅 第三集補遺」へと推移していくという現象も、その変化の一部を成しているのだと、考えることも可能です。<br>　ただしかし、その一方で、晩年における「第二集」「第三集」の推敲においても、作品番号と日付を変わらず維持しつづけた作品も多数あるわけですから、「作品番号・日付の喪失」という一つの「流れ」だけが存在するわけでもありません。</p>
<p>　すなわち、<strong>賢治の口語詩においては、「作品番号・日付の維持」と、「作品番号・日付の喪失」という、二つの流れが並行して存在している</strong>ということが、言えるのかと思います。<br>　そのような現象が持つ「意味」については、まだ現時点でよくわかりません。</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>作品番号･日付の喪失(1)</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/04/post_1188.htm" />
    <id>tag:ihatov.cc,2026://1.8351</id>

    <published>2026-04-05T12:23:38Z</published>
    <updated>2026-04-06T23:51:48Z</updated>

    <summary>　『新校本宮澤賢治全集』の第三巻には、「春と修羅 第二集」およびその関連作品が、...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="「口語詩稿」" label="「口語詩稿」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="スケッチ日付" label="スケッチ日付" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="作品番号" label="作品番号" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　『新校本宮澤賢治全集』の第三巻には、「春と修羅 第二集」およびその関連作品が、第四巻には「春と修羅 第三集」およびその関連作品が収録されています。<br>　収録作品の分類基準について、同全集の「凡例」には、次のように書かれています。</p>
<blockquote>
<p>第三巻・第四巻には、主として専用の細罫詩稿用紙に書かれた口語詩のうち、作品番号と日付けのあるものを、各詩篇の最終形の日付け順に（最終形に日付けが付されていない場合は、作品番号によって補正する）配列する。作者によって、「春と修羅　第二集」と指定された期間の日付けをもつ作品を第三巻に収め、「春と修羅　第三集」と指定された期間の日付けをもつ作品および「詩ノート」（第三集初期形態）を第四巻に収める。作品番号も日付けもない口語詩のうち、「春と修羅　第二集」作品の発展形とみられるものを「第二集補遺」として第三巻に、「第三集」作品の発展形とみられるものを「第三集補遺」として第四巻に収め、そのどちらにも属さない作品を「口語詩稿」として第五巻に収める。</p>
</blockquote>
<p>　おそらくこの「凡例」の根底にあるのは、「賢治の口語詩においては、作品番号と日付の存在が重要である」という考え方です。<br>　自分の詩の一つ一つに、「作品番号」と「日付」を付けるというのも、他の詩人にはあまり見られない賢治独特の作法だと思いますが、後世の読者である私たちも、作品番号・日付が「付けられている作品」と、「付けられていない作品」とを区別して、上記のように分類・配列し、享受しているわけです。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　この分類方法の結果として私たちは、作品番号と日付が付けられた「春と修羅 第二集」「春と修羅 第三集」所収作品を、何となく彼の口語詩の「メイン・ストリーム」のように受けとめる一方、各々の「補遺」や「口語詩稿」の作品は、「傍流」にあるものと見なしてしまいがちです。<br>　しかし考えてみると、「第二集補遺」「第三集補遺」に分類されている作品形態は、「第二集」「第三集」の作品形態に対して、作者がさらに推敲を加えたものなのですから、通常ならばこちらの方こそ作者の最終的な意図を反映した形態として、より重視すべきとも言えるでしょう。けれども従来の宮沢賢治全集ではそうせずに、あくまでも「作品番号・日付が付けられている状態での最終形」を重視するわけです。</p>
<p>　私は、このような宮沢賢治全集の方針に反対なわけではなく、むしろ現行の全集の、「作品番号と日付の順に配列された詩を、時系列に沿って読んでいく」というスタイルには、長年の愛着を感じますし、これによって作者の内面世界が、眼前に展開していくような気分も、味わわせてもらっています。<br>　そして、このような分類・配列のための不可欠の拠り所となっている、賢治の「作品番号」「日付」というのは、本当に不思議なものだと感じるとともに、いったいこれらの存在にはどんな意味があるのだろうか？という大きな疑問も湧いてきます。</p>
<p>　この疑問の答えは、なかなか簡単に出そうにはありませんが、ここではもう少し基本的な問題から、考えてみることにします。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　その問題の一つは、「「口語詩稿」に属する作品は、最初から作品番号・日付がなかったのか、それとも推敲過程のある段階でそれらを失ったのか？」ということです。<br>　これについては、「春と修羅 第二集補遺」や「春と修羅 第三集補遺」の作品は、ある段階までは「第二集」や「第三集」の作品として作品番号も日付も持っていたのに、さらに推敲を加えられるうちにそれらを失っていったわけですから、「口語詩稿」の作品も、これと同様のプロセスを経て生まれてきたのではないか、という仮説を立ててみることができます。<br>　「第二集補遺」「第三集補遺」の作品には、作品番号・日付を持つその先駆形が残されているのと同じように、「口語詩稿」の作品にも、かつてはそのような先駆形が存在していたのだが、たまたま何らかの理由で失われてしまったのだ、と考えるわけです。<br>　この場合、作品番号と日付を持った「口語詩稿」作品の先駆形は失われている以上、それに付けられていた作品番号は、現在の「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」（および「詩ノート」）では、「欠番」になっているはずです。</p>
<p>　この仮説には、それなりに説得力があるように思われ、たとえば「口語詩稿」に属する「<a href="https://ihatov.cc/kogo/385_d.htm" target="_self" title="">発動機船　一</a>」や「<a href="https://ihatov.cc/kogo/386_d.htm" target="_self" title="">発動機船　三</a>」の例を見てもそうです。<br>　「春と修羅 第二集」には、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/151_d.htm" target="_self" title="">発動機船 [断片]</a>」という、作品番号と日付を持った作品断片が収められており、「春と修羅 第二集補遺」には、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/194_d.htm" target="_self" title="">発動機船　第二</a>」という作品番号も日付もない作品が収められています。<br>　「<a href="https://ihatov.cc/kogo/385_d.htm" target="_self" title="">発動機船　一</a>」も「<a href="https://ihatov.cc/kogo/386_d.htm" target="_self" title="">発動機船　三</a>」も「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/194_d.htm" target="_self" title="">発動機船　第二</a>」も、時間こそ違えど同じ発動機船の描写であると考えられ、いずれも作品番号も日付も持っていないところは同じなのですが、「口語詩稿」と「第二集補遺」に所属が分かれている理由は、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/194_d.htm" target="_self" title="">発動機船　第二</a>」は「ラッパ」が出てきていることで「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/151_d.htm" target="_self" title="">発動機船 [断片]</a>」の発展形と全集編集者が判断したのに対して、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/385_d.htm" target="_self" title="">発動機船　一</a>」と「<a href="https://ihatov.cc/kogo/386_d.htm" target="_self" title="">発動機船　三</a>」には、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/151_d.htm" target="_self" title="">発動機船 [断片]</a>」と共通する描写が認められず、発展形とは認められないからです。<br>　しかし、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/385_d.htm" target="_self" title="">発動機船　一</a>」も「<a href="https://ihatov.cc/kogo/386_d.htm" target="_self" title="">発動機船　三</a>」も、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/151_d.htm" target="_self" title="">発動機船 [断片]</a>」と同じ船における体験を描いた作品である以上、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/194_d.htm" target="_self" title="">発動機船　第二</a>」が「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/151_d.htm" target="_self" title="">発動機船 [断片]</a>」の発展形であるならば、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/385_d.htm" target="_self" title="">発動機船　一</a>」や「<a href="https://ihatov.cc/kogo/386_d.htm" target="_self" title="">発動機船　三</a>」にも、作品番号や日付を有する先駆形があったのではないかと想定するのも、自然なことと言えるでしょう。<br>　このあたりの作品番号の状況を見ると、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/150_d.htm" target="_self" title="">〔水平線と夕陽を浴びた雲〕[断片]</a>」が三四八、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/151_d.htm" target="_self" title="">発動機船 [断片]</a>」が三五一、発動機船を降りてからと思われる「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/152_d.htm" target="_self" title="">旅程幻想</a>」が三五六ですから、これらの間の欠番に、発動機船を描いた作品があったと考えることは可能です。</p>
<p>　<a href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/03/post_1187.htm" target="_self" title="">先週</a>取り上げた「<a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm" target="_self" title="">軍馬補充部主事</a>」という「口語詩稿」の作品について、信時哲郎さんが書いておられることも、欠番との関係も含めた上記のような仮説に沿うものと言えるでしょう。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　先行作品である「軍馬補充部主事」は黄罫（22 0行）詩稿用紙に書かれているが、この用紙は昭和に入ってから使われたもので、大正十三年には使用されていない。従って「軍馬補充部主事」は大正十三年の取材を昭和に入ってから書き換えたものだということになる。これに先行する作品は見あたらないが、ちょうど「春と修羅 第二集」の作品番号で言うと七九～八五の間に欠番があり（期間で言えば大正十三年四月二八日～五月三日の間）、初期の段階の原稿はここに属していたのだと思われる。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（信時哲郎『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』p.414）</p>
</blockquote>
<p>　すなわち、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm" target="_self" title="">軍馬補充部主事</a>」の先駆形として、七九～八五の間のいずれかの作品番号を持ち、1924年4月28日～5月3日の間の日付を持った草稿が、かつては存在していたものの、その後失われたのだろうと、推測しておられるわけです。前回も述べたように、1924年4月29日に花巻農学校の職員生徒一同は軍馬補充部六原支部に遠足に行ったという記録がありますので、この時に賢治が他の「春と修羅 第二集」の作品と同じように、作品番号と日付を有する草稿を書いたと考えるのは、ごく自然なことと思われます。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　この仮説についてさらに検討するために、「口語詩稿」の各作品が着想された時期が、『春と修羅』「春と修羅 第二集」「春と修羅 第三集」のいずれの期間に属しているのかということについて、考えてみます。<br>　「口語詩稿」の全ての作品について、その着想時期を明らかにすることはなかなか困難ですが、その内容から推測すると、だいたい下の表のように考えられるように思います。</p>
<table border="0" cellpadding="0" cellspacing="0" width="" style="border-collapse: collapse; width: 420px; max-width: 100%">
<tbody>
<tr>
<th style="text-align: center; width: 370px; max-width: 60%">題名</th>
<th style="text-align: center; width: 70px; max-width: 25%">着想時期</th>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/384_d.htm">阿耨達池幻想曲</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/385_d.htm">発動機船　一</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/386_d.htm">発動機船　三</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/387_d.htm">こゝろ</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/388_d.htm">〔めづらしがって集ってくる〕</a></p>
</td>
<td>
<p>不明</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/389_d.htm">心象スケッチ　林中乱思</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/390_d.htm">〔鉛いろした月光のなかに〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/391_d.htm">〔爺さんの眼はすかんぼのやうに赤く〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/392_d.htm">法印の孫娘</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/393_d.htm">第三芸術</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/394_d.htm">夏</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/395_d.htm">蕪を洗ふ</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/396_d.htm">〔何かをおれに云ってゐる〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/397_d.htm">〔こっちの顔と〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/398_d.htm">〔そもそも拙者ほんものの清教徒ならば〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/399_d.htm">〔おぢいさんの顔は〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/400_d.htm">〔鳴いてゐるのはほととぎす〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/401_d.htm">密醸</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/402_d.htm">毘沙門天の宝庫</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/403_d.htm">火祭</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/404_d.htm">霰</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/405_d.htm">三月</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/406_d.htm">牧歌</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/407_d.htm">地主</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/408_d.htm">会見</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/409_d.htm">事件</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/410_d.htm">憎むべき「隈」辨当を食ふ</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/411_d.htm">病院の花壇</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/412_d.htm">〔まぶしくやつれて〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/413_d.htm">〔あしたはどうなるかわからないなんて〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/414_d.htm">保線工夫</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/415_d.htm">会食</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/416_d.htm">〔まあこのそらの雲の量と〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/417_d.htm">〔この医者はまだ若いので〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/418_d.htm">〔みんな食事もすんだらしく〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/419_d.htm">休息</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/420_d.htm">〔四信五行に身をまもり〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/421_d.htm">〔湯本の方の人たちも〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/422_d.htm">来訪</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/423_d.htm">春曇吉日</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/424_d.htm">冗語</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/425_d.htm">〔しばらくだった〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm">軍馬補充部主事</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/427_d.htm">〔熊はしきりにもどかしがって〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/428_d.htm">夜</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/429_d.htm">杉</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/430_d.htm">〔もう二三べん〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/431_d.htm">〔馬が一疋〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集？</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/432_d.htm">〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/433_d.htm">審判</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/434_d.htm">〔あかるいひるま〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第三集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/435_d.htm">〔高原の空線もなだらに暗く〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/436_d.htm">〔あらゆる期待を喪ひながら〕</a></p>
</td>
<td>
<p>不明</p>
</td>
</tr>
<tr height="26" style="">
<td height="26">
<p><a href="https://ihatov.cc/kogo/437_d.htm">〔黄いろにうるむ雪ぞらに〕</a></p>
</td>
<td>
<p>第二集？</p>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>　すなわち、「口語詩稿」に属する作品が54篇あるうちで、着想が「第二集」の時期と推測されるものが7篇、「第三集」の時期と推測されるものが45篇、不明が2篇、ということになります。<br>　すなわち、「第三集」の時期のものと思われる作品が、圧倒的に多くなっています。</p>
<p>　時間の関係で、今回はここまでとして、次回にはそれぞれの時期における作品番号の「欠番」の数について、見てみたいと思います。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a data-mt-asset-id="1108" class="mt-asset-link" href="https://ihatov.cc/images/20260405a.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/04/20260405a-thumb-640xauto-1108.jpg" width="640" height="443" alt="「〔みんな食事もすんだらしく〕」"></a><br>「〔みんな食事もすんだらしく〕」下書稿(一)（『新校本全集』第五巻口絵）</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>軍馬補充部六原支部</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://ihatov.cc/blog/archives/2026/03/post_1187.htm" />
    <id>tag:ihatov.cc,2026://1.8350</id>

    <published>2026-03-29T12:55:59Z</published>
    <updated>2026-04-05T04:51:51Z</updated>

    <summary>　「口語詩稿」に、「軍馬補充部主事」という作品があります。 　　軍馬補充部主事う...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
    </author>
    
        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="「口語詩稿」" label="「口語詩稿」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="〔朝日が青く〕" label="〔朝日が青く〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="軍馬補充部主事" label="軍馬補充部主事" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://ihatov.cc/">
        <![CDATA[<p>　「口語詩稿」に、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm" target="_self" title="">軍馬補充部主事</a>」という作品があります。</p>
<blockquote>
<p>　　軍馬補充部主事<br><br>うらうらと降ってくる陽だ<br>うこんざくらも大きくなって<br>まさに老幹とも云ひつべし<br>花がときどき眠ったりさめたりするやうなのは<br>自分の馬の風のためか<br>あるひはうすい雲かげや、<br>かげらうなぞのためだらう<br>よう調教に加はって<br>震天がもう走って居るな<br>膝がまだ癒り切るまい<br>列から出すといゝんだが<br>いやこゝまで来るとせいせいする<br>ひばりがないて<br>はたけが青くかすんで居る<br>その向ふには経塚岳だ<br>山かならずしも青岱ならず<br>残雪あながちに白からずだ<br>五番の圃地を目的に<br>青塗りの播種車が<br>から松をのろのろ縫って行くのは<br>まづ本部のタンクだな<br>いやあ、牧地となると<br>聯隊に居るときとはちがって<br>じつにかんかんたるものだ<br>しかしながら<br>このやうな浩然の大気によって<br>何人もだらけぬことが肝要だ<br>ところが何だ、あのさまは<br>みんなぴたっと座り居る<br>このまっぴるま<br>しかもはたけのまんなかで<br>さんさ踊りをやり居って<br>誰か命令したやうに<br>ぴたりとみんな座り居った<br>おれのかたちを見たんだな<br>雇ひ農婦どもの白い笠がきのこのやうだ<br>まだじっとしてかゞんでゐるのは<br>まるで野原の生蕃だ<br>いったい何といふ秩序だ<br>あすこは二十五番の圃地だ<br>けさ高日技手が玉蜀黍を播くとか云って<br>四班を率ひて行き居ったのに<br>このまっぴるま何ごとだ<br>しかもあの若ものは乗馬づぼんに<br>ソフトカラなどつけ居って<br>なかなかづ太いところがある<br>一番行ってどなるとするか、<br>大人気ないな<br>ははあ開所の祭りが近い<br>今年もやっぱり去年のやうに<br>各班みんな競争で<br>なにか踊りをやるんぢゃな<br>もちろん拙者の意も迎へ<br>衆もたのしむつもりぢゃらう<br>それならむろん文句はない<br>馬のかしらを立て直しぢゃ<br>粋な親分肌を見せるのは<br>かう云ふときにかぎるんぢゃ<br>さっきのうこんざくらをつんで<br>家内に手紙を書くとしやう</p>
</blockquote>
<p></p>]]>
        <![CDATA[<p>　作品の語り手は、作者賢治ではなくて、表題にもある「軍馬補充部主事」なる人物です。桜も咲くのどかな春の陽差しの下を、一人悠々と馬に乗って進んでいます。<br>　膝を怪我した馬を気づかい、遙かに経塚岳を望み、のろのろ進む播種車を<ruby>戦車<rp>（</rp><rt>タンク</rt><rp>）</rp></ruby>に見立て、心はゆったりと寛いでいるようですが、「このやうな浩然の大気によって／何人もだらけぬことが肝要だ」と、軍人らしく気を引き締めています。</p>
<p>　ところがその時、畑の中で農婦たちが「さんさ踊り」をやっている様子が、目に入ります。乗馬ズボンにソフトカラーなどを着けた伊達男までいます。<br>　ここはひとつ、部下の根性を叩き直すために、行って怒鳴ってやろうかとも思いますが、それも大人気ないこと。皆は近く催される「開所祭り」のために、何か演し物の稽古をしているのだろうから、こういう時こそ「粋な親分肌」を見せてやろうと、思い直します。<br>　そして最後は、「さっきのうこんざくらをつんで／家内に手紙を書くとしやう」と、微笑ましい愛妻家の側面も覗かせて終わります。</p>
<p>　老木に咲く桜と、馬たちのいる牧野、遠景の山並み、踊りの稽古をする農婦たちという、春らしい穏やかな風景に、ちょっと頑固そうだけれど優しさも漂わせる軍人という、取り合わせの妙が魅力的な作品です。「浮世絵」のような風合いも感じられます。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　さて、ここに出てくる「軍馬補充部」というのは、1898年から1925年まで、岩手県胆沢郡相去村大字六原（現在の金ケ崎町六原）に置かれていた、「軍馬補充部六原支部」のことです。下の写真は、当時のこの支部の官舎を保存し整備した、「<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%A6%AC%E3%81%AE%E9%83%B7%E5%85%AD%E5%8E%9F%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8" target="_self" title="">軍馬の郷 六原資料館</a>」です。ご覧のような瀟洒な建物で、佐官級の官舎だったということですから、上の「主事」なる人物も、ここで暮らしていた可能性があります。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a href="https://ihatov.cc/images/Rokuhara_Museumu%2CKanegasaki%2CIwate.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/03/Rokuhara_Museumu%2CKanegasaki%2CIwate-thumb-640xauto-1107.jpg" width="640" height="480" alt="軍馬の郷 六原資料館"></a><br>軍馬の郷 六原資料館（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rokuhara_Museumu,Kanegasaki,Iwate.jpg?uselang=ja" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>
<p>　日露戦争頃までは、陸軍において騎兵隊は非常に重要な戦力でしたから、優秀な軍馬を安定して育成し管理することは、国としても大切な事業でした。このため、陸軍の外局として東京に設置された「軍馬補充部」のもと、北海道や東北を中心とした地方各地に、馬の育成と供給を実地で担当する「支部」が置かれました。</p>
<p>　南部馬で有名な岩手県は、江戸時代から日本有数の馬産地でしたが、この「軍馬補充部支部」を岩手県に誘致する上で活躍したのが、獣医師で相去村長も務めた桑島重三郎でした。当時、国の施設である軍馬補充部が六原の地に設置されたことによって、金ケ崎町はもとより、胆沢、江刺、和賀地方の農家に、現金収入の道が開かれたということです。</p>
<blockquote>
<p style="margin-bottom: 0;">　明治31年（1898）に設置された陸軍省軍馬補充部六原支部は岩手県南地方に様々な影響を及ぼしました。とりわけ六原、金ケ崎には地方版文明開<ruby>花<rp>（</rp><rt>ママ</rt><rp>）</rp></ruby>といっても過言ではなく、それだけに地域の人々の施設に寄せる思いは余りあるものがあると思います。</p>
<p style="margin-top: 0; text-align: right">（『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/13274715/1/3" target="_self" title="">旧陸軍省軍馬補充部六原支部官舎調査報告書</a>』序文より）</p>
</blockquote>
<p>　1924年4月29日、この軍馬補充部六原支部へ、賢治たち花巻農学校の職員生徒一同は、遠足でやってきました（『新校本全集』年譜篇p.270）。<br>　宮沢賢治が六原の軍馬補充部に行ったのは、この時1回だけとはかぎりませんが、「4月29日」という時期は、この地方でちょうど桜が開花する頃に当たります。<br>　さらに、島田隆輔氏の調査（「宮沢賢治と軍馬補充部」:『賢治研究』63, 1994）によれば、作品中の「ははあ開所の祭りが近い／今年もやっぱり去年のやうに／各班みんな競争で／なにか踊りをやるんぢゃな」という記述に沿うように、1922年5月1日には軍馬補充部六原支部の創立25年記念の催しが行われ、この際に「女性を多数含む踊り手グループによる「手踊」」が披露され、その写真は『大正十一年五月一日／軍馬補充部六原支部／創立二十五年祝典記念寫眞帖』に収録されているということです。</p>
<p>　農学校の遠足が行われた1924年は、この25年祝典の2年後であり、作品中の「今年もやっぱり去年のやうに……」の記述とは1年ずれてしまいます。しかし島田氏の調査では、『桑島重三郎記念誌』の中に、「毎年五月一日にはお花見を兼ねて運動会が行われたのであった。本厩、二ツ森、千貫石等各分厩全部の牧耕手及び常人夫百二、三〇人であったが……」との記載があるということで、催しが毎年行われたのであれば、信時哲郎氏が指摘しておられるように、この「運動会で発表するためにさんさ踊りを練習していた可能性は十分あり」（『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』p.414）、1924年4月29日にその踊りを賢治たちが目撃したと、考えることもできます。</p>
<p>　ということで、この作品が1924年4月29日の賢治の体験に基づくものだとすれば、ほとんどが「春と修羅 第三集」の時期の事柄を描いている「口語詩稿」の中では比較的珍しく、これは「春と修羅 第二集」の時期に着想を得た作品だということになります。<br>　とは言え、「春と修羅 第二集」所収の作品と大きく違うのは、こちらは軍馬補充部の主事の独白という体裁を取った、かなり「物語的」な仕立てになっているところです。「厳密に事実のとほり」を標榜する心象スケッチとはまた異なった、賢治の後半生の創作スタイルに連なります。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　ところで、作品前半の方に出てくる、「よう調教に加はって／震天がもう走って居るな／膝がまだ癒り切るまい／列から出すといゝんだが」という一節は、怪我した馬の心配をする「主事」の、優しさを表す部分でもありますが、これと関係があるかもしれない描写が、劇「種山ヶ原の夜」の中に出てきます。</p>
<blockquote>
<div style="margin-left: 1rem;">
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈一「今年ぁ<ruby>好<rp>（</rp><rt>ゆ</rt><rp>）</rp></ruby>ぐ一疋も見なぐなたものなぃがったな。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈二「うん、<ruby>一昨年<rp>（</rp><rt>おとどし</rt><rp>）</rp></ruby>な、<ruby>汝<rp>（</rp><rt>うな</rt><rp>）</rp></ruby>ぁ、あの時、居ただが、あの夕日山の方さ出はて、怪我してらた馬こよ、サラアブレッドでな。いゝ馬だったば、一生不具だな。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈一「あの馬ぁ、先どな、おら見だぢゃい。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈二「どごで、どこでよ、どごに居だであ、あの馬こぁ。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈一「六原でよ。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈二「何してら、何してらだぃ、あの馬<span style="font-size: 11px;">こ</span>。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈一「やっぱり少しびっこでな、農馬よ、肥料の車<ruby>牽<rp>（</rp><rt>ひ</rt><rp>）</rp></ruby>っぱてらけぁ。」</p>
<p style="text-indent: -1rem; margin: 0;">草刈二「むぞやなな、やっぱり仕方なぃんだもな。」</p>
</div>
</blockquote>
<p>　ここで話題になっているのは、種山ヶ原で放牧されている馬のことですが、この種山ヶ原には、当時「軍馬補充部六原支部」の「種山出張所」が置かれていたのです。ですから、六原と種山ヶ原の間で、馬を移動させるということは普通にあったはずです。<br>　劇「種山ヶ原の夜」で語られているのは、種山ヶ原で怪我をした馬が、六原に移されて農馬をしていたという話ですが、「<a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm" target="_self" title="">軍馬補充部主事</a>」に出てくる「震天」という立派な名前の馬も、やはり膝を怪我しています。こちらは少なくとも作品の時点では、農馬になっているわけではなく調教を受けているようですが、賢治は軍馬補充部六原支部への遠足の際に、怪我をした馬のその後に関する話を、係員から聞いたのかもしれません。<br>　劇「種山ヶ原の夜」が農学校で上演されたのは、1924年8月10日～11日のことですから、遠足からまだ4か月も経っておらず、生徒たちにとっても印象に残っている話だったのではないかと思います。</p>
<p>　ちなみにこの馬の「震天」という名前は、軍馬にぴったりの勇壮な名ですが、面白いことにこの少し前の時代に、種山ヶ原の隣の下有住村に、「震天」という優れた名馬がいたようなのです。<br>　国会図書館デジタルコレクションで『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/11618396/1/2">巖手縣産馬誌</a>』の1915年版を見ると、気仙産馬組合所属で下有住村の「震天」という馬が、明治39年に産馬奨励規定によって<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/11618396/1/138?keyword=%E9%9C%87%E5%A4%A9">優良馬匹として奨励金を下付</a>され、<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/11618396/1/129?keyword=%E9%9C%87%E5%A4%A9">明治40年の第一回岩手県馬匹共進会</a>、<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/11618396/1/130?keyword=%E9%9C%87%E5%A4%A9">明治41年の福島県主催第一回奥羽六県聯合馬匹共進会</a>で、いずれも「一等賞」に輝いているのです。この同じ馬が、十数年後の六原にいたとは思えませんので、作中に出てくる「震天」はまた別の馬でしょうが、岩手の名馬として賢治が以前に耳にして覚えていた名前を、この作品中で使用したのかもしれません。</p>
<p style="text-align: center">※</p>
<p>　さて、賢治にとっても様々な印象を残したであろう軍馬補充部六原支部ですが、遠足の翌1925年10月に、廃止されることになってしまいます。第一次世界大戦後の世界的な「軍縮」の流れの一環でもあり（<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E8%BB%8D%E7%B8%AE" target="_self" title="">宇垣軍縮</a>）、また戦場ではもはや「騎兵」は時代遅れになったという現実もあったでしょう。この際に軍馬は全国で6000頭削減され、浮いた予算は戦車など新たな兵器の整備へと、回されていきます。<br>　馬から戦車へ、という戦争の変化を象徴するように、この「<a href="https://ihatov.cc/kogo/426_d.htm" target="_self" title="">軍馬補充部主事</a>」の中でも、騎兵である「主事」が、播種車のことを「本部のタンク」（手入れ前には「拙者のタンク」）と見立てているのが、アイロニカルに響きます。</p>
<p>　六原支部が廃止されると、そこに所属する種山出張所も、当然廃止されます。これに伴って、種山ヶ原の牧野も民間に払い下げになるのではないかと地元の人々は期待しており、これが地質学者としての賢治に対する土性調査依頼となって、その調査行が、1925年7月の「<a href="https://ihatov.cc/series/taneyama.htm" target="_self" title="">種山ヶ原詩群</a>」を生むことになります。<br>　下記はその中から、「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/198_2.htm" target="_self" title="">〔朝日が青く〕</a>」（下書稿(一)手入れ）の一節です。</p>
<blockquote>
<p>軍馬補充部の六原支部が<br>来年度から廃止になれば<br>上閉伊産馬組合が<br>払ひ下げるか借りるかして<br>それを継承するのだけれども<br>組合長の高清は<br>きれいに分けた白髪を、<br>片手でそっとなでながら<br>ひとつ無償でねがひたい、<br>われわれ産馬家といふものは<br>政策上から奨励されて<br>とても間にあはない産馬事業を<br>三十年もやって来た<br>さうしてそれをやったものが<br>みんな貧乏してゐると<br>さういふことを陳情する</p>
</blockquote>
<p>　しかし地元の産馬家の期待を集めたこの「払い下げ」は実現せず、もともと御料地だった土地は、宮内省に返還されたのでした。</p>
<p>　一方、六原の軍馬補充部支部の方は、岩手県に払い下げられ、その後県は、皇道精神を鼓吹する石黒英彦知事の肝煎りで、1932年に「六原青年道場」を設置します。<br>　戦後、その敷地内にあった官舎部分は、上記の「<a href="https://www.town.kanegasaki.iwate.jp/docs/2017122800027/" target="_self" title="">軍馬の郷 六原資料館</a>」になった一方、広大な農地は、県立六原農場、県立六原営農大学校を経て、現在は<a href="https://www.pref.iwate.jp/agri/noudai/index.html">県立農業大学校</a>となっています。この学校には、現在も見事な桜並木があるのだそうで、同校の「学校案内」の表紙には、下のような写真が掲載されています。<br>　となるとこの桜は、六原の軍馬補充部主事が馬に乗って眺め、その花弁を妻への手紙に同封した木々の、後裔にあたるのかもしれません。一度見に行ってみたいものだと思います。</p>
<div style="margin: 0 auto 20px; width: 517px; max-width: 100%;">
<p style="margin: 0; font-size: 12px; text-align: right; line-height: 1em"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/03/iwatekenritsu_nougyoudaigakkou-thumb-480xauto-1106.jpg" width="480" height="679" alt="岩手県立農業大学校 学校案内2025"><br>『<a href="https://www.pref.iwate.jp/agri/_res/projects/project_agri/_page_/002/001/506/2025.pdf" target="_self" title="">岩手県立農業大学校 学校案内</a>』より</p>
</div>]]>
    </content>
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    <title>夏至祭の夜の広場</title>
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    <published>2026-03-22T09:25:13Z</published>
    <updated>2026-03-24T08:54:50Z</updated>

    <summary>　童話「ポラーノの広場」に描かれている季節は、「一、遁げた山羊」の冒頭には「五月...</summary>
    <author>
        <name>hamagaki</name>
        
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        <category term="作品について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="〔温く含んだ南の風が〕" label="〔温く含んだ南の風が〕" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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        <![CDATA[<p>　童話「ポラーノの広場」に描かれている季節は、「一、遁げた山羊」の冒頭には「五月のしまひの日曜でした。」と記され、「二、つめくさのあかり」には「それからちゃうど十日ばかりたって……」とあり、「三、ポラーノの広場」は「それからちゃうど五日目の火曜日の晩でした。」となっていることから、レオーノキューストたちがポラーノの広場にやって来たのは、6月中旬頃と思われます。（物語途中、キューストは警察の取り調べに対して、ファゼーロとの出会いを「五月のしまひの日曜、二十七日でしたかな。」と言っているので、この記憶が正しければ、彼らの広場訪問は6月12日の火曜日ということになります。）<br>　一方、劇「ポランの広場」の冒頭のト書きには、「時、一千九百二十年代、六月三十日夜、」と記されており、広場での出来事は6月30日のことだったと明示されています。</p>
<p>　お話の中では、「ポランの広場の夏まつり♫」と歌われますが、この「夏」とは、7月～8月の「盛夏」ではなくて、1年で日が最も長い、6月の「夏至」の頃なのです。</p>
<p>　思えば、主人公たちが「つめくさのあかり」の番号を数えながら、あちこち彷徨いつつポランの広場に到達するというプロセスには、夜の8時になってもまだ外が妙に薄明るいような、夏至の頃の夜の雰囲気こそが相応しい感じです。</p>
<div style="margin: 0 auto 20px; width: 517px; max-width: 100%;">
<p style="margin: 0; font-size: 12px; text-align: right; line-height: 1em"><img src="https://ihatov.cc/images/e6bccccf1e228aa6bcc8648a34b67669324c0f3a.jpg" width="517" height="375" alt="ラトビアの夏至祭の切手"><br>ラトビアの夏至祭の切手（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1991_CPA_6361_(2).jpg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>
</div>]]>
        <![CDATA[<p>　先駆形の童話版「ポランの広場」では、キュステたちが広場に到着すると、甲虫や夜の蝶々など、さまざまな虫たちが飛びかい、ファゼロの服には無数の小さな蜂が集まって、花粉で黄色い縞模様や肩章を描いてくれます。ヨーロッパでは、夏至の頃には妖精の働きが活発になるとされているそうですが、シェークスピアの「夏の夜の夢（A Midsummer Night's Dream）」で、「豆の花」や「蜘蛛の巣」や「蛾」や「芥子の種」の妖精たちが登場して、いろいろ細かな働きをしてくれることなどを連想させます。'midsummer'とは「真夏」ではなく、やはり「夏至」なのです。</p>
<p>　これが、'midsummer madness'になると、「底抜けの狂乱」という意味だそうで、夏至祭の夜に各地で繰り広げられる騒ぎに由来するようです。ポランの広場で山猫博士が、せっかくの楽しいパーティーをかき乱し、ついにはファゼロと卓上ナイフによる決闘になって、あっけなく負けた山猫博士がほうほうの体で逃げ出すというドタバタ劇も、そういう意味ではいかにも「夏至らしい」と言えるのかもしれません。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a data-mt-asset-id="1102" class="mt-asset-link" href="https://ihatov.cc/images/Ivankupala.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/03/Ivankupala-thumb-640xauto-1102.jpg" width="640" height="340" alt="「イワン・クパーラの前夜」"></a><br>「イワン・クパーラ（夏至祭）の前夜」（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ivankupala.jpg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>
<p>　ところで、「春と修羅 第二集」所収「<a href="https://ihatov.cc/haru_2/118_3.htm" target="_self" title="">〔温く含んだ南の風が〕</a>」の<a href="https://ihatov.cc/haru_2/118_1.htm" target="_self" title="">下書稿(一)</a>は、「夏夜狂躁」と題されていますが、これこそまさに'midsummer madness'の日本語訳として、ぴったりではないでしょうか。日付は「一九二四、七、五、」で、夏至よりは少し後なのですが、作品中の「天の川はまたぼんやりと爆発する」「うしろではまた天の川の小さな爆発」という描写は、「ポランの広場」の「天の川が <span style="font-family: 'Century Schoolbook';"><em>x</em></span> といふ字の形にぼんやりと白くかかってゐましたがたしかに水も流れてゐた様でした。たびたびパッと爆発もしてゐました。」という表現と、共通しています。</p>
<p style="text-align: right; line-height: 1.2em; font-size: 12px"><a data-mt-asset-id="1103" class="mt-asset-link" href="https://ihatov.cc/images/Ohuokhai.jpg"><img src="https://ihatov.cc/assets_c/2026/03/Ohuokhai-thumb-640xauto-1103.jpg" width="640" height="426" alt="サハ共和国の夏至祭"></a><br>サハ共和国の夏至祭（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ohuokhai.jpeg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>
<p>　「ポランの広場」は、つめくさのあかりに付けられた読みにくい番号を、何千も数えながら進むという困難を乗り越えた人だけが行ける、「秘密の場所」だという設定になっています。夏至の祭が孕んでいるこのような「秘儀」的性格を、その究極まで突きつめたのが、「<a href="https://happinet-phantom.com/midsommar/" target="_self" title="">ミッドサマー</a>」というホラー映画でした。<br>　5人の若者が、森を抜け期待に顔を輝かせて広場に入ってくるところは、キュステやファゼロたちがポランの広場に着いたところを彷彿とさせる映像なのですが、この後こちらの映画の方は、とんでもなく怖ろしい展開になっていってしまいます。</p>
<div class="youtube_16-9">
<p><iframe width="640" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/AmNwVD14TnM?si=tC-e3K45j93lW8ON?rel=0" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
</div>
<p>　「ポラーノの広場」でも、広場でドタバタ劇があったその晩から、ファゼーロと山猫博士が忽然と姿を消してしまうという、ちょっとしたミステリー的展開がありました。これもまた、夏至の晩にはこの世と異界が接近してしまうという、いつもと違った危うさがあるからかもしれません……。</p>
<p>　賢治が農学校で上演した「ポランの広場　第二幕」では、舞台バックに大きな天の川の絵が掲げられ、赤楊の木二本を電燈やモールで美しく装飾し、タンゴのレコードを蓄音器で流しながら、甲虫の羽音を出すために「電気アンマ器」を使用したということです。演出家・賢治の面目躍如ですが、不気味な音の響く会場は、一種異様な雰囲気に包まれたのではないでしょうか。<br>　そして二晩の劇が終了すると、賢治と生徒たちは舞台で使った大道具小道具を校庭に積み上げ、火をつけて燃やしながら、周りで狂喜乱舞したということです。これはまるで、ヨーロッパの夏至祭の夜に燃やされ、人々がその周囲で踊り明かすという、「ボーンファイヤ」という焚き火のようです。</p>
<div style="margin: 0 auto 20px; width: 452px; max-width: 100%;">
<p style="margin: 0; font-size: 12px; text-align: right; line-height: 1em"><img src="https://ihatov.cc/images/fddb559ae07593550fdb0a97882e29e0bf714aa4.jpg" width="452" height="262" alt=""><br>ノルウェーの夏至祭のボーンファイヤ（<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kr%C3%B8yer_sankthans3.jpg" target="_self" title="">Wikimedia Commons</a>より）</p>
</div>]]>
    </content>
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