「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」
西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風が私の見すぼらしい黄いろの上着をぱたぱたかすめながら何べんも通って行きました。
「おれは内地の農林学校の助手だよ、だから標本を集めに来たんだい。」 私はだんだん雲の消えて青ぞらの出て来る空を見ながら、威張ってさう云ひましたらもうその風は海の青い暗い波の上に行ってゐていまの返事も聞かないやうあとからあとから別の風が来て勝手に叫んで行きました。
童話「サガレンと八月」は、その書き出しからして本当に切なく魅力的ですが、残念なことにこの作品は、未完に終わっています。タネリという少年が、母親の戒めを破って、浜辺で透明なくらげを透かして物を見てしまったために、犬神によって海に連れ去られ、蟹の姿に変えられて海底でチョウザメの下男にされてしまうのですが、ここで作者は執筆を中断しているのです。
はたしてこの後、物語はどういう風に展開していく予定だったのか、賢治ファンならどうしても知りたいと思ってしまうところですが、それは今となっては知る由もありません。
以下は、それについて私なりに勝手に空想してみた、「きれぎれのものがたり」です。
1.サハリンの海の虜囚
「サガレン」とはサハリン(樺太)の古称で、賢治が1923年(大正12年)にサハリンを訪ねたのは「八月」でしたから、この旅行と「サガレンと八月」が密接に関連していると考えるのは、ごく自然なことです。
実際、天沢退二郎氏は「幻の都市《ベーリング》を求めて」(『《宮沢賢治》論』所収)の中で、「この一九二三年八月の樺太旅行のときに書かれたか、少なくとも着想されたと考えられる童話断片「サガレンと八月」」と書いていますし、鈴木健司氏は「「サガレンと八月」から受けとったもの」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』所収)において、「「サガレンと八月」には「オホーツク挽歌」の裏の世界が描かれている」と述べています。鈴木氏が指摘しているとおり、「サガレンと八月」の自然描写は、「オホーツク挽歌」のそれと、かなりの部分で共通しているのです。
そうすると、「サガレンと八月」の物語内容も、サハリンを旅した時の賢治の考えや心情と関係しているのではないかと考えてみることができますが、比べてみるとそこには確かに共通する要素が認められます。
上述のように、「サガレンと八月」で主人公のタネリは、海底でチョウザメの下男にされてしまうのですが、以前にもご紹介したように、ロシアでは昔からサハリン島の形が「チョウザメ」に喩えられるのです。
チェーホフによるドキュメント『サハリン島』には、次のような記述があります。
サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)
その比喩の妥当性については、右のように並べた図を見ていただければ、一目瞭然でしょう。
もし「チョウザメ」が「サハリン島」を表しているとすれば、「海底にあるチョウザメの住みかで下男として使われる」という設定は、「サハリンの海底に囚われる」という事態の、実に巧みな隠喩になっています。
そしてこれは、「宗谷挽歌」における、賢治の下記の表現にもつながっていきます。
こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
(中略)
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
(後略)
すなわち、宗谷海峡において賢治は、トシから呼ばれたら自ら海に落ちようと思い詰めていて、その結果として「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」とも、考えていたのです。
つまり、「サガレンと八月」におけるタネリの境遇――サハリンの海底に囚われるという状態は、賢治がこの地を訪ねるにあたって、実は自ら秘かに覚悟を定めていたことだったのであり、それはひょっとしたら賢治自身がそうなったかもしれない運命を描いているのです。
また、やはり「宗谷挽歌」で賢治は、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」と宣言していますが、ここで彼が想定している海の「鬼神」の一つが、タネリをさらった「犬神」なのでしょう。
それでは、そもそも賢治がサハリンの海の虜囚となるかもしれない危険を冒そうとした目的は、いったい何だったのでしょうか。
それは、「宗谷挽歌」のテキストの上では、「みんなのほんたうの幸福を求めて」、つまり仏教的真理を求めるための自己犠牲と位置づけられています。しかしよく考えてみると、この箇所のすぐ前には「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら/いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」と記されており、トシの方から「やって来て」、「知らせて呉れ」るのならば、彼が真理を知るためにはそれで十分であって、何も賢治が海に落ちて「封ぜられ」る必要はありません。
やはり賢治にとって、サハリンの海に封ぜられかねない危険を冒す本当の目的は、「死んだトシに会う」ということにあったのだと、私は思います。そもそもこれこそが、彼のサハリン旅行の目的でした。
そして、「宗谷挽歌」の冒頭には、「けれどももしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く」とありますが、人はふつう誰かから呼ばれたら、呼んだ相手がいると思う方へ行こうとするでしょうから、賢治が海に「落ちて行く」と考えていたということは、やはり彼の想定では死んだトシは、海の底にいると思われていたわけです。
つまり賢治は、この旅において自分がトシに会えるとすれば、その形として次のようなイメージを抱いていたのではないでしょうか。すなわち、サハリンで自分はトシに呼ばれるかまたは鬼神に挑まれるかして、海に落ちて封ぜられるが、そこでついに自分は、妹との再会を果たすことができるのではないか……。
まさにここのような幻想こそが、鈴木健司氏の言う「「オホーツク挽歌」の裏の世界」の内実だったのだと、私は思います。そしてこれが、私が「サガレンと八月」の物語の「続き」を想像する上での、大きな鍵になります。
タネリは犬神に拉致されて「海に封ぜられ」た後、彼はそこで(賢治にとっての妹に相当する)誰かに、「会う」ことになるのではないでしょうか。
2.「おまへの兄さん」という表現
もしも、賢治の思いを直接そのまま童話にすれば、タネリが海底に囚われてそこで遭遇するのは、タネリ自身の「死んだ妹」だということになりますが、「サガレンと八月」の残された草稿には、タネリに妹がいたとか死んだとかいう記述はどこにもありません。
しかしそのかわり、タネリには兄がいる(いた?)ようで、それは次のような母親の言葉に、一か所だけ登場します。
「ひとりで浜へ行ってもいゝけれど、あそこにはくらげがたくさん落ちてゐる。寒天みたいなすきとほしてそらも見えるやうなものがたくさん落ちてゐるからそれをひろってはいけないよ。それからそれで物をすかして見てはいけないよ。おまへの眼は悪いものを見ないやうにすっかりはらってあるんだから。くらげはそれを消すから。おまへの兄さんもいつかひどい眼にあったから。」
すなわち、タネリの兄は、「くらげで物をすかして見る」ということをしてしまったために、「いつかひどい眼にあった」というのです。
それでは、この兄は、今はいったいどうしているのでしょうか。
物語では、タネリの兄の現況については何も触れられていませんから、いったんは「ひどい眼にあった」彼も、今はタネリたちと一緒に元気に暮らしているという可能性も残っています。しかし、母親が上のようにわざわざタネリに警告していることからして、「兄がくらげを透かして見たためにひどい眼にあった」という出来事は、それまでタネリにはあまり知らされていなかったらしい、ということがわかります。
これは、もしも兄弟が同居しているのだとしたら、ちょっと不思議なことです。年が近い兄弟であれば、兄が「ひどい眼にあった」などという一大事は、弟のタネリもその場で見聞きしていたはずです。
もしも二人がかなり年の離れた兄弟で、兄がそのような眼にあった時に、まだタネリは物心ついていなかったとしても、その後兄弟が一緒に暮らしておれば、タネリの成長過程において、そのようなエピソードが家族の話題に上らなかったはずはありません。とりわけ、「くらげを透かして物を見てはいけない」というのは、子供の身の安全に関わる大変重大な注意事項でしょうから、家庭において平素からそのような話がされていなかったというのは、とても不自然に感じられます。
ここで、一つの仮説として想定されるのが、タネリの兄もタネリと同様、くらげを透かして物を見てしまったために、犬神によって海にさらわれ、それ以後ずっと家に帰ってきていないのではないか、ということです。もしそうであれば、母にとってこの出来事は痛切なトラウマとなっており、それについて家族で話題にすることさえ辛く、くらげの危険性についてもこの時まではタネリにちゃんと話せていなかったかもしれません。そう考えると、上記の不自然さは説明がつきます。
さらにそれを支持するような具体的根拠の一つに、母親による「おまへの兄さん」という表現があります。もしも兄弟がいつも一緒に暮らしていて、タネリにとって「兄さん」が自明の存在であったならば、わざわざ「おまへの」を付けずに、単に「兄さんもいつかひどい眼にあったから」と言うのではないでしょうか。すなわち、ここで母親がことさら「おまへの兄さん」という言い方をしているのは、ただ「兄さん」と言っただけではタネリにはぴんと来ないという状況があるからであり、これは「兄はタネリと一緒には暮らしていない」という事態を、表しているのではないでしょうか。
ここで、賢治の他の童話においては、親が自分の子供に向かってその兄や姉のことをどう呼んでいるのか、ざっと調べてみました。
一通り見たかぎりでは、「親が子供に対しその兄や姉を呼称する」という場面は、「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」にありました。
まず「ひかりの素足」では、最初の方で父親が次男の楢夫に話しかけている、次の場面です。
「なして怖っかなぃ。お父さんも居るし兄なも居るし昼ま で明りくて何っても怖っかなぃごとぁ無いぢゃぃ。」
ここでは父親は兄の一郎のことを、方言で「兄な(あぃな)」と呼んでいますが、標準語であればこれは「兄さん」というところでしょうか。ここには、「お前の」というような言葉は付けられていません。
また「銀河鉄道の夜」には、ジョバンニの母がジョバンニに語りかける次のような場面があります。
「あゝあたしはゆっくりでいゝんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」
ここでも、母はジョバンニに「姉さん」と言っています。母とジョバンニの間で、「姉さん」と言えば自明の存在ですから、これを「お前の姉さんがね……」などと言うと、かえってよそよそしい感じもしそうです。
以上たった二つではありますが、賢治の他の童話において、親が子供に向かってその兄・姉を呼ぶ際に「おまへの……」という言葉を付けている例はありませんでした。「サガレンと八月」において、母親が息子に「おまへの兄さん」と言っているのは、タネリにとって「兄」とは、いつも身近にいて親しんでいる存在ではないということを、暗示しているのではないかと思うのです。
タネリの兄が不在であるとすれば、その原因としては上述のように、彼が「いつかひどい眼にあった」事件を疑ってみるのが、最も自然です。
そして、兄がタネリと同じ禁忌破りのために海に連れ去られたのだとすれば、このたびまた同じ目に遭ったタネリは、海底において自分の兄に遭遇できる可能性が、十分にあることになります。
すなわちここに、「死んだ妹に会うためならば海に封ぜられてもよい」という、当時の賢治の強い願望が、物語の形をとって現れるのです。
3.再会のその後
さて、そうなると現在残された「サガレンと八月」の、次の展開の可能性が、一つ見えてきます。
蟹に姿を変えられたタネリは、病気のチョウザメのもとでこき使われながら辛い日々をすごし、地上の母のことを思っては孤独にさいなまれることでしょうが、そんなある日、もう長らく会っていなかった兄に、偶然に海底で再会することになるのです。
兄も、蟹に姿を変えられているのかもしれませんし、他の海生小動物になっているのかもしれません。お互いに姿形は違ってしまっていますが、それでも兄弟だからこそわかる何かが、あったのでしょう。どちらかが先に気がついて声をかけ、互いに相手を確認すると、しばし二人でうれし涙を流したかもしれません。
しかし、そこから先は、一筋縄ではいきません。長年囚われの身になって、その海底からの脱出がいかに困難であるか、兄の方は身に沁みてわかっていたでしょう。
それでも、一人だけではできなかったことも、二人で力を合わせれば、活路が開けるかもしれません。母親が待つ地上に帰還するために、二人は秘かに連絡を取り合いながら、コツコツと準備を進めていくことでしょう。
そして、とうとう脱出計画が実行に移される日が、やって来るでしょう。ここから先の結末は、これはもう作者に聞かなければわかりませんが、理屈の上では四通りがありえます。
(1)二人とも帰還、(2)タネリは帰るが兄は残留、(3)兄は帰るがタネリは残留、(4)二人とも脱出に失敗し残留、という四つです。
四つのうちのどれにするか、あとは個人個人で自由に考えたらよいようにも思いますが、あえて蛇足として、私個人のイメージを書いておきます。
まず、最もあってほしくない結末は、(4)の二人とも脱出できず残留、というものです。これでは、最後までハラハラしながら読んできた読者にとっては、「割に合わない」感じだけが残ってしまいそうです。
それに賢治の場合は、トシと二人で「海に封ぜられる」ことの「意味」は、「宗谷挽歌」に書かれているように「みんなのほんたうの幸福を求めて」ということにあったわけですが、タネリと兄との場合には、そのような大義名分はありません。賢治の本心では、トシに再会できるならばそのまま海に封ぜられてもよいと思っていたかもしれませんが、タネリの方はそもそも兄に会おうとして海に入ったわけではありませんでした。すなわち、この童話の内部には、「二人とも封ぜられてしまう」という理不尽な結末に見合うような「意味」は、存在しないのです。
次に、(1)二人とも帰還、というのは、最も喜ばしいハッピーエンドです。一般的に言って、このように兄弟二人が苦難に負けず、力を会わせ機転を利かせて脱出に成功するというストーリーは、童話として十分に存在価値があると私は思います。
ただ気になるのは、賢治がこの童話を書いたサハリン旅行中あるいはその直後の心境です。トシの喪失の悲しみが癒えない当時の彼の心情からすると、そんなハッピーエンドなんて白々しいかぎりで、この時期の彼ならばそのような結末にはしなかったのではないかというのが、私の想像です。
となると、、(2)タネリは帰るが兄は残留、(3)兄は帰るがタネリは残留という、どちらか一人だけが帰りもう一人は残るというパターンの、いずれかの可能性が高い感じがします。
このうちのどちらがありそうかと考えると、私としては(2)の方ではないかと思います。「主人公だけが生きて帰り、愛するもう一人は死んでしまう」というのが、「ひかりの素足」の一郎と楢夫、「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラなど、賢治の物語の一つのパターンであり、その背後には「妹が死に、自分だけが残る」という彼自身の痛切な体験があるからです。
(2)も(3)も、その最後のクライマックスにおいて、何かの事情で二人ともが生還することはできないことが明らかになると、あえて残留を選んだ方はもう一方を生きて帰還させるために、一種の「自己犠牲」を行うという状況が想定されます。一般に、多くの自己犠牲の物語においては、年長の者が年少の者を助けるために自らを犠牲にするというのが通例で、やはりこの場合は兄が弟タネリを助けて、自分は残留を選択する(「俺の分も母さんを大切にしてやってくれよ!」などと言って……)というのが、お話としても収まりがよくなるのではないかと思います。
あと、タネリの主人であるチョウザメというのは、見かけは恐ろしいけれど本当はそんなに悪いキャラではないのではないか、というのが私の個人的な印象です。犬神に新しい下男を連れて来られて、初めてタネリにかけた言葉は、「うう、お前かい、今度の下男は。おれはいま病気でね、どうも苦しくていけないんだ」というものでした。
物語の終盤で、タネリが脱出計画を開始するにあたり、いったんチョウザメはそれに気づいてタネリを制止し、これで万事休すかと思われたが、ふと小さなタネリを不憫に思い、犬神には内緒でこっそり逃がしてやったのではないか……、などと想像したりもします。
以上、長々とお付き合いいただいて恐縮でしたが、風が運んできたような私の勝手な空想でした。
ガハク
わはは。なるほどそんなお話になりそうな感じしますね。いやきっとその通りでしょう。一郎やジョバンニ、それに双子の星も思い出しました。
チョウザメは悪い奴じゃなさそうだし、ひょっとして犬神も根は悪人ともいえなさそうな気さえします。チョウザメを気遣って下男を連れてきてやった。
賢治がなぜこの話を途中で書くのをやめたのかというのも気になります。現実の精神状態に拮抗するほどの作品にたどり着けないと感じたとか、未だリアリティやイメージの膨らみに乏しさが感じられたとか…。
前後の作品との関連など…どう思われます?
hamagaki
ガハク様、お付き合いいただいてありがとうございます。
「賢治がなぜこの話を途中で書くのをやめたのか」というのは、確かに「謎」であり「気になる」ところですね。
「現実の精神状態に拮抗するほどの作品にたどり着けないと感じた」というガハクさんの表現は、私のイメージともぴったりする感じがします。
「トシの死」というテーマをめぐって、『春と修羅』の「オホーツク挽歌」の章に収められた数々の迫力ある作品を書く一方、こちらはあくまで「童話」の世界ですが、いくらファンタジックであったとしても、現実の手触りから単に「遊離」したものであっては、創作するに値しないと思ったのかもしれません。
詩で言えば、トシの死から翌年6月の「風林」まで、7か月以上も賢治が詩を残せなかったのは、やはり自らの精神状態に「拮抗」するものが得られなかったのか、という感じがします。