先日の小倉豊文氏に関する記事に書いたように、小倉氏は若い頃に聖徳太子の「世間虚仮 唯仏是真(世間は虚仮にして、ただ仏のみこれ真なり)」という言葉に出会ったことがきっかけで、聖徳太子研究をライフワークにしたということです。
賢治が21歳の時に親友保阪嘉内にあてた書簡には、おそらくこの太子の言葉に由来すると考えられる一節が、引用されています。
退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか あゝ至心に帰命し奉る妙法蓮華経。
世間皆是虚仮仏只真。(1918年〔3月14日前後〕保阪嘉内あて 書簡49より)
書簡49最終葉(山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』より)
この書簡は、保阪嘉内が盛岡高等農林学校を退学処分になったという衝撃的事実を、すでに故郷に帰省している嘉内に知らせたもので、引用部冒頭の「退学」というのがそれを指しています。次の「戦死」は、賢治自身が翌月に徴兵検査を控えていて、もしも兵役に行くことになれば、シベリアあたりで戦死するおそれもあるという、自らの行く末のことです。
退学であろうと戦死であろうと、仏教的な唯心論の立場から見れば、すべて心の中の現象にすぎず、だから何も悲しむことなどないのだとして、退学になった親友を慰めようとしているのでしょうが、はたして嘉内はどう受けとめたでしょうか。
いずれにせよ、賢治はここで、そのような唯心論的世界観を体現するものとして、聖徳太子の言葉と伝えられる「世間虚仮唯仏是真」を引用しようとしたのでしょう。原典と少し異なっているのは、賢治がその時の記憶だけを頼りに書いたからかと思われます。
この「世間虚仮 唯仏是真」という言葉の出典は、聖徳太子の死を悲しんだ妃の
それでも、賢治のこういう唯心論的傾向は、『春と修羅』の「序」の次の一節にも現れており、その後も彼の世界観の土台となりつづけていきます。
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料 といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
※
一方、上に引用した書簡49の数日後に、再び保阪嘉内にあてた書簡においては、また異なった世界観が披露されています。
新らしく書き出します 保阪嘉内は退学になりました けれども誰が退学になりましたか。又退学になりましたかなりませんか。あなたはそれを御自分の事と御思ひになりますか。誰がそれをあなたの事ときめましたか 又いつきまりましたか。私は斯う思ひます。誰も退学になりません 退学なんと云ふ事はどこにもありません あなたなんて全体始めから無いものです けれども又あるのでせう 退学になったり今この手紙を見たりして居ます。これは只妙法蓮華経です。妙法蓮華経が退校になりました 妙法蓮華経が手紙を読みます 下手な字でごつごつと書いてあるらしい手紙を読みます 手紙はもとより誰が手紙ときめた訳でもありません 元来妙法蓮華経が書いた妙法蓮華経です。あゝ生はこれ法性の生、死はこれ法性の死と云ひます。只南無妙法蓮華経 只南無妙法蓮華経
至心に帰命し奉る万物最大幸福の根原妙法蓮華経 至心に頂礼し奉る三世諸仏の眼目妙法蓮華経 不可思議の妙法蓮華経もて供養し奉る一切現象の当体妙法蓮華経(1918年〔3月20日前後〕保阪嘉内あて 書簡50より)
書簡50第3葉(山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』より)
文中の、「生はこれ法性の生、死はこれ法性の死」という言葉は、日蓮が「生死一大事血脈抄」において天台智顗の言葉として引用している、「起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅」に拠っていると思われます。
伝教大師云はく「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」文。天地・陰陽・日月・五星・地獄乃至仏果、生死の二法に非ずと云ふことなし。是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり。天台の止観に云はく「起は是法性の起、滅は是法性の滅」云云。釈迦多宝の二仏も生死の二法なり。
(日蓮「生死一大事血脈抄」)
日蓮は、「生死も唯妙法蓮華経の生死なり」と言い、また生死以外にも、天地・陰陽・日月などこの世の二元的な現象は、すべて妙法蓮華経の現れなのだと述べているわけです。
さらに日蓮は、翌年に書いた「諸法実相抄」では、これをさらに普遍化して、この世のすべての現象・事物は、妙法蓮華経の姿なのだとも述べます。
問うて云はく、法華経の第一方便品に云はく「諸法実相乃至本末究竟等」云云。此の経文の意如何。答へて云はく、
下 地獄より上 仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり。釈に云はく「依報正報常に妙経を宣ぶ」等云云。又云はく「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土」云云。又云はく「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾 えず」云云。此等の釈義分明なり。誰か疑網を生ぜんや。されば法界のすがた、妙法蓮華経の五字にかはる事なし。釈迦・多宝の二仏と云ふも、妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時、事相に二仏と顕はれて宝塔の中にしてうなづき合ひ給ふ。(日蓮「諸法実相抄」)
「諸法」とは、「存在や事物の全て」のことであり、「実相」とは、その「真実のすがた」のことで、日蓮は、「諸法」の「実相」がすなわち「妙法蓮華経」だと説いているわけです。
賢治が書簡50において、「妙法蓮華経が退校になりました 妙法蓮華経が手紙を読みます」などと不思議なことを述べ、また自分が書いている手紙についても「元来妙法蓮華経が書いた妙法蓮華経です」と言っているのは、この「諸法実相」を、やや極端な形で表現しようとしているのだと言えます。
これは、「唯〈心〉論」ならぬ「唯〈法華経〉論」とも言うべき世界観で、前者では「すべては〈自分の心の中の現象〉である」として、前述のように独我論にも近づいていたのが、後者では〈我〉は捨象され〈法〉が根元に据えられて、「すべては〈妙法蓮華経〉である」となるわけです。
わずか数日の差で、賢治が相当異なった世界観を表明しているのが面白いところです。
ちなみに、後の賢治の作品で、後者の世界観が垣間見えるように感じるのは、「青森挽歌」の次の一節です。
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
ここで賢治が、死にゆくトシの耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」言葉は、「南無妙法蓮華経」だったと思うのですが、賢治はこれについて「万象同帰のそのいみじい生物の名」などという、持ってまわった表現をしています。
「万象同帰」とは、「全ての現象(=「諸法」)が同じ帰着点に至る」ということでしょうから、日蓮の論によれば、その「実相」は妙法蓮華経だとして素直に理解できますが、しかしお経の名前が「生物の名」だというのは、かなり奇異な感じを受けます。
しかしこれも、日蓮が「生死一大事血脈抄」に書いた「生死も唯妙法蓮華経の生死なり」という言葉からすると、「妙法蓮華経が生き、妙法蓮華経が死ぬ」わけですから、これを「生物」と呼ぶのも、それなりに一理あるようにも思われます。
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