『春と修羅』における「体験時間」と「草稿時間」

 来月にお話をさせていただく予定ができたので、今日は下のようなスライドを作ってみていました。

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 グラフの中で、縦軸を上から下へ流れるのが「体験時間」、横軸を左から右へ流れるのが「草稿時間」という設定です。

 「体験時間」というのは、賢治が心象スケッチとして記録する体験を実際にした時間のことです。たとえば「小岩井農場」ならば、彼が小岩井農場に赴き現地を歩いた、1922年5月21日ということになります。
 「草稿時間」というのは、その体験を賢治が言葉として草稿に書きとめた時間のことです。賢治は、ある時の体験を書きとめたテキストを、何度も書き直し推敲していきますから、一つの体験に対してその「草稿時間」は、たいてい複数存在することになります。また、賢治の「心象スケッチ」の創作方法として、まずは体験と同時に、手帳等に実況中継的にメモしていたと思われますので、複数ある「草稿時間」の最初のものは、「体験時間」と同一になります。
 このため、各作品の「草稿時間」の起点は、上図のように y=x のグラフのような斜め45°の直線に沿って、並ぶことになります。(ただし、この『春と修羅』の最初の草稿である手帳やメモは、残念ながら現存しておらず、これはあくまで推測上の直線です。)

 そして上述のように、彼は手帳等に書いたメモ的下書きを、種々の用紙に何度も何度も書き写しつつ、飽くなき推敲を加えていきます。これによって、さまざまな段階の「草稿」が、継時的に生まれていくことになります。
 斜め45°の直線上の一点から、右へ右へと継ぎ足していくように水平に続いていく線が、それぞれの段階の「草稿」を表しています。

 今回は、とくに「春と修羅」、「小岩井農場」、「永訣の朝」、「青森挽歌」を話題にするつもりですので、図の中にはとりあえずそれらを書き込んであります。これらの作品に、ここに示している以外にも途中まだ草稿が存在していた可能性は大いにありますが、現存していないためわかりません。図には、とりあえず現時点で存在している(あるいは存在していたはずの)稿を記しています。

 右端の縦の赤い線は、1924年4月20日の『春と修羅』刊行時点を表しています。詩集の出版によって、それ以上推敲する必要はなくなったわけですから、ここで「草稿時間」もひとまず終了します。(ただ賢治は、出版後もいくつかの刊本上にて推敲を続けたので、実際にはここでテキストの生成が終わったわけではありませんが、今回はとりあえずここまでとしています。)

 さて、図の上の方に色付きの字で書いてある「10 20 イーグル印原稿紙」と「丸善特製 二」というのは、賢治が『春と修羅』の草稿に用いていた原稿用紙の呼称です。
 賢治が使用した原稿用紙の状況は、『校本全集』以来の綿密な草稿調査によって明らかにされてきましたが、今回の図を作るにあたってとりわけお世話になったのは、入沢康夫さんによる「詩集『春と修羅』の成立」(『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』所収, 初出1972)および杉浦静さんによる「「小岩井農場」の成立」(『宮沢賢治 明滅する春と修羅』所収, 初出1976)です。

 左方の水色の部分に書かれている「10 20 イーグル印原稿紙」は、細かく分ければ「10 20 (広)」「10 20 (印)」「10 20」の三種があり、さらに前の二つ、後の二つの併用という使い方もあり、それぞれの使用時期も微妙に区別が可能なようです。杉浦さんの研究によると、『春と修羅』の草稿に用いられている範囲では、この種の用紙は1922年初め頃から11月頃まで使用されたと推測されていますので(杉浦氏上掲書p.42)、図に示すような形にしています。

 一方、右方の薄紫色の「丸善特製 二」という原稿用紙は、その行数と字数の割り付けが『春と修羅』の刊本と同じで、ページレイアウトを含めて賢治が推敲に用い、印刷所への入稿にも使用した用紙です。この原稿用紙の使用時期は、やはり杉浦さんの研究によれば、1923年秋から1924年1月までと推測されていますので(杉浦氏上掲書p.44)、図のような幅にしています。

 さらにその右の、ピンク色で「印刷所」と書かれている部分は、もちろん原稿用紙の名前ではありません。入沢さんの研究によれば、「小岩井農場」や「青森挽歌」においては、「丸善特製 二」原稿用紙が印刷所に持ち込まれた後に、さらに用紙が差し替えられた形跡があるため(入沢氏上掲書p.90-92, 101-105)、印刷所段階の最も遅い時期の推敲として、このように表示しています。

 以上が、上の図のおおまかな説明ですが、私がわざわざこんなややこしい図を作ってみた理由は、詩集『春と修羅』を読みつつ賢治の心の変遷をたどろうとした場合に、初版本に沿ってたとえばトシの死の当日の「永訣の朝」を読み、そして半年あまり後の「白い鳥」を読み、さらにその2か月後の「青森挽歌」を読む、という風にテキストを見ていったのでは、その内容はあくまで図の右端の縦の赤線で切断した「断面図」を見ているにすぎず、「体験当時の作者の気持ち」を順に追体験するには程遠い、という問題があるからです。
 もちろんこのようなことは、賢治についてある程度の知識がある人は誰でもわかっていることですが、それでも詩集や歌稿を順を追って読みながら、作者が創作時に感じたり考えたりしていたことを、ついつい「継時的に」たどろうとした場合に、うっかり勘違いしてしまうところす。
 これが、地質学者が地層とその内容物を研究する場合であれば、古い地層には古い時代のものが、新しい地層には新しい時代のものが、それぞれ当時のままに保存されているとして(普通は)扱ってよいはずですが、賢治という人は自分の古い草稿にまで常に推敲を加え続けていましたので、彼の草稿群を「地層のように取り扱う」ことはできない、というわけです。

 それならいったいどうすれば作者の心の変遷を追えるのかとなると、賢治の作品が配列されているところの「体験時間」とはまた別に、作者が各々の草稿をいつ記したのかという「草稿時間」なるものを可能なかぎり明らかにして、この時間軸の配列に沿って、作者の考えの変化をたどっていかなければならない、ということになります。

 だいたいこのような問題意識から、私としては上のような図を苦しまぎれに作ってみたわけですが、ただ実際のところ『春と修羅』に関しては、最終的な「丸善特製 二」の「詩集印刷用原稿」以外に残されている草稿が非常に少ないために、あらためて図を作って眺めてみても、それほど大したことがわかるわけではない、というのが現実です。

 ただ、私がとくに題材にしたかった「小岩井農場」と「青森挽歌」に関しては、幸いなことに前者には「〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕」、後者には「青森挽歌 三」という先駆形態の草稿が残されていますので、これらを比較することによって、ある程度までは議論や考察をすることも可能になっています。
 たとえば、「〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕」も「青森挽歌 三」も、『新校本全集』の分類ではどちらも「清書後手入稿」となっていて、一見すると似たような位置にあるのかと思えますが、用いられている原稿用紙は上図のように異なっており、時間的にもご覧のようにかなり離れているのです。
 このことから、「草稿時間」の段階として、➀「〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕」→➁「青森挽歌 三」→③「小岩井農場」「青森挽歌」(初版本)という3つの時期を明らかに区別することには十分な意味があり、さらに各々の内容を見てみると、私の言うところの「〈みちづれ〉希求」に対する賢治のスタンスが、3つの段階にちょうど対応して変化していく、などと考えることもできるような気がしているのです。