それが人間の石炭紀であった

一〇五三
   政治家
         一九二七、五、三、

あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
     羊歯の葉と雲
        世界はそんなにつめたく暗い
けれどもまもなく
さういふやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであらう

政治家」(詩ノート)

 堕落した政治家が、「ひとりで腐って/ひとりで雨に流される」だろうというのは、政治の未来に対する、一種の楽観論と言えるでしょう。現実には、99年後の今もそうはなっていませんが、当時の賢治にとっては、そんな期待を抱くような時代状況があったのかもしれません。

第三次仮国会議事堂
1925年に完成した第三次仮国会議事堂(Wikimedia Commonsより)

 1924年5月に行われた第15回衆議院総選挙において、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の「護憲三派」が勝利して絶対多数を獲得すると、三派は貴族院の抵抗を押し切り、1925年3月に「普通選挙法」を成立させました。「普通選挙」と言っても、まだ男性にしか選挙権のない「性差別選挙」ではありましたが、しかしそれまでは「直接国税3円以上を納税する成人男性」しか投票権がなかったのが、「25歳以上の全ての男性」に拡大されたのです。
 これがどの程度の有権者拡大だったのかというと、上記1924年の第15回衆議院選挙の有権者数は、全国で 3,288,405人だったのに対し、1928年2月に行われた第16回衆議院選挙(第1回普通選挙)の有権者数は 12,408,678人となっており、一挙に約4倍に増えたわけです。
 これは言わば、第15回までの制限選挙では、成人男性の「上位4分の1の金持ち」だけの利害によって議員を選んでいたのを、次回からは小作農や貧困労働者など無産階級も含めた、全ての男性の意思が反映するように変えたわけです。新たに増えた下位4分の3の有権者の投票行動によっては、従来の政治勢力の力関係が、一気に引っくり返ってしまう可能性もあったのです。

 このような政治的チャンスを生かして、全国で無産政党が活動を開始し、なかでも1926年3月に設立された労働農民党(労農党)には、賢治も深く関与していきます。
 1926年10月に、花巻で労農党稗和支部が設立された際には、賢治はその事務所を斡旋して保証人になり、羅須地人協会から机や椅子を運び込んで、活動資金も毎月カンパをしていたということです(「労農党支持の背景」)。
 また、大正デモクラシーの旗手とも言うべき政治学者の吉野作造は、「腐敗の著しい既成政党に代わり得る合法無産政党の結成」を呼びかけ、1926年12月の社会民衆党結党に参加しました。

 こういう盛り上がりの中にいた賢治が、次に総選挙が行われた暁には、新たに政治に参加する多数の民衆の力によって、金持ちの欲得のために動く政治家などは、駆逐されてしまうだろうと期待したのも、無理もないことだったと思います。
 賢治が冒頭の「政治家」という作品を書いたのは、衆議院の任期満了が1年後に迫る、1927年5月でした。あとはいつ解散総選挙が行われようとも、古臭い政治家が「ひとりで腐って/ひとりで雨に流される」のは、もう「まもなく」だと思ったのではないでしょうか。

 そしてついに1928年1月21日、衆議院が解散されて、日本初の普通選挙の火蓋が切られます。地元の岩手二区からは、労農党稗和支部長の泉国三郎が立候補しました。
 選挙期間中、「泉国三郎」と大書したビラを貼り歩いた運動員がごった返す事務所に戻ってみると、賢治が寄贈した謄写版一式と、金20円の紙包みが置いてあったということです(『新校本全集』年譜篇p.366)。また賢治は泉の選挙演説に、近所の農家の伊藤与蔵などの若者を連れて行ったりもしました。
 一方、無産政党の勢力拡大を恐れる政府・与党は、選挙期間中にさまざまな形でその運動を妨害し、警察を使って無産政党の事務所を執拗に監視しては、しばしば演説を中止させたり、ビラを押収したりしたということです。

 そして2月20日の投票の結果、与党の立憲政友会は218議席、野党第一党の立憲民政党は216議席と、どちらも過半数には達せず、一方で労農党は全国で28万票を得て2議席を獲得し、社会民衆党や日本労農党などを合わせた無産政党全体では、8議席を確保しました。賢治が応援した労農党の泉国三郎は、5名の立候補者中の4位で落選しましたが、花巻地区の得票は、他の地域よりも多かったということです。
 この結果を、無産政党の挫折と見るか、弾圧下での健闘と見なすかは、評価が分かれるところかもしれません。しかし政府・与党としては、無産政党が国会に議席を確保したというだけでも危機感を募らせ、これ以後は無産勢力への弾圧を、さらに強めていきます。

 この政治弾圧において、有効な武器として活用されたのが、普通選挙法とほぼ同時に成立し公布された、治安維持法でした。
 当時から、普通選挙法と治安維持法が「セット」のようにして作られたのは、民衆に対する「飴と鞭」であるとも言われていましたが、政府は総選挙からまもない1928年3月15日には、共産党の活動家数千名を一斉に検束し(三・一五事件)、4月10日には労農党に結社禁止処分を下して、党を解散させました。
 賢治は同年6月10日の作品「高架線」に、「ひかりかゞやく青ぞらのした/労農党は解散される」と書いて、落胆を表しています。

 さて、その後の日本は、大正デモクラシーの華やぎに別れを告げ、1929年の世界大恐慌のあおりで1930年から昭和恐慌に突入し、とりわけ農村は大きな打撃を受けました。財閥や政治家を狙うテロが相次ぐようになり、軍部は1931年に満洲事変を起こして、国全体が15年戦争へと突き進んでいきます。治安維持法によって逮捕された人は数十万人に上り、伊藤千代子、小林多喜二、三木清、戸坂潤、尹東柱、牧口常三郎ら、1500人あまりが獄死しました。

 ところで選挙の期間というのは、いつも何か非日常的な喧騒と高揚とがあたりを支配し、終わると二日酔いの朝のような気分になります。一介の有権者でもそうなのですから、日頃から政党活動を支え、選挙の応援もしていた98年前の賢治にとっては、きっとその何十倍も、選挙後に感ずるところはあっただろうと思います。

 ちなみに1925年の治安維持法は、絶対多数の政権のもとで、国民が是非を判断する機会もなく、突然登場してきましたが、現代の治安維持法と言われるスパイ防止法も、今回の選挙では表向き争点にはされていませんでした。これからどうなることでしょうか。