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原体地区逍遙(2)

 前回の記事を書いた後に気づいたのですが、「原体剣舞連」詩碑にはめ込まれたあの見事なブロンズのレリーフを制作されたのは、この地区出身の世界的彫刻家で、醍醐橋南の「原体には美しき四季がある」という石碑(前回の写真参照)を揮毫された、小野寺玉峰さんだったんですね。
 あらためて別の角度からのレリーフの写真と、詩碑台座の銘板を貼っておきます。

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 さて前回は、「豊饒准平原」という碑の前で、「夢の里工房はらたい」の米パンを食べたところまででしたが、休憩を終えると、引き続き自転車で伊手川に架かる「舘前橋」を越えて、川の西側の山手に向かいました。

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 前回の繰り返しになりますが、賢治が原体村で剣舞を見たのは、「杉の大木に囲まれた神社の庭」だったという高橋秀松の証言があり、さらに『同窓生が語る宮澤賢治』には、この神社は「原体村から、近くを流れる伊手川の橋を渡り約2kmのところにある大山祇神社(虚空蔵堂)である」と書かれています。
 また、文教大学の鈴木健司さんのご教示によれば、『宝城寺史』という文書に、原体剣舞は「宝城寺、虚空蔵堂、長根坂石碑群前の三ヶ所で踊ったと伝わっている」という記載があるということで、これも『同級生が語る宮澤賢治』の記述と矛盾しません。ただし残念ながら、「現在は、踊り手の子どもの減少などが原因で途絶えている」ということです。
 また、小形信夫著『念仏剣舞 発生・伝播・変容と資料』(東日本ハウス文化振興事業団、2002)という本には、「原体剣舞は八月十三日菩提寺の宝城寺で供養した後、新盆の家庭などを回り、翌日から十六日迄岩谷堂の町で門付けをして回る慣習であった」とあり、こちらには大山祇神社は出てきませんが、やはり宝城寺は確かなようです。

 ということで今回は、かつて原体剣舞が舞われていたという情報のある「大山祇神社」「宝城寺」を訪ね、さらに「長根坂石碑群」という記載についても何か探ってみたいと思います。
 上写真の道をまっすぐ西に向かって走り、山の手前で右折してしばらく行くと、鳥居とともに「大山祇神社/虚空蔵菩薩」の方に入る案内板が出ています。

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 この鳥居の向こうの道を進むと、またもう一つ鳥居があって、その奧が「大山祇神社」です。

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 高橋秀松が「杉の大木に囲まれた神社」と書いている、まさにそのとおりの佇まいですね。

 ところでこの神社は、「大山祇神社」と呼ばれつつ、同時に「虚空蔵菩薩」という仏教の菩薩の名前も併記されているのが、ちょっと不思議な感じがすると思いますが、もともとここは「虚空蔵菩薩堂」を中心に神仏混淆的(おそらく仏教寄り)な祭祀が行われていたのが、明治維新後の神仏分離令を受けて、「神社」として再出発したという経緯なのです。
 『原躰郷土史』によれば、その創建は鎌倉時代末の1325年(正中2年)に、このあたり一帯を支配していた及川氏が、虚空蔵堂を建てたことに始まるということです。1414年にいったんお堂は焼失しますが、1416年に再建され、足利将軍から太刀を拝領したという記載もあります。お堂の柱には、元禄5年(1692年)の落書きが残っているということで、江戸時代の絵馬も所蔵しており、地元の篤い信仰を集めつづけていたのだと思われますが、上述のように明治時代初頭に、神仏分離令への対応を迫られます。
 これについて『原躰郷土史』には、次のように書かれています。

 現在の大山祇神社の社殿は、神仏分離により、明治三十年(一八七〇)に本尊の虚空蔵様を、神鏡と取り替えて神社としたもので、後に明治二十年(一八八七)当時の宮大工として有名な、花巻の高橋寛治郎の手で奥の院が完成し、虚空蔵様を祀って現在に至ったものである。

 ちなみに、北上山地の懐にある社寺が、近世までは神仏習合的な仏教寺院で、幕末~明治維新頃から神社になっているというのは結構よく見られる現象で、花巻の「胡四王神社」も幕末までは「医王山 胡四王寺」でしたし、成島の兜跋毘沙門天がある「三熊野神社」も、日本固有の神ではなくインド由来の仏教の守護神である毘沙門天が祀られているわけです。伝統的に、北上山地では山伏の修験道が盛んで、その祭祀は多分に神仏混淆の形態をとっていたので、各社寺もその影響を色濃く受けていたためかと思われます。
 この「虚空蔵堂」が「大山祇神社」になったのも、神仏分離以前から行われていた山岳信仰的な実態を反映して、山の神様である「大山祇オオヤマツミ」を祭神にしたという経緯が推測されます。

 さて、神社に入ると、境内はこんな感じです。

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 この境内のどこかで篝火が焚かれ、剣舞が奉納されて、賢治はホーホーと言いながらそれを眺め、手帳に短歌をメモしていたのでしょう。
 下写真は、境内を反対側から見たところです。杉の木に存在感があります。

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 社殿の後ろに回って石段を登ると、奥の院があります。

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 上述の『原躰郷土史』にあったように、やっと明治20年になってこの奥の院が建てられ、あらためて虚空蔵様が祀られたということですが、明治3年からそれまでの間は、虚空蔵菩薩像は誰かの個人宅で隠匿され、廃仏毀釈の嵐が去ってからようやく公の場に戻せたということなのでしょう。

 さて次は、ここから山裾に沿ってさらに北に行った場所にある、「宝城寺」です。自転車なら、10分もかからないほどです。

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 ここは曹洞宗のお寺で、山号は「玉峰山」です。彫刻家の小野寺玉峰さんの号は、このお寺から採られたのでしょうか。
 境内はこんな感じで、やはりここでもかつては原体剣舞が舞われていたのでしょう。

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 こちらにも「杉の大木」は数本だけ、まばらに立っていますが、「杉の大木に囲まれ」という風情ではありません。何よりも、高橋秀松は「杉の大木に囲まれた神社」と書いているわけですから、やはり彼らが原体剣舞を見たのは、大山祇神社だったと考えるべきでしょう。

 ちなみに『原躰郷土史』によれば、明治初期の廃仏毀釈の嵐は、この宝城寺にも及んだようで、維新後まもなく宝城寺の住職と家族は迫害を逃れるために姿を隠し、檀家の人々は、寺に残された本尊や、古仏、涅槃像、木魚、鐘、燭台、過去帳などに加えて、鍋や味噌桶などの什器に至るまで、貴重な所蔵物を守るために全ての目録を作り、家々で預かったということです。そして、歳月が流れて騒動が収まると、全ての品物はお寺に戻されて、本堂修理も行われたということです。

 さて、これで「大山祇神社(虚空蔵堂)」と「宝城寺」を見ることができましたが、個人宅以外で原体剣舞が舞われた場所として、『宝城寺史』にはもう1か所、「長根坂石碑群前」というのが記されていました。
 「長根坂」というのは、虚空蔵堂の南側を通って、低い峠を越えて西隣の餅田地区の方へ抜ける坂道で、途中に「長根坂」という奥州市バスのバス停もある場所です。
 このあたりにある「石碑群」の一つの候補としては、『原躰郷土史』p.12に記されている「虚空蔵塚」という場所が考えられ、そこには五輪塔の片割れのような石碑も残っているらしいのですが、民家の裏手のような場所らしく、勝手にウロウロするのも憚られましたので、今回は長根坂を上りきった場所にある、「五位塚」という墳丘群を訪ねてみることにしました。
 下の写真が、長根坂から五位塚への入口で、西から東の方を見ています。

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 ピンク色の旗が立っているところに木の階段があって、これを登れば山の懐の「塚」に行けるようになっています。

 そもそも「五位塚」というのは、奥州藤原氏初代の清衡の父親である藤原経清(従五位下の官位を持っていた)と、その一族が埋葬されている墓所で、その傍らには下のような石碑も建てられています。

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従五位下藤原経清公慰霊
五輪塔建立供養願文

 従五位下藤原朝臣経清公は現宮城県亘理郡地方を支配する朝廷方の豪族なりしも縁ありて奥六郡主安倍頼良の女子を娶り安倍と姻戚関係を結びし
 前九年の役の当初源氏方に組せしがこの姻戚関係を疑われ安倍貞任と合力黄海の戦いに源氏を撃滅するなど大いに活躍し源氏の攻撃を何度も撤退させぬ
 経清公は奥六郡を朝廷の支配下から独立せし日高見国に形成したいと強く望みその経綸に掛ける熱情誠に清冽にして厳峻なり
 しかるに出羽の豪族清原氏の参戦により遂に安倍氏は滅亡し藤原経清公も盟友安倍貞任共々厨川の露と消えぬ
 時康平五年(西暦一〇六二年)九月十七日也
 その子藤原清衡公は亡父始め戦乱により生命を落とした多くの衆生の菩提を弔うためにこの地に上円下方墳の墳墓を築造せし人生半ばにて清衡公は平泉に居を移せしもその後も地元住民経清公の供養を永く続けて参れりし
 経清公が無念のうちに厨川に命を落として以来星霜九百四十年の歳月が流れしを記念し餅田史跡保存会中心となり餅田地区住民が一致協力し田原地区民の支援と市内多数の有志の協賛の下藤原経清公慰霊五輪供養塔を建立するところとなれり
 仰ぎ願わくば阿弥陀如来施主等が供養の丹精を哀愍納受し藤原経清公始め関係諸精霊の幽塊忽ち極楽浄土七宝荘厳の八葉蓮台に登らせ賜わんことを
 兼ねては信心の施主協賛の各位
現世安穏 後生得楽 乃至法界 平等利益

平成十四年九月十七日
      多聞寺住職 和光 敬白
発起人 餅田史跡保存会 会長 佐藤慶之進
       ほか役員一同

 この「五位塚」の場所は、原体地区とその西隣の餅田地区の境界上にあるのですが、後述のように藤原経清や清衡が住んだ「豊田館」の遺跡は餅田地区にあることから、餅田の方々の経清公に対する思いの深さが表れているような文章です。

 そもそもこれは、原体剣舞そのものの「目的」にも関わってくることですが、『原躰郷土史』の「原体剣舞」の項目には、次のように記されています。

 原躰剣舞が稚児剣舞(子供剣舞)で、女児も加わる所以として、「奥州平泉初代藤原清衡が豊田館に在ったとき、清原家衡の襲撃を受け一族郎党皆殺しの目に遭い、それを逃れることができた清衡が、一族の怨霊を供養するために剣舞を演じさせ、とくに亡き妻と子の怨霊供養を厚くするため女子と稚児の演ずる剣舞となった」と伝えられている。(p.272)

 この地域の剣舞が始まった時期としては、小形信夫著『念仏剣舞 発生・伝播・変容と資料』によれば、「原体剣舞」が慶応元年(1865年)の創始、原体に剣舞を伝えた「増沢剣舞」は文政10年(1828年)に「伊手地の神から伝えられた」との伝承があり、その伊手地区の「寺地剣舞」は享保5年(1720年)以来、とされていますので、上記の「藤原清衡が剣舞を演じさせた」という踊りが、そのままこの地区の近世以降の剣舞につながっているとは考えにくいでしょう。しかし、上記のように江戸時代の後半からこの地で剣舞が行われるようになると、舞手やそれを見る人々の間では、自分自身の近親や先祖の供養とともに、このあたりの地域の歴史的英雄であった、藤原清衡一族の非業の死を鎮魂するという思いも、次第に込められていったということは十分にありうることとと思われます。
 そうであれば、平泉に移る前の藤原清衡が、「亡父始め戦乱により生命を落とした多くの衆生の菩提を弔うために」築造したこの五位塚の墳墓は、そのような舞いを奉納するのに、うってつけの場所と言うことはできます。

 ……などということを考えながら、五位塚に続く道を登って行きました。

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 そして、少し開けたところにある藤原経清の墳墓とされる塚には、下のような五輪塔が建っていました。

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 道沿いのここかしこに、「藤原経清/藤原清衡 ゆかりの地」というピンクの旗がはためいていますが、こんな山奥の墳墓がこれほどに飾り立てられている理由は、1993~1994年に放映されたNHK大河ドラマ「炎立つ」で、藤原経清や清衡が主人公として取り上げられたからです。藤原経清は渡辺謙が、清衡は村上弘明が、源義家は佐藤浩市が演じていたこの大河ドラマを契機に、この少し北の方には歴史テーマパーク「えさし藤原の郷」が建設され、今でも観光地となっていますので、この地域にとっては大きなエポックだったことと思います。

 藤原経清のお墓に参拝すると、長根坂の頂上からそのまま自転車で一気に西に下り、餅田地区にある「豊田館跡とよだのたちあと」に向かいました。
 この「豊田館」というのは、上にも出てきた藤原経清と、その息子である藤原清衡が住んでいたとされる館です。

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 林の向こうの高台に出ると、江刺地区の街並みが見渡せます。

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 右端に見える説明看板には、次のように書かれています。

   豊田館について

 豊田館は、亘理権太夫藤原経清その子清衡(平泉藤原氏初代)の館であった。
 経清は、田原の藤太と呼ばれた藤原秀郷の子孫といわれ、初め宮城県亘理地方を支配する国府の官人であったが、後に奥六郡の主安倍頼時の娘婿となり、豊田館に住まいした。
 平安朝廷と安倍氏の戦いである「前九年の役」で、経清は初め朝廷軍の将、源頼義、義家父子の麾下に属したが、途中から義父安倍頼時に味方し、源氏とこれを援ける秋田の清原氏の連合軍と戦い、最後は厨川で敗れ処刑された。時に康平五年(一〇六二年) 清衡七才であった。母は清衡を連れて敵将清原武貞の後妻となった。
 二十年後、清原氏の内訌から起こった「後三年の役」に、義家の援けを受けて勝ち残った清衡は、豊田館に帰り奥羽を治めたが、康和年間(一〇九九~一一〇三年)に平泉へ移り、藤原四代の祖となった。
 安永三年(一七七四年)銘の石碑に、ここが藤原経清、清衡父子の館跡であり、付近に舟橋の地名や、高水寺跡、延喜式内の鎭岡神社、白旗の池がある、ときざまれている。
             江刺市

 ということで、ここからの眺めにしばし藤原経清の時代の奥州を偲んだ後、帰途につきました。
 帰り道は、ほぼ真南に4kmほど進むと、水沢江刺駅ということになります。下写真は、田んぼの中に見えてきた水沢江刺駅です。

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 水沢江刺駅西側の「奥州市伝統産業会館」に自転車を返却しに行くと、実際にはレンタル時間は4時間を過ぎていたにもかかわらず、4時間未満の料金「300円」にサービスして下さいました。感謝です。
 またこのあたりを訪ねる機会があれば、ぜひ利用したいと思っています。

 ところで今回の旅行では、飛行機や電車の中でも、ずっと高橋克彦著『炎立つ』(全5巻)の文庫本1~3巻を読んでいました。
 この1~3巻の内容は、1993年のNHK大河ドラマでは「第一部」として、渡辺謙が藤原経清を演じていた部分で、第3巻「空への炎」の終わりでは、遂に厨川(現盛岡市)で破れた経清が、源頼義によって処刑され、壮絶な最期を迎えます。
 また、原体剣舞の由緒で語られる「藤原(清原)清衡の一族郎党が、家衡によって皆殺しにされる」という場面は、第4巻「冥き稲妻」の終わり近くです。

 読んでいた本の影響もあってか、報告の最後の方は何か歴史探訪のようになってしまいましたが、その昔に「江刺郡」と呼ばれた地方の、スペクタクルを垣間見る思いをしながら巡っていました。

 賢治の詩「原体剣舞連」は、この舞いを「悪路王=アテルイ」が討ち取られる場面と見立てて書かれているのに対し、今回の旅では地元で剣舞の由来として伝わっている藤原清衡一族に関連した場所を訪ねましたので、詩の内容とは少し異なるものになりました。
 しかし先にも記したように、あるいは折口信夫が「民族史観における他界観念」で述べているように(記事「未完成霊の舞い」参照)、そもそも剣舞とか念仏踊りというものは、はるか昔からその地で不遇の死を遂げた者たちの霊すべてを鎮魂しようとする壮大な営みでもあるのですから、そこにはアテルイや蝦夷への思いも、前九年の役や後三年の役の死者への弔いも、もっと後の人々のことも、みんな入っていて当然なのだろうと思います。

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高橋 克彦 (著)
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