イギリス海岸の足跡化石

Ichiro_Hayasaka.jpg 東北帝国大学理学部地質学教室助教授(当時)の早坂一郎博士(右写真はWikimedia Commonsより)は、1925年11月23日に花巻を訪れ、宮澤賢治の案内で北上川河畔(イギリス海岸)でバタグルミの化石を発掘し、翌1926年に「岩手縣花巻町産化石胡桃に就いて」という論文にまとめ、『地質学雑誌』に発表しました。その末尾には、「伊藤博士並びに化石採集に便宜を与へて下さつた盛岡の鳥羽源蔵氏、花巻の宮澤賢治氏に感謝の意を表する。(大正十四年十二月二十二日)」との謝辞を記しており、この一連の経緯は、賢治愛好家の間でもよく知られています。(下記ツイート参照)

 上の論文の記載からも、この時に早坂博士と賢治らが発掘したのは、バタグルミの化石だけかと私は思っていたのですが、実は同時に「何か哺乳動物の足跡の化石」も、賢治とともに採集していたのです。
 これについて早坂博士は、改造社発行の『自然科学』という一般向け科学雑誌の1926年5月号に、「足跡の化石」と題した一文を掲載しており、ここには「花巻町の農學校の先生で、一方には新詩人として知られて居る宮澤賢治氏」と一緒に、北上川河畔の小舟渡で足跡の化石を採集した経緯が記されていました。(『自然科学』1(2)(2),改造社,1926-05. 国立国会図書館デジタルコレクション:参照 2023-02-05)

 関連部分(上掲書pp.408-410)を引用すると、下記のとおりです(強調は引用者)。

私が此の小文を草したのは、近頃私が實見した足跡の化石を紹介せんがためである。
 場所は岩手縣花巻町の東五町ほどの小舟渡と云うところで、出水時には北上川の水がそこを洗う様な位置に當るのである。
 此處は一種の珍しいクルミの果の化石を産するので、私がそこへ出かけたのはそれ等を採集するのが目的であつた。然るにその同じ場所で同じ地層の同じホライゾンに、恐くは何か哺乳動物の駆けた跡だらうと思はれる、形の稍一定したる多數のくぼみ又は穴を見付けたのである。
 實を云へば此處に何物かの足跡の残つて居る事は、花巻町の農學校の先生で、一方には新詩人として知られて居る宮澤賢治氏が二三年前から唱へて居たことなのであるが、私は之れまでその標本を見た事がなかつた。農學校には數個の標本があつたが、私は一個を原産地から宮澤氏の援助を得て採集した。第八圖はその写真である。
 今までのところ未だ之れに關係のある様な骨も齒も産して居らぬから、どんな種類の動物であるかは判然としない。今後も少し詳しく調べて見る必要がある。
 此の足跡の内には、凝灰質頁岩中に四五寸位深くめり込んだものもある。そして此の足跡の出るホライゾンの上には薄い輕石層がのつて居る。共に産する植物化石は、前述のクルミの外に二三の種類の毬果及び炭化した流木片等がある。如何にも湖沼地であつたかの感じを起さしめるのである。
 兎も角も、その産出状態から見て、クルミやハンノキその他の植物の化石と足跡とは同時代のものと見らるべきものゝ様である。
 ところでそのクルミの化石は近年シベリアの或る地方で發見され、又古くはヨーロッパの褐炭地方からも知られたものに、少くも非常によく似た種で、その地質時代は恐くはそれ等と同様に第三紀の最後の時代たる鮮新世のものではなからうかと思はれる。
 地層關係から云う時は、之等の化石を含む地層は洪積の厚い礫岩層下に不整合に横はり、且つ、岩石の性質から見ても、新しくも第三紀の末期頃より以後のものではなささうに見える。

 化石と呼ばるゝものには様々なものがあるが、足跡の化石と云うものが決して不可能ではない事を論じ、そして私共の手近かにも同様な實例のある事を一般の人達に報じて、今後の興味のために具へ様と思つて本文を草した次第である。(大正十四年十二月八日)

 文中には、この時に採集した足跡の化石の写真も、掲載されています。

 この早坂博士の文章は専門論文ではなく、末尾にもあるように一般読者向けの読み物ですが、それでも最初の発見者について「宮澤賢治氏が二三年前から唱へて居たことなのである」と、きちんとプライオリティについて記してくれているのは、ありがたいことです。おかげでここに、賢治の名前が残ることになりました。

 さらにまた、早坂博士が賢治のことを「一方には新詩人として知られている」と書いてくれているのは、いったいどういう経緯によるものでしょうか。前年に『春と修羅』を刊行したもののほとんど売れておらず、当時はまだごく一部の先鋭的な詩人や評論家にしか認知されていなかった賢治のことを、地質学者の早坂博士が独自に知っていたとは思えません。賢治自身が早坂博士に、自分の詩作について「新詩人として知られている」などと話したとも思えませんので、これは早坂博士と賢治の間を取り持ったという鳥羽源蔵氏が、博士に話したことなのでしょうか。

 一方、賢治が北上川の通称イギリス海岸で、生徒らとともに動物の足跡を発見した時の様子は、短篇「イギリス海岸」に、活き活きと記録されています。

 その時、海岸のいちばん北のはじまで溯って行った一人が、まっすぐに私たちの方へ走って戻って来ました。
「先生、岩に何かの足痕あらんす。」
 私はすぐ壺穴の小さいのだらうと思ひました。第三紀の泥岩で、どうせ昔の沼の岸ですから、何か哺乳類の足痕のあることもいかにもありさうなことだけれども、教室でだって手獣の足痕の図まで黒板に書いたのだし、どうせそれが頭にあるから壺穴までそんな工合に見えたんだと思ひながら、あんまり気乗りもせずにそっちへ行って見ました。ところが私はぎくりとしてつっ立ってしまひました。みんなも顔色を変へて叫んだのです。
 白い火山灰層のひとところが、平らに水で剥がされて、浅い幅の広い谷のやうになってゐましたが、その底に二つづつ蹄の痕のある大さ五寸ばかりの足あとが、幾つか続いたりぐるっとまはったり、大きいのや小さいのや、実にめちゃくちゃについてゐるではありませんか。その中には薄く酸化鉄が沈澱してあたりの岩から実にはっきりしてゐました。たしかに足痕が泥につくや否や、火山灰がやって来てそれをそのまゝ保存したのです。私ははじめは粘土でその型をとらうと思ひました。一人がその青い粘土も持って来たのでしたが、蹄の痕があんまり深過ぎるので、どうもうまく行きませんでした。私は「あした石膏を用意して来よう」とも云ひました。けれどもそれよりいちばんいゝことはやっぱりその足あとを切り取って、そのまゝ学校へ持って行って標本にすることでした。どうせ又水が出れば火山灰の層が剥げて、新らしい足あとの出るのはたしかでしたし、今のは構はないで置いてもすぐ壊れることが明らかでしたから。
 次の朝早く私は実習を掲示する黒板に斯う書いて置きました。

     八月八日
農場実習 午前八時半より正午まで
  除草、追肥   第一、七組
  蕪菁播種    第三、四組
  甘藍中耕    第五、六組
  養蚕実習    第二組
 (午后イギリス海岸に於て第三紀偶蹄類の足跡標本を採収すべきにより希望者は参加すべし。)

 賢治がこの「イギリス海岸」を書いたのは、1922年8月9日のことと考えられますので(「死ぬことの向ふ側まで」参照)、この時に賢治がここで足跡の化石を発見したとすれば、早坂博士とともに訪ねる3年あまり前のことになり、早坂博士が「宮澤賢治氏が二三年前から唱へて居た」と書いていることとも合致します。博士が記す「農學校には數個の標本があつた」というものの少なくとも一部は、「イギリス海岸」で描かれた1922年8月7日と8日に、採集されたものでしょう。

 また、この「足跡の化石」というモチーフは、「小岩井農場」では「どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを/白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう」として出てきたり、『春と修羅』の「」では「あるひは白堊紀砂岩の層面に/透明な人類の巨大な足跡を/発見するかもしれません」という形に変奏されたりしており、その後の賢治の創作においても、重要な意味を持つことになります。

 賢治にとっては非常に意義深い発見だった、このイギリス海岸の足跡化石について、専門の地質学者がちゃんと確認し記録してくれていた内容を目にすることができて、そして(やや不鮮明ながら)残されていた足跡の写真も見られて、私としても感無量でした。

 今回、私がこの資料に遭遇できたのは、昨年末に「国会図書館デジタルコレクション」において、全文検索できる書籍の範囲が一挙に増大したおかげでした。
 国会図書館デジタルコレクションの素晴らしい機能に、感謝申し上げたいと思います。