スヰヂツシ安全マツチ

 『春と修羅』所収の「霧とマツチ」は、下記のような小品です。

  霧とマツチ

(まちはづれのひのきと青いポプラ)
霧のなかからにはかにあかく燃えたのは
しゆつと擦られたマツチだけれども
ずゐぶん拡大されてゐる
スヰヂツシ安全マツチだけれども
よほど酸素が多いのだ
(明方の霧のなかの電燈は
まめいろで匂もいゝし
小学校長をたかぶつて散歩することは
まことにつつましく見える)

 7行目に「明方」とありますから、時刻は早朝なのでしょう。霧の中に、突然赤い光が灯りますが、それは擦られたマッチの炎で、霧のためなのか妙に拡大されて見えたというのです。
 そのマッチは、「スヰヂツシ安全マツチだ」と作者は断定していますが、霧の向こうならばマッチ箱の銘柄など見えそうにないのに、不思議なことです。『定本 宮澤賢治語彙辞典』で原子朗氏は、「ハイカラ好みの賢治は外国製にしたかったのだろう」と評しています。

 ところで、最後から2行目の「小学校長をたかぶつて」という言葉の意味が、よくわかりません。『日本文学大系38 高村光太郎 宮澤賢治 集』(角川書店)の恩田逸夫氏による注釈では、「小学校長であることを誇りに思い、その満足感で興奮することであろう」と解釈し、次の行の「つつましく見える」については、「その人物が、小学校長の地位に満足感を覚えていることが、第三者から見ると、いかにも実直な性格の人物のように感じられる」と述べています(p.313)。
 なかなかに工夫を凝らした解釈だと思いますが、とりあえずこうとでも理解しておくほかないようにも思います。

 この作品の日付の「1922年6月4日」は日曜日ですので、賢治は休日早朝に町はずれを散歩していて、霧の中で小学校長を見かけたのでしょうか。

 先ほども登場した5行目の「スヰヂツシ安全マツチ」というのは、「スウェーデン式安全マッチ」のことです。英語で"Swedish"、発音は[swíːdɪʃ](スウィーディッシュ)ですから、ウィ→ヰ、ディ→ヂ、シュ→シ、と表記すれば、「スヰヂッシ」となるわけです。

 手軽な発火具としてのマッチは、1820年代にイギリスで発明され、1830年代以降は黄燐を使用したマッチが普及していきますが、黄燐は少しの摩擦や衝撃でも発火する危険があり、また毒性が強く製造工に燐中毒壊疽という職業病も発生しました。そこで1855年にスウェーデンで、赤燐を使用した「安全マッチ」が発明され、以後はこのタイプが世界中に普及していきます。

 日本でも、1880年代以降マッチ製造が盛んになり、20世紀初頭には、スウェーデン、アメリカとともに、マッチの「世界三大生産国」と呼ばれるまでになりました。1914~1917年の第一次世界大戦中には、ヨーロッパから中国・インドへのマッチの輸出が困難になったため、日本がその間隙を突いて、アジア各国への輸出を飛躍的に増大させます。

 しかし第一次大戦が終わると、後に「マッチ王」と呼ばれるスウェーデンのイーヴァル・クルーガーが、1917年にスウェーデン国内のマッチ会社を統合して傘下に収め、同年にインドの市場を掌握し、1919年にはアメリカにも進出します。クルーガーの率いるスウェーデンのマッチ企業コンツェルンは、1924年から日本の会社の資本買収も進め、一時は日本国内のマッチ生産の70%がスウェーデン系会社というところまで、追い詰められたということです。

 下の表は、『近畿経済圏の歴史的発展(九)』p.55より、大正5年(1916)から大正15年(1926)までの、日本のマッチ生産状況です。(元の表を縦型から横型に改変)

燐寸産額表

製造戸数 職工数 産額(単位千円)
安全燐寸 黄燐々寸 其の他
大正5年 21 2,551 1,586 1,678 - 3,265
7年 22 2,519 2,830 1,691 - 4,521
9年 21 1,461 3,020 262 - 3,282
11年 8 402 229 - 9 238
13年 4 81 35 - 14 149
15年 7 263 474 - - 474

 大正9年(1920)に3,020千円まで増大していた安全マッチの生産額は、賢治が「霧とマツチ」を書いた大正11年(1922)には229千円と、一挙に10分の1以下に落ち込んでいます。また2年後の1924年には35千円と、さらに一桁減少しています。
 当時の日本のマッチ業界は、大変な状況にあったのです。

 賢治は霧の中で、マッチ箱の図柄などは見えなかったのかもしれませんが、徐々に世間を席巻しつつあった「スウェーデン式安全マッチ」の印象は、相当に強かったのかもしれません。

 ところで Amazon を見てみると、「スウェーデン式安全マッチ」は、現在も販売されています。製造元の「スウェーデンマッチ社」は、150年前から、すなわち賢治の時代にも、すでに営業していたということです。

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