噴火湾(ノクターン)

   

   稚(わか)いえんどうの澱粉や緑金が

   どこから来てこんなに照らすのか

     (車室は軋みわたくしはつかれて睡つてゐる)

   とし子は大きく眼をあいて

   烈しい薔薇いろの火に燃されながら

     (あの七月の高い熱……)

   鳥が棲み空気の水のやうな林のことを考へてゐた

     (かんがへてゐたのか

      いまかんがへてゐるのか)

   車室の軋りは二疋の栗鼠(りす)

      《ことしは勤めにそとへ出てゐないひとは

       みんなかはるがはる林へ行かう》

   赤銅(しやくどう)の半月刀を腰にさげて

   どこかの生意気なアラビヤ酋長が言ふ

   七月末のそのころに

   思ひ余つたやうにとし子が言つた

     《おらあど死んでもいゝはんて

      あの林の中さ行ぐだい

      うごいで熱は高ぐなつても

      あの林の中でだらほんとに死んでもいいはんて》

   鳥のやうに栗鼠のやうに

   そんなにさはやかな林を恋ひ

    (栗鼠の軋りは水車の夜明け

     大きなくるみの木のしただ)

   一千九百二十三年の

   とし子はやさしく眼をみひらいて

   透明薔薇の身熱から

   青い林をかんがへてゐる

   フアゴツトの声が前方にし

   Funeral march があやしくいままたはじまり出す

     (車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠)

    《栗鼠お魚たべあんすのすか》

     (二等室のガラスは霜のもやう)

   もう明けがたに遠くない

   崖の木や草も明らかに見え

   車室の軋りもいつかかすれ

   一ぴきのちいさなちいさな白い蛾が

   天井のあかしのあたりを這つてゐる

     (車室の軋りは天の楽音)

   噴火湾のこの黎明の水明り

   室蘭通ひの汽船には

   二つの赤い灯がともり

   東の天末は濁つた孔雀石の縞

   黒く立つものは樺の木と楊の木

   駒ケ岳駒ケ岳

   暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる

   そのまつくらな雲のなかに

   とし子がかくされてゐるかもしれない

   ああ何べん理智が教へても

   私のさびしさはなほらない

   わたくしの感じないちがつた空間に

   いままでここにあつた現象がうつる

   それはあんまりさびしいことだ

     (そのさびしいものを死といふのだ)

   たとへそのちがつたきらびやかな空間で

   とし子がしづかにわらはうと

   わたくしのかなしみにいぢけた感情は

   どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 

 


   ←前の草稿形態へ