宮沢賢治の誓願

 「銀河鉄道の夜」においては、「ほんたうのさいはひ」とか「あらゆるひとのいちばんの幸福」などという言葉が、その核心につながるキーワードとなっています。この言葉が具体的に、どんな「幸福」を指し示していのかという問題について、以前には「「ほんたうのさいはひ」を求めて(1)」「「ほんたうのさいはひ」を求めて(2)」などの記事において、作品中の用例の検討することで考えてみましたし、先月の神戸での講演でも取り上げました。

 その神戸の講演における結論は、つい先日「「有明」の寂光土」という記事にも書いたように、「賢治が目ざした〈究極の幸福〉とは、仏教的に言えば〈悉皆成仏〉あるいは〈娑婆即寂光土〉という、二つの極のいずれかに至ることではないか」というものでした。
 今回はこれについて、講演では詳しく触れられなかったことも含め、あらためて考えてみたいと思います。

 「銀河鉄道の夜」において上述のキーワードは、草稿の各段階ごとに次のような様々な形で登場します。

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

(初期形三~最終形態)

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

(初期形一~最終形態)

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

(初期形二~最終形態)

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」

(初期形二~最終形態)

「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」

(初期形三)

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」

(初期形一~三)

「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

(初期形一~三)

 「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニがこれから探し求めようとするこの「幸福」「幸い」について、その具体的な中身は明らかにされません。
 しかしその先駆的な位置にある「〔手紙 四〕」においては、これは下記のように明言されていたのです。

けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました 「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」

 ここに出てくる「手紙を云ひつけた人」は、「銀河鉄道の夜」の「初期形三」以前に登場する「博士」の前身とも言える存在ですが、その人は「すべてのいきもののほんたうの幸福」とは、「ナムサダルマプフンダリカサスートラ=南無妙法蓮華経」であると、特定しています。
 「〔手紙 四〕」は、賢治が1923年夏の樺太旅行から帰った後、同年秋頃に書かれたと推測される一方、「銀河鉄道の夜」が書き始められたのは、翌1924年の夏頃と推定されています。「〔手紙 四〕」は、一種の宗教宣伝パンフレットとして作成したものですから、上記のように宗教的メッセージを直接的に表現していますが、その着想を「銀河鉄道の夜」として作品化するにあたっては、個別的な宗教色を取り除いたのかとも思われます。
 それでも賢治はその本心においては、「みんなのほんたうのさいはひ」は法華経によってもたらされると、固く信じていたのだろうと思います。

 賢治のこの信念をさらに時間的にさかのぼっていくと、次に遭遇するのは、1922年5月に着想された長詩「小岩井農場」の終結部です。

  ちいさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする

それをある宗教情操とするならば

 ここに出てくる「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」ことが、取りも直さず「あらゆるひとのいちばんの幸福」の探求と同義と考えられることについては、以前に「「至上福祉」と「ほんたうのさいはひ」」という記事で確認しました。「福祉」という言葉は元来は「幸福」という意味であり、「至上福祉」=「いちばんの幸福」なのです。「銀河鉄道の夜」初期形三の博士の言葉では、「あらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行く」となっていましたが、こちらでは「じぶんとひとと万象といつしよに」です。

 さて、この「小岩井農場」からさらに時間をさかのぼると、前年1921年1月30日付けの、保阪嘉内あて書簡186が目に付きます。

曾って盛岡で我々の誓った願
  我等と衆生と無上道を成ぜん、これをどこ迄も進みませう

 ここに出てくる「我等と衆生と無上道を成ぜん」との言葉は、「法華経」化城喩品第七の偈にある「願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」に由来していると考えられます。「我等と衆生とみんな一緒に仏と成る」のですから、これもまさに「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいた」ること、そのものです。
 ここにおいて、「〔手紙 四〕」の言葉どおりに、「すべてのいきもののほんたうの幸福」が「法華経」につながりました。

 上記の書簡186で賢治は、この「我等と衆生と無上道を成ぜん」という願いは、「曾って盛岡で我々の誓った」ものであると、述べています。賢治と嘉内がかわしたとされるこの「誓い」は、これまで二人の友情を扱った様々な論者から、注目されてきました。とりわけ保阪嘉内の顕彰活動を行ってこられた方々からは、これは「銀河の誓い」とも呼ばれています。

 1917年(大正6年)7月14日から15日にかけて、宮沢賢治と保阪嘉内は二人で岩手山に登りました。この時の体験を賢治は、「柏ばら/ほのほたえたるたいまつを/ふたりかたみに/吹きてありけり」という短歌に、嘉内は「松明が/たうたう消えて/われら二人/牧場の土手のうへに登れり」という短歌に詠んでおり、両者にとって深く印象に残るものだったと思われます。
 また賢治は後々何度も、嘉内あて書簡においてこの時の思い出を懐かしみ、また1918年のものと推測されている次の書簡では、この時の「誓い」について触れています。

まことにむかしのあなたがふるさとを出づるの歌の心持また夏に岩手山に行く途中誓はれた心が今荒び給ふならば私は一人の友もなく自らと人にかよわな戦を続けなければなりません。

(保阪嘉内あて書簡102a、下線は引用者)

 これらの所見から、この時の岩手登山は二人にとって非常に重要な体験であり、その際に二人の間で何らかの「誓い」がなされたのだろうと推測されるのですが、その「誓い」の具体的内容について、菅原千恵子氏は『宮沢賢治の青春 〝ただ一人の友〟保阪嘉内をめぐって』において、次のように述べています。

 二人はこの岩手山登山である誓いをたてたのだ。ではその誓いとはどんなものだったのか。嘉内に宛てた賢治の沢山の手紙がやはり私たちのこうした疑問に答えてくれている。再び賢治の手紙に戻ろう。

吾々は曾て絶対真理に帰命したではないか(大正九年十二月)

曾って盛岡で我々の誓った願
 我等と衆生と無上道を成ぜん、これをどこ迄も進みませう(大正十年一月)

 これらの手紙が書かれた時はすでに賢治が法華経こそ絶対真理と信じ切っていた時期で、しかも、熱烈な法華経徒として歩いていた頃である。だから彼の側からすれば、誓いも全て法華経を抜きにしては考えられなくなっていたが、この七月十四日、十五日の夏の岩手山の時はそこまで法華経で規制した誓いであったとは考えられない。どちらかといえば、二人の誓いは、互いの宗教性に裏付けられた真理の道、無上道、理想の国をめざそうというような誓いであり、その道を歩くためならば、自己犠牲も辞さないというものではなかっただろうか。

(菅原千恵子『宮沢賢治の青春』pp.43-44)

 すなわち、二人で岩手山登山をした1917年7月の時点で、賢治はまだそこまで「熱烈な法華経徒」だったわけではないので、賢治が書簡に書いた「我等と衆生と無上道を成ぜん」が、必ずしも「誓い」の内容だったわけではない、という考えです。

 また、大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』では、この「誓い」は次のように記されています。

 後年、賢治が嘉内に宛てた手紙には、しばしばこの時のことが書かれている。それによると、二人は岩手山で銀河を眺めながら何かを誓い合ったらしい。嘉内はこの「誓い」について作品に記していないため、具体的な内容は賢治の書簡や作品から推測するほかないが、おそらくは「誰もが幸せに暮らせる世界を作ろう」といったことであったと思われる。嘉内にとってそれは模範農村という具体的な目標を伴うものであったが、賢治がこの「誓い」に具体的な目標を持つに至るまでには、まだ時間が必要であった。嘉内が、賢治ほどこの時の「誓い」について言及していないのは、既に嘉内にとってはそれが明確な目標となっていたからかも知れない。

(大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』pp.67-68)

 ここでも、「誓い」の内容は「我等と衆生と無上道を成ぜん」ではなく、「誰もが幸せに暮らせる世界を作ろう」というような、漠然としたものだったのではないかとされています。

 さらに、江宮隆之『二人の銀河鉄道』では、この誓いの場面は次のように物語化されています。

 広大な星空を同時に見ながら、二人の胸と胸に通い合うものを、互いに感じていた。
「嘉内さん、僕たちはいつまでも、何があっても友達でいような」
「うん。それはこの星空に誓おうじゃないか。死ぬまで、いや死んでからも僕たちの友情は絶対に変わらないって」

(江宮隆之『二人の銀河鉄道』p.161)

 ここではこの「誓い」は、「二人の変わらぬ友情の誓い」であって、他の人々や世界に関わるものではありません。

 すなわち、この岩手山における賢治と嘉内の「誓い」は、様々に注目を集めている一方で、その内容については諸説紛々というのが現状です。
 しかし、賢治が書簡186に書いている「曾って盛岡で我々の誓った願/我等と衆生と無上道を成ぜん、これをどこ迄も進みませう」という文章を素直に読めば、「我等と衆生と無上道を成ぜん」こそが、「我々の誓った願」にほかなりません。私としては、ここは賢治が書いたとおりに理解しておくのが、最も妥当なように思います。

 たしかに菅原千恵子氏の指摘のように、書簡186は岩手山行から2年半も後のものですから、これが当時の言葉を正確に伝えているという保証はありません。しかし、「賢治がまだ熱烈な法華経徒になっていなかった」ということだけを理由に、この書簡の記述を事実でないと決めつけることも、できないと思います。
 その理由は一つには、「我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」という法華経の一節は、日蓮宗だけでなく、天台宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗など(浄土真宗を除く)他の宗派においても、法要の際の「回向文」として一般的に唱えられる言葉であり、「熱烈な法華経徒」だけのものではないからです。
 そしてもう一つには、次に述べるように、この岩手山登山とちょうど同時期に賢治が投稿した歌にも、「皆と一緒に成仏を目ざす」という全く同趣旨のものがあるからです。

 すなわち、1917年7月18日に発行された盛岡高等農林学校の『校友会会報』第三十四号に、賢治は「黎明のうた」と題した連作を投稿しており、その最後の歌は次のような旋頭歌になっています。

たびはてん 遠くも来つる 旅ははてなむ 旅立たむ なべてのひとの 旅はつるまで

 この歌については、最近「果てしない旅人」という記事でも考えてみましたが、やはり同時期に発表した「「旅人のはなし」から」という短篇と同趣旨の内容を、圧縮して表現したものと言えます。「「旅人のはなし」から」は、賢治自身を象徴する「旅人」が、輪廻転生を繰り返す「旅」を続けるという話でした。
 そしてこの「旅」のゴールは、上の歌にあるように、「なべてのひとの旅はつる」こと、すなわち「全ての人の輪廻転生の旅が終わる=成仏する」ことなのです。
 つまり、これもやはり「皆ともに仏道を成ぜん」という目標に向かっているのです。

 7月18日発行の『校友会会報』に掲載されるということは、7月14日~15日にはすでに原稿を編集部に提出していたはずであり、賢治は「全ての人の成仏のために旅をする」という思想を抱きつつ、嘉内と岩手山に登ったのです。ですからこの道中で、賢治が嘉内に対して、自らのそのような理想を語った可能性は非常に高いと思われますし、その理想実現の誓いに親友を誘うのも、十分ありうることと思われるのです。

 さらに翌1918年になると、賢治は本当に「熱烈な法華経徒」になって、その書簡にも法華経の話が溢れてきます。
 まず、保阪嘉内に退学を知らせた1918年3月14日付けの書簡49では、前年の「誓い」を念押しするかのように、文章の最後に例の一節が置かれています。

  願はくは此の功徳を 普く一切に及ぼし
  我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜん

 同年4月18日付けの成瀬金太郎あて書簡〔55〕では、やはり「全ての存在とともに成仏する」願いが次のように表現されています。

至心ニ妙法蓮華経ニ帰命シ奉ルモノハヤガテ総テノ現象ヲ吾ガ身ノ内ニ盛リ、十界百界諸共ニ成仏シ得ル事デセウ。

 そして、同年5月および6月の保阪嘉内あて書簡では、自分自身の成仏と全存在の成仏が、一つのセットとして熱烈に語られます。

ねがはくはこの功徳をあまねく一切に及ぼして十界百界もろともに仏道成就せん。一人成仏すれば三千大千世界山川草木虫魚禽獣みなともに成仏だ。(書簡63)

わが成仏の日は山川草木みな成仏する。山川草木すでに絶対の姿ならば我が対なく不可思儀ならばそれでよささうなものですがそうではありません。実は我は絶対不可思儀を超えたものであつて更にその如何なるものと云ふ属性を与へ得ない。実に一切は絶対であり無我であり、空であり無常でありませうが然もその中には数知らぬ流転の衆生を抱含するのです。(書簡76)

 書簡76では、「わが成仏の日」として、賢治自身が成仏するという前提の上に、皆の成仏が語られます。書簡63で「一人成仏すれば」とあるのも、この「一人」とは賢治のことであり、やはり自らの成仏が、皆の成仏の前提となっています。
 すなわちここで賢治は、「自分が成仏する際には、ともに全存在を成仏させる」という、仏教的な意味での「誓願」を、立てているのだと思われます。

 仏教において「誓願」とは、次のようなものです。

 誓願 せいがん [s : praṇidhāna] 仏・菩薩が必ず成し遂げようと誓う願い。自己の全心身をかけた願いで、自己および一切衆生の成仏を目ざす。なお、仏道修行者の求道の立願についてもこの語を準用することがある。四弘誓願は一切の仏・菩薩に共通した誓願であるが、薬師の十二願、阿弥陀の四十八願、釈迦の五百大願など、それぞれに個別の誓願(本願)がある。(『岩波仏教辞典』)

 たとえば浄土信仰の根幹を成す「阿弥陀の四十八願」とは、法蔵という菩薩が修行の過程で、「もしも私が成仏できるとなっても、~~の条件が満たされないならば、私は決して悟りを開かない」ということを、四十八項目にわたって宣言したものです。その後、法蔵は成仏して阿弥陀如来となったわけですから、「~~」の部分に入れられた衆生救済などの条件は全てが実現していることになり、この阿弥陀の誓願の力によって、われわれは救われているというのです。

 上記の書簡63および76で賢治が宣言している誓願は、「自分が成仏する際には、ともに山川草木みな成仏する(そうでないなら自分は成仏しない)」ということになるでしょう。
 もちろん賢治は、ただの人間である自分が、この一代で成仏できるとは想定しておらず、これから果てしない輪廻転生の末に成仏するであろう、その遙か彼方の時のことを言っているのでしょうが、それでも「自分が仏と成る」ことを前提に未来を構想するなどというのは、あまりに壮大なイメージです。

 上記の仏教辞典の説明のように、「誓願」とは本来は仏または菩薩が立てるものであって、ふつうの人間である賢治はその主体には含まれないのですが、ここには「なお、仏道修行者の求道の立願についてもこの語を準用することがある」との用法を、適用することができます。
 賢治は保阪嘉内あて書簡186において、「曾って盛岡で我々のった」と記して、「誓願」の字を用いていますが、おそらくこれは偶然ではなく、自らの立てた願が、仏や菩薩に準ずるような「仏道修行者の立願」に相当することを、意識していたのだろうと思います。

 以上見ていただいたように、賢治が「銀河鉄道の夜」で繰り返し述べる「みんなのほんたうのさいはい」「あらゆるひとのいちばんの幸福」とは、突き詰めれば、「自分と全ての衆生が、ともに成仏する」ことを指しているのだろうと、私は考えます。すなわち「悉皆成仏」です。
 賢治のこの考えは、少なくとも盛岡高等農林学校時代の1917年には胚胎され、保阪嘉内との別離やトシの死去を経ても変わらず維持されて、「小岩井農場」や「銀河鉄道の夜」の根底のテーマになっていたと考えられます。

 晩年になっても、書簡252c下書(十六)と呼ばれる文書に、自らが目ざすところの「道」という形で、この理想は綴られています。

お手紙拝見、一一ご尤です。まことの道は一つで、そこを正しく進むものはその道(法)自身です。みんないっしょにまことの道を行くときはそこには一つの大きな道があるばかりです。しかもその中でめいめいがめいめいの個性によって明るく楽しくその道を表現することを拒みません。生きた菩薩におなりなさい。独身結婚は便宜の問題です。一生や二生でこの事はできません。さればこそ信ずるものはどこまでも一諸に進まなければなりません。手紙も書かず話もしない、それでも一諸に進んでゐるのだといふ強さでなければ情ない次第になります。なぜならさういふことは顔へ縞ができても変り脚が片方になっていも変り厭きても変りもっと面白いこと美しいことができても変りそれから死ねばできなくなり牢へ入ればできなくなり病気でも出来なくなり、ははは、世間の手前でもできなくなるです。大いにしっかり運命をご開拓なさいまし。

 ここで「みんないっしょにまことの道を行く」と書かれているのが、ともに悉皆成仏を目ざす「道」に違いありません。「一生や二生でこの事はできません」とあるように、この道は今のこの一生で終わるものではなく、信仰を同じくする仲間と一緒に、延々と輪廻転生を繰り返しつつ、進んでいくことになるのでしょう。

 そして、「生きた菩薩におなりなさい」との言葉が、この目標の「誓願」的な性質を、如実に表現していると思います。このような願を立てて、自らの全身全霊をかけて進む者は、いつか必ず「菩薩」になるはずです。
 その時こそ、これは本来の意味での「誓願」となるのです。

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岩手山山頂部とカルデラ(Wikimedia Commonsより)