賢治が「兄妹像手帳」に記した「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」は、読む者の心に突き刺さるような文語詩稿です。
われらぞやがて泯ぶべき
そは身うちやみ あるは身弱く
また 頑きことになれざりければなり
さあらば 友よ
誰か未来にこを償え
いまこをあざけりさげすむとも
われは泯ぶるその日まで
たゞその日まで
鳥のごとくに歌はん哉
鳥のごとくに歌はんかな
身弱きもの
意久地なきもの
あるひはすでに傷つけるもの
そのひとなべて
こゝに集へ
われらともに歌ひて泯びなんを
『新校本宮澤賢治全集』第13巻(上)p.434より
※
賢治がこの「兄妹像手帳」を使っていたのは、東北砕石工場技師をしていた1931年9月頃でしたので、上の詩稿は石灰肥料のセールスの合間にでも書きつけたものかと思われます。
「泯ぶ」という難しい字は「ホロぶ」と読み、もともと賢治自身は「汒ぶ」と書いていたのですが、「汒」の字義は「あわただしいさま=忙」で、これでは文意をなさないことから、新校本全集では「泯」の書き誤りと判断して、上記のように校訂しています。
さて、まずここで解釈の難しいのは、三行目の「頑きことになれざりければなり」です。
最初の「頑き」の読み方からしてわかりませんが、栗原敦さんは「われらぞやがて泯ぶべき」(新宿書房『宮沢賢治 透明な軌道の上から』所収)において、次のように考察しておられます。
第三行「頑きことになれざりければなり」の「頑き」は「カタクナき」と読ませているのだろうか。そうであれば、病弱だったり弱い身体の持ち主であったり、また頑なさ、(世間や周囲にあたりまえの)頑ななふるまいや扱いに自ら慣れなかったからなのである、というくらいの意味になろう。純粋ゆえの傷つきやすさをいうわけだ。(上掲書p.285)
一方、YouTube にアップされている朗読には、これを「カタきこと」と読んでいるものもあります。
辞書的には、「頑き」を「カタき」と読むという訓は見当たらず、「頑」を形容詞として読むならば、「カタクナしき」にならざるをえないのかと思います。
『精選版 日本国語大辞典』には、次のようにあります。
かたくな-し【頑】《形シク》
①すなおでなく、ひねくれている。不適当な考えにいつまでも固執している。強情である。意地っぱりである。
②物事を理解してそれに応ずることができない。融通がきかない。おろかである。物わかりが悪い。気がきかない。
③教養がなく見苦しい。情趣がなくぶこつである。いやしい。不体裁である。
この①にあるような、「(周囲の人の)強情な振る舞い」に「慣れない」ので、精神的に傷ついてしまう、というのが栗原さんの提案しておられる解釈でしょう。
ここで私がふと連想するのは、賢治が下根子桜での農作業で無理をして体を壊してしまった際に、「金持ちの坊ちゃんが慣れない百姓仕事なんかするからだ」などと、周囲から嘲られていたという話です。この逸話の「重労働に慣れないから……」というところが、「頑きことになれざりければ……」に通ずるように思うのです。
また、ここをそのように解釈すれば、実際にこのことで賢治は嘲られていたということなので、七行目の「いまはこをあざけりさげすむとも」という表現とも、辻褄が合います。
ただ、ここの「頑きこと」を「カタクナしきこと」と読むと、上に見た『精選版 日本国語大辞典』の語義からはややずれてしまい、このような解釈は難しくなってしまいます。そこでここは、辞書的な読み方からは外れてしまいますが、「カタきこと」と読むことにして、「難きこと=困難なこと」を意味すると考えれば、「重労働に慣れないから……」と解釈することもできるのではないでしょうか。
つまり、二~三行目は、「それは病気になったり、体が弱かったり、重労働に慣れなかったりするためだ」と、読むこともできるのではないかと思うのです。
※
あと、もう一つ解釈が難しいのは、五行目の「誰か未来にこを償え」です。賢治が、何かを「償え」と人に求めるのは、非常に珍しいことだと思いますが、これはいったい何を「償え」というのでしょうか。
思えば最近も「贈与と交換のエートス」という記事に書いたように、賢治は何であれ「無償で」行動することを好み、童話においてもそのような主人公を、特徴的に描きました。「グスコーブドリの伝記」でも、「銀河鉄道の夜」でもそうです。「「ツェ」ねずみ」には、「
おそらく賢治は、自分の家が貧しい農民から搾り取った金利で生活していることに罪悪感を抱いていて、まるで生まれた時から「負債」を背負っているかのような感覚さえ持っていたのではないでしょうか。これを見田宗介氏は、〈存在の原罪〉と呼んでいました。
このような自己意識が、さそりやよだかのような「他の命を取ることで生きている存在」に投影される時、「死ぬことによってやっと償いを果たす」という形になります。
これは、ここに見られる他者への償いの要求とは、真逆の構図です。
この「誰か未来にこを償え」について、再び栗原敦さんの解釈を参照すると、次のように記しておられます。
「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」の第四、五行「さあらば 友よ/誰か未来にこを償え」は、言うまでもなくわれらの犠牲に補償を与えよという意味ではない。「やがて泯ぶ」ことによってわれらが充分に果たし得なかったところを「友よ」補って果たせというのである。あまりに弱く傷つきやすかったために、途半ばにして倒れねばならなかったわれらに代って──。(上掲書p.291)
たしかに栗原さんの指摘のとおり、この部分の意味は「われらの犠牲に補償を与えよ」ではありえないでしょう。各自の病気等で早逝する「われら」に対して、「友」が補償をすべき筋合いは何もありませんし、賢治がそんなことを求めるとも思えません。
一方、栗原さんが呈示する「われらが充分に果たし得なかったところを補って果たせ」という解釈は、十分に説得力のある穏当なものと思えます。
ここで、この箇所の意味についてもう少し掘り下げるために、「誰か未来にこを償え」の「こ」は何を指しているのか、すなわち作者は「何を償え」と言っているのか、という点について考えてみます。
栗原さんの解釈では、「こ」は一行目の「われらぞやがて泯ぶべき」を指しているということになるでしょう。「我々はまもなく死んでしまう」ので、その志を引き継ぐことにより、「我々の死を埋め合わせてくれ」というわけです。
一方、「こ」の指示内容が、二~三行目の「身うちやみ あるは身弱く/また 頑きことになれざりければ」という部分だとすれば、「我らの弱さを償え」ということになります。しかし、我らが弱いのは誰かのせいというわけではありませんから、それを「償え」というのは、やはり「われらの犠牲に補償を与えよ」と同じく、不当な要求のように思われます。
以上、五行目の「こ」が指す内容を、四行目より前に探すならば、上の二通りしか見つかりません。しかしここで、目を次の六行目に進めると、「いまこをあざけりさげすむとも」とあって、「いまは〇〇だとしても、未来にはこれを償え」という形で、「いま」と「未来」を対置する構造になっているのではないかと思われます。この二行は、「いま」の「〇〇」という事柄を、「未来」において「償え」、という趣旨の内容を、倒置法で述べているのではないでしょうか。
だとすれば、「こを償え」の「こ」が指しているのは、六行目の「あざけりさげすむ」だということになります。
そして、五行目の「いまこをあざけりさげすむとも」の方の「こ」が指しているのは、二~三行目の「身うちやみ あるは身弱く/また 頑きことになれざりければ」と考えられますので、結局この二行の倒置を本来の順序に戻してみると、「今は我らの弱さを嘲り蔑むにしても、未来にはその行いを、誰かが償え」ということになります。
……というような解釈が、理屈の上ではありえるのかと思うのですが、しかしそれにしても、「いま」行われている嘲りや蔑みを、「未来」において誰かが「償う」ことなど、はたしてできるものなのでしょうか。
ここで私が連想するのは、「虔十公園林」です。
このお話の主人公の虔十は、周りから「少し足りない」と思われている人で、その意味では、やはり本日の「われら」に連なる「弱者」です。子供たちにとっても、虔十は「ばかにして笑ふ」対象でした。そんな虔十は、ある秋にチブスにかかって、あっけなく死んでしまいます。
ところが虔十の死後、彼が植えた美しい杉林の真価を、アメリカ帰りの偉い博士が認め、それを「虔十公園林」と命名するのです。その名を刻んだ立派な石碑も建てられ、そして「昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしてゐる人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました」という結果になります。
ここにおいて、生前の虔十に対してなされた嘲りや蔑みは、博士の主導で「償い」を得て、汚名は挽回されたと言ってよいのではないでしょうか。
それと同じく、この「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」において賢治は、自分を含めた「身弱きもの」たちに対して投げつけられる嘲り蔑みを、そのまま許容しておくことはできず、虔十のように何とかして名誉回復がなされるべきだと、思わずにいられなかったのではないでしょうか。
やはり東北砕石工場技師時代に賢治が使っていた「王冠印手帳」には、「病めるがゆゑにうらぎりしと/さこそはひとも唱へしか」とか、「農民ら病みてはかなきわれを嘲り……」とか、「あゝあざけりと屈辱の/もなかを風の過ぎ行けば……」などの下書きがあり、これらは文語詩「〔商人ら やみていぶせきわれをあざみ〕」(「文語詩稿 一百篇」)にも至ります。
この時期に、農民や商人から賢治の病弱な身に浴びせられた嘲りは、彼を深く傷つけていて、自分や同じような立場の者が負ったこういう傷が、未来においていつかは癒されることを、賢治は願わずにいられなかったのではないかと、私は想像するのです。
※
さて話は変わりますが、「死」とは基本的に一人で向かうものですし、きわめて孤独な出来事です。賢治の作品に登場する「死」も、個別単独のものとして描かれており、カムパネルラも、グスコーブドリも、小十郎も、さそりも、きつねも、皆そうです。
これに対して、「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」において、まるで「われら」が一緒に手を携えるかのように、「ともに泯びなん」として死が詠われているのは、かなり特異なことと言ってよいでしょう。
それでは、ここで賢治が「自分と一緒に亡びよう」と呼びかけている「われら」とは、いったいどういう人たちなのでしょうか。
ここで参考になるのが、この文語詩稿と同じ「兄妹像手帳」の少し後に記されている、「〔よく描きよくうたふもの〕」という文語詩稿です。
それは、次の二行だけの断片です。
よく描きよくうたふもの
なにとてかくは身よはきぞと
「よく描きよく歌う者は、どうしてこんなに体が弱いのか」という内容で、本来ならこの後にも続いていくはずだったのでしょうが、「(絵や歌の上手な人など)美に生きる者は、えてして病弱だ」ということを言っているようです。「佳人薄命」とか「才子多病」などの言葉が思い浮かびます。
このような人は、その弱さゆえにばかにされることがあるかもしれませんし、皆より早く世を去らざるをえないでしょうが、「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」ではそのような薄幸の人たちに対して、「ともに歌ひて泯びなんを」と呼びかけているのだろうと思われます。
具体的にどんな人のことだろうかと想像してみると、たとえば歌やヴァイオリンが上手で、賢治たち兄弟妹に讃美歌を教えてともに歌い、若くして死んだ妹トシは、誰よりもこの「われら」にぴったり当てはまる感じです。彼女は女学生の頃に、心ない噂で辱められたこともありました。
あるいは、上にも見たように「虔十公園林」の虔十もそうです。彼もまた類い稀な美的感受性の持ち主でしたが、歌や絵ではなくて美しい公園林を、その作品として残しました。
また、賢治が好きだったフィンセント・ファン・ゴッホも、晩年は精神病者として様々な嘲りと蔑みを受け、認められないままに亡くなりました。彼の場合は、没後に得た世界最高級の評価によって、とりあえず名誉の回復はなされたとも言えるでしょう。
その他では、やはり失意のうちに亡くなった石川啄木なども、ここに連ねてもよいのかもしれません。また当時の賢治の周辺には、今となってはあまり知られていなくても、こういう人々はそれなりにいたのではないでしょうか。
このような、美を愛しつつ早逝した人、生前には評価されず苦しんだ人々への、心からの慈しみを込めて、賢治は「ともに歌ひて泯びなんを」と詠ったのではないでしょうか。これは「共生」ならぬ、「共死」の歌とも言えます。
※
あともう一つ、これが賢治の作品として非常に珍しいのは、他の全ての作品のように「人のために役立って死ぬ」のではなくて、ただただ滅びに身を任せ、他人のためではなく自分たちのために、歌いつつ死んでいこう、とする態度です。
賢治の父親は、「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。なにか考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんかを折角ひねくりまわすとは不届千万」(保阪嘉内あて書簡154)などと賢治を叱責した人ですし、母親も「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」といつも言っていたということです。このような両親の薫陶のおかげで、賢治はいつも必死で、とにかく「人のためになる」ことを考え、作品においてもそのような生き方を描いてきました。
しかしこの「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」においては、そのような倫理的態度は忘れてしまったかのように、ひたすら「鳥のごとくに歌はんかな」と綴るのです。これは、ただ「美しいもの」を愛でようとする、「耽美的態度」と言ってよいでしょう。
「錦絵なんかを折角ひねくりまわすとは不届千万」と断じた父親は、「美」というものが持つ底知れぬ魅惑を、結局最後までわかってくれませんでしたが、そんな父の価値観からは全く解放されて、ただ歌いながら滅んでいこうと、仲間たちに呼びかけているわけです。
この作品が書かれた後、まだ2か月もしないうちに、こんどは賢治は「〔雨ニモマケズ〕」を書くのですが、ここにはまた180度違う価値観が描かれているのが、何とも興味深いところです。
※
ということで、今日は「〔われらぞやがて泯ぶべき〕」という、手帳に残されたメモ的な文語詩稿について、あれこれ勝手な思いつきを書いてみました。
以上のような独断と偏見に基づいて、下記にこの作品の口語訳を試みました。
作品全体は、「われら」について語る一~六行目、「われ」の思いを述べる七~十行目、また「われら」に呼びかける十一~十六行目、という三部構成になっていますので、部分ごとに分けています。
私たちはやがて亡びるだろう。
それは病気のためだったり、もともと体が弱かったり、
重労働に慣れなかったりするためだ。
だから友よ……
私たちのそんな弱さを、たとえ今は嘲り蔑むにしても、
未来には誰か、この汚名をそそいでくれないか。私は亡びるその日まで、
ただその日まで……
鳥のように歌おう、
鳥のように歌うのだ。体の弱い者、
意気地のない者、
あるいは傷ついた者……。
そんな人たちはみんな、
ここに集まれ。
私たちはともに歌い、ともに亡びようではないか。
ぶらんしぇ(青木静枝)
少し前の記事に関して伺いたいことがあります。賢治は晩年、かなり病状が悪くなってから、文語詩を書き残しました。
兄妹手帳や王冠印手帳にも文語詩調で書き綴っています。
なぜ口語詩から文体を変えてきたのか、浜垣さんはどのように捉えていらっしゃるのですか?すでに論考されておられるかもと思いましたが見つけられず、もしおありでしたら教えて頂きたいと思います。
hamagaki
ぶらんしぇ(青木静枝)様、コメントをありがとうございます。
晩年の賢治が、なぜ口語から文語へと表現形態を変えていったのか……。
これはとても難しい問題ですね。
もちろん晩年にも文語詩と並行して、厖大な口語詩群を推敲して作品化する作業を続けていたわけですから、何も文語ばかり書いていたわけではありませんが、ご指摘のように、晩年の手帳には、最初から文語体で「スケッチ」が行われるようになりますので、実際に彼の心の中では、「言葉が文語体で紡がれる」ようになっていた面があるのでしょう。
この変化は、おそらく何か特定の「理由」や「目的」があっての意図的なものではなく、賢治にとってはやむにやまれぬものだったのではないかと思いますので、きっと宮沢賢治本人に、「なぜ文語で書くようになったのですか?」と質問してみても、「何となくそうなってきたのです」としか答えようがないのではと思います。
「なぜか?」という問いは、後世の読者や研究者にとっての問題であり、作者本人は理屈抜きに、常にとにかく自分が書きたいものを書いてきたのでしょう。
ただ、後世の者として考えてみると、重い病気をして臥床を余儀なくされたという生活状況の変化は、やはりかなりの影響を与えたのだろうと思われます。
(時期としても、文語が現れてくるのは「疾中」の頃からです。)
「病気のために、外の自然や社会に触れて新たなインプットをすることができなくなったので、記憶の中から過去の体験を取り出しては、深く深く煮詰めて作品化することを試みていった」とか、「布団の中で体を動かせないことが、定型の韻律を練るのに格好の時間を与えてくれた」などというような解釈が思い浮かびます。
しかしこれらによっても、上記のように手帳へのスケッチまで文語で行うようになったことの説明はつきませんね。
ということで、私などにはきちんと論理立てて述べるのは難しいですが、賢治にとっての文語詩の意味については、すでにお読みかもしれませんが、たとえば岡井隆著『文語詩人 宮沢賢治』の「文語詩の発見」の章における、若き吉本隆明の論の読み解きとか、信時哲郎さんの『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』の「序論」などに、比較的詳しい考察がありますね。信時さんは、「口誦」ということを重視しておられるようです。
……などといろいろ書き連ねてみても、なかなかちゃんとしたお答えにならず、申しわけありません。
また今後とも、どうかよろしくお願い申し上げます。