地蔵和讃の劇

 1925年4月2日の日付を持つ「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」は、賢治が岩根橋発電所を目ざして夜道を歩きながらの、一種のモノローグです。

 五〇六
          一九二五、四、二、

そのとき嫁いだ妹に云ふ
十三もある昴の星を
汗に眼を蝕まれ
あるひは五つや七つと数へ
或ひは一つの雲と見る
老いた野原の師父たちのため
老いと病ひになげいては
その子と孫にあざけられ
死にの床では誰ひとり
たゞ安らかにその道を
行けと云はれぬ嫗のために
  ……水音とホップのかほり
    青ぐらい峡の月光……

おまへのいまだに頑是なく
赤い毛糸のはっぴを着せた
まなこつぶらな童子をば
舞台の雪と青いあかりにしばらく借せと
  ……ほのかにしろい並列は
    達曾部川の鉄橋の脚……
そこではしづかにこの国の
古い和讃の海が鳴り
地蔵菩薩はそのかみの、
母の死による発心を、
眉やはらかに物がたり
孝子は誨へられたるやうに
無心に両手を合すであらう
     (菩薩威霊を仮したまへ)
ぎざぎざの黒い崖から
雪融の水が崩れ落ち
種山あたり雲の蛍光
雪か風かの変質が
その高原のしづかな頂部で行はれる
  ……まなこつぶらな童子をば
    しばらくわれに借せといふ……
いまシグナルの暗い青燈

 この日、賢治は何かの用事で、花巻軽便鉄道に乗って岩根橋にある発電所を訪ねたようです。
 その出発時の様子は、「〔硫黄いろした天球を〕」に記されています。この時点で、「最后に湿った真鍮を/二きれ投げて日は沈み……」とありますから、花巻を発車したのは日没の直前だったのでしょう。木村東吉氏の調査によれば、当時の岩手軽便鉄道下り最終列車は花巻発5時50分だったということで(木村東吉『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』p.233)、この日の花巻の日没時刻は5時59分ですから、ぴったり符合します。

 そしてその次に続く作品が、この「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」です。「水音とホップのかほり/青ぐらい峡の月光」などの表現を見ると、賢治はもう列車を降りて、達曾部川に沿った渓谷の道を歩いているところなのでしょう。上記の木村東吉氏の調査では、列車の岩根橋駅着は7時11分ということで、あたりはもう暗くなっているはずです。

 テクストの最初の行の「そのとき嫁いだ妹に……」という書き出しは、「妹が嫁いだそのときに」という意味ではなくて、「既に嫁いでいる妹に対して、そのとき私は言う」ということです。賢治の作品においては、「鹿踊りのはじまり」や「インドラの網」のように、冒頭から唐突に「そのとき……」と語り始められる例がいくつかありますが、これもその一つで、読者をいきなり作品世界に引き込んでしまうような効果があります。以前に「「そのとき…」という書き出し」という記事に書いたように、仏教経典の各「品」の書き出しに、しばしば見られるものです。
 この作品では、賢治が「意を決して妹に語りかける」という雰囲気が、醸し出されています。

 賢治の妹は、トシ、シゲ、クニの3人がいましたが、この時点で長妹トシは亡くなっており、三妹クニはまだ18歳で未婚でしたので、この「嫁いだ妹」とは、1922年1月2日に結婚した次妹シゲを指しています。そして、「おまへの……まなこつぶらな童子」とは、前年1924年11月に生まれた、その長男の純蔵だということになります。
 宮沢家の初孫で、賢治にとっても初めての甥です。

 賢治は、この大切な幼な子を、「しばらく貸してくれ」と妹に頼もうと考えているのです。その目的は、「舞台」のためだということで、この作品の下書稿(一)が「農民劇団」と題されていたことからすると、賢治は農民の劇団を作ってその公演の舞台に、小さな甥を出演させたいという計画を持っていたようです。

 思えばこの前年1924年8月に賢治は、花巻農学校の生徒たちによる劇団で、二日間四回にわたって自作の「飢餓陣営」「植物医師」「ポランの広場」「種山ヶ原の夜」の公演を行い、大好評を博したのでした。終演後は、「舞台道具を校庭にもちだし、火をつけ、生徒ともども狂喜乱舞した」ということで、いつか東京公演をやろうという夢まで語っていたということです。
 ところが、同じ1924年8月から9月にかけて、当時の岡田良平文部大臣は、学校で劇を演じるなどというのは「質実剛健の民風を作興する途にあらざる」ものとして非難し、いわゆる「学校劇禁止令」を出したのです。
 これによって、賢治が農学校で生徒とともに演劇を楽しむ道は閉ざされてしまったわけで、その落胆はいかばかりだったかと推測されます。これが、賢治が農学校を退職するに至る遠因の一つだったのではないかとの説もあるほどです。

 しかし翌年4月には、賢治はひそかに、「学校劇」が駄目なら「農民劇団」をやってみようかという腹案を抱いていたことが、この作品からうかがわれるわけで、これが後に「羅須地人協会」の構想にもつながったのかと思われます。

 さて、賢治がこのようにして思い描いていた農民劇とは、いったいどんなものだったのでしょうか。
 公演の観客として想定されているのは、「老いた野原の師父たちのため」、あるいは「その子と孫にあざけられ/死にの床では誰ひとり/たゞ安らかにその道を/行けと云はれぬ嫗のため」だということです。年長者を敬う道徳があったはずのこの国でも、貧しい農村で労働力として役立たなくなった老人は、このように厄介者扱いされることがあったのかもしれません。賢治はそのような人々を、劇によって力づけたいと思ったのでしょう。

 劇の舞台上の情景としては、「地蔵菩薩はそのかみの、/母の死による発心を、/眉やはらかに物がたり……」という様子が描かれます。この地蔵の語りのバックでは、「しづかにこの国の/古い和讃の海が鳴り」ということで、おそらく人々が低く声を合わせて、海のように深く和讃を朗誦するのでしょう。
 そしてその「眉やはらか」な地蔵菩薩に向かって、いたいけない幼な子が「無心に両手を合す」というシーンが、演じられるようです。舞台上では、「雪と青いあかり」が、地蔵と幼な子を照らしています。
 これは、農家の老人たちでなくとも、思わず涙がこぼれてしまいそうな場面ではありませんか。劇作家・演出家としての賢治の、真骨頂と言えるでしょう。

 上記のようにこの舞台では、「和讃」が合唱されるという趣向だったようですが、これまで学校劇として様々な滑稽な音楽劇(コミック・オペレット)を創作し演出してきた賢治としても、この劇はそれはさらに深めて荘厳な境地を開く、新たな音楽劇となったかもしれません。
 ちなみに、地蔵菩薩が出てくる和讃としては、「延命地蔵和讃」「地蔵菩薩和讃」「地蔵和讃」「地蔵尊孝養和讃」「西院河原地蔵菩薩和讃」などいろいろある中で、子や孫が老人を敬うという「孝養」を宣揚するという意味では、「地蔵尊孝養和讃」が最もこの劇の趣旨に叶う感じがします。

 作品中に、「地蔵菩薩はそのかみの、/母の死による発心を……」とありますが、「地蔵菩薩本願経」によれば、地蔵菩薩が前世でバラモンの娘だった生において、その母は信心薄いままに亡くなってしまいました。娘は、亡母が地獄に堕ちるであろうことを心配して、家宅を売って仏塔に供養し、さらに自らの身を打擲して骨や関節を痛め、瀕死の状態で仏に祈ります。さらに、沸騰する海で人々が悪獣に食われる地獄に行きますが、そこで鬼王から、彼女の母親は娘の功徳のおかげで、他の罪人とともにこの地獄を脱することができたと知らされます。
 下記は、「地蔵尊孝養和讃」においてそのあたりの経緯が描かれる部分です。

〔前略〕
三世さんぜのぼさつ數々かずかず
ちかひ品々しなじなおほかれど
孝養きやうやう父母ぶも誓願せいぐわん
地蔵ぢざう菩薩ぼさつしくはなし
婆羅門ばらもん聖女しやうによのそのむかし
光目女くわうもくによのいにしへも
邪見じやけん愚悪ぐあくのそのはゝ
未來みらい苦患くげんおもひやり
ほとけいのるまことより
あるひ地獄ぢごくゆきめぐり
あるひほとけのつげを
つひ亡母もうぼすくひます
これより衆生しゆじやうあはれみて
闡提せんだい大悲だいひぐわんをたつ
三惡道さんあくだうをすみかとし
六道ろくだう能化のうけしようせらる
〔後略〕

(『仏教和讃五百題』p.61)

 公演では、このような和讃の合唱が、舞台から海のように響きわたるという趣向だったのでしょうか。
 しかし実際のところは、賢治が構想したこの地蔵和讃の劇が、上演されることはありませんでした。

 ただそれにしても、青年期以降はほぼ「法華経専修」であった賢治が、法華経には登場しない尊者である地蔵菩薩を、わざわざ主題として取り上げて劇にしようと考えたのは、珍しいことだと思います。
 劇を上演するための機会として、何か地蔵に縁のある事情でもあったのでしょうか?

 ここで話は変わりますが、下根子桜の賢治詩碑に行く道端に、下写真のような一体のお地蔵さんがあります。台座には「大正十一年陰暦七月十六日造立」と刻まれていることからして、賢治はこのお地蔵さんをよく知っていたと思われますし、とりわけ羅須地人協会を始めて、このすぐ近くで暮らすようになってからは、毎日のように前を通っていたのではないでしょうか。

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 「桜の地蔵さん」と呼ばれるこのお地蔵さんの由来については、花巻市博物館の布臺一郎さんが「花巻市博物館研究紀要 第17号」に、一文を書いておられます。布臺さんの調査によると、この地蔵菩薩像が建立された目的は、藩政時代にこのあたりに罪人の処刑場があり、百姓一揆の指導者たちの刑もここで執行されていたこと、また幕末の内戦期に若い藩士たちが秋田戦争への参加を企て、この近くで火薬の実験をしていたところ、1868年に爆発事故で4人が命を落としたことを、あわせて供養追悼することにあったということです。

 さらにこの地蔵菩薩像の台座には、下のように、「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道(願はくは此の功徳をもって普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん)」という、法華経の化城喩品の偈の一節が、刻まれています。

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 これは、賢治が学生時代に何度か保阪嘉内あての書簡に書いた「誓願」であり、また「青森挽歌 三」の草稿にもいったんは書きつけるなど、彼が非常に大切にしていた言葉ですから、賢治はこの場所を通るたびに、きっと思うところはあっただろうと推測します。

 さて、ここでもう一度、「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」に戻ります。
 考えてみると、賢治の次妹シゲの子純蔵が生まれたのは1924年11月26日で、この作品が書かれた1925年4月2日には、まだ満4か月と少しの乳飲み子です。ですから、いくら何でもこの時点では、こんな赤ん坊を舞台に上げて、「おしへられたるやうに/無心に両手を合す」などという「演技」をさせることは不可能であり、賢治がこの作品に描いたような劇の上演を想定していたのは、まだかなり先のことだったと思われます。少なくとも、3年は先のことでしょうか。
 しかしそれにしても、当時の賢治は今から3年も先に、自分がいったいどういう状況にあって、「農民劇団」を組織し活動していると考えていたのでしょうか。

 賢治が、農学校教師を辞職しようと考え始めるようになったのが、具体的にいつからだったのかはわかりませんが、現実の賢治は、「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」を書いてからちょうど1年後には退職して、下根子桜の宮沢家別宅で一人暮らしをしていたのです。1924年6月25日付けの保阪嘉内あて書簡207には、「来年はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働らきます」と書いていますので、この頃には既に退職と営農の決心は固まっていたことがわかりますが、それならばその2か月前の4月にも、心の中ではもうだいたいの計画はできていたと考えるのが自然でしょう。
 すなわち、「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」を書いた時点で賢治は、妹の子が舞台に上がれるようになる頃には、自分は下根子桜で暮らしているだろうと考え、そこを拠点として農民劇団を作ろうと考えていた可能性が高いのです。

 そうであれば、自分たちの農民劇のテーマとしては、まずはこの桜の地元の人々が力を合わせて建立し、尊崇し親しんできた「お地蔵さん」を中心に据えるというのは、格好の企画だと言えるでしょう。「町」から来た金持ちの息子となると、ともすれば他所者として敬遠される立場でしょうが、地域に根ざした地蔵菩薩を劇にして、美しい和讃に乗せて演じてくれたとなると、地元の人たちとの距離が一気に縮まるきっかけになるかもしれません。

 ということで、「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」における劇のイメージは、賢治が退職後に下根子の地において、「桜の地蔵さん」にちなんで上演することを夢見たものだったのではないかというのが、私の個人的な想像です。
 何年か先に下根子桜で農民劇団を作った「そのとき」には、妹に頼んで最高の子役に出演してもらおうと、渓谷の夜道を歩きつつひそかに胸を高鳴らせていたのではないでしょうか。

 ちなみに「桜の地蔵さん」は、下の地図の赤いピンの地点で、道の東側に立っています。