去る3月1日に、愛知県田原市に賢治の短歌を刻んだ銘板が設置されたと聞きましたので、3月20日の春分の日に、見学に行ってきました。
渥美半島を詠んだ賢治の短歌 東三河在住の女性が市に寄贈(東日新聞)
下記が、その短歌銘板です。
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当日のお天気は良く、街は相変わらずの人出でした。
まずは「こだま」に乗って、東に向かいます。京都駅から「こだま」に乗るのは、意外と初めてかも。
1時間半ほどで豊橋駅に着き、ここで豊橋鉄道渥美線に乗り換えます。
豊橋鉄道渥美線の電車は、「カラフルトレイン」といって渥美半島を代表する花をモチーフとした様々なカラーリングがされていて、これは初立池公園や賀茂しょうぶ園にちなんだ、紫色の「菖蒲号」です。
新豊橋駅から35分で、終点の三河田原駅です。駅舎は、安藤忠雄建築設計事務所が手がけたという斬新な形です。
田原市は、幕末に活躍した渡辺崋山の出身地で、蛮社の獄の後に蟄居し切腹した屋敷跡も残されています。現在の市域は、平成の大合併などを経て、渥美半島のほとんどを占めるに至っています。
三河田原の駅舎を出て、900mほど北西の方向に歩くと、今回の銘板が設置された田原市中央図書館があります。
賢治の短歌の銘板は、通りからもわかりやすい外壁に設置されていました。
宮沢賢治(二十歳)が渥美を詠んだ歌
そらはれて
くらげはうかび
わが船の
渥美をさして
うれひ行くかな「農民芸術概論綱要」より
おれたちはみな農民である
ずいぶん忙しく仕事もつらい
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識して
これに応じて行くことである宮沢賢治
この銘板は、宮沢賢治を
敬愛する人より寄贈されたものです
銘板の形状は、「波や宇宙をイメージしたデザイン」だということです。板の素材はステンレスのようですが、マットなアクリル板で裏打ちされていて、たしかに「波」のような雰囲気を醸し出しています。
中日新聞の記事によれば、この銘板を匿名で寄贈された方は、これまで賢治の歌が刻まれた全国の碑を訪ねてこられたそうですが、愛知県内には見当たらないのが気になり、運転免許の返納を機に車の買い換えや燃料費として貯めていたお金を充てて、寄贈されたのだそうです。
同じく賢治の碑を愛する者の一人として、感謝感激に堪えません。
3月1日のお披露目の日には、設置を記念して、図書館で「宮沢賢治のおはなし会」が開かれ、図書館ボランティア「くぬぎの会」によって、「どんぐりと山猫」の紙芝居、「雨ニモマケズ」「よだかの星」の朗読、「星めぐりの歌」の歌が、上演されたということです。
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さて、賢治のこの短歌は、1916年(大正5年)3月に盛岡高等農林学校の修学旅行で関西地方を訪ねた帰途、3月29日に志摩半島の鳥羽から三河湾の蒲郡行きの汽船に乗った際に、詠まれたものです。
もとの「歌稿〔B〕261」のテクストでは、上記の4行目と5行目は1行になっており、最後には句点が付けられています。
261 そらはれて
くらげはうかび
わが船の
渥美をさしてうれひ行くかな。
上の句の「そらはれて/くらげはうかび」では、明るくのどかな海景が広がりますが、賢治を乗せた船は「うれひ行く」と描写されています。
だいたいにおいて賢治という人は、旅の終わりには憂愁にひたる傾向があったようで、たとえばこの年9月に秩父地方地質調査見学に参加した帰りにも、「東京よ/これは九月の青りんご/かなしと見つゝ/汽車にのぼれり」などの歌を詠んでいます。
ところで、この時に賢治が乗った汽船について、『新校本全集』第16巻下「補遺・伝記資料篇」p.218には、鳥羽発午前6:30、蒲郡着12:00という時刻が掲載されています。
この頃の鳥羽─蒲郡間の汽船の運航時刻は頻繁に改定されたようで、国会図書館デジタルコレクションで調べてみた範囲では、1913年刊行の『海之世界7(1)』p.55には鳥羽発6:50で蒲郡着12:40、1916年刊『蒲郡』p.82には鳥羽発6:00で蒲郡着11:30、1913年刊『鉄道汽船旅行案内 第6巻第12号』p.75には鳥羽発6:30で蒲郡着12:45という時刻が記されています。
また、1913年刊行の『篠島』という本には、下記のような時刻表が掲載されています。
これによれば、鳥羽を午前6時に出航した汽船は、途中で二見、師崎、篠島、福江に寄港して、蒲郡に10時40分着となっています。
その航路を地図で見ると、下のように「➀鳥羽」から「➁二見」を経て、伊勢湾に出た汽船は、対岸の知多半島先端にある「③師崎」に寄港し、次いで知多半島と渥美半島の中間部に浮かぶ「④篠島」を経て、渥美半島の「⑤福江」に寄り、終着の「⑥蒲郡」に至るというルートになります。
ちなみに賢治の「歌稿〔B〕」では、上記の261「渥美をさして」の次に、知多半島が出てくる下記の二首が続きます。
262 明滅の
海のきらめき しろき夢
知多のみさきを船はめぐりて。263
蒼溟 の
ひかりはとはに明滅し
ふねはまひるの
知多をはなるる。
時刻表や地図のように、船は知多半島に寄港した後に渥美半島に寄るのですが、短歌の配列では、「渥美」の後に「知多」が出てくるという順番になっています。
これは、二見港を出た船の眼前にはまずは渥美半島が迫ってくるので、賢治は短歌261では「渥美をさして」と詠み、伊勢湾を渡った船が知多半島の師崎に寄港するあたりで、262「知多のみさきを船はめぐりて」、263「ふねはまひるの/知多をはなるる」と記したのかと思われます。
ところで当時、東日本から伊勢神宮に参拝するには、東海道線の名古屋回りで行くよりも、蒲郡からこの汽船に乗った方が、所要時間は半分の上に運賃は三分の一ということで、相当に人気の航路だったようです。上記『篠島』では、次のように謳われています。
- 本航路の賃金は陸路の殆んど三分の一、時間は陸路より早きこと其半にて足れり
- 航路は伊勢湾内絵巻物を展るが如き頗る風光の明媚なる渥美湾内にありて海上常に油を流す如く平穏にして実に愉快なる航海なり
賢治の短歌においても、「そらはれて」「海のきらめき」「ひかりはとはに明滅」などと、美しい風光が印象的です。
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さて、田原市からの帰り道では、豊橋駅にある「壺屋」というそば・うどん店で、きしめんとミニみそカツ丼のセットをいただきました。
醤油のきいただしとコシのあるきしめんに、甘い八丁味噌のかかったカツ丼の取り合わせで、美味しくいただきました。
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また本日、当サイトの「石碑」のコーナーに、「渥美をさして」短歌銘板を追加しました。
これで、当サイトに掲載している文学碑は、計166基となりました。
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