「小岩井農場」における体験時間と草稿時間

 先日「イギリス海岸の足跡化石」という記事でご紹介したように、賢治は1925年11月23日に東北帝国大学理学部地質学教室助教授の早坂一郎博士を北上川畔の小舟渡(イギリス海岸)に案内し、バタグルミの化石とともに、何かの動物の足跡化石も採集しました。これについて早坂博士は、雑誌『自然科学』の1926年5月号に「足跡の化石」と題した文章を発表し、「此處に何物かの足跡の残つて居る事は、花巻町の農學校の先生で、一方には新詩人として知られて居る宮澤賢治氏が二三年前から唱へて居た」と紹介しています。また化石が見つかった地層については、「凝灰質頁岩」と記しています。
 実際、賢治の短篇「イギリス海岸」によると、賢治と生徒たちは上記の3年前の1922年8月7日に、この場所で初めて動物の足跡の化石を発見して1つを採取し、翌8日午後にあらためて発掘を行ったようです。

 一方、「1922年5月21日」の日付を持つ心象スケッチ「小岩井農場」には、次の一節があります。

わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  《あんまりひどい幻想だ》

 ここで賢治は、「昔の足あと」を「白堊系の頁岩の古い海岸にもとめた」と書いていますが、「白堊系」「海岸」という表現は、短篇「イギリス海岸」に記された「イギリスあたりの白堊の海岸を歩いてゐるやうな気がする」White_Cliffs_of_Dover_02.jpgという命名由来に当てはまります(右写真は「ドーバーの白い崖」Wikimedia Commonsより)。また、その「頁岩」という地質も、早坂博士による「凝灰質頁岩」という記載に一致します。
 すなわち、「小岩井農場」の上記の箇所は、イギリス海岸における足跡化石発見という、賢治にとって胸躍る体験を、反映したものと思われます。

 しかしここに、一つの問題があります。賢治たちがイギリス海岸で足跡化石を発見したのは1922年8月7日だったのに、それより前の1922年5月21日の日付を持つ「小岩井農場」のテキストに、どうして「昔の足あとを/白堊系の頁岩の古い海岸にもとめた」と書くことが、可能だったのでしょうか。

 本題に入る前に、賢治がイギリス海岸で足跡化石を発見した年月日を、もう一度確認しておきます。
 短篇「イギリス海岸」の末尾には、(一九二三、八、九、)という日付が記されているのですが、実は賢治は1923年8月9日は樺太旅行の道中で、生徒たちとイギリス海岸に行くことはできず、これは何らかの誤記と考えざるをえません。また「イギリス海岸」の文中には「隣の女学校」という記述が出てきますが、農学校の隣に花巻高等女学校があったのは、1923年4月に農学校が町の西郊外に移転するまでのことであり、賢治の在職中で隣に女学校があった夏としては、1922年の夏しかないのです。
 さらに、「イギリス海岸」の文中には、「次の朝早く」として「八月八日」という日付が登場します。また賢治は、これらの出来事があった日付について、作品中に作者が顔を出す形で、次のように書いています。

 そこで正直を申しますと、この小さな「イギリス海岸」の原稿は八月六日あの足あとを見つける前の日の晩宿直室で半分書いたのです。私はあの救助係の大きな石を鉄梃で動かすあたりから、あとは勝手に私の空想を書いて行かうと思ってゐたのです。ところが次の日救助係がまるでちがった人になってしまひ、泥岩の中からは空想よりももっと変なあしあとなどが出て来たのです。その半分書いた分だけを実習がすんでから教室でみんなに読みました。
 それを読んでしまふかしまはないうち、私たちは一ぺんに飛び出してイギリス海岸へ出かけたのです。

 上記からすると、「イギリス海岸」の前半部が書かれたのは1922年8月6日で、翌7日に教室で賢治がそれを読むや否や、皆でイギリス海岸に出かけ、ここで足跡化石を発見したのだと思われます。そして、8日午後にあらためて準備をして発掘を行い、9日に原稿全体を仕上げたと推定されます。
 作品中で、生徒と賢治が足跡の化石を発見する経過は、次のように記されています。

 その時、海岸のいちばん北のはじまで溯って行った一人が、まっすぐに私たちの方へ走って戻って来ました。
「先生、岩に何かの足痕あらんす。」
 私はすぐ壺穴の小さいのだらうと思ひました。第三紀の泥岩で、どうせ昔の沼の岸ですから、何か哺乳類の足痕のあることもいかにもありさうなことだけれども、教室でだって手獣の足痕の図まで黒板に書いたのだし、どうせそれが頭にあるから壺穴までそんな工合に見えたんだと思ひながら、あんまり気乗りもせずにそっちへ行って見ました。ところが私はぎくりとしてつっ立ってしまひました。みんなも顔色を変へて叫んだのです。
 白い火山灰層のひとところが、平らに水で剥がされて、浅い幅の広い谷のやうになってゐましたが、その底に二つづつ蹄の痕のある大さ五寸ばかりの足あとが、幾つか続いたりぐるっとまはったり、大きいのや小さいのや、実にめちゃくちゃについてゐるではありませんか。その中には薄く酸化鉄が沈澱してあたりの岩から実にはっきりしてゐました。たしかに足痕が泥につくや否や、火山灰がやって来てそれをそのまゝ保存したのです。

 これを読むと、賢治が足跡の化石を目にしたのは、この8月7日が本当に初めてだったと、考えざるをえません。

 ということで、やはり「1922年8月7日に発見した足跡化石のことが、なぜそれ以前の5月21日付けの作品に登場するのか」ということが問題なのですが、この謎は(謎というほどのことでもないのですが)、以前に「『春と修羅』における「体験時間」と「草稿時間」」という記事に書いた事情によって、理解することができます。

 賢治が作品に付けている、「一九二二、五、二一、」などの日付は、彼がその作品に描かれている出来事を体験して、ほぼリアルタイムに手帳に書きつけた年月日であり、言わばその出来事の「体験時間」と呼ぶべきものです。
 そして、手帳に記されたその「心象スケッチ」は、それを体験した日付は最初のままに保ちつつも、テキストの内容は推敲を受けつつ、新たな原稿用紙に書き直されるという作業を、何段階もにわたって経ていくことになります。
 そして、『春と修羅』(第一集)の場合ならば、詩集が活字として印刷され、1924年4月20日に出版されたことで、やっと一つの定着に至るのです。(実は賢治は、『春と修羅』を出版した後にも、刊本のページの上でさらに数パターンの推敲を重ねており、出版を区切りとしてテキストの変遷が終わるわけではないのですが、ここではとりあえず出版までを考えてみます。)

 上記のように、手帳や原稿用紙の上での推敲によって、テキストが刻々と変化していく過程で流れている時間のことを、ここでは「草稿時間」と呼ぶことにします。律儀な賢治は、多くの口語詩について、その「体験時間」の年月日を記録していますが、その後の推敲作業を行った年月日までは記していませんので、各々の段階のテキストにおける「草稿時間」は、具体的には不明です。
 しかし、先人たちによるこれまでの精密な研究によって、賢治が用いた原稿用紙の使用時期は大まかには明らかにされているので、ある程度の範囲で各段階の「草稿時間」を推測することは、可能になっているのです。
 一つの作品にも何段階かの草稿があるので、各作品における「草稿時間」はいくつもあることになりますが、その最初のものは、作品が初めて手帳に記された時間ですから、「体験時間」と同一の年月日になります。

 さて、このような観点で、詩集『春と修羅』に収録された作品における、「体験時間」と「草稿時間」を、縦軸と横軸で図示してみると、下のようになります。以前の記事に掲載した図を、少しだけ修正してみました。(画像をクリックすると、別ウィンドウで拡大表示されます)

20230219c.png

 グラフにおいて、「体験時間」は上から下へ、「草稿時間」は左から右へと流れています。どちらも出発点は、最初の作品「屈折率」が体験=スケッチされた、1922年1月6日であり、体験時間の最後は「序」の日付の1924年1月20日、草稿時間の最後は詩集が出版された同年4月20日になっています。
 上述のように、草稿時間の出発点は、その出来事を体験して手帳にメモした体験時間と同一なので、草稿時間の左端に緑色の「◆(手帳)」で表した起点は、上のように一次関数 y=x のグラフである斜め45°の直線に沿って並びます。(ただし、この『春と修羅』の最初の草稿である手帳やメモは、残念ながら現存しておらず、これはあくまで想像上の直線です。)

 詩集『春と修羅』に用いられた原稿用紙で、現在残されているのは、「10 20 イーグル印原稿紙」と呼ばれているものと、「丸善特製 二」と呼ばれているものの二種類がありますので、その二つをそれぞれ水色と薄紫色で図示しています。その中間の空白時間でも、何らかの原稿用紙が使われていたはずですが、現存しないため不明で、グレーの点線で表しています。
 杉浦静さんの研究(『宮沢賢治 明滅する春と修羅』p.42)によれば、「10 20 イーグル印原稿紙」が使用されたのは、1922年11月頃までと推定されているので、草稿時間における水色の部分は、1922年11月で終わりとしています。
 また同じく杉浦さんの研究によれば(上掲書p.44)、「丸善特製 二」用紙が使用されたのは、1923年秋から1924年1月までと推定されているので、草稿時間における薄紫色の部分は、この範囲としています。

 さて、「小岩井農場」という作品の草稿で現存しているものは、上図にも記しているように、「下書稿」「清書後手入稿」「書きかけ断片」「詩集印刷用原稿」の4種類です。
 このうち、「下書稿」と「清書後手入稿」は「10 20 イーグル印原稿紙」に書かれ、「書きかけ断片」と「詩集印刷用原稿」は「丸善特製 二」に書かれているので、配置場所は上図のようになります。

 以上で準備ができましたので、本日の問題である「足跡化石」に関する記述を、各々の草稿において見てみます。
 まず「下書稿」においては、冒頭に引用した箇所に該当する部分は次のようになっています。

はっきり眼をみひらいて歩いてゐる。
あなたがたははだしだ。
そして青黒いなめらかな鉱物の板の上を歩く。
その板の底光りと滑らかさ。
あなたがたの足はまっ白で光る。介殻のやうです。
幻想だぞ。幻想だぞ。

 ご覧のように、足跡化石に関する記述はありません。
 この「下書稿」が書かれた「草稿時間」は、上述のように、また図からもわかるように、1922年11月よりも以前です。イギリス海岸で足跡化石を発見した1922年8月7日より前か後かはわかりませんが、それより前ならば足跡化石のことが出てこないのは当然です。もし後(1922年8月~11月)だとしても、まだ賢治は小岩井における「はだしの足」の幻視を、最近発見した足跡化石に結び付けるには、至っていなかったことになります。
 次の「清書後手入稿」には、これに該当する箇所は含まれていないので、足跡化石との関連については何とも言えません。

 さらに次の「書きかけ断片」にも、足跡化石に関連する箇所は、含まれていません。
 そして、「詩集印刷用原稿」になると、冒頭に引用した「初版本」とほぼ同じ形で、足跡化石の影響が出現します。

わたくしははっきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまっ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  《あんまりひどいかんがへだ》

 この「詩集印刷用原稿」は、前述のように「丸善特製 二」用紙に書かれており、これが使用されたのは1923年秋から1924年1月までと推定されています。
 そして、上記の「草稿時間」であれば、1922年8月に発見した足跡化石のイメージが盛り込まれていても、何の不思議もありません。
 ということで、足跡化石のことが、その発見以前の日付を持つ作品に出てきても、何ら「謎」ではなかったわけです。それは、後の推敲過程において付け加えられた要素だったからです。

 以上をまとめると、作品に記されている年月日(体験時間)は、あくまでその体験が賢治の中で醗酵成熟を開始する起点を表しているに過ぎず、賢治はその後その体験に触発されて湧き起こる、さまざまなイメージや思想をテキストに反映させつつ推敲を行い続けるので、後の草稿時間における新たな内容が、事後的に相当付け加わっていくのだ、ということになります。

 「小岩井農場」という作品上における別の例としては、「清書後手入稿」の段階では、学校の同僚の堀籠文之進に対する感情的な執着や葛藤が濃密に書き込まれていたのに、「詩集印刷用原稿」以降の段階では、そのような部分は削除され、代わりにその葛藤を昇華した、「正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といっしょに/至上福祉にいたらうとする」道が高く掲げられる、という変化があります(「「〈みちづれ〉希求」の昇華」参照)。
 前者は、1922年5月21日の小岩井行の時点での、生々しい感情を反映していると思われるのに対し、後者は樺太旅行を終えた1923年秋以降にたどり着いた境地を、表していると考えられます。

 「体験時間」の時系列に沿って配列された『春と修羅』という詩集を初めから順に読んでいくと、1922年5月というかなり初期に位置する「小岩井農場」の段階で、1923年夏の樺太行の過程で描かれていた葛藤を既に超克した思想が謳歌されているので、ちょっと不思議な感じがするのですが、それは今回見たような「草稿時間」のトリックによるというわけです。

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