小岩井農場

   

      ぱーと一

   

   わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた

   そのためにくもがぎらっとひかったくらゐだ

   けれどももっとはやいひとはある

   化学の並川さんによく肖(に)たひとだ

   あのオリーブのせびろなどは

   そっくりをとなしい農学士だ

   さっき盛岡のていしゃばでも

   たしかにわたくしはさうおもってゐた

   このひとが濃い砂糖水のなかの

   つめたくあかるい待合室から

   ひとあしでるとき……わたくしもでる

   馬車がいちだいたってゐる

   馭者(ぎよしや)がひとことなにかいふ

   黒塗りのすてきな馬車だ

   光沢(つや)(け)しだ

   馬も上等のハックニー

   このひとはかすかにうなづき

   それからじぶんといふ小さな荷物を

   載っけるといふ気軽(きがる)なふうで

   馬車にのぼってこしかける

    (わづかの光の交錯(かうさく)だ)

   その陽(ひ)のあたったせなかが

   すこし屈んでしんとしてゐる

   わたくしはあるいて馬と並ぶ

   これはあるひは客馬車だ

   どうも農場のらしくない

   わたくしにも乗れといへばいい

   馭者がよこから呼べばいい

   乗らなくたっていゝのだが

   これから五里もあるくのだし

   くらかけ山の下あたりで

   ゆっくり時間もほしいのだ

   あすこなら空気もひどくはっきりし

   樹でも艸でもみんな幻燈だ

   もちろんおきなぐさも咲いてるし

   野はらは黒ぶだう酒(しゆ)のコップもならべて

   わたくしを歓待するだらう

   そこでゆっくりとまるために

   本部まででも乗った方がいい

   今日ならわたくしだって

   馬車に乗れないわけではない

    (あいまいな思惟の蛍光(けいくわう)

     きっといつでもかうなのだ)

   もう馬車がうごいてゐる

    (これがじつにいゝことだ

     どうしやうか考へてゐるひまに

     それが過ぎて滅(な)くなるといふこと)

   ひらっとわたくしを通り越す

   みちはまっ黒の腐植土で

   雨(あま)あがりだし弾力もある

   馬はピンと耳を立て

   その端(はじ)は向ふの青い光に尖り

   いかにもきさくに馳けて行く

   うしろからはもうたれも来ないのか

   つつましく肩をすぼめた停車場(ば)

   新開地風の飲食店(いんしよくてん)

   ガラス障子はありふれてでこぼこ

   わらじや Sun-maid のから凾や

   夏みかんの蒸気圧

   汽車からおりたひとたちは

   さっきたくさんあったのだが

   みんな丘かげの茶褐部落や

   繋(つなぎ)あたりへ往くらしい

   西へまがって見えなくなった

   いまわたくしは歩測のときのやう

   しんかい地ふうのたてものは

   みんなうしろへ片附(づ)けた

   そしてこここそ畑になってゐる

   黒馬が二ひき汗でぬれ

   犁(プラウ)をひいて往ったりきたりする

   ひわいろのやはらかな山のこっちがはだ

   山ではふしぎに風がふいてゐる

   嫩葉(わかば)がさまざまにひるがへるのだ

   ずうっと遠くのくらいところでは

   鶯もごろごろ啼いてるやうだ

   その透明な群青のうぐひすが

    (ほんたうの鶯の方はドイツ読本の

     ハンスがうぐひすでないよと云った)

   馬車はずんずん遠くなる

   大きくゆれるしはねあがる

   紳士もかろくはねあがる

   このひとはもうよほど世間をわたり

   いまは青ぐろいふちのやうなとこへ

   じっとこしかけてゐるひとなのだ

   そしてずんずん遠くなる

   はたけの馬は二ひき

   ひとはふたりで赤い

   雲に濾(こ)された日光のために

   いよいよあかく灼(や)けてゐる

   冬にきたときとはまるでべつだ

   みんなすっかり変ってゐる

   変ったとは言へそれは雪が往き

   雲が展(ひら)けてつちが呼吸し

   幹や芽のなかに燐光の樹液(じゆえき)がながれ

   あをじろい春になっただけだ

   それよりもこんなせわしい心象の明滅をつらね

   すみやかなすみやかな万法流転(ばんぱうるてん)のなかに

   小岩井のきれいな野はらや牧場の模型が

   いかにも確かに継起(けいき)するといふことが

   あんまり新鮮な奇蹟なのだ

   このみちをこの前行くときは

   空気がひどく稠密で

   冷たくそしてあかる過ぎた

   今日は七つ森はいちめんの枯草(かれくさ)

   松木がおかしな緑褐に

   丘のうしろとふもとに生えて

   大へん陰欝にふるびて見える

   

      ぱーと二、

   

   たむぼりんも遠くのそらで鳴ってるし

   雨はけふはだいじゃうぶふらない

   しかし馬車もはやいと云ったところで

   そんなにすてきなわけではない

   いままでたってやっとあすこまで

   ここからあすこまでのこの真直な

   火山灰のみちの分だけ行ったのだ

   あすこはちゃうどまがり目で

   すがれの草穂(ぼ)もゆれてるはづだ

    (山は青い雲でいっぱい 光ってゐるし

     かけて行く馬車はくろくてりっぱだ)

   ひばり ひばり

   銀の微塵(みぢん)のちらばるそらへ

   たったいまのぼったひばりなのだ

   くろくてすばやくきんいろだ

   そらでやる Brownian movement

   おまけにあいつの翅(はね)ときたら

   甲虫のやうに四まいある

   飴いろのやつと硬いキチンの鞘(さや)とを

   たしかに二重(ふたへ)にもってゐる

   よほど上手に鳴いてゐる

   そらのひかりを呑みこんでゐる

   光波のために溺れてゐる

   もちろんずっと遠くでは

   もっとたくさんないてゐる

   そいつのほうははいけいだ

   向ふから見ればこっちが勇敢な背景で

   うしろから五月のいまごろ

   黒いながいオーヴアを着た

   医者らしいものがやってくる

   たびたびこっちをみてゐるやうだ

   それは一本みちを行くときに

   ごくありふれたことなのだ

   冬にもやっぱりこんなふうに

   くろいイムバネスがやってきて

   本部へはこれでいいんですかと

   遠くからことばの浮標(ブイ)をなげつけた

   でこぼこのゆきみちを

   辛うじて咀嚼(そしやく)するといふ風(ふう)にあるきながら

   本部へはこれでいゝんですかと

   心細(こころぼそ)さうにきいたのだ

   おれはぶっきら棒にああとへんじしただけ

   ちゃうどそれだけ大(たい)へんかあいさうな気がした

   けふのはもっと遠くからくる

   

      ぱーと三

   

   もう入口だ 小岩井農場

     (いつものとほりだ)

   混(こ)んだ野ばらやあけびのやぶ

   もの売りきのことりお断り申し候

    (いつものとほりだ ぢき医院もある)

   禁猟区 ふん いつものとほりだ。

   小さな沢と青いこだち

   沢では水が暗くそして鈍(にぶ)ってゐる

   また鉄ゲルの fluorescence

   向ふの畑(はたけ)には白樺もある

   白樺は好摩(こうま)からむかふですと

   いつかおれは羽田県属に云ってゐた

   ここはよっぽど高いから

   柳沢つづきの一帯だ

   やっぱり好摩にあたるのだ。

   どうしたのだこの鳥の声は

   なんといふたくさんの鳥の声だ

   鳥の小学校にきたやうだ

   雨のやうだし湧いてるやうだ

   居る居る、鳥がいっぱいにゐる

   なんといふ数だ 鳴く鳴く鳴く

   Rondo Capriccioso

   ぎゅつくぎゅつくぎゅつくぎゅつく

   あの木のしんにも一ぴきゐる

   禁猟区のためだ 飛びあがる

   禁猟区のためでない ぎゅつくぎゅつく

   一ぴきでない ひとむれだ

   十疋以上だ 弧をつくる

    (ぎゅつく ぎゅつく)

   三またの槍の穂 弧をつくる

   青びかり青びかり赤楊(はん)の木立

   のぼせるくらゐだこの鳥の声

     (その音がぼっとひくくなる

      うしろになってしまったのだ

      あるひはちゅういのりずむのため

      両方ともだ とりのこゑ)

   木立がいつか並樹になった

    (この設計はあんまりずるい飾絵(かざりゑ)式だ

     けれどもひとりでだからしかたない)

   荷馬車がたしか三台とまってゐる

   あたらしいテレピン油の蒸気圧(じやうきあつ)

   生(なま)な松の丸太がいっぱいにつまれ

   一台だけがあるいてゐる。

   けれどもこれは樹や枝のかげでなくて

   しめった黒い腐植質と

   石竹(せきちく)いろの花のかけら

   さくらの並樹になったのだ

   こんなしづかなめまぐるしさ。

   この荷馬車にはひとがついてゐない

   馬はてかてかして払い下げだ

   この馬は払ひ下げの立派なハックニーだけれども

   もうおいぼれてあしもぐらぐらゆれてゐる

    (おい ヘングスト しっかりしろよ

     三日月みたいな眼つきをして

     おまけになみだがいっぱいで

     陰気にあたまを下げてゐられると

     まったく気の毒でたまらない

     桃いろの舌をかみふっと鼻を鳴らせ

     ぜんたい馬の眼のなかには複雑なレンズがあって

     けしきもみんなへんにうるんでいびつにみえる)

   馬車挽きはみんなといっしょに

   向ふのどてのかれ草に(白い蜂凾)

   腰をおろしてやすんでゐる(白い蜂凾)

   三人赤くわらってこっちをみ

   また一人は大股にどてのなかをあるき

   なにか忘れものでももってくるといふ風(ふう)

   桜の木には天狗巣病(てんぐすびやう)がたくさんある

   天狗巣ははやくも青い葉をだし

   馬車のラッパがきこえてくれば

   ここが一ぺんにスヰッツルになる

   遠くでは鷹がそらを截ってゐるし

   からまつの芽はネクタイピンにほしいくらゐだし

   いま向ふの並樹をくらっと青く走って行ったのは

   春の競馬の練習、立派な赤銅(しやくどう)の人馬(じんば)の徽章だ

   

      ぱーと四

   

   本部の気取(きど)った建物が

   桜やポプラのこっちに立ち

   そのさびしい観測台のうへに

   ロビンソン風力計の小さな椀や

   ぐらぐらゆれる風信器を

   わたくしはもう見出さない

    さっきの光沢(つや)消しの立派な馬車は

    いまごろどこかでとまってゐるし

    五月の黒いオーヴァコートも

    どの建物かにまがって行った

   冬にはこゝの凍った池で

   こどもらがひどくわらったそして

    (から松は鳶いろのすてきな脚です

     向ふにひかるのは雲でせうか粉雪でせうか

     それとも野はらの雪に日が照ってゐるのでせうか

     氷滑りをやりながらなにがそんなにおかしいのです

     おまへさんたちの頬っぺたはまっ赤ですよ)

   葱いろの春の水にのこってゐるのだ

   はたけは茶いろにつみあげられ

   廐肥も四角につみあげてある

   並樹ざくらの天狗巣には

   いぢらしい小さな旗の葉を出すのもあり

   遠くの縮れた雲にかかるのでは

   みづみづした鶯いろの弱いのもある。

   あんまりひばりが啼きすぎる

     (育馬部と本部とのあひだでさへ

      ひばりやなんか一ダースではきかないぞ)

   そのキルギス式の逞ましい耕地の線が

   ぐらぐらの雲にうかぶこちら

   一本脚の木の素朴な電話ばしらが

   右にまがり左へ傾きひどく乱れて

   まがりかどには一本の青木

    (白樺だらう 楊ではない)

   耕耘部へはここから行くのがちかい

   ふゆのあひだだって雪がかたまり

   馬橇(ばそり)も通っていったほどだ

    (雪が堅くはなかったやうだ

     なぜならそりはゆきをあげた

     たしかにかうぼのちんでんを

     きりうのなかにあげたのだ)

   あのときはきらきらする雪の移動のなかを

   ひとはあぶなっかしいセレナーデを口笛に吹き

   往ったりきたりなんべんしたかわからない

      (四列の茶いろな落葉松(らくやうしやう)

   けれどもあの調子はづれのセレナーデが

   風やときどきぱっとたつ雪と

   たいへんによくつりあってゐたことか

   それは雪の日のアイスクリームとおなじ

    (もっともそれなら暖炉(だんろ)もまっ赤(か)だらうし

     muscovite も少しそっぽに灼(や)けるだらうし

     おれたちには見られないぜい沢(たく)だ)

   春のヴァンダイクブラウン

   きれいにはたけは耕耘された

   雲はけふも白金(はくきん)と白金黒(はくきんこく)

   そのまばゆい明暗(めいあん)のなかで

   ひばりはしきりに啼いてゐる

     (雲の讃歌(さんか)と日の軋(きし)り)

   それから眼をまたあげるなら

   灰いろなもの走るもの蛇に似たもの 雉子だ

   亜鉛鍍金(あえんめつき)の雉子なのだ

   あんまり長い尾をひいてうららかに過ぎれば

   もう一疋が飛びおりる

   山鳥ではない

    (山鳥ですか 山で? 夏に?

     誰かがいつかいってゐた)

   あるくのははやい 流れてゐる

   オレンヂいろの日光のなかを

   雉子はするするながれてゐる

   それが雉子の声だ

    (見はらかす耕地の向ふ)

   向ふの青草の高みに四五本乱れて

   なんといふ気まぐれなさくらだらう

   みんなさくらの幽霊だ

   内面はしだれやなぎで

   鴇(とき)いろの花をつけてゐる

     (空でひとむらの海綿白金(プラチナムシポンヂ)がちぎれる)

   おおそれらかゞやく氷片の懸吊(けんちやう)をふみ

   青らむ天のうつろのなかへ

   かたなのやうにつきすすみ

   すべて水いろの哀愁を焚(た)

   さびしい反照(はんせう)の偏光(へんくわう)を截れ

   いま日を横ぎる黒雲は

   侏羅(じゆら)や白堊のまっくらな森林のなか

   爬虫(はちゆう)がけはしく歯を鳴らして飛ぶ

   その氾濫の水けむりからのぼったのだ

   たれも見てゐないその中世代の林の底を

   水は濁ってどんどんながれた

   さあいまこそおれはさびしくない

   たったひとりでもう大びらに生きて行く

   こんなきままなたましひと

   たれがいっしょに行けやうか

   燃えるやうに大びらにまっすぐに進んで

   それでいけないといふのなら

   田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ

   それからさきがあんまり青黒くなってきたら……

   そんなさきまでかんがへないでいい

   ちからいっぱい口笛を吹け

   口笛をふけ 陽(ひ)の錯綜(さくさう)

   たよりもない光波のふるひ

   すきとほるものが一列わたくしのあとからくる

   ひかったりかすれたりうたふやうに小さな胸を張ったり

   またほのぼのとわらったり

   みんなすあしのこどもらだ

   ちらちら瓔珞(やうらく)もゆれてゐるし

   めいめい遠くのうたのひとくさりづつ

   緑金(ろくきん)寂静(じやくじやう)のほのほもたもち

   これらはあるひは天の鼓手、緊那羅(きんなら)のこどもら

   五本の透明なさくらの木は

   青々とかげらふをあげる

   わたくしは白い雑嚢をぶらぶらさげて

   きままな林務官のやうに

   五月のきんいろの外光のなかで

   口笛をふき歩調をふんでわるいだらうか

   たのしい太陽系の春だ

   みんなはしったりうたったり

   はねあがったりするがいい

     (Carbon di-oxide to sugar)

   あの四月の実習のはじめの日

   液肥をはこぶいちにちいっぱい

   光炎菩薩太陽マヂックの歌が鳴った

     (Carbon di-oxide to sugar)

   ああ陽光のマヂックよ

   ひとつのせきをこえるとき

   ひとりがかつぎ棒をわたせば

   それは太陽のマヂックにより

   磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた

     (Carbon di-oxide to sugar)

   どのこどもかが笛を吹いてゐる

   それはわたくしにきこえない

   けれどもたしかにふいてゐる

     (ぜんたい笛といふものは

      きまぐれなひょろひょろの酋長だ)

   これは幻聴(げんちやう)だ幻聴でない

   みちがぐんぐんうしろから湧き

   過ぎて来た方へたたんで行く

   あのむら気な四本の桜も

   記憶のやうにとほくなる

   たのしい地球の気圏の春だ

   みんなうたったりはしったり

   はねあがったりするがいい

   

      ぱーと五  ぱーと六

 

 

      ぱーと七

   

   鳶いろのはたけがゆるやかに傾斜して

   すきとほる雨のつぶにあらはれてゐる

   そのふもとに白い笠の農夫が立ち

   つくづくとそらのくもを見あげ

   こんどはゆっくりあるきだす

    (まるで行きつかれたたび人だ)

   汽車の時間をたづねてみやう

   こゝはぐちゃぐちゃした青い湿地で

   もうせんごけも生えてゐる

    (そのうすあかい毛もちゞれてゐるし

     どこかのがまの生えた沼地を

     ネー将軍麾(き)下の騎兵の馬が

     一尺ぐらゐ踏みこんで

     すぱすぱ渉って進軍もした)

   雲は白いし農夫はわたしをまってゐる

   またあるきだす(縮れてぎらぎらの雲)

   トッパースの雨の高みから

   けらを着た女の子がふたりくる

   シベリヤ風に赤いきれをかぶり

   まっすぐにいそいでやってくる

   Miss Robin 働きにきてゐるのだ

   農夫は富士見の飛脚のやうに

   笠をかしげて立って待ってゐる

   白い手甲さへはめてゐる、もう二十米だから

   しばらくさうしてあるきださないでくれ

   じぶんだけせっかく待ってゐても

   用がなくてはこまるとおもって

   あんなにぐらぐらゆれるのだ

    (青い草穂は去年のだ)

   あんなにぐらぐらゆれるのだ

   さわやかだし顔も見えるから

   ここからはなしかけていゝ

   シヤッポをとれ(黒い羅沙もぬれ)

   このひとはもう五十ぐらゐだ

    (ちょっとお訊(ぎ)ぎ申しあんす

     盛岡行ぎ汽車なん時だべす)

    (三時だたべが)

   ずゐぶん悲しい顔のひとだ

   博物館の能面にも出てゐるし

   どこかに鷹のきもちもある

   うしろのつめたく白い空では

   ほんたうの鷹がぶうぶう風を截る

   雨をおとすその雲母摺(きらず)りの雲の下

   はたけに置かれた二台のくるま

   このひとはもう行かうとする

   白い種子はオートなのだ

     (燕麦(オート)(ま)ぎすか)

     (あんいま向ふでやってら)

   この爺(ぢい)さんはなにか向ふを畏れてゐる

   ひじゃうに恐ろしくひどいことが

   そっちにあるとおもってゐる

   そこには馬のつかない廐肥車(こやしぐるま)

   けわしく翔ける鼠いろの雲ばかり

   こはがってゐるのは

   やっぱりあの蒼鉛(さうえん)の労働なのか

     (こやし入れだのすか

      堆肥(たいひ)ど過燐酸(くわりんさん)どすか)

     (あんさうす)

     (ずゐぶん気持のいゝ処(どご)だもな)

     (ふう)

   この人はわたくしとはなすのを

   なにか大へんはばかってゐる

   それはふたつのくるまのよこ

   はたけのおはりの天末線(スカイライン)

   ぐらぐらの空のこっち側を

   すこし猫背(ねこぜ)でせいの高い

   くろい外套の男が

   白い雲に銃を構へてぢっと立ってゐる

   あの男がどこか気がへんで

   急に鉄砲をこっちへ向けるのか

   あるひは女の子どものことか

   それとも両方ともなのか

   どっちも心配しないでくれ

   おれはどっちもこわくない

   やってるやってるそらで鳥が

    (あの鳥何て云ふす 此処らで)

    (ぶどしぎ)

    (ぶどしぎて云ふのか)

    (あん 曇るづどよぐ出はら)

   から松の芽の chrysoprase(クリソプレース)

   かけて行く雲のこっちの射手(しやしゅ)

   またもったいらしく銃を構へる

    (三時の次ぁ何時だべす)

    (五時だべが ゆぐ知らなぃ)

   過燐酸石灰のヅック袋

   水溶(すゐやう)十九と書いてある

   学校のは十五%だ

   雨はふるしわたくしの黄いろな仕事着もぬれる

   遠くのそらではそのぼとすぎどもが

   大きく口をあいてビール瓶のやうに鳴り

   灰いろの咽喉の粘膜に風をあてる

   めざましく雨を截ってゐる

   少しばかり青いつめくさの交った

   かれくさと雨の雫との上に

   菩提樹(まだ)皮の厚いけらをかぶって

   女の子たちがねむってゐる

   爺(ぢい)さんはもう向ふへ行き

   射手は肩を怒らして銃を構へる

     (ぼとすぎのつめたい発動機は)

   ぼとすぎはぶうぶう鳴り

   いったいなにを射(う)たうといふのだ

   爺さんの行った方から

   わかい農夫がやってくる

   かほが赤くて新鮮にふとり

   セシルローズ型の円い肩をかゞめ

   燐酸のあき袋をあつめてくる

   二つはちゃんと肩に着てゐる

     (降ってげだごとなさ)

     (なあにすぐ霽れらんす)

   火をたいてゐる

   赤い焔もちらちらみえる

   農夫も戻るしわたくしもついて行かう

   これらのからまつの小さな芽をあつめ

   わたくしの童話をかざりたい

   女の子がひとり起きあがる

   みんなはあかるい雨の中ですうすうねむる

     《うな いゝおなごだもな》

   にはかにそんなに大声にどなり

   まっ赤になって石臼のやうに笑ふのは

   この農夫は案外にわかいのだ

   火が燃えてゐる

   青い炭素のけむりも立つ

   わたしもすこしあたりたい

     《おらも中(あだ)ってもいがべが》

     《いてす さぁおあだりゃんせ》

     《汽車三時すか》

     (三時四十分

      まだ一時にもならなぃも)

   火は雨でかへって燃える

   自由射手(フライシユツツ)は銀のそら

   ぼとすぎは鳴らす鳴らす

   すっかりぬれた 寒い がたがたする

   

      ぱーと九

   

   あめにすきとほってゆれるのは

   さっきの剽悍(ひやうかん)な四本のさくら

   わたくしはそれを知ってゐるけれども

   眼にははっきり見ないのだ

   たしかにわたくしの感官の外(そと)

   つめたい雨がそそいでゐる

    (天の微光にさだめなく

     うかべる石をわがふめば

     おゝユリア しづくはいとど降りまさり

     カシオペーアはめぐりゆく)

   ユリアがわたくしの左を行く

   大きな紺いろの瞳をりんと張って

   ユリアがわたくしの左を行く

   ペムペルがわたくしの右にゐる

   ……………はさっき横へ外(そ)れた

   あのから松の列のところから横へ外(そ)れた

     《幻想が向ふから迫ってくるときは

      もうにんげんの壊れるときだ》

   わたくしははっきり眼をあいてあるいてゐるのだ

   ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ

   わたくしはずゐぶんしばらくぶりで

   きみたちの巨きなまっ白なすあしを見た

   どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを

   白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう

     《あんまりひどいかんがへだ》

   わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ

   どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは

   ひとはみんなきっと斯ういふことになるのだ

   きみたちにけふあふことができたので

   わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから

   血みどろになって遁げなくてもいいのです

    (ひばりが居るやうな居ないやうな

     腐植質から麦が生え

     雨はしきりに降ってゐる)

   さうです 農場のこのへんは

   まったく不思議におもはれます

   どうしてかわたくしはここらを

   der heilige Punktと

   呼びたいやうな気がします

   この冬だって耕耘部まで用事で来て

   こゝらの匂のいゝふぶきのなかで

   なにとはなしに聖いこころもちがして

   凍えさうになりながらいつまでもいつまでも

   いったり来たりしてゐました

   さっきもさうです

   どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は

     《そんなことでだまされてはいけない

      ちがった空間にはいろいろちがったものがゐる

      それにだいいちおまへのさっきからの考へやうが)

      まるで銅版のやうなのに気がつかないか)

   雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです

   あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいっぱいな野はらも

   その介殻のやうに白くひかり

   底の平らな巨きなすあしにふむのでせう

     《もう決定した そっちへ行くな

      これらはみんなただしくない

      いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から

      発散して酸えたひかりの澱だ

     ちいさなわれを劃ることのできない

    この不可思議な大きな心象宙宇のなかで

   もしも正しいねがひに燃えて

   じぶんとひとと万象といっしょに

   至上福祉にいたらうとする

   それをある宗教情操とするならば

   そのねがひから砕けまたは疲れ

   じぶんとそれからたったもひとつのたましひと

   完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする

   この変態を恋愛といふ

   そしてどこまで進んでもその方向では

   決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を

   むりにもごまかし求め得やうとする

   この変態を性慾といふ

   すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従って

   さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある

   この命題は可逆的にもまた正しく

   畢竟わたくしにはあんまり恐ろしいことだ

   そしていくら恐ろしいといっても

   それがほんたうならしかたない

   さあはっきり眼をあいてたれにも見え

   明確に物理学の法則にしたがふ

   これら実在の現象のなかから

   あたらしくまっすぐに起て

   明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに

   馬車が行く 馬はぬれて黒い

   ひとはくるまに立って行く

   もうけっしてさびしくはない

   なんべんさびしくないと云ったとこで

   またさびしくなるのはきまってゐる

   けれどもここはこれでいいのだ

   すべてさびしさと悲哀とを焚いて

   わたくしは透明な軌道をすすむ

   ラリックス ラリックス いよいよ青く

   雲はますます縮れてひかり

   わたくしはかっきりみちをまがる

   

 


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