鳥となって兄を守る妹

 先週の「「トシの行方」の二系列」という記事を書きながら、谷川健一著『日本人の魂のゆくえ 古代日本と琉球の死生観』という本を、興味深く読みました。

日本人の魂のゆくえ―古代日本と琉球の死生観 日本人の魂のゆくえ―古代日本と琉球の死生観
谷川 健一
冨山房インターナショナル 2012-06-01
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 この本の帯には、次のような文が書かれています。

誕生と死は、日本人にとって
どのようなものであったのか
死者、祖霊、神はいつも生者の傍らにあって、
ともに遊んだそこには、死者を永久に閉じ込める息の
詰まる世界はない

 著者の谷川健一氏はこの本で、日本の神道が死者を「ケガレ」として忌避し生者から遠ざけるようになる以前の古い信仰、あるいは「ニライカナイ」が海の彼方の遠い異界と考えられるようになる以前にもっと近しく存在すると考えられていた時代の死生観を、様々な証拠をつなぎ合わせて掘り起こそうとしておられます。
 「死者がいつも生者の傍らにある」というイメージが、実は我々の古層に存在するのではないかというのが著者の主張の一つなのですが、それは賢治が死んだトシに対してある時期から抱いていた感覚にも通ずるのではないかと、かねてから私が考えてきたところでもあります。
 この本における議論はさらに広範で奥深く、とてもここで私が簡単にまとめられるようなものではありませんが、本を読んでいるうちにいくつか賢治との関連で面白く感じたところがありました。

 一つは、同書の「青の島とあろう島」という章で述べられていることですが、古い時代の琉球の人々は、自分たちが住む島からすぐ目の前の「地先の島」に死者が住んでいると考え、そこを「青の島」「アウの島」「奥武(おう)の島」などと呼んでいたが、後世になって死者が住むのは水平線の彼方の「ニライカナイ」と考えるようになったのではないか、という話です。
 すぐ目の前の青い島に「他界」を見るというのは、賢治の作品で言えば「〔つめたい海の水銀が〕」の下書稿(二)「島祠」において、修学旅行の帰途の列車から陸奥湾に浮かぶ「湯の島」を見て、次のように「竜宮」を思ったことと、偶然にも相似形を成しています。

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 トシの死後約1年半が経って、賢治はこの「湯の島」に「青の島」を見たのでしょうか。

東北本線から見る「湯の島」
東北本線から見る「湯の島」

 そしてもう一つは、同書の「挽歌から相聞歌へ」という章において引用されていた、下のような「シマウタ」です。これは、奄美大島南部において、死者の棺の前で歌ったり、墓を弔う時に歌ったりする「行きよれ節」と呼ばれる唄だということですが、私はこれを読むと賢治の「白い鳥」を連想せずにはいられません。

なごびらぬちぢに
白鳥(しらとり)ぬゐしゆり
白鳥やあらぬ
美代貞主がたまし

(訳)
なご坂(びら)の上に
白鳥が坐っている
ただの白鳥ではないよ
美代貞(人名)主の魂だよ

 賢治自身は「白い鳥」において、ヤマトタケルの白鳥伝説を引用し、また「死者が鳥になる」という説話は『遠野物語』にもいくつも収められていることは、前回もご紹介したとおりですが、南島地方にもまさに同型の信仰があったわけです。

 またこれとよく似た歌を、伊波普猷が1927年に『民族』誌に発表した論文「をなり神」において、次のように紹介して解説しています。

 南島人は、航海中、海鳥が帆桁などに止まるのを、縁起のいゝことゝした。例へば琉歌の中にもかういふのがある。

御船の高艫に    (船ノ高艫ニ)
白鳥が居ちよん   (白イ鳥ガ止マツテヰル)
白鳥やあらぬ     (白イ鳥デハナイ)
おみなりおすじ    (姉妹ノ生御魂ダ)

 それは南島中、どこでも謡はれてゐる歌である。「おみなりおすじ」は、「をなり神」の同義語である。「すじ」は「せぢ」と同語で、聖化されたものゝ義だから、「おすじ」に稜威・霊あるもの・神のやうなものゝ義のあることは、いふまでもない。
 かうして白鳥(海鳥)が「をなり神」の象徴になったことは、近代のことではない。「屋良ぐわいにや」にも、亦同じ思想があらはれてゐる。この「くわいにや」は三十行のもので、こゝには出すことが出来ぬが、海外に派遣されることになつた屋良村の地頭が、縁起のいゝことに、屋良の浜辺で、金銀を咥へてゐる海鳥を捕獲して、それを金銀製の籠に入れ、首里の都に上つて、国王と其世子とに献上する迄のいきさつを歌つたものである。詩句のきれる毎に、「をなり、やあらあ、やう(姉妹なる屋良よ)あむしいたあ(女等よ)」と囃子をなすところから考へて見ても、海鳥がやはり「をなり神」の象徴であつたことが知れる。

 つまり、南島では船の帆桁などに白い鳥が止まるのを吉兆と見るということなのですが、その理由は、白い鳥のことを「おなり神」の象徴だと考えるからだというのです。ここで「おなり神」とは、妹が兄に対して持つとされる力の神聖化で、たとえば Wikipedia の「おなり神」には、「妹(をなり/おなり/うない)が兄(えけり)を霊的に守護すると考え、妹の霊力を信仰する琉球の信仰」と書かれています。琉球においては、兄と妹の関係に、特別なものを見ていたのです。

 さてこのように、「白い鳥」という存在が、ヤマトタケル伝説のように「死者一般」の象徴であるばかりでなく、「兄を守る妹」の象徴であるのだとすれば、トシの死後の賢治の「鳥」に対する特別な思い入れが、ここでまたぐっと違った意味を持って迫ってきます。
 彼はトシの死後7か月の「白い鳥」で、かなしく啼く白い鳥を見て、「それはわたくしのいもうとだ/死んだわたくしのいもうとだ/兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」と詠嘆したことを皮切りに、さらに2か月後の「青森挽歌」でも妹が「いつぴきの鳥になつただらうか」と想像し、さらに1年7か月後の「鳥の遷移」では「わたくしのいもうとの/墓場の方で啼いてゐる」鳥を特別な関心のもとに描き、また翌月の「〔この森を通りぬければ〕」(下書稿(二)の題名は「寄鳥想亡妹」)では、鳥の啼き声の中に「死んだ妹の声」を聴くのです。

 そして、今回私はあらためて気がついたのですが、賢治が亡きトシに関して何か大きな心境の転換を成し遂げたと思われる北海道修学旅行の帰途(「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」参照)、まさに賢治が乗っていたその船の「船首マスト」には、かもめ(=白い海鳥)がやってきていたのです!
 これこそが、南島においては兄を守る妹の魂の化身であり、「おなり神」と呼ばれる存在だったのです。

 さて、このように明らかな対応が認められるのですから、賢治はきっと、「妹の魂は鳥になって兄を守護する」「船の帆桁に止まる鳥は妹の魂であり幸いをもたらす」という沖縄地方の信仰を知っていたのではないかと、ここはどうしても考えたくなってしまいます。
 しかしながら、前回の記事にも書いたように、それは現実にはなかなか考えにくいのです。

 伊波普猷が1911年に刊行した『古琉球』では、まだ「ニライカナイ」や「おなり神」の問題には触れられておらず、柳田国男が1921年に朝日新聞に連載した「海南小記」にも、これらは登場しませんでした。折口信夫が1923年に著した「琉球の宗教」には、「妹(ヲナリ)おがみ」という言葉が一箇所出てきますが、上記のようなその信仰内容については、明らかにされていません。
 伊波普猷が、これらの問題について明確な解説を行った『琉球聖歌おもろさうし選釈』と「をなり神」を発表したのは、それぞれ1924年12月と1927年で、賢治のサハリン行よりも北海道修学旅行よりも後のことでしたし、柳田国男が伊波の「をなり神」に触発されて「玉依彦考」を発表したのは、賢治の死後の1940年のことでした(1940年刊『妹の力』所収)。
 そもそも、賢治が沖縄地方の文化や宗教について、多少なりとも関心を持っていたということを私は知りませんし、仮に深く興味を持って文献を読もうとしていたとしても、上記のような時代的制約から、それは不可能だったと思われるのです。

 そうなると、賢治が数々の作品において、亡きトシと鳥とを結びつけてとらえていたのは、単なる偶然の一致にすぎなかったのか、はたまた何か彼の心の底にある「集合的無意識」が働いたのか、それとも私が調べえた以外に、琉球の信仰と賢治をつなぐ何かの「糸」が存在するのか、今の私にはこれ以上は不明です。

 しかしそれにしても、不思議を感じている今日この頃です。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
・・・・・・・