美しい医院のあるじ(2)

 以前の記事で、「〔この医者はまだ若いので〕」という作品で描かれている若い医師は、いったい誰なのかということについて、考えてみました。
 まず下記に、その作品全文を再掲しておきます。

この医者はまだ若いので
夜もきさくにはね起きる、
薬価も負けてゐるらしいし、
注射や何かあんまり手の込むこともせず
いづれあんまり自然を冒涜してゐない
そこらが好意の原因だらう
そしてたうたうこのお医者が
すっかり村の人の気持ちになって
じつに渾然とはたらくときは
もう新らしい技術にも遅れ
郡医師会の講演などへ行っても
たゞ小さくなって聞いてゐるばかり
それがこの日光と水と
透明な空気の作用である
こゝを汽車で通れば、
主人はどういふ人かといつでも思ふ
この美しい医院のあるじ
カメレオンのやうな顔であるので
大へん気の毒な感じがする
誰か四五人おじぎをした
お医者もしづかにおじぎをかへす

 前回は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」から、1933年(昭和8年)刊行の『健康保険医名簿』という文書を閲覧して、候補となる医師を検討してみました。その際、モデルだった可能性の高そうな医師として最終的に残ったのは、下記の4名でした。

中島米八
大平貞治
星多聞
田村孝一郎

 さて、私は先日花巻へ行った際に、市立図書館で『岩手県医師会史』(1980年刊)という大部な本を見ることができました。その「下巻」には「郡市医師会編」として、岩手県内の各地区医師会の歴史がまとめられているのですが、その中に、私が知りたかった大正時代から昭和初期の「稗貫郡医師会」について、かなり詳しい情報が掲載されていました。
 これを参考にすると、上記の候補やその他の医師について、もう少し検討を深めることができそうです。今回ここに、記事として整理しておきます。

 『岩手県医師会史』下巻の「花巻医師会史」の項には、明治・大正・昭和の花巻でどういう病院ができたとか、何という名前の医師が開業したとかいう事柄が、遺族の手記などもまじえながら、編年体で網羅的に記されています。
 たとえば、下の画像のような形です。

『岩手県医師会史』下巻より

 上の記事によれば、稗貫郡医師会主催の医学講演会が、昭和2年6月25日に「花巻温泉遊園地」で開催され、「発熱に就いて」「上腹部腹膜炎に就いて」「血液による親子の鑑別」という三題の講演が行われたということです。
 「〔この医者はまだ若いので〕」の中に、「郡医師会の講演などへ行っても/たゞ小さくなって聞いてゐるばかり」という一節がありますが、賢治はこういう講演会の案内とかニュースに接して、「郡医師会の講演」というものをイメージしたのかもしれません。いくら賢治でも、直に医師会の講演会に出席して医師の様子を観察したわけではないでしょうから、医師会の講演に関するそういう間接的情報から、そこに出席している若い医師の様子を、想像して書いたのだろうと思います。

 さて、上でも講演会の記述に続いて、新たに開業をした医師の略歴等が羅列されていますが、この本の大正時代から昭和初期について記述した部分をもとに、この期間に花巻町および花巻川口町において開業した医師をリストアップすると、下記のようになります。

開業
氏名
生年
場所
備考

1911

三浦 泰

1871

川口町

 

1915

藤井 謙蔵

1882

川口町

 

1917

中島 米八

1886

川口町大工町

花巻農学校校医

1917

佐藤 隆房

1890

下根子

後に花巻共立病院を開設

1919

平沢 保之

1888

川口町館

 

1920

石橋 賢斉

1884

花巻川口町

 

1922

小原 隆造

1878

 
 

1922

星 多聞

1894

花巻川口町

趣味スポーツ

1925

佐藤 豊蔵

1877

川口町

 

1925

田村 孝一郎

1900

川口町

趣味謡曲

1927

近江 文男

 

花巻町

趣味スポーツ謡曲

1927

倉井 三郎

1903

川口町

趣味スポーツ

1928

大平 貞治

1898

仲町

学生時代柔道

1929

工藤 軍司

1903

坂本町

 

1929

大橋 秀治

1897

吹張町

 

1933

和田 文治郎

1898

花巻川口町

 


 前回の記事では、作品「〔この医者はまだ若いので〕」が「黄罫詩稿用紙」に書かれていることから、これは羅須地人協会時代、すなわち1926年から1928年の間に着想されたものである可能性が高いと考えました。賢治の口語詩草稿においては、ただ一つの例外を除き、「スケッチ日付が明示されている作品で、詩稿用紙の最初に黄罫用紙が使われているものは、「春と修羅 第三集」に属する」という経験則があります。「春と修羅 第三集」の時期=羅須地人協会時代なのです。
 また、ある特定の個人の人間観察を眼目としている作品の内容からも、これは『春と修羅』や「春と修羅 第二集」の作品とは趣を異にしており、やはり羅須地人協会時代のものではないかと思われます。

 さらに、作品中に「こゝを汽車で通れば/主人はどういふ人かといつでも思ふ」とあって、作者はこの医師に関心を持ちながらもまだ一度も見かけたことはないようですから、医師が医院を開業したのは、作品が書かれた時からさほど遠い過去ではないのでしょう。
 となると、医院の開業時期は1926年~1928年からせいぜい数年以内の過去と考えられ、そこで上の表を見ると、1925年、1927年、1928年開業、というあたりが気になってきます。表には、1922年に開業した医師も2人いますが、1922年というと賢治はまだ農学校教師になって間もない頃で、町の中に住んで町の人との交流もそこそこ持っていました。ですから、「どういふ人かといつでも思ふ」というほど興味を抱いていた医師に、同じ町内に住んでいて4年以上一度も直接顔をあわせたことがなかったというのは、不自然です。
 これに対して、羅須地人協会を始めてからの賢治は、町の郊外で独居自炊生活をして、あまり町の人との社交はしなくなりましたから、ある人と何年も顔を合わさないということも、あったかもしれません。

 ということで、作品のモデルとなった医師は、1925年、1927年、1928年開業の計5名のうちに含まれる可能性が高いと考えて考察を進めたいのですが、その前に少しだけ余談を。
 ここでひとまず除外した1922年開業の医師の一人に、星多聞という人がありますが、『岩手県医師会史』に掲載されたこの人の経歴は次のようなものです。

 星 多聞 大正十一年花巻川口町に内科星医院開業。明治二十七年六月十一日生れ。福岡市出身。大正五年東北大医学部卒。母校付属病院に二年間研究後一関病院に勤務後現地開業。

 つまり、1922年に花巻で開業する前は、星医師は一関病院に勤めていたということなのですが、これはちょうど、「一関のミネさん」という記事において紹介したように、高橋ミネさんが一関病院玄関前で記念写真を撮影した時期にあたるのです。
 すなわち、星医師は、一関で高橋ミネ看護婦としばらく一緒に仕事をした後、花巻にやってきて開業したということになるのです。これはちょっと不思議な縁のような気もしますが、もちろんそんなことは、当時の賢治も星氏も、意識するはずはありませんね。

 まあとりあえず脱線はこのくらいにして、「美しい医院のあるじ」の探索に戻ります。現時点での候補は、1925年に開業した佐藤豊蔵氏と田村孝一郎氏、1927年に開業した近江文男氏と倉井三郎氏、1928年に開業した大平貞治氏、という5名です。
 このうち、作品では「この医者はまだ若いので」とあることから、開業時に48歳だった佐藤豊蔵氏は、除外してよいでしょう。
 また、近江文男氏の「生年」は上の表では空欄にしてありますが、『岩手県医師会史』では、近江氏の生年月日は「明治二十?年八月七日」と記されています。つまり、開業時には31~40歳だったわけで、これはやはり、「まだ若い」と言うには、若干年齢が行き過ぎている感があります。
 何歳までなら「まだ若い」ということになるのか、明確な境界線を引くことはできませんが、ここで私が一つの目安にしたいと考えるのは、賢治自身の年齢との関係です。作品中で賢治自身が相手を「まだ若い」と表現し、その人となりを憐れみつつ同情するような視線で見守っていることから、この医師は賢治から見ると、自分よりも若く感じられたのだろうと思うのです。そうすると、「明治二十?年」生まれの近江医師は、最も若いとしても1896年(明治29年)生まれで、賢治と同い年ということになりますから、私としては除外したいと考えます。

 ということで、候補は1925年開業の田村孝一郎氏、1927年開業の倉井三郎氏、1928年開業の大平貞治氏の、3人になりました。
 これを一人一人、順に見ていくことにします。

 まず、田村孝一郎氏の略歴は、『岩手県医師会史』に次のように記されています。

 田村孝一郎 明治三十三年一月二十日生れ。東京府出身。大正十年千葉医専卒。母校付属病院眼科助手勤務。十二年眼科主任として花巻共立病院着任。十四年十二月川口町に田村眼科医院を開業。石橋眼科と二院となった。

 開業は25歳の年で、「この医者はまだ若い」と言われるに十分です。場所は、「川口町」としか記されていませんので、作品にあるように、医院が汽車から見える所だったかどうかはわかりません。
 診療科が眼科であるという点は、一般にはあまり夜間の急患ということは少ない科なので、「夜もきさくにはね起きる」という描写からすると、候補から除外すべき根拠とまでは言えないかもしれませんが、若干の違和感があります。住民が、夜中に眼科の先生を起こして緊急に診察を求める病状としては、眼の外傷くらいしか思い浮かびませんが、夜中にそんな事態が起こるのは、かなり稀なことでしょう。
 さらに、この田村医師は花巻共立病院の勤務医を2年やってからの開業ですが、この点は住民からすると、見知らぬ医師が突然開業したというのとは異なります。賢治は医院のあるじに対して、「主人はどういふ人かといつでも思ふ」と書いて、その人となりについて強い好奇心を示していますが、もしもその医師が共立病院でしばらく診療していて、多くの町民を診ていたことを知っておれば、その好奇心も、ここまで高まらなかったのではないかと思うのです。つまり、この経歴は、田村医師が作品のモデルであった可能性を、やや低下させる要素ではないかと思います。
 ということで、田村医師の可能性も完全には否定はできませんが、眼科医である点と開業前に花巻共立病院に勤めていた点は、少し引っかかります。

 次に、1927年開業の倉井三郎医師の略歴は、以下のとおり。

 倉井三郎 十二月川口町に耳鼻科倉井医院を開業。明治三十六年九月三日生。栃木県出身。大正五年東北大医専卒。大正七年秋田県小坂鉱山病院耳鼻科眼科勤務後来花開業。趣味スポーツ。

 さらに、倉井医師については、昭和13年の項にも、次の記事があります。

 倉井三郎 十一月 花城町に倉井耳鼻咽喉科医院開業。明治三十六年九月三日生れ。大正五年東北大学医学部卒。昭和七年東北大耳鼻科教室から学位授与。昭和八年五月から産業組合盛岡病院耳鼻科勤務。十三年開業。昭和二十五年一月十一日没。

 最初に開業した1927年には24歳で、「この医者はまだ若い」というに十分です。場所は、やはり「川口町」としか記されておらず、汽車から見える所かどうかはわかりません。
 診療科は耳鼻科で、これも内科・外科・産婦人科・小児科に比べると、夜間の急患は少ないかもしれません。しかし、急性の扁桃炎やジフテリアで喉が腫れて呼吸が困難であるとか、鼻出血が止まらないとか、急性中耳炎で痛みが強いとか、それなりにはありえます。

 さて、この倉井医師の経歴が変わっているのは、いったん1927年(昭和2年)に開業してから、1933年(昭和8年)に盛岡の病院の勤務医になり、また1938年(昭和13年)に花巻で再開業しているところです。前回の記事の考察で、この倉井医師が候補に上がっていなかった理由は、前回依拠した『健康保険医名簿』が集計された時点で、倉井医師は医院をいったん閉めていたからだと思われます。

 通常は、医師が開業してから短期間で医院を閉めて、勤務医に戻るということは、あまりないことです。開業に際しては、建物を構え医療機械を揃えるなどの少なからぬ投資が必要で、医院を閉めてそれらを遊ばせておくということを、多くの人は好みません。医院に全く患者が来なくてつぶれたとか、何か不祥事を起こして診療を続けにくくなったとかなら別ですが、倉井医師はまた5年後に同じ花巻で医院を再開していますから、そういうわけでもありません。
 考えられるのは、盛岡へ行く前年の昭和7年には「東北大耳鼻科教室から学位授与」とありますから、倉井医師はいったん医院を閉めて大学に戻って研究生活を送った後、医局の要請によって盛岡の病院に赴任した、という経緯です。しかしいずれにしても、盛岡の病院で勤務していた期間、花巻に残してきた医院のことは、ずっと気になっていたでしょう。本心では、盛岡などへ行かずに、学位を取ったらすぐに花巻へ戻って医院を再開したかっただろうと思うのですが、そうせずに5年も盛岡で勤務医をやったというのは、この倉井医師は頼まれたことは断りにくい「お人好し」だったのかもしれません。

 それからあと一つ注目しておきたいのは、「趣味スポーツ」と記されている点です。この作品の初期形には、「ベースボールなどもやりたさう」という一節があり、賢治にはこの医師がスポーツマンに見えたらしいのです。
 この点は、この作品のモデルが倉井医師であったという可能性を、多少とも高めてくれるポイントです。

 最後に、1928年に開業した大平貞治医師の略歴は、以下のとおりです。

 大平貞治 (昭和3年)四月花巻市仲町に内科産婦人科大平医院を開業。大正十二年共立病院に着任勤務していたが、この時開業。趣味謡曲。

 開業時には30歳、賢治より2歳年下ですから、「この医者はまだ若い」という範囲にギリギリ収まるでしょうか。診療科が内科産婦人科というのも、夜間に急患が十分にありえます。
 ただ、開業場所が「仲町」というのが、汽車から医院が見えるという条件からすると、厳しいものがあります。仲町は、東北本線からはずっと遠く離れており、岩手軽便鉄道からは、最も近いところでも150mあります。市街地の中で住宅も多いことを考えると、汽車から医院が見えるというのは、非常に困難であったと思われます。

 今回の記事の最初の方に、『岩手県医師会史』の1頁を例示しましたが、そこにたまたま大平貞治氏の写真が載っています。そしてその写真の下に書いてあるように、大平氏は稗貫郡医師会の第三代および第五代会長を務めたということです。後に医師会長にまでなる人だったとすれば、賢治が作品中で「郡医師会の講演などへ行っても/たゞ小さくなって聞いてゐるばかり」と描写した人物像とは、かなり印象が異なります。ただこの辺は賢治の想像上のことでしょうから、すべてを真に受けることもできませんが。
 また、賢治はこの医師について、「カメレオンのやうな顔であるので/大へん気の毒な感じがする」と描写していますが、写真に見る大平氏はどうでょうか? これもどこまで当てにできるかわからない情報ですが、「カメレオン」と呼ぶのはちょっと苦しいかもしれません。
 総合すると、医院の場所、および容貌や推測される人となりから、大平貞治氏も候補としてはあまり合わない感じがするのです。


 ということで、今回の資料『岩手県医師会史』をもとにして考察したかぎりでは、口語詩「〔この医者はまだ若いので〕」という作品において描かれている「美しい医院のあるじ」とは、昭和2年に開業した倉井三郎医師(当時24歳)である可能性が、最も高いように思われます。
 しかし、利用できる情報はまだまだ限定されており、また考察の前提としたいくつかの事項も、完全に確かと言えることばかりではなく、とても断定的なことは言えません。たとえば、これまでの検討は、その医院は花巻町または花巻川口町にあると考えて進めてきましたが、これも確実な前提ではありません。

 この問題については、これからも引き続き考えていきたいと思いますが、何らかの方法で、当時の花巻および周辺にあった医院の具体的な場所を、特定することはできないものかと思っています。