(冒頭部草稿何枚か欠)

 

   一体これは幻想なのか。

   決して幻想ではないぞ。

   透明なたましひの一列が

   小岩井農場の日光の中を

   調子をそろへてあるくこと

   これがどうして偽だらう。

   どうしてそれを反証する。

   誰かがこれを感じない

   それは向ふがまちがひだ

   みんながこれを感じない

   それはみんながわるいのだ。

   あんまり月並過ぎるのだ。

   誰でもきっとさう云ふのだ。

   後退りで私はすっかりつかれたのだ。

   いゝか、みんな、ばらばらになっちゃいけない。

   そら、もう向ふに耕耘部の

   亜鉛の屋根が見えて来た。光ってゐるぞ。亜鉛だぞ。

   キップ装置の亜鉛じゃない

   澄み切った気圏の試験管の

   光の底の

   亜鉛なのだ。

 

     ※※※※※※※※ 第五綴

   鞍掛が暗くそして非常に大きく見える

   あんまり西に偏ってゐる。

   あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。

   あれはきっと

   南昌山や沼森の系統だ

   決して岩手火山に属しない。

   事によったらやっぱり

   石英安山岩かもしれない。

   これは私の発見ですと

   私はいつか

   汽車の中で

   堀籠さんに云ってゐた。

   (東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり

    汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから

    つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。

    その汽車の中なのだ。

    堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)

   堀籠さんは温和しい人なんだ。

   あのまっすぐないゝ魂を

   おれは始終をどしてばかり居る。

   烈しい白びかりのやうなものを

   どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。

   こっちにそんな考はない

   まるっきり反対なんだが

   いつでも結局さう云ふことになる。

   私がよくしやうと思ふこと

   それがみんなあの人には

   辛いことになってゐるらしい。

   今日は日直で学校に居る。

   早く帰って会ひたい。

   今私の担当箱の中のくらやみで

   銀紙のチョコレートが明滅してゐる筈だ。

   それは昨夜堀篭さんが、

   うちへ

   遊びに来ると思って

   夏蜜柑と一諸に買って置いたのだ。

   けれどももちろん来なかった。

   それはあんまり当然だ。

   昨日の午后街の青びかりの中で

   お遊びにいらっしゃいませんか

   と私は云った。

   その調子があんまり烈しすぎたのだ。

   堀篭さんは

   だまって返事をしなかった。

   お宜しかったらと

   おれはぶっきら棒につけたした。

   あの人は少し顔色を変へて

   きちっと口を結んでゐた。

   それは行かうと思ったのに

   またそれを制限されたやうにも思ひ

   失望したやうにも見えた。

   けれども何だかわからない。

   山の方は青黒くかすんで光るぞ。

   それはさうだ、この五六日

   ずゐぶん私は物騒に見えたらう。

   何もかもみんなぶち壊し

   何もかもみんなとりとめのないおれはあはれだ。

   向ふの黒い松山が狼(オイノ)森だ。

   実に新鮮で肥満(プラムプ)だ。

   たしかにさうだ。地図で見ると

   もっと高いやうに思はれるけれども

   たゞあれだけのことなのだ。

   あれの右肩を通ると下り坂だ。

   姥屋敷の小学校が見えるだらう。

   もう柳沢へ抜けるのもいやになった。

   柳沢へ抜けて晩の九時の汽車に乗る。

   十時に花巻へ着き

   白く疲れて睡る、

   つかれの白い波がわやわやとゆれ…

   五時の汽車なら丁度いゝ。

   学校へ寄って着物を着かへる。

   堀篭さんも奥寺さんもまだ教員室に居る。

   錫紙のチョコレートをもち出す。

   けれどもみんながたべるだらうか。

   それはたべるだらう、そんなときなら

   私だって愉快で笑はないではゐられないし

   それにチョコレートはきちんと、

   新らしい錫紙で包んであるから安心だ。

   しかしその五時の汽車は滝沢へよらない。

   滝沢には一時にしか汽車がない、

   もう帰らうか。こゝからすっと帰って

   多分は三時頃盛岡へ着いて

   待合室でさっきの本を読む。

   いゝや、つまらない。やっぱりおれには

   こんな広い処よりだめなんだ。

   野原のほかでは私はいつもはゞけてゐる

   やっぱり柳沢へ出やう

   こんな野原の陰惨な霧の中を

   ガッシリした黒い肩をしたベートーフェンが

   深く深くうなだれ又ときどきひとり咆えながら

   どこまでもいつまでも歩いてゐる。

   その弟子たちがついて行く

   暗い暗い霧の底なのだ。

   今日はさうでない。

   鞍掛山も光ってゐる。

   そこで一体この先に、たしかに

   育牛部があったのだらうか。

   こんな処を歩いたやうな気がしない。

   杉がよく生えて

   緩い坂みちになってゐる。

   向ふから農婦たちが一むれやって来る。

   実にきちんと身づくろってゐる。

   みんなせいが高くまっすぐだ。

   黒いきものも立派だし

   白いかつぎも

   よく農場の褐色や

   林の藍と調和してゐる。

   本部か耕耘部かには

   よほどしっかりした技師が居るぞ。

   そらがずゐぶん重くなった。

   けれども真っ白に光ってゐる。

   耕耘部の方から西洋風の鐘が鳴る。

   かすかだけれどもよく聞える。

   もうみんな近くにやって来た。

   聞いて見やうおれは時計を持たないのだ。

   (あの鐘ぁ十二時すか。)

   「はあそでごあす。」

   みんながしづかに答へてゐる。

   これではまるでオペラぢゃないか。

   動き出した彫像といふやうに

   しづかにこっちを見やりながら

   正しくみんな行き過ぎる。

   鐘の方へ歩いて行く。

   端正は希臘に属し、時間のあかるさ。

   もう育牛部の畜舎がみえる。

   牛は出てゐない。

   また畜舎の中に居るのかどうかもわからない。

   から松の緑の列や畑の茶いろ。

   しんとしてゐる。

   日光の底といふものはいつでもしんとしたもんだ。

   

     ※※※※※※※※※※ 第六綴

   みちが俄かにぼんやりなった。

   から松はあるし草はみぢかいし

   実に野原の模型だけれども

   姥屋敷まで行く筈の

   地図にもはっきり引いてある

   このみちがこんな風では

   何だかすこし便りない。

   尤も方角さへきめて行けば

   行けないこともないのだが

   実は今日は少し気が急くのだ。

   堀篭さんのことも

   考へなければならないのだ。

   向ふもはたけが堀られてゐる。

   白い笠がその緩い傾斜をのぼって行く。

   笠は光って立派だが

   やっぱりこんな洋風の

   農場の中では似合はない。

   然しあるひはあの人は

   姥屋敷へ行くのかもしれない。

   さうぢゃない働いてるのだ。

   それに向ふの松林に

   まだ狼森ではないだらうが

   ずゐぶん大きなみちがある。

   あれさへ行ったら間違ひない。

   行って見やう。しかしどうだ、

   そこの所に堰がある

   やなぎがぽしやぽしや生えてゐる

   そのせきの近く一二間だけ

   きちんとみちができてゐる

   すこし変だ。どういふ訳だ。

   どうせこいつも農場の

   ほんの気紛れ仕事なのだ。

   一つはまあ目標にもなる。

   とにかく渡れ、あの坂を登れ。

           ※

   かなりの松の密林だ。

   傾斜もゆるいしほんの短い坂だけれども

   仲々登るのは楽ぢゃない。

   一昨夜からよく眠らないから

   やっぱり疲れてゐるのだ。

   疲れのために私は一つの桶を感ずる

   この聯想は一体どうだ、

   けれどもたしかにこの桶は

   まだ松やにの匂もし

   新しくてぼくぼくした小さな桶だ。

   かなりの松の密林だ。

   暗くていやに寂しいやうだ。

   雲がずゐぶん低くなった。

   あゝよくあるやつだ やっと登って

   その向ふが又丘で

   松がぽしゃぽしゃ生えてゐる。

   しかし何だか面白くない。

   みちが又ぼんやりなって

   (草穂もぼしゃぼしゃしてゐるし、)

   却って向ふに立派なみちが

   堤に沿って北へ這って行く。

   ほんたうのみちはあいつらしい

   こっちは地図のこのみちだ。

   赤坂のつゞきのところへ出るんだ。

   ひどく東へ行ってしまふんだ。

   向ふの道へ行かうかな。

   それもあんまりたしかでもない。

   鞍掛は光の向ふで見えないし

   それに姥屋敷ではきっと

   犬が吠えるぞ 吠えるぞ。

   事によったら吠えないかな。

   かれ草だ。何かパチパチ云ってゐる。

   降って来たな。降って来た。

   しかし雨の粒は見えない。

   そらがぎんぎんするだけだ。

   顔へも少しも落ちて来ない。

   それでもパチパチ鳴ってゐる。

   草がからだを曲げてゐる。

   雨だ。たしかだ。やっぱりさうだ。

   降り出したんだ。引っ返さう。

   すっかりぬれて汽車に乗る。

   教員室の青ぐろい空間

   チョコレートと椅子

   (私はどうしてこんなに

    下等になってしまったらう。

    透明なもの 燃えるもの

    息たえだえに気圏のはてを

    祈ってのぼって行くものは

    いま私から 影を潜め)

   五時半ごろは学校につく。

   鬼越を越えて盛岡へ出やうかな。

   いややっぱり早い方がいゝ

   小岩井の停車場へ出るに限る。

   さあ引っ返すぞ。こんどもやめだ。

   おゝい柳沢。

   鞍掛も見えないがさやうなら、

   引っ返せ 引っ返せ

   小松の密林

   暗いし笹だ。

   けれども一寸雨を避けやうか。

   笹がばりばり枯れてゐる。

   それに松ばやしには誘惑がゐる

   尤も今ごろそんなものは何でもない。

   何でもないが

   やっぱり雨は漏ってゐる。

   笹に座れば座れるんだが

   雨避けにならなくては仕方ない。

   何でもぐんぐん歩くにかぎる

 

          ※ 第七綴

   このみちはさっきの堰のところだ。

   全体汽車は何時だらう。

   さっきの畑だ。一人の農夫が立ってゐる。

   こんどはしづかに歩き出す。

   それは広重の行きつかれた旅人だ。

   鬼越へ抜ける道をたづねて見やう。

 

   (以下草稿何枚か欠)

   

 


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