賢治の比較的初期の童話「十力の金剛石」は、すでに様々な宝石を持っている王子が、「もっといゝ
王子の帽子に付けられた蜂雀に導かれて、二人が暗い森を抜け、草の丘の頂上にやって来ると、ダイアモンドやトパァスやサファイヤが雨や霰のように降り、地に咲くりんどうやうめばちそうや野ばらは、
「ね、このりんだうの花はお父さんの所の一等のコップよりも美しいんだね。トパァスが一杯に盛ってあるよ。」
「えゝ立派です。」
「うん。僕このトパァスを半けちへ一ぱい持ってかうか。けれど、トパァスよりはダイアモンドの方がいゝかなあ。」
王子ははんけちを出してひろげましたが、あまりいちめんきらきらしてゐるので、もう何だか拾ふのがばかげてゐるやうな気がしました。
その野原には、一々拾うのが馬鹿らしくなるほど大量の宝石が、満ちていたのです。
しかしそれなのに、宝石でできたりんどうもうめばちそうも野ばらも、なぜかかなしそうな様子で歌っています。
十力 の金剛石 はけふも来ず
めぐみの宝石 はけふも降 らず、十力 の宝石 の落ちざれば、
光の丘も まっくろのよる
野原のみんなは、「十力の金剛石」というものを待ち望んでいるようですが、それは今日も来ないというのです。
でもついに、花たちはまるでとびたつように叫びます。「来た来た。あゝ、たうとう来た。十力の金剛石がたうとう下った。」
そして、木も草も花も青ぞらも、一度に高く歌いました。
ほろびのほのほは湧きいでて
つちとひととを つゝめども
こはやすらけきくににして
ひかりのひとらみちみてり
ひかりにみてるあめつちは
………………………………。
天から降ってきたその十力の金剛石の正体は、露でした。そしてさらに、十力の金剛石はそれだけではありませんでした。
あゝ、そしてそして十力の金剛石は露ばかりではありませんでした。碧いそら、かゞやく太陽、丘をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらやしべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになふ丘や野原、王子たちのびろうどの上着や涙にかゞやく瞳、すべてすべて十力の金剛石でした。あの十力の大宝珠でした。あの十力の尊い舎利でした。あの十力とは誰でせうか。私はやっとその名を聞いただけです。二人もまたその名をやっと聞いただけでした。けれどもこの蒼鷹のやうに若い二人がつゝましく草の上にひざまづき指を膝に組んでゐたことはなぜでせうか。
すなわちこの世界にある、空や太陽や風や、花や草や、丘や野原や、王子たちの瞳など、全ては「十力の金剛石」だというのです。
これはいったい、どういうことなのでしょうか。「十力の金剛石」という言葉には、どんな意味があるのでしょうか。
ちなみに「十力」とは、仏が持っている十種類の超能力のことで、道理を見分ける力、諸々の悟りの状態を知る力、過去世を知る力、未来世を知る力などが含まれます。
ですから、上の引用部の「あの十力とは誰でせうか」という作者の問いの答えは、「仏」でしょう。そして、上で若い二人がひざまずいて指を組んだのは、仏を礼拝したのだと思われます。
仏の十力という超能力によってこの世界を見れば、私たちふだん見ている露や花や丘や野原など、あらゆる自然の存在は、王子たちが最初に見た宝石細工などよりも、実は遙かに美しく尊いものだということを、この物語は言おうとしているのではないでしょうか。平素の私たちの目には、世界のそのような真の姿は見えませんが、仏の「十力」で見ると、世界はあたかも「
※
ところで、上の引用部で木や草や花や青空が歌った、「ほろびのほのほは湧きいでて/つちとひととを つゝめども/こはやすらけきくににして/ひかりのひとらみちみてり」という歌は、『法華経』如来寿量品の「自我偈」に出てくる「衆生見劫尽 大火所焼時……」という一節を賢治が詩的に翻案したものであることを、先日ご紹介した『宮沢賢治 人と思想』において藤村安芸子氏が指摘しておられ、目を開かれる思いがしました。
「自我偈」のこの部分は、賢治が大好きだった一節で、若い頃には保阪嘉内あての書簡に引用しており、晩年にはこれで習字の練習をしたり、「〔兄妹像手帳〕」に書いたりもしています。
〔毛筆筆写等 一二〕(『新校本全集』第14巻より)
「衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も/我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり」(島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』)
これを現代語にすると、「世が衰えて、生きるものが皆、大火に焼かれているように見えるときでも、わたしの国土である娑婆世界は安穏であり、神々と善き人々が常に充満しています。」となります(大角修訳・解説『全品現代語訳 法華経』角川ソフィア文庫)。
すなわち、仏の十力から見れば、苦しく思えるこの世(娑婆)も、本当は素晴らしい場所である、つまり「娑婆即寂光土」だというわけです。
「十力の金剛石」において王子と大臣は、世界のそのような実相を、一時的にですが垣間見ることができたのです。
※
ところで、賢治のこの「十力の金剛石」という童話が、メーテルリンクの戯曲「青い鳥」と類似した要素を持っていることは、大塚常樹氏が『宮沢賢治 心象の記号論』(朝文社)で指摘しておられます。
大正6年の賢治の短歌に、「雲とざす/きりやまだけの柏ばら/チルチルの声かすかにきたり。」(歌稿B457)があることから、賢治は「青い鳥」について知っていたと思われますが、「青い鳥」の最後でチルチルとミチルが、「幸福は遠い国ではなく身近なところにある」ことに気づくのと同じように、「十力の金剛石」で王子と大臣の子は、「どんな宝石よりも目の前のこの世界の方が尊い」ことを知るのです。
また「青い鳥」において、老婆の姿をした妖精ベリリュンヌは、チルチルにダイヤモンドの飾りが付いた帽子を与えますが、このダイヤを回すと、心の眼が開いて、事物の本質が見えるようになるのです。
妖婆。父さんには見えないさ。お前がそれを被つてれば、誰にもそれは見えはしないよ。……被つて見るかね?……(妖婆はチルチルの頭に小さい緑の帽子を被せる。)さあ、ダイヤモンドを廻して御覧……くるつと廻して、それから……
(チルチルがダイヤモンドを廻すと、俄かに萬物に驚くべき變化が起る。年老いた妖婆は其儘不思議に美しい姫君に變る。燧石で出来た小舎の壁は光つて、サファイヤの如くなり透明になり、宝石の如く、ギラへと輝く。見すぼらしき家具は生きて燦爛とし、松製のテイブルは大理石製の如き重つたい高尚な風になる。柱時計の盤面は眼ばたきをしてニコへと微笑する。振子の所の蓋があいて、少女の姿をした「時間」が澤山出て来て、互に手をつなぎ合ひ、樂しげに笑ひながら、微妙な音樂につれて踊りだす。チルチルは惑亂された「時間」を指しながら叫ぶ。)
チルチル。あの美しい女の人達は誰なの?……
妖婆。恐がらなくてもいゝよ、あれはお前の一生の時間だよ、そして暫く自由にされて、眼が見えるから喜んでるんだ……
(メーテルリンク「青い鳥」1915, 植竹書院)
この「魔法のダイヤモンド」は、素晴らしい世界が見える力をチルチルに与えてくれますが、これはあたかもメーテルリンク版の「十力の金剛石」とも言える道具です。
そしてこの帽子のダイヤが、青い鳥を探すチルチルとミチルの旅を導いてくれるところは、「十力の金剛石」で王子の「青い大きな帽子」に付いた「青びかりの蜂雀」の飾りが、王子たちを宝石に満ちた草の丘の頂上に案内してくれたことと、重なり合います。
※
「十力」とは、このような不思議な能力のことを表しているようですが、『新校本全集』別巻の「主要語句索引」を用いて、他の賢治の作品で「十力」という言葉が登場するものを調べてみると、他には一つだけ、「虔十公園林」がありました。
それは、アメリカ帰りの博士の次のような言葉に出てきます。
「ああさうさう、ありました、ありました。その虔十といふ人は少し足りないと私らは思ってゐたのです。いつでもはあはあ笑ってゐる人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見てゐたのです。この杉もみんなその人が植ゑたのださうです。あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。たゞどこまでも
十力 の作用は不思議です。こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
こちらの作品に登場する「
虔十は、周囲の大人からも子供たちからも、「少し足りない」と思われている人でした。それは、虔十の下記のような行動のためでした。
雨の中の青い
藪 を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔 けて行く鷹 を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。
けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました。
風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。
時にはその大きくあいた口の横わきをさも痒 いやうなふりをして指でこすりながらはあはあ息だけで笑ひました。
なるほど遠くから見ると虔十は口の横わきを掻 いてゐるか或 いは欠伸 でもしてゐるかのやうに見えましたが近くではもちろん笑ってゐる息の音も聞えましたし唇 がピクピク動いてゐるのもわかりましたから子供らはやっぱりそれもばかにして笑ひました。
すなわち虔十は、「雨の中の青い藪」や、「青ぞらをどこまでも
他の大人や子供たちは、そのような自然の営みが示している美や生命力を、虔十ほどしっかりと感じとることはできず、だから虔十がその感動を表現していても意味が分からないままに、ただ愚かな振る舞いだと見なしていたのです。
しかし虔十が、地下に粘土層のある野原になぜか「杉苗を植えたい」と言い出したことを契機に、子供たちの見方は変化していきます。土壌の関係で低くしか育たなかった杉林は、しかしその可愛らしさのおかげで、子供たちにとっては最高の遊び場になったのです。
ところが次の日虔十は納屋で虫喰ひ大豆を拾ってゐましたら林の方でそれはそれは大さわぎが聞えました。
あっちでもこっちでも号令をかける声ラッパのまね、足ぶみの音それからまるでそこら中の鳥も飛びあがるやうなどっと起るわらひ声、虔十はびっくりしてそっちへ行って見ました。
すると愕ろいたことは学校帰りの子供らが五十人も集って一列になって歩調をそろへてその杉の木の間を行進してゐるのでした。
全く杉の列はどこを通っても並木道のやうでした。それに青い服を着たやうな杉の木の方も列を組んであるいてゐるやうに見えるのですから子供らのよろこび加減と云ったらとてもありません、みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐるのでした。
その杉の列には、東京街道ロシヤ街道それから西洋街道といふやうにずんずん名前がついて行きました。
虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑ひました。
それからはもう毎日毎日子供らが集まりました。
ここで子供たちは、「みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐる」のです。欣喜雀躍する子供たちは、我を忘れて興奮しており、これではお話の冒頭で自分たちがばかにして笑っていた虔十の、興奮を抑えられない様子そのものに化してしまっています。
すわなち、自然が持っている美や律動や生命力を、当初は虔十しか感受できなかったために、彼は皆からばかにされていたのですが、彼が杉林を作ったおかげで、子供たちもそれを体感できるようになり、虔十と同じく我を忘れて喜べるようになったのです。
この世界が、本当はどれほど美しく尊いか、その真の姿を体感することができた時の喜びは、「十力の金剛石」における王子および大臣の子と同じです。そして、普段は見えないこのような世界の実相を見ることができる能力のことを、賢治は二つの物語において、「十力」と呼んだのだろうと思います。
虔十は、その見かけにもかかわらず、上のような意味での「十力」の一端を備えていた人でした。それに加えて、その力を一般の人が多少とも分有できるようにしてくれる、公園林という媒体をも作ってくれたのです。
そして、以前に「「ほんたうのさいはひ」を求めて(2)」という記事に書いたように、宮沢賢治という人もまた、このような特異な感受能力を備えた人であり、そしてその感受内容を他の人々にも分け与えてくれるような、詩や童話という媒体を作ってくれたわけです。
そのおかげで私たちは、彼の作品を通して「十力」のごく小さなかけらを分有することができ、「娑婆即寂光土」というこの世界の有り様を、ほんの少しだけですが、彼と一緒に感受してみることができるのです。
コメント