果てしない旅人

 盛岡高等農林学校3年の1917年7月1日、賢治は学友とともに同人誌『アザリア』を創刊しました。その第一号に賢治が寄稿した短篇「「旅人のはなし」から」は、彼が生涯で初めて発表した散文作品です。
 この作品は、語り手「私」が過去に読んだ「ある旅人の話」の内容を、思い出すままに綴ったという形式で書かれていて、旅人が経験したという様々な出来事が、走馬灯のように流れていきます。途中で旅人は、子供の身代わりになって死んだり、男や女や木に恋をしたりもします。
 なかでも、この旅人が経験する出会いと別れには、深い孤独感が漂っています。

 旅人は行く先々で友達を得ました。又それに、はなれました。それはそれは随分遠くへ離れてしまった人もありました。旅人は旅の忙しさに大抵は忘れてしまひましたが時々は朝の顔を洗ふときや、ぬかるみから足を引き上げる時などに、この人たちを思ひ出して泪ぐみました。
 どうしたとてその友だちの居る所へ二度と行かれませうか、二つの抛物線とか云ふ様なものでせう。

(「「旅人のはなし」から」)

 そして「旅の終り」が近づき、旅人は立派なお城のある美しい国にやってきました。実は旅人はこの国の王子で、父である王様は王子のために、この国を作って待っていたのです。王様は、帰ってきた我が子を抱いて迎えたのですが、旅人は再び旅に出て行ってしまいます。

王子は永い旅に又のぼりました、なぜなれば、かの無窮遠のかなたに離れたる彼の友達は誠は彼の兄弟であったからでありました、それですから今も歩いてゐるでせう。

(「「旅人のはなし」から」)

 そして最後は、もしも旅人が盛岡高等農林学校にやって来たならば、「まづ標本室と農場実習とを観せてから植物園で苺でも御馳走しようではありませんか」と、学友に呼びかけて終わります。

 この短篇を発表した1917年7月、賢治は盛岡高等農林学校の最終学年を迎えていました。夏休みが終わって秋になると、彼は得業論文の研究と執筆に日夜追われることになるでしょう。この年の夏は、長男として家業を継ぐべき自分に対して、父親が与えてくれた猶予期間モラトリアムの、その最後の日々となるのです。
 これまで賢治は、学業に、信仰に、文学に、友との交流に、野山の逍遙に、夢中になって打ち込んできましたが、青春を謳歌したその歳月の終わりは、もうすぐそこに迫ってきています。旅人は「旅の終り」を否応なく意識し、その終着点には、父親の経営する「立派なお城」が故郷花巻で待っているのです。

 しかし賢治は、やはりどうしても父親のもとで家業を継ぐことには、抵抗感があったのでしょう。
 「「旅人のはなし」から」において、旅人が王様の城に留まらずに旅を続けた理由は、「かの無窮遠のかなたに離れたる彼の友達は誠は彼の兄弟であったから」だというのです。現世で実の父子である王様と王子の関係よりも、輪廻転生の過去世における「兄弟」の縁の方を、旅人は重視したのでしょうか。
 否、旅人は再び続ける旅において、またたくさんの「友達」に出会うでしょうが、彼らともやがてまた離れ、「大抵は忘れて」しまうことでしょう。
 旅人は、現世の父子の縁を重視するわけでもなく、また過去世の兄弟の方を重視するわけでもなく、ただいずれにも平等に執着せずに、出会っては離れることを繰り返し、時には思い出して泪するのでしょう。

 ここには、後に妹トシを失った苦悩の末に至った、「みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない」(「青森挽歌」)という考えの萌芽を見ることもできます。

 ところで、「「旅人のはなし」から」の直後の1917年7月18日に刊行された『校友会会報』第三十四号に、賢治は「黎明のうた」と題された九首の歌を発表しています。その九首の最後に置かれた歌は、「五・七・七・五・七・七」という形式を持つ、次のような「旋頭歌」でした。

たびはてん 遠くも来つる 旅ははてなむ 旅立たむ なべてのひとの 旅はつるまで。

 「旅は終わりだ、遠くまで来たものだ、旅は終わろうとしている」という上の句に続いて、「旅立とう、全ての人の旅が終わるまで」という下の句が置かれています。
 旅が終わると思ったら、またすぐに旅立とうという、何とも慌ただしい歌ですが、これはちょうど上に見た「「旅人のはなし」から」において、旅人が王様の国に到着して、旅が終わりそうになった時に、再び「永い旅」に出て行ったという物語と、同型です。

 ほとんど同時に発表された「「旅人のはなし」から」と「黎明のうた」ですから、この二つは深く繋がっていると考えるべきでしょう。後者は前者に対する「反歌」のような役割を担っていると、とらえることもできると思います。
 加えて、こちらの旋頭歌によって明確にされているのは、旅人が再び旅立つ目的は、「なべてのひとの旅はつる」ことにあるのだという点です。

 この旅人の「旅」とは、途中で死も経験したり、「友達」が本当は「兄弟」だというのですから、生き物が生死を延々と繰り返す、「輪廻転生」の旅のことでしょう。
 そして、「全ての人にとって輪廻転生の旅が終わる」ということは、仏教的には「全ての人の成仏が完了する」ことを意味しており、すなわち「我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」(『法華経』化城喩品第七)という、仏教の最終的な目標が成就することにほかなりません。

 つまり、「「旅人のはなし」から」において、旅人が父王のもとに留まらず、兄弟であるところの彼の友達(=そして実は、永劫のうちに一度は兄弟だった全ての衆生)のために旅を続けたことには、このような宗教的な意味があったわけです。

 すなわち、賢治が遠からず盛岡高等農林学校を卒業するという時期に、「「旅人のはなし」から」や「黎明のうた」を書いた背景には、本当は家業の跡継ぎよりも優先したかった、このような出世間的な宗教的志向性があったのだろうと思います。

 しかしまたそれと同時に、「「旅人のはなし」から」の最後に盛岡高等農林学校が登場したり、「友達」が出てきたりしている理由としては、青春時代を過ごした学校や、保阪嘉内をはじめとする親友たちに対して、賢治が離れがたい現世的な愛着を抱いていたからだろうとも思うのです。

(下の写真は、そのような青春の一コマとして、寮の同室者が学校の植物園で撮影したものです。5人並んだ中央に座っているのが賢治で、手前で腹ばいになっているのが保阪嘉内です。後ろにはうっすらと岩手山が見えています。)

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盛岡高等農林学校植物園にて(山梨県立文学館「宮沢賢治 若き日の手紙」より)