「共業所感」としての風景

 「春と修羅 第二集」所収の「〔鉄道線路と国道が〕」の下書稿(一)は、「陸中の五月」と題された、光あふれる一幅の風景画のような作品です。

  陸中の五月
            一九二四、五、一六、
これは所謂芬芳五月の
〔約六字不明〕昔ながらの唯心日本の風景です
ならんだ木立と家とはみちに影を置き
それははるかな山の鏤やみ雪とともに
たびびとのこゝろのなかのそのけしきで
いたゞきに花をならべて植えつけた
ちいさな萱ぶきのうまやでは
黒馬もりもりかいばを噛み
頬のあかいはだしのこどもは
その入口に稲草の縄を三本つけて
引っぱったりうたったりして遊んでゐます
年経た並木の松は青ぞらに立ち
田を犁く馬は随処せわしく往返し
山脉が草火のけむりとともに
青くたよりなくながれるならば
雲はちゞれてぎらぎらひかり
風や水やまたかゞやかに熟した春が
共業所感そのものとして推移しますと
さっきの青ぞらの松の梢の間には
一本の高い火の見はしごがあって
その片っ方の端が折れたので
すきとほって青いこの国土の goblin が
そこのところでやすんでゐます
やすんでこゝらをながめてゐます
ずうっと遠くの崩れる光のあたりでは
前寒武利亜紀のころの
形のない鳥の子孫らが
しづかにごろごろ鳴いてゐます
もうほんたうに錯雑で
容易に把握をゆるさない
五月の日本陸中国の(四字不明)風景です

 もりもり飼い葉を食む馬、縄を引っ張って遊ぶ裸足の子供、ちょこんと座ってそれらを眺める土着の妖精(ゴブリン)らが、まるで説話のような世界を構成していますが、今回私が注目してみたいのは、18行目に出てくる「共業所感」という言葉です。

20201103a.jpg この見慣れない四字熟語は、「共業所感ぐうごうしょかん」と読む仏教用語ですが、その意味について、たとえば1889年に刊行された『仏教修身要録』という本(右画像は国会図書館デジタルコレクションより)では、次のように説明されています。

    第七章 共業所感
日月風水山河草木及び岩石国土等即ち非情ハ我人有情の業感に依て成れる者なれば之を共業所感と名くるなり故に山川国土等ハ一切有情の共有物にして之を受用するに富貴と貧賤と強大有力と弱小無力との論なく共に一箇の人として均き権利を有する者なり
童子等汝ぢ幼小なりとも同じく一箇の人なれバ日月の光明を受用するに誰も之を妨ぐる事能ハざるへし今一つの譬を取らば爰に二十人の人あり各々壹圓宛の金を出して蒸餅を購ハんに此二十人の人のみハ年長壮人との否との論なく之を得るに均き権利を有するが如し之を共業所感と謂ふなり斯る道理なるが故に鳥獣虫魚と雖も同じく一切の有情なれば此を推して其利を分たざるべからず

 すなわち、私たちの生活環境である「日月風水山河草木及び岩石国土」などの植物および無生物(=非情)は、この世界で共に暮らしている様々な人間および動物(=有情)がそれぞれ積み重ねた「業」の総和(=共業ぐうごう)によって形づくられたものであり、人間や動物たちはそれを共に平等に感受しているのだと、仏教では考えられているのです。
 「この世界」の事物だけを見ていると、目の前のこの山や川の存在に対して、なぜこんなにややこしい理屈を付けなければならないのか、今ひとつぴんと来ませんが、範囲を広げて「天界」の安楽優雅な環境や、逆に「地獄界」や「餓鬼界」の凄絶悲惨な環境も、それぞれの住人たちの共同責任でそのようにできているのだと考えると、「共業」という考え方に込められた宗教的な意味が、少しわかってくる気がします。

 それはさておき、上の作品における賢治は、五月の明るい農村の風景を眺めつつ、この景色は自分自身や、そこに見える黒馬や、遊ぶ子供や、goblin らの共同作業によって作られ、それをまた皆が一緒に均しく享受しているのだなあと、しみじみ思っているのでしょう。

 ところでこのように、賢治が「風景」というものについて、それは「有情たちが共同で形成したものだ」という仏教的な考えを述べている作品は他にもあって、たとえば次の「装景手記」もそうです。

〔前略〕
     ……そのまっ青な鋸を見よ……
すべてこれらの唯心論の人人は
風景をみな
諸仏と衆生の徳の配列であると見る
たとへば維摩詰居士は
それらの青い鋸を
人に高貢の心あればといふのである
それは感情移入によって
生じた情緒と外界との
最奇怪な混合であるなどとして
皮相に説明されるがやうな
さういふ種類のものではない
〔後略〕

 「そのまっ青な鋸」「それらの青い鋸」と表現されているのは、遠くにギザギザの形で連なる山脈のことですが、ここで賢治は、こういった風景というのは「諸仏と衆生の徳の配列である」と書いています。
 このうち、風景が「衆生の徳の配列」というのは、上の「共業」の説明から一応理解できますが、「諸仏」という存在はすでに悟りを開いて「業」を離れているわけですから、他の衆生と一緒に「共業」に参加することは、ありえないはずです。
 そこで、この意味について考えるために、その下に出てくる「維摩詰居士」について、見てみましょう。

 「維摩詰居士」とは、賢治も親しんでいた「維摩経」というお経の主人公で、在家の身でありながら仏教の奥義に深く通じ、様々な神通力を示しつつ文殊菩薩などと繰り広げる対話が、このお経の主要部分を成しています。
 賢治が「装景手記」で触れているのが、「維摩経」のどの箇所なのかが問題ですが、「仏国品第一」の次の部分に相当するというのが、『定本 宮澤賢治語彙辞典』や工藤哲夫氏の「賢治と維摩経」(『賢治論考』所収)の見解であり、そのとおりだろうと私も思います。

 そこで、長老シャーリプトラは言う。「ブラフマーよ、私にはこの大地が、高低や、いばらや、崖や、山頂や、溝や泥などでいっぱいなのが見えます」
 ブラフマー神が答える。「そのように仏国土が不浄に見えるわけは、きっと(自分の)心に高低があり、仏陀の知に対する意欲が浄らかでないからです。大徳シャーリプトラよ、すべての衆生に対して心が平等であり、仏陀の知に対する意欲が浄らかである者には、この仏国土が清浄なものとして映るのです」
 そのとき世尊は、(なお人々に疑念があるのを知って)この三千世界の上に足の指をおかれた。おかれるやいなや、この世界は、無量百・千の宝石を集め積み重ねて飾られるものとなった。
〔中略〕
 世尊が仰せられる。「シャーリプトラよ、この仏国土はいつもこのようであるのだが、低劣な衆生を次第に成熟させていくために、如来は、この仏国土にこんなに多くの欠陥や不完全さがあるように見せるのである。(長尾雅人訳『大乗仏典7』中公文庫より)

 ここでは、衆生の目にこの世界が山や崖などの凹凸で不整に見える理由として二つが挙げられており、一つには衆生の心に高低があり清浄でないためであること、もう一つには如来が衆生を成熟させるためにあえて不完全さがあるように見せているのだと、説明されています。前者が衆生の側に起因する「共業所感」の側面であり、さらに後者では仏の意図によってそう見せているわけで、衆生と仏の双方に要因があるのですから、「諸仏と衆生の徳の配列である」ということになるのでしょう。
 ただし、「維摩経」においてこのことを説いているのは、賢治が書いているところの維摩詰居士ではなく、上でご覧のようにブラフマー神(螺髻梵王)と世尊ですから、これは賢治の記憶違いかと思われます。

 また、〔鉄道線路と国道が〕」の2か月半ほど後の日付を持つ「〔北いっぱいの星ぞらに〕」の下書稿(六)には、次のような箇所があります。

   それもろもろの仏界に
   無量無辺のかたちあり
   あるひは円きあるは扁
   あるは花台のかたちなり
   世界のしかく住するや
   あるは覚者の意志により
   あるは衆生の業により
   また因縁にしたがへり

 上記では、仏界における「かたち」は「円」や「扁」や「花台」の様子であるのに対して、「(この)世界」の有り様は、あるものは「覚者の意思」により、またあるものは「衆生の業」による、としています。世界の形状が、覚者と衆生の両方の影響の反映であるとしている点が、「装景手記」と同じです。

 あともう一つ、東北砕石工場技師時代の「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」の最後の箇所も、やはり同じような立場から風景をとらえています。

〔前略〕
われすなはち
とみに疲れ癒え
全身洗へるこゝちして立ち
雲たち迷ふ青黒き山をば望み見たり
そは諸仏菩薩といはれしもの
つねにあらたなるかたちして
うごきはたらけばなり

 青年がかけてくれた清々しい言葉で疲れも癒えた賢治は、周囲の山並みを眺め、その山容は「諸仏菩薩が動き働いてくれているおかげなのだ」と、静かに讃歎しています。ここでは衆生の「共業」には触れていませんが、諸仏菩薩がその山々の姿を通して衆生を導こうとしてくれている働きに、賢治は感じ入っているようです。
 ところで、上記のようにもともと「維摩経」では、この世界が山脈の凹凸などで不揃いに見えるのは、衆生の心の不浄のためであり否定的な現象とされているのに、賢治は「陸中の五月」でも「装景手記」でも「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」でも、風景をなす山容の興趣を肯定的にとらえて愛でている様子なのは、面白いところです。

 さて、以上の三つの作品では、賢治が眼前の風景を実際に眺めつつ、「共業所感」について想を巡らす様子が描かれていましたが、それらとはまた別に、より観念的な立場からこの仏教摂理に触れているテキストもあります。「法華堂建立勧進文」や『春と修羅』の「」などが、それです。

 まず「法華堂建立勧進文」には、次のような一節があります。

〔前略〕
世界せかいぐう所感しよかんゆゑ
どくおもければくら
饑疾きしつ風水ふうすゐしきりにて
兵火へいくわつひえぬなり
正信しやうしんあればきよ
おのづから厳浄ごんじやう
ふうの世となりて
まねかで華果けくわいたるなり
〔後略〕

 「世界せかいぐう所感しよかんゆゑ」という部分が、まさに「共業所感ぐうごうしょかん」に基づいた記述であり、この行に続いて、人々の悪業に対しては悪い環境が、善業に対しては良い環境が伴ってくることが、述べられています。

 また、『春と修羅』の「」には、次のような箇所があります。

〔前略〕
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
〔後略〕

 ここでは、「風景や人物を感ずるやうに/そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに」というところに、「共業所感」の考えが表れています。さっきの「ぐう所感しよかん」は、よりこなれて「共通に感ずる」と記されます。
 ところで私はこのテキストで、「たゞ共通に感ずるだけ」と賢治が表現している点に、特に注目しておきたいと思います。「共通に感ずる」のみならず、「ただそれだけ」と彼がことさらに述べていることの意味は、その感覚の背後に客観的実在と呼ぶべき実体はなく、ただその<感じ>が共通であるだけだ、ということにあるのでしょう。
 すなわちこれは、「あらゆる存在はただ心の表れにすぎない」という、「唯心論」の表明と言えます。

 そこで最初に挙げた、賢治が眼前の風景に「共業所感」を見る諸作品に戻ってみると、やはり彼はここでも「唯心」ということを明確に意識していたことが、わかります。「陸中の五月」には「唯心日本の風景」と書かれ、「装景手記」では「唯心論の人人は/風景をみな/諸仏と衆生の徳の配列であると見る」と述べられているのです。

 実は賢治は、この「唯心=あらゆる存在はただ心の表れにすぎない」という世界観を、学生時代から様々な形で述べていました。1918年の父政次郎あて書簡46には、「戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候」と書き、1919年の保阪嘉内あて書簡153には、「石丸博士も保阪さんもみな私のなかに明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る」などと書いています。
 このような記述を見ると、賢治はかなり強固な唯心論者だったことがわかりますが、もともと仏教の世界観というのは唯心論的傾向が強く、賢治もそれを忠実に受け入れていたと考えることもできます。

 ただ一般的に、唯心論に内在する問題の一つは、これをあまり極端に徹底すると、「あらゆる現象は私の心の中の表象であり、世界には私一人しか存在しない」という「独我論」に陥りかねないということです。
 若い頃の賢治にも、このような傾向は実際に認められ、たとえば1918年の保阪嘉内あて書簡49は、退学になった嘉内を慰めようと書かれたものですが、賢治はその中で「退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか」と書いています。しかしどうでしょう、ここに言う「自分」とは賢治自身のことでしょうが、嘉内の退学も俺の中の現象だ、保阪嘉内も俺だ、と賢治に言ってもらった嘉内は、はたして自らの退学の傷心が少しでも癒されたでしょうか?

 賢治に悪気はないのでしょうが、これは賢治の立場からのあまりに一方的な理屈であり、嘉内の慰めになったとはとても思えません。
 このような傾向は、『春と修羅』の初期の一部の作品の傾向にも、対応するように思います。たとえば「真空溶媒」においては、シュールレアリスム的な非常にユニークな世界が展開していきますが、そこにはこの世界を共有する「他者」の存在というものは、はなから念頭になさそうな雰囲気です。
 ここで、当時のこのような賢治の世界観──相当に主観的で、すべてを自分一人の表象としてとらえようとする──を、「独我論的唯心論」と呼ぶことにしてみます。

 この世界観は、賢治独特の幻想的な作品世界が生み出される上で、一つの重要な動因になっていたと思われますが、しかし私の思うところでは、彼のこの世界観はある時期以降、徐々に変化していったようなのです。すなわち、賢治はある頃を境にして、あくまで「唯心論」の立場は保ちながらも、「我一人」の視点のみから世界を見るのではなく、「他者と共通に感じる世界」という方向へと、軸足を移していったように思われるのです。
 その具体的な例が、上に見たように、1924年1月の日付を持つ『春と修羅』の「」であり、同年5月の日付を持つ「陸中の五月」であり、同年8月の日付を持つ「〔北いっぱいの星ぞらに〕」の下書稿(六)であり、農学校在職中のいずれかの時期に書いた「法華堂建立勧進文」であり、さらに後の時期に書いたと思われる「装景手記」だというわけです。これらのテキストにおいては、従来の独我論からは明らかに脱して、「ぐう=他者と共通であること」が、重視されるようになっています。
 しかしその一方で、この時期以降の作品でも、たとえば「銀河鉄道の夜」の「初期形三」には、「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゞさう感じてゐるのなんだから……」とあるように、世界は「たゞさう感じてゐる」だけという唯心論は、変わらず維持されています。
 そこでこの新たな賢治の世界観を、「間主観的唯心論」と呼ぶことにしてみます。

 すなわち私としては、賢治の世界観は、「独我論的唯心論から間主観的唯心論へ」と、変化を遂げていったのではないかと考えるわけです。そしてまたこの転換は、以前に「「主観性」から「客観性へ」」という記事で考えてみたことと、ちょうど並行する形にもなっています。
 その意味でこれは、「主観的唯心論から客観的唯心論へ」とも表現できるかもしれません。

 また、これも「「主観性」から「客観性へ」」で書いたことですが、賢治の生涯における大きな二つの転換、すなわち

  • 「一人の人への個別的愛(=〈みちづれ〉希求)」から、「全ての衆生への普遍的愛」の志向へという、人間に対する態度の転換と、
  • 「主観性(我)への偏重」から、「客観性(ぐう)の重視」へという、世界観の転換は、

同時に並行して行われていったのではないかというのが、私の考えるところです。

 この転換の内実は、「小岩井農場」および「青森挽歌」の推敲過程と、『春と修羅』の「」の中に、具体的に見ることができ、つまり賢治は『春と修羅』を一つの詩集としてまとめる作業の最終盤において、この重要な思想的変化を遂げたのだと考えられます。
 これは年代的には、1923年の後半から1924年の初めにかけて、ということになります。

 そして、これをさらに大きな流れとして見ると、この時期というのは『春と修羅』前半における主観性の極致の世界から、晩年の文語詩における客観性の徹底へ、という変化の中の、重要な変曲点に位置するのでないかと思うのです。