賢治と軍歌

 博愛主義で殺生を嫌った宮沢賢治のイメージからすると、「軍歌」などというのはあまり似つかわしくない感じですが、少年時代の賢治は、けっこう好んで軍歌を歌っていたようです。
 妹シゲの回想録『屋根の上が好きな兄と私』には、盛岡中学時代の賢治の次のようなエピソードが記されています。

 兄は声が良かったかもしれません。それとも或る感情を込めて歌う節まわしが良かったのでしょうか。何か引き付けられる歌い方でした。
 中学生になった始め頃、 冬休みに帰省した時、祖父や両親や私たち姉妹が久しぶりの兄を囲んで炬燵こたつに当たっていました。
 兄は「軍歌を歌うっか。」と言い、初めに歌ったのが「戦友」です。 
 ここはお国を何百里 離れて遠き満州の……あの歌でした。皆んなシーンとして聞きました。途中でおじいさんはタラタラ涙をこぼしました。

(蒼丘書林『屋根の上が好きな兄と私』p.11)

 また弟の清六は、賢治から軍歌を教わったということです。

 中学校二年生の兄から、私は土井晩翠の「秋風五丈原」を教えられたことがあって、今もまだその難しい曲と長い歌詞をかなり正確に覚えている。これは美声だった体操教師が生徒にうたわせた軍歌を、賢治がよくおぼえて来て私たちに教えたのであった。

(宮沢清六「兄賢治の生涯」:ちくま文庫『兄のトランク』p.245)

 さらに、中学時代に親友だった阿部孝は、次のように回想しています。

 ついでに言うと、賢治の美声は、少年のころから、自他ともに許していたもので、中学時代によく一緒にうたった歌曲のなかで、賢治のうまい節回しが今だに耳に残っているものには、当時青少年に愛唱された土井晩翠作「星落秋風五丈原」や、一時全国を風靡した永田錦心流薩摩琵琶の「石童丸」のサワリや、それから軍歌「橘大隊長」などがある。

阿部孝「自作演出の賢治」(『四次元』200号p.157)

 賢治が生まれる直前には日清戦争があり、8歳の時に日露戦争が、18歳には第一次世界大戦があって、国全体が戦勝に沸き、軍歌が流行する時勢の中で生まれ育ったのですから、彼も一人の「時代の子」だったということなのでしょう。

 しかし、盛岡高等農林学校に進学して以降は、それほど軍歌を歌っていたという話は伝え聞きません。
 大人になってからは、西洋のクラシック音楽に熱中したり、浅草オペラにはまったり、音楽のさらに広い領域に視野を広げていったようです。

 ただそれでも、後に賢治が劇や童話のために作った歌曲からは、むかし親しんだ軍歌の残響が、さまざまな形で聞こえてきます。
 兵隊たちをユーモラスに描いた劇「飢餓陣営」の最後で歌われる「バナナン大将の行進歌(いさをかゞやくバナナン軍)」は、明治後半に流行した軍歌「教導団歌」の替え歌ですし、尾原昭夫氏が鋭くも指摘をしておられるように、童話「月夜のでんしんばしら」に出てくる「月夜のでんしんばしらの軍歌」の一節は、日清戦争時の軍歌「討てや懲らせや」の一節と、ほぼ一致しているのです(『宮澤賢治の音楽風景』p.44)。
 下記で、お聴き比べ下さい。

月夜のでんしんばしらの軍歌

ドツテテドツテテ、ドツテテド、
でんしんばしらのぐんたいは
はやさせかいにたぐひなし
ドツテテドツテテ、ドツテテド
でんしんばしらのぐんたいは
きりつせかいにならびなし。

討てや懲らせや

討てや懲らせや清国を
清は御国の仇なるぞ
東洋平和の仇なるぞ
討ちて正しき国とせよ

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(楽譜は尾原昭夫『宮澤賢治の音楽風景』p.44より)

 すなわち、「月夜のでんしんばしらの」における「でんしんばしらのぐんたいは はやさせかいにたぐひなし」の部分の旋律は、「討てや懲らせや」における「清は御国の仇なるぞ 東洋平和の仇なるぞ」の旋律と、ほとんど一致しているのです。これは明らかに、偶然ではない関係があるものでしょう。
 賢治が子供の頃に何度も耳にしたメロディーとリズムが、知らず知らずのうちに、ここに現れたのでしょうか。

 ところで上の「討てや懲らせや」の演奏は、7月26日の夏季セミナーのために、今回とりあえず Vocaloid で作ってみたものです。YouTubeには、昔の軍歌なども多数アップロードされているのですが、1894年に作られたという「討てや懲らせや」は、さすがに見つかりませんでした。

 しかしまあ昔のプロパガンダとは言え、「討ちて正しき国とせよ」とは、何とも一方的で独善的な言い草ですね。