宗谷挽歌

          (一九二三、八、二、)

   

   こんな誰も居ない夜の甲板で

   (雨さへ少し降ってゐるし、)

   海峡を越えて行かうとしたら、

   (漆黒の闇のうつくしさ。)

   私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。

   それはないやうな因果連鎖になってゐる。

   けれどももしとし子が夜過ぎて

   どこからか私を呼んだなら

   私はもちろん落ちて行く。

   とし子が私を呼ぶといふことはない

   呼ぶ必要のないとこに居る。

   もしそれがさうでなかったら

   (あんなひかる立派なひだのある

    紫いろのうすものを着て

    まっすぐにのぼって行ったのに。)

   もしそれがさうでなかったら

   どうして私が一諸に行ってやらないだらう。

   船員たちの黒い影は

   水と小さな船燈との

   微光の中を往来して

   現に誰かは上甲板にのぼって行った。

   船は間もなく出るだらう。

   稚内の電燈は一列とまり

   その灯の影は水にうつらない。

     潮風と霧にしめった舷に

     その影は年老ったしっかりした船員だ。

     私をあやしんで立ってゐる。

   霧がばしゃばしゃ降って来る。

   帆綱の小さな電燈がいま移転し

   怪しくも点ぜられたその首燈、

   実にいちめん霧がぼしゃぼしゃ降ってゐる。

   降ってゐるよりは湧いて昇ってゐる。

   あかしがつくる青い光の棒を

   超絶顕微鏡の下の微粒子のやうに

   どんどんどんどん流れてゐる。

    (根室の海温と金華山沖の海温

     大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)

   帆綱の影はぬれたデックに落ち

   津軽海峡のときと同じどらがいま鳴り出す。

   下の船室の前の廊下を通り

   上手に銅鑼は擦られてゐる。

    鉛筆がずゐぶんす早く

    小刀をあてない前に削げた。

    頑丈さうな赤髯の男がやって来て

    私の横に立ちその影のために

    私の鉛筆の心はうまく折れた。

    こんな鉛筆はやめてしまへ

    海へ投げることだけは遠慮して

    黄いろのポケットにしまってしまへ。

   霧がいっさうしげくなり

   私の首すぢはぬれる。

   浅黄服の若い船員がたのしさうに走って来る。

   「雨が降って来たな。」

   「イヽス。」

   「イヽスて何だ。」

   「雨ふりだ、雨が降って来たよ。」

   「瓦斯だよ、霧だよ、これは。」

   とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り

   おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな

   そんなしあはせがなくて

   従って私たちの行かうとするみちが

   ほんたうのものでないならば

   あらんかぎり大きな勇気を出し

   私の見えないちがった空間で

   おまへを包むさまざまな障害を

   衝きやぶって来て私に知らせてくれ。

   われわれが信じわれわれの行かうとするみちが

   もしまちがひであったなら

   究竟の幸福にいたらないなら

   いままっすぐにやって来て

   私にそれを知らせて呉れ。

   みんなのほんたうの幸福を求めてなら

   私たちはこのまゝこのまっくらな

   海に封ぜられても悔いてはいけない。

    ( おまへがこゝへ来ないのは

      タンタジールの扉のためか、

      それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

   呼子が船底の方で鳴り

   上甲板でそれに応へる。

   それは汽船の礼儀だらうか。

   或ひは連絡船だといふことから

   汽車の作法をとるのだらうか。

   霧はいまいよいよしげく

   舷燈の青い光の中を

   どんなにきれいに降ることか。

   稚内のまちの灯は移動をはじめ

   たしかに船は進み出す。

   この空は広重のぼかしのうす墨のそら

   波はゆらぎ汽笛は深くも深くも吼える。

   この男は船長ではないのだらうか。

    (私を自殺者と思ってゐるのか。

     私が自殺者でないことは

     次の点からすぐわかる。

     第一自殺をするものが

     霧の降るのをいやがって

     青い巾などを被ってゐるか。

     第二に自殺をするものが

     二本も注意深く鉛筆を削り

     そんなあやしんで近寄るものを

     霧の中でしらしら笑ってゐるか。)

   ホイッスラアの夜の空の中に

   正しく張り渡されるこの麻の綱は

   美しくもまた高尚です。

   あちこち電燈はだんだん消され

   船員たちはこゝろもちよく帰って来る。

   稚内のまちの北のはづれ

   私のまっ正面で海から一つの光が湧き

   またすぐ消える、鳴れ汽笛鳴れ。

   火はまた燃える。

   「あすこに見えるのは燈台ですか。」

   「さうですね。」

   またさっきの男がやって来た。

   私は却ってこの人に物を云って置いた方がいゝ。

   「あすこに見えますのは燈台ですか。」

   「いゝえ、あれは発火信号です。」

   「さうですか。」

   「うしろの方には軍艦も居ますがね、

   あちこち挨拶して出るとこです。」

   「あんなに始終つけて置かないのは、

   

   〔この間、原稿数枚なし〕

   

   永久におまへたちは地を這ふがいい。

   さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち

   私は試みを受けやう。