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「心象」か「所感」か

 以前に、賢治の詩の中に出てくる「共業所感ぐうごうしょかん」という仏教用語を取り上げて、「「共業所感」としての風景」という記事を書いたことがありました。
 今回、その語の一部分でもある「所感」という言葉の用例を、当サイトの「詩テキスト検索」で調べてみたところ、彼が詩作品でこの「所感」の語を用いているのは、かなり狭い時期に集中していることに興味を惹かれましたので、今日はこれについて考えてみます。

 こういった言葉の用例の調査では、いつもなら『新校本宮澤賢治全集』別巻の「索引篇」が最も強力なツールになるのですが、調べてみるとその見出しに「所感体」「所感の海」という複合語はあるものの、「所感」としては立項されていないので、現状ではとりあえず当サイトの検索を使うしかありませんでした。
 ということで、パソコンならこのページ右上(スマートフォンなら画面のずっと下方)の検索窓の下のラジオボタンで「詩テキスト検索」の方を選択し、「所感」と入力して検索を行うと、賢治の詩作品におけるこの語のを使用例は、下表のようになりました。検索結果のうち、「葱嶺先生の散歩」は各段階の草稿において同じ形で使われているので、定稿のみを挙げています。

賢治詩における「所感」の用例
作品名(草稿段階) 用例 スケッチ日付
五輪峠(下書稿(一)手入れ) 所感となっては/気相は風/液相は水/固相は核の塵とする 1924/3/24
〔鉄道線路と国道が〕(下書稿(一)) 風や水やまたかゞやかに熟した春が/共業所感そのものとして推移しますと 1924/5/16
〔鉄道線路と国道が〕(下書稿(二)) それははるかな青岱や/古びてひかる残雪ともに/所感の外のものならず 1924/5/16
〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕(下書稿(一)) 三つ並んだ樹陰の赤い石塚と共にいまわれわれの所感を外れた 1924/5/18
牛(下書稿(一)手入れ) 西域から発掘される新な経巻や/すべては不信の所感でないのか 1924/5/22
葱嶺先生の散歩(定稿) 遠く時軸を溯り/幾多所感の海を経て/竜樹菩薩の大論に/わづかに暗示されたるたぐひ なし
(先駆形「亜細亜学者の散策」は1924/7/5)
〔北いっぱいの星ぞらに〕(下書稿(三)手入れ) それら三十三天は/所感の外ではあるけれども 1924/8/17
阿耨達池幻想曲(下書稿手入れ) ……その虚空こそ/ちがった極微の所感体/異の空間への媒介者…… なし

 ここで注目していただきたいのは、右端の「スケッチ日付」です。賢治は、口語詩草稿の多くに律儀に日付を西暦で記入していて、この日付は推敲によって稿が変わっても、そのまま引き継がれていきます。これは、作者賢治が詩に描写されている内容を体験した日付を、すなわちそれを彼が初めて手帳に書き取った日付を、表していると考えられるものです。

 上の表のように、賢治が「所感」の語の現れる詩を書いた時期は、明示されている6作品では1924年3月から8月の間に限られており、日付の書かれていない「葱嶺先生の散歩」「阿耨達池幻想曲」においても、前者とほぼ同内容の先駆形「亜細亜学者の散策」の日付は1924年7月で、やはりこの期間に入っています。賢治が詩を創作したのは、『春と修羅』が始まる1922年1月から、文語詩は1933年の死の直前までの期間にわたっていますから、生涯におけるこの10年あまりの中で、使用例が上の数か月だけに集中しているというのは、かなり特徴的な現象なのではないかと思います。

 そこで次に、この「所感」という語の意味について調べておきます。上の「用例」のテキストを見ていただいたらおわかりのように、賢治はこの語を、現在の私たちが通常「年頭所感」などと使うような意味で、使用しているのではなさそうです。
 小学館『日本国語大辞典』で「所感」の語を引いてみると、まず最初に書かれているのは、「仏教語」としての意味です。

しょ-かん【所感】《名》➀仏語。前世での行為が、その結果としてもたらすもの。*覚海法橋法語(12C終-13C前)「此業力所感の故に、業の尽不尽に依て生を改めて」*海道記(1223頃)極楽西方に非ず「獄卒、知らぬ鬼に非ず。己が所感の業因にあり」*三国伝記(1407-46頃か)三・三「或人思ひけるは、衆生の貧福は先業の所感」〔後略〕

 仏教語としての説明をもう少し調べようと思い、望月信亨『佛教大辭典』を見てみましたがこの語は立項されておらず、さらに中村元『広説仏教語大辞典』にも、法蔵館『総合仏教大辞典』にも、『岩波仏教辞典』にも、「所感」という見出し語はありませんでした。
 ただ小学館『例文仏教語大辞典』には、下のように説明されていました。

しょ-かん【所感】過去の行為によって感受せられたもの。*海道記-極楽西方に非ず「獄卒、知らぬ鬼に非ず。己が所感の業因にあり」

 すなわち仏教においては、「所感」の文字通りの意味である「感ずる所」という語義を前提とした上で、「各々の衆生の感ずる所は、各自の過去の行為(業)の結果として現れているのだ」という、因果論的解釈が込められているということなのでしょう。
 両辞典に引用されている『海道記』の、「獄卒、知らぬ鬼に非ず。己が所感の業因にあり」で言えば、地獄で会う恐ろしい鬼も、自らの業因によって「そう感じているにすぎない」と解釈されるということですが、これを見て思い出すのは、賢治が土性調査のために山歩きをしていた1918年の書簡54です。

猿ノ足痕ヤ熊ノ足痕ニモ度々御目ニカカリマス。実ハ私モピストルガホシイトモ思ヒマシタ。ケレドモ熊トテモ私ガ創ッタノデスカラソンナニ意地悪ク骨マデ喰フ様ナコトハシマスマイ。

 ここで賢治は、自分が山中で出会う熊も、自らが過去の業によって「創ッタ」所感の一つにすぎないと言っているわけで、地獄の鬼と同じ扱いです。
 また、やはり1918年に『アザリア』第六号に掲載した断章「〔峯や谷は〕」で次のように書いているのも、同じことでしょう。

この峯や谷は実にわたしが刻んだのです。そのけはしい処にはわが獣のかなしみが凝って出来た雲が流れその谷底には茨や様々の灌木が暗くも被さりました。

 上記の、「わが獣のかなしみが凝って出来た雲」の解釈としては、過去世において自分が獣だった時の「かなしみ」と考えるか、現在の自分の心に「獣のかなしみ」という要素が含まれていると考えるか、二つの可能性がありえるでしょうが、前者であれば風景の原因として自らの過去の「業」を想定しているところが、仏教的な「所感」の意味に合致します。

 このように賢治は、「この世界で体験する様々な現象は、過去の業による所感である」という仏教的な考えを、学生時代から既に身に付けていたと思われますが、それにしても1924年3月~8月という「春と修羅 第二集」の初期の頃の作品に、ことさら「所感」の用例が集中して現れる要因は、いったい何なのでしょうか。
 それについて考えるために、個々の用例を検討してみます。

 まず、「五輪峠(下書稿(一)手入れ)」では、次のように仏教と自然科学の世界観を対比させる中で登場します。なお、以下の作品引用では、「所感」の語を太字で強調しておきます。

「五輪は地水火風空
空といふのは総括だとさ
まあ真空でいゝだらう
火はエネルギー
地はまあ固体元素
水は液態元素
風は気態元素と考へるかな
世界もわれわれもこれだといふのさ
心といふのもこれだといふ
いまだって変わらないさな」
雲もやっぱりさうだと云へば
それは元来一つの真空だけであり
所感となっては
気相は風
液相は水
固相は核の塵とする
そして運動のエネルギーと
熱と電気は火に入れる
それからわたくしもそれだ
この楢の木を引き裂けるといってゐる
村のこどももそれで
わたくしであり彼であり
雲であり岩であるのは
たゞ因縁であるといふ
そこで畢竟世界はたゞ
因縁があるだけといふ
雪の一つぶ一つぶの
質も形も進度も位置も
時間もみな因縁自体であると
さう考えると
なんだか心がぼうとなる

 最初に「 」内で、仏教の五元素説(五大)を現代の科学で解釈し直した後、11行目の「雲もやっぱりさうだと云へば……」から、さらに仏教的に深く追究していきます。元来は全ては「真空」である一方、それはまた現象面では「所感となって」、「雲」や「わたくし」や「村のこども」として現れるのです。
 ここでは、過去の業に基づく因果論的解釈よりも、〈「空」という本質 vs 現象としての「所感」〉という、存在論・認識論的な視点が重視されているようです。

 次に、〔鉄道線路と国道が〕(下書稿(二))では、次のように出てきます。

これは所謂芬芳五月
陸中国の清明である
並木の松と家とはみちに影を置き
それははるかな青岱や
古びてひかる残雪ともに
所感の外のものならず

 ここでは、並木の松や家の影や、遠い山並みや残雪という5月の美しい景色が、「所感以外の何物でもない」と捉えられつつ、愛でられています。
 仏教の信仰や実践の上では、かりそめの現象にすぎない景色の美しさに目を奪われるよりも、本質としての「空」を洞察する方が大切なのでしょうが、賢治はあえて「所感」である美の方を、讃えているのです。

 一方、〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕(下書稿(一))では、眼前の景色に「所感を外れた」ものの影響を感じとっています。

一本の緑天蚕絨の杉の古木が
南の風に奇矯な枝をそよがせてゐる
その狂ほしい塊りや房の造形は
表面立地や樹の変質によるけれども
またそこに棲む古い鬼神の気癖を稟けて
三つ並んだ樹陰の赤い石塚と共にいまわれわれの所感を外れた
       古い宙宇の投影である

 ここで賢治は、杉の古木の「奇矯な枝」の造形に、表面立地の影響だけでなく、「古い鬼神の気癖」や「古い宙宇の投影」など、異世界から及ぶ力を感じているわけです。
 この場合の「所感」とは、われわれが「この世界」で感じられるものを指しており、「異世界」のものと対置されています。

 次の、牛(下書稿(一)手入れ)の用例は、断片的で明確な意味はつかみにくいですが、これは仏教的な意味というよりも、現代的な通常の「所感」の意味で使われているように思われます。

   すべてこれらは法滅の相でないのか
   西域から発掘される新な経巻や
   すべては不信の所感でないのか

 すなわち、「不信の所感」とは、仏教の信仰が廃れる「法滅」の時代における不信の表現、というような意味で用いられているように思われます。

 葱嶺先生の散歩(定稿)には、下記のように出てきます。

さあれわたしの名指したものは
今日世上交易の
暗い黄いろなものでなく
遠く時軸を溯り
幾多所感の海を経て
竜樹菩薩の大論に
わづかに暗示されたるたぐひ

 これは、少し前に「『大智度論』の閻浮檀金」という記事に書いたように、現代の黄金は昔の龍樹の時代などの黄金とは異なっているのではないか、という空想的なお話の一部ですが、ここにある「幾多所感の海を経て……」という表現は、前の行の「遠く時軸を溯り」という動的なプロセスを、比喩的に描写するもののように思われます。すなわち、遠く時軸を溯るタイムトラベルの最中に、過去の世界の景色がめくるめく走馬灯のように周囲を通り過ぎていく様子を、賢治はこのように表現しているのではないかと思うのです。
 そうすると、この「所感」は「感受される世界の総体」というような意味になります。

 〔北いっぱいの星ぞらに〕(下書稿(三)手入れ)には、また「所感の外」として出てきます。

それら三十三天は
所感の外ではあるけれども
やっぱりそこに連亘し
恐らく人の世界のこんな静な晩は
修羅も襲ってこないのだらう

 ここでは、天界のうちの一段階である「三十三天」が「所感の外」と表現されていて、この世界の所感が「異世界」と対置されていることから、〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕(下書稿(一))と同義の用例と言えます。

 最後に阿耨達池幻想曲(下書稿手入れ)では、次のように登場します。

虚空に小さな裂罅ができるにさういない
  ……その虚空こそ
    ちがった極微の所感
    異の空間への媒介者……

 ここに出てくる「虚空の裂罅」とは、下の賢治自筆の水彩画に描かれているもののことでしょう。(筑摩書房『写真集 宮澤賢治の世界』p.94より)

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20220612c.png この絵では、月や星の浮かぶ天空に裂け目ができて変な顔が覗いており、また地面の裂け目からは細い手が何本も出ています。賢治はしばしばこのような仕方で、「この世界」とは別の「異世界」の顕現を、体感していたのだろうと思われます。
 さて、上の「阿耨達池幻想曲」のテキストの解釈としては、引用部2行目の「その虚空こそ」を受けているのは、次の行の「所感体」ではなくて、その次の行の「媒介者」と考えるべきでしょう。「虚空」は感官にとって「所感」とはなりえないからです。
 そして、引用部3行目の「ちがった極微の所感体」の「ちがった」は、次の行の「異の空間」を指しており、「異空間の極微の所感体」とは、「この世界」における電子や原子に相当する異空間の存在、すなわち賢治が「思索メモ2」(右図)で言うところの、「異単元」に相当するものでしょう。「虚空」が「異の空間への媒介者」であるということの意味は、右図のように「この世界」から「真空」を経由すると「異世界」に通じている、ということです。賢治にとっては上の絵のように、そのような「異世界」がふと「小さな裂罅」を通して見えてしまうことがあったのでしょう。
 このテキストには、これまで「所感」と対置されてきた、「虚空」と「異空間」の両方が出てきますが、ここで「所感」と対になっているのは、「異空間」ではなく「虚空」の方です。すなわち「ちがった極微の所感体=異単元」とは、「虚空」ではなく異空間における一つの「現象」なのです。

 以上、詩における賢治の「所感」の使用法をまとめると、1例において現代同様の「感ずる所」という意味で使われていたようですが、その他の例では仏教的に「この世界において感じられる現象の総体」という意味で使用されており、ある場合は「空」に対置され、またある場合は「異世界の現象」に対置されている、ということがわかりました。

 これは、まさしく仏教的な世界観であり、上にも見たように早くも賢治が学生時代に書いたものにも表現されていて、おそらく彼が終生変わらず持ち続けていた思想だったろうと思われます。それにもかかわらず、この世界観と密接に関わる「所感」という語が、詩においては特定の短い時期のみにまとまって用いられた原因としては、賢治は自らの考えを整理するために、特にこの時期に何らかの仏教書を読んだり、思索を深めたりという作業を集中して行っていたからではないか、というようなことが私には考えられます。

 それが具体的にどういう仏教書だったのかというようなことはわかりませんが、一つ重要と思われるのは、このような世界観は、1924年1月20日の日付を持つ『春と修羅』の「」に記されている思想の、再整理とも言えるということです。
 「」にある(すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの)とか、「けだしわれわれがわれわれの感官や/風景や人物をかんずるやうに/そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに/記録や歴史、あるひは地史といふものも/それのいろいろの論料といつしよに/(因果の時空的制約のもとに)/われわれがかんじてゐるのに過ぎません」という部分は、まさに上に見た「所感」そのものですし、「たゞたしかに記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで/それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで……」の箇所では、所感が「虚無(空)」と対置されながらも、それはそれとして無視できないことを述べています。
 賢治は、〈心象スケッチ宣言〉とも言うべき「」を1924年1月に書いた後、さらに半年あまりの期間にわたって、この世界をわれわれの「業」に起因する「所感」として捉える仏教的な世界観を深めようと、あれこれと考えを巡らし続け、その思いの端々がこの時期の作品に顔を出すことになったのではないでしょうか。

 振り返れば、賢治は「この世界において感じられる現象の総体」を忠実に記録するという自らの詩作の方法論を、「心象スケッチ」と名づけたわけですが、ここで「心象」という心理学用語で呼ばれているものは、もしも仏教用語で表現するならば、まさに「所感」に相当します。
 つまり、賢治の「心象スケッチ」とは、実は仏教的には「所感スケッチ」と呼んでもよいものだった、ということになるわけです。ただし、この「所感」を一般の人に仏教用語の意味で理解してもらうことはほぼ期待できず、世間で普通に使われている意味で受け取られると、「所感スケッチ」ではあまりに通俗的に響いてしまいます。

 やはりこれは、「心象スケッチ」でよかったのだろうと思います。