先日ある方から、天江富弥という児童文化研究家・料理屋主人と、宮沢賢治との交友関係について、お問い合わせをいただきました。
実は先週までは、Wikipedia の「天江富弥」の項目に、「(天江富弥が)宮沢賢治との交流関係をもつ」と記されていて、どこかにその根拠となるような二人の関わりを示す資料が存在するのだろうか、というお話だったのですが、私自身は不勉強にして天江富弥という人の名前さえ知らず、当初は何もわかりませんでした。
その後、Wikipedia の変更履歴を参照すると、「宮沢賢治との交友関係は確認できない」として、賢治に関する記載は2月13日に削除されているのですが、私の方で少し調べてみると、斎藤庸一という詩人による天江富弥の聞き書きの中に、天江が石川善助・森佐一とともに、花巻に賢治を訪ねたという記載があったのです。
この面会は、従来は石川善助と森佐一の二人が、賢治宅を訪問したとされており、『新校本宮澤賢治全集』の「年譜篇」には、次のように記されています。
十二月下旬 石川善助、森佐一の訪問をうける*55。ひどい雪の道で脚のわるい石川はたびたびころんだ。座敷童子の怪異を語りあう*56。石川は賢治を尊敬し、その態度は師に仕える如くであったといわれている。(『新校本全集』第16巻下p.302)
一方、斎藤庸一著『詩に架ける橋』(五月書房、1972)という本には、天江富弥の談話として、次のような記述があります。
宮沢賢治との出会いは、私と善助が森荘已池を仲立ちにして賢治の家へ行ったんです。善助は賢治にはじめて挨拶するとき、へへえと三尺下って両手ついておじぎした。賢治がびっくりしていました。栗木幸次郎が岩手新聞にいたし、山村暮鳥が仙台の聖公教会にいました。白秋や西条八十が来仙したときも会っています。野口雨情は私の先生でした。
私はいろいろな人の間をうろうろしながら、間口ばかりひろげて、なんの才能もないもんですから、やっぱり飲み屋の親爺で終わりそうです。たくさんの人と会ったり別れたり、たよりにされたりしましたが、炉ばたに坐って朽ちていくんでしょう」(『詩に架ける橋』p.219)
上記は、斎藤庸一が1964年1月に仙台を訪ねて、天江富弥が経営する料理屋「炉ばた」で、天江から聞いた話だということです。
これのみでは、天江・石川・森の三名の訪問が1925年12月のことだったと断定はできませんが(1925年12月は石川と森のみで、それ以外の時に3人で訪問したかもしれない)、斎藤庸一氏が1976年の『季刊銀花』という雑誌に掲載した石川善助に関する文章には、次のような記載があります。
赤線の「大正十四年」の段落に、「十二月森惣一、天江富弥と宮沢賢治を訪ねる。」とあります。『新宮澤賢治校本全集』年譜篇にも、「石川は賢治を尊敬し、その態度は師に仕える如くであったといわれている」との記載がありますが、上記天江富弥の談話の「善助は賢治にはじめて挨拶するとき、へへえと三尺下って両手ついておじぎした」の方が、より具体的です。
これまで、この訪問に関する一次資料としては、森惣一著「石川善助」(『天才人』二号、昭和7年8月10日)と、石川善助著「寂寞紀」(『鴉射亭随筆』昭和8年6月27日、桜井絵葉書店)の二つが確認されており、上掲の『新校本全集』年譜篇にも、*55および*56の注釈において引用されています。それぞれ次のような内容です。
*55「それから連れ立つて花巻に宮沢賢治氏を訪問することになつて花巻に行つた。駅から末広町に行く道が始めて出来て道が大変悪かつた。その上雪が降つた上を馬車や自動車が歩いて深い溝が出来て居た。道はてかてか光つて居た。途中で何か荷物を持つて居た石川がどうしたはづみか、するりとすべつて、わだちのあとの雪道の溝に足を入れた。すべつてころんでしまつた。彼はかなりのびつこだつた、そつと自分は彼の手からその重い荷物をとつて持つてやつた。宮沢さんはシンホニイのやうな愉快な声で話した。憂鬱さうな顔の石川が満面にえみを浮べて語つた。早口に感激して語つた。横で自分はびようぶにはられた、北斎や広重の版画を見て居た。二人は版画のことを語つて居たのだ。石川君の家は昔は旧家らしく、古い、いい版画を見た記憶について話して居た。」(『新校本全集』年譜篇pp.303-304)
*56「大正十四年の年末宮沢賢治氏にお会ひした時、はからずも「座敷童子」のお話をきいた。その夜ひどい雪路を歩きながら再びかの日の怪異〔幼時石川が不思議な童子に出会った体験〕に心理を新らしくした。」(『新校本全集』年譜篇p.304)
どちらの話にも、天江富弥の名前が全く出てこないのは不思議ですが、いずれも訪問から7~8年経ってからの回想であることを、考慮する必要はあるかと思います。
さて、Kokeshi Wiki によれば、天江富弥は本名天江富蔵で、1899年生まれですから賢治の3歳年下です。仙台の造り酒屋の三男で、明治大学商科に進み、学生時代は『赤い鳥』の影響を受けて童謡や詩の投稿に熱中したということです。
卒業後は仙台に戻って、1921年にスズキヘキとともに日本初の童謡専門誌『おてんとさん』を創刊しました。また、東北地方各地のこけしに魅かれ、こけし蒐集家として1923年に「仙台
本業の酒造業においては、東京への販路拡大のために「勘兵衛酒屋」という居酒屋チェーンを戦前の東京各地に展開して経営者となり、高村光太郎、棟方志功、太宰治なども常連客になっていたということです。戦後は、仙台で郷土料理の店「炉ばた」を開き、主人の天江が客たちと繰り広げるトークが人気で、一種の「サロン」の趣きを呈していたとのことです。上の談話のように、「たくさんの人と会ったり別れたり、たよりにされたり」という人生で、「宮沢賢治に会いに行った」などという話も飛び出してくるわけですから、そのトークはさぞ面白かったことでしょう。ちなみに、この仙台の「炉ばた」という店が、その後全国で流行する「炉端焼き」居酒屋の発祥となったと言われています。
1925年12月の賢治との面談では、座敷童子について語り合ったということですから、東北の民俗にも詳しい天江富弥も、きっと何かの話題を提供したのではないでしょうか。
ところで賢治と佐々木喜善の交流が始まったのは、1928年に喜善が賢治に対して、「ざしき童子のはなし」が掲載されている『月曜』誌を送ってくれないかと依頼したことが発端のようです。1928年8月8日付けの賢治の佐々木喜善あて書簡242には、「前々森佐一氏等からご高名は伺って居りますのでこの機会を以てはじめて透明な尊敬を送りあげます。」と記されているのが興味深いです。
というのも、今回のテーマの1925年12月の面会時には、森佐一がいて、座敷童子の話を語り合ったわけですから、この場で佐々木喜善の名前が出た可能性が、非常に高いと思われるからです。
そして、宮沢賢治も天江富弥も、この少し後に喜善と実際に出会うことになるというのは、何かの巡り合わせのようでもあります。
末筆ながら、このたび天江富弥に関する貴重なきっかけを下さったMさんには、心から御礼申し上げます。
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