短篇「竜と詩人」の最後の場面で、詩人スールダッタと老竜チャーナタは互いに理解し合い、竜は詩人に贈り物をしようとします。
竜は一つの小さな赤い珠を吐いた。そのなかで幾億の火を燃した。(その珠は埋もれた諸経をたづねに海にはいるとき捧げるのである。)
スールダッタはひざまづいてそれを受けて龍に云った。
(おお竜よ、それをどんなにわたしは久しくねがってゐたか わたしは何と謝していゝかを知らぬ。力ある竜よ。なに故窟を出でぬのであるか。)
(スールダッタよ。わたしは千年の昔はじめて風と雲とを得たとき己の力を試みるために人々の不幸を来したために竜王の〔数文字空白〕から十万年この窟に封ぜられて陸と水との境を見張らせられたのだ。わたしは日々ここに居て罪を悔ひ王に謝する。)
(おゝ竜よ。わたしはわたしの母に侍し、母が首尾よく天に生れたらばすぐに海に入って大経を探らうと思ふ。おまへはその日までこの窟に待つであらうか。)
(おゝ、人の千年は竜にはわづかに十日に過ぎぬ。)
(さらばその日まで竜よ珠を蔵せ。わたしは来れる日ごとにこゝに来てそらを見水を見雲をながめ新らしい世界の造営の方針をおまへと語り合はうと思ふ。)
(おゝ、老いたる竜の何たる悦びであらう。)
(さらばよ。)(さらば)
ここに出てくる「新らしい世界の造営の方針」というところには、前回「予言者、設計者スールダッタ」という記事に書いた賢治独特の世界観が表れていますが、今日取り上げてみたいのは、竜が(その珠は埋もれた諸経をたづねに海にはいるとき捧げるのである)と言い、スールダッタが(すぐに海に入って大経を探らうと思ふ)と述べている箇所についてです。
竜によれば、海の中には「埋もれた諸経」があり、スールダッタは海中に入ってその「大経」を探索したいと言うのですが、ここで私がふと連想したのは、「春と修羅 第二集」所収の「牛」の先駆形である「海鳴り」という草稿にある、次の箇所です。
いまあたらしく咆哮し
そのうつくしい潮騒えと
雲のいぶし銀や巨きなのろし
阿僧祗の修陀羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
海は魚族の青い夢をまもる
4行目に、「阿僧祗の修陀羅」という言葉が出てきて、このままでは意味がわかりにくいですが、この「阿僧祗」は正しくは「阿僧祇」のようで、数の単位の一つです。一般的には、一阿僧祇は1056を表すということですから、1の後ろに0が56個並ぶという、想像もつかない大きさの数です。まあ、現実的・具体的な数値を表すためというよりも、お話の中で「想像を絶した大きさ」を表すというのが基本的用法のようで、たとえば『法華経』の「如来寿量品第十六」の偈には、「自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇」として出てきます。
次の「修陀羅」は、サンスクリット語sūtraの音写で、「お経」のことです。「オホーツク挽歌」に、(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)として出てきた、あの「スートラ」ですね。
すると、「阿僧祗の修陀羅」とは、「非常に大量の経典」ということになり、「海」がこの大量の経典を「つつんでいる」ということを、上の箇所は記しているわけです。
「竜と詩人」の竜チャーナタも、「埋もれた諸経をたづねに海にはいる」と言っていたわけですが、このように海中に大量の経典が蔵されているという話は、どこから来ているのだろうと思って少し調べてみましたら、『華厳経』をめぐる伝説に、そのような箇所があるようです。
鎌田茂雄著『華厳の思想』には、次のように書かれています。
『華厳経』の母胎はインドで成立した。『華厳経』には三種あったとされている。
第一は、上本の『華厳経』である。それは三千大千世界を十集めた大宇宙に遍満する無限の数量の微塵の数ほどもある偈文から成り立っている。
第二は、中本の『華厳経』である。それは四十九万八千八百偈、一千二百品から成り立っている。
第三は、下本の『華厳経』である。それは十万偈、三十八品から成り立っている。
この三種の『華厳経』のなかで、上本と中本の『華厳経』は竜宮にあって、この地上に伝わらず、下本の『華厳経』のみ、この地上の世界に伝えられ弘まったという。下本の『華厳経』はさらに簡略化されて、三本が中国に伝えられた。
ここにも、いかにもインド的な莫大な数量のたとえが出てきますが、結局、『華厳経』の上本と中本という超絶に大部な経典が、海の底の竜宮に所蔵されているのだということになります。
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また、この「竜宮にある経典」というモチーフは、2世紀頃に南インドに生まれた偉大な仏教者、龍樹(ナーガールジュナ)の生涯をめぐる伝説にも登場します。
瓜生津隆真著『龍樹―空の論理と菩薩の道』には、龍樹の生涯を記した中国の『付法蔵因縁伝』の和訳が掲載されていますが、そこには次のようにあります。
ときに龍樹はことばに窮し心に屈辱を感じて、自ら心のなかに思った、――世界で説かれている教えのなかには、道が無量にある。仏の経典はことばは絶妙であるけれども〔理は〕いまだ尽くされていない。われはさらにこれをしかるべく敷衍し、後学の者を開悟して衆生に利益を与えよう――。このように考えて、そのために師自身の教えと戒めを立て、さらに〔独自の〕衣服を造って、仏教であっても少し違いをつけたものにしたがわせた。人々の迷いの心を除こうとして、不受学(戒を受けていない者)に日や時を選んで戒を受けるようにと示し、独り静かな室の水晶の房のなかにいた。
大龍(マハーナーガ)菩薩は、このことを大いにあわれみ、神通力をもって直ちに彼を伴って大海に入り、宮殿に赴いて七宝の函を開き、もろもろの方等(大乗)の深奥の経典、無量の妙法を龍樹に与えた。読むこと九十日、内容に通じ理解するところが非常に多かった。その心は深く経典のなかに入り、真の利益を得たのである。
大龍はナーガールジュナの心を知って、問うていった。「汝は今、経をみな見られたか否か。」 龍樹は答えていった。「汝の経は無量であって、見尽くすことはできません。私がここで読んだのは、閻浮提(人間の住む世界)で読んだのを超えること十倍に及びます。」 龍王はいった。「刀利天にいる天王(インドラ神)が所有する経典はこの宮殿の経典の超えること百千万倍で、このように諸処にあって、ここと比べても数えることができないのだ。」
そのとき龍樹は諸経を得て、心ひろびろと一相(一如)の理を了解し無生法忍(すべては空であると知る智慧)を得て、悟りの道を完成した。龍王は龍樹が悟ったのを知って、宮殿を出て送り帰したのである。
すなわち、「埋もれた諸経をたづねに海にはい」った一人として、2世紀インドの龍樹(ナーガールジュナ)がいたというわけです。
ところでこの龍樹の伝説では、上の「竜と詩人」と同じく、人間と竜との対話が行われているのが、興味深いところです。賢治が「竜と詩人」の最後に、海中の大経を探索するというモチーフを挿入したのは、龍樹に関するこのような伝説の影響もあったのではないかと思わせます。
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先の「海鳴り」に戻りますが、賢治がこの草稿をスケッチしたのは、1924年の5月21日の夜、農学校の生徒を引率してやってきた北海道苫小牧の海岸でした。(草稿には「一九二四、五、二二、」と記入されていますが、旅程から賢治が苫小牧で夜を過ごしたのは、21日だけだったことがわかっています。)
その翌晩に一行は帰途につき、賢治は5月23日に青森を過ぎた車中で、「〔つめたい海の水銀が〕」をスケッチします。この作品の「下書稿(二)」には、浅虫温泉の「湯の島」が描写されているのですが、ここに賢治は次のような、不思議な童話的空想を書きつけています。
そこが島でもなかったとき
そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た
島でもなく、陸でもないということは、「海中」のことではないかと思われ、「鱗をつけたやさしい妻」という言葉もそれを裏づけます。そして、そのように海の中で「やさしい妻と暮らす」となると、「竜宮」を連想せざるをえません。陸奥湾に浮かぶ湯の島の、お伽話のようにかわいらしい雰囲気から、賢治はふとこんなことも思ってみたのでしょうか。
しかし、ここで賢治が「竜宮」のことを考えたとすれば、これは2日前の苫小牧における、「阿僧祗の修陀羅をつつみ」という幻想とも、つながるわけです。
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ところで、来たる5月21日、賢治が苫小牧を訪れた記念日に、苫小牧市に賢治の「牛」を刻んだ新たな詩碑が、建立されるということです。
昨年12月にいくつかの新聞で報道されて以降、あまりインターネット上には情報が出ていませんでしたが、詩碑建設委員会の方に電話で問い合わせたところ、午前10時から苫小牧市の旭町3丁目で、除幕式が行われるということでした。また、苫小牧市による「平成29年度苫小牧市民文化芸術振興助成事業申請一覧」を見ると、5月21日の欄に「宮沢賢治詩碑除幕記念シンポジウム」とあり、会場は「グランドホテルニュー王子 若草の間」となっていますので、同日に記念シンポジウムも行われるのですね。
当日は、私もできれば見学に行きたいと思っています。
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