高浜駅の豪雨

 賢治は、1916年(大正5年)7月30日、東京で「独逸語夏季講習会」を受講するために、夜行列車で上京しました。花巻から仙台までは東北本線を走り、仙台から常磐線に入って上野に至る、急行802列車に乗ったと推定されています。

 当時は、東北地方と東京を結ぶ鉄道路線として、この「常磐線経由」がかなり重要な位置を占めていたということです。上野─青森間を結ぶ急行列車が最初に運行したのは、1906年にまだ「海岸線」と呼ばれていた常磐線経由の、急行801・802列車でした。同じ上野─青森間を、全て東北本線で走る急行201・202列車が運行を開始したのは、その2年後のことでした。
 路線距離は、両線が別ルートを通る日暮里─岩沼間で比べると、常磐線が343.1km、東北本線が328.4kmで、常磐線経由の方が少し遠回りなのですが、内陸部を走る東北本線の方が勾配が多いため、運行初期においては東北本線経由の方が、時間が長くかかっていました。その後、蒸気機関車のパワーアップによって、1917年には同時間になり、1926年のダイヤ改正以降は、東北本線経由の方が早くなります。

 それでも1931年9月に、賢治が最後の上京をした際にも、仙台から乗ったのは常磐線経由だったと推定されています。

 さて、1916年7月30日深夜から翌31日未明にかけて、この常磐線を走る急行列車に乗っていた賢治は、茨城県の「高浜」という駅で、2時間も足止めを食らってしまいました。

 保阪嘉内あての書簡16には、これについて次のように書かれています。

昨日海岸線が二時間高浜と云ふ千葉県(?)の停車場で洪水の後始末を待つたあと上野に着きました。私はこんな事をよく知つて居ります。何となれば私はこれに就て科学の依て立つ所の最正確な立場に居りましたから。則ち私はそれを実見したのです。さて今日から例の講習であります。先生の態度が気に入りました。
みなさんによろしく。

 上の「海岸線」というのが、常磐線の昔の呼び名で、1901年から1909年までは正式の名称でしたが、国有化されて「常磐線」と改称されてからも、通称として一般の間では使われていました。
 賢治は「高浜」駅は千葉県かと思ったようですが、茨城県の下記の場所にあります。霞ヶ浦に注ぎ込む「恋瀬川」という川を渡る手前に位置しています。

 賢治がこのあたりを通過しようとしていた7月30日から31日にかけて、ちょうど関東地方は台風による豪雨災害に見舞われていました。
 『鉄道災害記事 自大正4至6年度』という本には、次のように書かれています。

 大正五年七月二十四日颱風呂宋ノ東方洋上ニ出現シ、東北東ニ進ミテ二十五日小笠原列島ノ南方ヲ通過シテ徐々北上シ、二十八日八丈島ノ東方海上ニ來リ、北西ニ轉ジテ二十九日房州ヲ横ギリ、更ニ相模半島ニ上陸シ、三十日本州中部ヲ横断シテ富山湾附近ヨリ日本海ニ去レリ。二十七日颱風八丈島ノ南東方海上ニ來ルヤ、房総地方ニテハ既ニ暴風雨トナリ、銚子ニテハ同日午前九時風速二十二米二ニ達シ、台風ノ中心房州ヲ通過スルニ當リ、布良ニテハ二十九日午後三時気壓七百三十粍七ニ下降シ、同日午後九時風速三十六米二ニ上レリ。而シテ颱風内陸ニ入ルニ及ビ著シク衰頽シテ勢力ヲ失ヒシト雖モ、関東地方多量ノ降雨アリ、東京、千葉、埼玉、栃木、茨城、山梨及ビ神奈川等ノ各府縣ニ洪水ヲ來タシテ被害惨状ヲ極メ、千葉縣下ノ如キ死傷者六十五名、家屋ノ全半潰二百三十三戸、船舶流失四十四艘、橋梁流失八十箇所、田畑浸水一萬八百町歩、浸水家屋二千餘戸ニ及ベリト謂フ、之ガ為メ鉄道亦房総各線及東北、兩毛、足尾線等ニ多大ノ被害ヲ生ジ、殊ニ房総線及ビ木更津線ハ殆ド各区間損害ヲ蒙リ、五井姉ヶ崎間ノ如キ八日間ニ亙リテ列車ノ不通ヲ見ルニ至レリ。

(『鉄道災害記事 自大正4至6年度』pp.40-41)

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 大変な暴風雨と洪水の被害があったようですが、この豪雨でも賢治が通った常磐線の方は、高浜駅で2時間臨時停車しただけで、何とか上野まで運行されました。

 これに対して、同じ頃に東北本線の方は、もっと深刻な事態になっていたようです。

     東北本線
 栗橋古河間●●●●●  二十八日以來ノ豪雨ハ三十日午後四時ニ至リテ利根川橋梁桁下十呎ニ増水シ、折柄上流約一哩ノ渡良瀬川堤防決壊セル為メ濁水滔々トシテ線路ヲ襲ヒ、中田信號所前後約一哩間ハ一面ノ泥海ト變ジ、尚刻々ト増水シテ同所附近軌條面上約一呎二吋ニ達シ、土砂流失四箇所八十五立坪、道床流失四箇所約百四十立坪ニ及ビ、列車ノ運轉危険ナルヲ以テ、遂ニ三十一日午前三時二十分運轉ヲ中止スルニ至レリ。而シテ益々狂奔スル濁流ノ為メ、同九時頃ニハ三十四哩五十九鎖ヨリ同六十鎖五十節ニ至ル線路湾曲シテ中田信號所側線共約十五呎右側ニ流出シ、三十五哩三十七鎖附近其ノ他線路築堤亦崩壊スルニ至リシカバ、直ニ之ガ應急修理ニ全力ヲ注ギテ線路ノ開通ヲ圖リタルモ、午前十時ニハ利根川橋梁桁下六呎迄増水シ、被害箇所ノ浸水容易ニ減退ノ模様ナカリシガ、同日午後一時頃ヨリ、利根川ノ水位一時間五分位ノ減水ヲ見ルニ至レリシヲ以テ、取敢ヘズ渡船連絡ノ方法ヲ講ジ、栗橋中田間三十四哩四十四鎖附近、及中田古河間三十五哩六十五鎖附近ニ乗降場、渡船場竝桟橋ヲ假設シ、八月一日午前六時十分第四〇二列車ヨリ旅客ノ連絡輸送ヲ開始セリ。而シテ一方應急工事ヲ急ギ、二日午前十一時三十分試運轉ノ後、下リ本線ノ徐行運轉ヲ開始シテ渡船連絡ヲ廢シ、次デ三日午後三時四十七分上リ線徐行開通、四日午前八時ニ至リ第二〇六列車ヨリ平時ノ運轉ニ復セリ。

(『鉄道災害記事 自大正4至大正6』pp.46-47)

 ということで、もしも賢治が同じ時刻に東北本線経由の列車に乗っていたならば、7月31日の午前3時20分以降は栗橋─古河間で不通になり、利根川を渡ることができるのは、翌8月1日に臨時の「渡船連絡」によって、ということになっていたわけです。そうなると、8月1日から始まる「独逸語夏季講習会」も、その初日には間に合わなかったことになります。

 20歳を目の前にした賢治ですが、台風来襲の最中の上京にもかかわらず、幸いにも経路の違いのおかげで、実質的な被害には巻き込まれなくて済んだわけです。

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現在の高浜駅(ウィキメディア・コモンズより)