1921年と1931年

 ちょっと事情があって、とくに宮澤賢治を好きというわけでもない方々に、賢治に関してややマニアックな話をする必要ができて、スライドを作っています。その1枚目は、どうしてもこんな感じになってしまいます。

宮沢賢治の生涯

 賢治の一生をたった1枚のスライドにまとめるというのがまあ無理な話で、何を入れて何を削るか迷うところですが、上記はまあごく一般的に生活上の外形的な節目を並べたものです。
 でもこれ以外にも、法華経との出会いとか、保阪嘉内のこととか、トシの死とか、『春と修羅』や『注文の多い料理店』の出版とか、賢治の人生において重要なことはたくさんあります。皆さんならば、どんなスライドを作られるでしょうか。

 それはともかく、「生」と「死」を除けばあとは5つだけ選んだ賢治の人生上の節目のうち、1921年と1931年というのが、私としては何となく気になりました。

 1921年(大正10年)は、誰しも認める彼の生涯における大きな転機です。この年の1月に、賢治は突然家出をして東京へ行き、「国柱会」の活動に飛び込みます。宗教的熱情による行動と言えますが、本心は保阪嘉内に対する執着だったのではないかと、私などは思います。嘉内とは、結局「悲しい別れ」をすることになってしまうのですが、これも賢治にとっては人生における非常に大きな出来事だったと言えるでしょう。
 東京に出た賢治は、ガリ版切りで糊口をしのぎながら国柱会の街頭布教活動を手伝いました。そして、本格的に童話創作を開始します。帰郷する時には、巨きなトランクを要するほどの原稿量になっていたと、弟清六氏は回想しています(「兄のトランク」)。
 一方、中学生の頃から詠みつづけていた短歌に関しては、この年の父親との関西旅行を最後に、ほぼ創作が終了します。そして帰郷後、おそらくこの年の冬には、自由詩形式へ移行を示す断片群、通称「冬のスケッチ」が書き始められました。これは翌年1月から、後に『春と修羅』にまとめられる作品群=「心象スケッチ」へとつながっていくのです。
 思えばこの年の1月の賢治には、「定職に就く」などという考えなどおそらく微塵もなく、強引に家を飛び出したのですが、8月に花巻に帰ると、12月にはたまたま欠員ができた稗貫農学校の教諭に就任することになりました。職業問題で悩みつづけていた賢治が、初めて安定した仕事を持ち、「大人」として社会生活を歩みはじめるのです。

 つまり、1921年という年は、賢治の社会生活の上でも、創作活動の上でも、やはり大きな転機だったわけです。

 1931年(昭和6年)の方はどうでしょうか。前年から徐々に健康を回復し、東北砕石工場の鈴木東蔵と接触を始めていた賢治は、この年の1月に「東北砕石工場技師」として正式に契約を結びます。そして、石灰岩抹のセールスマンとして東奔西走し、広告文を書き、新商品のアイディアまで考える毎日を開始します。
 一方、創作活動に関しては、一人のサラリーマンとして営業にまわりながらその悲哀を綴ったような「〔雲影滑れる山のこなた〕」とか「〔朝は北海道の拓植博覧会へ送るとて〕」などの詩文が手帳にメモされていきます。「〔青ぞらにタンクそばたち〕」は、東北砕石工場の風景でしょうね。これらは、『春と修羅』にまとめられたような、絢爛たる天才的な作品群とは趣を異にしますが、これらにもまた深い味わいがあります。
 さらに、この年に使われていた「兄妹像手帳」と呼ばれる手帳には、次のような書き込みが出てきます。

「兄妹像手帳」p.3-4

 左上から、「Mental Sketch revived」と書かれています。これは訳せば、「再生した心象スケッチ」という意味ではありませんか。日付は、「1931.9.2」とあります。
 また下のように、同じ手帳の少し後には、左上に「Mental Sketch modified」と書かれ、「1931.9.6」の日付があります。

「兄妹像手帳」p.19-20

 これらが何を意味するのか、その本当の意図は賢治自身に訊いてみなければわかりませんが、県内外の各地を飛びまわれるほどの体力を何とか回復した賢治は、ここからまた新たな形の「心象スケッチ」を、再開しようとしていたのかもしれません。
 ただ、これらのメモが書かれた約半月後、売り上げ不振の工場の方をまず「再生」させる使命を帯びた賢治は、建築壁材用の見本を入れた40kg以上もあるトランクを持って、東京へ出張します。そして夜行列車では誰かが窓を開けたまま降りてしまって、途中で寒気がして目が覚めました。
 9月20日の夜に駿河台の旅館「八幡館」にたどり着いた賢治は高熱を発し、死を覚悟して翌21日に旅館の便箋に遺書を書きます。
 その後、父の友人である小林六太郎氏の助けもあって、賢治は9月28日に何とか花巻に戻りますが、家に着くや否や病床に臥してしまいます。この後も、11月に「〔雨ニモマケズ〕」を書くなど新たな創作や旧作の推敲は続けながらも、病状はとうとう回復せず、1933年9月21日に37歳で人生を終えたのでした。

 以上、1921年と1931年という10年の間をおいた2つの年の賢治はまったく違う状況にはありますが、何となく共通点もあります。

  • どちらの年にも上京した。1921年には無断の家出という形で、1931年も健康を心配した母の制止を振り切るようにして。
  • 1921年1月には東京の文信社、12月に稗貫農学校に就職。
    1931年1月には東北砕石工場に就職。
    (賢治がどこかに「勤めた」のは、生涯でこの3つだけだった。)
  • 1921年は、短歌から自由詩への移行期であり、翌年の「心象スケッチ」の開花につながる。
    1931年には、中断していたこの「心象スケッチ」を、復活させようとしていた様子がある。
  • いずれも、賢治が興味を持っていた「吉・吝・凶・悔」という易のパターンにあてはめれば、1年全体の経過は「吝→凶→悔」だったと言える。
  • いずれも、福島章『宮沢賢治―こころの軌跡―』によれば、賢治は「躁状態」あるいは「軽躁状態」にあったという。

 そしてそれぞれの年に、自分の意には反して東京から花巻へ戻らざるをえなくなったきっかけは、1921年は妹トシの結核再燃、1931年には賢治自身の結核再燃であった点も、不思議なアナロジーをなしています。
 しかしトシは1921年の賢治の帰郷の翌年に、賢治自身は1931年の帰郷の2年後に、結局は世を去ることになったのでした。