『春と修羅』の「序」の執筆段階

 『春と修羅』の「」が書かれた時期は、その文末に著者が「大正十三年一月廿日」と記していますから、もちろんこの日に違いはないでしょう。
 本日考えてみたいのは、賢治が「」を書いたこの日は、先日ご紹介したような『春と修羅』の編成経過の中では、どの「段階」に位置するのだろうか、ということです。

 入沢康夫さんが解明した『春と修羅』の編成経過は、非常に緻密なもので、編集作業の前後関係はこれでよくわかるのですが、各々の段階が暦年上のいつに当たるのかということは、大半が不明のままです。もしもその一部分でも、実際の年月がわかってくれば、賢治が『春と修羅』を編集した経過が、より具体的にイメージできるようになるのではないかと思うのです。

 まず、入沢さんによるその『春と修羅』の編成経過を、下記に引用掲載しておきます。

第一段階

①詩集印刷用原稿の清書

②用紙下部に括弧つき番号を記入
(この段階で作品数62篇)

第二段階

①作品5篇「蠕虫舞手」「青い槍の葉」「報告」「原体剣舞連」「雲とはんのき」を新たに追加挿入

②巻末で「自由画検定委員」を削除、代りに「一本木野」「鎔岩流」を追加

③作品7篇「春光呪詛」「有明」「天然誘接」「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「風景とオルゴール」「風の偏倚」の全体または一部を書き直して差し替え

④括弧つき番号の第一次修正

⑤詩集印刷用原稿が印刷所に渡され、印刷所が上部の紙番号・圏点・活字指定等を朱筆で記入
(この段階で作品数68篇)

第三段階

①「小岩井農場」で4箇所の原稿修正

②作品4篇「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「春と修羅」「風景」の全体または一部を書き直して差し替え

③作品2篇「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河鉄道」を巻末に追加

④墨による手入れにてノンブルのずれを調整

⑤「オホーツク挽歌」の差替稿以下で括弧番号の修正を再修正
(この段階で作品数70篇)

第四段階

①青色クレヨンの番号記入(目次原稿はこの時期に書かれたと推定)

②印刷所が草色絵具番号を記入

③巻末の原稿3枚(「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河鉄道」が含まれていたと推定)を2枚の新稿と差し替え

④橙色クレヨンの番号記入

⑤「途上二篇」を削除し、「原体剣舞連」冒頭を書き直して差し替え

⑥印刷が大部分進行した段階で正誤表原稿執筆
(この段階で作品数69篇)

(『新校本全集』第2巻校異篇pp.13-17より, 一部簡略化)

 そして『新校本全集』では、上の経過中のどの段階において「」が書かれたのかという問題について、次のように推測しています。

 なお、「序」の詩がどの段階で成立したかは、その部分の原稿が焼失しているので判定が困難であるが、「イーハトヴ(ブ)の氷霧」と「冬と銀河鉄道(ステーション)」が一九二三年の十一月および十二月の日付を有し、これら二篇があとから追加された作品であることを考え合わせれば、「これらは二十二箇月の」という詩句を含む「序」は、これら二篇が追加されるより以前(つまり第三段階初期まで)に書かれた可能性が大きいと言えよう。

(『新校本全集』第2巻校異篇p.17)

 ご存じのように「」には、「これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から/紙と鉱質インクをつらね」という箇所がありますが、『春と修羅』の最初の作品が書かれたのは「屈折率」の1922年1月6日、最後の作品がが書かれたのは「冬と銀河ステーション」の1923年12月10日ですので、その期間は足かけ丸2年(=24か月)になり、「二十二箇月」という記載とは、少し食い違いがあります。この違いの原因がどこにあるのか、これまでにいくつかの説が出されていますが、『新校本全集』では、「「」が書かれた時点では、最後の作品が1923年10月28日の「鎔岩流」だったので、執筆期間は「二十二箇月」になる」と考えたわけです。
 これは上記の「二十二箇月」の解釈として、最も説得力のある考えだと思います。

 そしてこの解釈を、上の「編成経過」の内容と照合すると、「第三段階③は、「」が書かれた1924年1月20日よりも後である」ということになります。

 さて、上記の時間的範囲を、さらに限定していくことができるか、というのが今回の記事の趣旨なのですが、賢治の弟清六氏は、『春と修羅』の制作当時の様子について、次のように記しています。

 翌年の十三年には、『春と修羅』の自費出版を決意して、序文を書き上げて印刷所通いをはじめたのであったが、花巻温泉の花壇をつくったり、修学旅行で北海道に行ったり、帰るやいなや前年上演したコミックオペレットに「ポランの広場」「種山ヶ原の夜」を加えて農学校の講堂で公演したのであった。

(「兄賢治の生涯」,『兄のトランク』p.256)

 「序文を書き上げて印刷所通いをはじめた」という清六氏の証言が正しければ、「」を書いた後に、印刷所に詩集印刷用原稿を渡したわけですから、これを「編成経過」と照合すると、「第2段階⑤は、1924年1月20日よりも後である」ということになります。

 さらにこれよりも、「」の執筆時期を溯らせることができるか考えていくと、そこで突き当たる問題は、「自由画検定委員」が詩集末尾の作品だった時期をどう考えるか、ということです。
 前述のように、「」の執筆時期を推定する上で、「詩集末尾の作品が「鎔岩流」だった時期には、作品執筆期間が「二十二箇月」になる」ということが、大きな根拠でした。それでは、末尾の作品が「自由画検定委員」だった時期には、作品執筆期間はどうなるでしょうか。

 「自由画検定委員」には、他の作品のような創作日付は記されていません。しかし、この創作の題材となった「県下小学校児童自由画展覧会」は、1923年11月11日から15日まで花城小学校で開催された、「東北六県及び北海道連合家禽共進会」に合わせて行われたことが、栗原敦さんの調査によってわかっています(栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』p.103)。
 となると、「自由画検定委員」に付けられるべき日付は、1923年11月11日~15日のいずれかだったと考えられます。

 では、1922年1月6日から、1923年11月11日~15日までの期間は、「二十二箇月」と言えるでしょうか?
 いわゆる「足かけ」で数えれば、1922年1月から1923年11月までは、「二十三箇月」となります。
 一方、実質的な期間としては、22か月と5日~9日ですから、四捨五入すれば「二十二箇月」になります。

 これを賢治がどう考えたかは何とも言えませんが、一般的にこういう場合には、日数まで細かく計算せずに、「足かけ」で数えることが多いのではないでしょうか。
 そうだとすれば、執筆期間が「二十二箇月」であるためには、やはり「」の執筆時期は詩集末尾の作品が「鎔岩流」だった時期に限られることになります。
 つまり、「「自由画検定委員」が削除された第二段階②は、1924年1月20日よりも前である」ことになります。

 両方を合わせると、結論は次のようになります。

  • 」が書かれた1924年1月20日は、『春と修羅』編成経過第二段階の③~④部分に相当する

 あともう一つ、第一段階①で詩集印刷用原稿が清書された段階では、その中に「自由画検定委員」も含まれていたはずですから、次も言えます。

  • 第一段階の①は、1923年11月中旬よりも後である

 ところで普通に考えると、詩集印刷用原稿を清書した段階で、「」も一緒に清書されていたのではないか、という気がします。
 賢治は詩集印刷用原稿に、実際の詩集のページ数と同じノンブル(数字記号)を記入して、本の体裁を細かく調整していました。「」に関しても、同様の作業を行っていたのではないかと考えるのが、まずは自然でしょう。

 しかし実は、『新校本全集』の校異篇は、『春と修羅』に「」が掲載されることになったのは、編成経過のかなり後になってからかもしれないという可能性を、示唆しているのです。その根拠は、「目次」の中に「序」が入っていないことと、「序」の部分のページ数が本文と別建てになっていることです。
 『新校本全集』の「『春と修羅』詩集印刷用原稿に関する補説」では、次のように述べられています。

また、この目次の「折り」が挿入される前には、本文の詩の終わったあと一頁の空白を置いてすぐ奥付、正誤表となっていたのだから、巻末に目次を置くアイデアははじめは無かったわけで、それなら目次はどこに置かれるはずだったかと言えば、巻頭(「序」の次)以外には考えられない。というより、この目次には「序」は記載されておらず、また「序」の部分の頁番号は本文のそれとは別だてになっている点から見て、いちばんはじめのアイデアでは巻頭に「序」ではなく目次だけが入ることになっていたのかも知れない。この最後の点はいずれにもせよ、はじめ目次を巻頭部に置くつもりだったことはほぼ間違いないと思われるので、先に述べた《「途上二篇」の削除は、目次の刷了よりも(少なくとも目次原稿の成立よりも)あとである》という考え方は、十分可能性を持っていると言えるであろう。

(『新校本全集』第2巻校異篇pp.180-181, 強調は引用者)

 このような観点からは、第一段階①で詩集印刷用原稿が清書された段階では、まだ「」が書かれていなかった可能性は大きかったわけですし、上で考察したように、それは「自由画検定委員」が削除された第二段階②以降だったことも、十分ありうるわけです。
 ただ、やはり上で考察したように、「」が書かれたのは少なくとも第三段階③よりは前なので、この時点ではまだ「目次」は作成されていないことから、「序」が目次に掲載されていない理由は、「既に目次ができていたから」というわけではないことになります。「途上二篇」が目次に残されてしまった理由が、「目次作成よりも削除が後だったから」と考えられることとは、事情が異なります。

 それではなぜ「序」が目次に掲載されていないのかと考えてみると、一般に「序」が巻頭に置かれているのは自明であり、「序」を見るためにわざわざ巻末の目次を開いてその掲載ページを調べて……という手順を踏む人はありえないだろうことから、目次に「序」を掲載する必要はないと言えます。
 また、「序」と本文のページ数が別建てになっているのは、一般の書籍でもよくあることであり、例えば『新校本宮澤賢治全集』も、巻頭の「凡例」のページ数は本文と別建てのローマ数字になっており、また目次に「凡例」は掲載されていません。

 しかし『新校本全集』の立場からは、第二段階⑤で印刷所に原稿が渡された時点で、その中に「序」があったとは断定できない(=清六氏の証言が不正確かもしれない)ということで、「「」の執筆時期は第三段階③より前」という見解にとどめているのかと思われます。

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「春と修羅 序」オブジェ(岩手県立大学)