一七九

                  一九二四、八、一七

   

   いちれつ並ぶおほばこが

   そのうつくしいスペイドから

   すこしまがった葉柄まで

   くっきり黒い影を落し

   月は右手の尾根の上に

   夜中をすぎて熟してゐる

   萱野十里も終りになって

   何かなまめく楢の木や

   降るやうな虫のすだきを

   路はひとすじしらしらとして

   椈の林にはいらうとする

       (黒く寂しい香食類の探索者)

   北のひっそりとした谷の

   そこにもくもく月光を吸ふ

   蒼くくすんだかすてらは

   たぶんみんなはい松だらう

   それはだんだんのぼって行って

   ぎざぎざ黒い露岩に変り

   いまぽっかりとひとつの銀の挨拶を吐く

   それがたしかに中岳で

   そこから西と東に亘り

   北いっぱいの星ぞらに

   ぎざぎざ浮ぶ嶺線は

   いくすじ白いパラフィンを

   しづかに北へ発してゐる

   鋼のそらの水底に

   はなたれて行く海蛇の群

   こっちはいつか中岳が

   次のけむりを吐いてゐて

   その青じろい果肉のへりで

   黄水晶とエメラルドとの

   花粉ぐらゐの小さな星が

   童話のやうに婚約する

   じつに今夜のなんといふそらの明るさだらう

   そらが精緻な宝石類の集成だ

   金剛石の大トラストが

   穫れないふりしてしまって置いた幾億を

   みんないちどにぶちまけたとでもいふ風だ

   頭のまはりを円くそり

   鼠いろした粗布を着た

   坊主らのいふ神だの天が

   いったいどこにあるかと云って

   うかつに皮肉な天文学者が

   望遠鏡をぐるぐるさせるその天だ

   するとこんどは信仰のある科学者が

   どこかの星の上あたりに

   そういふ天を見附けやうとして

   やっぱり眼鏡をぐるぐるまはす

   さういふ風な明るい空だ

   しかも三十三天は

   やっぱりそこにたしかにあって

   木もあれば風も吹いてゐる

   天人たちの恋は

   相見てえん然としてわらってやみ

   食も多くは精緻であって

   香気となって毛孔から発する

   間違ひもなく

   天使もあれば神もある

   たゞその神が

   あるとき最高唯一と見え

   あるとき一つの段階とわかる

   さういふことかもわからない

   それら三十三天は

   所感の外ではあるけれども

   やっぱりそこに連亘し

   恐らく人の世界のこんな静な晩は

   修羅も襲ってこないのだらう

   巨きな青い 一つの星が

   いちばん西の鶏頭山の

   ごつごつ黒い冠を

   触れるともなく祝福すれば

   そこから暗い雲影が

   なゝめに西へ亘ってゐる

       ……雲のはかない残像が

         鉄いろのそらにながれる……

   にわかに薮を踊りたつ

   一ぴきの黒いかうもり

   またきららかな蜘蛛の糸

       ……点々白い伐株と

         まがりくねった二本のかつら

         草にもおどるかうもりの影……

   いちいちの草穂の影さへ落ちる

   この清澄な月の昧爽ちかく

   楢の木立の白いゴシック廻廊や

   降るやうな虫の聖歌を

   みちはひとすじほそぼそとして

   巨きな黒の椈林

   樹々のねむりを通って行く

       ……アスティルベアルゲンチウム

         アスティルベプラチニクム……

   椈の脚から火星がのぞき

   ひらめく萱や

   月はいたやの梢にくだけ

   木影の網をわらふばのやうにとぶ蛾もある

 

 


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