1.仏教的輪廻転生観と、もう一つの要素
トシの死後、賢治は自分の妹がいったいどこへ行ってしまったのか、今どこでどうしているのか、長期間にわたって考え続けました。その様子はいくつもの作品に描かれていますが、その内容を詳しく見ていくと、当時の賢治の心の中には、大きく分けて二つの系列のイメージや考えがあったのではないかと思われます。
その一つの系列は、熱心な仏教徒だった賢治としては当然のことながら、仏教の輪廻転生観に基づいた考えです。
それはすでにトシの臨終の前から、「永訣の朝」の最後の場面で始まっています。
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
ここで賢治は、トシが天上すなわち「天界」に転生することを、祈っているのです。
そして、トシの死後半年あまりが経った「風林」では、あたかも上の祈りが叶ったかのように、トシが「天界」にいることを示唆する「通信」が記されています。
(ああけれどもそのどこかも知れない空間で
光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
…………此処あ日あ永あがくて
一日のうちの何時だがもわがらないで……
ただひときれのおまへからの通信が
いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)
ここには、美しい光や妙なる楽音に包まれ、永劫とも思える時間を過ごすトシがいます。
しかしこれに対して、その翌日に書かれた「白い鳥」において賢治は、妹の存在を次のように感じとっています。
二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
(それは一応はまちがひだけれども
まつたくまちがひとは言はれない)
ここで賢治は、朝の光の中を飛ぶ「白い鳥」を見て、それを「死んだ私の妹だ」ととらえているわけです。人間が死んだ後に鳥になるとすれば、これは仏教的には「畜生界に転生した」と解釈することもできますが、しかしこれに続けて賢治が引用するのは、ヤマトタケルの白鳥伝説です。
(日本武尊の新らしい御陵の前に
おきさきたちがうちふして嘆き
そこからたまたま千鳥が飛べば
それを尊のみたまとおもひ
芦に足をも傷つけながら
海べをしたつて行かれたのだ)
『古事記』に記されているこの説話は、仏教的な輪廻転生ではなく、「死者の魂が鳥になる」という日本の固有信仰に基づいています。もとよりこのヤマトタケルの例に限らず、古来から日本には同様の伝説がたくさんあって、例えば柳田国男の『遠野物語』には、「オット鳥」になった長者の娘の話(五一)や、「馬追鳥」になった奉公人の話(五二)や、カッコウとホトトギスになった姉妹の話(五三)などの「小鳥前世譚」がいくつも収められていますし、折口信夫も「「とこよ」と「まれびと」と」において、「祖々の魂」が鳥と化して、常世と此土を往還するという古代の信仰について述べています。
すなわち、賢治が「白い鳥」に、わざわざヤマトタケル伝説を引用していることからすると、ここで彼が白い鳥を妹の化身と感じたのは、仏教の輪廻転生観に拠ったのではなく、このような鳥にまつわる日本古来の信仰に触発されたのだと考えるべきでしょう。
しかし、「妹が鳥になる」というこの賢治の想念は、その妹を探してサハリンへ向かう途上の「青森挽歌」においては、また様相を異にしてきます。すなわち、その140行目から191行目にかけて、賢治が妹の状況について想像をめぐらす内容は、次のように展開していくのです。
そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
l'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
(中略)
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
わたくしはその跡をさへたづねることができる
(中略)
暗紅色の深くもわるいがらん洞と
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や笑気のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になつて立ち
立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち
ここでもやはり賢治は、まずは妹が「いつぴきの鳥になつただらうか」と想像するのですが、それに続けて彼は、妹が「天界」にいる様子、「地獄界」にいる様子へと、考えを巡らせていきます。ここでは彼は、仏教で「六道」と称される「天」「人」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」という輪廻転生先に従って、妹の行方を考えているわけです。
このように、賢治が考える「トシの行方」は、これまでのところ「仏教的輪廻転生観」と「日本固有信仰」という二つの系列の要素が、あざなえる縄のように絡み合って表れるのですが、そういった変転は次の「宗谷挽歌」にも見てとれます。
こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
紫いろのうすものを着て
まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。
ここで最初に賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、自ら海に落ちようと考えています。この賢治の決意は、彼が「トシは海中にいる」と想定していたと考えなければ、理解することはできません。ここで、もしも海の底が仏教に言う「地獄界」なのであれば、このトシの境遇を輪廻転生の結果と考えることもできますが、実は仏教教理における地獄は「地下一千由旬(1万km以上)」という隔絶された距離にあって、賢治が海に飛び込んだからと言って到達できる場所ではないのです。
すなわち、この部分の賢治の考えは仏教的なものとは言えず、何か別の他界観によるものと考えざるをえません。
次に賢治は、上記を否定するように、トシは「呼ぶ必要のないとこに居る」とあらためて考え直します。その理由は、括弧内に記されているように、トシは立派な衣装を着て「まっすぐにのぼって行った」のだからというのです。すなわち、トシは「天界」に転生したのだから、海の中から賢治を呼ぶなどありえないということで、これは仏教的な輪廻転生観に基づいた考えです。
しかし、それでも賢治は心からそう信じるには至らず、しばらく後ではまた次のような疑念を吐露します。
とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
( おまへがこゝへ来ないのは
タンタジールの扉のためか、
それは私とおまへを嘲笑するだらう。)
ここで賢治は、あらためてトシが天界に往生していない可能性を想定して、もしその場合には「いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」と彼女に懇願し、さらにその上で「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、決意を記しているのです。
つまり結局、「宗谷挽歌」における賢治は、一方では仏教的にトシの天界往生を信じようとしながら、どういうわけかもう一方では、彼女が「海の中」に囚われているという考えを、抱き続けているのです。彼の中で、仏教的な死生観と、それとは異なった別の考えは、入れ替わるように交代して現れ、その感情は揺れ動いています。
そして、これが次の「オホーツク挽歌」以後になると、むしろ仏教的な考えは影を潜め、トシの居場所は次のようにイメージされています。
わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない
賢治は、サハリンの栄浜の海岸からはるか沖を眺め、トシは海の「青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」と想像しています。これも、仏教的な輪廻転生先として解釈することは困難です。
さらに、「噴火湾(ノクターン)」には、次のように記されています。
駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ここでは一転して「海」ではなく、山の上の雲の中に、トシがいるのではないかと想像されていますが、これもまた仏教の教理から理解することはできません。
以上見たように、仏教とは異質なこの第二の系列において、賢治は死んだトシが「海の中」にいたり、また「海の彼方」にいたり、あるいは「山上の雲の中」にいたりすると想像しているわけです。
ここで、死者が山の上にいる、または海の彼方や海の中にいるというイメージから、私がどうしても連想せざるをえないのは、柳田国男以来の民俗学が、仏教伝来以前の日本固有の死生観として明らかにしてきた、二種類の祖霊信仰です。
その一つは、死者の魂は里を見下ろす山の上に昇り、そこにとどまって子孫を見守るとするもので、柳田国男が『先祖の話』などで詳しく展開した死生観です。
賢治が「噴火湾(ノクターン)」において、駒ヶ岳の山上の雲にトシを感じたことの背景には、このような日本固有の霊魂観の影響があったのではないかと、私は感じます。
そしてもう一つ、こちらの方が賢治の死生観を考える上ではより重要なのではないかと思うのですが、日本列島では古来より、死者の魂は海の彼方や海の中にある「常世の国」に行くという祖霊信仰があったのです。その地の名前は、奄美大島から沖縄、先島諸島に至る南西諸島では、「ニライカナイ」と呼ばれてきました。
上に見たように、賢治は「宗谷挽歌」では、死んだトシは海中にいると想定しており、また「オホーツク挽歌」では、海の彼方の水平線のあたりにトシがいて、「なにをしてゐるのかわからない」と思っています。「海の彼方」あるいは「海の中」に死者のいる他界があるというイメージは、まさに南島で信じられている「ニライカナイ」に符合しているのです。
この「ニライカナイ」という言葉は、南西諸島で使われているだけで、九州以北の本土では用いられていませんが、「海の彼方に常世の国がある」という他界観そのものは、実は古い時代には日本列島全体で、広く共有されていたと考えられています。
柳田国男は、「ニライカナイ」の「ニ」は、『古事記』などに「死者の国」として登場する「根の国」の「根」と同源の語であるとしていますし、海の果ての浄土への往生を目ざして、船で沖へ漕ぎ出して行くという「補陀洛渡海」は、有名な那智勝浦の補陀洛山寺にかぎらず、土佐の足摺岬、熊本県玉名市、鳥取県青谷岬などでも行われていた伝承が残っています。また後述するように、海中の楽土としての「竜宮」の伝説や、海幸彦・山幸彦の「綿津見の宮」も、同根のものと考えられています。
すなわち賢治が、海の彼方・海の底に、死んだトシがいるのではないかと考えていたことは、仏教以前の日本古来の死生観に、はるかにつながっているのではないかと思われるのです。
そう思ってさらに他の作品を見てみると、上記以外にも興味深い事柄が出てきます。
賢治は、サハリン行の翌年の1924年5月に、修学旅行の引率としてまた北海道に渡り、この時にも亡きトシをめぐって重要な内的ドラマが繰り広げられたのではないかということについて、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書きました。この旅行中、彼が苫小牧の海岸でスケッチした「牛」の先駆形「海鳴り」には、次のような箇所があります。
そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をおどろかし
わたくしの上着をずたずたに裂き
すべてのはかないのぞみを洗ひ
それら巨大な波の壁や
沸きたつ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ
いまあたらしく咆哮し
そのうつくしい潮騒えと
雲のいぶし銀や巨きなのろし
阿僧祗の修陀羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
海は魚族の青い夢をまもる
ここで賢治は、夜の荒海に向かって、おそらくトシをめぐる自らの胸の苦悩を浄化してくれと懇願しているわけですが、下から3行目に出てくる「阿僧祗の修陀羅をつつみ」という言葉が注目されます。以前に「竜宮の経典」という記事に書いたように、「阿僧祗の修陀羅」とは厖大な経典という意味で、これは「海中の竜宮には莫大な量の華厳経が蔵されている」という伝説に基づいた記述と考えられます。
一方、「竜宮」という概念は、柳田国男が「海神宮考」で考察したように、「海底の仙郷」という意味において、南島の「ニライカナイ」と同じルーツを持つものと考えられます。すなわち、この箇所で賢治は、竜宮やニライカナイに相当するような海中の他界をイメージしているわけで、するとこれは次の行の、「海は魚族の青い夢をまもる」という言葉にもつながっていきます。
すなわち、ここで「青い夢」を守られている「魚族」とは、死んで海中の他界へ行った者たちを象徴していると考えることができ、するとその中には、「宗谷挽歌」で海中にいると想定されていたトシも、含まれているかもしれないのです。
さらに、この修学旅行における最後の作品である「〔つめたい海の水銀が〕」の先駆形で、「島祠」と題されている「下書稿(二)」の全文は、次のようなものです。
一三三
島祠
一九二四、五、二三、
うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
それは地球の気層の奥の
ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
ラの声もなかばは暗む
そこが島でもなかったとき
そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た
これは、青森県の浅虫温泉のすぐ沖に浮かぶ、「湯の島」を描いたものですが、その最後の4行が注目されます。「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」ということは、この島がまだ海中に沈んでいた時、ということだと思われ、そして「珪化園」と形容されるこの島の綺麗な様子に加え、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージは、まさに「竜宮」そのものです。
すなわち、「海鳴り」に続いてその2日後にも、賢治の心中には海中の「竜宮」が思い描かれていたのです。
ということで、賢治が「死んだトシの行方」と関連して、いくつかの作品で想定していた「海中」や「海の彼方」というイメージには、南島の「ニライカナイ」や「竜宮」の概念に、やはり通ずるものがあるのです。
また、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書いたように、「〔船首マストの上に来て〕」という作品において賢治は、トシの死を受容する上で自らが体験した何か大きな心境の変化を描いたのではないかと私は思うのですが、そこでも彼にとって「海」という場所が、大きな役割を果たしたことが見てとれました。やはり彼にとって海とは、死と密接につながった何かを帯びた「他界」だったのではないでしょうか。
しかしそれでは、はたして当時の賢治は、この「ニライカナイ」=海中あるいは海の彼方の他界という概念を、知識として持っていたのでしょうか。彼は、このような他界観を知った上で、「トシは海の中や彼方にいる」と考えていたのでしょうか。
2.賢治は「ニライカナイ」を知っていたか
賢治の最も重要な親友の一人に、「禊教」という教派神道の家に生まれた保阪嘉内がいました。その「嘉内」という名前の由来について、大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)に、次のような説が紹介されています。
明治二十九年十月十八日、嘉内は善作・いまの長男として、生を受けた。「嘉内」という珍しい名は、奄美・沖縄地方で海の彼方にあると信じられていた楽土「ニライカナイ」に由来し、この地にも微かに残る古層の稀人信仰に基づくという。
もしもこのように、保阪嘉内の名前が「ニライカナイ」に由来しており、さらに嘉内自身がその意味するところを知っていたとすれば、親友だった賢治も、嘉内からそれを聞いた可能性が当然あるわけです。
その一方、韮崎市の発行する「広報にらさき」2009年8月号の特集「アザリア記念会」において、嘉内の長男の保阪善三氏は、次のように述べておられます。
善三さんと嘉内の名前について
先祖代々についで行く名前が 「善蔵」 というのですが、私が1月3日生まれだったので蔵を三という字に変えて、長男ですが三という字がついています。これは祖父がつけたのだと思います。嘉内という名については、沖縄の「ニライカナイ」からなんていう人もあるようですが、やはり4代くらい前の先祖に「嘉蔵」という名がありますので、私はその関係じゃあないかと思いますね。嘉内という名が突然出たわけではありません。
というわけで、双方で意見が分かれているようですが、私としては、嘉内が生まれた1896年(明治29年)という時点で、まだ「ニライカナイ」という言葉は沖縄以外の本土ではほとんど知られておらず、たとえ嘉内の父親が教派神道の熱心な信者だったとしても、これを知っていて息子の名前に付けたということは、考えにくいのではないかと思うのです。
ここで、「ニライカナイ」という言葉が本土で知られていった経過を簡単に振り返ってみると、この語が本土に最初にもたらされたのは、江戸時代初期に琉球王国に渡った袋中良定という僧が、帰国後に著した『琉球神道記』に、「ギライカナイ(儀来河内)」という言葉を記したのを嚆矢とするようです。この版本は、1648年に初版が出たようですが、重要文化財に指定された「古文書」ですので、明治になってもよほど専門の研究者でないかぎり、これを直接見ることは無理だったでしょう。
また『琉球神道記』が活字となって出版されたのは、1934年(昭和9年)のことでしたから、この刊本の記載が嘉内の命名や賢治の知識となったことはありえません。
次に注目すべきは、「沖縄学の父」と言われる民俗学者・言語学者の伊波普猷の業績です。伊波は、16-17世紀頃に首里王府によって編纂された歌謡集「おもろさうし」を研究し、1911年に『古琉球』を出版しましたが、その中では高離島の祭で神に告げる詞の一部に、その意味の説明はないものの、「ニライカナイ」という語が登場しています。
さらに伊波は、1924年に『琉球聖典おもろさうし選釈』を刊行しましたが、ここでは、「にるや。かなやは、にらい・かないのこと、何れも海の彼方の理想郷の義」との説明がなされています。
一方、伊波に刺激を受けた柳田国男は、1920年から1921年にかけて、奄美から沖縄、先島を旅し、その旅行記を「海南小記」と題して、1921年の3月から5月まで朝日新聞に連載しました。この「海南小記」には、直接「ニライカナイ」という言葉は出てきませんが、「初夏の暁の静かな海を渡って、茲に迎へらるゝ神をニライ神加奈志と島人は名づけて居た」との記載があります。
柳田が、「ニライカナイ」という言葉を最初に用いたのは、南島の旅行を終えた1921年2月に久留米で行った講演「阿遅摩佐の島」において、「ギライカナイは又ニライカナイとも謂ひまして、海のあなた天の外の、神々の御住国であります。沖縄人の Valhalla であります」と述べた時ではないかと思われます。この「阿遅摩佐の島」が「海南小記」に併収して出版されたのは、1925年のことでした。
また、柳田と並び称される折口信夫は、1923年5月に「琉球の宗教」を著し、「琉球神道で、浄土としてゐるのは、海の彼方の楽土、儀来河内(ギライカナイ)である。(中略)儀来は多く、にらい・にらや・にれえ・ねらやなど発音せられ、稀には、ぎらい・けらいなど言はれてゐる。河内は、かない・かなや・かねやと書く事がある。」と述べています。
以上、「ニライカナイ」に関する中央論壇の動きをざっと見たかぎりでは、保阪嘉内が生まれた1896年の時点では、本土ではたとえ宗教関係者といえども、「ニライカナイ」という言葉とその意味を知っていた人は、まだいなかったのではないかと思われるのです。
また、1923年8月にサハリンに旅をした賢治も、この時点で「ニライカナイ」という言葉やその意味を知っていたとすれば、3か月前に刊行された『世界聖典全集 後輯 第15巻』に収録された、折口信夫の「琉球の宗教」を通じてということくらいしか考えられず、これもかなり可能性の低いことと言わざるをえません。
すなわち賢治が、「ニライカナイ」に代表されるような死生観――「死者は海の彼方・海の底にある常世へ行く」という思想について、この時点で知識として知っていたとは考えにくいのです。しかしながら、いつとはなしに周囲の人々から吸収した日本古来の他界観、あるいは一種の「集合的無意識」のなせるわざなのか、また彼の宗教的感性の鋭さによるものか、理屈ではない何かの感覚によって、彼は「死んだ妹は海の奥にいる」と、ばくぜんとイメージするようになったのではないでしょうか。
宮澤賢治は熱心な仏教徒であったことから、従来はその死生観についても、専ら仏教的な観点のみから研究が行われてきました。しかし、今回上記で見たように、彼が死後のトシについて抱いていたイメージや想念には、実は仏教とは異なった日本固有の他界観に由来する部分も、かなりあったと思われるのです。
私自身も、賢治は最終的に「薤露青」や「〔この森を通りぬければ〕」などに至って、つねにトシを身近に感じるような心境に至ったのではないかと考えていますが、これも仏教的な教理からは、まったく説明のつかないことです。
しかし、たとえば柳田国男が指摘するように、日本ではもともと死者の霊は遠くへは行かずにこの国の中に留まって生者を見守ると考えられていたこと、また「幽顕二界」の交通が頻繁に意識されてきたこと(『先祖の話』より)からすれば、そのような心境も、もっと無理なく理解できるようになるのではないかと思うのです。
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