「手紙四」の苦悩

 生前の賢治が秘かに印刷して配布した、一連の「手紙」と呼ばれる文章の中でも、最後の「〔手紙 四〕」は、最も有名で、また読む人の心に切実に訴えかけるものがあります。
 これは、賢治が1923年(大正12年)に、「樺太旅行、とりわけ「青森挽歌」で得た成果を周りの人々に伝えるため」(木嶋孝法『宮沢賢治論』)に、書いたものと言われています。内容は、「無声慟哭」詩群および「オホーツク挽歌」詩群と、「銀河鉄道の夜」の、そのちょうど中間に位置するものと言えるかもしれません。賢治とトシを連想させる「チュンセ」と「ポーセ」という兄妹が登場して、妹は死に、兄はチュンセの行方を探し求めます。

 ところで、この「〔手紙 四〕」の最後は、次のように終わります。

 どなたかポーセを知ってゐるかたはないでせうか。けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました 「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」 それからこのひとは云ひました。「チユンセはいいこどもだ。さアおまへはチユンセやポーセやみんなのために、ポーセをたづねる手紙を出すがいい。」 そこで私はいまこれをあなたに送るのです。

 「手紙を云ひつけたひと」の言葉は、「銀河鉄道の夜」初期形三におけるブルカニロ博士を連想させますね。賢治の愛読者にとっては、何か懐かしい響きをおびているでしょう。

 しかし、ちょっと考えてみると、上の「手紙を云ひつけたひと」の言葉の真意には、理解しにくいところがあります。
 最初に、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。」と断定しながら、後でこの手紙の書き手に対しては、「さアおまへはチユンセやポーセやみんなのために、ポーセをたづねる手紙を出すがいい。」と言って、「ポーセをたづねる」よう指示を出します。「むだだ」と言った直後に、なぜあえてそれをせよと言うのでしょうか。
 この点に関して佐藤泰正氏は、次にように述べています(『手紙一、二、三、四』,「国文学 解釈と鑑賞868 平成15年9月号」所収)。

(「〔手紙 四〕」の引用の後) すでに語る所は明らかだが、矛盾は残る。「ポーセをたづねることは無駄だ」と言い、また「みんなのためにポーセをたづねる手紙を出すがいい」という。しかしこれは矛盾とみえて、矛盾ではあるまい。言わばこの作品自体のすべてが「ポーセをたづねる手紙」であり、それが詩人の手によって、ほかならぬ匿名の手紙という形で届けられたという所に、この作品の持つ倫理的主題はみごとに生きる。

 しかし上の文章をちょっと読んだだけでは、なぜ「矛盾とみえて、矛盾ではあるまい」ということになるのか、正直私にはわかりにくいです。思わず「どなたか矛盾の解き方を知ってゐるかたはいないでせうか」と、たづねたくなってしまいます。

 などと冗談はさておき、あらためて冷静に考えてみると、これはおそらく「ポーセの実の兄であるチユンセ」がポーセをたづねるのはむだだが、「第三者である手紙の書き手」がたづねるのであれば、それはよいのだ、ということになるのでしょう。
 「青森挽歌」において、

《みんなむかしからのきやうだいなのだから
 けつしてひとりをいのつてはいけない》

という、(如来の?)言葉が現れたことと、これは直接につながっているのだろうと思います。兄が肉親の情によって妹を「たづねる」ことは、「ひとりをいの」ることになってしまうから、「むだ」なのでしょう。

 思えばこの問題は、まさに賢治の「オホーツク挽歌」の旅において、最大の葛藤となっていたことでした。
 賢治は死んだ妹を「たづね」て、トシとの通信を求めて、遙かサハリンまで旅したわけですが、これはチユンセがポーセを探し求めたように、肉親の愛情にもとづいた行動だったことは、否定できないでしょう。「けつしてひとりをいのつてはいけない」と、仏教者としての賢治は頭では考えながらも、その心は妹の行方を求め、妹の後生に幸あれと祈る気持ちを、抑えることができなかったのだと思います。

 この葛藤を解決するために、当時の賢治が考えた理屈は、「宗谷挽歌」に表れています。

とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 すなわち、賢治がトシからの通信を求めている理由は、肉親の情のためではなくて、「私たちの行かうとするみちが/ほんたうのものでないならば」、あるいは「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら」、そのことを明らかにするという目的のために、通信を求めているのだと言っているのです。それは、トシの幸福ではなく、「みんなのほんたうの幸福」のためだというのです。
 そして、それがトシ一人の幸福を願うためではないということをさらに明確に示すために、「私たち(=賢治+トシ)はこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、決意も述べています。

 この「合理化」は、いちおう筋は通っていますが、「みんなのほんたうの幸福を求めて」トシの行方を捜すのが、現実にトシの兄でもある賢治だったので、どうしても理屈の綱渡りをしているような危ういところはありました。そこに「肉親の情」が、一片も入っていないという証拠はないのです。
 しかしこれが「〔手紙 四〕」になると、兄チユンセの代わりに、「手紙の書き手」がポーセの行方を「たづねる」という形で、人物が別になっていますから、理屈がよりすっきりとしています。賢治が、「オホーツク挽歌」の旅の間ずっと感じ続けていたであろうモヤモヤが、ちょっと晴れている感じはします。


 それはともかく、「〔手紙 四〕」の文章を読んで、私がとにかく強く感じることは二つあって、一つは、妹の死後に兄が感じている罪責感の深さです。文中では、チユンセが生前のポーセをいじめたエピソードが執拗なまでに紹介され、またポーセの死後に至っても、その転生した「蛙」をチユンセが石で叩いてしまうことによって、間接的に示されます。この罪責感は、いったい何なのでしょうか。
 それからもう一つは、「オホーツク挽歌」の旅から帰っても、賢治はなお、「行方をたづねる手紙」をたくさんの人々に送らずにはいられなかった、その気持ちです。

 トシの死の翌年になって、北の最果てへの旅もして、初盆を終えても、賢治の気持ちは「整理がつく」どころではなかったことが、にじみ出ている感じがします。