去る1月30日にニュージーランド議会において、山に人格権を認める法案が、全会一致で可決されたというニュースがありました。
ニュージーランドで山に人格権認める法案が可決、先住民マオリの世界観認める(BBC News Japan)
「山に人格を認める」などとは、いったいどういうことなのかと思いますが、この法律はニュージーランド北島のタラナキ山に対して、山自身の所有権は(人間や政府ではなく)この山そのものに属し、山が人間と同じ権利を有していて、法的保護を受けることを認めたのだということです。
タラナキ山(Wikimedia Commonsより)
タラナキ山(2,518m)は、ニュージーランド北島第二の高峰であり、上写真のように美しい神秘的な姿で、観光地としても人気が高いということです。今回の法律では、ニュージーランド先住民マオリ族の「山や自然は自分たちの祖先であり、生き物である」という世界観が承認され、今後ニュージーランドの人々はこのような考え方に基づいて、タラナキ山とその周囲の自然を遇することになったのです。
ただ、山は人間に分かるような形で自分の意思を表明してくれるわけではありませんので、山にとっての利益はマオリの部族(イウィ)と政府の代表者が協力して判断し、保護にあたります。山の「後見人」のような感じでしょうか。
ところでこのような考え方は、通常の「自然保護」とか「環境保護」とは、似て非なるものです。一般的な自然保護活動は、「保護した方が人間にとって利益がある」という観点から行われており、そこでは「美しい自然がある方が人間にとって心地よい」とか、「観光資源になる」とか、「人間の生存環境として望ましい」などという、「人間の都合」のみが考慮されます。
しかし、今回のニュージーランドの法律では、「人間にとって利益になるか否か」という視点ではなく、「山自身にとって利益になるか否か」という立場から、山の扱いについて判断が行われるのです。山は人間に「利用される」のではなく、人間と対等に扱われることになります。
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このように、山やその他の自然を人格的存在として扱い、対等に尊重するという世界観は、まさに宮沢賢治的です。
「狼森と笊森、盗人森」で、原野に移り住んできた人々は、周囲の「森」(東北地方では「小山」を指す)に対して、次のように生活の許可を求めます。
そこで
四人 の男たちは、てんでにすきな方へ向いて、声を揃 へて叫びました
「こゝへ畑起してもいゝかあ。」
「いゝぞお。」森が一斉にこたへました。
みんなは又叫びました。
「こゝに家建てゝもいゝかあ。」
「ようし。」森は一ぺんにこたへました。
みんなはまた声をそろへてたづねました。
「こゝで火たいてもいいかあ。」
「いゝぞお。」森は一ぺんにこたへました。
みんなはまた叫びました。
「すこし木 貰 つてもいゝかあ。」
「ようし。」森は一斉にこたへました。
男たちはよろこんで手をたゝき、さつきから顔色を変へて、しんとして居た女やこどもらは、にわかにはしやぎだして、子供らはうれしまぎれに喧嘩 をしたり、女たちはその子をぽかぽか撲 つたりしました。
この入植者たちは、自然の森(山)を人格的存在として扱い、しかも森の意向を前もって尋ね、許しを得てから行動しているわけで、その心の底には、マオリの人々と同じ世界観があると言ってよいでしょう。
また、「楢ノ木大学士の野宿」においては、大学士の野営地を取り囲む四つの山が「ラクシャン四兄弟」と呼ばれ、お互いに奇想天外な会話を交わします。
このような賢治の感性の背後には、この世の全ての存在が生命を持っていると見なす「アニミズム」があります。賢治の物語の中では、火山弾も、シグナルも、ねずみ捕りも、それぞれが考え、話し、行動するのです。
さらに、賢治の物語に登場するこれらの存在は、人間に従属するものではなく、人間と対等の立場で扱われます。まさに賢治はこれらのものに、「人格権」を認めているのだと言えます。
これは、人間以外の生物や無生物を人間に
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冒頭のニュージーランドの新法の話に戻ると、今回のこの立法措置の目的は、1840年に先住民マオリの首長とイギリス王室の間で交わされたニュージーランド建国文書「ワイタンギ条約」に対する、その後の政府の義務違反への補償の一環であったという点に、注目すべきかと思われます。
1860年代に先住民と入植者の間で起こったマオリ戦争の結果、当時のニュージーランド政府はマオリの土地を無差別に没収し、このため多くのマオリは故郷を追われ、祖先の聖地や伝統的な食糧・資源の採取場所を喪失してしまいました。
これに対して現代のニュージーランド政府は、そのような過去の政策の過ちを認めてマオリに謝罪し、マオリの自然観・世界観を、公的に承認して法律の精神としているのです。
このような政府や入植者側の姿勢を見ると、思い起こさずに居られないのが、やはり「山の神」を尊崇していたアイヌ民族に対する、日本政府の扱いです。
明治維新以降、政府はアイヌ伝統の入れ墨などの習俗を禁止し、日本名への創氏改名を強制して、その文化を剥奪していきました。またアイヌ民族には土地所有権が認められず、アイヌが所有していた土地は官有地に組み入れられていきました。
戦後になっても、1980年に日本政府が提出した「市民的・政治的権利に関する国際条約」に関する定期報告書にアイヌ民族に関する記載はなく、存在を無視された状態でしたし、1986年に中曽根首相は「日本は単一民族国家である」と発言するなど、国はアイヌを先住民とは認めていませんでした。
こういった状況の中、2001年に国連の人種差別撤廃委員会は日本政府に対して、「先住民としてのアイヌの権利を更に促進するための措置を講ずること」を勧告し、国会は2008年に「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を採択して、2009年になってようやく政府も、「アイヌ民族は日本列島北部とりわけ北海道における先住民族である」と認めました。しかし2010年代や2020年代になっても、国会議員や北海道の地方議員からのアイヌに対する差別発言は跡を絶ちません。
マオリ戦争と明治維新はほぼ同じ時代のことですが、先住民に対して政府の過ちを公式に謝罪し、その精神を国民で共有しようとするニュージーランドとは、彼我の違いを感じざるを得ません。
賢治は、中学の修学旅行と農学校教師として引率した修学旅行で、いずれも白老のアイヌ集落を訪ねており、アイヌの信仰や世界観について一定の知識を持っていたと思われます。「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」でアイヌの姿を幻視し、「〔これらは素樸なアイヌ風の木柵であります〕」ではイオマンテの木柵を想像した賢治は、この国の民族共生についてどう考えていたのか、聞いてみたいものです。
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