光原社広告販売の『春と修羅』

 先日の「イギリス海岸の足跡化石」という記事では、イギリス海岸で発見された動物の足跡化石について、東北帝国大学の早坂一郎博士が宮澤賢治の名前とともに報告している文章を、ご紹介しました。
 この資料は、昨年12月21日から機能が大幅に拡充された「国会図書館デジタルコレクション」において、「宮沢賢治」の名前で検索してヒットした結果を順に調べるうちに、見つかったものでした。

 「国会図書館デジタルコレクション」の検索画面は下のようになっていて、検索対象を、「ログインなしで閲覧可能」「送信サービスで閲覧可能」「国立国会図書館内限定」という3つのカテゴリーの組み合わせで設定できるようになっています。

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 「ログインなしで閲覧可能」は、著作権保護期間が満了しており誰でもネット上で見られる資料、「送信サービスで閲覧可能」は、著作権保護期間が満了していないかまたは未確認の資料で、絶版などの理由で入手困難なものを、国会図書館の登録利用者向けにネット上で閲覧可能としたもの、「国立国会図書館内限定」は、国会図書館内でのみ閲覧できる資料、となっています。

 さて、この3つのカテゴリー全てにチェックを入れて、1896年~1933年を対象に「宮沢賢治」で検索すると、現時点で78件の資料がヒットします。(「宮澤賢治」でも同結果となります。)

20230212b.jpg この検索結果を、「出版日:古い順」に並べて順番に見ていくと、最初の方には刊行年が不明で実際には新しい資料が並んでいますが、賢治の名前が登場する最も古い資料としては、「官報1916年03月22日」(右画像)が現れます。
 これは、賢治が盛岡高等農林学校の2年に進級する直前に、第2学年の「特待生」に選ばれたことを告示するもので、この官報記事は『新校本全集』第十六巻下の「年譜篇」(p.107)でも言及されています。
 その後、1917年3月の官報にも特待生として、1918年3月の官報には得業証書受領者として、掲載されています。

 さらに続いては、1925年4月発行の『大正十三年 日本詩集』の「大正十三年詩壇の主なる事項」の「四月」の欄に、「宮澤賢治の詩集『春と修羅』関根書店より出づ。」という記事が掲載されていたりします。
 尾山篤二郎が編集発行人となっていた『自然』という詩誌の1924年1月号の扉の前頁には、「宮澤賢治氏◇処女詩集◇近刊」として、下記のような広告が掲載されています。

詩集 春と修羅
この詩集は著者の心象のスケツチである。虔ましく、正しく、たゞ一路最高の焦點に驀進する著者の心の如何に貴いか、菩提を翹望する著者の信念の端的な表現、その素朴な宗教味の豊かさ、獨自な感覺とその發想の手法、これらは現詩壇の異數であれねばならない。この隠れたる新人が、今その自作の詩篇數百篇の中より百余章を選出してこれを一書に編み世に初めて其價値を問はんとするのである。

 また、いろいろヒットする資料の中には、同姓同名の別人の宮澤賢治氏も出てきます。たとえば1921年発行の『香取郡誌』という書籍によると、千葉県香取郡新島村の湖東尋常高等小学校の大正元年頃の校長に、宮澤賢治という人がいたようです。また1930年刊行の『瀬戸村青年團史』には、この千葉県の宮澤賢治氏が、1924年に広島県瀬戸村に視察に訪れた話が出てきます。

20230212c.jpg ちょっと判断に迷うのは、1935年に刊行された『八百万円の費消事件』という、岩手県における銀行破綻を扱ったドキュメントものにおける、「宮澤賢治氏を首領とする盛銀更正同盟會」という記載(右画像の右端行下部)です(新聞之新聞編輯局 編『八百万円の費消事件』, 精華書房, 昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション:参照 2023-02-12)。

 盛岡銀行は、大正~昭和初期に岩手の経済界に君臨した金田一國士が頭取を務める、県内の中核銀行の一つでした。現在、盛岡市中ノ橋にある「岩手銀行赤レンガ館」は、盛岡銀行の往時の威容を伝える旧本店社屋です。
 盤石に見えたその経営でしたが、1931年に青森県で始まった銀行の取り付け騒ぎが飛び火して、同年6月に盛岡銀行の三戸支店と八戸支店も取り付けを受けます。資金繰りが苦しくなった岩手県内の銀行は、盛岡銀行・岩手銀行などの合併も模索しますが不調に終わり、さらに1932年6月に発表した整理案も機能せず、ついに1933年に盛岡銀行は廃業することとなります。(「双子の碑~賢治と金田一家の人々(1)~國士篇」参照)
 右画像の記述は、1932年秋頃の話ですが、賢治が重い病床にあった頃のことで、彼が「盛銀更正同盟會」なる組織の「首領」を務めるなどということは考えられず、かと言って同時代の岩手に同姓同名の有力者がいたという話も、聞いたことがありません。あえて推測するならば、これは賢治の母方叔父で当時は宮澤商店の当主であった「宮澤直治」の誤植かもしれないと思ったりもします。しかし、花巻の銀行界では有力者だった宮澤直治でも、県都盛岡の銀行に対してここまで中心になって活動をするかとなると、あまり考えにくいようにも思います。
 ところでどうでもよいことですが、盛岡銀行の創業は1896年、廃業は1933年ということで、賢治の生年・没年とちょうど一致するのは、何かの因縁です(Wikipedia 盛岡銀行参照)。賢治とともに生まれ、賢治とともに死んだ銀行……。

 あと、検索結果にたくさん並んでいるのは、「盛岡高等農林学校一覧」や、全国の公務員の「職員録」などで、もちろんこれらにも賢治の名前は毎年登場しています。
 1925年に、東京神田の「一誠堂」という古本屋が発行している『古書籍目録』(一誠堂書店:参照 2023-02-12)には、「宮澤賢治 春と修羅」が1円20銭(ちなみに定価は2円40銭)で売りに出されており、これはひょっとしたら、版元の関根書店が「勝手にゾッキ本として流してしまった」(『新校本全集』年譜篇p.273)という品物かもしれないと思ったりします。
 昭和に入ると、様々な詩の関係の雑誌等に、宮澤賢治の名前が散見されるようになります。

 こういった検索結果が並ぶ中で、今回ちょっと面白いと思ったのは、1924年8月20日に「東北農業薬剤研究所出版部」から刊行された『有利副業 除虫菊の栽培』という本と、1925年6月30日に光原社から刊行された『家禽病と其の対策』に、『注文の多い料理店』と並んで、『春と修羅』の広告が載っていたことです。
 下の画像の左(スマホでは上)が、『有利副業 除虫菊の栽培』の扉裏の広告で、右(スマホでは下)が『家禽病と其の対策』の巻末の広告です。

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 左側(スマホでは上)の広告は、1924年12月の『注文の多い料理店』の刊行前なので、左端に「近刊」として「童話 注文の多い料理店 宮澤賢治著 豫想定價二、〇〇〇)が出ている一方、「既刊」のところには、「心象スケッチ 春と修羅 宮澤氏著 定價 二、四〇〇」が掲載されています。出版社の名前は、盛岡市厨川の「東北農業薬剤研究所出版部」と東京下渋谷の「支店 光原社」が並んで記されています。
 また右側(スマホでは下)の広告では、「既刊」の中ほどあたりに、「心象スケツチ 春と修羅 宮澤賢治著 定價 二、四〇〇」が載っていて、出版社としては「光原社本店/東京光原社」が並んで記されており、その上の欄には「各書共多数製本してありますから何卒御用命の程を御願します。」と書いてあります。

 これらの広告だけを見ると、『春と修羅』という本は、「東北農業薬剤研究所出版部」または「光原社」から出版されたとしか理解しようがありませんが、実際には東京の関根書店が出版していたわけで、ちょっと不思議な事態になっています。
 いずれにせよ、これらの広告によれば、少なくとも1924年8月から1925年6月という時期において、光原社が『春と修羅』を「販売」していたのは、事実と考えざるをえません。

 なぜこのような形になっていたのかという経緯について、一つ推測されることとしては、関根書店で大量に売れ残っていた『春と修羅』を、賢治の斡旋で光原社に安く買い取ってもらい、販売を委託していたということがありえるかと思います。「東北農業薬剤研究所出版部」を運営していた近森善一と及川四郎は賢治と親しく、そんな長い名前ではよくないと言って「光原社」と改称させたのも賢治でしたから、上のような多少の無理も、聞いてもらえたのかもしれないと思います。

 さて、そのように考えてみると、もう一つ想像が膨らみます。
 賢治は、1925年12月20日に、岩波書店社主の岩波茂雄あてに手紙を書いて(書簡214a)、自分の『春と修羅』を岩波書店で1冊80銭で買い取ってもらえないか、そしてその対価は岩波で出している哲学や心理学の書籍で貰えないか、という依頼をしています。
 これはかなり唐突な、虫のいい頼みで、岩波から何の返事もなかったというのも無理もない気がしますが、いったいなぜ急に賢治がこんな話を一方的に持ち出したのか、これまで何となく不思議な感じがしていました。
 しかし、もしも賢治がこの少し前に、光原社に対して同様の依頼をして聞き入れてもらっていたのであれば、その勢いで憧れの岩波書店にも同じように頼んでみようかと、ちょっと欲を出してみたのかもしれない、などという気もしてきます。