先月の「病気への侮蔑と差別の中で」という記事では、宮沢賢治が晩年に結核を発症したことで、周囲から種々の嘲りや辱めを受けていた様子を、作品を通して見てみました。
その時取り上げた「〔打身の床をいできたり〕」の下書稿(一')や「〔まぶしくやつれて〕」等以外では、例えば「病技師〔二〕」も、病人である自分が周囲からどのように見られているのかということを、テーマとした作品です。
病技師〔二〕
あえぎてくれば丘のひら、 地平をのぞむ天気輪、
白き手巾を草にして、 をとめらみたりまどゐしき。
大寺のみちをこととへど、 いらへず肩をすくむるは、
はやくも死相われにありやと、 粛涼をちの雲を見ぬ。

相の沢牧野(滝沢市)
ここでは、作者がモデルらしい「病技師」が、草はらでおしゃべりしている三人の若い女性に道を尋ねたところ、答えずにただ肩をすくめるという、冷たい対応だったというのです。技師は悄然として、自分にもう死相が出ているからだろうかと思い、遠い雲に目をやりました。
病技師とは対極にある、若さと健康を象徴する三人の乙女の、無邪気であるがゆえの残酷さ、という印象です。
ただ、手帳に記されたこの作品の下書稿(一)は、次のようになっています。
よき児らかなとこととへば
いらへず恐れ泣きいでぬ
はやくも死相われにありやと
さびしく遠き雲を見ぬ
こちらでは、「いい子だね」と声をかけたら、答えずに恐れて泣き出したということなので、声をかけた相手は若い女性ではなく、幼児だったのではないかと思われます。そうなると、相手の反応の理由は「死相が見えた」というようなことではなくて、「知らないおじさんに急に話しかけられてびっくりした」だけかもしれず、実は病気とは関係なかったのかもしれません。
しかし、たとえ相手が幼児だったとしても、作者はこの時相手の反応に接して、「自分には死相が出ているから、人に嫌がられるのだ」と感じてしまったのだろうと思われ、だからこそ下書稿(二)以降では、相手を「乙女ら三人」に変更して、その冷たい反応をより際立たせたのだろうと思います。
すなわち、やはり作者は一貫して、「自分は病気のために人々から嫌忌されるのだ」というコンプレックスを抱いているのであり、これはその感情を主題とした作品だと言えます。
病気を理由として、このような侮蔑や差別を受けるというのは、本当に理不尽なことであり、さぞかし賢治も忸怩たる思いだったろうと推測しますが、先の記事で見たとおり、賢治はこのような世間の不当な扱いに対して憤るわけではなく、逆に自分に矛先を向けて「か弱なわが身」の「恥」としてとらえ(「〔打身の床をいできたり〕」の下書稿(一))、ひたすら内面化していたようです。
このようにして内に向けられ、ただじっと黙って耐えていた賢治の感情が、珍しく外に向けて吐露されているのが、これも前に見た「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」です。
われらぞやがて泯ぶべき
そは身うちやみ あるは身弱く
また 頑きことになれざりければなり
さあらば 友よ
誰か未来にこを償え
いまこをあざけりさげすむとも
われは泯ぶるその日まで
たゞその日まで
鳥のごとくに歌はん哉
鳥のごとくに歌はんかな
身弱きもの
意久地なきもの
あるひはすでに傷つけるもの
そのひとなべて
こゝに集へ
われらともに歌ひて泯びなんを
ここで賢治は、「いまこをあざけりさげすむとも」(今は我々を、病気であることや、体の弱さや、労働能力の低さのために嘲り蔑むとしても)、「誰か未来にこを償え」(未来においては誰かが、そのような不当な扱いの償いをせよ)と、「友」に向けて、また社会に向けて、訴えているわけです。
この作品は、賢治がそれまで内に秘めていたルサンチマンを、外に向けて表明しているという点でユニークであるだけでなく、さらに現在は抑圧されている「弱き者」に対して、「なべてこゝに集へ」と連帯を呼びかけ、「われらともに歌ひて泯びなんを」として、〈ともに歌う〉ことを提唱しているところに、賢治の熱い思いが表れていると感じられます。
そして私は、賢治が晩年に、その命を削るようにして作っていた文語詩の中には、上記のような意味で〈弱き者と連帯し、ともに歌う詩〉が、一定の割合で含まれていると思うのです。
※
それは例えば、「文語詩稿 五十篇」の冒頭に置かれている、「〔いたつきてゆめみなやみし〕」です。
いたつきてゆめみなやみし、 (冬なりき)誰ともしらず、
そのかみの高麗の軍楽、 うち鼓して過ぎれるありき。
その線の工事了りて、 あるものはみちにさらばひ、
あるものは火をはなつてふ、 かくてまた冬はきたりぬ。
この詩は、たんに文語詩稿の第一番目に位置しているにとどまらず、信時哲郎さんが「賢治にとって「特別な作品」であったことだけはたしかだと思う」「文語詩全体に対する序詩のような意味づけをしようとしたのかもしれない」(『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』p.58)と述べておられるように、特に重要な作品だったのだろうと、私も思います。
上記の「定稿」では、あまりに切り詰められた表現でわかりにくいので、より具体的に賢治の思いを読みとるために、下記にその下書稿(一)を掲げます。
鼓者
ときにわれ胸をいたづき
日もよるもゆめみなやみき
そがなかにうつゝをわかず
なが鼓の音街をよぎりし
そのリズムいとたゞしくて
なやみをもやゝにわすれき
のき低きみちのさなかに
崩れたる白き光や
おぼろなる吹雪をあびて
そのかみの高麗の軍楽
人知らぬよきしらべして
なれはかも過ぎ行きにけん
わが病いまし怠り
許されて新紙をとれば
かの線の工事了りて
あるものはみちにさらばひ
あるものは火をはなつてふ
いづちにかなれの去りけん
チャルメラや銅鑼をともなひ
黄の旄やほこをしたがへ
雪ふかき山のはざまを
進みけんなが祖父たちと
いま白き飴をになひて
異の邦をさまよふなれよ
ここで作者賢治は、自らも胸の病に苦しむ身であるという立場から、その闘病中に力を与えてくれた朝鮮飴売りたちに、思いを馳せています。その昔、病床で耳にした彼らの太鼓は、律動的で心地よく、賢治はそれを聴いてしばし病苦を忘れることができたのです。
しかしその後新聞を見ると、鉄道工事のために朝鮮から徴用されて来た彼らは、工事が終わって職を失うと、一部の者は路傍で身を朽ちさせ、また一部の者は放火犯ともなったということです。この「放火」の実態はわかりませんが、そのようなニュースを見た賢治は、関東大震災後に多数の朝鮮人が、差別的な流言蜚語のために虐殺されたという出来事を、思い出さなかったはずはありません。
故郷が植民地にされた上に、朝鮮人に対してかくも厳しい日本に来て、「異の邦をさまよふ」彼らは今いったいどうしているのだろうと、賢治は切にその身を案じています。
この作品における賢治と朝鮮人の関係は、恵まれた境遇の者が、異国で差別や生活苦に喘ぐ弱者を憐れむというのではなく、自らも重い病に苦しむ者として、あるいはやはり不当な侮蔑や差別を体験してきた者として、「お互いに弱者である相手を、仲間のように思いやる」という気持ちが、根底に流れていると私は感じます。
そして、これこそ賢治が「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」において、「身弱きもの/意久地なきもの/あるひはすでに傷つけるもの/そのひとなべて/こゝに集へ/われらともに歌ひて泯びなんを」と呼びかけて、弱者同士でともに歌おうとした「歌」の、典型例であるように思うのです。
※
そのような観点から文語詩稿を見てみると、他にもたくさんの作品が、このような意味を帯びて現れてきます。
「文語詩稿 五十篇」の次の作品である「〔水と濃きなだれの風や〕」は、早池峰山や北上山地の美しい自然への讃歌ですが、その後半では「たゝかひにやぶれし神」への追悼が記されます。
水と濃きなだれの風や、 むら鳥のあやなすすだき、
アスティルベきらめく露と、 ひるがへる温石の門。
海浸す日より棲みゐて、 たゝかひにやぶれし神の、
二かしら猛きすがたを、 青々と行衛しられず。
この文語詩の前身は、「春と修羅 第二集」所収の「山の晨明に関する童話風の構想」で、これは早池峰山を「お菓子の山」に見立てつつ「イーハトーボのこどもたち」に語りかけるという、カラフルで美味しそうな企画でした。
それが文語詩化され、推敲の最終段階になると、この山地に太古から棲み、ある時征服者に敗れて去って行った神々への、鎮魂が込められます。
背景にあるのは、昔「蝦夷」と呼ばれていたこの地の先住者が、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする朝廷に討伐され、それとともに彼らが信じていた神々も追放されて、成島・立花・藤里など田村麻呂伝説を伴う毘沙門天に置き換えられていった歴史に、重なるものかと思われます。
しかしここでも賢治は、国が「正史」として教える支配者側の視点ではなく、「敗れ去った者」の側に一緒に身を置き、愛惜の情を表明しているのです。
これもやはり、「弱き者との連帯の歌」の一種と言えるのではないでしょうか。
※
さらに「文語詩稿 五十篇」の全体を見渡せば、以下のような作品において、作者は「弱き者」の視点に立ち、ともに歌おうとしているように私には思われます。50篇中の番号を付けて箇条書きにし、作品に含まれる弱者への視線を、簡単に記します。
- 〔いたつきてゆめみなやみし〕
自らも差別される病人として、この国の朝鮮人の境遇を思いやる - 〔水と濃きなだれの風や〕
敗れ去った土着の神への鎮魂歌 - 上流
下書稿~定稿初期形における、眼を病んだ農夫への気づかい(「表彰者」とも関連?) - 〔打身の床をいできたり〕
下書稿(三)以前では、自らが病気のために受けた侮蔑と恥辱が描かれる/定稿では、打身で臥せっている商人の寂寥に置き換えられる - 〔氷雨虹すれば〕
結核を患い欠勤する、同僚教師奥寺五郎への気づかい - 〔盆地に白く霧よどみ〕
僻地の学校の教員が、冷夏や貧困のために登校できない児童たちの身を案ずる - 〔萌黄いろなるその頸を〕
人間に殺され吊るされた家鴨と、貧しい巡礼者が、吹雪の店先で交錯する悲哀 - 〔夜をま青き藺むしろに〕
乱れた宴席にはべる酌婦のやるせなさを、酒も魚も好まず宴席の苦手な作者が思いやる - 初七日
夭折した幼な児の初七日、骨箱を前に泣き崩れる家族と、お菓子をもらったら何事もなく遊びに出てしまう子供たちの様子が、対照を成す - 〔毘沙門の堂は古びて〕
胸を病んで役所勤めをやめた堂守(作者自身の投影か)が、子供の病気平癒を願い毘沙門堂に参拝する母子を、優しく見守る - 萎花
花巻温泉開催のダリヤ品評会に並ぶ美しい花々を、温泉の娼妓たちに重ね、そのはかない運命を思う
晩年の文語詩において、賢治がこの世界を淡々と俯瞰して作品に彫琢する視点は、以前の口語詩で己れの心象をダイナミックに写したスタンスとは対照的で、「末期の眼」などとも呼ばれてきました。近藤晴彦氏は『宮澤賢治への接近』において、これを「死の視点」と名づけておられます。
「病技師〔二〕」にあるように、自らすでに「死相」を帯びていると感じつつも、弱き者たちと「ともに歌ひて泯びなん」と念じて書き連ねた作品が、これらの文語詩のうちには確かに含まれているように思うのです。
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