前回の記事で、「弱き者との連帯の歌」の例として挙げた文語詩の一つに、「〔毘沙門の堂は古びて〕」がありました。
毘沙門の堂は古びて、 梨白く花咲きちれば、
胸疾みてつかさをやめし、 堂守の眼やさしき。
中ぞらにうかべる雲の、 蓋やまた椀のさまなる、
川水はすべりてくらく、 草火のみほのに燃えたれ。
岩手県北上地方には、奥州市の「藤里毘沙門堂」や、北上市の「立花毘沙門堂」など、見事な毘沙門天を祀ったお堂がいくつもありますが、この作品で描かれているのは、下書稿(一)に「川は十里をすべりて暗し」とあることからも、猿ヶ石川沿いにある「成島毘沙門堂」と考えられます(信時哲郎『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』p.307参照)。

成島毘沙門堂(2015年9月撮影)
「毘沙門の堂は古びて」の言葉のとおり、このお堂は室町時代の創建と推定されており、岩手県内では、平安時代創建の中尊寺金堂などに次いで古いものです。
この毘沙門堂には、平安時代に造立された兜跋毘沙門天像が収められていましたが、現在この像は、近くにコンクリート造りで建てられた宝物殿の方に移されています。しかしまだ賢治の時代には、この毘沙門堂の中で威容を示していたはずです。
一木造りとしては日本最大と言われるこの像を、『角川日本地名大辞典』は次のように讃えています。
地天女まで含めて4.75mのこの大像は、日本毘沙門像のうち、最高傑作の一つである。堂々たる大像であるばかりでなく、革胴よろいにはちきれんばかりの体躯をピリリと引きしめて包みこんだ力感あふれる彫成は、水際立って鮮やかである。この大丈夫の毘沙門天を地天女が下から支えて一分のすきもない力のアンサンブル(調和)を彫り出している力倆もすばらしい。
(『角川日本地名大辞典』岩手県p.580)
※
さて、作品二行目の「胸疾みてつかさをやめし」とは、「胸の病気のために官職を退いた」ということで、作者自身の境遇を連想させます。賢治が県立花巻農学校を退職したのは、自分の意思で農耕生活に入るためでしたが、その2年後には結核が悪化して病臥生活になるわけですから、もしもそのまま勤めていたら「胸疾みてつかさをやめし」になったとも言えます。
その堂守の「眼やさしき」という定稿の記載からは、「いつも優しい眼をしている」というような常日頃の様子が感じられます。しかし、下書稿(一)や下書稿(二)を見ると、この優しい眼差しが注がれる具体的対象が、明らかになります。
また三行目の、「中ぞらにうかべる雲の、蓋やまた椀のさまなる」という一節の意味も、これらの下書稿を読むとわかってくるのです。
まず下記は、その下書稿(一)です。
マドンナ像のさまなして
母みどり児をうちいだけば
そらしろくして桜は遷り
川は十里をすべりて暗し
をちこちに小祠に祀れる像は
をのもにまことの宝ととなへ
わづかにながるゝ草火のはてに
梨またま白く花咲きちりぬ
中ぞらうかべるひとひらの雲は
蓋とも見えたる椀とも見ゆる
その児の末をば占ふに似たり
ここには「堂守」は現れませんが、その代わりに母親とその手に抱かれた幼な児が登場します。毘沙門天に参拝するこの母子の敬虔な様子を、作者は幼な子イエスを抱くマリアの「聖母子像」のように見立てています。
「蓋とも見えたる椀とも見ゆる」雲は、「その児の末をば占ふに似たり」と意味づけられています。
次は、下書稿(二)です。
おこりあるみどりごを負ひ
そらしろく桜はうつり
川水はすべりてくらし
うら青き草火のなかに
毘沙門の像は年経て
梨白くはな咲きちりぬ
夜ごときてみどり児を圧す
あまの邪鬼押へたまへと
いくそたび母はぬかづく
中ぞらにうかべる雲の
蓋やまた椀のさまして
みどりごのはてをうらなふ
前稿には、母子が毘沙門天に参拝している理由は書かれていませんでしたが、こちらでは、子供は「おこりあるみどりご」ということで、「瘧」に罹っていて、母はその回復を毘沙門天に祈願するために、この堂にやって来たという設定になっています。江戸時代まで、「瘧」の代表的疾患はマラリアだったようですが、子供が高熱を出す感染性疾患を広く総称したものと考えておけばよいでしょう。
第三連にはその「瘧」の病状として、「あまの邪鬼」が「夜ごときてみどり児を圧す」ということが記されています。呼吸が苦しくなって、胸が圧迫される感じだということでしょうか。とは言え作者は、この母子から症状の聴き取りをしたわけではないでしょうから、これは作品内での「設定」ということになります。
「夜ごときて……圧す」という具体的な描写からは、「胸を疾んだ」作者自身の体験の投影を、感じざるをえません。
そして母親は、そのような苦しみの元凶である天邪鬼を取り押さえてくれるように、毘沙門天像の前で一生懸命、何度も額づくのです。
※
さて、こちらの稿でも、空に浮かぶ雲が「蓋やまた椀のさまして」いることは、「みどりごのはてをうらなふ」ものとして捉えられています。
それにしても、雲の形が「蓋」や「椀」のように見えるということには、いったいどんな意味があり、子供のどういう将来を示しているのでしょうか。
私としては、この「蓋」は、仏の座の上に飾られる「天蓋」を表しているのだろうと思います。
仏具としての天蓋は、仏像の上を覆うのが「仏天蓋」、僧侶の上を覆うのが「人天蓋」ということですが、「仏の徳が自ずから外に現れ出た徳そのものである」とも言われるということです(「滝本仏光堂」のサイトより)。

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そのような「仏の徳」を示す例として、『観仏説三昧海経』には、仏が眉間の白毫相から光を放つと、天蓋となって摩耶夫人の座を覆ったという場面があります。
爾の時、世尊、忉利の宮に入り、即ち眉間の白毫相より光を放つ。其の光、化して七宝の大蓋と作り、摩耶の上を覆ふ。七宝をもって床を飾り、摩耶に座を奉る。仏母摩耶、仏の宮に入るを見て、合掌し恭敬して、仏のために礼を作す。五百の化仏、一時に手を申ぶ。諸天、扶持して礼敬するを聴さず。八万四千の諸化如来、皆悉く起立す。
(『観佛説三昧海経 巻第六』)
すなわち「天蓋」とは、仏や僧侶の「徳」を象徴するものなのです。
したがって、この文語詩における「蓋や椀のように見える雲が、子供の行く末を占っているようだ」という表現は、「将来この子は仏道の修行者となって、徳を積んでいく」という未来を、暗示しているのではないでしょうか。
ここで思い出されるのは、「氷と後光(習作)」という童話です。この童話では、若い夫婦が赤ん坊を連れて夜汽車に乗っていると、我が子の背後の車窓で結晶した氷が、後光のように子供に映えているのに母親が気づき、それを見た父親は「少し泣くやうにわらひ」、次のように言います。
「この子供が大きくなってね、それからまっすぐに立ちあがってあらゆる生物のために、無上菩提を求めるなら、そのときは本當にその光がこの子に來るのだよ。それは私たちには何だかちょっとかなしいやうにも思はれるけれども、もちろんさう祈らなければならないのだ。」
すなわち、童話「氷と後光(習作)」では、「後光のように見える氷」が、菩薩道を歩む子供の将来を暗示していたのに対して、文語詩「〔毘沙門の堂は古びて〕」では、「天蓋のように見える雲」が、同じ役割を果たしていることになります。
※
ただ、この文語詩も「定稿」になると、この子もその母親も姿を消してしまい、ただ「蓋やまた椀のさまなる」雲だけが痕跡のように残されて、それが最初は何を意味していたのか、読みとることは不可能になってしまうのです。
一般に作品を鑑賞する際に、最終的に完成された形態だけでなく、その下書稿の内容までも重ね合わせて読み込むというのは、本来は正道とは言えないだろうと思いますが、あまりにも表現が切り詰められた賢治の文語詩を読む際には、こうやって先駆形から作品世界の成り立ちを探査してみることも、あってよいのではないかと思います。
そして、そのようにして地層のように積み重なった全体像を俯瞰すると、「〔毘沙門の堂は古びて〕」の世界には、病気の子供と、その子のために懸命に祈願する母親を、やはり病気を抱えて隠棲する堂守が優しく見守る、という構図が浮かび上がります。
まさにこれこそが、賢治による「弱き者との連帯の歌」です。
ひょっとしたら、将来この子は仏道を修めて、こういった弱き者たちを助けるために、身を尽くすことになるのかもしれません。
もしもそうなれば、それは賢治が「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」に記した、「誰か未来にこを償え」という言葉の実現になることでしょう。
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