「〈みちづれ〉希求」の昇華

 「〈みちづれ〉希求」の話に行く前に、まずは次の疑問について考えることから、今回の記事を始めてみたいと思います。
 『春と修羅』を書いていた頃の賢治は、いったいなぜ、自らの〈修羅〉性について、あれほど尖鋭に意識し、苦悩しなければならなかったのでしょうか。

 賢治が自らを〈修羅〉と規定し、そのような己の本性に対峙しつつ苦しんだことは、「春と修羅」の、

おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)

という箇所に、端的に表れています。なぜ彼は、自分のことを「ひとりの修羅なのだ」と呼び、そのために風景がゆすれるほど、なみだを流さなければならなかったのでしょうか。これは、『春と修羅』という一つの詩集全体をも貫くテーマとも言える、重要な問題でしょう。

 まず客観的に見ると、宮澤賢治という人は、「修羅」と言えるような人柄でもなく、またそういった行動をする人でもなかったということは、以前の「諂曲なるは修羅」という記事においても、具体的に確認したところです。賢治を直接に知る人々の証言では、彼は修羅とは対極的に、「どんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人」(佐藤成)、「おだやかでもの静か」(羽田視学、畠山校長)、「とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人」「けっしていばらない人」(藤原嘉藤治)と評されており、賢治自身が己の修羅性を気にする必要性は、全くなかったはずなのです。

 それにもかかわらず、彼が「おれはひとりの修羅なのだ」と自己規定をせざるをえなかった理由があるとすれば、それは他人からはうかがい知れないけれども、彼にとっては何か自分の内に、〈修羅〉的な要素を強く意識せざるをえない部分があり、その部分をどうしても自分で許せなかったために、あそこまで苦しんだのだろうと、考えるしかありません。

 そこで次の問題は、そのように賢治が意識した自らの〈修羅〉性とは、具体的にはいったいどういう部分だったのか、ということです。これについては、やはり記事「諂曲なるは修羅」で述べたように、童話「土神ときつね」と、「小岩井農場(清書後手入稿)」第五綴の記述が、有効な導きとなります。

 「土神ときつね」は、これまでの研究によって、作者賢治が登場人物を自らの分身のように造型している面があること、そして同時にその「土神」は、修羅性の象徴とも言えることが、指摘されてきました。これに加えて私としては、怒り荒ぶる土神は「修羅の瞋恚的側面」を象徴し、言葉巧みに樺の木を誑かす狐は「修羅の諂曲的側面」を象徴するという図式になっているのではないかと、考えてみました。

 一方、「春と修羅」の翌月にスケッチされた「小岩井農場(清書後手入稿)」の次の箇所における賢治の言動は、このような「瞋恚」と「諂曲」に、不思議と合致しているように感じられます。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、何とかして同僚の堀籠文之進と親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけているのですが、なかなかうまく行きません。
 引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところは、土神が樺の木と仲良くなりたいのに、不器用にも乱暴な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられます。
 また前半部で、鞍掛山が地質学的に岩手山の系統に属さないという自説を、「これは私の発見です」とやや大げさに自慢げに言っているところは、狐が樺の木の気を引こうとして話を誇張するところに通じます。

 つまり、私が思うのは、次のようなことです。当時の賢治は、自分が堀籠と仲良くなりたい一心で、思わず激情があふれて一方的な物言いになり、(土神のように)意に反して相手を萎縮させてしまうところや、あるいは自分を良く見せようとして、(狐のように)つい得意気に話を盛ってしゃべってしまうところ等が、自分でも情けなく思えて、己を許せなかったのではないでしょうか。そして、そのような自らの言動は、修羅の特徴的な二つの側面である「瞋恚」と「諂曲」にも通ずるところから、深い自己嫌悪とともに己を〈修羅〉と規定し、そのような自分を何とかして超克しなければならないと、考えたのではないでしょうか。

 おそらく賢治にとって、このような感情に悩まされるのは人生で初めてのことではなく、数年前から保阪嘉内に対して、己の〈みちづれ〉となってくれることを求めては叶えられず悶々とし、ついに「春と修羅」を書く前年に悲しい別れを迎えるまでの過程においても、ずっと同様の苦しみを味わっていたのではないでしょうか。
 そして、翌1922年の春、またもや同じような苦悩に囚わていれる自分に直面し、己のその「業」のような性質に対して、ここで〈修羅〉という自己規定を行ったわけです。

 冒頭に掲げた、「なぜ賢治は、客観的には修羅的ではないのに、己を〈修羅〉と意識して悩まなければならなかったのか」という疑問に対して、現時点で私としてはこれが、最も無理のない答えに思えます。それは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによって、思わず露呈してしまう、自らの内の「下等」な感情のことだったと思われるのです。

 (ちなみに、ここで言う「下等」とは、「小岩井農場(清書後手入稿)」第六綴の、次の箇所からの引用であり、私がこのような賢治の感情を下等と思っているからではありません。)

 (私はどうしてこんなに
  下等になってしまったらう。
  透明なもの 燃えるもの
  息たえだえに気圏のはてを
  祈ってのぼって行くものは
  いま私から 影を潜め)

 では賢治は、そのような己の〈修羅〉性を、実際にどのようにして克服していったのでしょうか。
 現在の私たちから見ると、賢治が特定の誰かについて、上記のように感情的になったり諂うような態度をとったりしてしまうのは、「ある一人の人に対して、信仰も含めてどこまでも一緒に行こうとしてしまう」ところに、無理があるのだろうと思われます。つまり、先日の記事の言葉では、「〈みちづれ〉希求」に囚われてしまうことに、原因があるわけです。
 しかし、1922年4月8日の日付を持つ「春と修羅」でも、5月う21日の日付を持つ「小岩井農場(清書後手入稿)」でも、自分の言動を反省してはいるものの、己の「〈みちづれ〉希求」そのものを問題視している様子は見受けられません。しかし、「原因」をそのままにして、表面の「結果」だけを抑えつけようとしても、それは無理なことでしょう。
 1923年3月4日には、堀籠に対して、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」と言って、堀籠の背中を打ち、これによってどうにか彼を〈みちづれ〉として求めることを諦めたようです。しかし裏を返せば、この日まで賢治は、まだずっと堀籠に対する感情に苦悩し続けていたわけです。

 このような苦しみに囚われていた賢治の問題意識が、原因である自らの「〈みちづれ〉希求」の方へと向かったのは、図らずも「トシを失う」という体験をしたおかげだったのではないかと、私は思います。
 トシという、やはりかけがえのない〈みちづれ〉が1922年11月27日に亡くなり、その喪失の悲嘆に暮れていた賢治は、翌1923年7月末から8月初めにかけて、トシの魂を追い求め、何かの「通信」の望みを抱いて、サハリンへ旅をします。ここでは、賢治はまだトシという「ひとり」を諦めきれていないわけですから、やはり彼は従来のような「〈みちづれ〉希求」に囚われていたと言えるでしょう。
 しかし、この旅から帰郷した後、賢治に重要な変化が現れはじめるように思われます。この年の秋頃に書かれたと推測される「手紙 四」では、死んだ妹ポーセを探そうとするチユンセに対して、「チユンセがポーセをたづねることはむだだ」との宣告が行われ、〈みちづれ〉を求める行為が、明確に否定されるのです。そしてその否定のかわりとして、「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」ということが説かれます。ご存じのように「青森挽歌」においても、いつの時点の推敲からかは不明ですが、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、同様の啓示が現れます。

 すなわちここでは、「死者」を対象とする形ではありますが、ある特定の一人と「どこまでもどこまでも一緒に行かう」とするような「〈みちづれ〉希求」は、利己的な願望として否定され、かわりに「すべての生き物と一緒に、本当の幸福へ到る」という、菩薩行的な志向性こそが、肯定されるのです。

 そしてこの命題を、死者を対象としたものから生者へと拡張すると、「小岩井農場(初版本)」パート九の、有名な定式になります。

もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ

 ここでは二番目に登場して「恋愛」と呼ばれている、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」願望が、これまで述べてきた「〈みちづれ〉希求」に相当します。賢治はおそらく、同性であろうと妹であろうと、全き同伴者として強く求める自らの「〈みちづれ〉希求」というのは、なかなか一般人には理解されにくいということがわかっていて、それでここでは通俗的に「恋愛」と表現しているのではないかと、私は思います。それでも、「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」というのは、やはり一般人の平均的な恋愛感情を超えていると言わざるをえず、やはりこれが賢治独特の感情を原型としていることが、推測されます。
 そして、このように一人を対象とした愛は、正しい「宗教情操=じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」願いが、砕けまたは疲れて退化したものにすぎないわけなので、だから人は本来の宗教情操にこそ立ち返らなければならないというのが、この箇所の賢治の考えです。仏教的な言い回しでは、例えば「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」(『法華経』化城喩品)に通じます。

 このように、「ただ一人を対象とした〈みちづれ〉希求」を、「全ての衆生を〈みちづれ〉とした求道」、すなわち「菩薩行」へと転換すること、これこそが賢治が到達した「〈みちづれ〉希求」の昇華でした。別の言い方をすれば、「個別的・主観的な愛」を、「普遍的・客観的な愛」に高める、とも言えるでしょうか。
 そしてこれによって、彼はやっと己の〈修羅〉性から解放され、個人への執着に悩み苦しまずに自分が目ざすべき方向性を、明確にできたのです。

 実際、『春と修羅』の最終章である「風景とオルゴール」や、「春と修羅 第二集」以降では、人間ではなくて「自然への愛」や「自然との合体」が、謳歌されるようになります。

こんなあかるい穹窿と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか
   (おい やまのたばこの木
    あんまりヘんなおどりをやると
    未来派だつていはれるぜ)
わたくしは森やのはらのこひびと
芦のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはいつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる
        (「一本木野」)

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
        (「種山ヶ原」下書稿(一)

あのどんよりと暗いもの
温んだ水の懸垂体
あれこそ恋愛そのものなのだ
炭酸瓦斯の交流や
いかさまな春の感応
あれこそ恋愛そのものなのだ
        (「春の雲に関するあいまいなる議論」)

 このように振り返ってみると、『春と修羅』という詩集は、賢治が1921年の保阪嘉内との別れ、1922年のトシとの死別、1923年の堀籠との同道の諦めという形で、己の「〈みちづれ〉希求」の度重なる挫折に苦悩し、それによって煩悶する自分を〈修羅〉と規定して対峙し、ついにそのどん底から妹の死も契機として再び歩き始めたという、一連のプロセスの記録であったということもできます。
 その期間においては、思想的な懊悩と並行して、飽くなき作品の推敲もあったはずですが、その果てにやっとのことで、「小岩井農場(初版本)」パート九のような、一定の境地を表すテキストに達することができたわけです。
 一つの詩集の中に、本当にダイナミックな展開と決着が隠されていると感じますが、逆に言えば、賢治としては自らの苦悩にやっとこういう形で、思想的なレベルで一段落をつけることができたので、そのドキュメントを『春と修羅』という一つの詩集として、世に出そうと思ったということかもしれません。

 かつて天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現されました(「《宮澤賢治》作品史の試み」)。その二つの中心とは、「己の《修羅》性の発見」と、「妹の死」というテーマだったわけですが、上のように見てくると、賢治にとって「己の〈修羅〉性」とは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによる感情的動乱だったわけですし、「妹の死」は、これ自体が彼にとって最大の「〈みちづれ〉希求」の挫折でした。
 そうすると、天沢氏の言う「二つの中心を持つ楕円」とは、実は突き詰めれば、「〈みちづれ〉希求」の挫折と昇華という「一つの中心を持つ円」だったとも、言えることになります。その「一つの中心」を作品の上に定位するとすれば、「春と修羅」と「永訣の朝」の間にある、「小岩井農場」になるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、この問題こそが、『春と修羅』の最大かつ本質的なテーマであったのだろうと、私としては思うところです。

【関連記事】